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イグナティオスによるἀντίψυχον の特徴的用法と 殉教思想に関する一考察

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(1)

イグナティオスによる

ἀντίψυχον

の特徴的用法と

殉教思想に関する一考察

浅 野 淳 博

Ignatius and the Maccabean Martyrological Influence on His Letters

A. Asano

Abstract

The paper discusses whether and how the martyrological ideology found in the Sec-ond and the Fourth Maccabees influenced Ignatius’ self-understanding as a martyr-to-be and his theology of martyrdom in general. It has been suggested that on the basis on the Maccabean ideology Ignatius reflected salvific value in the substitutionary death of mar-tyrs as he referred to his destiny that awaited in Rome. However, a close examination of his use of terms that refer to his death betray this traditional understanding and supports the view that Ignatius carefully distanced himself from the substitutionary assumption found in the Maccabean literature. Ignatius instead took care to follow the early church’s tradition to preserve the salvific significance for the one-time event of Christ’s death on the cross.

(2)

導   入

本論文では、イグナティオス書簡群の殉教理解がいかなる伝承を反映してい るか(そしていかに反映しているか)、とくに

ἀντίψυχον

という特徴的な語の用 法に注目しつつ論考する(1)。ローマでの殉教を意識しつつ語るイグナティオスの 殉教理解は従来、〈殉教者尊崇が盛んなアンティオキアで発展した思想を反映し ており、それはパウロの神学的伝統というよりも、むしろ II マカの思想を継承 し、アンティオキアで行われた殉教者記念説教に起源を置く IV マカ(2)に見られ る英雄死的思想の影響を受けている〉と考えられてきた(3)。この解釈の諸側面 に修正が加えられてきたものの(4)、その大枠は多くの解釈者によって支持され 続けている。その傾向が顕著に見られる一例として、IV マカ 6:29, 17:21 と『イ グ・エフェ』21:1、『イグ・スミュ』10:2、『イグ・ポリュ』2:3, 6:1 が共通して用 いる

ἀντίψυχον

の、イグナティオス書簡群における訳語が挙げられよう(5)。と くに Holmes 訳では『イグ・エフェ』21:1 以外が ransom(身代金/贖い)と、 Lindemann/Paulsen 訳ではすべてが同意の Lösegeld と訳されており、IV マカ の殉教思想に反映されている代表/代理的*救済死の影響を配慮していることが うかがえる(6) 本論考は、とくに IV マカ 6:28-29, 17:21-22 に見られる所謂「マカバイ殉教 思想」がイグナティオスに反映されているか、という影響史的問題を見据えつ つ(7)、その議論を方向づける重要な要素の 1 つと思われる

ἀντίψυχον

の用法に焦 点を置く。以下では、第 1 にマカバイ殉教思想を概観しつつ、そこに代表的救済 (贖罪)という理解があることを確認し、これに続いてイグナティオス書簡群に おけるこの代表性の欠如を指摘する。論考の後半では、書簡群の全体的な印象と イグナティオスによる

ἀντίψυχον

の用法とが符合するかどうかを、後 6 世紀辺 りまでのギリシャ語文献における当該語の用例と比較しつつ論考を進める。結び として、マカバイ諸書とイグナティオス書簡群とにおける殉教死の救済的意義の 差異を、初代教会における神学形成を念頭に置きつつ要約する。

(3)

A. 〈マカバイ殉教思想〉における殉教死の意義

〈マカバイ諸書〉という表現で本論考が直接考察するのは、II マカと IV マカ である(8)。前者はセレウコス王朝とくにアンティオコス 4 世への抵抗 運動を 1 章から 15 章にわたって記す過程で、6:18-7:41 のみを律法学者エレアザ ルとある母子の殉教物語に費やしている(9)。IV マカは、理知と感情との関係性 (1:1)という哲学的議論の体裁をとりつつ、これら 2 組の殉教物語を 5 章から 18 章にわたって敷衍して伝える。〈なぜ神の民が苦しむか、敬虔な殉教者の死の意 義は何か〉という主題が、抵抗運動に関する 200 年にわたる社会記憶形成過程を 経て思想的な展開を呈している(10) 他者の安寧のためにその災いを代表として引き受けるという救済の仕組みは古 代地中海世界に広く見られる。それは英雄死、神殿供儀、追放儀礼等として体 験され、またこれらのメタファがしばしば混交する仕方で記憶された(11)。した がって、神に誠実な同胞の殉教死を記憶するユダヤ人のあいだでも、その英雄 的姿勢のうちに神の民の解放の可能性を見出し、無名の母の末子に「……主は 戒めと訓育のためしばらく怒りを向けられるが、ご自身の僕らとまた和解され る」(II マカ 7:32-33. 7:37-38 参照)と言わしめる。彼らの死の直後に「主の怒り は慈しみへと変わり」(II マカ 8:5)、ユダ・マカベア率いる抵抗軍は優勢に転じ る。それはあたかも、セレウコス朝に与する祭司たちによって停止された神殿で の犠牲を(4:14, 10:5, 7 参照)殉教者らの死が引き受けたかのようだ(12)。殉教者 の死と神の救済との関係は IV マカにおいてさらに鮮明化し、エレアザルに「彼 らのための私たちの罰で満足し……私の血を彼らの浄めとなし、私の命を彼らの

ἀντίψυχον

として受け取って下さい」(6:28-29a)と言わしめ、さらに母子の殉教 の結論部は「〔殉教者らは〕民の罪の

ἀντίψυχον

のようになって祖国を浄め、敬 虔な者の血と彼らの死という贖いの座(

ἱλαστηρίου

)をとおし、神意はこれまで 虐待されてきたイスラエルを救われた」(IV マカ 17:21-22)と記す(13) マカバイ抵抗運動の記憶が II マカから IV マカへと継承される過程で、戦闘場

(4)

面は完全に排除され、焦点は信仰者の精神的勝利へと限定された。そして、命 を賭して追求される神への誠実さや律法/宗教への熱心が栄光化される(IV マ カ 1:9, 6:9, 7:16; 8:28, 9:29, 13:1, 9, 14:1, 11, 16:2. とくに 10:15:「我が兄弟らの幸 いなる死」参照)。誠実な者らの栄光の死がもたらす効果が、祖国あるいは民 全体の罪の穢れの浄めであり、神の究極的な救出である。殉教者の命は民の命 の

ἀντίψυχον

―つまり代表死―となり、〈死と血による罪の浄め〉あるいは

ἱλαστήριον

という神殿供儀を連想させる描写と併用されていることから、これ はおおよそ適切に「贖い(NRSV: atoning sacrifice)」と訳されてきた。

Ἀντίψυχον

という語がユダヤ教文献に登場するのは IV マカが最初で、LXX に その用例はない。新約聖書にもこの語は見られず、Henten(14)が IV マカ 17:21-22 の思想を反映していると判断するパウロ(ロマ 3:24-25)もその贖罪論にこれ を用いない。もっともこの語は後 2 世紀に起源する造語というのでなく、メン デスのボルス(

Περὶ συμπαθειῶν καὶ ἀντιπαθειῶν

)が前 2 世紀にすでに用いて いる。したがって、イグナティオスが後 110 年頃(エウセビオス『年代記』(15) ローマでの殉教を予期しつつその道程において執筆した書簡群に、マカバイ殉 教者の代表的贖罪意義を印象付ける

ἀντίψυχον

という語が用いられていること は多くの研究者らの関心を集め、両者の直接的な関係性が推論されてきた(註 #3)。

B. イグナティオスによる殉教理解の概要

シリア教会監督のイグナティオスがローマへ連行される道すがら配信した書簡 群には、誤った教えへの警告や教会の調和勧告という主題が一貫して見られる一 方で、彼自身に迫る処刑への言及が特徴的に陰を落としている。自らの死への異 常な憧憬(『イグ・ロマ』4:1-2)や死の回避が結果的に意味する棄教の不安(7:2) は、『ポリュカルポス殉教物語』において美化されたポリュカルポスによる静穏 な運命の受容と比較すると、読者にその現実味が伝わる(16) イグナティオスの殉教に関する特徴的な姿勢を概観すると(

ἀντίψυχον

の用法

(5)

分析は後述)、とくに殉教の効果が個人的なこと、それと関連して、殉教死が自 らのキリストへの誠実さを証明する一形態であることが挙げられる。イグナティ オスはその死の結果として、キリストの真の弟子となることを期待し(『イグ・ エフェ』1:2, 3:1、『イグ・ロマ』4:2)、復活に至ることを望み(『イグ・エフェ』 11:2)、キリストへの誠実さが証明される(『イグ・ロマ』3:2)ことに希望を置 く(17)。これらはいずれも、イグナティオスの死が彼自身にもたらす効果であり、 それが他者へ救済的恩恵をもたらすという理解を示していない(18)。これらの個 人的効果は、殉教死が迫害下におけるキリストへの誠実さの結果であること、そ の誠実さが神に受容されることを教える。したがってイグナティオスの読者に対 する奨励は殉教死でなく、謙遜や祈りや人道的振る舞いによって示されるキリス ト者としての誠実な生き方であり、これを受難のキリストに倣う生き方だと教え る(『イグ・エフェ』10:2-3, 14:2)。それゆえ、現在の誠実なキリスト者としての 生き方が十字架の生き方である(『イグ・スミュ』1:1. 『イグ・マグ』5:2、『イグ・ トラ』1:2 参照)。殉教死が誠実さの証しであるとは、受刑者イグナティオスに当 てはまることだが、それは神への誠実さを示す一形態に過ぎない。イグナティオ スが「私の意志で神のために死ぬ」(『イグ・ロマ』4:1)と述べる場合も、その 意志はローマ教会が彼を救出する意志と対比されており、それは殉教志願を促す 教えでない。 このようにキリスト者の殉教死の意義を個人的および相対的に理解する一方 で、イグナティオスがキリストの死に関してその代表性と独自性/一回性とを強 調する姿勢は印象的だ。キリストは「私たちのために死に……その死を信頼す ることであなた方が死を免れる」(『イグ・トラ』2:1. 『イグ・スミュ』1:2 参照)。 復活したキリストへの信頼によって「私たちをも甦らされる」(『イグ・トラ』 9:2)。さらにイグナティオスは、自らの死の個人的意義と対比しつつ、キリス トは「私たちの代わりとして死に……私たちのために甦られた」(『イグ・ロマ』 6:1)と説明する。『イグ・ロマ』6:1 では「あの方を追求し……あの方を切望し」 と指示代名詞の反復構造によって、キリストの死と復活とが特別の事態である様 子を強調する。

(6)

これらの言説からは、II マカに始まり IV マカにおいて深化した殉教死の代 表的救済意義を、イグナティオスが殉教者となるべき自ら(あるいは殉教者一 般)に適用したとは考えがたい(19)。むしろ彼の運命はキリストへの誠実さを証 言する機会であり、キリストの死の一回性の代表的救済の出来事と明らかに区別 されている。それにもかかわらず、〈イグナティオスがマカバイ殉教思想におけ る殉教死の意義を継承し、その代表性を自らに当てはめた〉との前提が根強く 影響し続けるのは、IV マカが代表的贖罪を語る際に用いる

ἀντίψυχον

をイグナ ティオスも用いているという事情が関わっているようだ。したがって以下では、

ἀντίψυχον

の用法を非ユダヤ教・非キリスト教文献、イグナティオス以降の初期 キリスト教文献、そしてイグナティオス書簡群から考察しよう。

C. 

Ἀντίψυχον

の用法分析

この項では、

ἀντίψυχον

とその同根語を Thesaurus Linguae Graecae(20)に頼

りつつ、後 6 世紀に至る用例(約 50 件)に限定して分析を進める(21)。既述のと おり、イグナティオスは

ἀντίψυχον

を 4 度用いている(C.3 参照)。イグナティ オスの用例を考察するためには、これら以外に執筆年代が 4 世紀(後半)と推定 される(22)イグナティオス長テクストにおける 11 件(23)をも視野に置く必要があ ろう。イグナティオス以前には既述のメンデスのボルス(前 3-2 世紀)の 1 件が 確認され、同時代には IV マカ 6:29, 17:21 のみがある。非ユダヤ教・非キリスト 教文献にはボルス以外にルキアノス『レクシパーネス』(2 世紀)とディオン・ カッシオス『ローマ史』(2-3 世紀)の各 1 件がある。イグナティオス以降の初 期キリスト教文献には計 28 件見られ、ほとんどはエウセビオス(17 件)とアタ ナシウス(3 件)とヨアンネス・クリュソストモス(3 件)に集中している。こ れら文献では、その使用が救済論的論述にほぼ限られている。

1. 非ユダヤ教・非キリスト教文献

数少ない非ユダヤ教・非キリスト教文献における用法は以下のとおりである。

(7)

ボルスは動物の奇行を列挙しつつ、鷲がひな鳥の

ἀντίψυχον

として置いた石を 早朝に巣から落とす様子を記す(

Περὶ συμπαθειῶν καὶ ἀντιπαθειῶν

, 2:2)。ル キアノスは、恐れおののく男が拘束からの解放のために

ἀντίψυχα

の金(保釈 金)の支払いを願い出る様子を語る(『レクシパーネス』10)。そしてディオン・ カッシオスは、ティベリウス帝の蘇生のために死を望む

ἀντίψυχοί

として振る 舞って儲けを期待する輩に言及する(『ローマ史』59.8.3)。これらの用例からは、

ἀντίψυχον

が他者あるいは自らの状況好転を期待して差し出されるものを指すこ とが分かるが、差し出されるものは当事者の命に限定されない。ディオン・カッ シオスの例に見られる何らかの魔術的厄除け(apotropaion)が IV マカの贖罪 的なニュアンスを連想させるとしても、これが

ἀντίψυχον

の唯一の用法ではな い(24)

2. 初期キリスト教文献

a. キリストの死を指す

ἀντίψυχον

初期キリスト教文献における用例のもっとも顕著な特徴は、イグナティオス 以降

ἀντίψυχον

がキリストの死の救済的意義を論ずる文脈でほぼ限定的に用い られている点だ。エウセビオス著『福音の論証』第 1 巻(「イスラエル宗教の供 儀」)の焦点は、イスラエルの命の代わりとなる犠牲獣の血(に象徴される命) が、全世界の浄めのために到来する神の子羊なるキリストの血により取って代 わられるという救済史的主題であり、その際に他者の命の代わりとなる命とい う意味で

ἀντίψυχον

が用いられる(1.10.14, 18, 21)。さらに同著第 10 巻(「犠 牲としてのキリスト」)では、キリストの死の救済意義に関すると見受けられ る聖書テクスト(ガラ 3:13, II コリ 5:21, ヨハ 1:29. イザ 53:5 も)が直接引用さ れ、そこに示唆あるいは明示されるキリストの救済死が

ἀντίψυχον

と言い換 えられる(10.1.20, 23)。同主題を解説する同じ文脈では、この語が

λύτρον

あ るいは

ἀντίλυτρον

の同義語として併記される(10.8.33, 35)(『神の顕現につい て』断片 9 (19)、『イザヤ註解』2.42 でも同様)。『福音の問題と解決』では、イ ザヤ 53 章の受難の僕を神の子羊なるキリストと対比し、後者の死を「人類の

(8)

命の

ἀντίψυχον

」(22.p920)とし、これを「我々すべてのための浄め(

καθάρ-σιον

)」(22.p938)と言い換える。『詩編註解』でもキリストの死は「彼らの浄め (

καθαρμὸς

)」であると同時に「彼らの罪ゆえの

ἀντίψυχον

」(23.p756)である。 キリストによる救済はおもに浄めと贖いとして述べられるが、いずれにせよその 死は全世界や共同体に救済をもたらす代表的な死という意味で

ἀντίψυχον

と言 い換えられていることが分かる。 アタナシウスの用例も上の理解を踏襲し、『ロゴスの受肉』9.2(『アンティオ ケイアへの教書(信仰に関する主要説教)』断片 7 は内容と表現が同一)におい て、不滅の神の子がその身体という媒体を

ἀντίψυχον

として提示し、その死に おいて人の負債を完済した、と説明する(25)。『ロゴスの受肉』37.7 は、あらゆる 者の命(キリスト)が救いのための羊のようにその身体を

ἀντίψυχον

として死 へと引き渡した、と述べる。さらにプロコピウス著『イザヤ書註解』2524.35 も、 神がその愛する子キリストを世の罪を取り除くため(ヨハ 1:27, 3:16)

ἀντίψυχον

のように引き渡した、と解説する。これらのテクストは一貫して、代表的な救済 意義を持つキリスト(の死)を指す語として

ἀντίψυχον

を用いている。 b. その他の用例 以下では、上(C.2.a)に示した大多数の用例の傾向から外れる少数の用例に 触れよう。エウセビオス著『福音の論証』1.10.7, 11 は、キリストでなくイスラ エル宗教の犠牲獣に対して

ἀντίψυχον

を用いる。さらに『神の顕現について』 断片 3 の 2 例(125, 132.『コンスタンティヌスへの讃辞』15.11 は内容と表現が これと同一)は英雄死に言及しつつ、これに

ἀντίψυχον

を充てる(『カテナエ』 580.2 参照)。もっともこれらのテクストでは、キリストが

ἀντίψυχον

であるとい う主要な結論(「我々の救済者は……1 回の犠牲であり偉大なる献げ物としての

ἀντίψυχον

」『神の顕現について』断片 3.125)との類例的対比を明示するため、 あえてこれらの獣や人に

ἀντίψυχον

が充てられている。 一方ヨアンネス・クリュソストモスは、報いを期待しかねる善行を勧める文脈 で、医者が運び込まれた患者を追い返さないと同様に、キリスト者も一人の救済

(9)

のために短い人生を用いるべきと教える。すなわち、「しばしば、(我々の善行が もたらす)1 つの命の救いが無数の罪を取り除き、来たるべき日に我々のために

ἀντίψυχον

となり得る。考えてみよ、預言者らが、使徒らが、執事らが、天使ら が何のために遣わされたかを。考えてみよ、神のひとり子ご自身が何のために来 られたかを。それは人々を救うため、失われた者を引き戻すためでないか」(『ユ ダヤ人駁論』48.p941-42)。『講話集』(63.p607)は同じ表現と内容を他の例に よって補強する。「タビタが未亡人らに衣服を着せその貧困を正して死から甦っ たなら、(それは)憐れみを受けた人々の涙が亡くなった命をふたたび体に引き 戻したのだ」。ここでの

ἀντίψυχον

の用法は〈他者あるいは自らの状況好転を期 待して差し出すもの〉という前出の定義に倣っている。その例としてキリストも 用いられるが、自らの命を犠牲にすることに焦点が限定されず、むしろ他者に仕 える生き様が語られている(26)。同様の用例はバルサヌフィウスとヨアンネス著 『書簡』にも見られ、

ἀντίψυχον

が「援助(者)/奉仕(者)」ほどの意味で用い られている。すなわち、「私の言葉や勧めがあなたを傷つけはしないと信じます。 むしろ、あなたが救われようと望むとき、私があらゆる面であなたの

ἀντίψυχον

であることを知って下さい」(462)である。 c. まとめ イグナティオス(長テクストをも含む 15 件)以降 6 世紀に至るキリスト教文 献での

ἀντίψυχον

の用法は以下のように要約できよう。数量的には、

ἀντίψυχον

の用例 24 件中の 20 件までがキリストの死の救済意義を示すために用いられ(17 件はキリスト自身、3 件はその文脈での動物供儀や追放儀礼)、4 件はより一般的 な他者への献身や奉仕という生き様を指す、あるいはそれを連想させる語として 用いられている。キリストの死の救済意義を論ずる文脈において、他者(犠牲 獣 2 件、英雄死 1 件)が、

ἀντίψυχον

なるキリストの類例であることを明示する 目的で

ἀντίψυχον

と表現される場合はあるが、この文脈から独立して人の死に ついて代表的救済意義が

ἀντίψυχον

を介して教えられることはない。ましてや、

ἀντίψυχον

を用いて殉教者を指す例はない。興味深いことに『教会史』3.36.13 で

(10)

エウセビオスがイグナティオスの死に言及する際は、これをキリストの〈我々の ための死〉と明らかな仕方で区別している。 かりにイグナティオスが

ἀντίψυχον

という語を用いつつ殉教者の死に代表的 救済意義があることを教えているとするなら、しばしばイグナティオスに言及す る初期キリスト教文献には(27)、イグナティオスの

ἀντίψυχον

に関するこの重要 な神学的理解の影響を受けた様子が見られない(28)

3. イグナティオス書簡群

イグナティオス書簡群では以下のとおり

ἀντίψυχον

が 4 回用いられている。 ここではイグナティオスの用例の特徴を、4 つの側面に注目しつつ考察しよう。 ◦ 『イグ・エフェ』21:1 ―「私はあなた方―また神の誉れのためにあな た方がスミュルナへ遣わした方々―

ἀντίψυχον

で、主への感謝と、 ポリュカルポス及びあなた方にも愛を抱く者です」 ◦ 『イグ・スミュ』10:2 ―「私の魂と鎖とはあなた方の

ἀντίψυχον

です。 あなた方はこれらを侮蔑しませんでした」 ◦ 『イグ・ポリュ』2:3 ―「神の競技者として目を覚ましていなさい。あな た方がすでに確信しているとおり不滅と永遠の命がその報いです。私と、 あなたが愛した私の鎖とは

ἀντίψυχον

です」 ◦ 『イグ・ポリュ』6:1 ―「監督に気を留めなさい。神があなた方に気を 留められるためです。私は、監督と長老らと執事らにしたがう方々の

ἀντίψυχον

です」 a. 

Ἀντίψυχον

が用いられる文脈 『イグ・エフェ』21:1 は最終章(「最後のあいさつ」)の冒頭にあたる。直前で はキリスト論に関する彼の論考を次回の手紙で書き送ることを希望しており、そ れは救いを保証する教会の一致に繋がる。直後でイグナティオスは、神の栄光の ためにローマに向かうと記す。『イグ・スミュ』10.2 の文脈では、イグナティオ

(11)

スの追従者でありアンティオキア教会の執事であるフィロンとアガソポスへの歓 待に対する感謝がスミュルナ教会へ述べられ、イグナティオスの状況を恥じない 教会への感謝が続く。『イグ・ポリュ』2:3 は、牧会の苦難に直面するスミュルナ 教会監督ポリュカルポスをイグナティオスが励ますという文脈に置かれている。 『イグ・ポリュ』6:1 は、スミュルナ教会が教会指導者にしたがい、教会の一致を 達成するように奨励するという文脈に置かれ、そこに表される誠実さが救いの保 証だとされる。 4 つの用例が置かれている文脈には、殉教一般の主題もなければ、イグナティ オスの死が何らかの仕方で読者の罪の浄めや贖いに繋がるという直接的な表現 もない。2 つの文脈で救いの保証として示唆されるのは、信徒らの誠実さとその 結果としての教会一致である。目的地ローマへの言及および

ἀντίψυχον

と鎖の 併記から、イグナティオスが殉教の運命を意識していると推察できたにせよ(29) 彼の殉教が何らかの代表的な効果を及ぼすという理解はない。むしろ諸教会は自 らの一致の努力を促され、ポリュカルポスは牧会者としての努力を励まされる。 これはむしろ、イグナティオスが殉教を通して真の弟子となる―あるいは殉教 という結果が証明する誠実さにより真の弟子であることが保証される―という 『イグ・エフェ』1:2, 3:1、『イグ・ロマ』4:2 の思想と繋がる。 b. 長テクストでの

ἀντίψυχον

ἀντίψυχον

を含む中テクスト 4 件と対応する長テクストの箇所では、多少の表 現上の違いがあるにせよ、その内容はほぼ変わらない。その他では、中テクスト が

ἀντίψυχον

を含む定型句で繋辞を一貫して省略しているのに対し、長テクス トでは繋辞の希求法を表出することでイグナティオスの願望を明示する例が 5 件 ある(『マリアへ』3:3、『フィリピ人へ』14:1、『アンティオキア人へ』7:2, 12:1、『ア ンティオキアのヘロナへ』9:3)。 特記すべきは、イグナティオスが

ἀντίψυχον

となるべき対象についてである。 『マリアへ』3 章ではキリストを深く愛しキリスト自身の寵愛を受けるマリアが、 『ヘロナへ』9 章では尊敬され敬虔さの模範であるマリアが、『フィリピ人へ』14

(12)

章では「聖なる」教会指導者らが、『アンティオキア人へ』12 章ではイグナティ オスがもっとも慕い求める名(キリスト)が(30)、それぞれ

ἀντίψυχον

の対象と なる。もしこれらの用例に代表的救済意義があるなら、それは II マカ 6 章で神 からの戒めと訓育を受けるべき不従順な民の代りとなった殉教者、IV マカ 17 章 でこれらの殉教者が罪で汚れた民と土地との代わりに

ἀντίψυχον

となるという、 〈不従順で汚れたものの代わりの

ἀντίψυχον

〉という用法から乖離している。ま た C.3.d で後述するが、キリストの死の救済意義を示す語として

ἀντίψυχον

を用 いない点で、長テクストはイグナティオスの真正書簡群の思想を継承している。 c. 定型表現としての

ἀντίψυχον (ὑμῶν ἐγώ)

イグナティオスによる

ἀντίψυχον

の用法のもう 1 つの特徴は、他の著者の 文献において同語が前後の文章と柔軟かつ有機的に連関している一方で(以下 の 3 件を参照)、上記のイグナティオスの 4 件では表現が硬直的で非創造的な

ἀντίψυχον ὑμῶν ἐγώ

の微かな変化形というだけでなく、すべからく前後の文章 との有機的な連関が乏しく、それゆえ神学的な(あるいは論理的な)議論の深ま る様子が見られないことだ。この表現がもっとも相応しく思われるのは、議論を 展開する必要がない最終挨拶の開始部である『イグ・エフェ』21:1 だろう。 ◦ エ ウ セ ビ オ ス『 福 音 の 論 証 』10.8.35 ―「( キ リ ス ト は ) 我 ら の

ἀντίψυχον

および身代金となり、我ら不敬虔な者が味わうべき苦しみを 受けて十字架につけられた」 ◦ アタナシオス『ロゴスの受肉』37.7 ―「この方はすべての者の命、そし てすべての者の救いのための子羊としてご自身の体を

ἀντίψυχον

とし て死へと引き渡された方」 ◦ クリュソストモス『講話集』48.p941 ―「獲得された 1 つの命が無数の 罪の重みを取り除き、かの日に我らの

ἀντίψυχον

となることがしばし ばあり得る」

(13)

その結果、中テクストの 4 件すべての文脈において

ἀντίψυχον

の使用が著しく 唐突な印象を与える。これは Schoedel が「定型句的(formulaic)」と評する所 以であり(31)、読者は本来独立した紋切り型の常套句あるいはその一部が挿入さ れたような印象を受ける。 d. キリストの代表的救済に関する表現 一方でイグナティオスはキリストの死の代表的救済意義を表すために、初代教 会が用いた語句―

λύτρον

(その同根語)と

ὑπέρ

+代名詞(32)を件数は少 ないものの継承している(33) ◦ 『イグ・フィラ』11:1 ―「彼ら(教会指導者)を蔑む者らがイエス・キ リストの恵みによって贖われますように(

λυτρωθείησαν

)」 ◦ 『イグ・ロマ』6:1 ―「私たちのために死なれた方(

τὸν ὑπὲρ ἡμῶν

ἀποθανόντα

)、この方を慕い求めます」 ◦ 『イグ・スミュ』1:2 ―「(キリストは)私たちのためにその肉において 釘付けにされ(

καθηλωμένον

)」 もちろんイグナティオスの救済観がパウロ書簡群に反映される贖罪論あるいは 信仰義認論から乖離する様子は随所に見られるが(34)、贖いや(死/裁きからの) 救出がキリストの死(受難)に依拠しているというキリスト中心の救済観はパ ウロに見られる言語を継承しつつ示されており、これはイグナティオス以降の初 期キリスト教文献においても同様である。一方、既述のとおりイグナティオスは

ἀντίψυχον

を救済論的に用いないが、それ以降この語はキリストの代表的救済意 義が語られる際に

λύτρον

とその同根語の同義語のように扱われた。 したがって、イグナティオスは彼以降の初期キリスト教著作家と同様に、初代 教会がキリストの死の救済意義を教える際に用いた語彙や表現を継承した。イグ ナティオスは

ἀντίψυχον

を自らにのみ用い、これをキリストの死に対して用い ないが、イグナティオス以降のある時点でこれらの語彙に

ἀντίψυχον

が加えら

(14)

れた。 e. まとめ i.

Ἀντίψυχον

の一般的定義:一般的な意味の〈代わり〉―他者あるい は自らの状況好転を視野に入れた提供物―で、それは金品だったり生 き物だったりするが、生き物の場合はかならずしも死が想定されるわけ でない。さらに〈他者の利益に資すること〉というより日常的な意味で、 他者への奉仕やその奉仕者を示唆するために用いられた。 ii. 関連文献での

ἀντίψυχον

用法:宗教的には〈他者のための引き替えと して提供される命〉という限定的な意味で用いられた。したがって IV マカでは殉教者に適用され、イグナティオス以降の初期キリスト教文献 ではキリストの死の救済意義が論じられる文脈でキリストに対しほぼ限 定的に用いられた。 iii. イグナティオス書簡群:

ἀντίψυχον

以外の表現に限ると、イグナティオ ス書簡群に殉教死の代表的救済意義を見出すことができない。イグナテ ィオスが自らを指すためのみに用いる

ἀντίψυχον

の用例が唐突な印象 を与える。 iv. その他:初代教会以降、キリストの死は共通して独自で一回性の救済的 出来事と考えられた。初代教会によるキリストの代表的救済に関する言 語表現は、イグナティオスもそれ以降の文献も継承している。

D. 結語:

Ἀντίψυχον

の継承過程と殉教思想

これらを総合して判断すると、

ἀντίψυχον

という語に依拠してイグナティオス が来るべき殉教死を、マカバイ諸書のように、代表的救済行為と見なしたと結論 づけることは困難である。したがって彼の書簡群で

ἀντίψυχον

に「身代金/贖 い」という訳語を充てることは、たとえ字義訳としても語の一側面を強調し過 ぎるように思われる。むしろイグナティオスはより日常的に、

ἀντίψυχον ὑμῶν

(15)

ἐγώ

を支持/連帯の姿勢を表すために用いており、そのおおよその意味は〈私は あなた方のためにおります〉となろう。ローマへ連行される途上のイグナティオ スは、面識がなく地理的に隔たりがあるキリスト者らとのあいだで、意義深い関 係性を構築し維持することができると考えていたようで(『イグ・エフェ』3:1: 「私は信仰と指導と忠誠と忍耐についてあなた方から指示を受ける(油を注がれ る)必要があります」。『イグ・エフェ』20:1-2 参照)、支持や連帯の意を伝達す ることに意義を見出した。エフェソ教会へはイグナティオスへの支持を感謝しつ つ、同様の思いを抱いて感謝を伝えるため(『イグ・エフェ』21:1)、スミュルナ 教会へは指導者への従順を通した神への誠実さを示すよう促しつつ、その支えと なる意志を伝えるため(『イグ・ポリュ』6:1)、さらにスミュルナ教会の信徒ら と監督とに対して、イグナティオスの神への誠実さを証言する殉教の運命(私 と鎖)が神に対する彼らの誠実な生き方を励ます支えとなることを願って(『イ グ・スミュ』10:2、『イグ・ポリュ』2:3)、「私はあなた方のためにあるのです」 という意をこの表現(

ἀντίψυχον ὑμῶν ἐγώ

)によって伝えたと考えられる(35)

Ἀντίψυχον

に〈他者のために自らの命を差し出す〉というより神学的示唆に 富むニュアンスがあることを知っていただろうイグナティオスは、キリストの死 とイグナティオスの死の意義の混同を回避する意図からか―上記のとおり彼は 実際これらを区別した―、前者には初代教会以来の救済論的言語を継承して用 いつつも、けっして

ἀντίψυχον

を用いなかった。イグナティオス以降の初期キ リスト教著作家は救済論を彼らなりに深める過程において

ἀντίψυχον

をもその 語彙に加え、もっぱらキリストの代表的救済死を示す語として用い始めた。 もっとも、イグナティオスが

ἀντίψυχον

を代表的救済を指す語として用いな いことは、彼がマカバイ殉教思想の影響を受けていないとの結論に直結しない。 イグナティオスに先行する初代教会の思想に反映されるキリストの死の代表的救 済観は―それがシリアに起源しようが(36)、より初期のパレスチナに起源しよ うが(37)、殉教者の代表的救済意義を神殿供儀(とくに贖罪日)の言語で印 象的に表現したマカバイ諸書の影響―メタファとしてか類型としてか―を受 けていると考えられよう(38)。もっとも初代教会は、これをキリストの死におけ

(16)

る独自で一回性の出来事と見なすことで(ロマ 6:10, ヘブ 7:27, 9:25-26 参照)、そ の理不尽な死をかえって神の意志の内に位置づけた(39)。さらに、ピネハスに関 する記憶(民 25:1-18)とともにマカバイ諸書(I マカ 2:54, IV マカ 18:12)が継 承した「律法への熱心」という標語をもっぱら否定的で暴力的な意味で用いる パウロは(ガラ 1:12-14, フィリ 3:6)(40)、キリストの死の救済効果が及ぶ対象に 「敵」をも含め(ロマ 5:10)(41)、この英雄(/殉教者)の独自性を際立たせたよ うだ(42)。代表的救済効果をキリストの死に集中させた教会は、信徒に対しては むしろ愛他精神(マタ 5:43-48// ルカ 6:27-36、ロマ 13:9、ガラ 5:14)に集約さ れるキリストの生き様を模範し、その証言者(

μάρτυς

)となることを求めたの で(II コリ 4:6-17)―極限状態でそれが死を意味したとしても―(43)、2 世紀 の殉教譚でさえキリスト者の殉教志願を「福音はそのように教えない」(『ポリュ 殉』4 章)とする。 この意味で初代教会は、代表的救済価値をキリストに集中させるという仕 方でマカバイ諸書に反映される殉教理解を受容した。そしてイグナティオスは

ἀντίψυχον

をキリストでなく自らに限定して用いることで、初代教会がマカバイ 殉教思想を受容するその仕方を受け継ぎ(44)、それ以降の初期キリスト教著作家

ἀντίψυχον

をむしろキリストの死にほぼ限定することでやはりこれを継承し たと、考えられる。

(17)

(1) Justin Buol, Martyred for the Church (Mohr, 2018), ch.5 参照。

(2) A. Dupont-Sommer, Le quatrième livre des Macchabées (H. Champion, 1939), 67–75.

(3) E. Lose, Märtyrer und Gottesknecht (Vandenhoeck, 2. Aufl., 1963), 208; W.H.C. Frend, Martyrdom and Persecution in the Early Churc (Blackwell, 1965), ch.7; Heinrich Rathke, Ignatius von Antiochien und die Paulsbriefe (Akademie-Verlag, 1967), 73–75; N. Brox, Zeuge und Märtyrer (Kösel-Verlag, 1961), 221–22.

(4) 近年の研究としては以下がとくに重要となる。Jan Willem van Henten (The Mac-cabean Martyrs as Saviours of the Jewish People [Brill, 1997]) は特徴的な殉教思想 が発展した場所に関して異なる理解を示す。邦文における代表的な研究書としては 佐藤吉昭(『キリスト教における殉教研究』創文社、2004 年)がある。

(5) イグナティオス書簡群の翻訳が一般に依拠する校訂本(中テクスト)におけるこ れら 4 件以外に、長テクストには 11 件の用例がある(後述)。W.R. Schoedel, Ig-natius of Antioch (Fortress, 1985), 3–7 参照。

(6) M.W. Holmes (ed.), The Apostolic Fathers (Baker, 3rd edn, 2007); A. Lindemann u. H. Paulsen (hrsg.), Die Apostolischen Väter (Mohr, 1992). Ehrman 訳(LCL, 2003, vol.1)の‘in exchange for…’(〜の代わりに)、講談社訳(1998 年)の「身代金」 (『イグ・エフェ』21:1)と「献げ物」(その他)も参照。B.D. Ehrman (ed.), The Apostolic Fathers (1/2 vols; HUP, 2003); 荒井献編『使徒教父文書』講談社、1998 年(イグナティオス書簡群の翻訳担当は八木誠一)。*本論考では代表と代理の際 について述べないが、以下では「代表」と表現する。

(7) Othmar Perler, ‘Das vierte Makkabäerbuch, Ignatius von Antiochien und die äl-testen Märtyrerberichte’, Rivista di Archeologia Cristiana XXV [1949], 47–72 参照。 (8) かりに「188 年目の年」(II マカ 1:9)をセレウコス朝の開始時期(前 331 年)と

するなら、II マカの執筆は前 124-23 年頃となろう。IV マカは神殿の重要性が後退 していること等の理由から、近年では後 100 年頃の執筆という推定が広く支持さ れており、これはイグナティオス書簡群の執筆時期と重なる。Henten, The Mac-cabean Martyrs, 50–53, 73–77; G.W.E. Nickelsburg, Jewish Literature between the Bible and the Mishnah (Fortress, 1981), 114–21 参照。E.J. Bickermann (‘The Date of Fourth Maccabees’, in Louis Ginzberg Jubilee Volume [American Academy for Jewish Research, 1945], 105–112 [ とくに 108]) は、II マカ 3:5, 4:4 ではアポロニオス がコレイ・シリアとフェニキア総督であるところが IV マカ 4:2 ではシリア、フェ ニキア、キリキアと変更されていることから、キリキアがシリアに併合されていた 後 18-54 年のあいだに IV マカが執筆されたと想定する。J.J. Williams, Maccabean Martyr Traditions in Paul’s Theology of Atonement (Wipf&Stock, 2010), 29–33

(18)

も参照。日本聖書学研究所編(『聖書外典偽典 3:旧約偽典 I』教文館、1975 年、 93-94 頁)はこの後者の執筆年代に倣う(マカバイ記〔/マカベア書〕の翻訳担当 は土岐健治)(94 頁 9 行の「本書 49」は「本書 42」の誤りと思われる。

(9) 長老ラジスの死(II マカ 14:37-46)に関しては、Ulrich Kellermann, ‘Zum tradi-tionsgeschichtlichen Problem des stellvertretenden Sühnetodes in 2 Makk 7,37f’, Biblische Notizen 13 (1980), 77–79 を見よ。

(10) 本論考で「栄光化(glorification)」や「忘却(amnesia)」なる表現が用いられ る場合、それは社会的記憶理論の概念を参考にしている。Matteo Dian, Contested Memories in Chinese and Japanese Foreign Policy (Elsevier), 2017, 24–25. この記憶 継承のパターンに関しては、浅野淳博「マカバイ殉教者を記憶する初代教会の思 想」『アジア・キリスト教・多元性』17 (2019), 3-10 頁参照。 (11) 例えば英雄死は、リュクルゴス『レオクラテス弾劾』1.84-87、リウィウス『ロー マ建国史』7.7, 8.8、プルタルコス『モラリア』297 B-C、『I クレメンス』55:1、エ ウセビオス『神の顕現について』断片 3;追放儀礼は、アリストファネス『騎士』 1135-40、ストラボン『地誌』10.2.9、フィロストラトス『アポロニウス』4.10;犠 牲はレビ記 16 章を見よ。M. Hengel, The Atonement (SCM, 1981), 1–32 参照。 (12) Kellermann, ‘Zum traditionsgeschichtlichen Problem’, 79.

(13) 日本聖書学研究所編訳(『聖書外典偽典 3』、115 / 137 頁)では、「われわれの 同胞のためのわれわれの義をよみしたもうて、あなたの民を憐れんで下さい。わ たしの血を彼らのための浄めの供え物となし、わたしの魂を彼らのための贖い (ἀντίψυχον)としてお受け下さい」(IV マカ 6:28-29)/「彼らが同胞の罪の贖い (ἀντίψυχον)となることによって祖国が清められる……。敬虔な彼らの血と、彼 らの死のなだめをとおして、神の摂理は苦しめ悩まされたイスラエルを救いだし ……」(17:21-22)。

(14) Jan Willem van Henten, ‘The Tradition-Historical Background of Rom 3.25’, in De Boer (ed.), From Jesus to John (JSOT Press, 1993), 101–28. Finlan, The Back-ground and Content of Paul’s Cultic Atonement Metaphors (SBL, 2004), ch.5 参照。 (15) J.B. Lightfoot, The Apostolic Fathers (Part 2, 2/3 vol.; Hendrickson, 1989 [ 初版 は 1889–90]), 449 でのエウスビオス『年代記』の議論を参照。イグナティオスがト ラヤヌス治世の中半辺りに処刑されたとするエウセビオスの報告を信頼するなら、 それに先行するスミュルナでの書簡群の執筆は後 110 年頃となろうか。Holmes, The Apostolic Fathers, 170; 荒井編『使徒教父文書』、465 頁参照。

(16) Holmes (The Apostolic Fathers, 169) は、その心理をパウロやマタイ(が描写す るイエス)のそれと重ねる。もっとも『ポリュ殉』5:2, 14:2 には、イエスのゲッセ マネでの苦悩を連想させる表現が見られる。

(17) 青野太潮(『最初期キリスト教思想の軌跡』新教出版社、2013 年)は、イグナ ティオスにとっての殉教死は救いを可能にする業でないにせよ、救いに達する

(19)

「時」とする(609, 627 頁)。青野氏が指摘するイグナティオスの行為義認主義的傾 向は、イグナティオスが殉教死の代表的救済意義でなくその個人的意義を述べてい ることとも関係するように思われる。

(18) Frend (Martyrdom and Persectution) の要約と著者の解釈とがときとして交叉す るが、佐藤自身(『キリスト教における殉教研究』、275 頁)は個人の救済への限定 に傾いているようだ。

(19) 『イグ・ロマ』6:1 がキリストの死の独自性と一回性とを強調する様子は、イグナ ティオスがキリスト者の殉教死をこれと並列的にとらえて「代表的犠牲」と見なし たという Brox (Zeuge und Märtyrer, 117) の見解を支持しない。殉教者の「代表的 犠牲」を支持するために Brox が用いる『イグ・エフェ』21:1、『イグ・ロマ』2:2, 4:1、『イグ・スミュ』10:2、『イグ・ポリュ』2:3, 6:1 はいずれもἀντίψυχονを代表 的救済を指す語として解釈しないかぎり代表的犠牲を教えていない。 (20) 以下で分析する一次文献の出典箇所は TLG での表記に準拠するので、詳細は TLG を参照。 (21) これ以降では使用件数が稀であること、またヘシュキオス『レキシコン』(5-6 世紀)の定義がある程度の方向性を固定したことが考えられるからである。動詞表 現には分析価値がない。

(22) Lightfoot, The Apostolic Father (II, 1/3 vol.; Hendrickson, 1989), ch.4: 273 参照。 (23) 『マリアへ』3:3、『タルソス人へ』8:2、『フィリピ人へ』14:1、『スミュルナ人へ』 10:3、『ポリュカルポスへ』2:3, 6:1、『アンティオキア人へ』7:2, 12:1、『アンティオ キアのヘロナヘ』1:3, 9:3、『エフェソ人へ』21:1。このうち『ポリュカルポスへ』6:1 と『エフェソ人へ』21:1 は真正書簡の『イグ・ポリュ』6:1 と『イグ・エフェ』21:1 とほぼ同じ。 (24) したがって、ルキアノスの出典をも挙げて「誰かの命を守るため代わりとして差 し出される何か」とする BDAG(p.91)の説明は狭義に過ぎ、またルキアノスの用 例を反映していない点で、読者に誤解を与える。 (25) キュロスのテオドレトス『物乞い』237.25 と『カテナエ』414 はアタナシウス『ロ ゴスの受難』9.2 に依拠している。 (26) もっとも、前者では救済的な善行が本人を助け、後者では救済的な善行への感謝 が救済者を助ける、という論理だ。 (27) 分析価値の有無に関する判断で幅があるが、TLG によると 100-150 件でイグナ ティオスへの言及が見られる。 (28) アンティオコス・モナコス著『聖典総覧』124 とダマスコのヨアンネス著『サク ラ・パラレラ』96.p521 はイグナティオスに言及しつつ『イグ・ポリュ』6:1 を引用 するが、両著者の関心は教会組織でありἀντίψυχονの意義は議論しない。

(29) Lightfoot (The Apostolic Father, II.2.p88) はここに殉教への示唆がないとする。

(20)

該箇所全体としては殉教を読者に連想させるだろう。

(30) この箇所では「キリストに到達するとき」が「ἀντίψυχονとなりますように」の 関係代名詞の先行詞としてもっとも近くにあり、おそらくἀντίψυχονの対象はキ リストだと考えられる。

(31) Schoedel, Ignatius, 99. T.Y. Mullins, ‘Formulas in New Testament’, JBL 91.3 (1972), 380–90 参照。

(32) V.H. Neufeld, The Earliest Christian Confessions (Eerdmans, 1963), 42–68; W. Kramer, Christ, Lord, Son of God (Allenson, 1966), 19–44.

(33) イグナティオスは代表的救済死の表現としてδιά+代名詞をも用いる。『イグ・ トラ』2:1 ―「彼の死を信じる者らが死ぬことから免れるために私たちゆえに(δι᾽ ἡμᾶς)死なれた方」/『イグ・スミュ』2:1 ―「彼は私たちが救われるため、これ らすべてを私たちゆえに(δι᾽ ἡμᾶς)苦しまれた」(II コリ 8:9 参照)。さらに「キ リストの血」をも見よ(『イグ・スミュ』6:1 ―「キリストの血(τὸ αἷμα Χριστοῦ) に信頼を置かないなら、それらの者には裁きがある」、エフェ 2:13, ヘブ 9:14 参 照)。使徒教父文書全体でも、λυτρ-関係語はキリストの死の救済意義を教える語 として頻繁に見られる(λυτρόω ―『I クレ』59:4、『II クレ』17:4、『バル』14:5, 6, 7, 8, 19:2. λύτρον ―『ディオ』9:2. λύτρωσις ―『I クレ』12:7、『ディダ』4:6)。『I クレ』 55:2、『バル』19:10、『ヘル』38:10 は人の行為が他者へ解放をもたらすという文脈 でこれらの語を用いる。 (34) B:「イグナティオスによる殉教理解の概要」で扱った箇所を見よ。イグナティ オスによるパウロ神学の受容とそれからの乖離に関しては、青野『最初期キリスト 教思想の軌跡』第 4 部 1(604-42 頁)を見よ。青野氏は『イグ・ロマ』5:1 がパウ ロの義認論を前提としたイグナティオスの言説である可能性を指摘する。 (35) 「私はあなた方のためにおり……」(『イグ・エフェ』21:1)、「私の魂と鎖とはあ なた方のためにあり……」(『イグ・スミュ』10:2)、「私と、あなたが愛した鎖とは あなたのためにあります」(『イグ・ポリュ』2:3)、「私は、監督と長老らと執事ら にしたがう方々のためにおります」(6:1)などとなろう。

(36) J.D.G. Dunn, Beginning from Jerusalem (Eerdmans, 2009), 237, 313–14. Henten (The Maccabean Martyrs, 79 n.95) は、墓碑表示の様式が小アジア的なことと、ア ンティオキアでの殉教者尊崇の証拠は後 4 世紀以前にないことから、IV マカの執 筆場所としてアンティオキアを支持しない。

(37) Marinus de Jonge, Christology in Context (The Westminster, 1988), 181. (38) Stephen Finlan, Problems with Atonement (Liturgical Press, 2005), 55–56 参照。 (39) J.B. Green, The Death of Jesus (Mohr, 1988), 320–23.

(40) B.R. Gaventa, From Darkness to Light (Fortress, 1986), 26 参照。

(41) パウロが原始教会の救済論的伝承(ロマ 5:6-8)にロマ 5:10 を挿入したとの議論 は、Robert Jewett, Romans (Fortress, 2007), 357–62; R.N. Longenecker, Romans

(21)

(Eerdmans, 2016), 562–64 を見よ。

(42) 浅野淳博『NTJ 註解ガラテヤ書簡』日本キリスト教出版局、2017 年、152-56 頁 参照。J.J. Williams (Christ Died for Our Sins [Wipf&Stock, 2015], 169–70) はマカバ イ殉教者らの死も律法を守らない敵の和解をもたらしたと述べるが(II マカ 7:32-38, IV マカ 6:28-29. LXX ダニ 3:27-40)、それは不従順な民を対象としており、敵 対する外国人でない。一般に、敵のために死ぬ英雄は英雄でない(リュクルゴス 『レオクラテス駁論』1.84-87 参照)。

(43) L.W. Hurtado, Lord Jesus Christ (Eerdmans, 2003), 133–34.

(44) 青野氏(『最初期キリスト教思想の軌跡』、631-32 参照)が述べるように、イグ ナティオスを始めとする使徒教父がパウロのようにユダヤ教の伝統をその神学に 有機的な(「救済論的かつ弁証論的な」)仕方で取り入れなかったにせよマルキオ ンのようにそれを破棄しなかったことは評価できる。そしてその傾向には、Frend (Martyrdom and Persecution in the Early Church, 199) が「彼(イグナティオス) はユダヤ教を憎んでこれを拒絶したが(マカバイ諸書の思想を受け入れた)」と述 べる以上に意識的で意義深い社会記憶の継承が示されていると思われる。

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