一 はじめに
今日は、『源氏物語』について、あまり予備知識のな い方にもおわかりいただけるような、私なりの概説を させていただきます。 2008年は〈源氏千年紀〉だといって賑やかですね。 『紫式部日記』寛弘五(1008)年十一月一日の記述に、 「このわたりに若紫やさぶらふ」とあります。紫式部が 仕える藤原道長の娘、中宮彰子が産んだ一条天皇の皇 子敦成 あ つ ひ ら 親王、道長待望の孫の誕生五十日の祝宴の折に 『源氏物語』が話題にされた、これが『源氏物語』が文 献上確認できる最古の記録であって、それから千年で あることにちなんだものです。 とはいえ、この物語の正確な成立年代はわかってお らず、1000年ごろから数年以上かけて執筆されたと推 定されます。ではなぜとりたてて、2008年なのでしょ うか。二千円札には首里城と源氏物語絵巻が描かれて いますが、これが発行されたのは2000年、沖縄サミッ トの年でした。サミット開催のような年には日本の文 化の代表として担がれる、それが良くも悪くも『源氏 物語』の宿命のようです。国際的な舞台での看板なの か、あるいは内需拡大のきっかけの一つなのか、いず れにしても作られたブームであることは間違いありま せん。とはいっても、一般の方に広く関心を持ってい ただける機会が作られたことは、本当に有難いことだ と思っております。 金融危機だとか、何かと物騒がしい昨今ですが、日 本が国際舞台でリーダーシップを発揮できる絶好の機 会でもある、ところが日本はどこかだらしない、様々 な理由があるでしょうが、その一つの原因は教育にも あるのでしょう。戦後の日本の教育では、科学技術や 外国語は大切にさ れても、この国の 根拠とも呼べるよ うな伝統的な文化 を大事にしようと いう精神は、片隅 に押しやられてき ました。過去のさ まざまな問題を含 み 込 み な が ら も 、 この先、私たちが、 誇りを持って子孫たちに伝えていける心の拠り所― 日本の言語、歴史、文化の教育をもっと大切にしなけ れば、この国の次世代の豊かな未来は拓けないのでは ないか、と懸念します。 国際的に活躍する研究者の方、ビジネスマンの方た ちに、どうぞ海外から知識や文化を輸入なさるだけで なく、日本の古典を世界に伝えていただきたいもので す。そして、皆さんの心の中の懐かしい拠り所の一つ にしていただけたら嬉しい、と願っております。二 『源氏物語』は恋の物語なのか
といっても、光源氏などという好色な男の物語など、 日本を代表する古典と呼ぶにはふさわしくない、とい う批判もあるでしょう。なるほど『源氏物語』は恋の 物語ですが、実は、それにとどまるものではありませ ん。ただの好色な男の恋愛遍歴の話だと思われている としたら、とても残念です。 確かに、たくさんの恋のエピソードやそれを彩る女 君たちに関心を寄せた読み方が一般には馴染み深いよ学術資料講演会要旨
男 読 み 源 氏 物 語
― 光源氏の生涯を読む ―
文学部 高木和子教授うです。女君に注目した読み方は、この物語制作まも なくの読者だった『更級日記』の作者菅原孝標女など にも見られ、夕顔や浮舟に憧れて読んでいた様子です。 近いところでは玉上 彌氏も「女のために女が書いた 女の世界の物語」(注1)などと捉えていて、それは確 かにこの物語の重要な一面です。 しかし、女君への注目だけが、この物語の読み方で はありません。『源氏物語』を今日まで継承したのは、 むしろ男たちでした。この物語の写本が今日まで多く 残っているのは、権力者たちが援助したからです。男 たちの関心は、まずは和歌の手引書としてでした。藤 原 俊 成 な ど は 「 源 氏 見 ざ る 歌 詠 み は 遺 恨 の 事 な り 」 (『六百番歌合』)と言って作歌の手本として推奨してい ます。後代の男たちは、いわゆる古注釈―物語が踏 まえている歴史や和歌や漢籍を指摘した注釈―も作 りました。そこでは、おそらく紫式部が想像もしなかっ たような故事や歴史までも、牽強付会なほどに指摘さ れています。この何百年にもわたる研究の蓄積があっ て、今日私たちは注釈付きの読みやすいテキストでこ の物語を読むことができるのです。 そのほか男たちの『源氏物語』の読み方として近年、 三田村雅子さん(注2)などが注目しているのは、権力 者の政治読みです。権力を手に入れたい男たち―平 民ではなく、もともと権力に近づける可能性のある男 たち―が、自らの野心を託して読んだ、というので す。なるほど『源氏物語』は、一見したところ他愛も ない風流や芸能の話でありながら、その中に政治の世 界を巧みに織り交ぜています。女性が表立って政治に 関与すべきでないとされた時代に、女性の作者によっ てこそ描かれた政治の物語だといえましょう。 このような、政治の世界として『源氏物語』を捉え る読み方は、ここ二、三十年の源氏研究の中ではごく 一般的です。一言で言えば、―大変優れた才能と美 貌の皇子である光源氏が、母の身分が低かったために 皇太子にはなれずに臣下に下った果てに、いかにして 天皇の座に限りなく近づいていくか、という物語―、 といった理解です。 『源氏物語』には、恋愛だけでなく、家族関係も社 会生活も、人生のさまざまな出来事が多面的に描かれ ています。しかし従来ともすると、恋愛の物語の側面 だけが強調されてきた、そして、私たちの現実から遠 くかけ離れた平安朝の雅びの世界だと祭り上げられて きました。これは、大変残念なことです。もっと現代 人が幅広く普通に感情移入できるような身近な世界と しては、読めないものでしょうか。人生のいろんな局 面で、『源氏物語』の場面が思い出されて、現実の私た ちの体験がふと腑に落ちたり、悩みが浄化できたりし て、本当の意味で古典として息づいて来るのではない でしょうか。 そんな気持ちから、最近、私は『男読み 源氏物語』 (朝日新書)という本を出しました。どちらかと言えば ビジネスマン向けに、男の物語としての側面を掘り起 こして書いたものです。すると、読んでくださった方 が口々に、光源氏は島耕作と似ている、と仰って下さ いました。『課長島耕作』(弘兼憲史作)という連載漫 画がありますね。島耕作は、普通のサラリーマンで、 根っからの女好きというわけでもなさそうですが、な ぜか女性に縁があって恋を重ねていく、そのたびに少 しずつ女性の力を借りながら出世を重ねて、連載二十 年を超えて先日ついに社長になってしまいました。恋 を重ねるうちに思わず知らず出世して権力の頂点を極 める、というのは、なるほど光源氏と似ていますね。 こうした相似はこれまでの源氏研究の中ではまったく 指摘されなかったことなので、私の新書がサラリーマ ン読者を意識して書いたために、そうした印象が強く なったのだろうと思います。 千年前の物語と現代の人気漫画とが、なぜ似た要素 を抱えているのでしょうか。おそらく、出世したい、 女性にもてたい、というのは時代に関わらず一貫した 男性の願望なのでしょう。自分の現実はさほどに華や かではなくても、島耕作の恋を読むことで一瞬わくわ くできます。現代のサラリーマンがみな、島耕作のよ うに生きられるわけではない、華やかな恋も出世も読 者の夢の代償行為です。だとすれば、私たちはとかく、 すがわらの たかすえのむすめ
平安時代は一夫多妻で一人の男性が複数の女性と関わ る風習なのだから、光源氏のような人生は平安貴族の 典型なのだと考えがちですが、それは錯覚なのではな いか、という考えに到ります。 実は小説やドラマのヒーローは、恋多き男であるの が常道です。島耕作も、ジェームスボンドも、寅さん も、女性との出会いに事欠かない。いろいろな女性と の出会いがないと、連載小説やシリーズ映画は、読者 や視聴者の関心を引き続けられないからです。光源氏 が好色な人物として造られているのは、物語を物語た らしめる装置なのだと考えてはどうでしょうか。相手 役の女性として、高貴な人も、貧しい人も、美人も不 美人も、さまざま登場するのも読者サービスなのです。 従来の源氏研究の中では、さすがにこうした説明は あまり一般的ではありません。光源氏が多くの女たち と関わるのは、たとえば『古事記』のような神話の英 雄が恋を重ねつつ各地の統治を果たしていく物語を伝 統的に汲み上げているからだ、古代的英雄像の名残だ、 などと説明されます。しかし、光源氏の好色性は古代 性の現れではなく、時代を超えてフィクションが作ら れる際に抱える普遍的特質ではないかと、最近私は考 えております。 さて、島耕作と光源氏との決定的な違いは、島耕作 は少なくとも今のところは一介のサラリーマンで、特 別な素姓ではなさそうですが、光源氏は帝の子で、高 貴な血筋です。これは、やはり時代によって、求めら れる主人公の姿が異なることによるものです。 平安時代の物語の主人公の典型は、天皇の血を引く 貴公子でした。『伊勢物語』の在原業平、『平中物語』 の平貞文、今日は失われた『交か た野の少将物語』の交野少 将なども、広い意味での「源氏」、皇族に生まれながら 臣下に下った貴公子でした。これらの物語が出来た平 安時代中期は、藤原氏の全盛期だったのに、なぜ源氏 が主人公なのか不思議だとも言えますが、藤原氏の貴 公子が出世する話では生々し過ぎたからでしょうか。 源氏の貴公子の現実には決してありえない栄達の話だ からこそ、フィクションとして楽しめたのでしょう。 逆に、島耕作が特別な素姓だったら、現代のサラリー マンたちには感情移入して読むことができません。主 人公をいかなる造型に仕立てるか、そこには、時代を 超えて変わらない普遍性と、時代に応じて求められる 独自性があるのです。
三 男たちの物語(1)
―光源氏と惟光の信頼
さてそれでは、『源氏物語』に登場する男たちに注目 しながら、光源氏の物語の世界をご紹介しましょう。 挿絵は、十七世紀半ばの版本『絵入源氏物語』(注3) (絵1)の絵です。 『源氏物語』は長大で複雑な物語なので、あらすじ を むのも容易ではありません。天皇になれなかった 皇子が栄華を極めていく物語だ、とも言えますし、幼 少の頃に母を亡くした男の子が母の面影を求めて、藤 ふ じ 壺 つ ぼ 、紫むらさきの上う え、女三おんなさんの宮み やへと想いを移す物語だ、とも言 えます。幾通りものあらすじの説明ができるのは、物 語の巨大さの証です。 こうした中で男たちの人生の物語としての脈絡を発 見することはできないでしょうか。この物語には非常 (絵1)『源氏物語(絵入源氏物語)』 山本春正編、目案三冊・系図一冊・山路の露一冊・引歌 一冊を付す、六十冊に印象的な男たち― 頭中将とうのちゅうじょう、朱雀院す ざ く い ん、惟光こ れ み つ、柏木か し わ ぎ、 夕霧 ゆ う ぎ り などが登場します。そこには、恋の文脈とは一味 違った男の欲望や価値観が見えてきます。いわゆる政 治読みというほど仰々しくもない、もう少し平易な日 常的な男たちの物語として、今日は『源氏物語』を読 んでみたいと思うのです。 まずは、惟光という男の話をしましょう。光源氏の 乳母 め の と の子で、「惟光」というのは実名です。この物語に 実名で登場するのは身分が下る人で、「光源氏」はあだ 名です。惟光は、光源氏のお忍びの恋の場面で、その 段取りを整え、不始末を隠して立ち働きます。女君の 女房たちが、ともすると密通を手引きしたりなどして 主君を裏切ることに比べると、惟光と光源氏の主従関 係は、強固な連帯で結ばれています。光源氏は、女た ちを魅了するだけでなく、男たちの心も めるという、 人の上に立つにふさわしい資質を持っていたのです。 惟光が活躍するのは、まずは夕顔の物語です。光源 氏が六条あたりの女に通う途上、五条に住む惟光の母 親、大だ い弐にの乳母の病気見舞いに立ち寄ります(絵2)。 隣家の風情に関心をもった光源氏は、その家に住む女 について調査するよう惟光に命じます。惟光はまず、 自分が隣家の侍女とねんごろな関係になって光源氏を 手引きします。光源氏は、「以前、頭中将が話していた 愛人ではないか」と疑いながらも、互いに素姓を隠し たまま、情事を重ねるのです。ところが八月十六日の 夜、とある廃院で二人が 瀬を楽しんでいたのも束の 間、物の怪が出現して夕顔を取り殺してしまいます。 ややご都合主義的ですが、惟光はその夜に限って不在 です。光源氏は「惟光とく参らなん」と、早く来いよ、 と思っています。惟光も「あり処 か 定めぬ者」、女性関係 が華やかで居所がわからない、自らも恋を楽しめる男 だからこそ光源氏へのお勤めも果たせたのでしょう。 光源氏は、愛しい女が冷えていくのを目前にしながら 気丈に振舞っていましたが、惟光が来た途端、泣き崩 れてしまいます。まだ十代後半ですから無理もありま せん。惟光は遺骸を鳥 と り 辺 べ 野 の まで運んで葬儀を行います。 死の穢れに触れるのも厭わない忠誠心です。 紫の上の物語でも、惟光は大事な働きをします。若 紫巻、病気の治療のために北山に出かけた光源氏は、 思いがけず、憧れの藤壺によく似た少女を見つけます。 高校の教科書に必ず載っている例の場面ですが、惟光 はその垣間見に立ち会っています(絵3)。 物語を読む私たちは、作中の出来事のすべてを知る ことができますが、作中の人物たちは、それぞれに部 (絵2)『源氏物語(絵入源氏物語)』「夕顔」 (絵3)『源氏物語(絵入源氏物語)』「若紫」
分しか知ることはできません。それはちょうど現実の 私たちが、偏った視点からしか物が見られず、全知の 神の視点を持てないのと同じです。その中で光源氏は、 一番多くの情報を握る仕組みになっています。それは 物語が光源氏を特別な人物として位置づけている証な のです。と同時に、光源氏がいかに情報の共有を許す か、という点から、ほかの登場人物の重要度を測るこ ともできます。惟光は、光源氏と紫の上との出会いに 立ち会うことが許された、光源氏のきわめて信頼厚い 人物、ということになります。 やがて光源氏は、紫の上を、その父親にも無断で自 邸に連れて来てしまいます。そこでも惟光が供をして います。世間では、もっと大人の愛人を引き取った と されますが、惟光は、紫の上がまだ少女で、光源 氏と兄妹のような関係だと知っています。正妻の葵 あおい の 上 う え の死後、光源氏が紫の上と新枕を交わした後には、 結婚の三日目の夜に食べる「三日夜 み か の よ の餅 もちい 」の準備を惟 光に命じていますし、惟光も我が事のように主君の幸 福を喜んでいます。しかしその惟光とても、光源氏が 父桐壺帝き り つ ぼ て いの妃である藤壺を慕うがゆえにその姪の紫の 上に惹かれたという本当の動機までは知るべくもない、 それが、惟光の位置づけなのです。
四 男たちの物語(2)
―光源氏と頭中将の闘争
もう一人、若き日の光源氏の物語に欠くことができ ないのは、頭中将です。「頭中将」とは惟光とは違って 官職名で、作中の呼び名は「三位中将」「内大臣」「太 政大臣」などと次第に変わりますが、しばしば便宜的 に「頭中将」と通称されます。光源氏の正妻の葵の上 の兄弟で、この二人だけは母親が桐壺帝の姉妹なもの ですから、気位が非常に高く、何かと光源氏と張り合 います。しかし、いつも光源氏には一歩及ばず、引き 立て役に終わる人物です。 二人の優劣は、恋の鞘当てという形で描かれます。 末摘花巻で、深窓の姫君の に関心を き立てられた 光源氏が忍んで垣間見に行くと、ほかにも男が来てい る、実は、光源氏の目当ての女を見届けるために、頭 中将が付けて来たのです。このあと二人して左大臣邸、 頭中将の姉妹葵の上のもとになだれ込みます。頭中将 は、葵の上の夫である光源氏の動向を探り、光源氏を 葵の上のもとに連れてくる一種のお目付け役でもある ようです。一方、末摘花は常陸宮 ひ た ち の み や という由緒ある家の 娘ですが、あまりにも世間知らずで和歌もろくに作れ ない、突然二人の男から和歌を贈られて、さぞ驚いた ことでしょう。女はどちらにも返事を書かない、書け ないですから。それを光源氏は、頭中将には返事をし ているに違いないと誤解して強引に関係を持ってしま う、その果てに雪の朝、とうとうびっくりする容貌を 見てしまうという 末です。 光源氏と頭中将のコミカルな恋の鞘当ての話はほか にもあって、源典侍げんのないしのすけという六十歳前の女官をめぐって も繰り広げられます。若い美貌の青年が老女と一夜を 過ごす、といった話は、『伊勢物語』六十三段にも描か れますから、当時の物語の一つのパターンだったので しょう。ただここでは、光源氏と老女の共寝のさなか に頭中将が踏み込んでくるところが面白いのです。刀 を抜いた男を女がなだめるように渡り合っていますね (絵4)。 (絵4)『源氏物語(絵入源氏物語)』「紅葉賀」 す え つ む は な頭中将と光源氏のどたばた喜劇の背後には、藤壺と の密通の秘密を桐壺帝に知られる可能性という、より 重大な課題を戯画的に暗示する効果もあります。それ だけでなく、光源氏と頭中将との夕顔をめぐる三角関 係は、光源氏の思慮深さから、長年、頭中将には隠し おおせており、その後の中年期の光源氏と頭中将との 政治的な闘争の中で、隠し玉として生きてくるのです。 このように、光源氏には常に一歩及ばない頭中将との 関係は、紅葉賀の宴で共に青海せ い が い波はを舞った折の頭中将 を「花のかたはらの深 み 山 や ま 木 ぎ 」、添え物だ、と形容すると ころに象徴的です(絵5)。表向きは恋のライバルとし て描かれる光源氏と頭中将の関係は、長じては本格的 な政治家としての闘争の物語へと発展していくのです。
五 男たちの物語(3)
―逆境を共に乗り越える
やがて父親の桐壺帝が亡くなりますと、光源氏のも とには新年の挨拶に訪れる人もまばらになります。光 源氏が自暴自棄に恋を重ねる中で、右大臣の娘の朧 おぼろ 月夜づ く よとの関係が右大臣に発覚してしまいます。朧月夜 は朱雀帝に尚侍 ないしのかみ として仕えて寵愛を受ける身でしたか ら、光源氏も都に居づらくなって須磨に下ります。そ れは、万一にも藤壺との関係が表沙汰になって、藤壺 との間の不義の子である現在の東宮の将来に傷が付く 前にという、光源氏自らが選んだ退去でもありました。 惟光も無論、須磨に同道されます。光源氏は、親兄 弟や大切な人と別れて自分と共に須磨に下った男たち に気遣いますが、供の男たちは、「なつかしうめでたき 御さまに、世のもの思ひ忘れて、近う馴れ仕うまつる をうれしきこと」と、光源氏のためなら苦境も我慢で きると思うのです。須磨の地には女性は伴われず、男 同士の君臣の緊密な結びつきが描かれています。 須磨には頭中将も訪ねてくれて、光源氏は大変感動 します。しかし、頭中将は左大臣の息子ですが、正妻 は今の帝朱雀帝の叔母にあたる、右大臣の娘の四の君 です。蜘蛛手のように人間関係を張り巡らして、一方 が没落しても、もう一方の人脈で生きられる周到さで す。頭中将が自由に振舞えたのは、政権を握る右大臣 の婿だからで、いわば勝ち組ゆえの気儘さです。本当 に不遇だったら致命傷になるから会いに来ないでしょ う。それでも、朱雀帝の母の弘 殿女御は、須磨に下っ てまで都の人々を魅了する光源氏に苛立っています。 須磨で暴風雨にあって苦しんでいる光源氏の前に、 桐壺帝の亡霊が現れ、この地を去るように告げます。 光源氏は移り住んだ明石の地で新たな女性に出会って、 (絵5)『源氏物語(絵入源氏物語)』「紅葉賀」 (絵6)『源氏物語(絵入源氏物語)』「 生」 こ き でんのにょうご女の子を一人 けます。桐壺帝はあくまで光源氏を庇 護し続ける、いわば守護霊として働きます。光源氏に 最愛の藤壺を寝取られて、不義の子を自分の子として 可愛がるという恐ろしい秘密を知ってか知らずか、そ の真相は明かされないまま、光源氏をただひたすら庇 護するのです。逆に長男の朱雀院に対しては、光源氏 を大事にせよという遺言に違反したという理由で睨み つけます。朱雀院は父の亡霊に睨まれたために眼を患っ て、帝位を降ります。良心の呵責でもあったのでしょ うか。『源氏物語』は平安時代の物語にしては比較的リ アリスティックな物語なのですけれども、このあたり はもっとも現実離れした要素の強いところです。 都に復帰した光源氏が、 生巻で末摘花と再会する 折にも惟光は供をしています(絵6)。末摘花は不美人 で、和歌を作る能力もなかったけれども、光源氏を変 わらぬ心で待ち続けたために賞賛され、光源氏に引き 取られます。現実には世渡りの才がなく、待つ以外に 術を知らなかったのでしょう。それでも、一たび逆境 になると掌を返したように離れて行った世間の人々の つれなさからすれば、光源氏には感動的だったのです。 岩のように心変わりしないのは惟光も同じで、やが て、惟光の娘は光源氏の息子の夕霧に見初められます。 のちに匂宮におうみやと結婚する、夕霧の一番ご自慢の娘六の君 は、惟光の娘が産んだ子です。惟光の光源氏への忠誠 心は、子孫の代になって報われるのです。 忠誠心や遺言の遵守といった案外古風な倫理観が、 『源氏物語』には散りばめられています。しかし、単純 な勧善懲悪の物語でないことは、やがて光源氏の邸に 引き取られた末摘花が、洗練された光源氏の世界では 格段に見劣りして、笑い者にされることに現れていま す。情況次第で、人の長所は短所に、短所は長所にな る。末摘花への賞賛が一時のものに過ぎなかったとこ ろに、この物語の怜悧で複眼的な人間観察が感じられ ます。
六 男たちの物語(4)
―柏木と夕霧の友情
都に復帰して政界に返り咲いた光源氏は、六条院 ろくじょういん と いう広大な邸を作ります。常夏巻では、光源氏は頭中 将の息子たちを集め、酒席を共にしながら世間話をし ています(絵7)。 、つまり情報は、彼らの政治手段 です。いかに収集するか、いかに操作するか、その手 腕が問われるところです。頭中将の子息たちは、自分 の家の欠点である、頭中将の隠し子の近江の君の無教 養を話題にします。巧みに話を引き出し、相手の弱み を握っていく光源氏の情報収集能力の高さが感じられ る物語です。 光源氏は、やがて実の息子の冷泉帝によって、准太 じゅんだい 上天皇 じょうてんのう という、天皇を退位した人に匹敵する位に処遇 され、栄華の頂点を極めます。ところが、人の欲望は 果てしないもので、四十歳にもなろうという頃、朱雀 院の娘の女三の宮を新しい妻に迎えます。それは、准 太上天皇という現在の光源氏の身分にふさわしい高貴 な妻でしたが、長年築き上げてきた紫の上との信頼に 水を注すものでもありました。しかも女三の宮は、紫 の上と同じく藤壺の姪でしたが、紫の上とは違って才 気に欠けていたのです。それでも光源氏は、朱雀院の (絵7)『源氏物語(絵入源氏物語)』「常夏」 よ も ぎ う娘である女三の宮を表向きには大切にせねばならず、 紫の上は大変苦悩します。 光源氏には魅力のない女三の宮でも、若い青年には まことに魅力的に見えました(絵8)。頭中将の息子の 柏木は、女三の宮と密通して子供を作ってしまいます。 しかし、柏木の恋とて、女三の宮が朱雀院の娘で、今 上帝の妹だということと無縁ではない、つまり、皇女 との結婚の願望が恋を き立てるという意味で、権勢 志向、野望の現れなのです。 柏木の密通は、光源氏が若い日に藤壺と密通して、 不義の子を父桐壺帝に抱かせたことの報復の物語となっ ています。ただし、父の桐壺帝は光源氏の密通を知っ ていたとは描かれていませんが、光源氏は、柏木の女 三の宮に宛てた手紙から密通の事実をまざまざと知っ てしまいます。光源氏は、柏木を宴に呼んで酒を無理 強いし、「さかさまに行かぬ年月よ。老は、えのがれぬ わざなり」などと皮肉を言って睨み付けます。真実を 知る苦悩の中に生きるのは桐壺帝ではなく、光源氏で (絵9)『源氏物語(絵入源氏物語)』「柏木」 (絵10)『源氏物語(絵入源氏物語)』「横笛」 (絵8)『源氏物語(絵入源氏物語)』「若菜上」
す。そこに光源氏の主人公たるゆえんがある、と私は 考えております。 柏木は光源氏の眼に怯えて病の床に臥します。柏木 は、光源氏の怒りが解けるよう、夕霧に遺言して亡く なります(絵9)。没後の柏木は夕霧の夢にまで現れ、 自分が大切な笛を相続させたい人がいることまで示唆 するのです(絵10)。密通の秘密に気づきかけた夕霧は、 光源氏に問い質そうとしますが、どうしても確証が得 られない。光源氏は、妻を寝取られた醜聞を息子の夕 霧に知られたいはずもない、ここに父子の壮絶な戦い があります。とはいえ、柏木の死後、夕霧は柏木の遺 言に従ってその未亡人のもとに通い、嫌がる未亡人を とうとう我が物にしてしまう、真面目な夕霧にしては 随分無体な振る舞いです。 通説では全く指摘されていないことですが、私は最 近、夕霧は、柏木の未亡人や周辺の人々を抱え込むこ とで、柏木密通の秘密を隠蔽したのだと理解していま す(注4)。それは、光源氏と夕霧の父子二代にわたる 情報操作能力の高さ、すなわち政治力の高さでしょう。 かつて惟光が光源氏の恋の後始末をしたのと同様、こ こでは息子の夕霧が光源氏周辺のほころびを回収し続 けるかの様子です。頭中将は、ついに薫がわが息子の 柏木の遺児だとすら、知ることができない。長い歳月 をかけた光源氏と頭中将の、友情と闘争の物語は幕を 下ろし、光源氏はぎりぎりの土俵際で踏み止まり、逃 げ切ります。 このように、一見恋物語の形を取りながら、男たち の果てしない闘争の世界を描き続けるのが『源氏物語』 の一つの姿です。それでも、やがて紫の上が亡くなり、 光源氏が物語から退場する最晩年には、「御容貌、昔の 御光にもまた多く添ひて、ありがたくめでたく見えた まふ」とあって、最後まで光り輝く素晴らしい人物と して描かれています。 光源氏は野心あり邪念ありという、俗念にまみれた 人物です。けれども、物語はそういう人間の飽くなき 欲望を否定したり断罪したりはせず、俗念とともに生 き続ける姿にこそ関心を抱いているのです。『源氏物語』 は、仏教的な精神の浄化を目指す世界ではなく、あく まで俗世に生きる者の煩悩の深さを慈しむ、まことに 人間的な物語だといえましょう。 あらあらと物語を辿って参りました。もし多少なり とも新鮮な読み方だと感じていただけましたら、何よ り幸いです。優れた文学は、その読み手次第によって さまざまな姿を映してくれる万華鏡です。皆さんもど うぞご自由に、今この時のご自分でなければ感じ取る 事のできない新鮮な読み方を発見してみてください。 十年後のあなたは、また別の世界を感じ取ることでしょ う。それこそが文学に触れる営みの、この上ない醍醐 味なのです。