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木曾谷東野阿弥陀堂初期真宗本尊に関する考察--如信・覚如の描かれた和朝先徳連坐影像と常陸国真壁郡との関係

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Academic year: 2021

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-如

-は じ め に 木 曾 谷 を 貫 く 国 道 一 九 号 線 を 、 寝 覚 ノ 床 か ら 小 野 滝 を 経 て や や 南 下 す る と 木 曾 川 と 荻 原 沢 の 合 流 点 に 出 る 。 こ の 合 流 点 か ら 東 へ 四 ㎞ ほ ど 山 道 を 登 っ た と こ ろ に 東 野 と い う 地 籍 が あ る 。 現 在 は 周 囲 と 隔 絶 し た 山 深 い 集 落 で あ る が 、 か つ て は 木 曾 古 道 に 立 地 し て い た と 伝 え ら れ て い る 。 そ し て こ の 東 野 に は 阿 弥 陀 堂 が あ り 、 ﹁阿 弥 陀 如 来 来 迎 図 ﹂ と ﹁太 子 七 高 僧 図 ﹂ と 命 名 さ れ た 法 物 が 伝 来 し 、 一 九 九 三 年 に 上 松 町 教 育 委 員 会 に 寄 贈 さ れ 、 上 松 町 指 定 文 化 財 と な っ て い る 。 表 装 を 含 め 痛 み が 著 し か っ た が 、 二 〇 〇 三 年 七 月 に 修 復 が 完 了 し 拝 観 可 能 に な っ た 。 建 築 物 と し て の 阿 弥 陀 堂 も 上 松 町 の 文 化 財 に 指 定 さ れ て い る 。 ﹁上 松 町 誌 ﹂ 第 二 巻 民 俗 編 (二 〇 〇 〇 年 ) に よ る と 、 東 野 阿 弥 陀 堂 は ﹁照 谷 山 ﹂ 木 曾 谷 束 野 阿 弥 陀 堂 初 期 真 宗 本 尊 に 関 す る 考 察 と 号 し 、 覚 如 が 正 応 三 年 ( 一 二 九 〇 ) に 立 ち 寄 り 藤 原 行 重 と い う 公 家 が 開 基 し た と 伝 え ら れ て い る 。 現 在 残 る 阿 弥 陀 堂 は 藤 原 行 重 の 子 孫 で あ る 権 左 が 焼 失 し た 堂 宇 を 再 建 し た も の で 、 堂 内 に は 文 化 八 年 ( 一 八 一 こ に 制 作 さ れ た 天 井 画 が 内 陣 に 三 六 枚 、 外 陣 に 七 二 枚 施 さ れ 、 作 者 は 木 曾 代 官 山 村 氏 に 仕 え た 池 井 祐 川 で あ り 、 再 建 に あ た っ て は 山 村 氏 が 深 く 関 与 し た よ う で あ る 。 ま た 文 政 五 年 ( 一 八 二 二 ) の 奉 納 俳 額 も あ る 。 現 在 は 二 幅 で 構 成 さ れ て い る 東 野 阿 弥 陀 堂 初 期 真 宗 本 尊 (以 下 、 東 野 阿 弥 陀 堂 本 と 表 記 ) は 、 後 述 す る よ う な 理 由 か ら 、 覚 如 在 世 時 の 稀 有 な 初 期 真 宗 本 尊 で 、 本 来 は 三 幅 で 構 成 さ れ 天 竺 ・ 震 日 丁 和 朝 に 浄 土 仏 教 が 正 し く 伝 え ら れ て 来 た こ と を 強 調 す る 内 容 に な っ て い た と 考 え ら れ る 。 中 世 前 期 地 域 社 会 で 受 容 さ れ た 初 期 真 宗 が 、 三 国 伝 来 の 世 界 意 識 に 基 づ き 、 天 竺 (イ ン ド ) に 淵 源 を も ち 震 旦 (中 国 ) を 経 て 和 朝 に 至 っ た 浄 土 信 仰 六 七

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六 八 戒 名 を 与 え ら れ 、 後 に 木 曾 福 島 の 本 願 寺 派 西 方 寺 の 檀 家 と な っ た 。 し た が っ て ﹁木 曾 谷 中 寺 社 改 帳 ﹂ (正 徳 六 年 、 名 古 屋 市 立 鶴 舞 中 央 図 1  館 所 蔵 名 古 屋 市 史 資 料 謄 写 本 ) に は そ の 記 載 が な く 、 長 野 県 立 歴 史 館 所 蔵 長 野 県 行 政 文 書 の 西 筑 摩 郡 寺 院 に も そ の 名 を 見 い だ す こ と は で き な い 。 し か し 長 野 県 行 政 文 書 の 一 八 七 八 年 (明 治 一 こ ﹁西 筑 摩 郡 村 誌 ﹂ の 駒 ヶ 根 村 (現 上 松 町 ) の ﹁寺 ﹂ の 項 に は 次 の よ う に 記 さ れ て い る 。 阿 弥 陀 堂 一 宇 本 村 ノ 南 ノ 方 三 十 二 町 、 其 堂 東 西 五 間 南 北 六 問 面 積 一 畝 卜 、 開 基 ( 往 古 由 緒 ア リ テ 庵 主 浄 土 真 宗 本 願 寺 ノ 末 派 ノ 由 ニ ロ 碑 ノ ミ 、 シ カ リ ト 雖 モ 御 一 新 前 迫 除 税 地 ナ リ 、 方 今 上 知 ト ナ リ 字 東 野 二 在 り 江 戸 時 代 の 東 野 阿 弥 陀 堂 を 除 地 と し て 保 護 を 与 え 得 る 在 地 権 力 と し て は 木 曾 代 官 山 村 氏 以 外 に は 考 え ら れ な い 。 先 に も 記 し た よ う に 東 野 阿 弥 陀 堂 の 再 建 自 体 に も 山 村 氏 が 関 わ り 、 そ の 保 護 の 下 で 幕 末 に 至 っ た の で あ ろ ゝつ 。       ゜ 現 在 は 地 区 の 集 会 所 と し て 使 わ れ て い る 阿 弥 陀 堂 脇 の 場 所 に か つ て は 藤 原 家 住 宅 が あ っ た 。 堂 主 の 藤 原 家 の 下 に 阿 弥 陀 堂 の 門 徒 は 東 野 に 九 軒 あ っ た と さ れ る が 、 藤 原 氏 は 代 々 在 俗 の 信 者 と し て 法 物 を 伝 え 、 柳 田 国 男 の い う 毛 坊 主 と し て 半 僧 半 農 の 宗 教 活 動 を お こ な っ て い た よ う で あ る 。 し か し 三 河 一 乗 寺 の 占 部 観 順 の 下 で 得 度 し 布 教 を 続 け て い た 藤 原 正 秀 堂 主 は 木 曾 谷 の 過 疎 化 の な か で 一 九 五 八 年 に 岐 阜 県 中 津 川 市 真 宗 誠 照 寺 派 蓮 光 寺 に 入 寺 し 、 や が て 東 野 阿 弥 陀 堂 に 拠 点 を 置 い た 活 動 を 断 念 す 同 朋 大 学 仏 教 文 化 研 究 所 紀 要 第 二 十 五 号 を 観 る 者 に 確 認 さ せ 、 そ の 正 統 性 を 主 張 し 、 帰 依 を う な が し て い た こ と を 示 す 造 形 で あ り 、 宗 教 史 的 に も 興 味 深 い 史 料 と い え る 。 本 稿 で は ま ず 伝 世 過 程 を 検 討 す る こ と で 東 野 阿 弥 陀 堂 本 が 後 世 の 移 入 品 で は な く 、中 世 以 来 木 曾 谷 に 伝 え ら れ た 可 能 性 が 高 い こ と を 論 じ た い 。 い つ か ら こ の 本 尊 が 木 曾 谷 に あ っ た か を 検 討 す る こ と は 、 史 料 の 性 格 を 考 え る う え で 重 要 な こ と が ら と 考 え る 。 つ い で 初 期 真 宗 法 物 に つ い て 概 観 す る な か で の 東 野 阿 弥 陀 堂 本 の 特 徴 を 考 察 し 、 研 究 史 の な か に 位 置 づ け る 作 業 を 通 し て 初 期 真 宗 本 尊 に お け る 本 作 の 意 義 を 考 え た い 。 そ し て 一 四 世 紀 と 推 定 さ れ る 制 作 後 間 も な く か ら 木 曾 谷 に 伝 世 し た と す る な ら ば 、 そ の 時 期 に こ の 地 の 領 主 で あ り 、 か つ そ の 本 貫 の 地 で 初 期 真 宗 が 濃 密 に 展 開 し て い た が ゆ え に 本 作 と 何 ら か の 関 係 が あ っ た と 考 え ら れ る 小 木 曾 荘 地 頭 真 壁 氏 と 、 さ ら に 木 曾 谷 と 峠 を 隔 て た 地 に あ る 伊 賀 良 荘 の 真 宗 寺 院 を 視 野 に 入 れ な が ら 、 初 期 真 宗 の 存 在 形 態 に つ い て 若 干 の 考 察 を お こ な う こ と と す る 。 -東 野 阿 弥 陀 堂 自 体 は 阿 弥 陀 寺 と 称 す る こ と も あ っ た よ う だ が 、 本 来 は 寺 号 を 有 す る 独 立 し た 寺 院 で は な か っ た 。 代 々 の 当 主 は 阿 弥 陀 堂 を 守 っ て き た が 、 江 戸 時 代 に は 須 原 (現 大 桑 村 ) の 臨 済 宗 妙 心 寺 派 定 勝 寺 檀 家 で

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る に い た る 。 そ し て 東 野 阿 弥 陀 堂 本 は ﹁木 曾 谷 に 伝 わ っ た 法 物 は 木 曾 谷 に 残 し た い ﹂ と い う 遺 志 に よ り 子 息 で あ る 蓮 光 寺 の 藤 原 信 秀 住 職 に よ り 一 九 九 三 年 に 上 松 町 に 寄 贈 さ れ た の で あ る 。 上 松 町 教 育 委 員 会 の 寄 贈 受 け 入 れ 記 録 に よ る と 、 東 野 阿 弥 陀 堂 本 は 真 宗 史 研 究 の 泰 斗 で あ っ た 宮 崎 圓 遵 ほ か 一 名 に よ っ て 一 九 六 九 年 八 月 に 調 査 さ れ て い る 。 し か し 地 元 の 人 び と が 聞 き 記 し た と こ ろ で は 宮 崎 圓 遵 は さ ほ ど 高 い 評 価 を 下 し た よ う に は み え ず 、ま た 学 会 に も 紹 介 し て い な い 。 そ の 後 、 東 野 阿 弥 陀 堂 本 に つ い て 触 れ た 研 究 に は 千 葉 乗 隆 ﹁信 濃 真 宗 寺 院 成 立 の 系 譜 ﹂ が あ り 、 ﹁ こ の 像 の 相 承 系 譜 は 、 覚 如 の 三 代 伝 持 の 血 脈 説 を 示 す も の で 、 覚 如 門 弟 が 造 像 し た 本 尊 と い え る 。 絵 は 稚 拙 で 地 方 画 家 の 作 と み ら れ る が 、 製 作 年 時 は 南 北 朝 時 代 ま で さ か の ぼ る か も し れ な い ﹂ と し て い る 。 こ の 千 葉 論 文 以 外 に 真 宗 法 物 と し て 本 作 を 論 究 し た 学 術 論 文 は な く 、 多 ぐ の 初 期 真 宗 法 物 を 収 め た ﹁真 宗 重 宝 聚 英 ﹂ か ら も 漏 れ て い る 。 そ の 他 に は 前 述 の ﹁上 松 町 誌 ﹂ 民 俗 編 な ど に そ の 存 在 が 紹 介 さ れ て い る に 過 ぎ な い 。 し か し 東 野 阿 弥 陀 堂 本 は 近 世 に は 比 較 的 よ く 知 ら れ て い た 法 物 で あ っ た よ う で あ る 。 ・朝 岡 興 禎 ﹁古 画 備 考 ﹂ (嘉 永 三 年 起 筆 ) の 如 信 の 項 に ﹁信 州 須 原 駅 荻 原 支 村 吉 野 二 阿 弥 陀 堂 ア リ 、 阿 弥 陀 如 来 画 像 ヲ 安 置 、﹂ 云 々 と 秋 里 鮫 島 ﹁木 曾 路 名 所 図 絵 ﹂ (文 化 元 年 成 立 )か ら の 引 用 を 記 し 如 信 の 作 と し て い る 。 東 野 を 含 む 地 域 は 中 世 に は 小 木 曾 荘 吉 野 保 と い わ れ て い た 。 ま た 園 原 旧 富 ﹁木 曾 古 道 記 ﹂ (宝 暦 年 間 成 立 ) に は ﹁阿 弥 陀 堂 、 大 幅 木 曾 谷 東 野 阿 弥 陀 堂 初 期 真 宗 本 尊 に 関 す る 考 察 絵 像 古 筆 也 、 藤 原 行 重 卜 云 フ 公 家 衆 ノ 建 立 卜 云 フ 、﹂ と の 記 載 が あ る 。 さ ら に 松 平 秀 雲 ﹁吉 蘇 志 略 ﹂ (宝 暦 七 年 成 立 ) に も 記 載 が あ り 、 ﹁在 吉 野 、 堂 蔵 阿 弥 陀 仏 画 像 、 親 鸞 上 人 第 二 世 某 所 画 也 、 然 不 知 実 否 、﹂ と あ る 。 木 曾 代 官 山 村 氏 の 支 援 も こ の 法 物 の 存 在 に よ る こ と が 大 き い こ と は 想 像 に 難 く な い 。 で は 東 野 阿 弥 陀 堂 本 は 、 ど こ か ら も た ら さ れ た の で あ ろ う か 。 と も に 宝 暦 年 間 に 成 立 し た ﹁木 曾 古 道 記 ﹂、 ﹁吉 蘇 志 略 ﹂ に こ の 法 物 が 記 さ れ て い る こ と を 考 え る と 、 一 八 世 紀 中 葉 に は 既 に 東 野 に 存 在 し て い た こ と は 確 か で あ る 。 江 戸 時 代 に 木 曾 谷 の 真 宗 寺 院 か ら 何 ら か の 理 由 で 流 出 し た こ と も 考 え ら れ な い わ け で は な い 。 そ こ で ま ず 近 世 木 曾 谷 の 真 宗 寺 院 と 東 野 阿 弥 陀 堂 本 と の 接 点 の 有 無 に つ い て 検 討 し て み た い 。 近 世 木 曾 谷 の 真 宗 寺 院 に は 善 性 寺 (福 島 、 開 基 年 不 詳 )、 浄 龍 寺 (奈 良 井 、 大 永 元 年 開 基 ) 、 専 念 寺 (奈 良 井 、 天 文 元 年 開 基 )、 西 方 寺 (福 島 、 貞 享 二 年 開 基 ) が あ り 、 清 内 路 峠 近 く に 長 延 寺 (吾 妻 、 宝 暦 四 年 開 基 )が あ る 。 こ の う ち 善 性 寺 、 専 念 寺 が 飛 騨 の 照 蓮 寺 末 で あ り 、 浄 龍 寺 は 東 本 願 寺 末 で あ る が 飛 騨 高 山 の 映 芳 寺 二 男 が 開 基 し た 玄 興 寺 が 東 本 願 寺 成 立 に と も な い 浄 龍 寺 に 改 称 し た と す る の で 、 元 来 は 飛 騨 白 川 照 蓮 寺 門 末 で あ っ た と 考 え ら れ る 。 そ し て 東 野 阿 弥 陀 堂 が 属 し て い た 西 方 寺 は 善 性 寺 住 職 が 照 蓮 寺 末 か ら 西 本 願 寺 直 末 に 転 派 し よ う と し た こ と か ら 照 蓮 寺 と 争 っ て 天 和 三 年 ( 二 ︿ 八 三 ) に 住 職 が 追 放 と な り 、 善 性 寺 門 徒 が 新 た に 京 都 か ら 寺 院 と 住 職 を 迎 え て 開 基 し た 西 本 願 寺 派 末 寺 で あ る 。 ま た 長 延 寺 六 九

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同 朋 大 学 仏 教 文 化 研 究 所 紀 要 第 二 十 五 号        七 〇 は 飯 田 善 勝 寺 か ら 分 出 し た 寺 院 で あ る 。        天 地 を 求 め て 移 動 し て 来 た 寺 院 、 門 徒 が 多 く あ っ た 。 し か し 結 論 的 に い こ の よ う に 近 世 木 曾 谷 の 真 宗 寺 院 は 、 戦 国 時 代 に 照 蓮 寺 を 中 心 と す る    う と そ の 可 能 性 は き わ め て 低 い と い え る 。 な ぜ な ら こ う し た 戦 国 時 代 の 飛 騨 真 宗 寺 院 が 木 曾 谷 へ 進 出 し て 成 立 し た よ う で あ る 。 し か し 脊 古 真 哉   信 濃 へ の 移 動 は 多 く の 門 徒 を と も な う 移 住 で あ っ た が 、 東 野 阿 弥 陀 堂 に に よ れ ば 飛 騨 国 の 白 川 照 蓮 寺 と そ の 門 末 は 蓮 如 以 降 に 一 大 勢 力 を 形 成 す    は そ の 痕 跡 は 全 く 認 め ら れ な い 。 ま た 信 濃 へ 移 っ て き た 真 宗 寺 院 に し て る も の の 、 初 期 真 宗 門 流 に 属 し た 形 跡 が 見 ら れ ず 、 初 期 真 宗 絵 画 史 料 も    み れ ば 、 そ う し た 移 動 は 一 大 事 件 で あ っ た だ け に そ の 由 緒 を 強 調 す る の ほ と ん ど な く 、 順 如 没 後 に 蓮 如 が 本 願 寺 住 持 に 復 職 し た 時 期 に 突 如 と し    で あ る が 、 東 野 阿 弥 陀 堂 に は そ う し た 伝 承 は 伝 え ら れ て い な い 。 て 本 願 寺 教 団 の 構 成 員 と し て 登 場 す る と さ れ て い る 。 し た が っ て 一 四 世     も と よ り 明 証 は な い の で あ る が 、 以 上 の 考 察 か ら 本 作 は 制 作 後 あ ま り 紀 と 推 定 さ れ る 東 野 阿 弥 陀 堂 本 と 白 川 照 蓮 寺 門 末 と の 間 に は 関 連 性 は 見   時 間 を お か な い 蓮 如 以 前 の 時 代 か ら こ の 地 に あ っ た の で あ ろ う と 考 え ら 出 し 難 い と い え る 。 ま た 木 曾 古 道 沿 い の 東 野 は あ ま り に も 山 深 く 、 近 世    れ る の で あ る 。        ご      ブ に な っ て わ ざ わ ざ 中 山 道 を 大 き く 外 れ て 他 国 の 真 宗 寺 院 か ら 伝 来 し た と い う こ と も 考 え づ ら い 。         二  

江 戸 時 代 に 入 っ て か ら 中 山 道 は 木 曾 川 の 東 岸 を 主 に 整 備 さ れ た 。 東 野 は 木 曾 川 の 東 に 位 置 す る も の の 、中 山 道 沿 線 と は い い が た い 山 中 に あ る 。   1   三 幅 構 成 の 東 野 阿 弥 陀 堂 本 し た が っ て 慶 長 七 年 ( 一 六 〇 二 ) の 中 山 道 伝 馬 整 備 以 後 に 初 期 真 宗 本 尊 が     旧 所 蔵 者 で あ る 蓮 光 寺 藤 原 信 秀 住 職 に よ る と 東 野 阿 弥 陀 堂 本 は 本 来 三 東 野 に 新 た に も た ら さ れ た こ と は 、 ほ ぼ あ り え な い と 考 え る こ と は 許 さ    幅 一 対 で 十 三 仏 と い う 仏 画 も あ っ た と い う 。 ま た 蓮 光 寺 に は 藤 原 信 秀 住 れ よ う 。         職 の 祖 父 に 当 た る 初 太 郎 の 代 に つ く ら れ た 印 刷 物 が あ り 、 そ れ は 信 州 木 そ れ 以 前 の 中 世 後 期 は ど う で あ ろ う か 。 園 原 旧 富 ﹃木 曾 古 道 記 ﹄ に よ    曾 東 野 村 権 か ヤ ー  7か 之 孫 藤 原 国 照 の 記 し た ﹁御 由 来 書 ﹂ を 年 不 詳 三 月 十 れ ば 、 東 野 は 木 曾 古 道 と い わ れ る 中 山 道 整 備 以 前 の 街 道 沿 い に 立 地 し て    八 日 よ り ﹁出 張 所 萬 松 寺 西 北 側 ﹂ で の 法 物 の 出 開 帳 の 際 に 活 字 化 し た も い る 。 そ こ で 現 在 も 初 期 真 宗 本 尊 を 所 蔵 す る 寺 院 の 多 い 関 東 や 三 河 の 真    の で あ る と い う 。 そ れ に よ る と 法 物 は 三 方 正 面 阿 弥 陀 如 来 像 、 太 子 七 高 宗 寺 院 が 戦 乱 を 逃 れ て 信 濃 に 至 り 、 木 曾 谷 に 落 ち 着 い た と い う こ と も I    僧 そ し て 十 三 仏 で 構 成 さ れ た ﹁覚 如 上 人 御 自 画 賛 也 ﹂ と す る 。 藤 原 信 秀 応 は 想 定 し 得 る 。 信 濃 へ は 特 に 一 六 世 紀 以 降 、 真 宗 に 対 す る 迫 害 か ら 新   住 職 の 聞 い た と こ ろ で は 、 こ の 十 三 仏 の み が 大 正 末 年 か ら 昭 和 初 年 に か

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郡役所 けて東野阿弥陀堂から 流出したという 。 降幡惟 『 西筑摩郡誌 』 ( 西筑摩 一九一五年)にも駒ヶ根村(現上松町)の名所旧跡の項に「阿弥 陀寺社」として「東野に在り正応中親鷲三世の法孫覚如上人留錫の遺跡 とも大正年間までは三幅そろって伝存していたことは間違いない。 なり方今尚堂宇を存し覚如自筆の仏画三軸を宝物とす」とあり、 少なく 東野阿弥陀堂本が三幅対の真宗本尊であったとすると十三仏は勢至菩 薩天竺震旦祖師影像であった可能性がきわめて高い。 しかし一般に勢至 菩薩天竺震旦祖師影像は勢至菩薩と龍樹・天親のインド僧そして中国の 七高僧により構成されるのであり 、 あえていえば 「 十仏 」 であ り 「 十 一 一一 仏」ではない。 ただ十三仏については木曾地方には臨終から満中陰まで、 木曾谷一米野阿依陀堂初期真宗本尊に附する考察 東野阿弥陀堂初期真宗本尊 (上松町教育委員会蔵) 写真1 禅宗菩提寺から十三仏を借り受ける風習があるので東野阿弥陀堂の十三 仏とよばれていた仏画も図柄が似ているため十三仏と呼称された可能性 もないではない。 十三仏が勢至菩薩天竺震日 一祖師影像であった可能性が考えられるの は、 聖徳太子和朝先徳連坐影像をともなう最も古い本尊である愛知県岡 崎市妙源寺所蔵の光明本尊像(以下、 妙源寺本と略記)が九字名号を中央 幅として向かって右に聖徳太子和朝先徳連坐影像、 向かって左に勢至菩 薩天竺震旦祖師影像を配する初期真宗本尊であり、 他の多くの光明本尊 も左右に同様の配置をするからである。 そして後述するように東野阿弥 陀堂本と妙源寺本の聖徳太子和朝先徳連坐影像の意匠はよく似ている。 つまり十三仏といわれた仏画が勢至菩薩天竺震旦祖師影像であるとす ると、妙源寺本が九字名号を中央備とする三幅本本尊であったのに対し、 東野阿弥陀堂本は阿弥陀如来絵像(方便法身尊像)を中央幅とする三幅本 本尊であったということになる。 もちろん十三仏が勢至菩薩天竺震旦祖 師影像ではなく、 またこの三幅がそれぞれ別に東野阿弥陀堂に伝来した ということも一応は想定可能であ る。 しかし東野阿弥陀堂は中世近世を 通じて活発な宗教活動をおこなっていたようには考えられないにも関わ らず、 現存の、 ともに後述するように一回世紀の作例と考えられる阿弥 陀如来絵像と聖徳太子和朝先徳連坐影像が別個にそれぞれ伝来 し、 さら にもう一幅の関連法物が伝世したと考えるほうが困難であろ う。 本稿で は十三仏が勢至菩龍天竺震旦祖師影像であり、 三幅対であったという前 ーヒ

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同朋大学仏教文化研究所紀南京第二十五号 提の下に立論していくこととする。 東野阿弥陀堂本が三幅構成の本尊であったとするときわめて類例の少 ない三幅本本尊のひとつということになる。管見の限りでは三幅本本草 は本作と 妙 源寺本以 外 には 『 真宗重宝緊英 』 未収録法物である四天 王 寺 所蔵の阿弥陀如来像・ 三国浄土高僧連坐像(以下、 四天王寺本と略記)が あるのみである。 四天王寺本は阿弥陀如来絵像を中央幅とし向かって左 に勢至菩薩天竺震日一祖師影像、 向かって右に聖徳太子和朝先徳連坐影像 を配し、 本来の東野阿弥陀堂本と同様の構成であるが、 制作年代はやや 下り一五世紀の作と考えられ、札銘から仏光寺門流の法物と考えられる。 しかし四天王寺本の阿弥陀如来絵像は一六世紀以降の特徴を有し 、 中 央 幅のみは後世の作と考えられる。 光明本尊像(妙源寺蔵) 写真2 七 以下に東野阿弥陀堂本について、 まずは阿弥陀如来絵 像(方便法身尊 像)、 続いて制作年代を知る手がかりになる聖徳太子和朝先徳連坐影像 について、 その特徴と類例について考察する。 2 初 期真宗本尊としての阿弥陀如来絵像 (1)初期真宗本尊 親驚以降、 蓮知の本願寺留守職継職までを通常、 初期真宗といってい る。周知のように蓮如以降、特に実如の頃から本願寺は急速に拡大して 、 真宗各門流を圧倒して多くの真宗寺院を本願寺派に包摂し、 この過程で 浄土真宗の本尊は本願寺からの下付物として画一化されていく。 阿弥陀如来像・三国浄土高僧連坐像 (四天王寺蔵) 写真3

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と こ ろ が 、 そ れ 以 前 は 本 願 寺 の 勢 力 は 比 較 的 微 弱 で あ り 、 主 に 東 国 に 起 源 を 有 す る 親 鸞 面 授 の 門 侶 後 裔 が そ れ ぞ れ 独 自 の 活 動 を 展 開 し て い た 。 そ し て 初 期 真 宗 の 法 物 は 、 各 地 の 門 流 が そ れ ぞ れ 信 仰 の 対 象 と し て の 本 尊 を 制 作 し た た め に き わ め て 多 様 性 に 富 む 。 そ の 主 な も の と し て は 、 ま ず 名 号 本 尊 が あ る 。 こ れ は 蹄 命 盗 十 方 元 尋 光 如 来 の 十 字 名 号 、 南 元 不 可 思 議 光 如 来 の 九 字 名 号 あ る い は 南 無 不 可 思 議 光 佛 の 八 字 名 号 、 ま た は 南 無 阿 弥 陀 佛 の 六 字 名 号 を 蓮 台 の 上 に 書 い た も の で 、 親 鸞 自 筆 の 名 号 本 尊 も 伝 世 し す る 。 ま た 特 異 な 例 と し て は 名 号 の 周 囲 に 化 仏 を 配 し た り 蓮 台 の ま わ り に 僧 形 の 肖 像 を 描 く も の も あ る 。 次 い で 絵 像 本 尊 が あ る 。 真 宗 の 阿 弥 陀 如 来 絵 像 は 方 便 法 身 尊 像 と い わ れ る 真 向 き の 立 像 で あ り 、 帰 命 婁 十 方 元 尋 光 如 来 の 十 字 名 号 が 転 化 し た も の と い わ れ て い る 。 ご く 初 期 の 絵 像 本 尊 に は 雲 に 乗 っ た 来 迎 す る 阿 弥 陀 如 来 像 や 化 仏 を と も な う 阿 弥 陀 如 来 像 な ど も 存 在 す る が 、 次 第 に 蓮 台 に 乗 り 真 っ 直 ぐ 正 面 を 向 い た 真 向 き の 立 像 が 一 般 化 し 、 後 背 か ら 発 し た 光 条 が 画 面 全 体 に 及 ぶ の が 特 徴 で あ る 。 そ し て 名 号 本 尊 と 絵 像 本 尊 を 組 み 合 わ せ た 様 式 の 光 明 本 尊 が あ る 。 光 明 本 尊 に つ い て は 後 に 検 討 す る が 、 通 例 は 九 字 名 号 を 中 心 に 十 字 名 号 ・ 六 字 名 号 と 弥 陀 ・ 釈 迦 二 尊 絵 像 、 さ ら に は 勢 至 菩 薩 天 竺 震 旦 祖 師 影 像 ・ 聖 徳 太 子 和 朝 先 徳 連 坐 影 像 を 取 り 込 ん だ 大 幅 の 本 尊 で あ る 。ま た 存 覚 ﹁ 一 期 記 ﹂ に よ れ ば 単 独 の 聖 徳 太 子 和 朝 先 徳 連 坐 影 像 や 高 僧 連 坐 像 な ど も 本 尊 と よ ば れ て い た よ う で あ る 。 木 曾 谷 東 野 阿 弥 陀 堂 初 期 真 宗 本 尊 に 関 す る 考 察 な お 親 鸞 の 下 で 名 号 本 尊 は 本 紙 の 上 下 に 銘 文 を 書 い た 色 紙 (添 紙 ) を 付 し て 表 装 さ れ 、 色 紙 の 枠 (色 紙 形 )を 本 紙 に 設 け て 銘 文 を 記 す の が 通 例 で あ り 、 末 代 の 様 式 で 色 紙 形 部 分 を ﹁引 首 ﹂ と い (い )ヽ ま た 光 明 本 尊 で は そ れ ぞ れ の 像 主 の 名 を 記 し た 札 銘 が 付 さ れ る ほ か 、 聖 徳 太 子 和 朝 先 徳 連 坐 影 像 で は 聖 徳 太 子 と 源 信 の 事 績 を 讃 え る 銘 文 が 画 面 上 に 区 画 さ れ た 色 紙 形 に 記 さ れ る 。 そ し て 最 後 に 木 像 本 尊 が あ る 。 木 像 本 尊 は 絵 像 本 尊 を 立 体 化 し た 仏 像 で 、 真 宗 寺 院 が そ れ ま で の 草 庵 か ら 大 規 模 な 本 堂 を 持 つ よ う に な っ た こ と に 起 因 し て 普 及 す る と さ れ て き た 。 蓮 如 は 本 尊 に つ い て は (当 流 に は 木 像 よ り 絵 像 ヽ 絵 像 よ り は 名 号 と い ふ な り べ )と 述 べ た と さ れ る が ヽ 歴 史 的 に は こ の 蓮 如 の 言 葉 と は 逆 に 、 真 宗 本 尊 は 名 号 本 尊 か ら 絵 像 本 尊 、 さ ら に 木 像 本 尊 へ と 展 開 し て き た と さ れ る 。 し か し 初 期 真 宗 に 木 像 本 尊 が 存 在 し な か っ た か と い う と そ う で は な く 、 覚 如 ﹁改 邪 炒 ﹂ に も ﹁絵 像 木 像 の 本 尊 を あ る ひ は 彫 刻 し あ る ひ は 画 図 す ﹂ と あ り 、 さ ら に は 初 期 真 宗 門 侶 が 勧 進 聖 と し て 造 仏 に 携 わ っ た 事 例 や 木 像 本 尊 の 実 例 に つ い て も 指 摘 が お こ な わ れ て い る 。 全 体 的 に は 初 期 真 宗 の 本 尊 は 少 数 の 木 像 本 尊 の 例 を 除 く と 、名 号 本 尊 と 絵 像 本 尊 な ど の 掛 軸 を 本 尊 と す る 掛 軸 集 団 で あ っ た と さ れ て い る 。 こ れ ら の 初 期 真 宗 本 尊 の う ち 東 野 阿 弥 陀 堂 本 の 特 質 を 考 察 す る う え で 避 け て 通 れ な い の が 光 明 本 尊 で あ る 。 な ぜ な ら 後 述 す る よ う に 本 作 の 聖 徳 太 子 和 朝 先 徳 連 坐 影 像 が 、 最 古 の 光 明 本 尊 と も い わ れ る 妙 源 寺 本 と そ れ に 七 三

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同 朋 大 学 仏 教 文 化 研 究 所 紀 要 第 二 十 五 号 次 ぐ と さ れ て き た 福 島 県 会 津 坂 下 町 真 宗 大 谷 派 光 照 寺 所 蔵 本 (以 下 、 光 照 寺 本 と 略 記 ) の 中 間 に 入 る 意 匠 を 持 ち 、 そ の 様 式 は 多 く の 光 明 本 尊 に 継 承 さ れ て い く か ら で あ る 。 光 明 本 尊 に つ い て は 覚 如 の 長 子 で あ る 存 覚 が ﹁弁 述 名 体 抄 ﹂ で 次 の よ う に 記 し て い る 。 高 祖 親 鸞 聖 人 後 在 生 の と き 、 末 代 の 門 弟 等 、 安 置 の た め に さ だ め お か る ゝ 本 尊 あ ま た あ り 。 い は ゆ る 六 字 の 名 号 、 不 可 思 議 光 如 来 、 元 尋 光 佛 等 な り 。 梵 漢 異 な れ ど も 、 み な 弥 陀 一 佛 の 尊 号 な り 。 こ の ほ か 、 あ る ひ は 天 竺 震 旦 の 高 祖 、 あ る ひ は 吾 朝 血 脈 の 先 徳 等 、 を の を の 真 影 を あ ら は せ ら れ た り 。 こ れ に よ り て 、 面 々 の 本 尊 、 一 々 の 真 像 等 を 、 一 鋪 の う ち に 図 絵 し て 、 こ れ を 光 明 本 と な づ く 。 け だ し 、 こ れ 当 流 の 学 者 の な か に 、 た く み い だ さ れ る と こ ろ な り 。 こ こ で 存 覚 が い う ﹁光 明 本 ﹂ が 光 明 本 尊 と い い な ら わ さ れ て い る 。 そ し て 全 国 の 光 明 本 尊 を 網 羅 的 に 調 査 し た 平 松 令 三 の 整 理 に し た が う と 、 現 存 す る 六 六 例 の 光 明 本 尊 の う ち 、 圧 倒 的 多 数 の 五 五 例 が 南 元 不 可 思 議 光 如 来 の 九 字 名 号 が 中 央 に 1  か れ た 本 尊 で あ る 。 こ の 九 字 名 号 の 向 か っ て 右 に 六 字 名 号 、 向 か っ て 左 に 十 字 名 号 が 配 さ れ 、 九 字 名 号 と 六 字 名 号 の 間 に 釈 迦 如 来 立 像 、 九 字 名 号 と 十 字 名 号 の 間 に 阿 弥 陀 如 来 立 像 を 描 き 、 さ ら に 十 字 名 号 の 向 か っ て 左 側 に は 勢 至 菩 薩 以 下 の 三 菩 薩 と 中 国 (震 旦 ) の 浄 土 仏 教 の 七 高 僧 が 描 か れ る 。 勢 至 菩 薩 以 外 の 菩 薩 は 龍 樹 菩 薩 と 天 親 菩 薩 で 菩 薩 の 姿 を と る が 歴 史 上 実 在 の イ ン ド (天 竺 )僧 で あ る 。 そ こ 七 四 で こ の 部 分 を 勢 至 菩 薩 天 竺 震 旦 祖 師 影 像 と い う 。 そ し て そ の 反 対 側 、 六 字 名 号 の 向 か っ て 右 側 に は 通 常 六 人 の 春 属 を と も な っ た 聖 徳 太 子 と 源 信 、 さ ら に 聖 覚 と 信 空 を 従 え た 源 空 、 さ ら に は 親 鸞 と そ の 門 弟 を 描 く 。 こ の 部 分 を 聖 徳 太 子 和 朝 先 徳 連 坐 影 像 と い う 。 こ れ ら を 一 幅 の 掛 軸 に ま と め る の で あ る か ら か な り の 大 幅 と な る 。 そ し て 光 明 本 尊 と い わ れ る の は 、中 央 の 九 字 名 号 か ら 発 す る 光 条 が 画 面 全 体 に 及 ぶ か ら と さ れ て い る 。 こ の 最 も 一 般 的 な 九 字 名 号 光 明 本 尊 に つ い て 、 平 松 令 三 は 高 田 専 修 寺 門 侶 に よ り 伝 え ら れ た も の も あ る が 、 そ の 多 く は 仏 光 寺 系 真 宗 寺 院 に よ り 制 作 さ れ 伝 播 し た と し 、 さ ら に そ の 背 景 に は 存 覚 の 指 導 が あ っ た と 推 定 し て い る 。 九 字 名 号 以 外 の 一 一 例 の う ち 八 例 が 八 字 名 号 で あ り 、 八 字 名 号 に は 南 無 不 可 思 議 光 佛 と 南 元 不 可 思 議 光 佛 の 二 つ の 例 が あ り 、 南 元 八 字 名 号 は 主 に 荒 木 門 徒 に よ り 、 ま た 南 無 八 字 名 号 は 鹿 島 門 徒 に よ り 伝 え ら れ た と さ れ て い る 。 そ し て 残 り 三 例 は 、 中 央 が 六 字 名 号 の 大 阪 府 堺 市 報 恩 寺 本 、 中 央 が 十 字 名 号 の 福 島 県 会 津 坂 下 町 光 照 寺 本 、 そ し て ﹁ 幅 本 で は な く 、 九 字 名 号 と 勢 至 菩 薩 天 竺 震 旦 祖 師 影 像 と 聖 徳 太 子 和 朝 先 徳 連 坐 影 像 の 三 幅 で 構 成 さ れ た 愛 知 県 岡 崎 市 の 妙 源 寺 本 が あ る 。 妙 源 寺 本 と 光 照 寺 本 が 光 明 本 尊 の 古 態 を 伝 え る 作 例 と も さ れ て い る が 、 そ も そ も 妙 源 寺 本 と 光 照 寺 本 を 他 の 光 明 本 尊 と 同 一 に 扱 う べ き か 否 か に つ い て は 異 論 も あ る 。 光 照 寺 本 は 帰 命 忠 一十 方 元 尋 光 如 来 の 十 字 名 号 で あ り 、 こ の 十 字 名 号 に 勢 至 菩 薩 天 竺 震 旦 祖 師 影 像 と 聖 徳 太 子 和 朝 先 徳 連 坐 影 像 の み で 構 成 さ れ る 。 光 照 寺 本 は 十 字 名 号 で は あ る が 一 幅 の 中 央

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の名号から光条を発して画面全体に及ぶので光明本尊として認識されて いるが、 宮崎回遵は光明本尊の特徴は中央の九字名号であるので光照寺 本はその特徴を有せず、 さらに聖徳太子和朝先徳連坐影像部分の聖徳太 子像が通例の垂髪真向き像ではなく冠を着した勝霊経講讃図であり、 さ らに弥陀・釈迦三尊も描かれていないので光明本尊には分類するべきで はないとする。そして妙 源寺本は中央幅が九字名号であるものの光明本 尊最大の特徴である三種の名号と二尊を一幅にまとめて全体に光明を及 ぼすという意匠から外れている。妙源寺は高田派の有力寺院であ り、 妙 源寺本に付された銘文は平松令三によると親鷺面授の弟子真仏の筆跡で あり、 親驚在世中の作とされている。妙源寺本を光明本尊として分類す るのが妥当かどうかはともかくとして、 三幅対の妙源寺本を一幅にする 延長線上に十字名号と六字名号、 そ れに弥陀・釈迦二尊絵像が加わって -木曾谷京野阿弥陀常初期点宗本尊に関する8・HM 通例の光明本尊が出現すると考えられており、 光照寺本はその展開過程 で登場したものと考えられてきた。 東野阿弥陀堂本の存在は、 こうした先行の初期真宗本尊研究に新たな 解釈を持ち込むことになると考える。従来の阿弥陀如来絵像は、 単独で 用いられる絵像本尊のみ考えられてきたのであるが、 妙源寺本の中央幅 である九字名号本尊を阿弥陀如来絵像本尊に替えた形式の、 つまり中央 幅が後で補われたものであるものの四天王寺本 のような形式の三幅本本 尊が存在していた可能性を示すからである。 ( 2)東野阿弥陀堂の阿弥陀如来絵像 絹本著色で本紙竪一O八・O叩、 横三七・六m。裏書はない。 上松町での史料名は阿弥陀如来来迎図となっているが、 浄土真宗では い 平。 生 阿 業 弥 成 陀 を 如 説 来 き 絵 臨 {象終 ま 来 た 迎 は を 阿 否 弥 宇 陀字

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ぐ 東 な 光明本尊像(光照寺蔵) 野阿弥陀堂本はこの阿弥陀如来絵像を中央幅として両脇に勢至菩薩天竺 震旦祖師影像と聖徳太子和朝先徳連坐影像を従える形で構想された初期 真宗本尊であると考えられる。 真向きの悉皆金色身で衣は裁金状文様で覆い尽くさ れ、 摂取不捨印を 写真4 結ぶ。しかし、 この裁金状文様には金が用いられていない。長野県立歴 史館においてX線撮影をおこなったのであるが金属反応は全く検出され なかった。唇など朱色の部分からはわずかに金属反応が検出されるが裁 ヒ 五

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問朋大学仏教文化研究所紀嬰第二十五号 金状部分には金属反応が見られず、この裁金状文様は金に似せて描く代 用金の手法が用いられていると結論づけられる。 保存状態は良好であるが、後世のかなり大がかりな補彩が認められ、 原形をやや損ねている。頭部は現状では媒髪が描かれているように見え ないが、頭部輪郭線に沿って半円状の螺髪の痕跡がある。額と生え際の 部分にも描き足されて額部分にはみ出た筆の跡がある。頭髪部分は全体 に檎彩されている。身体部分にも消えかかった輪郭線を補筆した箇所が しにくい。また光明に沿っての補彩も多い。 多い。逆に足指部分などは輪郭線が補筆されておらず足指の形状が視認 本願寺の阿弥陀如来絵像は蓮如以降、光明が四十八条となり、頭部は 数は少ないが大きな螺髪となり全体に短躯な像様になるのに対し、本作 は光明が四十九条という類例がないもので、顔は卵形でなおかつ長躯で 東野阿弥陀堂本阿弥陀如来絵像(部分) 写真5 七六 あることから蓮如以前の作であることは明らかである。鼻筋は描かれず、 耳染は貫通しない。鎌倉末から室町初期の絵像の特色を有していると考 えられる。 「絵像本尊の様式を定める際に手本とした原型 像であると考えられている」とされる蓮如期本願寺系阿弥陀如来絵像で 光輪にも特徴がある。 ある簡谷大学所蔵阿弥陀仏絵像、かつて本願寺にあった臨終仏とも考え られている近江称名寺阿弥陀如来絵艇などが本願寺系阿弥陀知来絵像光 輸の特徴をよく示していると考えられる。これらの絵像では、光輪は頭 部中心部分が金色で同心円状に次第に外に向かって耳染の辺より藍色に なり、更に一再び金色になって外郭が金輪で縁取られる例が多い。これに 対し本作は、中心部分が藍色の地色を残し、次いで耳染の辺りから朱色 の線に縁取られ外に行 くにしたがって濃くなる特徴的 な朱色の帯が現 れ、その朱の帯の外側は緑がかった茶色から外へ向かって焦げ茶色にな るグラデ!シヨンとなり、外縁を金輸が縁取る。全く同じような例を見 いだすことはできないが、朱の帯が見られる絵像本尊の類例としては四 人体の化仏をともなう山梨県富士吉田市大正寺本、向き合う男女連坐像 をともなう岩手県盛岡市本菩寺本、山梨県南都留郡安養軒本、福島県二 本松市善性寺本、新潟県新井市光照寺本などがあり、光明本尊の例では 岩手県盛岡市本番寺本、高田派京都別院本などがある。いずれも南北朝 から室町時代の作とされ、東国に多い。 最上部の九・八四部分の光明は後で描き足したようであり、この部分

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正 な 印 象 を 受 け る 絵 像 で あ る 。 本 願 寺 系 絵 像 本 尊 と は 一 線 を 画 す る 明 ら か に 異 な っ た 様 式 を 有 し て い る と い え る 。 に 銘 文 が あ っ た こ と を う か が わ せ て い る 。 最 下 部 の 〇 ・ 四 ㎝ 部 分 も 同 様 に 料 絹 を 継 ぎ 足 し た よ う に 観 察 さ れ 、 元 来 は 少 な く と も 上 に は 銘 文 が あ り 、 場 合 に よ っ て は 上 下 に 銘 文 が あ っ た 可 能 性 が 高 い 。 現 存 す る 初 期 真 宗 絵 像 本 尊 に 引 首 の 銘 文 が 付 さ れ た 例 は ひ と つ も 見 出 せ な い 。 し か し ﹁袖 日 記 ﹂ に は 康 安 元 年 ( 一 三 六 一 )七 月 二 八 日 の 光 明 遍 照 の 文 を 付 し た 江 喜 良 島 本 尊 と 第 十 八 願 文 を 付 し た 応 安 四 年 ( 一 三 七 一 ) 三 月 四 日 の 京 都 三 条 東 桐 院 住 の 尼 法 一 本 尊 の 二 例 が 記 載 さ れ て い る 。 法 一 本 尊 は 色 紙 形 が 三 段 で あ り 、 江 喜 良 島 本 尊 は 銘 文 が 上 ば か り で あ っ た と 記 さ れ て い 誕 。 つ ま り 東 野 阿 弥 陀 堂 本 は ﹁袖 日 記 ﹂ で は 存 在 が 確 認 さ れ る も の の 現 存 は し な い 銘 文 を 付 し た 古 態 の 絵 像 本 尊 が 実 在 し た こ と を 暗 示 す る 唯 一 の 作 例 と い う こ と に な る 。 初 期 の 絵 像 本 尊 は 来 迎 図 の 影 響 を 受 け た 雲 座 が 描 か れ た り 、 化 仏 を と も な う も の な ど 多 様 で あ る が 、 や が て 方 便 法 身 尊 像 と い う 真 向 き で 光 明 が 全 身 に 及 ぶ 独 特 の 様 式 に 統 一 さ れ て い く 。 こ う し た 方 便 法 身 尊 像 と し て の 絵 像 本 尊 の 出 現 時 期 は ﹁慕 帰 絵 ﹂ に 描 か れ た 箇 所 が 二 例 あ り 、 覚 如 の 頃 に は 光 明 が 全 身 に 及 ぶ 真 宗 独 特 の 絵 像 が 奉 懸 さ れ て い た こ と が 確 認 で き る と さ れ て い る 。 本 作 が 重 要 な の は 、 こ の 覚 如 期 の 絵 像 本 尊 で あ る と 考 え ら れ る か ら で あ る 。 本 作 は 初 期 真 宗 絵 像 本 尊 に 散 見 さ れ る 稚 拙 で 個 性 的 な 絵 像 と は 全 く 異 な る 。 し か し 先 に も 述 べ た よ う に 光 明 が 四 九 条 と あ ま り 類 例 が な く 、 光 輪 に も 東 国 に 多 く 残 存 す る 作 例 と 共 通 す る 点 を 持 ち な が ら も 、 長 躯 で 端 木 曾 谷 東 野 阿 弥 陀 堂 初 期 真 宗 本 尊 に 関 す る 考 察 3   聖 徳 太 子 和 朝 先 徳 連 坐 影 像 (︱ ) 概 要 絹 本 著 色 で 本 紙 竪 一 〇 八 ・ 二 ㎝ 、 横 三 六 ・ 八 ㎝ 。 裏 書 は な い 。 上 松 町 で は ﹁太 子 七 高 僧 図 ﹂ と 命 名 さ れ て い る が 、 史 料 名 と し て は 、 ﹁袖 日 記 ﹂ が こ の 種 の 本 尊 に ﹁聖 徳 太 子 井 和 朝 先 徳 真 像 ﹂ (瓜 生 津 本 尊 ) と い う 名 称 を 用 い て い る こ と か ら ﹁聖 徳 太 子 和 朝 先 徳 連 坐 影 像 ﹂ の 方 が 適 切 で あ ろ う と 思 わ れ る 。 擦 れ や 剥 落 、 変 色 が そ こ こ こ に あ り 、 上 端 な ど は 薫 染 も 著 し い が 、 図 像 を 読 み 取 れ な い ほ ど で は な い 。 そ れ ぞ れ の 像 主 に は 朱 で 縁 取 り さ れ た 札 銘 が あ る 。 札 銘 、 色 紙 形 に は 後 世 の 修 復 が 認 め ら れ る が 、 最 初 は 料 絹 に 直 接 書 き 込 ん だ よ う に 観 察 で き る 。 特 に ﹁恵 慈 法 師 ﹂ 、 ﹁蘇 我 大 臣 ﹂ 、 ﹁皇 太 子 聖 徳 ﹂ 、 ﹁信 空 法 師 ﹂ 、 ﹁法 印 大 和 尚 聖 受 ﹂ と 聖 徳 太 子 の 色 紙 形 は 明 ら か に 料 絹 に 直 接 書 き 込 ん で い る 。 ﹁博 士 学 爵 ﹂ 、 ﹁小 野 大 臣 ﹂ 、 ﹁恵 心 院 源 信 和 尚 ﹂ の 札 銘 と 源 信 の 色 紙 形 は 下 地 が 補 彩 さ れ て い る 。 ま た ﹁ 日 本 源 空 聖 人 ﹂ 、 ﹁本 願 寺 親 鸞 聖 人 ﹂ 、 ﹁ [   ] 如 信 法 師 ﹂ 、 ﹁ ︻   ︼ 受 如 ﹂ の 札 銘 は 当 初 の 部 分 と 補 筆 部 分 が 混 在 し て い る 。 お そ ら く 修 復 の 際 に 補 筆 し た の で あ ろ う 。 札 銘 、 色 紙 形 の 筆 跡 は 、 一 部 に 後 世 の 補 修 の 際 に 欠 損 部 分 を 書 き 足 し た と 思 わ れ る 部 分 が あ る が 、 全 体 的 に 同 一 人 物 に よ り 七 七

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同 朋 大 学 仏 教 文 化 研 究 所 紀 要 第 二 十 五 号 制 作 時 に 書 か れ た も の と 判 断 し て よ い 。 図 容 は 以 下 の 三 区 画 か ら 全 体 が 構 成 さ れ 、 浄 土 真 宗 の 観 点 か ら 日 本 へ の 仏 法 伝 来 以 来 の 血 脈 相 承 が 表 現 さ れ て い る 。 七 八 袴 、 さ ら に そ の 下 に 縁 が 朱 色 の 大 口 袴 を 着 し て い る よ う に 観 察 で き る 。 盤 領 抱 の 襟 元 か ら は 下 に 着 て い る 衣 の 赤 い 襟 が 見 え る 。 灰 色 の 条 の 七 条 袈 裟 と 朱 色 の 横 被 を ま と い 、 沓 裏 が 前 方 に 大 き く 反 り 返 り 先 端 が 州 浜 状 に な っ た 茶 色 の 沓 を 履 く 。 朱 色 地 の 上 敷 を 敷 い た 二 段 枢 の 上 に 立 ち 、 朱 色 地 の 上 敷 に は 茶 色 の 線 で 格 子 が 描 か れ て い る 。 背 後 に 朱 色 の 懸 布 の 後 屏 が あ り 、 こ の 後 屏 の 上 部 に は 唐 破 風 横 桟 を 渡 し 、 そ の 両 端 に 蕨 手 が あ る 。 後 屏 の 左 右 の 辺 に は そ れ ぞ れ 斜 め 下 に 何 本 も 等 間 隔 に 線 が 引 か れ た 馬 簾 が あ り 、 多 く の 垂 髪 聖 徳 太 子 像 と 共 通 す る 装 飾 で あ る 。 馬 簾 の 内 側 は 茶 色 で 更 に そ の 内 側 が 朱 色 と な っ て い る 。 こ の 部 分 は 朱 の 地 に 茶 色 で 花 模 様 が 施 さ れ て い る 。 手 に は 柄 香 炉 を 持 つ が 擦 れ と 退 色 で 柄 香 炉 の 色 や 形 は 判 然 と し な い 。 聖 徳 太 子 の 左 右 に 以 下 の よ う な 色 紙 形 が あ る 。 向 か っ て 右 部 分 聖 徳 太 子 御 廟 記 文 掘 出 一 銅 笛 其 蓋 銘 日   吾 為 利 生 出 彼 衝 山 入 此 日 域 向 か っ て 左 部 分 降 伏 守 屋 之 邪 見 終 顕 佛 法 之 威 徳 (2 ) 図 像 の 詳 細 ① 聖 徳 太 子 お よ び 四 侍 臣 画 面 下 段 に は 、 聖 徳 太 子 と 四 侍 臣 が 描 か れ る 。 札 銘 が あ り 、 聖 徳 太 子 は ﹁皇 太 子 聖 徳 ﹂ 、 四 侍 臣 は 左 (向 か っ て 右 ) の 上 か ら ﹁小 野 大 臣 ﹂ 、 ﹁蘇 我 大 臣 ﹂ 、 右 (向 か っ て 左 )は 上 か ら ﹁博 士 学 研 ﹂ 、 ﹁恵 慈 法 師 ﹂ と な っ て い る 。 た だ し 、 ﹁博 士 学 寄 ﹂ の 札 銘 は 左 半 分 が 失 わ れ て お り ﹁博 士 ﹂ 部 分 は 何 と か 読 め る が そ の 下 は 確 実 に 判 読 出 来 な い 。 し か し 類 例 か ら ﹁博 士 学 研 ﹂ に 間 違 い な い で あ ろ う 。 た だ 学 研 な の か 学 留 な の か は わ か ら な い 。 聖 徳 太 子 は 垂 髪 で 真 向 き に 描 か れ る 。 こ れ は 妙 源 寺 本 や 多 く の 光 明 本 尊 と 同 様 の 髪 型 で あ る が 、 髪 が み ず ら で は な く 垂 髪 で あ る 理 由 に つ い て 津 田 徹 英 は 、 童 子 形 垂 髪 像 が 中 世 太 子 伝 の ひ と つ ﹁松 子 伝 ﹂ 太 子 四 八 歳 条 に 依 拠 し な が ら も 聖 徳 太 子 を 救 世 観 音 垂 迩 の 表 象 と し た た め 真 向 き 垂 髪 の 童 子 形 を と る と し て い る 。 聖 徳 太 子 は 盤 領 抱 を 着 す る 。 盤 領 抱 の 表 地 は 焦 茶 色 の 亀 甲 文 で 亀 甲 文 の 内 区 に も 同 色 の 模 様 が あ り 、 表 地 の 全 面 に 繰 り 返 さ れ 、 裏 地 は 袖 口 か ら 判 断 す る と 黄 色 で あ る 。 そ の 下 に 茶 色 地 に 縁 が 朱 色 で 金 線 を 施 し た 表

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親驚自身が編した 『 上宮太子御記 』 は古記を引用して天 喜二 年 (一O 五 四)に僧忠禅が聖徳太子の廟所であ る磯長廟に宝塔を建立しようと掘っ たところ、 銅の函が出現しその蓋にこの銘文があったことを伝える。 小 (却ザ 山正文は引用された古記自体は天喜二年あたりの作為物と推定するが、 れていく。 この聖徳太子御廟記文は妙源寺本以降、 多くの真宗聖徳太子像に継承さ 侍臣のうち、 小野妹子は茶色の縫肢砲にも見えるが料絹の擦れて下地 の紙が見えているためで、 残った絹から判断するとその色は黒であり、 白い表袴を着する。 蘇我馬子は朱に金線で模様の描かれた縫肢砲に茶色 の平緒をまわし直万を傾き、 学寄は薄い朱色と茶色の入り交じった縫服 木骨日谷ぃ米野阿弥陀堂初期点宗本作に関する考-HM 東野阿弥陀堂本塑徳太子 写真6 砲を着し前方に茶色い平緒の垂れを垂らす。 それぞれ拐を持つが学寄の みは坊の上下を両手で挟むように保持している。 小野大臣、 蘇我大臣、 博士山字幕は下部が白い脚のついたスツール状の床凡に座るが、 小野妹子 は赤の地にに金の三日月模様が施された上敷、 蘇我馬子は薄茶色の地に に金の小紋が施された上敷に座していることが見て取れ る。 恵慈は白衣 の上に薄茶色に黄銅色の大きな花紋の描かれた色衣に黄銅色に茶の直線 的で左右対称の唐草模様の施された条で田相は茶色で自の小紋がある七 条袈裟をまとって検被は着けず、 両手を握って胸元で合わせる内縛印を 結ぶ。 側面が三つに区画され内区が白い礼盤に赤い地に三日月模様の上 敷を敷いて座る。 札盤の用材の両辺は朱で縁取りされている。 妙源寺本聖徳太子 写真7 ヒ 九

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同朋大学仏教文化研究所紀要第二十五日す 僧侶は礼盤に、{巨人は床凡という坐具の明確な描き分けがおこなわれ ている。 三人の官人のうち小野大臣のみは髭をはやしていない。 小野妹 子は聖徳太子を見上げ、 蘇我馬子は敬礼するように下を向く。 小野大臣 の足は蘇我大臣に隠れてよく見えない が、 蘇我大臣は明らかに脆坐して いる 。 その 一 方 、 学寄も聖徳太子を見上げるが恵慈とともに胡坐してい るように見える。 ②源信 画面中央よりやや下に源信が描かれ「恵心院源信和尚」という札銘が ある。 源信は礼撃の上に座るが、 礼盤の後部には楕円割り抜き状装飾の 上下に団子型の木彫を横に並べた意匠が施さ れた支柱の 上部に木目は はっきり描きこまれた唐破風の検桟を渡した背扉がある。 単に札盤に座 るよりも敬意を示した表現である。 恵慈の礼盤と同様に札盤の用材の両 辺は朱で縁取りされているが、 側面は四区に分かれ、 内区は端が朱で縁 取りされた丸い十字型装飾がある板で装飾されている。 源信は白衣の上に黒衣を若し、 薄茶色の七条袈裟と横被をまと い、 右 手を左手より上にして茶色の数珠を持ち、 胡座している。 七条袈裟の向 かつて右下部分に僅かに水色の彩色が認められる。 源信の左右にも以下のような色紙形がある。 向かって右部分 前権少僧都法眼和尚位 源信俗姓卜部大和国葛 }\

城郡人也寛仁元年 六月十日御入滅春秋 向かって左部分 七十六 臨終云 我是古偽霊山聴衆 化縁己輩令還本土 密かれている銘文は妙源寺本やその他の光明本尊および和朝先徳連坐 影像の源信色紙形と同様であるが、 銘文の出血ハについては試案が提示さ れているものの決定的結論は得られていない。 ③源空以下先徳 画面の上段には六人の先徳が描かれる。 札銘により右(向かって左)は 東野阿弥陀堂本源{言以下先徳影像 写真8

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上から「[ ]如信法師」、 「日本源杢聖人」、 て右)は上から「[ ] 覚如 」 、 「 本願寺親鷲聖人」、 である。 覚如と如信の札銘は椅書で他の札銘や色紙形銘文はやや崩され 「法印大和尚聖覚」 ているが同筆と 見てよいように観察される。 「信空法師」、 左(向かっ 如信の札銘の上部は あたかも塗りつぶされたかのようで 本紙の上端ま で続く札銘と思われるものが黒く盛り 上が っている。 ここに何かが書か 以上の空白がある。 れていた可能性が高いが、 塗りつぶし部 分と 「如 」の字の聞には一字分 党如の札銘は上部が切れて 見えなくなっているが、 た下には一字分の空白があるものの字が普かれた形跡はない。 念のため 「覚如」と密かれ 赤外線撮影してみたが 、 「 覧如 」 のみでその下には何も 書かれていない 。 る紙が残っている。 覚如の札銘の上部が亡失したと思われ 、後 世の補修の際の 残片と思われ 「 覚如 」 の 上 にはおそらく 「 稼 」 があ っ たの で が な いかと想像 される。 つまり、 この 点が本作で最も重要な点であるが、 木曾谷東野阿弥陀堂初期真宗本尊に関する考察 東野阿弥陀堂本覚在日札銘 (赤外線写真) 写真9 四ー寸 「ー, ]先知」の尊称をともなわない札銘から 、覚 如在世中に覚如また は覚如に近い筋の指示により制作 されたことが考えられるのである。 如信の胸元など先徳像には白っぽくなった部分が見られる が、 これは 絹が剥落して下の紙に補筆が施された部分であ る。 源空以下の先徳は 、 いず れも白衣の上に 黒衣を着し白い大威儀の墨袈裟を着けている。 知信 のみ大威儀が見えないが これは絹が剥落しているため である。 聖覚は左 手のみが見え 、右 手は袖に隠れて 見ず、 この 聖覚のみが黒い数珠で他の 先徳は茶色の数珠を持つ。 源空以下六人の先徳のうち源空だけが 札盤に座り、 やや左に体を傾け 数珠を持つ定型的図 像で 描かれている。 恵慈、 源信の礼盤と 同様に礼盤 の用材の両辺は朱で 縁取りされているが、 内区の側面は後に灰色に塗ら れたよ、つで、 いく つに区 切られていたか判然としない。 他の五人の先徳 は 高麗縁の上げ畳に座るが、 親鷲は大紋高麗の縁であり他の四人は小紋 高麗の縁である。 六人の先徳のうち信空・聖覚は 他の四人の先徳が やや 小さめに描かれている。 制作者の意識としては 、源 空 、 親鷲 、知 信 、覚 如の順に重視して描き、 これに 次いで 信空と聖覚を位置づけていたもの と思われる。 ( 3)類例 本作の類例としてまずあげられるのが、 妙源寺所蔵三幅 本初期真宗本 尊(光明本尊像)である。 妙源寺本は中央幅が南元不可思議光知来の九字 }\

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同 朋 大 学 仏 教 文 化 研 究 所 紀 要 第 二 十 五 号 名 号 、 右 幅 (向 か っ て 左 ) が 勢 至 菩 薩 天 竺 震 旦 祖 師 影 像 、 左 幅 (向 か っ て 右 ) が 聖 徳 太 子 和 朝 先 徳 影 像 と な っ て い る が 、 そ の 左 幅 と 東 野 阿 弥 陀 堂 本 聖 徳 太 子 和 朝 先 徳 連 坐 影 像 は 非 常 に よ く 似 て い る 。 一 般 に 聖 徳 太 子 和 朝 先 徳 連 坐 影 像 は 時 代 を 追 う に ﹃つ れ 、 侍 臣 に 日 羅 と 阿 佐 が 加 わ る 六 侍 臣 と な り 先 徳 の 数 も 増 え て い く 。 こ の 点 で 東 野 阿 弥 陀 堂 本 は 妙 源 寺 本 同 様 に 四 侍 臣 で あ る 。ま た 先 徳 も 源 信 を 含 め 七 人 の み で 、 妙 源 寺 本 に 如 信 と 覚 如 が 加 わ っ た の み で 古 態 を 伝 え て い る 。 源 空 や 親 鸞 の 坐 具 も 時 代 が 下 る に つ れ 源 空 は 色 衣 ・ 七 条 袈 裟 を ま と っ て 椅 子 に 坐 す が 、 本 作 は 妙 源 寺 本 と 同 じ よ う に 源 空 は 礼 盤 に 、 親 鸞 は 上 げ 畳 に 坐 る 古 い 描 き 方 で あ る 。 三 幅 本 の 本 尊 と し て 妙 源 寺 本 以 外 に 前 に も 触 れ た 四 天 王 寺 本 が あ る 。 し か し 左 右 幅 が 一 五 世 紀 の 作 例 と 考 え ら れ る こ と と 、 中 央 幅 阿 弥 陀 如 来 絵 像 は 後 世 の 作 で あ る こ と か ら 東 野 阿 弥 陀 堂 本 の ほ ぼ 同 時 代 の 類 例 と は 考 え ら れ な い 。 た だ 東 野 阿 弥 陀 堂 本 同 様 の 絵 像 本 尊 を 中 央 幅 と す る 三 幅 本 本 尊 が 存 在 し て い た 可 能 性 を 示 す も の と い え る か も し れ な い 。 。 そ し て 従 来 、 妙 源 寺 本 に 次 ぐ 古 本 と い わ れ て い る の が 福 島 県 光 照 寺 の 光 明 本 尊 で あ る 。 光 明 本 尊 の 祖 型 は 妙 源 寺 本 に あ る と い わ れ る が 、 光 照 寺 本 は 中 央 に 十 字 名 号 を 据 え 、 右 (向 か っ て 左 ) に 天 竺 震 旦 部 を 、 左 (向 か っ て 右 ) に 和 朝 部 を 配 置 し 、 一 幅 に ま と め た も の で あ る 。 光 照 寺 本 は 一 幅 本 で あ る 光 明 本 尊 の な か で 最 も 古 い と い わ れ 、 現 存 す る 光 明 本 尊 の な か で 中 央 の 名 号 が ﹁帰 命 盗 十 方 元 尋 光 如 来 ﹂ の 十 字 名 号 で あ る 唯 一 の 八 二 光 明 本 尊 と し て 知 ら れ て い る 。 光 照 寺 本 は 聖 徳 太 子 の 侍 臣 は 六 人 で あ り 、 源 空 は 色 衣 を ま と い 椅 子 に 坐 り 、 親 鸞 も 礼 盤 に 坐 っ て い る の で あ り 、 形 態 的 に は 東 野 阿 弥 陀 堂 本 よ り 明 ら か に 新 し い 。 そ の 後 の 光 明 本 尊 は 三 つ の 名 号 と 阿 弥 陀 如 来 、 釈 迦 如 来 二 尊 を 勢 至 菩 薩 天 竺 震 旦 祖 師 影 像 と 聖 徳 太 子 和 朝 先 徳 連 坐 影 像 の 間 に 挟 ん で 描 く 独 特 の 形 式 に 統 一 さ れ て い く 。 ま た 各 地 に 伝 わ る 単 一 の 聖 徳 太 子 和 朝 先 徳 連 坐 影 像 の 像 様 も 源 空 は 色 衣 を ま と い 椅 子 に 坐 り 、 親 鸞 も 礼 盤 に 坐 っ て い る 。 和 朝 先 徳 の な か に 如 信 、 覚 如 を 入 れ る の は 東 野 阿 弥 陀 堂 本 の 最 大 の 特 徴 で 、 他 に 類 例 を 見 ず 、 こ の 点 が 特 に 注 目 さ れ る 。 如 信 像 は 親 鸞 像 と と も に 首 に 帽 子 と い う 襟 巻 き が 描 か れ る の が 通 例 で あ る が 、 東 野 阿 弥 陀 堂 本 は こ の 例 を 踏 襲 し て い る 。 如 信 は 親 鸞 に 義 絶 さ れ た と い わ れ る 善 鸞 の 子 で 、 如 信 が 帽 子 を 着 す る 尊 崇 の 念 を 以 て 描 か れ る の は 、 如 信 が 親 鸞 の 孫 で 親 鸞 の 膝 元 で 育 ち 東 国 へ 赴 い た 人 物 で 、 親 鸞 入 滅 後 に そ の 教 義 を 最 も よ く 伝 え て い た と さ れ 、 覚 恵 ・ 覚 如 父 子 は 如 信 か ら 親 鸞 正 統 の 教 義 を 受 け 継 い だ と さ れ る か ら で あ る 。 親 鸞 女 子 の 覚 信 尼 の 子 で あ る 覚 恵 を 父 と し て 生 ま れ た 覚 如 は 親 鸞 の 曾 孫 に あ た る 。 弘 安 一 〇 年 ( 一 二 八 七 ) 、 陸 奥 の 大 網 か ら 上 洛 し た 如 信 に 覚 恵 ・ 覚 如 父 子 は 真 宗 の 要 義 を 受 け 、 さ ら に 正 応 三 年 か ら 五 年 に か け て 覚 恵 、 覚 如 は 関 東 の 親 鸞 遺 跡 を 巡 拝 し 、 相 模 余 綾 山 中 で 善 鸞 ・ 如 信 父 子 と 漫 遁 し 、 そ の こ と を 元 弘 元 年 ( 一 三 三 一 )成 立 の ﹁ 口 伝 抄 ﹂ で 述 べ て い る 。

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東 野 阿 弥 陀 堂 本 は 、 親 鸞 か ら 如 信 を 通 し て 親 鸞 の 曾 孫 覚 如 に 血 統 と と も に 教 義 が 相 承 さ れ た こ と を 示 し て い る 構 成 に な っ て い る 。 親 鸞 、 如 信 、 覚 如 と い う 血 統 と 法 義 の 継 承 は 本 願 寺 覚 如 が 特 に 強 調 す る こ と で あ り 、 聖 徳 太 子 に 始 ま る 日 本 へ の 仏 法 伝 来 、 浄 土 信 仰 の 継 承 と と も に 覚 如 が 主 張 す る 本 願 寺 の 正 統 性 が 本 作 に 如 実 に 反 映 さ れ て い る と い え る 。 聖 徳 太 子 和 朝 先 徳 連 坐 影 像 の 多 く は 親 鸞 に 次 い で そ の 弟 子 で あ る 関 東 門 弟 が 描 か れ 、 如 信 や 覚 如 を 介 在 さ せ な い 。 ﹃真 宗 重 宝 聚 英 ﹄ 収 録 法 物 の な か で 高 僧 連 坐 像 に ま で 範 囲 を 広 げ て み て も 如 信 と 覚 如 を 描 く の は 石 川 県 加 賀 市 の 大 谷 派 本 善 寺 本 と 奈 良 県 西 吉 野 村 の 本 願 寺 派 円 光 寺 本 と 西 本 願 寺 本 の 三 点 の み で あ り 、 き わ め て 稀 有 と い え る 。 従 来 は 暗 黙 の う ち に 聖 徳 太 子 和 朝 先 徳 連 坐 影 像 は 本 願 寺 門 流 で は 制 作 さ れ な か っ た と 理 解 さ れ て き た と 思 う の で あ る が 、 東 野 阿 弥 陀 堂 本 は そ う し た 理 解 を 覆 す 本 願 寺 三 代 伝 持 を 強 調 す る 現 存 唯 一 の 聖 徳 太 子 和 朝 先 徳 連 坐 影 像 と い う こ と に な る 。 と こ ろ が ﹃袖 日 記 ﹄ に よ れ ば 、 存 覚 が 目 に し た 本 尊 の な か に 東 野 阿 弥 陀 堂 本 同 様 に 如 信 ・ 覚 如 の 描 か れ た 聖 徳 太 子 和 朝 先 徳 連 坐 影 像 が あ っ た こ と が 記 さ れ て い る 。 そ れ は 延 文 五 年 ( 一 三 六 〇 )越 後 国 柿 崎 荘 の 教 浄 房 所 持 の 本 尊 で 次 の よ う に 記 さ れ て い る 。 両 上 人 之 外

-上

賢︱

両 上 人 と は 、 い う ま で も な く 源 空 と 親 鸞 で あ り 、 如 信 ・ 覚 如 を 描 く の 木 曾 谷 東 野 阿 弥 陀 堂 初 期 真 宗 本 尊 に 関 す る 考 察 は 親 鸞 か ら の 本 願 寺 三 代 伝 持 を 強 調 す る た め で あ る の は 明 ら か で あ る 。 如 信 ・ 覚 如 を 描 く 先 徳 影 像 制 作 者 は 本 願 寺 門 流 以 外 に は 考 え ら れ な い 。 晩 年 の 覚 如 は 存 覚 や 仏 光 寺 と の 対 立 の な か で 絵 系 図 を 激 し く 非 難 す る の で あ る が 、 ﹁改 邪 紗 ﹂ に は ﹁仏 法 示 海 の 恩 徳 を 恋 慕 し 仰 崇 せ ん か た め に 三 国 伝 来 の 祖 師 先 徳 の 尊 像 を 図 絵 し 安 置 す る こ と こ れ ま た つ ね の こ と な り ﹂ と あ り 、 先 徳 影 像 自 体 は 否 定 し て い な い の で あ る 。 東 野 阿 弥 陀 堂 本 の 例 も 含 め て 覚 如 自 身 の 描 か れ た 先 徳 影 像 を も 許 容 を し て い た の で あ ろ う 。 ﹁袖 日 記 ﹂ の 教 浄 房 本 尊 に 関 す る 記 述 や 東 野 阿 弥 陀 堂 本 の 存 在 は 聖 徳 太 子 和 朝 先 徳 連 坐 影 像 が 本 願 寺 門 流 で も 用 い ら れ て い た こ と を 示 す 。 こ の こ と は 、 と も す れ ば 聖 徳 太 子 和 朝 先 徳 連 坐 影 像 は 本 願 寺 以 外 の 初 期 門 流 で 用 い ら れ た も の で あ り 、 本 願 寺 か ら み て 異 端 的 な 法 物 で あ る と い う 従 来 の 漠 然 と し た 理 解 を 見 直 す 必 要 が あ る よ う に 考 え る 。 こ の 点 に 関 し て は 後 述 す る 。 東 野 阿 弥 陀 堂 本 は 先 徳 の 配 置 に も 大 き な 特 徴 が あ る 。 妙 源 寺 本 は 源 空 、 信 空 、 聖 覚 が 正 三 角 形 を 構 成 す る よ う に 並 び 、 源 空 の 向 か っ て 左 上 に や や 小 さ め に 付 属 す る よ う に 親 鸞 が 配 置 さ れ て い る 。 ま た 信 空 の 黒 衣 は 聖 覚 の 黒 衣 に 比 べ て 輪 郭 が 直 線 的 で あ り 強 装 束 の よ う に 描 か れ て い る 。 こ の 信 空 の 衣 の 描 き 方 は 東 野 阿 弥 陀 堂 本 や 光 照 寺 本 に も 引 き 継 が れ て い こ れ に 対 し 東 野 阿 弥 陀 堂 本 は 源 空 の 直 下 に 信 空 、 向 か い 合 っ て 聖 覚 を 描 く が 、 源 空 を 頂 点 と す る 正 三 角 形 構 成 が 崩 さ れ 、 親 鸞 が 源 空 と 聖 覚 の 八 三

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比 す る と 源 空 と 親 鸞 の 位 置 関 係 は 同 じ で あ り 、 東 野 阿 弥 陀 堂 本 の 如 信 町    ﹁本 願 寺 ﹂ の 寺 号 を 得 た と さ れ る た か 、 少 な く と も 正 和 元 年 以 降 の 制 作 八 四 の 寺 号 を 掲 げ る 。 し か し ﹁ 一 期 記 ﹂ に よ る と こ の 寺 号 は 比 叡 山 の 衆 徒 が 反 対 し た た め 、 一 旦 掲 げ ら れ た 寺 号 は 撤 去 さ れ た 。 親 鸞 廟 堂 が ﹁本 願 寺 ﹂ と 名 乗 っ た こ と が 確 認 で き る 最 も 古 い 史 料 は 元 亨 元 年 ( 一 三 二 こ 二 月 日 の (親 鸞 門 弟 等 申 状 孔 J ) と 同 年 二 月 三 〇 日 の (妙 香 院 挙 状 案 ら )で あ る ゜ 大 谷 の 親 鸞 廟 堂 は 正 和 元 年 こ ご 二 二 ) か ら 元 亨 元 年 ( 一 三 二 こ の 間 に 同 朋 大 学 仏 教 文 化 研 究 所 紀 要 第 二 十 五 号 間 に 割 り 込 む 形 に な り 、 源 空 の 上 に 如 信 、 親 鸞 の 上 に 覚 如 を 配 し て い る 。 こ の 連 坐 構 成 は 光 照 寺 本 に 引 き 継 が れ て い く よ う に 考 え ら れ る 。 光 照 寺 本 は 源 信 の 両 脇 に あ た か も 春 属 の 如 く に 信 空 ・ 聖 覚 を 配 す る の で あ る が 、 こ れ は 源 空 門 弟 の 信 空 ・ 聖 覚 が 上 部 に 配 さ れ た 真 仏 以 下 に 圧 迫 さ れ て 下 っ て き た も の で あ る と 考 え ら れ る 。 東 野 阿 弥 陀 堂 本 と 光 照 寺 本 を 対 位 置 に 真 仏 と 明 空 が 、 覚 如 の 位 置 に 隆 偏 が 描 か れ て い る 。         、 で あ る こ と は 明 ら か で あ る 。 こ の よ う に 、 妙 源 寺 本 、 東 野 阿 弥 陀 堂 本 、 光 照 寺 本 に つ い て み て み る     そ し て 東 野 阿 弥 陀 堂 本 は 、 親 鸞 、 如 信 、 覚 如 の 三 代 伝 持 を 示 す 。 こ の と 、 こ の 順 番 に 初 期 真 宗 本 尊 が 変 化 し て い っ た 過 程 を う か が う こ と が で    三 代 伝 持 説 は 文 献 的 に は 元 弘 元 年 ( 一 三 三 一 ) の 覚 如 ﹁ 口 伝 炒 ﹂ が 初 見 で 4   東 野 阿 弥 陀 堂 本 の 史 料 的 意 義 (1 )制 作 時 期 と 制 作 者 東 野 阿 弥 陀 堂 本 の 制 作 時 期 に つ い て は 、 聖 徳 太 子 和 朝 先 徳 連 坐 影 像 の 札 銘 か ら の 考 察 が 可 能 で あ る 。 伝 承 で は 本 作 は 如 信 筆 と も 覚 如 筆 と も 伝 え る が 、 先 に も 述 べ た よ う に 覚 如 の 尊 称 を と も な わ な い 札 銘 か ら 、 覚 如 ま た は 覚 如 に 近 い 筋 の 指 示 に よ り 制 作 さ れ た こ と が 考 え ら れ る 。 そ し て 親 鸞 に 付 さ れ た 札 銘 ﹁本 願 寺 親 鸞 聖 人 ﹂ の 本 願 寺 寺 号 も 本 作 の 制 作 時 期 を 推 定 す る 手 が か り と な る 。 覚 如 は 親 鸞 廟 堂 留 守 職 就 任 か ら 二

(

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(

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か ら 観 応 二 年 ( 一 三 五 一 ) の 間 に 制 作 さ れ た と 考 え ら れ 、 さ ら に ﹁ 口 伝 炒 ﹂ 成 立 以 降 で あ る と す る と 元 弘 元 年 以 降 の 制 作 と 判 断 で き る 。 札 銘 に 記 さ れ た 文 字 史 料 と ﹁ 口 伝 炒 ﹂ の 三 代 伝 持 説 か ら 、 制 作 時 期 が 一 三 三 一 年 か ら 五 一 年 ま で の 二 〇 年 間 に し ぼ り 込 ま れ る 史 料 で あ る と い う こ と が 重 要 で あ る 。 し か し 阿 弥 陀 如 来 絵 像 の 制 作 時 期 に 関 し て は 必 ず し も 明 確 に 判 断 で き な い 。 そ も そ も 阿 弥 陀 如 来 絵 像 と 聖 徳 太 子 和 朝 先 徳 連 坐 影 像 、 そ し て 失 わ れ た 勢 至 菩 薩 天 竺 震 旦 祖 師 影 像 で あ ろ う 十 三 仏 と 呼 称 さ れ て い た 法 物 が 一 具 の も の と し て 制 作 さ れ た の か ど う か が 検 討 さ れ る べ き で あ ろ う 。 こ れ ま で 考 察 し て き た よ う に 東 野 阿 弥 陀 堂 本 の 阿 弥 陀 如 来 絵 像 と 聖 徳 太 子 和 朝 先 徳 連 坐 影 像 の 両 者 は 成 立 の 背 景 に 相 反 す る 要 素 を も っ て い る き る 。 そ し て 、 そ の 延 長 線 上 に 光 明 本 尊 へ の 展 開 と そ の 他 の 初 期 真 宗 本 尊 と の 分 岐 点 が 存 在 す る よ う に 考 え ら れ る の で あ る 。

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て 制 作 さ れ た こ と も 想 定 が 可 能 で あ ろ う 。 こ の 場 合 の 制 作 地 は 京 都 と 東 国 の 双 方 が あ り 得 る 。 し か し 、 完 成 後 に 何 ら か の 理 由 で 名 号 本 尊 が 単 独 の 本 尊 と し て 用 い ら れ る よ う に な っ た た め に 、 両 脇 に あ わ せ る 形 で 、 東 国 の 画 工 に よ り 絵 像 本 尊 が 新 た に 制 作 さ れ て 本 願 寺 系 と は 異 な る 絵 像 本 尊 を 中 央 幅 と す る 三 幅 本 の 本 尊 が 成 立 し 、 そ れ が や が て 木 曾 谷 に 運 ば れ た と い う 場 合 で あ る 。 つ ま り 四 天 王 寺 本 の よ う に 阿 弥 陀 如 来 絵 像 が 後 で 補 わ れ た 事 例 に 相 当 す る の で は な い か と い う こ と で あ る 。 た だ こ の 第 二 の 場 合 は 、 中 央 名 号 本 尊 の 流 出 と 絵 像 本 尊 の 新 規 制 作 と い う 二 つ の 仮 定 に 成 り 立 つ も の で あ り 、 可 能 性 は や や 低 い よ う に 考 え ら れ る 。 他 に 根 拠 と な る 史 料 も な い の で 現 時 点 で は 制 作 時 期 と 制 作 者 に つ い て は こ の よ う な 二 つ の 可 能 性 を 提 示 す る に 留 め た い 。 突 き 詰 め る と 、 絵 像 と 先 徳 影 像 が 同 時 に 成 立 し た の か 、 先 徳 影 像 が 絵 像 に 先 立 つ の か 、 そ の 点 を ど う 解 釈 す る の か と い う こ と に な る 。筆 者 に そ の 能 力 が な い の だ が 、 今 後 両 者 の 料 絹 を 詳 し く 検 討 す る こ と な ど を 通 し て 、 あ る 程 度 の 結 論 が 得 ら れ る の で は な い か と 期 待 す る 。 と い え る 。 阿 弥 陀 如 来 絵 像 は 古 態 な が ら も 本 願 寺 系 絵 像 本 尊 と は 異 な る 光 輪 な ど の 特 徴 が あ り 、 一 方 の 聖 徳 太 子 和 朝 先 徳 連 坐 影 像 は 本 願 寺 三 代 伝 持 を 強 調 す る 内 容 と 札 銘 か ら 覚 如 自 身 あ る い は 覚 如 に き わ め て 近 い 人 物 の 関 与 が 想 定 さ れ る 。 こ の 相 反 す る 二 つ の 要 素 を 勘 案 す る と 、 制 作 者 に 関 し て は 次 の 二 つ の 場 合 が 想 定 さ れ 得 る 。 第 一 の 場 合 は 、 三 幅 本 の 本 尊 と し て 同 時 に 制 作 さ れ た 場 合 で あ る 。 こ の 場 合 は 制 作 者 が 本 願 寺 周 辺 で は な く 、 東 国 の 覚 如 に 近 い 人 物 が 考 え ら れ る の で は な か ろ う か 。 理 由 は 、 ま ず 阿 弥 陀 如 来 絵 像 の 特 徴 が 現 在 東 国 に 残 る い く つ か の 初 期 真 宗 絵 像 本 尊 と 共 通 す る 点 が み ら れ る こ と 、 そ し て 聖 徳 太 子 和 朝 先 徳 連 坐 影 像 の 意 匠 は 、 妙 源 寺 本 も 含 め て 当 初 東 国 で 案 出 さ れ た と 考 え ら れ る か ら で あ る 。 前 述 平 松 令 三 論 文 に よ り 妙 源 寺 本 の 札 銘 ・ 色 紙 形 銘 文 の 筆 跡 は 真 仏 の も の で あ る と さ れ て お り 、 ま た 宮 崎 圓 遵 は 覚 如 が ﹁親 鸞 伝 絵 ﹂ の 信 行 同 座 に 親 鸞 ・ 源 空 と と も に 信 空 ・ 聖 覚 を 入 れ た の は 覚 如 が 東 国 で み た 聖 徳 太 子 和 朝 先 徳 連 坐 影 像 に 信 空 ・ 聖 覚 が あ っ た か ら で あ る と 指 摘 し て い る 。 妙 源 寺 本 は 親 鸞 自 身 の 構 想 に 基 づ く と の 研 究 も あ る が 、 東 国 門 弟 に よ り 構 想 さ れ た と の 想 定 に 留 め る べ き と 考 え る 。 東 野 阿 弥 陀 堂 本 も 覚 如 と 近 し い 東 国 に 在 住 す る 初 期 真 宗 門 弟 に よ り 東 国 に お い て 構 想 さ れ 、 制 作 地 は 阿 弥 陀 如 来 絵 像 の 作 風 か ら 東 国 が 有 力 で あ る と 考 え ら れ 、 最 終 的 に は 東 国 で 銘 文 が 1  か れ て や が て 木 曾 谷 に も た ら さ れ た と い う 場 合 が 考 え ら れ る の で あ る 。 第 二 の 場 合 は 、 妙 源 寺 本 の 例 を 考 え る と 本 来 は 名 号 本 尊 を 中 央 幅 と し 木 曾 谷 東 野 阿 弥 陀 堂 初 期 真 宗 本 尊 に 関 す る 考 察 (2 )光 照 寺 本 に 近 似 す る 筆 跡 と 親 鸞 影 像 の 康 楽 寺 流 画 工 的 特 徴 如 信 作 あ る い は 覚 如 作 と 伝 承 さ れ て き た 東 野 阿 弥 陀 堂 本 で あ る が 、 先

(

)以

が あ り 、 如 信 は 正 安 二 年 ( 一 三 〇 〇 ) に 示 寂 し て い る こ と か ら 、 如 信 で は あ り え な い 。 ま た 覚 如 の 筆 跡 と も 明 ら か に 異 な り 、 存 覚 の 筆 跡 か ど う か 八 五

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