るチャムコミュニティの初期調査──
著者
中村 理恵
著者別名
NAKAMURA Rie
雑誌名
アジア文化研究所研究年報
巻
52
ページ
137(228)-157(210)
発行年
2017
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00009921/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja──マレーシアにおけるチャムコミュニティの初期調査──
中 村 理 恵
キーワード:チャム,チャンパ,マレーシア,難民,エスニシティ 始めに:プロジェクトの説明 本稿は,マレーシアに住むチャムについての 現在進行中のフィールド調査の結果を,一時的 にまとめたものである。この調査は「数世紀に わ た る チ ャ ム 民 族 の 強 制 移 住 の 再 構 築 ( R e f r a m i n g C e n t u r i e s o f C h a m F o r c e d Displacement)」というタイトルで,英国政府か ら研究費の補助を得て,ダーラム大学(Durham University) の ク レ ア・ ス ー セ ラ ン ド(Claire Sutherland),コペンハーゲン大学(University of Copenhagen) の エ デ ィ タ・ ロ ヅ コ(Edyta Roszko)との₁₈ヶ月に渡る共同研究として行わ れている。チャムは,現在のヴェトナム中部に, 海洋交易で栄えたチャンパ王国を築いた海洋民 族の末裔であると考えられている。チャンパは ヒンドゥー教文明を早くから受容し,南シナ海 の海洋交易によって, ₉ 世紀から₁₅世紀にかけ て栄えた。しかし,ヴェトナムの南進により₁₉ 世紀に政治的な自治を失い,地図上から姿を消 す。 チャムはヴェトナムとの数世紀に渡る争いに より,チャンパを離れてカンボジアやその他の 東南アジアの諸国に避難民として流失していっ た。現在カンボジアにいるチャムは,その数で チャンパの故地であるヴェトナムに住んでいる チャムを凌駕している。 ヒンドゥー教が国教であったチャンパから発 見された碑文や,チャンパに関する中国の資料, 旅行記などから,チャンパには早い時期からイ スラームが紹介されていたと推測される。しか し,チャムの間でイスラームが広まったのは, マレー世界にイスラームが広まった₁₅世紀以降 であると考えられる(Nakamura ₂₀₀₀)。チャン パがイスラームを受け容れたのは,ヴェトナム に対抗するために,マレー世界と同盟を結ぶた めに有効であったからだという見方があるが (Po Dharma ₁₉₉₀),現在チャンパの故地から外 に出たチャムは,ヴェトナムのメコンデルタ地 域に住むチャムも含め,ほぼ全員がムスリムで ある。 「数世紀にわたるチャム民族の強制移住の再 構築」のプロジェクトでは,三つの国に住むチャ ム,または「チャムだったのではないかと思わ れる人々」の間で調査を行っている:マレーシ アに住むチャム。中国の海南島の三亜市に住む チャム。祖先が,ヴェトナム本土から避難して きたチャムだったのではないかと考えられる ヴェトナムのリーソン島(Lý Sơn)と,フクイ 島(Phú Quý)のキン族(Kinh),又はヴェト 族(Viet)の漁民。本稿では,私が調査を担当 しているマレーシアに住むチャムのコミュニ ティを取り扱う。 マレーシアには推定で ₅ 万人以上のチャムが 住んでいる(Wong ₂₀₁₃:₁₆₅)。彼らは,₁₉₇₅ 年以降にマレーシアに来たインドシナ難民の一 部であり,三亜市やヴェトナムの離島に住む チャムを祖先に持つと考えられる人たちと比較 すると,「最近」難民となって流失した人たち とその子孫である。 ( )1 ─ ─19 ( )228 ─ ─139本稿は,₂₀₁₇年の ₄ 月から始まった調査の初 期段階での結果をまとめたもので,「印象的」 な記述が多々含まれていることも否めない。し かし,移住してきたことによって見えてきた民 族と国家の境界など,調査を進めていく上で考 慮しなければならない重要な事項もあり,ここ で初期調査の結果をまとめることにより,今後 の調査への助言などを広く請うものである。 チャンパとマレー世界:歴史的なつながり 歴史的にチャンパはマレー世界と関係が深 かった。両者は海洋交易によってつながってお り,チャンパがイスラームを受け容れたのは, マレー世界との関係にあると考えられる。古く は, ₉ 世紀にスリヴィジャヤの宮廷にチャンパ 出身の人々がいたとする資料が残っている。 チャンパはマジャパヒトに朝貢しており,バン テン年代記(Sejarah Banten)の中に,チャン パの王女の話がある。彼女はマジャパヒトの王 に嫁ぎ,彼女の姉妹がアラブの商人と結婚して スナン・アンペル(Sunan Ampel)という息子 をもうける。スナン・アンペルは,母と共にマ ジャパヒトに嫁いだ叔母を訪ね,ジャヴァの人 た ち の 間 で イ ス ラ ー ム を 広 め た( 桃 木 ₁₉₉₄)。 ヴェトナムの資料には,チャンパの王チェ・ ナング (Chế Nang: ₁₃₁₂︲₁₃₁₈) が,父王ジャ ヤ・シンハヴァルマン ₃ 世 (Jaya Sinhavarman III),別名チェ・マン(Chế Mân)が,₁₃₀₆年 に大越に割譲した領土を取り戻そうとして失敗 し,ジャヴァの女王タバシィー(Tapasi)とジャ ヴァに逃げたという記録がある(Weber ₂₀₁₆: ₁₆₅)。 G. E. マリソンは,「マレー年代記(Sejarah Melayu)」に記録されているチャンパとマラッ カ(Malacca/Melaka)の関係に注目している。 マレー年代記によると,₁₄₇₁年のチャンパの首 都ヴィジャヤ(Vijaya)がヴェトナムの侵攻に よって陥落した後,二人の王子がチャンパから 避難し,一人はマラッカに,もう一人はアチェ に行ったという。マラッカのスルタン,マンスー ル・シャー(Mansur Shah)は,マラッカに逃 げてきたチャンパの王子インデラ・ベルマ・ シャー(Indera Berma Shah)を歓迎し,彼がイ スラームに改宗した後,大臣として登用した (Marrison ₁₉₅₁:₉₁,₁₂₉)。スルタン,マンスール・ シャーの宮廷には他にも,チャムの船長や貴族 が住んでいたという記述もある(Weber ₂₀₁₆: ₁₆₆)。 チャンパはまた,マレー半島の東部に位置す るケランタン(Kelantan)と歴史的に見て特別 な関係にあった。₁₄₇₁年から₁₈₃₂年にかけてマ レー半島からイスラームの布教者がチャンパに 入ったが,その多くがケランタンから来ている (Abdullah Mohamed, Wongによって引用₂₀₁₃: ₁₅₉︲₁₆₀)。チャンパの資料「メッカから来た王 女の物語り(Nai Mai Nang Mekah)」では,メッ カ(チャンパではケランタンをメッカと呼んで いた)から来た王女が,チャンパの王を説得し てイスラームに改宗させた。およそ₁₆₉₂年頃の 出来事であると考えられている(Wong ₂₀₀₈: ₃₄)。₁₇世紀中頃にチャンパから来た王子がケ ランタンに滞在しており,ニック・ムスタファ (Nik Mustafa) の名前で知られていた。彼は後 にチャンパに戻り王になったという(Wong ₂₀₀₄)。₁₇₉₆年にチャムは阮朝の初代皇帝とな るグエン・アイン(Nguyễn Ánh)に対して反 乱を起こすが,この反乱を率いたのが,トアン・ パウ(Tuan Phaow)という人物で,ケランタ ン出身の貴族だったと信じられている(Wong ₂₀₁₃:₁₆₃)。 ₁₈₃₂年に阮朝の明命帝は(Minh Mệnh),阮 朝に反旗を翻したレ・ヴァン・ズエット(Lê Văn Duyệt)将軍と,その子レ・ヴァン・コー イ(Lê Văn Khôi)に従ったチャムを弾圧したが, この時チャムは,カンボジア出身のカティッ プ・スマ(Katip/Khatib Sumat)に率いられて 反撃した。カティップ・スマはケランタンで長 期にわたりイスラームを学んでいたと言われて いる。翌年,マレーとチャムからなる武装部隊 ( )2 ─ ─18 ( )227 ─ ─140
が ケ ラ ン タ ン か ら ビ ン ト ゥ ア ン 省(Binh Thuận)に到着する(Wong ₂₀₁₃:₁₆₄)。ポ・ ダルマによると,この武装部隊はケランタンの ス ル タ ン, モ ハ マ ッ ド ₁ 世(Muhamad I: ₁₈₀₀︲₁₈₃₇)が送りこんだものだという。ケラ ン タ ン に は チ ャ ン パ の 王 ポ・ ラ メ ー(Po Rame:₁₆₂₇︲₁₆₅₁)がケランタンを訪れて逗留 し,ケランタンの王女と結婚して王子をもうけ たという話が残っており,チャンパの王家とケ ランタンのスルタンは,親族関係にあったと考 えられている(Po Dharma, Wongによって引用 ₂₀₁₃:₁₆₄)。
ケランタンにはチャンパとの文化的な交流を 物語る単語,例えば「 kampung Chepa(チャン パ の 村 ),padi Chepa( チ ャ ン パ の 田 ),kain Chepa (チャンパのサロン),sanggul Chepa(チャ ンパの髪形)」等が残っており,今でも使われ ている。また,マレーシアで最も古いマスジッ トの一つ,カンポン・ラウト(Kampung Laut) のマスジットは,チャムの船乗りによって建設 されたとも言われている(Wong ₂₀₁₃:₁₆₂)。 調査の概要 マレーシアにおける,「数世紀にわたるチャ ム民族の強制移住の再構築」プロジェクトの調 査は,チャムの住んでいる地域をマッピングす ることから始まった。₂₀₁₇年の ₅ 月から ₇ 月ま での間に,首都のクアラルンプール(Kuala Lumpur), 特 別 区 の プ ー ト ラ ジ ャ ヤ(Putra Jaya),ジョホール州(Johor),ケランタン州, マラッカ州,パハン州(Pahang),ペラ州(Perak), スラゴ州(Selangor),テレンガヌ州(Terengganu) の₁₀の州を訪れて,チャムのコミュニティを マッピングした。 調査では次の四つの点について情報を集め た:何処からマレーシアに来たのか,いつマレー シアに来たのか,どのようにしてマレーシアに 来たのか,現在どのような仕事をしているのか。 調査では,マレーシアに来た第一世代を中心に 聞き取り調査を行ったが,マレーシアで生まれ た第二世代の間でも聞き取り調査を行うことが できた。 マレーシア国内にあった難民キャンプは, ₁₉₉₂年ごろに閉鎖になるのだが,それ以降にマ レーシアにやって来た人々は,ほとんどが密入 国した人達で,彼らの安全や情報の秘密性など を考慮し,一部の例外を除き,今回の調査対象 としていない。 チャムの住んでいる場所 実際に訪問することができたチャムが住んで いる場所は以下の通りである。 ・クアラルンプール(Kuala Lumpur): アンパン(Ampang),カジャン(Kajang) ・プートラジャヤ(Putra Jaya) ・ジョホール州(Johor): コタティンギ(Kota Tingg),ウルティラム(Ulu Tiram) ・ ケランタン州: コタバル(Kota Bharu),バ チョッ(Bachok) ・ マラッカ州: タンジュン・ミニャッ(Tanjung Minyak) ・ パハン州(Pahang):チェラティン(Cherating), プーラオ・ケラディ(Pulao Keladi),クアン タン(Kuantan) ・ ペ ラ 州(Perak): ニ ボ ン テ バ ル(Nibong Tebal),パリットブンター(Parit Buntar),キャ メルンハイランド (Cameron Highlands) ・ ス ラ ゴ 州(Selangor): ク ブ ガ ジ ャ(Kubu Gajah), カ ン ポ ン・ デ レ ッ ク(Kampung Delek),クラン (Klang) ・ テレンガヌ州(Terengganu): チェリジャ(Che Lijah),カンボン・セナレ ンダン(Kampung Sena Rendeng),カンポン・ ベラガン(Kampung Berangan),クアラテレ ンガヌ(Kuala Terengganu) ベティ・ロシタによると,この他に,ジョホー ル州のムアー(Muar),ケダ州(Kedah)のア ロスター(Alo Setar),ケランタン州のパセマ ス(Pasir Mas),カンポン・ブンガル(Kampong ( )3 ─ ─17 ( )226 ─ ─141
Banggal), カ ン ポ ン・ ブ ガ マ ス(Kampong Bunga Mas),ペナンバン(Penambang),パン タイ・チャヤブラン(Pantai Cahaya Bulan), マ ラ ッ カ 州 の ブ キ ッ・ ラ ン バ イ(Bukit Rambai),パハン州のロンピン(Rompin),ペ ラ州のクアラカンサー(Kuala Kangsar),タロ インタン(Teluk Intan),ペルリス州のカンガー (Kangar),スラゴ州のブキッ・ベラチャン(Bukit Belacan)にもチャムのコミュニティが存在し ているという(Betti Rosita ₂₀₁₆:₂︲₅)。つまり, チャムのコミュニティは,西マレーシア(半島 マレーシア)のすべての州に点在している(地 図 ₁ ,表 ₁ )(₁)。 首都のクアラルンプールや特別区のプートラ ジャヤに住むチャムは,人数も少なくマレー社 会の中に溶け込んで生活していた。別の地域で は,中国系の人たちのコミュニティと同居して いる所もあり,後述するように,集団で土地を 購入し,チャムの小さな「村」を形成して生活 している所もあった。 ケランタン州はチャムの難民がマレーシアで 最初に入った地域で,最初の難民キャンプが設 立されたのもケランタン州であった(₂)。この州 は隣接するタイのパタニ県と同様に,古くから チャムが訪れていた場所である。₁₉₇₅年以前に ケランタンに来たチャムは,ビジネスや修学が 地図 1 マレーシアのチャムのコミュニティの 分布(Rozira binti Abu 作成)
表 1 マレーシアのチャムのコミュニティ (Rozira binti Abu 作成)
州 番号 地名
Kedah ₁ Pendang
₂ Sungai Patani Pulau Pinang ₃ Nibong Tebal Perak ₄ Parit Buntar
₅ Ipoh ₆ Teluk Intan Selangor ₇ Sungai Buloh
₈ Klang ₉ Kajang PutraJaya ₁₀ Presint ₈ Negri Sembilan ₁₁ Seremban Melaka ₁₂ Tanjung Minyak
₁₃ Taman Sri Champa
Johor ₁₄ Muar
₁₅ Ulu tiram Johor ₁₆ Kota tinggi Pahang ₁₇ Pekan
₁₈ Kuantan ₁₉ Balok ₂₀ Cherating
₂₁ Cameron Highland Terengganu ₂₂ Kuala Dungun
₂₃ Kuala Terengganu ₂₄ Kuala Nerus Kelantan ₂₅ Tanah Merah
₂₆ Bachok ₂₇ Kubang Kerian ₂₈ Kota Bharu ₂₉ Pengkalan Chepa ( )4 ─ ─16 ( )225 ─ ─142
目的であった。ワンによると,カンボジアのカ ンボン・チャム出身のフシン・ビン・ユナス (Husin bin Yunus)は,₁₉₅₇年に両親によって ケランタンに修学のため送られ, ₇ 年ほど勉強 した後にカンボジアに戻り,イスラームの教師 になった。彼は₁₉₇₁年に再び家族と共にケラン タンに戻って来ている(Wong ₂₀₁₃:₁₆₀)。 聞き取り調査を行っている時に,元教員で, かつて難民キャンプでボランティアをしていた という人が「自分が学生の頃,非常に優秀なチャ ムの学生がカンボジアから来ていて,学校での 成績は常に一番で,自分も含めて彼に敵う者は いなかった。」と話してくれた。このチャムの 秀才は,マレーシアで教鞭もとり,後にエジプ トに留学したが,家族に会うためにカンボジア に一時帰国した時に,ポル・ポト政権によって 殺されてしまったという。 コタバル市にはホースセラピーをしている母 がチャム,父がマレーの臨床療法士がいる。彼 女の₉₄歳になる母方の祖母は「自分が₁₈歳のと きに結婚した夫は,小さい頃からケランタンに 勉 強 の た め に 来 て い て, コ タ バ ル 市(Kota Bhar)のトッ・カナリ(Tok Kenali)について 勉強していた。」と話してくれた。彼は優秀な 生徒で,あまりにもすばやく知識を吸収するの で「すばやい(モータカーのような)モハマッ ド(Muhhamad Motorkar)」,「飛ぶようなモハ マッド(Muhammad terbang)」と呼ばれていた そうである。トッ・カナリは,本名をモハマッ ド・ユソーフ(Muhammad Yusof)と言い,ケ ランタンで非常に有名なイスラームの教育者で ある。彼は₁₈₇₀年に生まれ,₁₉₃₃年に亡くなっ ているので,彼女と夫はだいぶ年齢に差がある 夫婦だったと考えられる。 コタバル市郊外のバチョッ(Bachok)には, カンボジアから₁₉₇₅年に避難してきたチャムの 教師が建てたイスラームの学校がある。ここで, カンボジアやヴェトナムから来たムスリムの チャムは,寄宿舎に住んで勉学をすることがで きる。 ケランタンには,ビジネスのためにカンボジ アやヴェトナムからもチャムが来ていたよう だ。難民キャンプを出た後,衣料品のビジネス を始めたチャムが,ケランタンに商品を仕入れ に何度も来ていた話をしてくれた。このように, チャムにとってケランタンは,マレーシアの中 で,教育やビジネスの場所として,他の地域に 比べて特別な場所であるようだ。 調査で訪問したチャムのコミュニティは,経 済的な違いはあっても,比較的均一な印象を受 けた。親族同士が一つ所に住んでいるような事 例もあり,コミュニティ内での婚姻も多いよう であった。この状況に対して,クアラルンプー ルに隣接するスラゴ州のチャムのコミュニティ には,多種多様なチャムが住んでいた。₁₉₈₀年 代にマレーシアに難民として入り,パームオイ ルの農園やゴム園で働いてきたチャム,₁₉₉₂年 以降にマレーシアに入ってきたチャム,チャム 語を話さないジャヴァ(Chvea/Java)と呼ばれ るグループ,クメール・イスラーム(Khmer Islam)と呼ばれる比較的最近イスラームに改 宗したカンボジア人(クメール人),ジャヘッ ド(Jahed)と呼ばれるムスリムチャムのグルー プ,ヴェトナムから来たチャム,などである。 スラゴ州には工場地帯が多く,₁₉₈₀年代にやっ て来たチャムのコミュニティに,工場労働者と して新しくやって来たチャムが入り込んだこと により,このように複雑なコミュニティの構成 になったものであると思われる。 マラッカ州のタンジュン・ミニャッでは,カ ンボジアから一緒に避難してきた₈₀人余りの チャムの親族が,大きな土地を購入してコミュ ニティを形成して住んでいる。彼らは地元政府 に働きかけて,自分たちの住む地域の地名を「タ マン・スリチャンパ(Taman Sri Champa)」と した。タマン・スリチャンパは新しく入ってき たチャムや,婚姻関係によって現在も拡大して いる。 タマン・スリチャンパのように,チャムの人 たちが共同で土地を購入してコミュニティを形 ( )5 ─ ─15 ( )224 ─ ─143
成して住んでいる地域は,テレンガヌ州のチェ リジャ(Che Lijah)やタマン・セナレンダン (Taman Sena Rendeng),パハン州のプーラオ・ ケラディなどにもある。チャムが共同で土地を 購入したのは₁₉₈₇︲₁₉₈₈年頃が多く,タマン・ スリチャンパの場合は,マレーシアで生まれ, マレーシアの国籍を有している子供の名義で土 地を購入し,子供が未成年であるのでマレー人 の知人を子供の後見人とし,子供が成人すると 土地は完全に子供の所有に移る,という方法で 土地を手に入れていた。テレンガヌ州のチェリ ジャでは,土地を買うにあたり,沖縄で伝統的 に行われていた相互扶助のシステム「模合」に 似たシステムを導入していた。チャムの人々が お金を出し合ってプールし,月ごとに一人が集 まったお金の全額を使うという方法で土地を購 入し,購入した土地を分割して家を建て,少し づつ集落を大きくしていったのだそうだ。地方 政府もチャムのこのコミュニティに注意を払っ ているようで,集落全体でWifiが使えるような システムが導入されていた。 ジョホール州のウルティラム(Ulu Tiram) やパハン州のクアンタンにあるチャムのコミュ ニティのように,土地は購入していないが,共 同で借地して集落を形成して住んでいる場所も ある。これらのコミュニティに住んでいるチャ ムは,₁₉₉₀年代の後半からそれ以降にマレーシ アに来た人たちである。 テレンガヌ州の州都クアラテレンガヌでは, テレンガヌ河沿いのラダン(Ladang)と呼ばれ る地区に,チャムの集落があったようだ。この 付近には,パヤン市場(Pasar Payang)やそれ に続く中華街がある。この地域で幼少期を過ご した調査アシスタントの₃₀代の友人は「チャム はこの周辺に住んで漁業を営んでいた」と言う。 彼らが取った魚は,パヤン市場に運ばれて売ら れていたそうだ。またラダンには,鍛冶屋を営 むチャムも多くいたそうである。パヤン市場周 辺の一帯は,大掛かりな開発計画により,商業 施設がなどが入る大きなビルに建て替えられ た。この開発計画によって,チャムは別の場所 に移動しなければならなくなったらしい。 何処からきたのか? (どんなチャムの人たちか?) 聞き取り調査を行った大多数の人が,カンボ ジアからやって来たチャムだった。ヴェトナム から来たチャムは,₁₉₆₀年代にヴェトナムの中 央高地を中心に起こった少数民族の独立運動 「フルロ(FULRO)」に参加していたヴェトナ ム中南部のニントゥアン省(Ninh Thuận.)出 身のチャムを除くと,全員がメコンデルタ地方 から来たムスリムのチャムであった。 マレーシアに来たカンボジアのムスリムチャ ムの間には,複数のグループがある。カンボジ アには,ヴェトナムのチャムの間で「バニ (Bani)」とよばれるグループと非常に類似した グループがある。彼らは「ジャヘッド(Jahed)」 または「イマムム・サン(Imam San)」のグルー プと呼ばれるチャムで,金曜日にのみ礼拝を行 い,ヒンズー教のコスモロジーとスーフィの伝 統の影響を受けている。彼らは,カンボジアの チャムの₁₀ %ほどにあたり,多くはウドン (Udong)の北部に住んでいる(Trankell ₂₀₀₃: ₃₃)。このジャヘッドの家族も大変少数ながら マレーシアに移住して来ており「バンサチャン パ(Bangsa Champa)」というNPOの中心メン バーとして活動している。バンサチャンパは, ヴェトナムのニントゥアン省出身のバニ教徒 で,後にスンニー派のイスラームに改宗したス エーデン在住のチャムが,マレーシアのパハン 州クアンタン(Kuantan)市に設立したもので, サンスクリットに起源を持つチャムの伝統的な 文字の普及活動などを行い「チャンパ」の伝統 を継承しようとしている。 このバンサチャンパのメンバーで,ジャヘッ ドに属す男性とその兄弟は,自分たちは「ポ (Po)」の称号を持つチャンパの王族の末裔だ といい,マレーシアで生まれたにもかかわらず 流暢にチャム語を話し,伝統的なチャム文字の ( )6 ─ ─14 ( )223 ─ ─144
読み書きにも通じていた。彼らは本当のポ,王 族の末裔はジャヘッドの間にだけ存在すると主 張し,他のスンニー派のムスリムのチャムを「普 通のチャム」といって区別していた。しかし, マレーシアに避難した「ポ」は彼らだけではな い。クアラルンプール,ジョホール州のコタティ ンギ,マラッカ州のタンジュン・ミニャッ,ペ ラ州のイポ(Ipoh),テレンガヌ州のカンボン・ セナレンダンにも王族の末裔であることを記憶 にとどめているチャムが住んでいる。 チャムは,マレー語と同じマラヨボリネシア 語族に属するチャム語を話すが,チャム語を話 さず,クメール語を話すチャムもいる。ヴェト ナムでは,メコンデルタのチャオドック市の (Châu Đốc)ムバラク(Mubarak)というマスジッ ト周辺に住む「ジャヴァクル(Java Kur)」と 呼ばれる人たちが,ヴェトナム政府の民族分類 ではチャムとなっているが,チャム語を話さず クメール語を話す。カンボジアでは,クメール 語を話すムスリムは「ジャヴァ(Chvea/Java)」 と呼ばれ,インドネシアやマレーシアに起源を 持つと考えられている(Trankell ₂₀₀₃:₃₃)。 彼らをチャムと見てもいいのかということにつ いては,₂₀₀₉年にマラヤ大学で開かれたマレー とインドシナの歴史的関係に関する国際セミ ナー(International Seminar on Historical relations between Malay world and Indochina)で賛否が分 かれたが,チャムの難民をカンボジア人「オラ ンカンボジャ(Orang Kmboja)」と呼ぶマレー シアでは,彼らも他のチャムと同じ人たちと見 なされている。 パハン州のペカン市(Pekan)にあるプーラ オ・ケラディ(Kulao Keladi)には,このクメー ル語を話すムスリムによって作られた,相互扶 助によって強く団結したコミュニティがある。 このコミュニティに₁₀ヶ月住み込んだ人類学者 のシティ・ノーラ・ビンティ・アワン(Siti Nor bint Awang)は調査結果を博士論文として まとめている。彼らはパハン河の流域に住み, 河を使って魚の養殖を行い,州で水揚げ量第一 位の魚の生産者になっている。コミュニティの 内部で婚姻関係を結び,土地を共同で購入して 家を建て,宗教施設や学校なども自ら資金を出 し合って建設し,運営している。 何時来たのか? カンボジアから来たチャムの多くは,ヴェト ナム軍の侵攻によってポル・ポト政権が崩壊し た₁₉₇₉年以降にマレーシアに来ており,ヴェト ナムから来たチャムも,共産党政権による経済 政策の矛盾により,国内経済が悪化した₁₉₇₉年 以降にマレーシアに来ていた。 非常に少数派ではあるが,₁₉₇₅年のポル・ポ トによるカンボジア政権の掌握以前に,辛くも カンボジアを脱出した人達もいた。カンボジア とタイの国境近くに住んでいたために,直ぐに カンボジアを脱出することができたという人も いたが,これまでに集められた情報によると, これら₁₉₇₅年組の多くが,レス・コーセン(Les Kosem)と親族関係にある人達ちであった。レ ス・コーセンは,カンボジア陸軍の大佐で,フ ルロ(FULRO)のリーダーでもあった。「フルロ」 とはヴェトナムで高地の少数民族,チャム,ク メールクロン(メコンデルタ下流のクメール人) が起こした自治権,独立を目指した民族運動で, フランス語の団体名「Front Unifié de Lutte des
Races Opprimées」の略である。ポル・ポトがカ ンボジアを制圧することを察知したレス・コー センは,ポル・ポト軍がプノンペンに入る ₁ 週 間前に家族と共に国外に避難した。彼は,自分 の親族や部下に,速やかにカンボジア国外に脱 出するように警告していたらしい。 レス・コーセンの家族は,プノンペンの空港 から飛行機でタイのバンコックに向かい,バン コックにしばらく滞在した後,空路でマレーシ アのクアラルンプールに入っている。レス・コー セン一族の脱出には,マレーシア政府が便宜を 図っていたようで,クアラルンプールに彼と家 族が住む家を手配していたそうだ。当時の状況 を考えると,マレーシア政府は反共政策の一つ ( )7 ─ ─13 ( )222 ─ ─145
としてレス・コーセンを支援していたとも考え られるが,後述するマレーシアの初代首相,ト ア ン ク・ ア ブ ド ル・ ラ フ マ ン(Tunku Abdul Rahaman)のチャム難民への関与などを考える と,マレーシア政府のチャムに対する関与や政 策など,さらに調査してみる必要がある。 どうやって来たのか? インドシナ難民というと,ボートピープルと いう印象があるが,マレーシアにやって来た チャムはほとんどが陸路でマレーシアに来てい る(₃)。最も頻繁に説明されたルートは次のよう なものである。カンボジアのバッタンボン県 (Battanbang)に入り,そこから徒歩で国境を 越えタイ側にはいる。タイにはいくつかの難民 キャンプがあったが,国連難民高等弁務官 (UNHCR) が 入 っ て い る カ オ イ ダ ン(Cao I Dang)を目指した人が多かった。カオイダン で第三国,マレーシアへの移住が決まったチャ ムは,バスでバンコック(Bangkok)に送られ, そこから列車でマレーシアとの国境のゴロッ (Golok/Kolok)に行き(₄),そこからバスに乗り 換えて,ケランタン州のランタオパンジャン (Rantau Panjang)に入る。 興味深い事例としては,レス・コーセンの親 族に当たる男性の話がある。彼はムスリム/チャ ムのネットワークを巧みに使って,マレーシア に入国することに成功している。プノンペンが クメール・ルージュによって制圧される( ₄ 月 ₁₇日)約 ₁ 週間前の ₄ 月 ₉ 日に,彼は飛行機で プノンペンからカンボジアの南西部,シャム湾 に面したコッコン(Koh Kong)に行き,そこ から船でタイのトラダ(Trada, カンボジアとの 国境のTratか?)に渡る。トラダでは,マレー 系のムスリムが助けてくれたそうで,彼はトラ ダからバスに乗り,バンコックに向かった。バ ンコクでは,バンクルワ(Ban Khrua)にあるチャ ムのコミュニティに滞在していた(₅)。その間に クメール・ルージュによってカンボジアは制圧 され,彼の持っていたクメール共和国(₁₉₇₀︲ ₁₉₇₅)のパスポートは失効するが,彼はそのま まバンコックから列車でゴロッに向かい,マ レーシアに入った。そして,マレー系のタイ人 の手助けで,ケランタンの州議会メンバーに会 い,支援を得ることができた。この州議会メン バーの尽力により,入国管理局が,彼をマレー シアに受けいれる書類を整えることになった。 その間,彼はケランタン州のパセマス(Pasir Mas)のマレー人の家族のもとに厄介になって いた。その後, ₅ 月にコタバルに移り,別のマ レーの家族のもとに身を寄せる。コタバルにい る時に,内務省の職員で後に外務大臣になるガ ザリ・シャフィイ(Muhammad Ghazali Shafie) が,彼を含めて ₄ 人の大学を卒業したチャムに 会いにやって来た。彼らは,マレーシアにやっ て来た最初の高学歴の難民だったらしい。ガザ リ・シャフィイとのインタビュー後,彼はすぐ さまテレンガヌ州にある大学に職を得た。 マレーシア国内の最初の難民キャンプは,ケ ランタン州のコタバル(Kota Bharu)近郊のペ ンカランチェパ(Pengkalan Chepa)にあり, 初期の頃のチャムの難民はこの地に送られた が,その後,パハン州のチェラティン(Cherating) に難民キャンプが新設されたため,ランタオパ ンジャンから直接,チェラティンの難民キャン プに送られるようになる。カンボジアやヴェト ナムを脱出してマレーシアに入るまでにかかっ た期間は,人により様々で, ₁ 年以内に入国で きた人もいれば,数年の間キャンプに留め置か れ,マレーシアに入国するまでに ₃ 年から ₄ 年 かかったという人もいた。 チャムを難民としてマレーシアに受け容れる 上で,大きな役割を果たしたのが半官半民の「ペ ルキム(PERKIM)」という組織である。この 名 称 は「 マ レ ー シ ア ム ス リ ム 福 祉 団 体 (Pertubuhan kebajikan Islam Malaysia)」の略で,
₁₉₆₀年に設立され,マレーシアの初代首相のト ア ン ク・ ア ブ ド ル・ ラ フ マ ン(Tunku Abdul Rahman)が代表を務めた時期があった。聞き 取り調査の中で,このペルキムに対する感謝の ( )8 ─ ─12 ( )221 ─ ─146
声が多く聞かれた。ベルキムがタイの難民キャ ンプまで来てくれたとか,マレーシアの国境ま で引率してくれたという話もあった。また,難 民キャンプにトアンクが自らやって来て,彼か ら直接質問を受けたという人もいた。 聞き取り調査を行ったチャムの間で,マレー シア政府に対する感謝の言葉を多く聞く一方 で,タイ政府,特にタイ軍に関する彼らの評価 は極めて低かった(₆)。「タイ人はひどい」,タイ 軍は残虐だ」というような言葉を何度もインタ ビュー中に聞いた。彼らの中には,苦労の末国 境を越えてタイ側に入ったにもかかわらず,タ イ軍に拘束されて国境まで連れ戻され,そのま まカンボジア側の,しかも地雷原の真っ只中に 放り出され,生死の境をさ迷う悲惨な体験をし た人もおり(₇),タイ政府の対応に比べ,マレー シア政府,特にペルキムの対応と支援は温情の こもったものとして感謝されていた。 ₁₉₇₅年から₁₉₈₂年の間におよそ₂₅万人以上の インドシナ難民が押し寄せたマレーシアは,第 三国に移住するためのトランジットの場所とし ての役割を担っていたが,チャムを例外的に移 民として受け容れた。その理由としてワンは, 他のインドシナ難民と異なり,チャムにとって マレーシアは第三国へ渡る通過地点ではなく, 「行きたい場所」最終目的地であったからだと 述べている。また,マレーシア政府が受け入れ を決断した理由として,人道上の理由,チャム が同胞のムスリムであること,歴史的にチャム はマレーと非常に近しい関係にあったという ₃ つの理由を挙げている(Wong ₂₀₁₃:₁₅₁︲₁₅₄) 私が非常に興味深いと思ったのは,トアンク のチャムへの関与と感心である。彼は当時, 「Organization of Islamic conference (OIC)」の書 記長でもあり₁₉₇₅年以前に南ヴェトナムのサイ ゴン(Saigon,現ホーチミン市)のチャムのコ ミュニティを訪問している。当時,南ヴェトナ ムではメコンデルタのチャムを中心としたヴェ トナムムスリムチャム協会が存在しており,こ の協会は,マレーシア大使館から本の寄付など の支援を受けていた。また,クアラルンプール で開催されたコーラン朗読の競技会に代表を 送ったり,国際イスラム大会にも参加していた (中村₂₀₁₆)。 トアンクがチャムに特別な感心を抱いていた のではないかと感じ始めた頃,偶然にも聞き取 り調査で,トアンクの兄弟がカンボジアに布教 のためにやってきていたという話を聞いた。彼 の墓がカンボジアにあるというのだが,兄弟の 名前も墓がどこにあるのかも判然とせず,この 話の信憑性は低い。しかし,チャムの間でトア ンクが特別の位置を占めていることは確かであ り,トアンクのチャムへの感心は何処から来た ものであるか,調査を続けてみたいと思ってい る。 一つ考えられることは,トアンクがチャムを マレーの中に取り込むことによって,マレーシ アのエスニックバランスを保とうとしたのでは ないか,ということである。マレーシアにおい て,民族は人種として認識されており(中村 ₂₀₁₀),社会のあらゆる分野において,人々は 民族をベースにしてグループや組織をつくる。 その最も顕著な例が政党であり,マレーシアの 政治は民族によって分断されているともいえ る。₁₉₆₉年の ₅ 月₁₃日にマレーシアでは,多数 派のマレーと少数派の中華系との間で選挙結果 をめぐって抗争があり,死者や怪我人が出た。 この暴動は,民族間の経済格差によって引き起 こされたと考えられ,政府は「新経済政策(New Economic Policies)」を打ち出し,ブミプトラ の 経 済 状 況 を 改 善 さ せ よ う と し た ( 久 保 ₂₀₀₄:₃₆︲₇; Mason & Ariffin ₂₀₀₅: ₃ )。「 ブ ミプトラ(bumiputera) 」とは「土の子」とい う意味で,マレー系や他の原住民族,オラン・ アスリ(Orang Asli)やサバ(Sabah)やサラワ ク(Sarawak)の先住民族等がブミプトラとみ なされる (Mason & Ariffin ₂₀₀₅:₂ )。しかし, 新経済政策は,マレー系住民の経済的,社会的 地位の向上を意図したものであり,教育・就職 においてマレー系は優遇された (久保 ₂₀₀₄: ( )9 ─ ─11 ( )220 ─ ─147
₃₈︲₃₉)。 マレーシアでは,民族は常に政治の道具とし て利用され,表面上は異なる民族が仲良く平和 に暮らしているように見えても,水面下では常 に軋轢が生じている。マレーシアのマレーは多 数派とはいえ,圧倒的多数を保っているわけで はなく,人口の約₆₀%ほどにあたる。パハン州 のチェラティンの難民キャンプに,当時首相で あった,マハティール(Mahathir bin Mohamad) とトアンクが来て,「民族のバランスを保つた め,難民キャンプから出たら,マレーに加わっ て欲しい」という話をしたというチャムの話も ある。また,実際に,マレーシア政府はマレー の人口を増やすためにチャムを受け容れたのだ と考えるマレー人もいる。偶然,調査をしてい る 最 中 に, ウ タ ラ 大 学(Universiti Utara Malaysia)のマハティールの思想学院(Institut Pemikiran Tun Dr. Mahathir Mohamad)の教授か ら,「あなたの今行っている調査は非常に興味 深いので,お茶でも飲みながら話しを聞きたい」 と誘いを受けた。私は,ウタラ大学で ₉ 年ほど 働いたが,その間,チャムの話を聞きたいと言 われたことは一度もなく,不思議に思い,この 話を調査のアシスタントにしたところ「近い将 来行われると噂されている選挙の前に,国籍の ないチャムにマレーシア人として国籍を与えて 与党に投票させようとしているに違いない。情 報を与えないほうがいい,誘いに乗ってはだめ だ。」とかなり強い口調で忠告された。民族の 違いが政権によって利用されているマレーシア では,多数派のマレーの人口を増やすことは重 要なことであり,様々な手段によってそれは行 われているらしい。 多数民族のマレーは,マレーシア国連邦憲法 によって規定されており,その第₁₆₀項による と,マレーは,マレー語を話し,イスラームで マレーの慣習を日常的に踏襲している人となっ ていて,その出自を問うてはいない。つまりこ の憲法の規定によれば,チャムは立派なマレー である。チャムが優遇政策の対象になるブミプ トラに含まれるのかどうかについては,明確な 情報が得られていない。ある人は自分はチャム でブミプトラであるといい,別の人はそうでは ないという。国籍に関しても同様なことがいえ た。ほぼ移民してきて瞬時にマレーシア国籍を 得た人もいれば,マレーシアに住んで₂₀年以上 も経つのに,まだ国籍を得られていない人もお り,どういう状況下で国籍を取得できるのか, はっきりした説明は得られなかった。 マレーシアではどんな仕事をしているのか? 難民キャンプから出るためには,保証人に なってくれる人を探さねばならなかった(₈)。聞 き取り調査を行った多くの人が,既にマレーシ アに来ていた親族や友達に保証人になってもら い,キャンプから出たが,工場,ゴムやパーム オイルの農園を運営する会社が,保証人になる 場合もあった。この場合,難民キャンプから出 たチャムは,会社が経営する工場や農園で数年 にわたって働かねばならなかった。非常に劣悪 な環境で働かなければならなかった人もいたよ うで,難民キャンプに逃げ帰った人もいたとい う話を何度か聞いた。 マレーシアでチャムといえば,誰しもが「バ ジュ(Baju)」すなわち衣服,特にマレー系の ムスリムが着る服や頭にかぶる帽子やスカーフ を,夕方から夜にかけて設けられる夜市「パサー マラム(Paser Malam)」や常設のマーケットで 売っている商人を思い浮かべるはずである。 チャムはマレーシアにおいて,衣料品ビジネス で地位を築いたということができる。ケランタ ン州のコタバル市に,バザール・トック・グル (Bazar Tok Guru)という衣料品を売っている 大きな市場があるが,ここで店を出している人 の大半はチャムである。資本金 ₀ 円でバジュ・ ビジネスを始め,現在はホテルを経営するまで になったチャムから話を聞いたが,彼は当初工 場で働いていたのだが,自分の賃金の ₁ 日分の 利益を数時間で上げるバジュ・ビジネスを見て, これ以外に仕事はないと心に決めて,仕事を始 ( )10 ─ ─10 ( )219 ─ ─148
めたという。彼は工場で働きながら知り合いの バジュ・ビジネスを手伝ってノウハウを覚えた 後,ケランタンに住むチャムの知人から商品を 都合してもらい,それをパサーマラムなどの定 期市で売り,収益があがると商品の代金を払い, さらに商品を都合してもらうというやり方で, 徐々にビジネスを広げていき,最後には自分の 店を持つまでになった。子供の教育にも熱心で, 子供の通う学校のPTAの会長を長く勤め,地域 で知られる名士になっている。彼の家を聞き取 り調査で訪れたとき,大きな家屋敷に美しい庭, 黒塗りの外国車が数台停めてあるので,間違っ た家に来てしまったのではないかと不安になっ たのだが,調査を進めるにつれ,驚くように大 きな家に住んでいるチャムは,そう珍しい存在 ではなくなった。 ベッティ・ロシタは,上述の資本金 ₀ 円から ビジネスを立ち上げた男性が取った手法と類似 したやり方で,商売を行っているマラッカ州の マスジットタナー(Masjid Tanah)のチャムの 商人について紹介している。彼らは,クアラル ンプールの中華系の商人から商品を購入する。 このとき商品代金の半分またはそれ以下を頭金 として支払い,残りは商品が売れたときに返済 する。何時どれだけの額を返済するかは,「話 し合い」によって決められる。また,商品が売 れなかった場合,チャムの商人は,その商品を 返却して別の商品と交換することもできる (Betti Rosita Sari ₂₀₁₆: ₈ )。
工場や農園で働いていたチャムよりも,バ ジュ・ビジネスをしているチャムの方が,経済 的に豊かな印象を受けたが,バジュ・ビジネス で成功を収められたのには時期があるようであ る。聞き取り調査を行ったチャムで,バジュ・ ビジネスで成功した人たちは,皆₁₉₈₀年代にマ レーシアに来た人たちで,当時のマレーシアの 経済状況は,巨大モールが立ち並ぶような現在 の状況とは違っていたはずである。村に住んで いる人たちは,様々なデザインや色のバジュを 買える場所があまりなかったようで,バジュを 村に持っていくと,村人が次々とやって来て, 商品は飛ぶように売れたそうだ。₁₉₇₀年代後半 から₁₉₈₀年代初めにかけてマレーシアの田舎で は,布や服が入った大きな袋を頭の上に乗せて, 村から村を行商して歩くチャムの姿は日常的な 風 景 の 一 つ で あ っ た と い う(Weber ₂₀₁₆: ₁₉₂)。これに対してヴェトナムから₁₉₉₀年代に マレーシアに来たチャムは,人々が行かない隙 間のマーケット,例えば町から遠く離れた僻地 に住む人たち,先住民のオランアスリ,建築現 場で働いている外国人労働者を相手に商売を 行っていたそうである。おそらくチャムのバ ジュ・ビジネスは,マレーシアの流通がそれほ ど発達していなかったために,発展することが きたのではないだろうか。 バジュ・ビジネスの他に,金を売っているチャ ムの家族に会った。この家族はジョホール州の コタティンギに住んでおり,「ポ」の一族であっ た。この家族の親族がテレンガヌ州にも住んで おり,同じ名前の金の店を経営していた。この 家族の長男は,イポに住むチャムと結婚し,妻 の名義でキャメルン・ハイランド(Cameron Highlands)でホテルを経営している。彼は, 富 の 源 は 金 で も ホ テ ル で も な く,「 ガ ハ ル (Gaharu)」あると教えてくれた。ガハルとはマ レー語で沈香のことである。高品質のガハルは, 金と同等の値段で取引されると言われ,かつて この家族の金のビジネスがうまく行かず,二つ あった店舗を一つに縮小しなければならなく なった時に,この家族の財政危機を救ったのが ガハルだったそうだ。ガハルの買い手の多くは 中国人とアラブ人で,クアラルンプールの繁華 街,ブキッ・ビンタン(Bukit Bintang)にある ₇ , ₈ 軒のガハルを売る店の店員は,バングラディ シュ人の店員もいたが,ほぼ全員がアラブ語を 話す中東から来た人であった。 ガハルを収穫するためには,知識と経験が必 要である。この家族が所有するガハルは,高地 に住むオランアスリなどの少数民族に頼って収 穫しているのだという。かつてチャンパは高地 ( )11 ─ ─9 ( )218 ─ ─149
に住む少数民族と連携して,高地から採れる沈 香を輸出し,最高品の沈香の産地として有名で あった。チャンパの富は沈香によってもたらさ れたといってもいい (Hardy ₂₀₀₉: ₁₁₆︲₁₁₇)。 チャンパの王族の末裔がマレーシアでガハルに よって財を成しているというのは偶然ではある が,シンボリックな発見であった。 マレーシアのチャム難民の特徴は,マレーシ アに来た第一世代の多くが,小規模な商業活動 に従事していることであるが,ベティ・ロシタ はこの状況を,Disadvantage theoryを使って説 明している。それによると,難民としてマレー シアに来たチャムは教育もなく,言葉も話せず, 新しい土地での文化の違いという様々なハン ディキャップを持っていた。その結果「できる ことは限られており」小規模の商いが,かつて 農業や漁業などの第一次産業に従事していて, 特別な技能を持っていなかった彼らにできる唯 一のことだった。つまり選択肢は他にはなかっ たので,小規模な商いを始めたのだという説明 である(Betty Rosita ₂₀₁₆:₈︲₉)。 この説明には無理があるように思える。「商 い」には技術と知識が必要であり,教育がなく, 言葉も話せず,現地の文化にもなじめないので あれば,プランテーションで労働者として働い たり,工場で単純労働に就くのが「他にできる ことがない人」の選択肢ではなかろうか。実際, 聞き取り調査では,あまりマレー語が上手に話 せなかったので,プランテーションで働いてい たという人もいた。メコンデルタのムスリムの チャムは,衣類や靴,その他日用品の小商いに 従事しており,ヴェトナム中南部のバニ教徒の チャムの中には,漢方薬のような伝統的な薬を 売り歩いている人もいる。商業活動はチャムの 伝統的な職業の一つといっていいのではないだ ろうか。 メコンデルタ出身のチャムの女性に,何故他 のものではなく,布や衣類を売るのかと聞いた ことがあった。彼女は,チャムは昔から布を売っ ていた,布や衣服は商品として最も身近のもの だからだと述べた。彼女の親族は女性も男性も, 布の種類や材質,産地などをよく知っていた。 ウェーバーは,チャムは東南アジアの織物の商 売の担い手として有名であったと述べている。 ₁₈₆₀年にカンボジアの王,ノロドム(Norodom) はチャムに稲作に専念するようにとお触れを出 している。それぐらいチャムの間では別の商業 活動,織物の商いが盛んであったということで ある。カンボジアのチャムは,少しの蓄えがで きると布を買い,それをクメール人に売ってい た。マレーシアに難民としてやってきたムスリ ムのチャムも蓄えができると,彼らのカンボジ アやメコンデルタにいた祖先がしていたよう に,布や衣服などを買い,それを売ったのだろ う(Weber ₂₀₁₆:₁₉₀︲₁₉₁)。マレーシアに難民 として来たチャムが,布や衣類の商いを始めた のは,それ以外の選択肢がなかったからではな く,それが,チャムの伝統的な仕事の一つだっ たからではないだろうか。 イスラームとマレーシア社会への融合 チャムは,比較的すんなりとマレーシアの社 会に順応して行ったようである。ミャンマーか ら来たロヒンギャ(Rohingya)などと異なり, チャムは外見上はほとんどマレーと区別が付か ない。チャム語とマレー語は同じ語族に属し類 似点が多いことや,イスラームの教育を通して 「ジャウイ(Jawi)文字」を習っていたチャムは, マレー語の修得は比較的簡単であったと述べて いる。また,彼らが敬虔なムスリムであること もプラスに作用しているようである。プーラ オ・ケラディで調査を行っていた人類学者のシ ティ・ノーラは,金曜日の礼拝に集まって来る チャムの若者の数に驚き,マレーの若者の間で はイスラームの教えを実践している人が減って いるのに,チャムの若者の信仰心は尊敬に値す ると述べていた。また,チャムの結婚式に参加 した折に,祈りの時間になると,チャムは席を 立ち,祈りを捧げるべく集会所へ集まって行っ たのに対し,マレー人の客が披露宴のご馳走を ( )12 ─ ─8 ( )217 ─ ─150
食べ続けているのを見て,調査のアシスタント の学生は,チャムはマレーよりも「よいムスリ ムだ。自分はマレー人として恥ずかしい。」と 漏らしていた。「良いムスリム」としてチャム はマレーから尊敬されているようであり,イ マーム(Imam)などの地域の宗教組織のリー ダーになっているチャムもいる。 エスニックマーカー カンボジアやヴェトナムにおいて,チャムの エスニックマーカーはイスラームという宗教で あった。しかし,ムスリムのマレーが多数派を 占めるマレーシアでは,イスラームは彼らのエ スニックマーカーにはならない。チャムのコ ミュニティを探しているときにエスニックマー カーとなったのが,第一にチャム語である。チャ ム語を話していれば,まず間違いなくチャムだ ということになるのだが,前述のようにチャム 語ではなくクメール語を話しているグループも いるので,チャム語もエスニックマーカーとし ては万能ではない。調査中,最も頼りにしたの は食べ物であった。 チャムには独自の食べ物があり,チャムが住 んでいるコミュニティの市場では,そういった 食べ物が売られていた。トンラモー(ton lamo) という牛肉のソーセージ,バンセオ(バンチェ オ )(banh xeo) と い う オ ム レ ツ, バ チ ョ ッ (bachok) と 呼 ば れ る ヌ ー ド ル, ペ イ ノ ン (paynon)という中にバナナがはいった粽のよ うな食べ物などである。このペイノンはヴェト ナム中南部のチャム,特に土着化したヒン ドゥー教を信奉する人たちが,儀礼の時に必ず お供えとして作るものである。トンラモーは, ムスリムのチャムの食べ物で,ヴェトナムの中 南部のチャムの間では知られていない。また, バチョッはヴェトナムのチャムの間にはない食 べ物である。興味深いのはバンセオである。こ れはヴェトナム南部の食べ物で,もともとはキ ン族(ヴェト族)の料理である。以前,チャオ ドックのチャムの村で,婚約のお祝いに参加し たときに出された料理が,通例のカレーではな くヴェトナム料理のバンセオであったので,不 思議に思ったことがあった。話を聞くと,お祝 いを準備した家の女主人は,もともとキン族の 人で,チャムの男性と結婚してイスラームに改 宗した人だった。一体どのようないきさつで, バンセオはマレーシアにおけるチャムのエス ニックマーカーになっているのだろうか。 食べ物の他に助けられたのは,特別な種類の 自動車である。バジュビジネスをしているチャ ムは,バンに商品を満載して移動する。チャム が最も好んで使っていたのが,トヨタの白い色 のハイエースであった。住宅街を歩いていて, トヨタの白いハイエースが並んでいると,おそ らくチャムが住んでいるコミュニティであろう という見当が付いた。 これらのエスニックマーカーは,調査者が調 査対象コミュニティを判別する上で用いた外部 からのレッテルであり,チャムが何を自らのエ スニックマーカーとしているのかについては, チャム語以外,まだ分かっていない。マレーシ アにやって来た第一世代は,マレー語で話しを する子供たちに,チャム語を保持しなければ チャムはなくなるという不安を持っているよう である。₅₀代のチャムの男性は,「チャムとマ レーの違いは,チャムはチャム語を話すこと。 チャム語がなくなれば,チャムもいなくなる。」 と話していた。「家の敷居をまたいだら,チャ ム語だけを話すこと。」という掟があって「家 でマレー語を話すことを禁じられていた。」と 話すマレーシアで生まれたチャムの第 ₂ 世代の 話もあった。チャム語ではなくクメール語を話 すチャムもいるのではあるが,マレーシアにお いて,チャム語は彼らのエスニシティの重要な 土台となっているようである。 エスニックグループと国家 チャム語,食べ物やトヨタのハイエースなど エスニックマーカーを共有しているものの,カ ンボジアから来たチャムとヴェトナムから来た ( )13 ─ ─7 ( )216 ─ ─151
チャムの間には,何らかの溝があるようだ。調 査は,マレーシアに長く住み,ケバンサアン大 学(Universiti Kebangsaan Malaysia) で 教 鞭 を とっていたチャムの教授から,インフォーマン トを紹介してもらうことから始まった。彼は, もともとカンボジアから来たチャムで,ヴェト ナム出身のチャムの研究者とも交流があるのだ が,彼が紹介してくれたチャムは,全員がカン ボジアから来たチャムだった。紹介されたチャ ムの親族関係や交友関係を使ってインフォーマ ントのプールを広げていったのだが,なかなか ヴェトナムから来たチャムの情報が得られな い。結局,この教授からの情報ではなく,イン ターネットで見つけた情報や,大学の教え子の 情報などを使って,数人のヴェトナムから来た チャムと会うことができた。このことは,ヴェ トナムから来たチャムと,カンボジアから来た チャムの間では,あまり交流がないことを示し ている。 工場が多いクアラルンプールに隣接するスラ ゴ州のチャムのコミュニティには,多様なチャ ムが存在しており,カンボジアから来たチャム と,ヴェトナムから来たチャムが同じコミュニ ティに住んでいるが,それ以外で,カンボジア から来たチャムと,ヴェトナムから来たチャム が同居している場所は,現段階ではまだ見つ かっていない。唯一見つけられたのが,テレン ガヌ州のタマン・セナレンダンである。このコ ミュニティには,ヴェトナムから来たチャムと, カンボジアから来たチャムが一緒に住んでい た。ただ,このコミュニティには空き地が多く, 空き地の所有者はヴェトナムから来たチャムで あることが多かった。土地はあるが家が建って いない,または,家はあるが誰も住んでいない という状況は,ヴェトナムから来たチャムがタ マン・セナレンダンの外に住んでいるというこ とである。 クアラテレンガヌ市の郊外に住む,ヴェトナ ムから来たチャムの家族は,高校の野球場が入 るほどの広大な敷地に,御殿のような家を建て て住んでいた。土地の価格が非常に安かった頃 に土地を複数の親族の人たちで購入したが,土 地を一緒に買った親族は,結局その土地に家を 建てずに別の土地に住むことにしたため,この 家族が土地を買い戻し,その結果非常に広大な 敷地を所有することになったのだという。これ らのことを総合すると,ヴェトナムから来た チャムは,カンボジアから来たチャムのように, コミュニティを形成して住んでいないのではな いかと推察される。マラッカ州のタンジュン・ ミニャッでインタビューをしたヴェトナムから 来たチャムの家族は,大きなチャムのコミュニ ティのあるタマン・スリチャンパにではなく, その近くのマレー人の住宅街に住んでいた。ペ ラ州のタロインタン(Teluk Intan)には,ヴェ トナムから来たチャムのコミュニティがあると いう情報があるが,まだ確認をしていない。 異なる国から来たチャムの間で交流が希薄で あることを象徴的に物語っているのが,多くの チャムが在籍するクアラルンプールにある「国際 イスラーム大学(International Islamic University)」 の学生組織である。この大学には,チャムの学 生による組織が二つあり,一つは,カンボジア チャムの学生組織,もう一つはヴェトナムチャ ムの学生組織だそうだ。この両者の間の交流は あまりなく,更には,マレーシアのチャムの学 生とも交流がないらしかった。同じエスニック グループであるにもかかわらず,ナショナリ ティの違いがある種の壁のようなものを作っ て,グループを分断しているようである。 多くのチャムがカンボジアから来ため,マ レーシアではチャムは「オラン・カンボジャ (orang Kemboja),カンボジア人」と呼ばれて いる。政府に民族名を登録する際も何処から来 たかによって民族名が決定されるため,チャム のほとんどが,カンボジアの多数民族であるク メール(Khmer)として登録されている。しか し,ある大学生のチャムは,自分はクメールで はないとして,ヴェトナム人として登録したと いう。彼女の両親はヴェトナムから来たチャム ( )14 ─ ─6 ( )215 ─ ─152
で,彼女自身はマレーシアで生まれているが, 自分のルーツはカンボジアではなく,ヴェトナ ムにあるということを主張したかったのだろう と思う。しかし,チャンパはヴェトナム人によっ て滅んだということを記憶にとどめているヴェ トナムのチャムが,自らを「ヴェトナム人」と 称することは,ほとんど考えられないことであ る。 カンボジアから来たチャムは,ポル・ポト政 権下の異民族粛清政策の下で,筆舌に尽くしが たい辛苦を経験した(₉)。聞き取り調査では,₄₀ 年経てもなお,ポル・ポト時代の話になると, 声を詰まらせ,涙ぐむ人が多かった。それに対 して,ヴェトナムから来たチャムで,共産党政 権下における辛い経験を話す人はほとんどいな かった。ヴェトナムから来たチャムの男性で, ポル・ポト時代の迫害にあった体験がないにも かかわらず,ポル・ポト政権下におけるチャム に対する拷問や理不尽な仕打ちを,自ら体験し てきたかのように話す人がいた。カンボジアの チャムの話を取り入れることによって,マレー シアにおける難民としての自分の立場を正当化 しようとしているように感じられた。 一般的に,カンボジアから来たチャムは,「政 治的難民」であり,ヴェトナムから来たチャム は,命を守るために逃げてきたというよりは「悪 化する経済状況に耐え切れずに逃げてきた経済 的難民」とみなされているようである。そういっ た差異からも,ヴェトナムから来たチャムはマ レーシアにおいて周縁化されていると思われる。 終わりに:今後の調査 初期調査の段階で質問できなかったのは,「何 故国外に出たのか」ということであった。カン ボジアからマレーシアに来たチャムの多くが, ヴェトナム軍の侵攻によってポル・ポト政権が 崩壊した後に国外に脱出している。多くのチャ ムがヴェトナム軍は親切だったとか,助けてく れた,守ってくれたというような話をしていた。 こ れ は,₁₉₉₀年 代 に, 合 衆 国 の シ ア ト ル 市 (Seattle)で話を聞いたカンボジアから来たチャ ムの難民とは対象的な話であった。シアトルで 会ったチャムは,ヴェトナム軍が侵略して来た ので,国外に脱出したのだと説明し,ポル・ポ ト政権下のことをほとんど話さなかった。 ポル・ポト政権下では,国外に脱出すること は不可能に近かったであろう。しかしその政権 下を生き延びたのに,そして,侵攻してきたヴェ トナム軍に対しては比較的好意的な評価をして いるのに,何故,国外に逃げたのだろうか。し かし,これはポル・ポト政権下での想像に絶す る人道に反した生活を強いられた経験を聞いた 後では,なかなか切り出しにくい質問だった。 一人だけ,このぶしつけな質問に答えてくれた チャムの₅₀代の男性は,「とにかく,共産主義 はもうごめんだった」からだと話してくれた。 今後の調査ではこの点について情報を集めてみ たいと思っている。 チャムは「故郷」と現在どのようにしてつな がっているのだろうか。マレーシアに来て子供 たちも独立し,自分の今の生活も安定している という第一世代のチャムの中には,カンボジア に戻って現地のチャムのために,学校やマス ジットを建設している人たちがいる。今後の調 査ではこのように「故郷に戻って」活動してい る人たちの話を集めたいと考えている。また, 第 ₂ 世代のチャムは両親の「故郷」となんらか のつながりがあるのだろうか。 マレーシアではチャムはオランカンボジャと 呼ばれているということを先に述べた。この他 にも「マラユ・カンボジャ」とか「ムスリム・ カンボジャ」という呼称が₁₉₉₀年代中頃までは 一般的であった。₁₉₉₀年代の後半になると「マ ラユ・チャンパ(Melayu Champa)」とか「チャ ム・マレー(Cham Malays) 」というエスニッ クアイデンティティが広まる。 マレーシアでは多くのチャムの難民を受け容 れたことによって,マレーがカンボジアやヴェ トナムと歴史的に関係があったことが再確認さ れた。そして,当時,マレーシア政府が「マレー ( )15 ─ ─5 ( )214 ─ ─153
世界(dunia Melayu)のチャンピオンたらん」 として推し進めていた,汎マレーの文化プログ ラムにおいて,チャンパは最も古いマレー王国 であり,チャムは個別なエスニックグループで はなく,マレーの一派,チャンパのマレーなの だと見なされるようになる(Weber ₂₀₁₆:₁₇₈︲ ₁₇₉;Wong ₂₀₁₃:₁₅₄, ₂₀₀₈:₃₂)。ワンは,マ ラユ・チャンパの呼称は,₁₉₉₈年にクアラルン プールに,フランス極東学院の支部がで来き, 極東学院のアカデミックプログラムによって広 ま っ た と も 述 べ て い る(Wong ₂₀₁₃:₁₅₄; ₂₀₀₈:₃₂)。 ウェーバーは,チャムはマレーと同様にオー ストロネイジャ語族に属し,両者の間には言語 的,文化的類似性は多々あるとはいえ,チャン パをマレーの王国とするのは,あまりにも根拠 に乏しく,こじつけに近いと批判している (Weber ₂₀₁₆:₁₇₉)。 チャムの間ではマラユ・チャンパという呼称 はあまり聞かれなかった。その代り「オラン・ チャンパ(Orang Champa)」という言葉を良く 耳にした。チャムが自らをチャンパの民と呼ぶ 時,そのチャンパというのは何を意味している のだろうか。レス・コーセンの姪に当たる女性 は,「叔父は,マレーシアに来てから何度もサ バに行き,チャムが一緒に暮らせる土地を探し ていた」と話してくれた。レス・コーセンはマ レーシアにチャンパを作ろうとしたのだろう か? 「チャンパはヴェトナムにあったのだから, 本当のチャムはヴェトナムから来たチャムだ」 と話したカンボジアから来たチャムがいたが, それでは彼女はチャンパではないチャムなのだ ろうか。今後の調査では「チャンパの民」とい う言葉をキーワードに,その意味を考えていき たいと思っている。 <注> ⑴ 聞き取り調査では,この他に,ケダ州のスガ イパタニ(Sungai Patani),ケランタン州のカン ポンバヤン(Kampung Bayam)にもチャムが住 んでいるという情報を得た。 ⑵ ウェーバーはマレーシアにあった難民キャン プとしてこの他に,ジョホール州のプーラオテ ンガ (Pulau Tengah) ,テレンガヌ州のプーラオ ビドン(Pulau Bidong),ベルフィールド (Belfield) チェラス(Cheras),スガイベシィ(Sungai Besi) を挙げているが (Weber ₂₀₁₆:₁₆₇),これらの 難民キャンプにいたというチャムには聞き取り 調査では遭遇しなかった。ケランタン州のペル キム(PERKIM)の職員の説明によると,非ムス リムのインドシナ難民はすべてテレンガヌ州の プーラオビドンに送られたということであった。 ⑶ ポル・ポトがカンボジアを制圧した直後にカ ンボジアを脱出した人達は,タイから船でマレー シアに入っている。 ⑷ ゴロッ川がマレーシアとタイの国境になって いる。 ⑸ タイにはアユタヤ王朝(₁₃₅₁︲₁₇₆₇)の時代か らチャムがいたという記録がある。₁₈₄₃年のラー マ三世(Rama III)の時代,将軍,プラヤ・マハ ニワット・ナマラックが,チャムの家族をカン ボジアから連れてきて,現在のバンコックのバ ンクルワに移住させたという。バンクルワのチャ ムの絹織物は,第二次世界大戦後,米国陸軍の 大佐,ジム・トンプソン(Jim Thompson – James Harrison Wilson)が復活発展させたことでも有名 (Weber₂₀₁₆:₁₉₁)。バンクルワのチャムが,チャ ムというエスニックグループであることに覚醒 していく過程については,スクーピン(Scupin ₁₉₈₉)を参照。 ⑹ ₁₉₇₅年ごろにマレーシアに来たチャムは,タ イの人達に助けられたと話していた。 ⑺ この話は,₁₉₇₉年にタイ軍によるカンボジア 難民の強制送還の最悪の例として知られている。 ₄₀,₀₀₀から₄₅,₀₀₀人ものカンボジア人がタイの国 境 か ら カ ン ボ ジ ア の プ レ ヴ ィ ハ ー ル(Preah Vihear)県のダンレック山(Dangrek)の麓の地 雷原に送り返され,多くの人が命を落としてい る。聞き取り調査で,ダンレックに送り返され ( )16 ─ ─4 ( )213 ─ ─154