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『平家物語』初期生成と藤原定家(上) : 編纂の視点から

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(1)

熊本学園大学 機関リポジトリ

『平家物語』初期生成と藤原定家(上) : 編纂の視

点から

著者

尾崎 勇

雑誌名

熊本学園大学文学・言語学論集

26

2

ページ

83(219)-116(252)

発行年

2019-12-25

URL

http://id.nii.ac.jp/1113/00003241/

(2)

熊本学園大学 文学・言語学論集 第26巻第2号(2019年12月25日)

﹃平家物語﹄初期生成と藤原定家

  ︵上︶

         

︱︱編纂の視点から︱︱

   

︹要旨︺ 延 暦 寺 の 別 所 の 西 山 で﹃ 古 今 集 ﹄ を 校 合 し て い た 寂 超 は、 ﹃ 栄 花 物 語 ﹄ の 章 段 名 に 倣 っ て、 ﹃ 大 鏡 ﹄ が 語 り 終 え た 万 寿 二 年 ︵ 一 二 〇 五 ︶ よ り 嘉 応 二 年 ︵ 一 一 七 二 ︶ 三 月 ま で の 歴 史 時 間 を 対 象 に し た﹃ 今 鏡 ﹄ を 創 っ て い た。 出 自 の 九 条 家 の 後 退 も 動 機 と な っ て 西 山 に 隠 棲 し た 慈 円 は、 嘉 応 二 年 の 平 家 側 に よ る 執 政 の﹁ 臣 ﹂ 藤 原 基 房 へ の 暴 挙 の 事 象 か ら 始 発 さ せ、 源 頼 朝 に 比 重 を か け た 原﹃ 平 家 物 語 ﹄ の﹃ 治 承 物 語 ﹄ を 企 画 し、 西 山 に 有 縁 の 人 材 を 呼集して本物語を創出させる。慈円圏を組織したわけである ︵拙著﹃愚管抄の言語空間﹄汲古書院・二〇一四年︶ 。 九 条 家 と 終 生 に わ た っ て 歩 調 を そ ろ え て 生 き 抜 い た 定 家 は、 慈 円 圏 に 参 画 す る。 そ の こ と を 象 徴 す る の が 編 纂された﹃栄花物語﹄自体を定家は披見していた事実なのであ る ] 1 [註 。 ︵一︶編纂をめぐって︱︱問題の所在︱︱ 平曲の解説書﹃追増平語偶談﹄ ︵天保五年︿一八二七﹀夏、藤井雪堂が著作︶ には、 平 家 物 語 二 十 巻 は 信 濃 前 司 行 長 の 作 な り。 ︵ 中 略 ︶ 中 古 よ り 板 本 の 平 家 物 語 と 云 も の 十 二 巻 あ り。 こ れ は 為 (252) ― 116 ―

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熊本学園大学 文学・言語学論集 第26巻第2号(2019年12月25日) 家 と い へ る 人、 行 長 の 正 本 に よ り て 琵 琶 法 師 唱 歌 の た め に 作 れ る 諷 物 に な す 為 の 故 に や、 ︵ 中 略 ︶ 為 家 と 斗 有て、いつれの人とも知かたし。但し二條為家卿の御事歟、定かに知へからす。 とある。この雪堂の文章をもとに、冨倉徳次郎は、 ⋮⋮この雪堂が見たと考えられる﹁長門本﹂と同系統と考えられるものが天理図書館蔵本にある。宝玲文 庫の印があり、十二冊二十巻の﹁長門本﹂で、その巻一の冒頭に﹁平家物語之事﹂として、雪堂引用のこ とばが記されているので、雪堂の説くところが﹁長門本﹂の古写本の巻頭言によることが明瞭となる。 この為長説については、後藤丹治が早く、 ﹁平語偶談﹂ ︵ ﹁追増平語偶談﹂の初稿本︶ によって紹介せられたが、 ︵中略︶ この﹁平語偶談﹂の伝えをた易く否定できないとせられたのである。 こ の む し ろ 王 朝 以 来 の 文 学 伝 統 に 立 つ 歌 人 と い う べ き 二 条 為 家 ︵ 一 一 九 八 ︱︱ 一 二 七 五 ︶ が、 こ の 成 長 期 に あ っ て、 平 家 物 語 の 作 者 と し て 考 え ら れ る と い う こ と は、 興 味 あ る 伝 え で あ る と 私 は 思 う 。 ︵ 中 略 ︶ 父 定 家 と親しく、祖父俊成の養子としての位置のあった隆信の筆になるという鏡物﹁弥世継﹂の存在に心を用い て い た の で は な か ろ う か。 ︵ 中 略 ︶ 王 朝 以 来 の 鏡 物 の 伝 統 に 立 つ 史 観 と 感 触 を 持 つ 作 者 の 参 与 を 考 え る と い うことは、許される推定かと思うのであ る ] 2 [註 。 として、藤井雪堂が﹃平家物語﹄生成過程に藤原定家の嫡子の為家が関与していたとの伝承に対して、施線で興 味 を 示 し て い る。 し か も 二 重 施 線 で は、 散 逸 し て し ま っ て い る 定 家 の 異 父 兄 の 隆 信 作﹃ 弥 世 継 ﹄ に ふ れ な が ら、 ﹃大鏡﹄ ・﹃今鏡﹄ 等の ﹁鏡物﹂ すなわち ﹁世継物語﹂ の史観や感触を持っていた人が本物語の作者と推定している。 この冨倉徳次郎の言説は看過できない。 ﹁ 世 継 物 語 ﹂ の 系 譜 の 発 端 に あ る﹃ 栄 花 物 語 ﹄ を 足 掛 か り に し て﹁ 編 纂 ﹂ と い う こ と に 注 目 し て﹃ 平 家 物 語 ﹄ 創出の周辺までを次に俯瞰しよう。 ﹃ 栄 花 物 語 ﹄ 正 編 三 十 巻 は 赤 染 衛 門 が 旺 盛 な 編 纂 意 識 の も と に 統 括 者・ 編 纂 者 と な っ て 仕 上 げ た ] 3 [註 。 三 十 一 巻 か ら 四 十 巻 の 続 編 も﹁ 複 数 の 手 に な る ︵ 中 略 ︶ 何 ら か の 機 関 で、 細 々 と で は あ ろ う が、 修 史 事 業 が 継 続 さ れ た と い (251)― 115 ―

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『平家物語』初期生成と藤原定家 (上)――編纂の視点から―― う こ と に な ろ う。 ﹂ と さ れ て い る ] 4 [註 。﹃ 栄 花 物 語 ﹄ を 参 照 し て、 紀 伝 体 の 構 成 で 藤 原 道 長 の 栄 華 の 由 来 を 説 い た の が ﹃ 大 鏡 ﹄ で あ っ た ] 5 [註 。 道 長 の 女 を 母 と す る 後 一 条 天 皇 の 在 位 す る 治 世 か ら、 武 士 階 級 の 平 清 盛 が 女 の 徳 子 を 高 倉 天 皇に入内させる前年まで優美な廟堂に焦点を絞って描いたのが﹃続世継﹄すなわち﹃今鏡﹄である。 ﹁ 世 継 物 語 ﹂ の 先 鞭 を つ け た﹃ 栄 花 物 語 ﹄ は 編 纂 さ れ た 編 年 体 の 物 語 風 史 書 で あ る ] 6 [註 。 登 場 人 物 の 内 面 描 写 に あ まり及ぶことはなく、表面的な叙述傾向に傾斜している﹃栄花物語﹄を参照した﹃大鏡﹄の作者は、人と人との つながりである人的ネットワークや登場人物の運命等にも関心がある。そして往時をしのぶ翁語りの趣向で紀伝 体を枠組みにして仕上げた。 ﹃大鏡﹄ を慈円も ﹁コノ貞信公ノ御子ニ小野宮 ・ 九條殿トテヲハスメリ。此事ドモハ、 世ツギノカガミ ノ巻ニコマ〴〵トカキタレバ、 ﹂ ︵ ﹃愚管抄﹄ 巻三︱︱一五七ページ︶ として ﹁世継﹂ の ﹁鏡﹂ として世の 実相を叙述していく。 ﹃大鏡﹄が対象とした後一条天皇の在位する万寿二年 ︵一一七〇︶ の治世を引き継いで、 ﹃続 世継﹄すなわち﹃今鏡﹄の作者寂超は、 保元の乱後の﹁武者ノ世﹂の具体相を韜晦しながら、 嘉応二年 ︵一一二〇︶ の治世を対象にした。その趣向は、 ﹃大鏡﹄の語り手である大宅世継の孫と名乗る老媼を登場させ、 式部の君と申しし人の、上東門院の后宮と申しし時、御母の鷹司殿にさぶらひ給ひし局に、あやめと申し て、まうで侍りしを、 ︹序︺ 自分は紫式部に﹁あやめ﹂の名で仕えていたと言い、 長生きの血統のためか、 現今まで生きながらえてきたので、 そ の 昔 話 を さ せ て、 そ れ を 筆 記 し て い っ た と な っ て い る。 ﹃ 愚 管 抄 ﹄ で も、 保 元 の 乱 の 勃 発 す る 前 夜 の 鳥 羽 院 の 崩御する現場にいた平親範 ︵一一三七∼一二二〇︶ を登場させて、 マ サ シ キ 最 後 ニ テ ヒ キ イ ラ セ タ マ イ ニ ケ ル ト ゾ 人 ハ カ タ リ 侍 シ。 其 後 チ 親 範 カ ノ リ 現 存 シ テ 民 部 入 道 ト テ 八十マデイキテアリシニ、 ﹁カク人カタルハイカナリシゾ﹂ト ト 4 イ侍ケレバ、 ︵巻四︱︱二一八ページ︶ と あ っ て、 そ の 往 時 の 事 を 証 言 し た と 叙 述 し て い る。 こ の 慈 円 の 叙 述 姿 勢 か ら も、 ﹃ 今 鏡 ﹄ が 語 り 終 え た 後 を 引 き継いで、別所の西山の慈円圏で原﹃平家物語﹄の﹃治承物語﹄を創出することは十分にあり得るであろう。本 物語をみていこう。 (250) ― 114 ―

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熊本学園大学 文学・言語学論集 第26巻第2号(2019年12月25日) 嘉応二年の重盛の次男が鷹狩の帰途、摂政藤原基房の参内に行き会ったが、下馬の礼をとらなかったので馬か ら引き下ろされる恥辱を受けた。その後、重盛が報復する。この事象より以降の平家一門の横暴から源頼朝が旗 挙げして、壇ノ浦の海戦で平家を族滅するまでを治世を対象にした﹁世継物語﹂として本物語が創出される。本 物 語 を 企 画 し た 慈 円 は、 建 永 元 年 ︵ 一 二 〇 六 ︶ 三 月 に 甥 で あ る 執 政 の﹁ 臣 ﹂ の 九 条 良 経 頓 死、 翌 年 四 月 に は 兄 の 兼 実 逝 去 し た こ と で 九 条 家 の 家 運 の 後 退 を は か な ん で 西 山 へ 隠 棲 す る。 承 元 三 年 ︵ 一 二 〇 九 ︶ 三 月 の 良 経 の 女 で あ る 立子の入内の慶事がもたらされることもあって、気ままに振る舞える西山の空間で﹁あそび心﹂が湧出し、平家 一 門 を 族 滅 さ せ る 本 物 語 の 内 実 は﹁ 頼 朝 の 物 語 ﹂ で あ っ た ] 7 [註 。 そ の か た ち を 遺 存 し て い る の は、 ﹃ 平 家 物 語 ﹄ の 現 存諸本では屋代本であ る ] 8 [註 。 ﹃今鏡﹄ ︵藤波の下・第六・花散る庭の面︶ には、 大 納 言 実 定 と 申 す な る。 官 も 辞 し 給 ひ け 籠 り 給 へ る と か や。 ︵ 中 略 ︶ 今 様 な ど も よ く う ひ 給 ふ な る べ し。 籠 り給へるもあたらしくはべることかな。 ︹二五八︺ と あ っ て、 永 万 二 年 ︵ 一 一 六 五 ︶ 八 月、 位 階 を 人 に 越 え ら れ た 時 に 籠 居 し た 際 の 実 定 ︵ 一 一 三 九 ∼ 一 一 九 二 ︶ が 捉 え ら れ て い る。 今 様 を う た っ て 気 を ま ぎ ら わ す こ と も あ っ た で あ ろ う。 ﹃ 今 鏡 ﹄ を 創 っ た 寂 超 は﹁ も と に し た 資 料 に 手 を 加 え て 変 容 す る こ と は 極 力 避 け、 歴 史 を 客 観 的 に 観 察 し て、 正 確 な 史 実 を 叙 述 す る こ と に 努 め て い る。 ﹂ と されてい る ] 9 [註 。後年には﹃千載和歌集﹄に資料となった私撰集﹃後葉和歌集﹄を寂超が編纂している姿勢と同質で あ っ た。 一 方、 ﹃ 平 家 物 語 ﹄ 成 立 に つ い て、 山 下 宏 明 は﹁ い ず れ か の 編 者、 作 者、 も し く は 作 者 群 に よ っ て 書 か れ た、 あ る い は 編 纂 さ れ た も の で あ る。 し た が っ て 原 本 が 存 在 し た は ず で あ る。 ﹂ と の 見 解 を 披 歴 し て い る ] 10 [註 。 軍 記物語研究の観点に立って、 ﹃新古今集﹄と﹃愚管抄﹄との関連を掘り下げていこう。 本物語の一ノ谷の戦いで討死した摩守忠度の箙に付けていた歌である﹁行き暮れて木の下かげを宿とせば花 やこよひのあるじならまし﹂には、ふとみかけた桜に美しい風情が描かれている、都落ちで引き返して藤原俊成 の邸の門をたたき、一巻の家集を託して立ち去った。俊成は後に﹃千載和歌集﹄を編纂する時に、家集の中から (249)― 113 ―

(6)

『平家物語』初期生成と藤原定家 (上)――編纂の視点から―― 一首を抜いて、詠み人知らずとして取り入れた名場面と対になっていよう。石田吉貞は﹁都を追われて各地をさ まよい回った人間忠度の生に足跡を記せばそれは﹃平家物語﹄となり、その流離敗亡の悲しみを歌えば、それは このような新古今的な歌となるのである。 ︵中略︶ ﹃平家物語﹄ が新古今的であるということは、 正しくは原 ﹃平家﹄ についてだけいえる ことで、 十二巻の ﹃平家物語﹄ は現実のあらゆる闘争や葛藤を取り入れることによって、 もっ と は る か に 複 雑 な も の に な っ て い る。 ﹂ と 論 じ て い る ] 11 [註 。 こ れ は 非 常 に 重 要 な 指 摘 で は あ る ま い か。 石 田 の 施 線 部 の言説を、谷山茂が、 平 家 の 興 隆 が も た ら し た 若 々 し く 華 や か な 現 実 的 雰 囲 気 は、 若 き 日 の 定 家 ら の 直 接 体 験 と も な り、 ︵ 中 略 ︶ ここにはじめて新古今的妖艶美の世界が形成された⋮ ⋮ ] 12 [註 としている言説とを結合させていけば、後鳥羽院の治世での原﹃平家物語﹄の﹃治承物語﹄が透視されてくるだ ろう。慈円の史論である﹃愚管抄﹄に取用された歌をもとにみていこう。 ﹃新古今集﹄ ︵巻七・賀歌︶ には、後鳥羽院を寿いだ定家の、 わが道をまもらば君をまもるらんよはひはゆづれ住吉の松 ︵七三九︶ との一首が採られている。歌の守護神の住吉明神に我が歌の道を守るならば、それが政治の一環として歌を愛好 し 奨 励 さ れ て い る 院 に 治 世 を 守 る﹁ 道 理 ﹂ な の だ と 詠 じ た。 ﹃ 愚 管 抄 ﹄ に は、 慈 円 が﹁ 後 三 條 ノ 聖 主 ホ ド ニ ヲ ハ シマス君﹂ ︵巻四︱︱一九九ページ︶ と讃美することになる後三条院の治世を俎上に載せるにあたって、 同五年二月廿日住吉詣トテ、陽明門院グシマイラセテ、関白御トモシテ、天王寺・八幡ナドヘマイリメグ ラセタマイケリ。住吉ニテ和歌会アリテ、御製ニハ、 イカバカリ神モウレシト思フランムナシキ船ヲサシテキタラバ トアリケリ。ソノ中ニ経信ノ歌ニ、 ヲキツ風フキニケラシナ住吉ノ松ノシヅヱヲアラウシラ浪   トヨメルハコノタビナリ。 ︵巻四︱︱一八八∼八九ページ︶ (248) ― 112 ―

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熊本学園大学 文学・言語学論集 第26巻第2号(2019年12月25日) とあって、住吉社に於いて詠じた歌を載せているのは﹃愚管抄﹄全体からみても異例の一節なのである、史論に は、これ以外に源頼朝の父の義朝の敗死をめぐっての落首である、    下ツケハ木ノ上ニコソナリニケレヨシトモミヘヌカケヅカサ哉 ︵巻五︱︱二三七ページ ︶ を載せてもいる。院と経信との歌の他に﹁頼朝の物語﹂を内実とする﹃治承物語﹄を取用して慈円が道理を説諭 していることを顧慮したとき、意味深長であろう。そこにはやはり﹃新古今集﹄の歌人としての側面をも顧慮せ ねばならない。さらに﹃後拾遺和歌集﹄ ︵巻一八・雑︶ にも、 延久五年三月住吉にまゐらせ給ひて、かへさによませ給ひける        後三条院御製 住吉の神はあはれと思ふらんむなしき舟をさしてきたれば ︵一〇六三︶        民部 経信 沖つ風吹きにけらしな住吉の松のしづえを洗ふ白波 ︵一〇六四︶ と載っている。本歌集は後三条院の第一皇子すなわち白河院の勅命によって藤原通俊が単独で編纂し、応徳二年 ︵ 一 〇 八 六 ︶ 九 月 に 完 成 し て 奏 上 し た も の で あ っ た。 周 知 の よ う に、 赤 染 衛 門 の 散 文 的 な 歌 や 社 交 の 場 で の 贈 答 歌、 中世的傾向の晴の歌、 清澄な叙景歌すなわち ﹃愚管抄﹄ にも ﹁心ノヲホクコモリテ時ノ景気ヲアラハスコトハ ︵中 略 ︶ 詩 歌 ノ マ コ ト ノ 道 ヲ 本 意 ニ モ チ イ ル 時 ノ コ ト ナ リ。 ﹂ ︵ 巻 七 ︱︱ 三 二 二 ペ ー ジ ︶ と あ る 視 覚 的 映 像 や 絵 画 的 イ メ ー ジ の歌を編纂した通俊は多数採択している。ところが、経信の﹃難後拾遺﹄の批難を受けて改訂して編纂が完了し た の は 翌 年 の 寛 治 元 年 ︵ 一 〇 八 七 ︶ 八 月 で あ っ た。 編 纂 し た 当 人 の 通 俊 も、 後 三 条 院 の 住 吉 社 行 幸 に 侍 し て﹁ 今 は とても今日帰るさを急げども心はとまる旅にまあるかな﹂とあるように住吉社帰途に際して参詣は印象に残ると 詠 じ て も い る。 当 該 の 二 首 の 歌 は﹃ 栄 花 物 語 ﹄ ︵ 巻 三 八・ 松 の し づ え ︶ に 収 載 さ れ て い る。 皇 位 を 辞 し て 信 仰 一 途 を 目指したきたとの後三条院の歌は編纂者の通俊には﹁鮮烈であった﹂うえ、院を言祝いだ経信の歌について﹁深 く感動﹂したのであっ た ] 13 [註 。 (247)― 111 ―

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『平家物語』初期生成と藤原定家 (上)――編纂の視点から―― ﹃愚管抄﹄の当該の二首について、留意せねばならないのは﹃栄花物語﹄ ︵巻三八・松のしづえ︶ に、 ⋮⋮ 住 吉 に 参 ら せ た ま ふ。 ﹁ 関 白 紅 の 出 袿 に 柳 の 直 衣 奉 り た り し こ そ、 い と を か し く、 こ の た び の 思 ひ 出 なれば﹂と人申しけり。 ︵中略︶ 歌ども講ぜさせたまふ。 御製 住吉の神もあはれと思ふらんむなしき船をさして来れば とある。まず後三条院の歌を配し、次に関白教通等の重臣の三首が連なり、経信の歌が、 左大弁経信 沖つ風吹きにけらしな住吉の松の 下 枝 を洗ふ白波 とみえている。 ﹃栄花物語﹄ 続編の編纂者は、 下句の ﹁松の 下 枝 ﹂ から ﹃栄花物語﹄ の巻名としたのであった。 ﹃十 訓抄﹄ のなかで経信は、 凡河内躬恒に相対して相手にできるのは ﹁わが ﹃沖つ風﹄ の歌こそあれ﹂ ︵十ノ五︶ とあり、 当該歌は経信の自賛歌であったと語られているし、俊成の﹃古来風躰抄﹄ ・定家の﹃近代秀歌﹄にもみえている。 一方、 ﹃栄花物語﹄ の後三条院の当該歌は、 源経信の歌才を継いだ末子の俊頼が、 自己の歌論の ﹃俊頼髄脳﹄ の ﹁歌 と故事﹂をめぐって次のように批評している。すなわち、 その心は、 位にておはします程に、 船に、 物を多くつめれば、 海を渡るに、 おそりのあるなり。その荷を、 取 り お ろ し つ れ ば、 風 吹 き、 浪 高 け れ ど も、 お そ り の な き に た と ふ る な り。 ︵ 中 略 ︶ 神 仏 の、 よ ろ こ ば せ 給 へば、住吉の明神も、あはれと思し召すらむと詠ませ給へるなり。 ︹一五︺ として、 冥衆の感応をよび入れると讃えている。ところが上句の ﹁住吉の神﹂ の言辞が、 前掲したように ﹃愚管抄﹄ では、 ﹁イカバカリ﹂となっている。慈円は﹃新古今集﹄の代表的歌人であったことに配意して、 変更意図を窺っ ていこう。 建久三年 ︵一一九二︶ 九月十三日詠﹁住吉百首﹂で、 祈るべし昔に帰るわが国をさてながらへん住吉の神 ︵一五九四︶ (246) ― 110 ―

(9)

熊本学園大学 文学・言語学論集 第26巻第2号(2019年12月25日) と詠じて、昔の良き治世に立ち返って、そういう状態が永続きすることを慈円は念願し、 藻塩草敷津の波に朽ちぬともあはれは残せ住吉の神 ︵一六〇三︶ 俊成入道此百首歌を見てよめる 神もいかに心に染めて照らしけむ御法の後の言の葉の色 ︵一六〇四︶ とあって、一六〇三番歌では冥衆である住吉明神への加護をも懇請する。そこで俊成は慈円の歌に感銘して、冥 衆の明神は心底深く感じて照覧されることであろうと一六〇四番歌では和した。とするならば、歌人の史論であ る こ と に 配 意 し た な ら ば、 前 掲 し た﹃ 愚 管 抄 ﹄ の﹁ 住 吉 ニ テ 和 歌 會 ア リ テ、 御 製 ニ ハ、 ﹂ に つ づ け て﹁ イ カ バ カ リ神モウレシ⋮⋮﹂との歌を叙述して、御製すなわち後三条院の歌では上句が﹁住吉の神﹂とあったのを﹃愚管 抄﹄では﹁イカバカリ﹂と切り替えたことになるのではあるまいか。本歌取りの修辞が無意識にはたらいたと思 われる。そのことを、さらに慈円圏の﹃栄花物語﹄享受の事実から、具体的に窺っていきたい。 ﹃ 栄 花 物 語 ﹄ ︵ 巻 三 八・ 松 の し づ え ︶ に は 廟 堂 に か か わ る 人 々 の 歌 の 数 々 を あ げ ら れ、 最 後 に は 聡 子 内 親 王 に 仕 え た 女房の十三首が添えられ、 天降る神のしるしに君に皆よはひはゆづれ住吉に松 との歌があって、 明神の霊験のはからいで ﹁君﹂ すなわち後三條院に寿命をお譲り下さいと祈念したのであった。 定家は、当該歌を殆どそのまま取り込ん で ] 14 [註 、前掲したように重厚な﹃新古今集﹄の七三九番歌﹁わが君をまもら ば君を﹂を詠じたわけである。   ﹃新古今集﹄には、 世をのがれて後、四月一日、上東門院、太皇太后宮と申ける時、 衣替への御装束奉るとて         法成寺入道前摂政太政大臣 唐衣花の袂に脱ぎ替へよわれこそ春の色は絶ちつれ ︵一四八一︶ 御返し         上東門院 (245)― 109 ―

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『平家物語』初期生成と藤原定家 (上)――編纂の視点から―― 唐衣たちかはりぬる春の夜にいかでか花の色をみるべき ︵一四八二︶ とあって、出家した藤原道長と一女彰子との贈答歌がみえている。一方、 ﹃栄花物語﹄ ︵巻一五・うたがひ︶ に、 ⋮⋮大宮に唐の御衣に添へさせたまへる、 唐衣花のたもとに脱ぎかへよわれこそ春の色はたちつれ   大宮御覧じて、いみじう泣かせたまひて、御返し 唐衣たちかはりぬる春の夜にいかでか花の色を見るべき ︹八︺ があり、最高権力者の人間的な姿とその父の親愛の情に感涙している彰子が浮上している。すでに論じたように ﹁うたがひ﹂の巻は、仏法王法相依の道理を揚言する慈円の立場と似かよっており、 ﹃愚管抄﹄の下地が作られて い る ] 15 [註 。﹃ 新 古 今 集 ﹄一 四 八 一 番 歌 の﹁ 撰 者 名 注 記 ﹂ で は 定 家 と 家 隆 で あ っ て、 久 保 田 淳 は﹃ 栄 花 物 語 ﹄ に 依 拠 し て いたと推定す る ] 16 [註 。とすれば、定家は﹃愚管抄﹄が依拠した﹃大鏡﹄の先蹤となる﹁世継物語﹂にあたる﹃栄花物 語﹄を披見していことになるはずであ る ] 17 [註 。これは看過できないことになろう。 定家は﹃近代秀歌﹄のなかで、現今では平俗な歌になっていると批判をした一節に、 然 れ ど も、 大 納 言 経 信 ・ 俊 頼 朝 臣・ 左 京 大 夫 顕 輔 ・ 清 輔 朝 臣、 近 く は 亡 夫 、 即 ち こ の 道 を 習 ひ 侍 り ける基俊と申しける人、このともがら、末の世の賤しき姿を離れて、つねに古き歌をこひねがへり。この 人々の思ひ入れて秀れたる歌は高き世にも及びてや侍らむ。 ︹二︺ としている。まず経信をあげているのは留意せねばならないだろう。次に俊頼から父俊成らの歌を古典時代の理 想的歌風であったと称揚している。つづけて ﹃近代秀歌﹄ の ﹁八代集選抄﹂ と ﹁近代六歌仙﹂ の項との二箇所に、 慈円が ﹃愚管抄﹄ に取り込んだ経信の歌をあげている。 ﹃詠歌大概﹄ に ﹁常観 二 念古歌之 景気 一 可 染 心。 ﹂ とあり、 ﹃ 毎 月 抄 ﹄ に も﹁ ま づ 景 気 の 歌 と て、 姿・ 詞 の そ そ め き た る が、 何 と な く 心 は な け れ ど も 歌 ざ ま の 宜 し く 聞 ゆ る や う を よ む べ き に て 候。 ﹂ と あ る。 施 線 で 景 色 を 詠 ん だ 伝 統 的 な 情 趣・ 美 観 を 漂 わ せ る 新 し い 当 該 歌 を 定 家 は 中 世和歌の先駆けとみなし、讃仰してい る ] 18 [註 。前掲したように﹃愚管抄﹄には仮名で歴史叙述をしているのは﹁真名 (244) ― 108 ―

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熊本学園大学 文学・言語学論集 第26巻第2号(2019年12月25日) ノ文字ニハスグレヌコトバノムゲニタヾ事ナルヤウナルコトバコソ、日本國ノコトバノ本體ナルベケレ。ソノユ ヘハ、物ヲイヒツヾクルニ心ノヲホクコモリテ時ノ景気ヲアラハスコトハ、カヤウノコトバノサハ〳〵トシラス ル 事 ニ テ 侍。 ﹂ ︵ 巻 七 ︱︱ 三 二 一 ∼ 二 二 ペ ー ジ ︶ か ら な の だ と し、 六 国 史 の よ う な 真 名 で は な く﹁ 世 継 物 語 ﹂ の よ う に 仮 名 で 歴 史 を 批 評 し た と こ と わ っ て い る。 ﹃ 愚 管 抄 ﹄ で、 さ ら に 慈 円 は 後 三 条 院 と 経 信 の 当 該 歌 を の み を 引 い た 直 後には、 サテ同四月廿一日ヨリ御悩大事ニテ、五月七日御年四十トシニテウセサセ給ヒニケリ。 カヽ ル御心ノヲコ リケルモ、君ノ御ワタクシヤヲホカリケン 。我御身ハシバシモ御脱屣ノヽチ世ヲバヲコナヒ給ハズ。 事ノ ダウリハ又世ノスヱニハ尤カヽルベケレバ 、白川院ハウケトラセヲハシマシテ、太上天皇ノヽチ七十七マ デ世ヲバシロシメシタリケリ。 ︵巻四︱︱一八九ページ︶ として、波線部で後三条院には私心があったと指弾して、院政を企図しながら具体的には実行できでないまま崩 御したと批評したのであった。それを施線部で道理とした慈円の意図は那辺にあるのか。 波線部の院への指弾と施線部の道理の言辞をめぐる文章に直結させて、あらためて、らせて﹁後三條院ノ位 ノ 御 時、 ﹂ ︵ 巻 四 ︱︱ 一 八 九 ペ ー ジ ︶ す な わ ち 在 位 当 時 の 言 行 を め ぐ る 説 話 を 示 し な が ら﹁ 大 方 理 非 ク ラ カ ラ ヌ 君 ﹂ ︵ 巻 四 ︱︱ 一 九 〇 ペ ー ジ ︶ と 讃 美 し て、 荘 園 整 理 令 の 発 布 や 延 久 宣 旨 枡 の 制 定 等 を﹁ コ ノ 御 沙 汰 ヲ バ イ ミ ジ キ 事 カ ナ ト コ ソ 世 ノ 中 ニ 申 ケ レ。 ﹂ ︵ 巻 四 ︱︱ 一 九 五 ペ ー ジ ︶ 世 評 を 添 え、 摂 関 家 の 藤 原 頼 通 と の 和 合 を 物 語 の 一 場 面 を 思 わ せ る 筆 致 で 描 き、 頼 通 が 院 に 対 し て﹁ ア ハ レ ナ ヲ コ ノ 君 ハ メ デ タ キ 君 カ ナ。 ﹂ ︵ 巻 四 ︱︱ 一 九 九 ペ ー ジ ︶ と 述 懐 し た と し て、 ﹁ 後三條ノ聖主 ホドニヲハシマス君ハ、ミナ事ノセンノスヱ〴〵ニヲチタヽンズル事ヲ、 ︵中略︶ 摂籙ノ家関白摂政 ヲ ス ヾ ロ ニ ニ ク ミ ス テ ン ト ハ 何 カ ハ ヲ ボ シ メ ス ベ キ。 ﹂ ︵ 巻 四 ︱︱ 一 九 九 ペ ー ジ ︶ と あ っ て、 院 を 施 線 の よ う に﹁ 聖 主 ﹂ と礼讃したのであった。 ﹃愚管抄﹄付録でも、 今ハタヾ脱屣ノ後ワレ世ヲシラントヲボシメシテケリ。サレドコノ宇治ト後三條院トハサハヲボシメセド モ、アシカリケリ〳〵トミナ思ヒナヲシ〳〵シテ、 王道 ヘヲトシスヱテ世ノマツリコトハヤミ〳〵シケル (243)― 107 ―

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『平家物語』初期生成と藤原定家 (上)――編纂の視点から―― ヨ、ナドミユ。 ︵巻七︱︱三三四ページ︶ と概括する。結局、時の執政の﹁臣﹂とも提携しながら、施線にあるように仁徳をもとに政治をしたのであった と慈円は揚言しており、既述した物語の逆説的な修辞が史論に介在している。そのような観点も顧慮してみる必 要があるだろう。そこにアンビバレンスの修辞が通底している。   そのうえ、 ﹃新古今集﹄編纂に深く関わった代表的歌人であった定家に配意したとき、 ﹃栄花物語﹄の聡子内親 王に仕えた女房の﹁天降る神のしるしに君に皆よはひはゆづれ住吉に松﹂の歌の上の句を替えただけの﹁わが道 をまもらば君をまもるらんよはひはゆづれ住吉の松﹂と定家が詠じるのは至当であることも付言しておかねばな らない。 ︵二︶慈円と定家   慈円が﹃愚管抄﹄を叙述していた承久二年 ︵一二二〇︶ 当時に、定家は、 同 承久二年 年 九月十三夜、前大僧正のもとにたてまつる おもかげにおほくの今宵夜しのふれと月と君とそかたみ成ける ︵二六〇五︶ と詠じている。今夜の月は永年に亘る多くの楽しかった貴方との形見ですとの歌にたいし、 返事 うき身なほ月にならひてかたみならばかへして君を思いやる哉 との返歌を贈った。その月は私の方こそあなたとの形見ですと慈円は和しており、二人には深い親愛の情が明瞭 である。そこで慈円と定家との交わりにって、 みてみよう。安元二年 ︵一一七六︶ 、 二十二歳の慈円は ﹃初度百首﹄ のうちの歌題﹁無常﹂で、 はかなくて過ぐるこの世を夢ぞとは覚めて後こそ思ひあわせめ ︵八二︶ (242) ― 106 ―

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熊本学園大学 文学・言語学論集 第26巻第2号(2019年12月25日) との歌をとりいれている。夢から覚醒したら現世は続く夢のようだと中国古代の思想家である荘子の胡蝶の夢を 念頭に詠じたのであった。五年後、慈円より七歳若い定家は﹃初学百首   養和元年四月 ﹄に、 夢の内それとて見えし俤をこのよにいかで思あはせみ ︵六七︶ はかなくてすぐる此世と思しはたのめぬほどの日数なりけり ︵七一︶ と詠じている。 六七番歌では夢にみた恋人の面影を現世でみたいとし、 七一番歌では相手は会おうと約束した後、 日は何と遅いことだと恋歌に切り替えており、明らかに慈円の歌に倣っている。 承 元 三 年 ︵ 一 二 〇 九 ︶ 三 月、 甥 良 経 の 女 の 立 子 入 内 し た 九 条 家 の 慶 事 を も と に 同 年 六 月 に﹃ 慈 鎮 和 尚 夢 記 ﹄ を 起 草 し、 そ こ に は﹃ 愚 管 抄 ﹄ で 展 開 さ せ る 道 理 の 雛 形 が 披 歴 さ れ た。 そ の 後、 建 保 四 年 ︵ 一 二 一 六 ︶ 正 月 に は、 四 天 王寺別当の慈円に九条家の僥倖をめぐる聖徳太子の霊告がくだった。慈円は霊夢をみたわけである。立子から懐 成 親 王 が 生 誕 し、 当 親 王 の 立 坊 ︵ 後 の 仲 恭 天 皇 ︶ し た の は 建 保 六 年 ︵ 一 二 一 八 ︶ 十 一 月、 立 子 の 弟 で あ る 道 家 の 三 男 頼 経 が 四 代 将 軍 継 嗣 と し て い く の は 承 久 元 年 ︵ 一 二 一 九 ︶ 六 月 で あ る。 す な わ ち 九 条 家 の 慶 事 が 顕 現 す る。 聖 徳 太 子 の 霊 告 を 末 代 の 道 理 と し て﹃ 愚 管 抄 ﹄ 別 帖 で 揚 言 す る。 ﹃ 愚 管 抄 ﹄ 別 帖 の 跋 文 に 及 ば せ る に あ た っ て﹁ 不 カ 思 ギ ノ 君 ノ 御 運、 御 案 ノ メ デ タ サ ト 、 心 ア ル 人 ハ コ レ ラ ノ ミ メ デ タ ク ゾ 思 ヒ タ リ ケ ル 。﹂ ︵ 巻 六 ︱︱ 三 一 七 ペ ー ジ ︶ と あ る よ う に 後 鳥 羽 院 の 治 世 を 寿 い で 喜 悦 の 情 を 露 わ に し た。 が、 時 局 を 率 直 に 見 据 え た 慈 円 は、 ﹃ 愚 管 抄 ﹄ 付 録 の 中 間部にある諫言の文章では後鳥羽院の近臣らの策謀による討幕計画を率直に諫言して﹁今コノ文武兼行ノ摂籙ノ イデキタランズルヲ、ヱテ君ノコレヲニクマンノ御心イデキナバ、コレガ日本國ノ運命ノキハマリニナルヌ トカ ナシキ也 。﹂ ︵巻七︱︱三四八ページ︶ とあって悲嘆することもある。悲喜交々の思いを懐いて歴史叙述をしてい る ] 19 [註 。 ﹃堀川題百首﹄には定家が夢をみた歌が採られており、 暁の夢のなごりをながむればこれもはかなきあさがほの花 ︵三五〇九︶ とあって、妖艶な夢のなごりとして美しい朝顔の花を詠み、女と逢った夢と朝顔の花とを二重写しにする修辞を こらす。当該歌をめぐって、 赤羽淑は﹁夢に対する異常なまでの関心と、 はかない美に対する情熱﹂があり、 ﹁夢 (241)― 105 ―

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『平家物語』初期生成と藤原定家 (上)――編纂の視点から―― で も う つ つ で も あ る よ う な 特 異 な 言 語 空 間 を 作 り 出 し て い る。 ﹂ と 批 評 し て い る ] 20 [註 。 特 に 施 線 の﹁ 言 語 空 間 ﹂ の 言 辞は留意したい。それは太子の霊告が﹃愚管抄﹄のモチーフであり、道理を説諭するために﹁言語空間﹂を構築 して説諭しているからであ る ] 21 [註 。石田吉貞も﹁ 定家が夢を信じ、それについて一喜一憂してゐる ﹂としてい る ] 22 [註 。石 田の二重施線の言辞は、 これも前掲した ﹃愚管抄﹄ の文章に ﹁メデタク﹂ ︵巻三︱︱一六九ページ︶ ・︵巻六︱︱二九六ページ︶ ・ ﹁カナシキ也﹂ ︵巻七︱︱三四八ページ︶ とあり、ほぼ一致することになろう。 次に﹃愚管抄﹄と定家の日録と歌論から原﹃平家物語﹄の﹃冶承物語﹄を窺っておこう。 まず﹃愚管抄﹄別帖の跋文には、    末代ノ道理 ニ カ ナ ヒ テ、 佛 神 ノ 利 生 ノ ウ ツ ハ 物 ト ナ リ テ、 今 百 王 ノ 十 六 代 ノ コ リ タ ル 程 、 佛 法 王 法 ヲ 守 リ ハテンコトノ、先カギリナキ利生ノ本意、 佛神ノ冥應ニテ侍ルベケレバ 、ソレヲ詮ニテカキヲキ侍ル也。 ︵巻六︱︱三一七ページ︶ とあり、 ﹃明月記﹄建保元年 ︵一二一三︶ 四月二十九日条には、 百王八十余代 、神剣海に没して茲に卅廻。 事の理り 然るべし。 是れ則ち人力にあらざるか 。 とみえる。 ﹃明月記﹄嘉禄元年 ︵一二二五︶ ︶ 六月十三日日条には、 又 台 嶺 に 蝶 の 雨 ︵ 先 先 此 の 事 の 有 り。 必 ず 山 上 の 大 乱 出 で 来 る 時 な り。 ︶ 只 之 を 案 ず る に、 仏 法 王 法 滅 亡 の 期 な り。 道理 と謂ふべし。 と み え て お り、 ﹃ 愚 管 抄 ﹄ 別 帖 冒 頭 で は﹁ 昔 ヨ リ ウ ツ リ マ カ ル 道 理 モ ア ハ レ ニ オ ボ エ テ、 ﹂ ︵ 巻 三 ︱︱ 一 二 九 ペ ー ジ ︶ と 説 き お こ し﹁ 王 法 仏 法 如 二 牛 角 一 不 可 被 滅 ⋮⋮﹂ ︵ 巻 五 ︱︱ 二 五 〇 ペ ー ジ ︶ と あ っ て、 慈 円 の 揚 言 す る 道 理 の 真 骨頂を定家は十二分に弁えてい た ] 23 [註 。 ﹃ 愚 管 抄 ﹄ 別 帖 で 原﹃ 平 家 物 語 ﹄ の﹃ 治 承 物 語 ﹄ を 取 用 し な が ら 道 理 を 詳 述 し た 慈 円 は、 別 帖 に 続 く 付 録 に 於 い て﹁ 詩 歌 ノ マ コ ト ノ 道 ヲ 本 意 ニ 用 イ ル 時 ノ コ ト ナ リ。 ﹂ ︵ 巻 七 ︱︱ 三 二 二 ペ ー ジ ︶ と し て、 詩 歌 の 内 包 す る 意 味 深 い 立 場 が あ る こ と に ふ れ な が ら、 仮 名 の 効 用 を 説 く。 そ し て、 ﹁ 愚 癡 無 智 ノ 人 ニ モ 物 ノ 道 理 ヲ 心 ノ ソ コ ニ シ ラ セ ン (240) ― 104 ―

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熊本学園大学 文学・言語学論集 第26巻第2号(2019年12月25日) トテ、假名ニカキツクルオ、⋮⋮﹂ ︵巻七︱︱三二二ページ︶ としている。 ﹃ 毎 月 抄 ﹄ の 序 に あ た る 文 章 中 に﹁ 毎 月 の 御 百 首、 能 々 拝 見 せ し め 候 ひ ぬ。 ﹂ ︹ 一 ︺ と あ っ て、 毎 月 百 首 を 届 け て く る 身 分 の 高 い 歌 道 初 心 者 ︵ 三 代 将 軍 源 実 朝 と み な す 説 も あ る が、 確 証 は な い。 ︶ へ の 指 南 の 意 図 を 籠 め て、 定 家 は 歌 論 を 展 開させていった。 ﹁時ノ君﹂ ︵巻七︱︱三四六︶ ・﹁近臣ノ男女﹂ ︵巻七︱︱三四〇ページ︶ をはじめ各階層の人々に説諭する ﹃愚 管抄﹄の方法と共通する。 ︵三︶定家の歌論から原﹃平家物語﹄の﹃治承物語﹄へ ﹃毎月抄﹄の枢要は周知のように、 さても、 この十躰の中に、 いづれも 有心躰を過ぎて歌の本意と存ずる姿は侍らず 。きはめて思ひ得難う候。 とざまかうざまにてはつやつや続けらるべからず。 よくよく心を澄まして、その一境に入りふしてこそ稀 によまるる事は侍れ 。 ︹四︺ である。二重施線部で有心体が歌の本質に他ならないとして、十二分に自己の心を澄みきった状態になることを すすめた。施線部では﹁十二分に自分の心を澄みきった状態にして、一つの精神的境地に意識を投入させたので ある﹂といい、想像力をはたらかせて、意識の上に感じとられ、考えとられた世界に入ることを求めた。藤平春 男は﹁ ﹃毎月抄﹄は、いわば﹁艶﹂を﹁妖艶﹂として現在に甦らせるための創作のあり方を説いたのであり、 ﹁余 情妖艶の躰﹂の持つ意味を考えていくと、結局定家の基本的な認識の立体的な性格が浮かびあがってくるといえ よう。そして、やはり﹁余情妖艶﹂と端的に言表したこともちろん重要であって、定家の歌の特色が 物語的構想 に 認 め ら れ る こ と と 照 応 し て い る ﹂ と み な し て い る ] 24 [註 。﹁ 余 情 妖 艶 ﹂ と は、 後 述 す る よ う に 承 元 三 年 ︵ 一 二 〇 九 ︶ に 定 家 が 源 実 朝 に 遣 送 本 と し た 歌 論﹃ 近 代 秀 歌 ﹄ に﹁ 余 情 妖 艶 の 躰 ﹂ と し、 ﹃ 新 古 今 集 ﹄ の 歌 風 を あ ら わ す 歌 論 用 語 であるわけだが、 波線部の ﹁物語的構想﹂ とした言辞は看過できない。そこで、 さらに具体的にみてみると、 尼ヶ (239)― 103 ―

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『平家物語』初期生成と藤原定家 (上)――編纂の視点から―― 崎 彬 は﹁ 定 家 は、 小 説 的 状 況 を 想 定 し、 自 ら が そ の 主 人 公 に 成 り 代 わ っ て 真 情 を 吐 露 す る 方 法 を と っ た。 ︵ 中 略 ︶ 紋切り型ではない思いを確実に伝えようとすれば、 小説的 設定をある程度説明しなければならないという、僅か 三十一字の文学では無理な要請である。周知の物語、たとえば源氏や伊勢の一節、王昭君などの故事を利用すれ ば面倒はないし、実際定家はしばしばこの﹁ 本説 ﹂利用をしている﹂として、有心体をもとに﹁主体的な想像の 努力によって小説的主人公の心境に達し、その情念を我がものとして表現するものである﹂とみなし、施線にあ るように定家の歌が ﹁小説的﹂ であることを繰り返しており、 それを強調していたと論じてい る ] 25 [註 。二重施線の ﹁ 本 説 ﹂ 利用すなわち本説取りの修辞は、 ﹃近代秀歌﹄ より十年後、 ﹃毎月抄﹄ を著わす前年の建保六年 ︵一二一八︶ に ﹃白 氏文集﹄の詩句を題した﹃文集百首﹄に具現される。しかも﹃文集百首﹄の端書に﹁或上人、文集の詩を題にて よまむと思いたつことある﹂とみえており、本百首は慈円が企画して定家に参加を求めたのであった。具体的に は慈円から句題とともに慈円の歌が付けられていたものがわたされ、慈円とは違う角度で出来得るかぎり、題詠 歌として完成度を高めるために苦心惨憺しながら、物語的色彩の強い歌を定家は数多く詠じたのであ る ] 26 [註 。その当 時は、西山に慈円圏が組織され、慈円が企画した原﹃平家物語﹄の﹃治承物語﹄を創出している時期であった。   慈 円 圏 に 人 材 を 呼 集 し て 編 纂 さ れ た 本 物 語 の 内 実 は﹁ 頼 朝 の 物 語 ﹂ で あ る。 そ の 物 語 を﹁ 本 説 ﹂ に し な が ら、 程なく﹃愚管抄﹄に於いて﹁頼朝ハ鎌倉ヲ打出ケルヨリ、片時モトリ弓セサセズ、弓ヲ身にハナツ事ナカリケレ バ、 郎 従 ド モ ヽ ナ ノ メ ナ ラ ズ ヲ ヂ ア イ ケ リ。 ﹂ ︵ 巻 五 ︱︱ 二 七 一 ペ ー ジ ︶ と﹁ 武 ﹂ の 本 質 を 摘 記 し、 上 洛 し た 頼 朝 が 軍 勢 を 率 い る 威 勢 を 精 彩 に 叙 述 す る ︵ そ の﹃ 愚 管 抄 ﹄ の 文 章 は 後 掲。 ︶ 。 そ の う え 官 位 昇 進 に 頼 朝 は 恬 淡 し て い る 態 度 を 礼 讃して ﹁イカニモ〳〵末代ノ将軍ニアリガタシ。ヌケタル器量ノ人ナリ。 ﹂ ︵巻五︱︱二七一ページ︶ との寸言を添える。 本 説 取 り の 修 辞 が 史 論 の﹃ 愚 管 抄 ﹄ に も 援 用 さ れ て い く ] 27 [註 。﹃ 愚 管 抄 ﹄ が 成 立 す る の は、 九 条 道 家 が 摂 政 に 就 い た 承久三年 ︵一二二一︶ 四月であった。 定家を慈円圏からみていこう。すると﹃吾妻鏡﹄承元三年 ︵一二〇九︶ 七月五日条には、 将 軍 実 朝 家 、 御 夢 想 に よ つ て、 二 十 首 の 御 詠 歌 を 住 吉 社 に 拝 ら る。 内 藤 右 馬 允 知 親 ︵ 好 士 な り。 定 家 朝 臣 の 門 弟。 ︶ (238) ― 102 ―

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熊本学園大学 文学・言語学論集 第26巻第2号(2019年12月25日) 御使たり。この 次 をもつて、去ぬる建永元年御初学の後の御歌卅首を撰び、合點のために定家朝臣に遣は さるるなり。 との記事が載っている。三代鎌倉将軍の実朝は施線にあるように﹁夢のお告げ﹂によって住吉社に歌を奉納、定 家の弟子の知親が、 使いとなって下向していった。 定家にその際に実朝は歌の添削をも定家に乞う。 そのため ﹃吾 妻鏡﹄同年八月十三日条には、 京都より帰参す。京極中将定家朝臣に遣はさるるところの御歌、合點を加へ進ず。また 詠歌口伝一巻 を献 ず。これ六義風體の事、内々尋ね仰せらるるによつなり。 とあるように、定家の添削した歌とともに施線の書すなわち歌論﹃近代秀歌﹄を実朝に献上したのであった。こ の条から定家は幕府に好感をもっていることが知られる。その後、定家は実朝と歌を通じてでも親幕派的になっ て い く ] 28 [註 。 こ の 一 年 後 の 承 元 四 年 ︵ 一 二 一 〇 ︶ 頃 よ り、 既 述 し た よ う に 慈 円 は 西 山 に 有 縁 の 人 材 を 呼 集 し て 慈 円 圏 を 組織する。そして﹁いくさ物語﹂を創出し始めるのであるから、頼朝の構築した東国機構へ定家の志向とは相即 することにもなろう。そのことは、さらに﹃拾遺愚草﹄奥書の内容とも重なる。すなわち、定家は 先 撰 二 二 百 首 之 愚 歌 一 、 有 二 結 番 事 一 。 仍 可 レ 謂 レ 拾 二 其 遺 一 。 又 養 和 元 年 企 二 百 首 之 初 学 一 建 保 四 年 書 二 三 巻 之 家集 一 。彼是之間、再居 二 拾遺之官 一 。故為 二 此草名 一 。 建保四年三月十八日書 レ 之         参議冶部兼侍従藤 ︵花押︶ と 記 載 し て い た か ら で あ る。 施 線 部 の 定 家 が 我 が 家 集 を 編 纂 し 終 え た 建 保 四 年 ︵ 一 二 一 六 ︶ 三 月 十 八 日 は、 西 山 の 空間で﹁いくさ物語﹂の﹁頼朝の物語﹂を内実とする原﹃平家物語﹄の﹃治承物語﹄創出の最中である。これは 本物語創出への定家の参画をみていくうえで、奥書の内容も意味深長であったと判断されてくる。 (237)― 101 ―

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『平家物語』初期生成と藤原定家 (上)――編纂の視点から―― ︵四︶物語作者としての定家の資質   源 頼 朝 が 没 し た 翌 年 の 正 治 二 年 ︵ 一 二 〇 〇 ︶ 七 ・ 八 月 を 上 限 と し て 建 仁 元 年 ︵ 一 二 〇 一 ︶ 十 一 月 を 下 限 と す る 期 間 に ﹃無名草子﹄が成立している。作者の俊成女は、 ﹁序﹂つづけて月 ・ 文 ・ 夢 ・ 涙 ・ 阿弥陀仏 ・ 法華経の項を設定、 以下では﹃源氏物語﹄ ・﹃狭衣物語﹄等や歌集を評論している。その中に、 また、 定家少将の作りたるとてあまたはべめるは 、まして、ただ気色ばかりにて、むげにまことなきもの ど も に は べ る な る べ し。 ﹃ 松 浦 の 宮 ﹄ と か や こ そ 、 ひ と へ に﹃ 万 葉 集 ﹄ の 風 情 に て、 ﹃ う つ ほ ﹄ な ど 見 る 心 地して、 愚かなる心も及ばぬさまにはべるめれ 。 ︹四六︺ との箇所がある。施線で定家作の物語もたくさんあるといい、そのなかに二重施線で﹃松浦宮物語﹄にも言及し て、 ﹁私﹂のような愚かな心には到底及ばないとして、終章の末尾は、 ⋮⋮﹃世継﹄ ﹃大鏡﹄などを御覧ぜよかかし。それに過ぎたることは、何事かは申すべき﹂と言ひながら。 ︹六四︺ との言辞であるので、余韻嫋嫋であった。寂超作の﹃今鏡﹄を直視して本物語を企画・創出させていった歌人の 慈円の姿勢とも若干は類同することになろう。 定 家 は﹁ 新 儀 非 拠 達 磨 歌 ﹂ と 批 難 さ れ な が ら も 新 風 の 模 索 を し て い た 建 久 元 年 ︵ 一 一 九 〇 ︶ 秋 の 詠﹁ 花 月 百 首 ﹂ には、    月きよみねられぬ夜しももろこしの雲の夢まで見る心ちする ︵六九五︶ があって、月が清いので眠れない夜は、中国の雲夢の浦の夢を見る心地がすると詠じている。当該歌は﹃松浦宮 物 語 ﹄ と と も に 浪 漫 的 中 国 志 向 が 窺 わ れ、 ﹃ 白 氏 文 集 ﹄ を は じ め﹃ 伊 勢 物 語 ﹄・ ﹃ 源 氏 物 語 ﹄・ ﹃ 狭 衣 物 語 ﹄ 等 の 物 語 か ら の 影 響 を う け な が ら、 自 ら の 和 歌 世 界 を 拡 充 し て い く 意 欲 が 窺 え る の で あ る ] 29 [註 。 本 説 取 り の 修 辞 を 凝 ら す 定家の詠歌姿勢をも同時に介在させながら、定家の試作の物語類をも念頭に置いて前掲した﹃無名草子﹄で施線 (236) ― 100 ―

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熊本学園大学 文学・言語学論集 第26巻第2号(2019年12月25日) のように﹁あまたはべる﹂と作者の俊成女は記るしたのではあるまいか。 ﹃ 無 名 草 子 ﹄ 作 者 は 周 知 の よ う に、 定 家 と 同 腹 で あ る 八 条 院 三 条 の 娘 と さ れ て き て い る。 俊 成 の 孫 で あ る わ け だ が、 そ れ を﹁ 俊 成 女 ﹂ の 名 称 に し て い る の は 一 代 の 歌 道 の 大 家 で あ る 俊 成 の 後 を 継 ぐ べ く﹁ 御 子 左 家 一 門の輿望が託されてもいた﹂からであっ た ] 30 [註 。二十歳で作者は源通親の次男の通具と結婚する建久元年 ︵一一九〇︶ 頃 ま で、 定 家 と 京 の 五 条 の 俊 成 邸 に 住 ん で お り、 ﹁ 新 し い 歌 風 を 起 す た め に 苦 闘 に 身 を 挺 し た 重 要 な 時 期 ︵ 中 略 ︶ 年 若 く 野 心 的 な 叔 父 定 家 の 熱 意 ﹂ に ほ だ さ れ て い た ] 31 [註 。 同 時 に﹁ 定 家 の 指 導 の 下 に お か れ て い る。 ︵ 中 略 ︶ 伊 勢・ 源 氏・ 狭 衣 物 語 の 歌 を 重 層 さ せ た 詠 作 が 少 な く な い。 ﹂ と さ れ て い る ] 32 [註 。 定 家 に と っ て は 姪 に あ た る 作 者 の﹁ 俊 成 女﹂に親愛の情を抱いているのはたしかであっ た ] 33 [註 。 建 久 元 年 ︵ 一 一 九 〇 ︶ 当 時 に は﹃ 松 浦 宮 物 語 ﹄ が す で に 成 立 し て お り、 前 掲 し た﹃ 無 名 草 子 ﹄ の 文 章 の 二 重 施 線 にあるように ﹃宇津保物語﹄ と匹敵する物語であると ﹃松浦宮物語﹄ を評価している。 父の兄弟姉妹には藤原成親 ・ 藤原師光 ︵西光︶ ・ 平重盛室 ︵その子が入水する維盛で、本物語に其の維盛入水のことが描かれている。それ故、看過できない。後述する。 ︶ がいて、その過酷な運命を十歳から十五歳の彼女は身につまされながら、聞き耳を立てていた。源平争乱の時局 の模様を俊成邸で定家と深刻に語りあっただろうし、定家創作の物語類も俊成女は熟知したと推測できよう。   建久九年 ︵一一九八︶ 夏に詠まれた﹃守覚法親王家五十首﹄末尾には、定家の、     眺望二首    かへり見るくもよりしたのふるさとにかすむ梢は春のわかくさ ︵一六七七︶    わたのはら浪とそらとはひとつにている日をうくる山のはもなし ︵一六七八︶ が据えられている。定家は一六七七番歌では、 ﹃和漢朗詠集﹄ ︵巻下・眺望・六二六︶ にみえる、    天台山の高厳を見れば   四十五尺の波白し    長安城の遠樹を望めば   百千万茎の薺青し とある雄大な光景の詩句をもとに、 峯の頂の高台から下界を見下ろす趣向をこらした。 一六七八番歌については、 (235) ― 99 ―

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『平家物語』初期生成と藤原定家 (上)――編纂の視点から―― 赤 羽 淑 に よ る と﹁ 海 上 の 水 平 線 上 に、 あ る は ず も な い 山 の 端 を 想 定 し て、 ︵ 中 略 ︶ し か も あ り あ り と 目 に 見 え る 幻 想性へもつながってゆく。 それは虚像であっても︿いま、ここに﹀という抒情主体の視点が原点となる というこ とで、物語的な場面をもちながら、 ︵中略︶ 定家の視角のもう一つの特徴は、 ︿いま、ここに﹀という主体の視点と 対象との出 いの瞬間を一首のモチーフ としている﹂と論説してい る ] 34 [註 。施線の言辞は、したがって﹁慈円は時宜 相応に作り替えられていく道理を ﹁假名ノ戯言﹂ を用いて説き、 人を ﹁今ここ﹂ に参加させていくのが ﹃愚管抄﹄ の方法﹂であったこととも呼応してく る ] 35 [註 。しかも﹃愚管抄﹄に取用された原﹃平家物語﹄の﹃治承物語﹄を遺存 している現存の文章には﹁⋮⋮霜隔テ月浮 二 ヘリ海上ニ 一 。分 二 極浦浪 一 、 引 塩行船ハ、 半天ノ雲ニサカノボル 。﹂ ︵屋代本 ・ 巻七﹁平家一門落都趣西国事﹂ ︶ との字句がみえている。美辞麗句を駆使して彫琢した本物語とも類同してくる。 そのことはすなわち、本物語は西国へ向かって船出する平家の軍勢が﹁霜に隔てられ、月はその海上にその影を おとし、遠く離れた浦々の波をかき分け、潮に曳かれて漂う平家の船が、ちょうど中空の雲の中にさかのぼって 行 く よ う に み え る ﹂ で あ る と の 意 味 に な る。 屋 代 本﹃ 平 家 物 語 ﹄ の 施 線 の﹁ 引 塩 行 船 ハ、 半 天 ノ 雲 ニ サ カ ノ ボ ル﹂と抒情的詠嘆的に哀感をもたせながら描出している一句は、定家の一六七八番歌の﹁浪とそらとはひとつに て﹂と確かに近接しているからである。   文治三年 ︵一一八七︶ 、三十三歳頃に慈円が詠作した﹃堀川百首﹄ ︵雑二十首︶ には、しかも、      漕ぎ出でて果てなき海をみわたせば先だつ船の雲に消えぬる ︵二八九︶ との歌があって、やはり定家の歌そして本物語とも呼応していた。双方向の深い紐帯が看取されてくる。 建 久 九 年 ︵ 一 一 九 八 ︶ 夏 の 定 家 詠 で あ る﹃ 守 覚 法 親 王 家 五 十 首 ﹄ か ら﹃ 新 古 今 集 ﹄ に 撰 入 さ れ た﹁ 春 の 夜 の 夢 の 浮 橋 と だ え し て 峰 に 別 る る 横 雲 の 空 ﹂ ︵ 三 八 ︶ は﹃ 源 氏 物 語 ﹄ 最 終 巻 名 と そ の 内 容 で あ る、 尼 と な っ て 繋 が り の 途 切 れ た 浮 舟 を 思 う 悲 し み の 物 語 を 典 拠 に し て い た。 当 時 三 十 七 歳 で あ っ た 定 家 は、 ﹃ 源 氏 物 語 ﹄ の﹁ 薄 雲 ﹂ 巻 で 藤壺の享年に一致しており、光源氏の嘆息を踏まえつつ、我が母である加賀との永遠の別れの事実をも重層させ た ] 36 [註 。 本 説 取 り の 修 辞 で あ っ た の で あ る。 そ こ に は、 同 時 に 建 久 七 年 十 一 月 の 政 変 に よ っ て 九 条 家 の 家 運 が 後 退 (234) ― 98 ―

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熊本学園大学 文学・言語学論集 第26巻第2号(2019年12月25日) し、隠忍自重を強いられる定家の悲運の実相をも踏まえていよう。守覚法親王から本五十首歌の詠作を求められ たのは前年の建久八年十二月五日であった。華やかな廟堂での新しいチャレンジを続けていた定家は自己と向き 合い、これまでの華やいでいた頃と現今とを引き比べる日々を迎えていたわけである。この不遇期こそが、往年 に批判された ﹁新儀非拠達磨歌﹂ から脱し、 妖艶な歌風へと深化させていく好機の到来であった。後年、 ﹃徒然草﹄ ︵ 第 五 段 ︶ で 顕 基 中 納 言 が﹁ 配 所 の 月 を、 罪 な き 身 で み た い も の だ ﹂ と 吐 露 し た 言 葉 が 想 起 さ れ よ う。 他 動 的 な 原 因によって失意の境遇に陥って、自己発見の端緒をつかみ、精神的に成長をするからである。 歌 人 と し て 飛 躍 す る う え の 錬 成 と 人 間 と し て 成 熟 す る た め の 時 期 に あ た る 建 久 年 間 ︵ 一 一 九 〇 ∼ 一 一 九 六 ︶ 中 頃 、 政 変 前 か 政 変 後 か は 今 の と こ ろ 不 詳 で あ る も の の 定 家 は ﹃ 物 語 二 百 番 歌 合 ﹄ を 編 纂 し て い る 。 こ れ は ﹃ 百 番 歌 合 ﹄ ︵ ﹃ 源 氏 物 語 ﹄・ ﹃ 狭 衣 物 語 ﹄ を 引 き 合 わ せ た 歌 合 ︶ と ﹃ 後 百 番 歌 合 ﹄ ︵ ﹃ 拾 遺 百 番 歌 合 ﹄ ︶ の 二 編 か ら な り 、 そ の 構 成 の た め に ﹁ 創 意 工 夫 を 凝 ら し た 編 纂 が な さ れ る が 、 特 に 場 面 を 尊 重 す る 度 合 い が 大 き い 。 ︵ 中 略 ︶ 読 み 手 は 歌 が 象 徴 す る 場 面 を 平 行 し て 想 起 し 、 そ れ ら を 比 較 す る こ と に な る ﹂ と の 指 摘 が あ る ] 37 [註 。 定 家 は 物 語 歌 を 公 儀 性 の 強 い 文 芸 形 式 で あ る 歌 合 に 取 り 込 み 、 再 構 成 し て い る 挑 戦 的 な 戦 略 な の で あ っ た ] 38 [註 。 当 然 の こ と な が ら 、 物 語 中 の 人 物 の 属 性 や 場 面 を も 含 め て 、 本 歌 取 り よ り も 歌 の 収 め ら れ て い る 元 の 物 語 へ も ど る こ と が 容 易 に な る 工 夫 を 凝 ら し て い る 。 そ の 一 例 を み る と 、 二番          左   弘徽殿の三の口にて、朧月夜の尚侍に     深き夜のあはれを知るも人る月のおぼろけならぬ契りとぞ思ふ          右   大将におはせし時、弘徽殿にて、女二の宮に     死にかへり待つに命ぞ絶えぬべきなかなかなにに頼みそめけむ とある。左歌では﹃源氏物語﹄ ︵ ﹁花宴﹂ ︶ では、宴の後に源氏が、 ﹁ 朧 月 夜 に 似 る も の ぞ な き ﹂ と、 う ち 誦 し て、 こ な た ざ ま に 来 る も の か。 い と う れ し く て、 ふ と 袖 を と ら へたまふ。女、 恐ろしと思へるけしきにて、 ﹁あな、 むくつけ。こは誰そ﹂ とのたまへど、 ﹁何かうとましき﹂ (233) ― 97 ―

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『平家物語』初期生成と藤原定家 (上)――編纂の視点から―― とて、     深き夜のあはれを知るも人る月のおぼろけならぬ契りとぞ思ふ と て 、 や を ら 抱 き お ろ し て 、 戸 は 押 し 立 て つ 。 あ さ ま し き に あ き れ た る さ ま 、 い と な つ か し う を か し げ な り 。 と あ っ て、 朧 月 夜 に っ て、 ﹁ あ な た が、 夜 更 け に 情 趣 が お わ か り に な る と い う の も、 私 に う と い う 並 々 な ら ぬ前世からの約束があるからです﹂と詠じた場面をもとにしている。そこには﹃新古今集﹄に採られた、     文集嘉陵春夜詩﹁不 明不 暗籠々月﹂といへることよみ侍りける 大江千里    照りもせず曇りも果てぬ春の夜の朧月夜にしくものぞなき ︵五五︶ と の 歌 が 定 家 の 念 頭 に あ っ た で あ ろ う。 寛 平 六 年 ︵ 六 八 四 ︶ に 宇 多 天 皇 の 勅 命 で 詠 じ た 大 江 千 里 に は 周 知 の よ う に 人生の悲哀や沈淪の歌が多く、当時の定家は﹃白氏文集﹄を通じて唐土の治世と建久七年の政変後の政治の動向 を引き合わせることもあった。要するに不遇をかこっている定家は時間だけではなく、空間の壁もなくなり、程 なく和歌所の寄人になったとき、定家は五五番歌の撰定に一役買って出ることになったと推定できよう。とすれ ば、 あ く ま で 憶 測 に す ぎ な い が、 両 歌 合 う ち の 二 番 左 歌 を 含 ん で い る﹃ 百 番 歌 合 ﹄ の 方 は 建 久 七 年 ︵ 一 一 九 六 ︶ の 政変後であったのではないだろうか。 右歌については、 ﹃狭衣物語﹄ ︵巻二︶ では主人公の狭衣が女二の宮を奥の座敷へひきいれる場面に、 や を ら 寄 り て、 奥 の 御 座 に 少 し ひ き 入 れ た て ま つ り た ま ふ に、 思 し あ へ ず、 ﹁ こ は 誰 そ ﹂ と 言 は れ た ま ふ 御けはひ、世に知らずらうたげなり。 死にかへり待つに命ぞ絶えぬべきなかなか何に頼みそめけむ とのたまふ御けはひを、いみじき御心まどひにも、この人とや聞きしらせたまひけん、いとど恥づかしう いみじきに、ものもおぼえたまはず、⋮⋮ ︹八四︺ と あ り、 二 の 宮 の 愛 ら し い 姿 に 狭 衣 は 惑 乱 し て 自 制 心 を 失 っ て 契 り を 結 ぶ と 描 か れ て い く。 ﹃ 源 氏 物 語 ﹄ と 同 じ (232) ― 96 ―

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熊本学園大学 文学・言語学論集 第26巻第2号(2019年12月25日) ように思いがけない瀬を主題にしている。 左 の 詞 書 で は﹁ 弘 徽 殿 ﹂・ ﹁ 三 の 口 ﹂・ ﹁ 朧 月 夜 の 尚 侍 ﹂ の 言 葉 が 記 載 さ れ、 ﹃ 源 氏 物 語 ﹄ の 光 源 氏 と 朧 月 夜 と の 瀬 の 場 面 で あ る こ と が 想 像 さ れ る。 ﹃ 狭 衣 物 語 ﹄ に 於 け る﹁ 大 将 ﹂・ ﹁ 弘 徽 殿 ﹂・ ﹁ 女 二 の 宮 ﹂ の 言 葉 か ら、 詠 歌 の場面は﹁弘徽殿﹂で契りを結ぶに至る女への男の恋歌である。したがって、本歌合の享受者は、これら言辞を 念頭に置いて、その名場面を描いている﹃源氏物語﹄ ・﹃狭衣物語﹄の世界へ参入していく。要するに﹁読者は歌 が収められていた物語の内容までも取り込み、 ﹁物語二百番歌合﹂の読書を楽しむ﹂のであ る ] 39 [註 。 こ れ は 歌 の 修 辞 で あ る 本 説 取 り と 基 本 的 に 同 一 で あ っ て、 原﹃ 平 家 物 語 ﹄ の﹃ 治 承 物 語 ﹄ 創 出 の﹁ あ そ び 心 ﹂ のモードと同一であろう。 ︵五︶定家の紀行から﹃松浦宮物語﹄そして平家一門都落ち   慈 円 が 企 画 し た 原﹃ 平 家 物 語 ﹄ の﹃ 治 承 物 語 ﹄ が 編 纂 さ れ て い る 頃 の 建 保 年 間 ︵ 一 二 一 三 ∼ 一 九、 承 久 に 改 元 さ れ る 一 二 一 九 年 四 月 ︶ に な る と、 定 家 の 歌 境 は 象 徴 的 な 深 み を 見 せ、 本 歌 と は 異 な る﹁ 幻 想 的 な 風 景 ︵ 中 略 ︶ 洗 練 が 加 え ら れ ︵ 中 略 ︶ 果 敢 な 言 語 実 験 を 試 み ﹂ を さ か ん に し て い た ] 40 [註 。 前 章 に 掲 出 し た 屋 代 本﹃ 平 家 物 語 ﹄ の 文 で あ る﹁ 引 塩行船ハ、半天ノ雲ニサカノボル。 ﹂の直前には、 昨 日 ハ 東 山 ノ 関 ノ 麓 ニ、 並 轡 ヲ、 今 日 ハ 西 海 ノ 浪 ノ 上 ニ、 解 纜。 雲 海 沈 々 ト シ テ、 晴 天 将 暗 二 孤 島 一 。 霜隔テ月浮 二 ヘリ海上ニ 一 。 との美辞麗句が刻まれている。この言辞に着目して定家との関連を窺ってみたい。 ﹃明月記﹄建暦二年 ︵一二一二︶ 正月二十一日・二十二日の両条の全文をまず、掲出してみよう。すなわち、 廿一日。辰の時に雨降る。終日濛々たり。天明に華洛を出で、孤舟を棹す。雨脚滂沱たり。漸く黄昏に及 びて、神崎の小屋に着く ︵静快律師、同じく此所に宿す︶ 。 (231) ― 95 ―

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『平家物語』初期生成と藤原定家 (上)――編纂の視点から―― 沙堤雨の裏行人少なし。纔に漁舟を伴ひて宿を問ひて来たる   月黒く雲陰りて 徐ろに夜ならんと欲す   猶江水を望みて独り徘徊す はるさめのあすさへふらばいかがせんそでほしわぶるけふのふな人 廿二日。夜、雨休む。暁に風寒し。未明、 月に乗じて路に赴く 。 月斜に霞深くして春尚浅し   山雲初めて曙色徐ろに分る 野村の雨後何ぞ望を遮る   只早 梅の風底に薫る有り 昆陽池を過ぎ、武庫山に入る。 新雨初めて晴れ池水満つ   恩波風緩かにして豊年を楽しむ 遠松我を迎ふる親故如し   群鳥人を驚かし争ひて後先す 暁涙を伴ひて来たる江館の月   春望相似たり洞庭の天 頭を廻らし遥かに顧みる青厳の路   漸く帝都を隔つ山復川 武庫河大い溢れ、人通ずるを得ず。遥かに下流を尋ね、蒙を衝きて田を渉るの間、時刻推移す。水を済る 者、膺に謄る波を徹す。況んや亦厳路崔嵬、険阻を踰して越え、荊棘を除剪し、山を披きて路を通ず。申 の刻に及び、温泉の孤館に着す。即時に浴を始む ︵仲国朝臣の湯屋に宿す。二品の消息に依り之を借与するなり︶ 。 とある。定家が有馬温泉へ湯治のために出かけていく途中の模様なのだが、さながら物語に描かれた一場面の趣 を醸しだしている。漢詩の施線の﹁月黒く雲陰りて﹂ ・﹁月斜に霞深くして﹂ ・﹁頭を廻らし遥かに顧みる青厳の路﹂ 等の詩句は、 前掲した本物語にみえる ﹁解 纜。雲海沈々トシテ、 晴天将 暗 二 孤島 一 。霜隔テ月浮 二 ヘリ海上ニ 一 。﹂ と同じ語調ではあるまいか。二十二日条の二重施線の﹁月に乗じて路に赴く﹂とある地の文や詩の﹁梅の風底に 薫る有り﹂の句は、 ﹃新古今集﹄に採られた﹃守覚法親王家五十首﹄での、    おほぞらは梅のにほひにかすみつゝくもりもはてぬ春のよの月 ︵一六三二︶ との歌ときわめて近似しており、妖艶な春の夜を見事に詠じた定家の姿勢は日録にそのまま投影されている。本 (230) ― 94 ―

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熊本学園大学 文学・言語学論集 第26巻第2号(2019年12月25日) 物語創出に定家の参画を探るうえからも看過できないであろう。   原﹃ 平 家 物 語 ﹄ の﹃ 治 承 物 語 ﹄ が 遺 存 し て い る の は 屋 代 本﹃ 平 家 物 語 ﹄ で あ る ] 41 [註 。 そ の こ と を、 あ ら た め て 確 認して、定家が創ったとされている﹃松浦宮物語﹄との関連を探っていこう。 嘉 応 二 年 ︵ 一 一 六 九 ︶ 、 執 政 の ﹁ 臣 ﹂ で あ る 藤 原 基 房 と 平 資 盛 と の 衝 突 と い う 王 法 の 動 揺 を 知 り な が ら 寂 超 は ﹃ 今 鏡 ﹄ を 括 っ た あ と を 引 き 継 い で 、 本 事 象 す な わ ち ﹁ 殿 下 乗 合 ﹂ の 物 語 よ り 原 ﹃ 平 家 物 語 ﹄ の ﹃ 治 承 物 語 ﹄ は 展 開 さ せ て い く 。 周 知 の よ う に ﹁ 殿 下 乗 合 ﹂ の 史 実 は 父 重 盛 で あ っ た の を 、 孫 の 資 盛 の 仕 返 し を す る 清 盛 と 組 み 立 て 直 し た 。 ﹃ 愚 管 抄 ﹄ で は 、 清 盛 の 暴 挙 と し て 虚 構 し た 本 物 語 を 対 置 し て ﹁ 父 入 道 ガ 教 ニ ハ ア ラ デ 、 不 可 思 議 ノ 事 ヲ 一 ツ シ タ リ シ ナ リ 。 子 ニ テ 資 盛 ト テ ア リ シ ヲ バ 、 ⋮ ⋮ ﹂ ︵ 巻 五 ︱ ︱ 二 四 六 ペ ー ジ ︶ と 注 記 し 、 史 実 に 沿 っ て 本 事 象 を 摘 記 し な が ら ﹁ コ ノ フ シ ギ コ ノ 後 ノ チ ノ 事 ド モ ノ 始 ニ テ ア リ ケ ル ニ コ ソ ﹂ ︵ 巻 五 ︱ ︱ 二 四 七 ペ ー ジ ︶ と 再 説 す る 。 治 承 四 年 ︵ 一 一 八 〇 ︶ 八 月 の 頼 朝 の 旗 揚 げ の 顚 末 を 詳 述 し た あ と 、﹁ 清 盛 ハ ︵ 中 略 ︶ 彌 心 オ ゴ リ ツ ヽ 、 カ ヤ ウ ニ シ テ ア リ ケ レ ド 、 東 國 ニ 源 氏 オ コ リ テ 國 ノ 大 事 ニ ナ リ ニ ケ レ バ 、 ⋮ ⋮ ﹂ ︵ 巻 五 ︱ ︱ 二 五 三 ペ ー ジ ︶ と し て い る 。﹁ 殿 下 乗 合 ﹂ の 事 象 が あ っ た 時 期 の 嘉 応 二 年 よ り 十 年 の 隔 た り が あ る も の の 、 施 線 部 で 清 盛 を ﹁ オ ゴ レ ル ﹂ 人 と 慈 円 は 指 弾 し た 。 以 下 で の 叙 述 で は 、 平 家 一 門 を 討 っ て ﹁ 武 者 ノ 世 ﹂ を 領 導 す る 頼 朝 を ﹁ 冥 顕 二 法 ﹂ の 道 理 か ら 捉 え て い く ] 42 [註 。﹁ 殿 下 乗 合 ﹂ の ﹁ 顕 ﹂ の 動 揺 に つ づ け て 本 物 語 も ﹁ 冥 ﹂ の 側 か ら 平 家 側 の 武 士 の 悪 行 を 語 っ て い く 。 す な わ ち 、 武 士 の 射 た 矢 が 十 禅 師 の 神 與 に 立 ち 、 多 く の 死 傷 者 が 出 た た め 、 山 門 の 衆 徒 は 神 輿 を 放 置 し て 帰 山 し た 。 放 置 さ れ た 神 輿 は 、 前 例 に 任 せ て 園 社 に 入 れ る こ と に な っ た 。 そ の こ と を 、 保 延 四 年 ニ 神 與 入 洛 ノ 時 ハ、 園 別 当 ニ 仰 テ 園 ノ 社 ヘ 奉 レ 入 レ ル。 今 度 ハ 保 延 ノ 例 タ ル ヘ シ ト テ、 彼 社 ノ別当権大僧都 澄憲 ニ仰テ、秉燭ニ及テ奉 レ 入レル。 ︵屋代本・巻一﹁日吉神與入洛事   付頼政振舞事﹂ ︶ と し て い る。 延 慶 本 等 に は 当 該 の 一 節 は な い。 し か も 今 一 例、 安 元 三 年 ︵ 一 一 七 七、 八 月 四 日 に 治 承 に 改 元 ︶ 五 月 五 日 に 明雲は天台座主を辞任したので、山門の大衆は憤り、強訴の噂に洛中は騒然となる。同月二十日、西光父子の讒 言 で 明 雲 は 流 罪 と な り、 三 日 後 の 配 所 へ 明 雲 が 出 発 す る 時 に、 大 衆 は 師 を 送 っ て 粟 津 の 国 分 寺 毘 沙 門 堂 に 至 り、 (229) ― 93 ―

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『平家物語』初期生成と藤原定家 (上)――編纂の視点から―― 屋代本には、 園 別 当 澄 憲 法 印、 其 比 未 権 大 僧 都 ニ テ 御 坐 シ ケ ル カ、 名 残 テ 奉 レ 惜、 泣 々 粱 津 マ テ 送 奉 ラ ル。 自 レ 其 澄 憲 暇 申 テ 被 レ 返 ケ ル ニ、 明 雲 僧 正 年 来 己 心 中 ニ 残 サ レ タ リ ケ ル 天 台 円 宗 秘 法、 一 心 三 巻 ノ 法 門 并 ニ 血 脈 相 承ノ譜 ヲ授ラル。此法ハ釈尊ノ付属ヲ、波羅奈国ノ馬鳴比丘、南天竺ノ竜樹菩ヨリ次第ニ相伝シ来レル ヲ、今日ノ情ニ澄憲ニ是ヲ受ラル。我国ハ粟散辺地境、濁世末代トハ云ナカラ、澄憲ヲ付属シテ、法衣ノ 袂ヲ押ヘツヽ、被 レ 返ケルコソ哀ナレ。 ︵屋代本・巻二﹁先座主明雲罪科儀定   同配流事﹂ ︶ と あ っ て、 施 線 に あ る﹁ 一 心 三 巻 ノ 法 門 并 ニ 血 脈 相 承 ノ 譜 ﹂ を も 授 け た と な っ て い る。 し か も 延 慶 本・ 長 門 本・ 南都本にはやはり当該の一節はなく、右文は安居院流の唱導の手になるものであり、屋代本の施線の言辞が正し い と の 指 摘 が な さ れ て い る ] 43 [註 。 前 掲 の 二 つ の 文 章 中 の 二 重 施 線﹁ 澄 憲 ﹂ は 安 居 院 流 の 祖、 ﹁ 澄 憲 ﹂ の 子 が 聖 覚 で あ るのは重要視せねばならない。後述するように聖覚は永年に亘って定家と親交を結んでおり、本物語の創出との 関連から﹁澄憲﹂をめぐる二つの文章は極めて示唆的である。それについては後述したい。 ﹃明月記﹄元久二年 ︵一二〇五︶ 閏七月二十一日条に、 廿 一 日。 昏 黒、 高 倉 院 督 殿 の 宿 所 に 行 き 向 ふ ︵ 皇 后 宮 御 母 儀 ︶ 。 日 來 病 悩、 時 を 待 た る る の 由 を 聞 く。 年 来、 此の辺りに於て、聞き馴るるの人なり。仍て之を訪ふ。女房出でふ。即ち宿所に皈る。 とあって、小督が洛中の居宅に重患に伏しているので定家が見舞った。屋代本には、 小松殿薨セラレテ後ハ、様々人ノ心モ替リ、不思議ノ事共多カリケリ。其比中宮ノ御方ニ、小督殿トテ勝 レタル美人、筝の上手候ハレケリ。主上夜々召レケリ。 ︵屋代本・巻三﹁小督局事﹂ ︶ と あ る。 重 盛 薨 去、 高 倉 院 に 召 し だ さ れ て 寵 愛 さ れ て い る 小 督 を、 そ の 後 知 っ た 清 盛 は 怒 り、 嵯 峨 に 身 を 隠 し、 つ い に 小 督 は 大 原 で 出 家、 そ の こ と も あ っ て 高 倉 院 崩 御 に 及 ん だ と 展 開 さ せ た。 ﹁ 小 督 局 事 ﹂ の 直 前 に あ る﹁ 同 内 府 病 悩 事 同 死 去 事 ﹂ の 章 段 に は﹁ 天 性 此 ノ 大 臣 ハ 未 来 ノ 事 ヲ モ 兼 テ 知 給 タ リ ケ ル ニ ヤ、 ⋮⋮﹂ と あ っ て、 平 家 一 門 の 運 命 を 知 っ て い る 重 盛 を 正 面 に 押 し 出 し、 混 迷 す る 廟 堂 の 内 情 か ら 旗 揚 げ す る 頼 朝 へ と 語 り す す め て い (228) ― 92 ―

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