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【研究レポート】「顕浄土真実教行証文類序」(総序)

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はじめに   近 現 代『教 行 信 証』 研 究 検 証 プ ロ ジ ェ ク ト (以 下、 本 プ ロ ジ ェ ク ト) で は 二 〇 一 九 年 か ら、 親 鸞 の 畢 生 の 書 で あ る 『顕浄土真実教行証文類』 (以下『教行信証』 ) の本文に対す る研究の整理と検証を始めた。この【研究レポート】は、 その成果の一部をまとめたものである。   本プロジェクトでは、以下の二点を課題としている。一 つは研究史の整理であり、もう一つは先行研究の批判的検 証 で あ る。 ま ず 前 者 に つ い て だ が、 『教 行 信 証』 の 研 究 に は中世の『六要鈔』以来、膨大な量の蓄積がある。しかし、 それらは十分に整理されているとは言い難く、特に近現代 の研究については手付かずの感が否めない。そのため、ま ず従来の研究を可能な限り調査し、特に近世以前から近代 への思想的転換点を探ることを目指す。これが、一点目の 課題である。   次に後者の批判的検証だが、たとえば大正期以前の研究 は基本的に、親鸞自筆の『教行信証』 (坂東本) を参照して いない。後世の写本や刊本によって読解が試みられており、 しかも坂東本とは異なる表記によって、解釈が為されると い う 例 も 散 見 さ れ る。 こ れ に 対 し て 真 宗 大 谷 派 で は、 「親

【研究レポート】

「顕浄土真実教行証文類序」

(総序)

大谷大学真宗総合研究所東京分室PD研究員 

 

  

  

  

(2)

鸞聖人七百五十回御遠忌」に際して坂東本の修復を行うと 共に、二〇〇五年にはカラー影印本を、二〇一二年には翻 刻本を出版し、さらに二〇一九年には翻刻本の縮刷版を刊 行した。そのため現在では、坂東本の表記に基づく『教行 信証』読解が容易になっており、そこから従来の研究の批 判的検証が求められるだろう。   ま た、 近 世 以 前 の 研 究 は 基 本 的 に、 『教 行 信 証』 を「立 教開宗の本典」と位置付け、解釈を行っている。特に近世 の真宗教団は他宗から様々な批判を受けており、これらに 対 し て 真 宗 の 正 当 性 を 示 す 論 理 的 根 拠 が、 『教 行 信 証』 に 求められていた。そのため、近世において『教行信証』は、 「破邪顕正の書」として読まれる傾向が、非常に強いので ある。   これらはもちろん、当時の時代状況の中で『教行信証』 を活かそうとする試みであり、それ自体が否定されるべき ものではない。しかし、親鸞自身の意図に沿った読解が為 されていたか否かは、別の問題であろう。   特に近年、歴史学的研究の進捗によって、親鸞当時の浄 土教が置かれていた状況や、天台教学の動向などについて も、解明が進みつつある。これらの成果を参照することに よって、親鸞が生きた言語空間・思想空間を浮き彫りにし、 親鸞が抱いていた「問い」に迫ることが、ある程度可能で あろう。そこで本プロジェクトでは、これらの作業を通し ながら『教行信証』を再読し、先行研究の意義と妥当性と の検証を試みていく。これが二点目の課題である。   大正期に『教行信証講義』を著わした山辺習学・赤沼智 善の両氏は、その「序講」において自身らの覚悟を、次の ように述べている。 今 は、 『教 行 信 証』 は、 決 し て、 宗 学 専 門 者 の み の 専 有 す べ き も の で な く な つ た。 『教 行 信 証』 は、 も つ と 普遍的な、もつと生き生きした生命を持つているので ある。それで、古来講者学者の心血を注がれた解釈は、 積んで山の如くあるけれども、用語が余りに専門的で、 かつ講義の脈絡等が、不完全であるために、到底『教 行信証』を現代に生かす役には立たぬのである。私共 はこれを非常に遺憾に思うておつた。今や機会は来た。 私共は覚悟をした。罪はこれを荷う。責罰はこれを受

(3)

ける。然し願くば、微力をつくして、及ぶ限り、心眼 ある青年者の友となつて、もろともに『教行信証』を 色 読 体 読 せ ん と 決 心 し た。 『六 要 鈔』 の 御 指 南 を 初 め、 古来の講者先輩のいのちがけの研究を重んじて、私共 の小さな心に味われるだけを味わうて発表した。 (『教行信証講義』第一巻〔法藏館、一九五一年〕六頁)   本 プ ロ ジ ェ ク ト も 両 氏 の 志 願 を 受 け 継 ぎ、 『教 行 信 証』 を現代に発信する基盤の構築を目指したい。 研究レポートの構成   読解の視点     )「総序」本文の復元     )「総序」の性格     )「総序」の構造   本文の読解     「顕浄土真実教行証文類序」   【凡例】 一、 引 用 文 中 の 仮 名 は 平 仮 名 に 統 一 し、 漢 字 は『教 行 信 証』 の 本 文 を除いて現行の字体に改め、左訓等は省略した。 一、 漢 文 を 引 用 す る 場 合 は 原 則 と し て 書 き 下 し 文 に 改 め、 読 み 易 さ を考慮して適宜整文した。 一、 先 行 研 究 の 解 釈 を 挙 げ る 際 に 同 一 の 解 釈 が 複 数 見 ら れ る 場 合 は、 煩 を 避 け る た め に 最 も 成 立 が 早 い も の か、 代 表 的 な も の を 一 つ 挙げるに留めた。 一、主なテキストは、次のように略記した。 ・『顕浄土真実教行証文類   翻刻篇』 (東本願寺)⇨『翻刻篇』 ・『浄土真宗聖典全書』 (本願寺出版社)⇨『浄聖全』 ・『大正新脩大蔵経』 (大蔵出版)⇨『大正蔵』 ・『新纂大日本続蔵経』 (国書刊行会)⇨『卍続蔵』 ・『昭和新脩法然上人全集』 (平楽寺書店)⇨『昭法全』 一、 近 世 の 講 録 等 は 原 則 と し て、 以 下 に 収 録 さ れ て い る も の を 参 照 した。 ・『仏教大系』 (中山書房) ・『真宗全書』 (蔵経書院) ・『真宗叢書』 (臨川書店) ・『真宗大系』 (真宗典籍刊行会) ・『続真宗大系』 (真宗典籍刊行会) ・『真宗相伝叢書』 (方丈堂出版) 以   上

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  読解の視点   ( )「総序」本文の復元    ①復元の着眼点   坂東本は親鸞自筆の『教行信証』として、現存する唯一 のものである。しかし本書の「総序」と「教巻」は欠損が 激しく、判読可能な箇所は一部に限られてい る。そこで本 文の読解へ入る前に、欠損箇所の復元を試みたい。   具 体 的 に は、 『教 行 信 証』 の 古 写 本 で あ る 高 田 本 と 西 本 願寺本を参考にするが、両者の「総序」を比較してみると、 それほど多くの違いは見られない。そのため坂東本の「総 序」も、両者とほぼ同じ形態であったと推測できる。ただ、 漢字の相違点が、次頁 (表 1 ) に記載の二箇所に見られる。   こ の う ち B に つ い て は、 「將」 の 字 を 使 う 高 田 本 も「コ トニ」という読み仮名を振っているため、文意が変わると いう性質のものではな い。   一方、Aの箇所は高田本が「證」であるのに対し、西本 願寺本は「德」となっている。西本願寺本は上欄に「證」 と 注 記 し て い る が、 『浄 土 文 類 聚 鈔』 に は「除 疑 獲 徳 之 神 方」 と い う 表 現 が 見 ら れ る。 ま た、 源 覚 書 写 本 (一 三 四 六 年) を 始 め と す る 多 く の 延 書 本 が、 「德」 の 字 と な っ て い る。 そ の た め、 「德」 の 表 記 を 単 な る 誤 記 と 言 い 切 る こ と は 難 し い。 そ こ で 本 レ ポ ー ト で は、 初 め に A の「德」 と 「證」の差異について考察を試み、どちらが「総序」の本 文として妥当であるかを検討したい。   ②先行研究の整理と検討   この問題については、すでに江戸期から言及が見られる。 たとえば玄智の『顕浄土真実教行証文類光融録』 (以下『光 融録』 ) には、次のような記述が見られる。 証は一本、徳に作る。略本には除疑獲徳之神方と云う。 (中 略) 又 今 師 は 獲 得 の 二 字 を 分 用 し、 因 を 獲 る を 獲 と曰う。果を得るを得と曰う。和讃の付記、及び末燈 ( )1 ( )2 ( )3

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鈔等に之を示すが如し。証は是、来世の妙果。徳は是、 現世の内徳なり。今は現益に約して、則ち徳の字に作 り、正と為す。略本の偈に、亦獲現生無量徳と曰う。 未だ獲証の語例は見えず。また須らく思うべきか。 (中略引用者『真宗全書』二四・二九頁)   ここで玄智は、親鸞に「獲」と「得」の使い分けがある こ と を 指 摘 し、 『浄 土 文 類 聚 鈔』 の「亦 獲 現 生 無 量 徳」 と い う 表 現 を 併 せ て 示 し た 上 で、 「総 序」 で は 現 益 を 表 わ す 「獲」 の 字 が 使 わ れ て い る 以 上、 「証」 で は な く「徳」 の 方が適切であると結論している。しかし、玄智の「未だ獲 証の語例は見えず」という発言には問題がある。これを間 接的に指摘しているのが、道隠の『教行信証略讃』である。 ( )4 こ の 欠 損 が 生 じ た 時 期 は、 詳 ら か で な い。 た だ、 江 戸 時 代 の 中 期 頃 ま で に 坂 東 本 か ら 書 写 さ れ た と さ れ る 教 行 寺 本 も、 「総 序」 の 全 文 と「教 巻」 の 一 部 を 欠 い て い る。 そ の た め 坂 東 本 の 欠 損 は、 こ れ 以 前 に 生 じ て い た 可 能 性 が 高 い。 鳥 越 正 道『最 終 稿 本 教 行 信 証の復元研究』 (法藏館、一九九七年)七七―七八頁、参照。 も ち ろ ん、 「コ ト ニ」 の 訓 が、 後 の 加 筆 で あ る な ら ば 検 討 を 要 す る が、 そ れ を 支 持 す る 要 素 は 見 当 た ら な い よ う に 思 わ れ る。 そ の ため、Bについては本レポートでは扱わない。 『浄聖全』二・二六四頁。 『浄聖全』二・二六八頁。 ( )1 ( )2 ( )3 ( )4     「総序」における高田専修寺本と西本願寺本の相違箇所(傍点及び太字は引用者による) 西本願寺本 高田専修寺本 A 難信金剛信樂除疑獲 德 4 眞理也(上欄に「證」と注記) 難信金剛信樂除疑獲 證 4 眞理也 B 特 4 仰如來發遣 将 4 仰如來發遣

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獲証とは、延本に獲徳に作るは正しからず。御本等に 獲証に作るを正と為す。何となれば、獲証の二字は元 照 の 語 を 用 ゆ。 行 巻 に 云 わ く。 「我 が 弥 陀 は、 名 を 以 て物を摂す。乃至   頓に億劫の重罪を除き、無上菩提 を 獲 証 す。 信 に 知 ぬ。 少 善 根 に 非 ず。 是、 多 功 徳 な り。 」文 (『仏教大系』教行信証第一・一六九頁)   道隠は玄智の理解について、直接には言及していない。 し か し こ こ で は、 「獲 証」 と い う 表 現 が「行 巻」 に 引 か れ る元照の『阿弥陀経義疏』にあ ることを指摘し、玄智のよ うに「徳の字」を「正と為す」理解を退けている。   これに対し深励は、どちらの表記にも一定の妥当性を見 ている。たとえば『広文類会読記』では、次のように述べ ている。 御延書は覚如上人御延書、綽如上人御延書、蓮如上人 御 延 書、 皆 証 の 字、 徳 の 字 に な り て あ り。 (中 略) 先 に申す如く広文類は吾祖縷々刪補を労し給ひ、或時は 徳の字に書き給ひ或時は証の字をかきたまふ。二本と も に 祖 師 の 御 手 よ り 出 た と み へ る。 (中 略) 略 文 類 に 信心を讃嘆するところに除疑獲徳之神方とあり。然れ ば徳の字に作ること吾祖の御手より出たこと此の略文 類で知らるヽなり。また獲証の本で解するときは獲証 の 言 は 先 に 引 た 元 照 の 小 経 疏 に あ り。 (中 略) と き 初 の徳の字を解すると徳をうるは現益ゆへに獲の字であ りさうなものなり。然るに今、証は当益ゆへに得の字 で あ り さ う な も の な り。 (中 略) け れ ど も こ れ ま た 一 概すべからず。分れば右の通り。信心をうることを金 剛の信心を獲得と二字遣ふこともあり。 (中略引用者『真宗大系』一三・三八頁)   このように「獲証」も「獲徳」も親鸞の著作に用例があ り、 「徳 = 現 益 → 獲」 と い う 安 易 な 図 式 も 成 り 立 た な い た め、どちらの表記であろうとも親鸞の思想からは逸脱しな いとするのである。つまり思想面からのアプローチだけで は、坂東本の表記を確定させることはできないと言える。   そこで次に、文献学の成果を参照したい。坂東本が書写 された例は、親鸞の在世当時に二度ほどあったようである。 ( )5 一 度 目 は 寛 元 五 年 (一 二 四 七 年) 、 親 鸞 が 七 十 五 歳 の 時 で あ り、親鸞の従弟に当たる尊蓮が書写している。これは暦応

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一 度 目 は 寛 元 五 年 (一 二 四 七 年) 、 親 鸞 が 七 十 五 歳 の 時 で あ り、親鸞の従弟に当たる尊蓮が書写している。これは暦応 本 (一 三 四 一 年) や 文 明 本 (一 四 七 〇 年) な ど、 多 く の 写 本 の 奥 書 か ら 窺 う こ と が で き る。 二 度 目 は 建 長 七 年 (一 二 五 ( )6 『翻刻篇』九七頁、参照。 鳥越前掲書・二九―三一頁、参照。 ( )5 ( )6   2   「德」と「證」の差異に関する先行研究の比較一覧(傍点及び太字は引用者による) 論証の概要 上記論証に基づく本文の復元 『教行信証略讃』 (道隠) 「證」⇨ × (「来世の妙果」 ) 「德」⇨ (「現世の内徳」 )   【典拠】   ・「亦獲現生無量徳」 (『浄土文類聚鈔』 )   ・「未だ獲証の語例は見えず」 難信金剛信樂除疑獲 德 4 眞理也 『光融録』 (玄智) 「證」⇨ (「獲証の二字は元照の語を用ゆ」 ) 「德」⇨ × (直接に不可の理由は述べていない) 【典拠】   ・「頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す」 (『阿弥陀経義疏』 ) 難信金剛信樂除疑獲 證 4 眞理也 『広文類会読記』 (深励) 「一概すべからず」⇨「獲」 ・「得」ともに親鸞の意図を逸脱しない。   【典拠】   ・「除疑獲徳之神方」 (『浄土文類聚鈔』 )   ・「頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す」 (『阿弥陀経義疏』 )   「德」 ・「證」の判定をしない

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五 年) 、 親 鸞 が 八 十 三 歳 の 時 で あ り、 高 田 門 徒 の 一 人、 専 信房専海が書写している。   ただ、尊蓮本も専海本も原本は現存していない。しかし 高田本は、専海の書写本を真仏が写したものであることが、 今 日 で は 定 説 と な っ て い る。 真 仏 は 正 嘉 二 年 (一 二 五 八 年) に 没 す る た め、 高 田 本 が 親 鸞 在 世 中 の 写 本 で あ り、 現 存する最古の写本であることは確実である。そのため高田 本は、親鸞最晩年の坂東本の状況を、反映していないと見 るべきなのであ る。   これに対して西本願寺本は、親鸞の滅後である文永十二 年 (一 二 七 五 年) の 成 立 で あ り、 坂 東 本 か ら 直 接 書 写 さ れ たものであることが論証されてい る。   そして以上のような事情を踏まえた上で、坂東本の「総 序」が「獲德」と「獲證」のいずれであったかを検討して いるのが、重見一行である。重見は、坂東本・高田本・西 本願寺本を含む七種の写本を通して、西本願寺本が「德」 となっているのは「坂東本の書改後の本文」を書写してい るからであり、高田本が「證」であるのは「坂東本書改前 の文言を継承している」からである、という見方を示して ( )7 ( )8 ( )9 図 1  「坂東本」書写の系譜略図 た だ 、 尊 蓮 本 も 専 海 本 も 原 本 は 現 存 し て い な い 。 し か し 高 田 本 は 、 専 海 の 書 写 本 を 真 仏 が 写 し た も の で あ る こ と が 、 今 日 で は 定 説 と な っ て い る(7 ) 。 真 仏 は 正 嘉 二 年 ( 一 二 五 八 年 ) に 没 す る た め 、 高 田 本 が 親 鸞 在 世 中 の 写 本 で あ り 、 現 存 す る 最 古 の 写 本 で あ る こ と は 確 実 で あ る 。 つ ま り 高 田 本 は 、 親 鸞 最 晩 年 の 坂 東 本 の 状 況 を 、 反 映 し て い な い と 見 る こ と が で き る(8 ) 。 こ れ に 対 し て 西 本 願 寺 本 は 、 親 鸞 の 滅 後 で あ る 文 永 十 二 年 ( 一 二 七 五 年 ) の 成 立 で あ り 、 坂 東 本 か ら 直 接 書 写 さ れ た も の で あ る こ と が 論 証 さ れ て い る(9 ) 。 そ し て 以 上 の よ う な 事 情 を 踏 ま え た 上 で 、 坂 東 本 の 「 総 序 」 が 「 獲 德 」 と 「 獲 證 」 の い ず れ で あ っ た か を 検 討 し て い る の が 、 重 見 一 行 で あ る 。 重 見 は 、 坂 東 本 ・ 高 田 本 ・ 西 本 願 寺 本 を 含 む 七 種 の 写 本 を 通 し て 、 西 本 願 寺 本 が 「 德 」 と な っ て い る の は 「 坂 東 本 の 書 改 後 の 本 文 」 を 書 写 し て い る か ら で あ り 、 高 田 本 が 「 證 」 で あ る の は 「 坂 東 本 書 改 前 の 文 言 を 継 承 し て い る 」 か ら で あ る 、 と い う 見 方 を 示 し て い る(10 ) 。 す な わ ち 、 専 海 に よ っ て 書 写 さ れ た 段 階 で は 「 證 」 で あ っ た が 、 そ の 後 「 德 」 に 改 訂 さ れ 、 そ れ を 西 本 願 寺 本 が 書 写 し た と す る の で あ る 。 こ の 重 見 の 推 測 は 、 適 切 な も の と 思 わ れ る(11 ) 。 よ っ て 本 レ ポ ー ト に 坂東本 1247年 (寛元5年) 1255年 (建長7年) 1258年 (正嘉2年) 1262年 (弘長2年) 1275年 (文永12年) 尊蓮書写本 専海書写本 書 写 西本願寺本 書 写 高田専修寺本 (真仏書写) 書写 真仏入滅 書写 親鸞入滅 暦応本 (1341年) 文明本 (1470年) 図1 「坂東本」書写の系譜略図

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い る。すなわち、専海によって書写された段階では「證」 であったが、その後「德」に改訂され、それを西本願寺本 が書写したとするのである。この重見の推測は、適切なも のと思われ る。よって本レポートにおいても、さしあたり 「除疑獲 德 4 」という表記を採用したい。    ③追記   西本願寺本は「総序」の題号の前に、    ∴大阿彌陀經   :友謙三藏譯    ∴平等覺經    :帛延三藏譯 (『翻刻編』六八〇頁) という記述を有する。これは『無量寿経』の古訳と、その 訳者を挙げたものだが、高田本には存在しない。では、坂 東本はどうであったのだろうか。これには、以下の二つの 可能性が考えられる。一つは、専海書写本の成立後に、親 鸞が坂東本に書き加えたものである可能性。もう一つは、 西本願寺本の書写者が独自に加えたものである可能性、で ある。   ただ、この二行を有する古写本は、西本願寺本系統のも の に 限 ら れ る。 そ の た め 重 見 は、 「お そ ら く 西 本 (西 本 願 寺 ( )10 ( )11 重見一行『教行信証の研究』 (法藏館、一九八一年) 、平松令三『親鸞真蹟の研究』 (法藏館、一九八八年) 、鳥越前掲書、参照。 た と え ば 坂 東 本 の「行 巻」 の 標 挙 は、 当 初「眞 實 之 行」 「選 擇 之 行」 と な っ て い た が、 後 に 細 註 に よ っ て 改 訂 さ れ、 「淨 土 眞 實 之 行」 「選 擇 本 願 之 行」 と な っ て い る。 し か し 高 田 本 の「行 巻」 の 標 挙 は、 「眞 實 之 行」 と あ る の み で あ る。 そ の た め 坂 東 本 の 改 訂 は、 専海が書写した後のことであったと推測される。 重見前掲書・第二章第二節、参照。 重見前掲書・二二五―二二六頁、参照。 鳥 越 も 西 本 願 寺 本 を も と に「総 序」 の 復 元 を 試 み て い る。 鳥 越 前 掲 書・ 二 四 六 ― 二 四 八 頁、 参 照。 本 レ ポ ー ト も、 こ れ を 参 考 に している。 ( )7 ( )8 ( )9 ( )10 ( )11

(10)

本) が創始した教行信証の文言であろ う」としている。   また、この二行の内容は注記的なものであり、各巻の標 挙 と 同 列 に 見 る こ と は 難 し く、 「総 序」 の 前 に 置 か れ て い る意義を、客観的に論じることも困難である。そのため本 レポートでは重見の理解に従い、この二行を坂東本には無 かったものとして扱う。   以上の点を踏まえて本レポートでは、坂東本の「総序」 を、次頁のように復元した。    ④考察   重 見 は、 坂 東 本 の「総 序」 が 親 鸞 の 晩 年 に、 「獲 證」 か ら「獲德」に書き換えられたとした。しかし深励が指摘し ていたように、この箇所は「獲證」と「獲德」のいずれで あっても、親鸞の思想として不適切ということにはならな い。 そ の た め、 重 見 が 言 う よ う に 親 鸞 が、 「證 → 德」 と い う改訂を行ったとするのであれば、その理由は何であった のかが問題となる。そこで以下、この点について少しく考 えてみたい。   ま ず 注 意 さ れ る の は、 「総 序」 の 中 段 に「德」 と い う 表 現が多いことである。 故知圓融至 德 4 嘉號轉惡成 德 4 正智難信金剛信樂除疑獲 德 4 眞理也爾者凡小易修眞敎愚鈍易往捷徑大聖一代敎無如 是之 德 4 海   こ の よ う に 短 い 一 段 で あ り な が ら、 「德」 と い う 字 が 四 回 も 使 わ れ て い る。 た だ、 「圓 融 至 德 嘉 號、 轉 惡 成 德 正 智」 は 行 に 関 す る も の で あ り、 「難 信 金 剛 信 樂、 除 疑 獲 德 眞 理」 は 信 に 関 す る も の で あ る。 ま た、 「大 聖 一 代 教、 無 如是之徳海」という記述は、教に関するものであると言え る。つまり親鸞は、教・行・信という異なった概念を全て、 「德」という一点から論じているのである。これは一方で は、教・行・信それぞれの相違を不明瞭にするものだが、 この三者が衆生に「德」を実現するという一点を、極めて 強調したものだと言える。   また、 「総序」の結びとなる一段にも、 「德」という表現 が見られる。 ( )12

(11)

【「坂東本」

(総序)本文の復元試案】

カニ   

ミレハ    

 

ノ  

 

ハ  

スル ㆓  

 

 

ヲ ㆒  

 

 

 

ノ  

 

ハ  

スル ㆓  

 

ノ  

ヲ ㆒  

 

ナリ  

レハ  

 

 

ハウ  

クニ  

テ   

調

 

 

 

ヲ シ テ    

シ ム ㆓   

 

ヲ ㆒  

 

 

 

レテ   

シ ヤウ反  

 

 

ヲ シ テ    

ハ シ メタマヘリ ㆓       

 

ヲ ㆒  

レ  

チ  

 

ノ  

 

ヒト シ ク    

ク ㆓  

サイ シ   

 

ノ  

 

ヲ ㆒  

 

ノ  

オウ  

シ ク   

オホス ㆔  

メクマムト ㆓    

 

 

 

ヲ ㆒  

ニ  

ヌ  

 

トオル  

 

ノ  

カウハ   

テ ㆓  

ヲ ㆒  

ナス ㆓  

ヲ ㆒  

 

 

 

 

 

ノ  

 

ハ  

キ ㆓  

ヲ ㆒  

エ シ ムル ㆓   

㆒  

 

 

ト  

 

ハ  

 

 

キ ㆓

㆒  

 

 

 

 

キ ㆓  

キ ㆒  

セチ      

ケイナリ      

 

ノ  

 

ノ  

 

シ ㆔  

シ ク ㆓  

 

 

 

ニ ㆒  

テ ㆓  

ヲ ㆒  

ネカヒ ㆓  

ヲ ㆒  

マトヒ ㆓

㆒  

ヒ ㆓  

ニ ㆒  

 

クラク   

サトリ  

スクナク    

 

ク  

リ  

キモノ    

コトニ   

キ ㆓  

 

ノ  

ハチ   

ケンヲ ㆒  

ス  

シ テ ㆓  

 

ノ  

 

ニ ㆒  

ハラ   

ツカヘ ㆓  

ノ  

ニ ㆒  

 

アカメヨ ㆓   

ノ  

ヲ ㆒  

アヽ  

 

ノ  

 

 

 

ニモ   

㆓  

マフアヒ ㆒   

 

ノ  

 

 

 

ニモ   

㆓  

エ ㆒   

タマ〳〵  

エハ ㆓  

 

ヲ ㆒  

トヲク   

ヨロコヘ ㆓   

宿

 

ヲ ㆒  

シ  

マタ  

コノ  

タヒ  

㆓  

セラレハ     

 

ニ ㆒  

カヘテ   

マタ  

キヤウ ㆓  

リヤクセム     

 

ヲ ㆒  

マコトナル     

カナ   

 

 

 

ノ  

 

 

 

 

 

ノ  

 

 

 

シ テ   

レ ㆓  

チ  

スルコト ㆒    

コヽニ   

 

禿

 

ノ  

 

 

ヨロコハ シ イ      

カナ  

西

セイ  

ハン  

 

ノ  

 

 

 

カ  

シ チ  

ヰキノ  

 

ニ  

シ テ ㆓  

㆒  

 

タリ ㆓  

コトヲ ㆒   

テ ㆓  

㆒  

ニ  

タリ ㆓  

コトヲ ㆒    

キヤウ ㆓  

シ テ   

 

ノ  

 

 

ヲ ㆒  

ニ  

ヌ ㆓  

 

ノ  

 

 

コトヲ ㆒   

 

テ  

ヒ ㆔  

ヲ ㆓  

ク ㆒  

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イヒオハルコトハナリ (傍線部は「坂東本」の欠損箇所、傍点部は検証に基づく復元箇所) タスケ スクフ ヨシ 反 スクル 反 ミナ 反 トシ 反 スクチナリ クワ 反 ナケク オソク オモハカリ サカイ ホム

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爰愚禿釋親鸞慶哉西蕃月支聖典東夏日域師釋難遇今得 遇難聞已得聞敬信眞宗敎行證特知如來恩 德 4 深斯以慶所 聞嘆所獲矣   こ の 一 段 は 古 く か ら、 『教 行 信 証』 述 作 の 由 来 を 示 す も の で あ る と さ れ る。 す な わ ち、 「眞 宗 敎 行 證」 を「敬 信」 し、如来の恩徳の深さが知られるところに、 「慶所聞」 「嘆 所 獲」 と い う 事 柄 は 必 然 す る の で あ り、 『教 行 信 証』 と い う著作の撰述も、その具体性の一つとして理解されるので ある。   そしてこの一段は「総序」の結びである以上、これまで の「德」に関する記述も、ここに帰結するものとして読む べきではないだろうか。それが可能であるならば、親鸞は 自身が『教行信証』を撰述する背景に、如来の恩徳の深さ を知るという体験があったと把握しており、そのことをよ り 明 確 に 示 す た め に、 「獲 證」 を「獲 德」 に 変 え た と 言 い うことができるのではないだろうか。   このような点に注意して「総序」を読む研究は、管見の 限りでは見当たらない。そこで本レポートでは以下、試み に「德」 と い う 概 念 を 強 調 し て、 「総 序」 を 読 み 解 い て み たい。   ( )「総序」の性格    ①先行研究の整理と検討   親鸞は『教行信証』の中に、二つの序文を設けている。 一つは冒頭の「顕浄土真実教行証文類序」であり、もう一 つは「信巻」の直前に置かれた「顕浄土真実信文類序」で ある。そして存覚の『六要鈔』は後者について、 二に別序とは、第一巻の最初の総序に対して、之を別 序と号す。是れ安心の巻、要須為るが故に此の別序有 り。 (『浄聖全』四・一〇九七頁) と述べ、この二つの序文を「総序」と「別序」と呼んで区 別 し て い る。 ま た、 存 覚 は『教 行 信 証』 の 構 成 を、 「序 分」 「正宗分」 「流通分」の三分科によって論じるが、その ( )13

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う ち「総 序」 は「序 分」 に 当 た る と し て い る。 つ ま り、 「別序」が「安心の巻」に置かれた特別の序文であるのに 対 し て、 「総 序」 は『教 行 信 証』 全 体 の 序 文 で あ る と 理 解 したのである。この呼称は、以後の研究においても基本的 に踏襲されるものであ る。   また『六要鈔』は、題号の「序」の字を注釈し、 「序」とは所謂、次・由・述の義、今は述序なり。 (『浄聖全』二・二〇五頁) と 述 べ て い る。 こ の よ う に 存 覚 は「総 序」 の 性 格 を、 「次 序」や「由序」ではなく「述序」であると規定してい る。 この理解も後の研究に概ね引き継がれており、定説と言っ て良いものである。   たとえば宣明は『教行信証講義』において、次のように 述べている。 ( )14 ( )15 括弧内引用者。重見前掲書・一三七頁、参照。 恵雲『教行信証鈔』 『高田学報』八六(高田学会、一九九八年)一五五頁、参照。 な お、 以 後 の 宗 学 に お い て は、 「化 身 土 巻」 末 尾 の「竊 以 聖 道 諸 敎」 以 下 の 文 章 を「後 序」 と 呼 び、 「総 序」 「別 序」 と 合 わ せ て 「三 序」 と す る の が 一 般 的 で あ る。 し か し、 こ れ に は 疑 義 を 呈 す る 理 解 も 見 ら れ る。 廣 瀬 杲 の 論 文「教 行 信 証 の「後 序」 に つ い て」 (『大谷学報』六七(二) 、大谷学会)では、次のように述べられている。 今 日 で は、 「総 序」 「別 序」 「後 序」 と い う 呼 称 は ほ と ん ど 既 定 的 な も の と な っ て い る と 言 う て も よ い で あ ろ う。 (中 略) し か し『教 行 信 証』 そ れ 自 体 が、 自 ら「序」 と い う こ と ば を 二 度 使 用 し て い る が、 決 し て 三 度 は 使 っ て い な い。 そ の 限 り、 二 つ の「序」 に つ い て は 積 極 的 な 姿 勢 を 以 て、 そ の 本 意 を 尋 ね る べ き で あ る。 し か し、 い ま 一 つ「序」 を 加 え る と い う こ と に な れ ば、 事 は 別 で あ る。 ま し て そ の「序」 を 親 鸞 自 身 が 明 記 し て い る 二 つ の「序」 と 同 格 に 位 置 付 け る と い う こ と に な れ ば、 事は極めて重大であると言わねばならない。 (中略引用者『大谷学報』六七(二) ・四頁) この廣瀬の指摘は重要であろう。よって本レポートにおいても、基本的に「後序」という表記は用いない。 これは智顗の『妙法蓮華経文句』に依ったものであろう。 『大正蔵』三四・一頁・中、参照。 ( )12 ( )13 ( )14 ( )15

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六 要 の 釈 よ し。 序 は 叙 と 同 じ。 序 は 緒 な り。 「イ ト グ チ」と云ふことなり。一部の大綱要義を挙ぐるが故に 「イトグチ」となると云ふこと。今の序は一部六巻の 緒 な り。 (中 略) 述 序 と は 要 義 を 述 ぶ る こ と。 今 は 次 第にも非ず。よりて起る由来にも非ず。真宗の要義を 述ぶる述序なり。 (中略引用者『仏教大系』教行信証第一・五四頁)   すなわち「総序」は、書物の「次第」を表わす「次序」 で も な く、 述 作 の「由 来」 を 示 す「由 序」 で も な く、 『教 行信証』一部の「大綱要義」を挙げる「述序」であるとし てい る。   このような理解を明確に否定する研究は、管見の限り見 当たらない。しかし、この理解は本当に妥当なのだろうか。 も ち ろ ん、 親 鸞 思 想 に お い て 重 要 な 諸 概 念 が、 「総 序」 の 中に看取できることは事実である。その一方で「総序」は、 『教行信証』の骨格である二種回向に直接言及はしていな い。 ま た 論 述 の 次 第 も、 『教 行 信 証』 本 文 の 展 開 と は 異 な っ て い る。 そ の た め「総 序」 が、 『教 行 信 証』 の 要 義 の 論 述を目的とした序文としてのみ見ることは、いささか無理 があるように思われる。    ②考察   存 覚 は「総 序」 を「述 序」 と し、 宣 明 は こ こ に、 『教 行 信証』の「大綱要義」が述べられているとしていた。では、 ど う し て 存 覚 は、 「総 序」 を「述 序」 と し た の だ ろ う か。 これに関して芳英の『教行信証集成記』には、以下のよう な記述が見られる。 六要、序字を釈して曰く。序は所謂、次由述の義。今 は述序なり。文   是は法華文句の釈序品に依って、述 序 の 義 を 取 る も の な り。 (中 略) 撰 号 に 依 っ て 特 に 述 字を安ずるか。 (中略引用者『真宗全書』三二・一二頁)   このように芳英は、存覚が撰号を意識して「述序」とし た可能性を指摘している。もちろん、坂東本の「総序」に 撰号はなく、これは高田本や西本願寺本も同様である。坂 ( )16

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東本で撰号が確認できるのは「別序」からであり、しかも それは「愚禿釋親鸞集」であ る。   た だ、 『六 要 鈔』 に は 撰 号 の 解 説 が あ り、 存 覚 所 覧 の 「総序」に「愚禿釈親鸞述」という撰号があったことは確 実である。また、江戸期の寛文本にも同様の撰号があり、 後代の研究が存覚の説を批判しないのも、このことが関係 しているように思われる。しかし坂東本に撰号がない以上、 この理解は再考が必要であろう。   結 論 を 先 に 言 え ば、 「総 序」 は「由 序」 的 性 格 の 強 い 序 文 で は な い だ ろ う か。 前 述 の よ う に、 「総 序」 は 述 作 の 由 来を記して結ばれており、これは多くの先学が認めるとこ ろである。そして「総序」の論述全体が、ここへ帰結する も の と し て 読 み 得 る の で あ れ ば 、「 総 序 」 の 性 格 を 「 由 序 」 として捉えることも、十分に可能であると思われる。この ( )17 ( )18 「総 序」 が「述 序」 で あ る こ と に 積 極 的 な 意 味 を 見 出 す 研 究 は、 戦 後 に お い て も 見 ら れ る。 廣 瀬 杲「 「竊 以」 の 教 学 ―『教 行 信 証』における三序の意義」 (『大谷大学研究年報』二九〔大谷学会、一九七七年〕 )、参照。 『翻刻篇』一四九頁、参照。ただし、坂東本の「教巻」には、撰号があった可能性が高い。 『浄聖全』四・九九八―九九九頁、参照。 ( )16 ( )17 ( )18   3   先 行 研 究 ( 存 覚 ・ 宣 明 ・ 芳 英 ) に お け る 「 総 序 」 の 性 格 に 対 す る 理 解 の 一 覧 総序の性格に対する理解 『六要鈔』 (存覚) 総序=「述序」 【言及内容】    「第一巻の最初の総序」    「今は述序なり」 『教行信証講義』 (宣明) 総序=「述序」 【言及内容】    「述序とは要義を述ぶること」    「真宗の要義を述ぶる述序なり」 『教行信証集成記』 (芳英) 総序=「述序」 【言及内容】    「法華文句の釈序品に依って、述序の義を取る」    「撰号に依って、特に述字を安ずるか」

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点に関しては、次の構造論と併せて、改めて考えてみたい。   ( 3) 「総序」の構造    ①先行研究の整理と検討   先学が提示する「総序」の構造理解は、決して一様では ない。研究史の起点となる存覚の『六要鈔』では、左記表 4 (上 段) に記載したような理解が示される。   一 方、 相 伝 教 学 の『深 解 科 文』 で は、 同 じ く 表 4 (中 段) に 記 載 の と お り、 「総 序」 を 浄 土 三 部 経 に 配 当 し た 理 解を示している。   ま た、 近 世・ 本 願 寺 派 の 学 僧 で あ る 智 暹 も、 『教 行 信 証 文 類 樹 心 録』 (以 下『樹 心 録』 ) に お い て、 表 4 (下 段) の よ う に、 「総 序」 の 前 半 を「示 三 経 大 綱」 と 分 科 し て い る。 す な わ ち、 「竊 以」 か ら「惠 日」 ま で が「大 経 の 意 に 依 っ て 法 の 真 実 を 嘆 ず る」 一 段、 「然 則」 か ら「逆 謗 闡 提」 ま で が 「 観 経 の 意 に 依 っ て 機 の 真 実 を 顕 わ す 」 一 段 、「 故 知 」 か ら「眞 理 也」 ま で が「小 経 の 意 に 依 っ て 行 信 の 徳 を 示 す」一段とされている。類似した理解は近世以降の多くの 研究に見られ る。   こ こ で 智 暹 は、 「大 経 の 意」 に つ い て「法 の 真 実」 、「観 経の意」について「機の真実」という表現を用いている。 これはおそらく、覚如の『口伝鈔』に見られる以下の記述 に依ったものであろう。 い は ゆ る 三 経 の 説 時 を い ふ に、 『大 無 量 寿 経』 は、 法 の真実なるところをときあらはして、対機はみな権機 な り。 『観 無 量 寿 経』 は、 機 の 真 実 な る と こ ろ を あ ら はせり。これすなはち実機なり。いはゆる五障の女人 韋提をもて対機として、とをく末世の女人・悪人にひ としむるなり。 (『浄聖全』四・二七三頁)   つ ま り 智 暹 は 覚 如 の 三 部 経 観 を 基 に、 「総 序」 は「法 の 真実」と「機の真実」を明らかにし、勧信誡疑する序文で あると理解したのである。   しかし、これが本当に親鸞の意図に合致したものである か否かは、当然のことながら検討を要するものであろう。 ( )19 ( )20 ( )21 ( )22 ( )23 ( )24 ( )25 ( )26

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『浄聖全』四・九九九―一〇〇〇頁、参照。 『真宗相伝叢書』一・六―一〇頁、参照。 『真宗全書』三六・二―七頁、参照。 本 願 寺 派 で は、 相 伝 家 が 十 七 世 紀 末 に 大 谷 派 へ 転 派 し て お り、 相 伝 教 学 が 断 絶 し て い る。 そ の た め、 智 暹 が 相 伝 教 学 を 参 照 し て い た か 否 か は 不 明 で あ る。 た だ し、 『深 解 科 文』 自 体 は 相 伝 家 が 独 占 し て い た わ け で は な く、 深 励 な ど も 参 照 し て い る。 『広 文 類 会 読 記』 『真 宗 大 系』 一 四・ 七 四 頁、 参 照。 ま た、 相 伝 教 学 に 対 す る 深 励 の 批 判 に つ い て は、 藤 原 智 の 論 文「真 宗 教 学 史 の 転 轍 点 ― 相 伝 教 学 批 判 た る 香 月 院 深 励 の 還 相 回 向 論 ―」 (『近 現 代『教 行 信 証』 研 究 検 証 プ ロ ジ ェ ク ト 研 究 紀 要』 二、 親 鸞 仏 教 セ ン タ ー、 二 〇 一九年)に詳しい。 『真宗全書』三六・二頁。 『真宗全書』三六・三頁。 『真宗全書』三六・四頁。 現 代 に お い て も『 『顕 浄 土 真 実 教 行 証 文 類』 解 説 論 集』 (浄 土 真 宗 本 願 寺 派 宗 務 所、 二 〇 一 二 年) で は、 こ の よ う な 構 造 理 解 に 妥 当性を認めている。四八頁、参照。 ( )19 ( )20 ( )21 ( )22 ( )23 ( )24 ( )25 ( )26   4   『六要鈔』 ・『深解科文』 ・『樹心録』の構造理解比較 該当箇所 『六要鈔』 『深解科文』 『樹心録』 竊以~惠日 略標弥陀広大利益 弥陀別願序・大経真説 示三経大綱(竊以~德海) 然則~闡提 先依『観経』明教興由、粗述済凡救苦大悲 釈迦善巧序・観経伝説 故知~斯信 重挙名号希奇勝徳、特勧下機易往巨益 去来現仏々序・小経同讃 勧誡(捨穢~聞思莫遲慮) 噫~遅慮 顕其聞法宿習之縁令人随喜、悲其未来流転之報堅誡疑慮 爰~矣 悦受三国伝来師訓、演所聞持之有実耳 述作由(爰愚禿~嘆所獲矣)

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事実、智暹のような理解に疑義を呈する先学は、少数なが ら 江 戸 期 か ら 存 在 し た。 た と え ば 本 願 寺 派 の 僧 叡 は、 『教 行信証文類随聞記』において次のように述べている。 古に在て三経の意を叙るなとヽ釈した人もあれとも。 今の文意とは見へぬ。なるほと初より逆謗闡提まて。 大観二経の意のやうなれとも。次の故知等を小経とす ること思ひ難し。彼文には難信と云言は小経には縁あ り。其余にゆかりはなひ。無理に三経の意を叙すると 迂回の会をなさは。云なされぬこともなけれとも。文 の仕立に契はぬ。此は三経の意を叙るとなしに。弥陀 如来摂取と云所の他力を推し立て述る文意なり。 (『真宗全書』二六・一九頁)   こ の よ う に 僧 叡 は、 「竊 以」 か ら「逆 謗 闡 提」 ま で を 『大』 『観』 二 経 の 意 と し て 見 る こ と は 可 能 で あ る と し な が ら も、 「故 知」 以 降 が『阿 弥 陀 経』 の 意 で あ る と す る 解 釈は、穿ちすぎであるとしている。そして「総序」の前半 部分は法義の讃嘆であり、三経の大意を示すものではなく、 阿弥陀仏の他力を述べることに主眼があるとする。ただ、 僧 叡 も「総 序」 を 三 段 に 分 科 し、 法 義 を 嘆 ず る 第 一 段 は 「無 如 是 之 德 海」 ま で で 終 わ り、 「捨 穢 忻 淨」 か ら「聞 思 莫 遅 慮 」 ま で の 一 段 は 「 勧 他 人 」、 そ れ 以 後 を 「 述 自 喜 」 と 位置付けてい る。この分け方は、実は智暹が示した構造理 解と全く同じものである。そのため僧叡の指摘も、智暹の 構造理解を転換させるものであったとは言えないであろう。   これに対して『六要鈔』の構造理解に着目し、そこに新 しい意義を見出していったのが、曽我量深であった。曽我 は大谷派の安居における「総序」の講義で、次のような見 解を提示している。 しかしながら私、今は存覚上人の語に聊か私の言葉を 加へて申しますれば、第一段はこれは別して本願光明 の二徳を挙げて、総じて仏土の体相を述べる、と私は 申してみようと思います。第二段は浄土を開顕するの 機 縁 を 明 ら か に す る。 第 三 段 は 行 信 の 大 道 の 成 立 (或 は 正 道 の 直 道 と で も い ひ ま す か) 。 そ し て 第 四 段 は 聞 法 の 宿縁を明らかにして勧信誡疑す。第五段は立教開宗の ( )27

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宣言であります。お粗末な言葉ですが、かやうな言葉 を加へて御意を闚つてみようと思ふのであります。 (「行信の道―『教行信証』総序講読―」 『曽我量深選集』七・二一頁)   曽我が『六要鈔』の理解を採り上げたのは、 古来多くの学者達は第三段の初の方の除疑獲証真理也 の処で大段を切り、その次の爾者といふ処から終りま で一貫して大段が変るやうに見て居られますが、しか し私は除疑獲証真理也で切つては、一往は理を尽すが 再往は情を尽し得たとはいひ得ないと思ひます。それ は名号と信楽との二法の徳用を第三段の初に挙げまし て、次で一層第一第二段を総括してその徳を讃し、切 に道を求めて悩むものを勧めて、遂に専奉斯行唯崇斯 信と結んである所から見ますると、唯崇斯信といふ処 まで仏土憶念の深き感情はずっと連続して不可分であ ると見ていくのが当然ではないかと思います。 (「行信の道―『教行信証』総序講読―」 『曽我量深選集』七・二二頁) と い う 言 葉 か ら 推 測 す る と、 「故 知」 か ら「唯 崇 斯 信」 ま でを一段とする視座に着目したからであると考えられる。   確かに「故知」から「唯崇斯信」までは、行信に関する 用語が繰り返し使われており、ここが行信を問題とした一 段であると見ることは、十分に可能であると思われる。さ ら に 研 究 史 の 上 か ら 言 え ば 曽 我 の 理 解 は、 「故 知」 以 降 を 『阿 弥 陀 経』 の 意 と す る 説 を 批 判 し、 「行 信」 を 主 題 と す る一段として読む視点を、提示したものであったと言える だろ う。   さらに安田理深は、曽我の理解を受けて「総序」の展開 を、次のように整理している。 「総 序」 で も、 『六 要 鈔』 が 五 節 に 分 け て い る の で あ ( )28 『真宗全書』二六・一九頁、参照。 ( )27

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るが、その中第一節から第三節までは帰敬序にあたり、 第四節、第五節は発起序の意義をもつといえる。とに かく、はじめの三節で親鸞の帰敬された仏法、いわゆ る浄土真宗という名であらわされる仏法をあらわされ るのであり、後の二節は『教行信証』をつくる意図を あらわしている。 (「 『教行信証』総序聴記」 『安田理深選集』一五上 〔文栄堂書店、一九八四年〕三四頁)   こ の よ う に 安 田 は「総 序」 の 前 三 節 を「帰 敬 序」 、 後 の 二節を「発起序」と位置付け、前者は親鸞が帰敬した仏法 を、後者は『教行信証』制作の意図をあらわしたものであ ると理解する。そして前三節の展開については、 第 一 節 で は、 「難 思 の 弘 誓」 、「無 碍 の 光 明」 と い わ れ るもの、単純な言葉ではあるが、いわば如来という一 語 で 尽 く さ れ る 内 容 が、 「竊 か に 以 み」 ら れ て い た の であるが、その第一節の如来が、人類救済の教法とし てあらわれる機縁となったものとして、王舎城の事件 がここに示されているのである。これが第二節のだい た い の 趣 旨 で あ る。 (中 略) こ の 第 二 節 は 第 一 節 の 如 来が、第三節の衆生の行信としてあらわれる機縁を示 すという意義をもつ、こういうわけである。 (中略引用者「 『教行信証』総序聴記」 『安田理深選集』 一五上・一〇六─一〇九頁) と述べ、如来をあらわすのが第一節であり、その如来が教 法となる機縁を語るのが第二節、如来が衆生の行信として あらわれることを語るのが第三節であるとする。   一方、後半の二節については、次のように論じている。 後半は正しく『教行信証』制作の動機、意図というも のがあらわされていると思う。そこで後半は二節にな っているが、正しくその動機を示してあるのは第五節 で あ る。 (中 略) そ こ に 仏 法 に こ た え る た め に『教 行 信証』を制作されているが、その仏法に遇うたという ことが容易ならないことであるという感銘をあらわす のが、第四節である。

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(中略引用者「 『教行信証』総序聴記」 『安田理深選集』 一五上・三〇三―三〇六頁)   前半の三節は、親鸞が帰敬した仏法を示すものであった が、その仏法に出遇った親鸞自身の「感銘をあらわす」の が 第 四 節、 『教 行 信 証』 制 作 の 動 機 を 述 べ る の が、 第 五 節 で あ る と す る。 つ ま り『教 行 信 証』 は、 「行 信 の 大 道」 に 遇った親鸞の帰敬と感銘を受けて、制作されたものである こ と を 示 す の が、 「総 序」 と い う 序 文 で あ る と い う こ と で あろう。曽我・安田の構造理解は、無理のないものである と思われる。 た だ、 行 信 に 注 目 し て「総 序」 を 読 み 解 く 視 座 は、 曽 我 の 独 創 で は な い。 近 世 の 本 願 寺 派 の 学 僧・ 僧 鎔 は、 『本 典 一 渧 録』 (以 下 『一 渧 録』 ) に お い て、 「総 序」 の 全 体 を 行 信 を 軸 に 解 釈 す る 視 座 を 提 示 し て い る。 し か し 僧 鎔 は「難 思 の 弘 誓」 を 大 行、 「無 礙 の 光 明」 を 大 信 に 配 当 す る な ど、 「総 序」 の 全 体 を 行 信 と い う 視 点 で 読 み 切 ろ う と し て お り、 強 引 な 読 解 で あ る 感 が 否 め な い。 こ れ に 対 して曽我の理解は、 「総序」の中段が行信を語るものである点を、明確化したものであると言える。 ( )28   5   曽我量深と安田理深の「総序」構造理解 該当箇所 曽我量深の理解 安田理深の理解 竊以~惠日 第一節   別して本願光明の二徳を挙げて、総じて仏土の体相を 述べる 如来をあらわす 帰敬序 然則~闡提 第二節   浄土を開顕するの機縁を明らかにする 如来が教法となる機縁を語る 故知~斯信 第三節   行信の大道の成立 如来が衆生の行信としてあらわれることを語る 噫~遅慮   第四節   聞法の宿縁を明らかにして勧信誡疑す 仏法に出遇った親鸞自身の感銘をあらわす 発起序 爰~矣 第五節   立教開宗の宣言 『教行信証』制作の動機を述べる

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   ②考察   ただ、先に一言したように、本レポートの「総序」の読 解では、徳という概念に注意してみたい。この場合、安田 の 言 う「帰 敬 序」 か ら「発 起 序」 へ の 展 開 は、 「德」 の 成 就から「報德」の実践へという関係として、捉え直すこと ができるのではないだろうか。   親 鸞 は「信 巻」 に 善 導 の『般 舟 讃』 を 引 い て、 「今 よ り 佛果に至るまで、長劫に佛を讚めて慈恩を報ぜん と」と述 べており、また『讃阿弥陀仏偈和讃』には、    仏惠功徳をほめしめて     十方の有縁にきかしめむ     信心すでにえむひとは     つねに仏恩報ずべし (『浄聖全』二・三六〇頁) という一首が見られる。そのため、親鸞において「仏慧功 徳」を讃嘆するということは、如来の恩徳に報いる一つの 在り方であったと考えられる。   この点を踏まえて「総序」の読解を試みるのであれば、 前半の第一節は徳の根源である如来をあらわすものであり、 その如来が教法として現われる機縁を語るのが第二節、そ の教法が説く行信によって、衆生に徳が実現されることを 述べるのが第三節であると言えるだろう。   そして後半は、この教法に出遇い得た親鸞の感動を語る のが第四節、如来の徳へ報いるために『教行信証』を制作 することを語るのが、最後の第五節ということになるだろ う。   このように「総序」は、親鸞が『教行信証』の述作に至 った因縁を、如来にまで遡って示した序文として読み解く ことも、可能ではないだろうか。 ( )29

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  本文の読解    ①先行研究の整理と検討   初 め の「竊 以」 は「発 端 の 言」 と さ れ、 「化 身 土 巻」 末 尾の後跋も、この言葉から書き出されている。つまり『教 行 信 証』 は「竊 以」 か ら 始 ま り、 「竊 以」 で 結 ば れ て い く のである。このような用例は、善導の『観経疏』や『法事 讃』を範としたものと推測され る。   次に「竊以」の意味するところだが、先学は「竊=私」 「以 = 意」 と し て 解 し た り、 元 照『盂 蘭 盆 経 疏 新 記』 の 「竊以謂私自慮 之」という記述を挙げたりしてい る。また 「竊」は「ぬす む」という意味の文字であり、親鸞の謙譲 ( )30 ( )31 ( )32 ( )33 ( )34 ( )35 『翻刻篇』二四一頁。 『六要鈔』 『浄聖全』四・一〇〇〇頁。 な お、 親 鸞 の 兄 弟 子 に 当 た る 隆 寛 の『具 三 心 義』 も、 「竊 以」 の 二 字 か ら 書 き 出 さ れ て い る。 『隆 寛 律 師 の 浄 土 教 附 遺 文 集』 (同 朋 舎、一九四一年) 「遺文集」一頁、参照。 『樹心録』 『真宗全書』三六・二頁、参照。 ( )29 ( )30 ( )31 ( )32

 

〈本文〉

カニ

 

ミレハ

 

〈本文書き下し〉

 

ひそ

かに

おもん

みれば

(24)

や卑下を表わすものであるとされる。ただ、近世の講録は、 親鸞が何に対して卑謙しているのかを論じていない。この 点を積極的に思索したのが、曽我量深である。 難思弘誓と無碍光明、即ち如来の因位の弘誓と果上の 光明との二の事実に就て竊かにおもひみられたのであ ります。   (「行信の道─『教行信証』総序講読─」 『曽我量深選集』七・二五頁)   このように曽我は「竊以」を、単なる世間的な意味での 謙遜の表現ではなく、阿弥陀仏の「因位の弘誓」と「果位 の光明」に対するものであるとする。阿弥陀仏の因も果も 無限なるものであり、それは有限な人間が把捉しきれるも のではない。そのため、有限が無限を論じるということは、 「竊以」するという在り方でしか成り立たないことを、曽 我は明示したのである。これは、近世的理解を一歩進めた ものであったと言える。   ただ、 そのために曽我は、 「竊以」がかかる対象を 「惠日」 までであるとした。第二節以降は、如来そのものを直接語 るものではなくなるため、その意味では当然の理解である。   これに対して安冨信哉は、曽我の説に一定の理解を示し つ つ も、 「竊 以」 は「親 鸞 の 執 筆 態 度 を 表 わ す 語」 で あ る とし、 『教行信証』全体にわたるものであるとし た。 『教行 信証』が「文類」という方法を採った著述である以上、親 鸞は如来を直接「竊以」しているのではない。あくまでも、 経 論 釈 の 言 葉 を 通 し て 聞 思 し て い る の で あ り、 「竊 以」 と いう言葉の意味も、そこまでを踏まえて考察すべきだとし たのである。   確 か に、 「難 思 の 弘 誓」 と「無 碍 の 光 明」 は 言 葉 を 超 え たものであり、それを直接「竊以」するということは、人 間 に は 不 可 能 で あ る。 ま た 安 田 に よ れ ば、 「総 序」 自 体 が 言葉を超えた如来が教言となり、衆生の行信にまでなった と い う 展 開 を 示 し て い る と 考 え ら れ る。 「竊 以」 が か か る のは「惠日」までとした曽我の理解は、親鸞が無媒介的に 如来を思惟したとする誤解を招く危険性はあるだろう。   衆生が如来を「竊以」する際には、教言を介することが 不可欠である。そうであるならば「文類」である『教行信 ( )36 証』は、全体が教言を通して如来を思惟していると言うこ と が 可 能 で あ り、 こ の 意 味 に お い て、 「竊 以」 が『教 行 信

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証』は、全体が教言を通して如来を思惟していると言うこ と が 可 能 で あ り、 こ の 意 味 に お い て、 「竊 以」 が『教 行 信 証』全体にかかるとした安冨の主張も、一定の妥当性を有 するものであろ う。 ( )37 『卍続蔵』二一・四五七頁・中。 『教行信証鈔』 『高田学報』八六・一一九頁、参照。 『大漢和辞典』八・修訂第二版(大修館書店、一九八九年)六九三頁。 『『教行信証』への序論』 (真宗大谷派宗務所出版部、一九九九年)五〇―五四頁、参照。 な お「竊 以」 が「浄 土 の 教 言」 を 通 し て 成 り 立 っ て い る と い う 視 点 は、 安 冨 ほ ど 明 確 で は な い が、 曽 我 の 上 に も 看 取 さ れ る も の である。 ( )33 ( )34 ( )35 ( )36 ( )37

(26)

   ①先行研究の整理と検討   こ の 一 段 の 主 題 は、 「弘 誓」 と「光 明」 で あ る。 衆 生 の 思 慮 を 超 え た 本 願 (難 思 の 弘 誓) は、 渡 り 難 い 生 死 の 海 を 渡 す 大 き な 船 で あ り、 何 も の に も 妨 げ ら れ な い 光 明 (無 礙 の光明) は、無明の闇を破る恵みの太陽であるとされる。   こ こ で 親 鸞 は、 「難 度 海」 に 対 し て「難 思 弘 誓」 と い う 表 現 を 用 い、 「無 明 闇」 に 対 し て「無 礙 光 明」 と い う 言 葉 を使っている。すなわち親鸞は、意図的に「難」と「無」 とを重ねて示 し、衆生の現実に対応する法のはたらきを表 現していると考えられる。   な お、 「難 度 海」 は「生 死 海」 、「無 明」 は 三 毒 の 中 の 愚 痴であると同時に、仏智疑惑であるとされ る。   た だ、 「難 思 の 弘 誓」 と「無 礙 の 光 明」 と の 関 係 を ど の ように見るかについて、先学の理解は一定していない。大 別すると、以下の三種の説が見られる。    《先学の理解の代表例》     A説: 「難思の弘誓」⇨大行「無碍の光明」⇨大信     B説: 「難思の弘誓」⇨慈悲「無碍の光明」⇨智慧     C説: 「難思の弘誓」⇨因徳「無碍の光明」⇨果徳   まずA説だが、この理解を提唱したのは、本願寺派の僧 ( )38 ( )39 ( )40

〈本文〉

 

  思

  弘

  誓

  度

スル

  難

  度

  海

  大

  船

  無

  礙

  光

  明

  破

スル

  無

  明

  闇

  惠

  日

ナリ

〈本文書き下し〉

 

なん

ぜい

なん

かい

する

たい

せん

こう

みょう

みょう

あん

を破する

にち

なり。

(27)

鎔である。 『一渧録』には、次のように述べられている。 難思弘誓等二句は即ち名号なれば往相の大行なり、無 碍光明等の二句は、無明を破して信心の智慧を生ずれ ば、往相の大信なり、この大行大信を以て一序を貫く、 次文に至徳嘉号と云ひ、金剛信楽と云ふ、次に又専奉 斯行、唯崇斯信と、それを承けて弘誓強縁、真実浄信 と 云 ひ、 文 尾 に 至 り て 慶 所 聞 (名 号) 、 嘆 所 獲 (信 心) と結び給ふ、たゞこれ行信錯綜して一序をあらはし給 ふ、 (『真宗叢書』八・七頁)   こ の よ う に 僧 鎔 は、 「総 序」 の 全 体 が 行 信 を 軸 に 展 開 し て い る と す る。 確 か に『末 燈 鈔』 に は、 「誓 願 を は な れ た る 名 号 も 候 は ず 候 う、 名 号 を は な れ た る 誓 願 も 候 は ず 候 う」 と い う 言 葉 が 収 録 さ れ て お り、 「誓 願 = 名 号」 と い う 図 式 は 可 能 で あ る。 ま た 光 明 は 智 慧 で あ り、 『正 像 末 和 讃』 に は「信 心 の 智 慧」 と い う 表 現 が 見 ら れ る た め、 「光 明=信心」という図式も不可能ではない。   しかし親鸞はここで、信や行といった言葉を直接使って いるわけではないため、この読解はいささか強引な感が否 めない。 「総序」の読解としては、 『教行信証』が「弘誓」 と「光明」から書き出されていることの意味を、まずは受 け止める必要があるのではないだろうか。   次 に B 説 だ が、 光 明 が 智 慧 の 相 で あ る と い う こ と は、 『教行信証』の中でも繰り返し述べられていることである。 ま た「行 巻」 に は、 「大 悲 の 願 船 に 乘 じ て 光 明 の 廣 海 に 浮 ( )41 ( )42 『一渧録』 『真宗叢書』八・二八頁、参照。 『六要鈔』 『浄聖全』四・一〇〇〇頁。生死の迷いの果てしない様子を、海に譬えたもの。 宣明『広文類聞誌』 『続真宗大系』五・八頁、参照。 『浄聖全』二・七九一頁。 『浄聖全』二・四八五頁。 ( )38 ( )39 ( )40 ( )41 ( )42

(28)

かびぬれ ば」という記述があるように、本願を慈悲が修飾 する例も見出られる。   しかしこれもA説と同じ理由で、妥当ではないと思われ る。親鸞が直接、慈悲や智慧という表現を使っていない以 上、まずは別の言葉に置き換えずに「弘誓」と「光明」の 意味を考える必要があるだろう。   最後にC説だが、これは「真仏土巻」冒頭の、 謹んで眞佛土を按ずれば、佛は則ち是、不可思議光如 來なり。土はまた是、無量光明土なり。然れば則ち、 大悲の誓願に酬報するが故に、眞の報佛土と曰うなり。 (『翻刻篇』三九一頁) という表現や、 『唯信鈔文意』の、 誓願の業因にむくひたまへるゆへに、報身如来とまふ すなり。報とまふすは、たねにむくひたるなり。この 報身より応・化等の無量無数の身をあらはして、微塵 世界に無碍の智慧光をはなたしめたまふゆへに、尽十 方無碍光仏とまふすひかりにて、かたちもましまさず、 いろもましまさず、無明の闇をはらひ、悪業にさえら れず、このゆへに、無碍光とまふすなり。 (『浄聖全』二・七〇二―七〇三頁) と い う 記 述 に 合 致 す る も の で あ る。 そ の た め、 「難 思 の 弘 誓」と「無礙の光明」との関係を因果として見ることは、 十分に可能である。三説の中で最も妥当なのは、このC説 であろう。   親 鸞 は「弘 誓」 に つ い て、 『唯 信 鈔 文 意』 の 中 で 次 の よ うに述べている。 「弘」 は ひ ろ し と い ふ、 ひ ろ ま る と い ふ。 「誓」 は ち かひといふなり。法蔵比丘、超世無上のちかひをおこ して、ひろくひろめたまふとまふすなり。超世は、よ の仏の御ちかひにすぐれたまへりとなり。超はこえた り と い ふ は、 う え な し と ま ふ す な り。 (中 略) す べ て、 よきひとあしきひと、たふときひといやしきひとを、 無碍光仏の御ちかひには、きらはずえらばれず、これ ( )43

(29)

をみちびきたまふをさきとし、むねとするなり。 (中略引用者『浄聖全』二・六九三―六九七頁)   このように「弘誓」は、法蔵菩薩が「ひろくひろめたま ふ」たものであり、諸仏の「御ちかひ」よりも勝れた「無 上」の誓願であるとされる。それはあらゆる衆生の、平等 な済度を誓ったものだからである。   ま た「光 明」 に つ い て は「真 仏 土 巻」 に、 『大 阿 弥 陀 経』から以下のような記述が引用されている。 阿彌陀佛の光明は殊好なること、日月の明よりも勝れ たること百千億萬倍なり。諸佛の光明の中の極明なり。 光明の中の極好なり。光明の中の極雄傑なり。光明の 中の快善なり。諸佛の中の王なり。光明の中の極尊な り。光明の中の最明無極なり。諸の無數天下の幽冥の 處を炎照するに、皆常に大明なり。諸有の人民、蜎飛 蠕動の類、阿彌陀佛の光明を見ざること莫きなり。 (『翻刻編』三九八―三九九頁)   このように阿弥陀仏の光明は、諸仏の光明よりも勝れた ものであり、その光明を見ることができない衆生はいない とされている。   以上の記述を踏まえるのであれば、親鸞が「総序」の冒 頭 に お い て「弘 誓」 「光 明」 と い う 言 葉 を 用 い た の は、 一 切衆生に「難度海」を渡らせ、一切衆生の「無明の闇」を 破るはたらきが、すでに成就していることを端的に示すた めであろう。   しかも阿弥陀仏による救済は、段階的に衆生に実現する ものではない。 『一念多念文意』に、 仏の大願業力のふねに乗じぬれば、生死の大海をよこ さまにこえて、真実報土のきしにつくなり。 (『浄聖全』二・六六四頁) 『翻刻篇』一一〇頁。 ( )43

(30)

とあるように、衆生を速やかに「真実報土のきし」へと運 ぶものである。   すなわち親鸞は、一切衆生に速やかに救済を実現する法 を「竊 以」 す る と こ ろ か ら、 『教 行 信 証』 の 論 述 を 始 め て いると言えるだろう。

参照

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