†学校教育専攻 学校教育専修 指導教員:紅林伸幸 原 著 論 文
授業における「問い」の意義と役割
―― 斎藤喜博,東井義雄,上田 薫,佐藤 学の教育論から ――
大
林
知
子
†Significance and Role of “Question” in School Lessons
Tomoko OHBAYASHI
Abstract
This research focuses on the questions entertained by children in school lessons, since questions guide children to independent and positive consideration and enable them to obtain a new insight. First of all, I quote some examples from writings of SAITO Kihaku, TOHI Yoshio, UEDA Kaoru, and SATOH Manabu, who are typical educators in Japan. Then I extract childrenʼs questions from them and examine how to lead children into question in our practical class lessons. Four requirements have been extracted from the cases. I will verify the result of this study through my demonstration class.
Key words : “Question”, school lessons, childrenʼs learning
は じ め に 学習が子どものものになっていない。与えら れた作業をこなす形だけの学習が日々繰り返さ れ,子どもたち自身が求めて思考し,新しいも のをつかみ,自分自身を変えていく学習になっ ていない。教師なら誰しもが少なからず感じて いるであろう,この授業実践への不満,この課 題を克服する一つの緒として,筆者は「問い」 の持つ力に期待を寄せている。 「問い」は学びの入り口である。したがって, 授業においては,いわゆる「導入」部分で「課 題」「問題」等として位置づけられることが多 い。子どもたちの「問い」づくりに時間をかけ, そこから単元を開始するスタイルの授業も,学 習の一つのモデルとして確立している。しかし, その「問い」が子どもから離れず,ずっと寄り 添っているものでなければならないという意識 は授業者にあるだろうか。導入部分で授業者が 設定した「問い」や,子どもから離れてしまっ ている「問い」のように,結果的に誰のもので もない形だけの「問い」が掲げられている授業 であるならば,「問い」本来の役割を果たすと はいえないだろう。本稿では,「問い」の持つ 力に注目し,「問い」を真に生かした「問いの ある授業」をつくることを目的として,授業と 「問い」との関係を 4 つの教育論の分析を通し て検討する。ここでとりあげるのは,戦後を代
表する日本の実践者,研究者の中から今日なお 教育実践に大きな影響を与えている斎藤喜博, 東井義雄,上田 薫,佐藤 学の 4 人である。 斎藤喜博は小学校長として強いリーダーシッ プを発揮し,通称「島小の実践」といわれる学 校・授業づくりに取り組んだ。全国に大きな影 響を与えた実践者である。生活綴り方教育で知 られる東井義雄は,生活の中から課題を発見し, 問題を解決していく過程で,子どもの生きた学 力が確立するという理念の下,綴り方を活用し 実践した教師である。上田薫は,子ども一人ひ とりが個性をもって物事の本質を追究し,その 子にふさわしい個を確立するための授業を展開 しなければならないと教師に訴える。そして, この自分の理論を,静岡市立安東小学校での共 同実践研究で形にしている研究者である。最後 の佐藤学は,学校を「学びの共同体」として再 編成することを提唱している研究者である。佐 藤はこれまでに,実際 1500 校を超える学校を 訪問し,授業改革,学校改革に参画している。 なお,彼らはいずれも,それぞれの教育論の 中で「問い」という言葉を使ってはいないが, しかし,個々の実践や理論を追っていくと,本 稿で指す「問い」を強く意識していることが伺 える。そこで,以下の各章では,4 人の教育理 論を特に授業実践に焦点をあてて整理し,彼ら の構想する授業の世界を明らかにする。そして, それぞれが描いている授業の世界で,「問い」 がどのように位置づけられ,どのような役割を 果たしているのかを抽出していくことで,「問 い」があり,「問い」を生かす授業に必要とさ れる要件を追究し,筆者の研究目標である「問 い」のある授業モデル構築の礎としたい。 1.斎藤喜博の教育論における「問い」 (1) 授業とは自己をかえるもの 斎藤は,授業を「自己を充実させたり,変革 させたりできるもの」であるとしている。そし て,授業の中身は「対決」「衝突」「たたかい」 という言葉で表している。 「授業は,一つにたたかいである。普通の人 間が,自己脱皮し,自分を変えていくには,ひ とりで内省していてできるものではない,相手 と対決することによってできるものである。 (斎藤 2006b p. 72)」 このように授業の中では,はっきり提示され た「疑問」に向かい,「対決」や「衝突」が生 まれる。そして,とことん突き詰めていくこと で思考が高まり,みんなの疑問が解け,納得し たときに,その授業が完結するとしている。 また,授業を高めていくために「否定し合 う」ということに重きをおいていた。そして, 授業は「つくり出したものを,破壊し,否定し つづけていって,はじめて発展していくもので ある。」と言う。他から切り捨てられることに よって,新しいものをひき出すことができると して,次のように述べている。 「人間は,自分の主張や実践を,明確に他の 人の前に出し,それを他の主張や実践と衝突さ せることによってだけ,自分の主張や実践を はっきりさせることができる。またさらに,そ ういう対面・衝突の結果,他から自分を切り捨 てられることによって,新しいものを発見した り,自分のなかにひそんでいる可能性を,大き く引き出したり花咲かせたりすることができる。 (斎藤 2006b pp. 53-54)」 斎藤が「対決」や「否定し合う」ことに強い 意識をもって授業に臨むのは,このような「普 通の人間が,自己脱皮し,自分を変えていくに は,ひとりで内省していてできるものではない。 相手と対決することによってできるものである。 (斎藤 2006b p. 72)」という理論に基づいてい る。 また,この否定し合うこと,傷つけあうこと を通して,はじめて本質に迫ることができると し,その中で集団の団結や連帯感が生まれると している。 (2)「××ちゃん式まちがい」法の発見 ひとりの内省ではできない自己変革を生み出 すためには,個人の中で生まれた「問題」を集 団の授業の中に投げ入れ,その「問題」をみん なのものにする必要がある。そのための一つの 方法として,「××ちゃん式まちがい」法の発 見をあげている。子どもの間違いを「問題」に 位置づけ,学習を高めていくのだが,間違いを 指摘し,はずかしめ,攻撃するのではなく, 「式」ということばで,そのまちがいを一般化 し,共有しようとしている。
集団の中で高めあうために,まちがいをも 「問題」として取り上げ,学級集団で共有し, ともに研究者のひとりとして考える。まちがえ た子どもも,一つの問題提起をするという重要 な役割を果たし,ともに考え満足し,納得する ことができるのである。 (3) 四つの授業形態 斎藤は授業における学級全体の「共通問題」 を設定するまでの学習を丁寧に組み立て,次の ような四つの授業形態を試みている。 「ⅰ) 個人学習…それぞれの個人が自分一人で 学習し,一般的な基礎的なも のを自分のものとする。 ⅱ) 組織学習…自分一人の学習を,学級の仲 間や教師とつなげながら,拡 大したり深化したり,変更し たりしていく。中心は一人に あるが,部分的にであっても 他の人間と交流しながら自分 の学習を深めていく。すなわ ちこの学習によって,学級全 体の学習が組織されていく。 ⅲ) 一斉学習…学級全体が一つの共通問題を 対象にしながら追及していく 場面である。 ⅳ) 整理学習…授業の全過程で追求し獲得し たものを,整理し,確実に学 級全体や一人ひとりのものに す る 作 業 で あ る。(斎 藤 2006c p. 209)」 この授業形態から,斎藤が,まず個人の中で の学習対象との出会いを大切にし,「問題」を 通してじっくりと練られ,少数の相手の中で変 化し,そして全体でぶつけ合う「問題」へと発 展させて初めて全体の授業の中に取り入れてい ることがわかる。そして,この全体のぶつかり 合いの中で,学級全体や個人が自己変革し,学 び取ったものを自分のものにする。授業の中で のぶつかり合いをつくるため,それまでの個人 の中での学習が大切にされている。 (4) 教師の役割 斎藤は,「問題」を通してのぶつかりあい授 業において,教師の役割が最も重要であること を,繰り返し指摘している。教師も一人の人間 として,また教師としての解釈をもち,授業に 参加し,子どもたちに疑問の波をおこさせるた めに,自分の解釈をぶつけるのである。そして 「はっきりとした授業」にするために「問題」 を整理し,子どもと子どもそして子どもと教師 の接触をはかり,考えが深まるように「授業の 指揮者・演出者」でなければならないとしてい る。授業を指揮し,演出するためには,それぞ れの子どもがもっている個性と特徴をとらえ十 分熟知し,配慮,配置しなければならないので ある。 (5)「問い」は授業を構成するそのもの このような斎藤の実践を,「問い」が生きる 授業ということからみると,斎藤のいう「問 題」や「共通問題」がそっくりそのまま「問 い」に置き換えることができる。斎藤のいう授 業は,「対決」や「衝突」を生み出す「問い」 なしには,ありえない。「問い」は授業を構成 するそのものであるといえる。 「問い」にかかわっての考えを,否定しあう ことで高めていくという方法は,今の学校での 子どもたちの状況を考えると,それに耐えうる 人間関係が存在するのかという懸念を抱く。し かし,「問い」を追及していくためには,否定 を前提とはしないまでも,常に,違うのではな いか,もっと他に考えることができないか,と いう意識をもって臨むことが必要である。そう することで,「問い」から思考を深めあう授業 が成り立つであろう。 また,「問い」を生み,育てるために,全体 学習の前の個人学習の時間をじっくりととって いることにも注目したい。学習材とじっくり向 き合うことで,「問い」が生まれるだけでなく, 繰り返し考えたり試したり,または何人かの友 達と話し合ったりすることで,「問い」を自分 のものにしていく。尋ねられた友達のほうも, その段階で「問い」を自分のものにし,ともに 追求していこうとする態度になっていくであろ う。こうして十分練られた中で,「問い」が学 級全体のステージへとあげられることで,さら に深められた授業が展開される。「××ちゃん 式まちがい」法も,「問い」の取り上げ方とし て,子どもの思いを大切にしながら「問い」を 自分たちにぐっと引き寄せる効果的な方法だと
いえる。 授業の指揮者として,教師はその瞬間ごとに 子どもを読み取り,「問い」をはっきりさせ, 思考を高める方向にもっていかなければならな い。教師のはたらきで,授業は大きく変わって しまう。高まりあう授業にするためには,教師 も一人の人間として,その授業の中でともに思 考する仲間として存在しなければならないので ある。「問い」を生かした授業づくりに欠かせ ない,教師の心得がここにあるといえるだろう。 2.東井義雄の教育論における「問い」 (1) 二つの論理的すじみちを踏む 東井は,学習指導にあたって二つの論理的す じみちを踏ませることが必要だとして,次のよ うに述べる。 「私は,ほんとうの学習は,子どもの『なる ほど』といううなずきをとおして進められねば ならぬ,と考える。ところが,私は,『なるほ ど』といううなずきが成り立つためには,学習 指導にあたって,二つの論理的すじみちを踏ま せることが必要であるように思う。その一つは, 『教科の論理』とでもいうべきすじみちであり, いま一つは,『生活の論理』とでもいうべきも のではないかと思う。 (東井 1958 p. 12-13)」 東井のいう二つの論理的すじみちのうちのひ とつ「教科の論理」とは,教科の系統の中を流 れるすじみちのことである。これは,階段を上 がるように,下の段をふまないと次の段にあが れないというものであるが,順序を追って指導 すれば,誰でもが「なるほど」とうなずくのだ ということにはならないことを主張している。 なぜならば,子ども一人ひとりを支える文化や 生活経験の質が違うため,その子の感じ方や受 け取り方は異なることが当然であり,どの子も 同じ道筋で理解できるのものではないからであ る。そこで,生活様式の中を流れる「生活の論 理」をふまえる (子どもの感じ方,行い方等と, それを支えている背後の地域性や伝統,習慣, 家庭環境などを問題とする) ことで,初めて 「なるほど」といううなずきにつながるという。 このことが東井の生活綴り方教育の根底にある。 また,この「生活の論理」は,意欲的・探究 的な過程を経て発展する主体的な論理だともし ている。「『おやおや』と驚き,『はてな?』『な ぜだろう』と不思議がり,『こうかもしれない ぞ』と追求し,『でも,いつでも,こうだろう か?』と確かめる過程を経て『なるほど』とう な ず い て い く 論 理 で あ る。(東 井 1958 p. 100)」とし,これがたくましく育つかどうかが, その子どもの学力に大きく影響していくとして いる。 (2) 生活綴方的教育方法 東井は「生活綴方的教育方法」を,「生活の 論理」に「教科の論理」をたぐりよせることに よって,主体的な学力を育てる方法だとし,次 のように述べる。 「子どもは,各教科の中で,『はてな?』『な ぜだろう?』『おやおや!』『こうかもしれない ぞ』『こうやってみたらどうなるだろうか』『な るほど』『しかし,いつでも,どこでもこうな るだろうか?』という仕方で,『教科の論理』 をたぐりよせる。 その,たぐりよせ方を大じにするために,私 は『学習帳』を使わせる。子どもは書きながら 考える。書きながら探究する。書くことによっ て,考えや探究を客観化していく。形のないは たらきに形を与え,それを確かなものにしてい く。学習帳に書かれたことがらは,教師との間 で磨きあわれる。更に集団の中で役立ち,育て られる。 (東井 1958 p. 258)」 ここで「たぐりよせる」ことにかかわって, 「綴方」あるいは「書くこと」について整理し ておく。「綴方」というと,作文指導をイメー ジしがちだが,東井は手先の技巧の問題を連想 させるような「作文」とは違うとはっきり述べ ている。ここでの「書く」ということは,「生 活の論理」と「教科の論理」とを書くことを通 してつなぎ合わせることである。そして,瞬間 に消えてしまいがちな「おやおや」という疑問 や気づきを書きとめておくことで,活用できる ようにしておくことをねらいにしている。 (3) 学習指導の形態 東井は,この学習帳を使っての学習指導の形 態は,固定できるものではないとしながらも, ⅰ) ひとりしらべ ⅱ) おおぜいしらべ ⅲ) ひとりしらべ
を大まかな学習指導の形としてあげている。 はじめの「ひとりしらべ」で,子どもは,自 分の学習計画をたてる。子ども自身が問題をみ つけ,問題の所在を確かめ,問題を解決するた めに計画する。そして,その計画にそって調べ, 自分の考えをどんどん学習帳に書き込んでいく。 「おしゃべり」よりも書くことで,集中して考 えることができる。そして,「おおぜいせいら べ」では,ひとりしらべでのノートが,磨き合 いの原稿となってはたらく。みんなの中で,み んなとともに磨かれることが重要である。そし て最後の「ひとりしらべ」では,みんなから教 えられ学んだことをひとりで,噛みしめる。東 井は「学力は,結局,どんな進歩的な性格の学 力にしろ,ひとりひとりの子どものものとなら ねばならぬのである。」としている。「書く」た めに「書く」のではなく,「使う」ために「書 く」ことが,ますます「書く」ことを充実させ, 思考を深めていく。東井の著書には,子どもの 実際のノートが数多く掲載され,生活の中で自 分の課題見つけ,友達の意見をもらいながら自 分で深めている姿がみられる。 (4)「書く」ことで内なる「問い」に形を与 える このような東井の「生活綴方的教育方法」の 実践を通して,「問い」の生きる授業をみると, 自分自身が「問い」をもつ,ということについ て「書く」という営みが大きな役割を果たして いる。 東 井 の い う「は て な?」「お や お や」「な ぜ?」というのは,すべて「問い」だといえる。 子どもが「問い」をもつとき,そして,「問い」 を自分のものとするとき,それは子どもの「生 活の論理」を通していることが大前提となるの である。どこからか借りてきた言葉や情報だけ のものでなく,自分の経験やこれまでの思考を 通して,初めて自分の「問い」として向き合え るのである。そのためには,教師は身につけさ せたい「教科の論理」を,いかにして子どもた ちの「生活の論理」に絡ませて,実感をとも なった「なるほど」につなげていくとよいのか。 その糸口をみつけて「問い」とし,思考につな げ,子どもの力にしていくことが教師の重要な 役割なのである。言い換えれば,生活を通して 「問い」をもつことができるかどうかが,子ど もの学力を左右するということである。 東井は,このようにして生まれた「問い」を 「書きとめる」ことで大事に拾い上げようと, 学習帳を活用した。子どもがたとえ「問い」を もったとしても,それはある瞬間の偶然的なも のであり,うっかりしていると粗末になってし まう。子ども自身にも粗末にされるし,教師に よっても見過ごされてしまうことが多い。そこ で,ふとあらわれても消えてしまう「問い」に 形を与えることで,見失わないようにした。ま た,「書く」ということに伴う子どもの思考を ね ら う 部 分 も 大 き い。「問 い」と 向 き 合 い, じっくり考えるには,「書く」ことは有効だと いえる。また,自分の思考の軌跡を追い,見つ めなおすことができることにも,「書く」こと の良さが見出せるだろう。 つまり,東井の実践からは,「生活の論理」 を通した「問い」の見つけ方と拾い方,そして そこでの「書く」ことの果たす役割が,「問い」 を生かす授業の前提だということがいえるので ある。 3.上田薫の教育論における「問い」 (1) 個を確立するための授業 その子にふさわしい個を確立するため,子ど も一人ひとりの個性を無視した,型にはまった 授業では,子どもが生きた人間として育ってい かないとし,上田は次のような言葉で繰り返し 訴えている。 「わたくしの場合,“個性的な生きた子ども ひとりひとりのために”ということが,つねに 核にある。その子をその子なりにどう変えるか ということが,どこまでも中心になっている。 ゆえに浅い一般化は拒否するのである。それだ けでなく独断的な直観を排除するのである。き びしく鍛練された練達の教師にも,直進型の授 業は決して許さない。 (上田 1986 p. 69)」 「カリキュラムは子どもごとに立てられるべ きである。それが基本なのである。そしてその ためには,まずなによりもひとりひとりの子へ の人間的理解,すなわち個々の子を個性的全体 的に把握することが不可欠なのである。授業の 理論はつねにこのことの上にきずかれるもので
なくてはならない。 (上田 1986 pp. 88-89)」 このような授業を支えるため,上田は「カル テ」「座席表」「座席表授業案」「全体のけしき」 「抽出児」という手法を勧めている。静岡市安 東小ではこれらを取り入れ,上田とともに長年 授業研究を続けている。 「カルテ」は医者が患者の治療のために使う カルテのように,教師が子ども一人ひとりを人 間としてとらえるものとしてメモをすることで ある。長い期間をかけ,個々の子どもについて 驚いたことのにを記録する。いくつかメモがた まったところで,子どもに対する解釈を新たに する。教師が時間的空間的に子どもをとらえ, 指導の根底に据えることを目的とする。「座席 表」はカルテに比べて簡単なメモであるが,授 業に直ちに,また直接活用することのできるも のである。授業中などのわずかな時間に必要と 思えることをどんどん書き込む。「座席表授業 案」は「座席表」と「授業案」がひとつになっ たもので,「全体のけしき」は数時間分の授業 計画が一枚の紙にスケッチのように表されたも のである。「全体のけしき」は,授業の展開に 応じて修正されていき,流動的,弾力的な授業 を仕組む上で大きな役割を果たすという。「抽 出児」は安東小では「位置づけた子」とよばれ, 「目標に位置づける」あるいは「目標を位置づ ける」というのが真意である。「カリキュラム は子どもごとにたてられるべき (1986 p. 88)」 と上田は述べてはいるが,今現在の多人数の教 室ではすべての子どもに応じた授業を行うこと は不可能である。そこで,数人の抽出した子ど もを座席表授業案の中に位置づけ,それらの子 を拠点として,他の子をもとらえ,生かしてい くことを目指している。 このように上田は,「個的全体性」をつかむ ための具体的な方法を示し,また実際に教員が これを用いた上で共に研究を積むことで,一人 ひとりの子どもに応じた授業の展開に近づこう としている。 (2)「正解」は子どもごとにある 授業の展開の中で出てくる,「正解」につい ての理論に上田の特長が見られる。「正解は子 どもごとにある。 (上田 1986 p. 57)」として, 授業においてすべての子どもを同一の正解へと 導くようなことでは,その子を発展させるよう な道筋をたどることができないとして,次のよ うにいっている。 「正解とはその人間の理解の発展のよき筋道 の上にあるものをいうのである。だから当然子 どもによって違う。誤答とはその道筋からはず れたものをさしているのである。しかし念のた めいうが,このようなことばの用法は,通常の 使い方とは全然異なっている。すなわちいわゆ る誤答とされたもののなかに真の正解はあるの である。わかってしまったと思い,もうなんの 疑念も生じないような理解は正解ではない。た えず疑問を生み出し続けるような理解こそ正解 なのである。(上田 1986 pp. 58-59)」 (3) ずれの発見 正解に結着することを前提とした授業を否定 し,むしろ迷いながら進む姿に思考のあるべき 姿を求めた上田であるが,共通の到達点が必要 でないとしているのではない。「より確かな真 を求め,相手をわが考えに一致させようとする 執ような努力こそ,思考推進の原動力だといわ なくてはならないのである。 (上田 1986 p. 137)」というように,一致を求めるのであるが, そのことででてくる「ずれの発見 (上田 1986 p. 137)」によって,思考が活発になり深まって くるという。また新たなずれの発見により,次 の学習が展開される。この「ずれの発見」に関 して,上田は次のように述べている。 「たしかに一致したと思えるという事実はあ る。がわずかでも時が流れれば,場を異にすれ ば,それは直ちに破れていくのである。ほんと うは一致していなかったことを,たちまち認め ずにいられなくなってしまうのである。わたく しはそれを,ずれの発見と表現するが,一致を 求めてずれが克服され,克服されるとまた新し いずれが生まれるというのが,真理追究の避け がたいプロセスだということなのである。思考 もまたそのプロセスにそって働く以外に本来の 道はない。せっかく生みだされたかにみえる一 致,共通性を,わざわざゆり動かし崩しずれさ せることこそ,考えることの真の働きなのであ る。(上田 1986 pp. 137-138)」
(4)「ずれの発見」が「問い」へ,そして次 の学習を生む 上田の理論や実践について,「問い」を生か す授業という視点から改めてみてみると,子ど もが「問い」をもつ授業に向かう多くの示唆が 含まれている。上田のいう「ずれの発見」は, 授業において生まれてくる「問い」にあたると いえるだろう。授業の中で,思考の一致を求め ることを認めてはいるが,厳密にいえばどの子 の思考も一致することなどありえず,一致した と感じられても次の瞬間や,違う場で,その一 致を否定しなければならなくなってくるのであ る。その発見された違いが授業における「問 い」となり,子どもの思考を生み出し,必然的 に次の学習が生まれる。その子自身の力となっ ていくのである。 上田が安東小で推進してきた方法も,「問い をもたせる」「問いを育てる」ことに関わるこ とが多い。「カルテ」「座席表」を用いることで, その子どものある瞬間の姿だけを問題にしてと らえたり,満足したりしがちな教師の偏った見 方を打破し,時間的空間的な厚みをもってその 子の全体像に迫ることができる方策となりうる。 そして,そのような捉えができれば,その子に 対する願いや課題を具体的にもつことができ, 授業で取り上げる「問い」もその子が自分の 「問い」として受け止めることのできるものに 近づけることができるだろう。子どもが「問 い」を持つことを求める上で,一人ひとりの子 どもの姿に迫ることは必須である。 「座席表指導案」「全体のけしき」は,教師 が指導案通りにつつがなく授業をすすめてしま うことを阻止するのに役立つといえる。どちら も,子どもの思考や疑問,感じ方が書かれてい るものであるから,そこからの授業の道筋は目 的に向かって複数作ることができる。指導案は 一つだとういう教師の固定概念を破り,複数の 道筋があることが意識できれば授業は流動的に なり,子どもから出てきた「問い」を生かした 授業を構成することが可能になる。 安東小で「位置づけた子」とよばれる「抽出 児」については,「一人ひとりの子どもを大事 にする」という理念を現実に近づけることので きる方法である。多くの教師が,一人ひとりを 大切にしたいとは願っている。しかし,どの子 にも応じた授業をすることなど,現状の学校教 育の体制では実に困難である。そして,「一人 ひとり」を見なければとあせればあせるほど, 一つひとつの事実が見えなくなり,ぼんやりと した一つの固まりとして学級の子どもたちを捉 えてしまいがちである。上田の「抽出児」とい う視点は,その子の思考の流れや変化を追い, 見つめることにつながるものである。一人また は二人を追い続けることは可能である。その抽 出児の思考から「問い」を設定し,その子の変 容を見届けることもでき,授業の目標にどのよ うに達成したのかを具体的にみることができる。 上田は,抽出児を通して他の多くの子どもを把 握するとしている。この方法は,全体を一人ひ とりとしてみていくための重要な視点であると 言えるだろう。 「問い」を生み出すためには,「カルテ」「座 席表」「抽出児」を介して「個的全体性」をと らえ,流動的な授業を構成することが「問い」 をもとにした授業づくりとなるのである。 4.佐藤学の教育論における「問い」 (1)「勉強」から「学び」へ 佐藤によれば,現在行われている学校の授業 のほとんどは「勉強」であって,「学び」では ない。「勉強」においては,「知識」と呼べるも のはなく,ただ単なる「情報」を与えているに 過ぎないとして,次のように述べる。 「これまでの学校教育における『勉強』が, 『学び』の本質を剥奪されていることは,明瞭 だろう。『勉強』においてはモノ (対象世界) との出会いもなければ,他者との出会いや異質 な考えの交流もなく,自分自身のあり方を反省 的に吟味する自分探しのプロセスも排除されて いるからである。さらに言えば,『勉強』にお いては『知識』もたんなる『情報』へと転落し ている。『知識』は学び手が経験を基盤として 意味を構成する認識活動の所産であり,だれが どこで何によってどういうわかり方をしたのか を表現していなければならない。『知識』には 人称関係と媒体と文脈がその内側に込められて いるのである。それに対して『情報』は,人称 関係も媒体も経験も文脈も捨象した知識である。
このように『知識』と『情報』を区別するなら ば,これまでの『勉強』が扱ってきたのは『知 識』ではなく『情報』に過ぎなかったことは明 瞭だろう。わが国の学校教育で,これまで『知 識』が『知識』としてまっとうに扱われたこと は一度もないのである。 (佐藤 1997b p. 91)」 この勉強を学びへと転換するための課題とし て,「媒介された活動を組織すること」「共同 (グループ活動) を実現すること」「知識や技能 を〈獲得〉し〈定着〉する学習から,〈表現〉 し〈共有〉する学習へと移行させる」ことを挙 げている。 (2) 学びの三位一体論 カリキュラム改革,ひいては授業改革,学校 改革に関わる課題を乗り越えて,「勉強」を 「学び」に変えていくにあたって,「学び」の実 践とはどういうものになるのか。佐藤は「学び の実践は,『世界づくり (認知的・文化的実 践) 』と『自分探し (倫理的・実存的実践) 』 と『仲間作り (社会的・政治的実践) 』が相互 に媒介し合う三位一体の実践なのである。(佐 藤 1995 p. 75)」として「学びの三位一体論」 を提唱する。学びの活動を意味と人との関係の 編み直しとすると,学びの実践は「学習者と対 象との関係」「学習者と学習者自分自身との関 係」「学習者と周りの他者との関係」の三つの 関係を編み直す実践だという。 まず,「学習者と対象の関係」とは,学習者 である子どもと,対象世界 (授業で扱う学習 材) との対話である。学習者は,学習材と向き 合い,その意味を推論し,探り,認知していく。 佐藤が「世界づくり」という言葉で表すように 文化的な実践である。一般的行われている「学 習」では,この活動が中心となっている。しか し,今の制度化された学校の学びは,「具体的 対象の操作と構成の活動を捨象されているため に,対象の世界の意味を構成する活動としての 学びではなく,所定の知識の習得と定着を基本 とする学びへとおとしめられている。(佐藤 1995 p. 77)」と佐藤は嘆く。 二つ目の「学習者と学習者自身との関係」で は,佐藤が「自己との対話」の実践を「自分探 し」という言葉で言い換えているように,対象 世界の意味を構成しながら,そこに対する自己 を構成する実践を提唱する。そこでは,自分自 身の考えや意見と対話し,言語を介して自己と いう対象をも再構成することができる。この 「自分探し」の欲求こそ,「私たちを学びの実践 へと内側から衝き動かす根源的な欲求なのであ る。」と佐藤は言う。自己のあり方を探求する 倫理的実践である。 三つ目の「学習者と周りの他者との関係」は, 他者の考えや意見と対話する社会的実践である。 「学びにおける第三の対話的実践は,他者と のコミュニケーションという対話の社会的過程 において表現されている。あらゆる学びは,他 者との関係を内に含んだ社会的実践である。教 室における学びは,教師や仲間との関係におい て遂行されているし,一人で学ぶ状況におかれ た場合でさえ,その学びには他者との見えない 関係が編みこまれている。教育内容の知識は, それ自体が社会的に構成されているし,学びの 活動は,見えない他者のまなざしからのがれえ ないからである。(佐藤 1995 p. 74)」 佐藤は,これらが相互に媒介しあう関係とし て,「三位一体論」を提唱し,「学び」の定義と している。 (3)「学び」を成立させる授業 「学び」を成立させる授業を組織するものと して,「個への対応 (テーラーリング)」と「個 と個の響き合わせ (オーケストレーティング)」 を挙げている。「伝達型」の授業ではなく,新 しい探求型の授業の指導性を表す言葉として英 語圏で使われている表現で個に応じる指導を 「テイラーリング=仕立て (tailoring)」つまり 一人ひとりの体型に合わせて服を仕立てるよう に,子ども一人ひとりの個性に対応するという 言葉で表し,違う楽器の違う音を響き合わせて シンフォニーを生みだすような,個と個を擦り 合わせる指導を「オーケストレイティング=響 き合わせ (orchestrating)」という言葉で表現 している。これらの指導によって組織される授 業は,答えを一つにまとめていこうとするもの ではない。子どもの学びが個から出発し,他の 子どもや教師との擦り合わせを通して,最終的 には個へ戻る過程を追究するものである。 佐藤は,一斉授業が今日の授業形態の基本と なっていること,そして,子どもが「集団」と
して教師に意識されていることから,まず一人 ひとりの対応を基本軸にして見直す必要がある としている。そのための重要な「テーラーリン グ」で あ る。ま た,個 と 個 を 響 き 合 わ せ る 「オーケストレーティング」では,コミュニ ケーションの豊かさが鍵となるとしている。コ ミュニケーションは決して予定通りにおさまる ものではない。教師の思惑にそって子どもの意 見を聞くのではなく,思惑と違う子どもの声に 耳をかたむけることで,教室のコミュニケー ションが豊かに展開する。それは教師の力量に かかっているのである。 (4)「問い」あっての「学び」 こうした佐藤の理論をみていくと,佐藤の求 めている「学び」と本論で論究する「問い」が 生きる学習の姿とが重なってくる。佐藤の言う 「学びの三位一体論」の対話は,それぞれの対 象との対話から,関係の編み直しが図られると いうことであり,そこには「問い」が必要とな るのである。素朴な「問い」でもあったとして も,それを引き出し対話をしていかなければ, 対象に対して推察したり,探ったりすることは できない。この対話には意識的・無意識的な 「問い」が存在しているといえる。 また,「勉強」から「学び」への転換を図る ために,「媒介された活動」を必要としている が,その活動をつくるためにも,必ず「問い」 は必要となってくる。「問い」がなければ観察 や調査,実験,討議,表現等の具体的な活動は 生まれてくるはずはない。佐藤のいう「活動的 で協同的反省的な学び」とは,子どもが自分の 課題をもって交わり関わりあう教室で実現する。 教室で「問い」が扱われる場合,一般的には 最後に答えが一つにまとめられることが多かっ たが,佐藤の「個から他へそして個へ」の経緯 をたどって,最後に個人にもどってくるところ は,「問い」を通してその子ども自身が自分の これまでの三方向の対話を振り返り,吟味し, 学びを自分のものとして自分に納めるところで, 「問い」がその子自身の学習になったといえる のであろう。 つまり,佐藤の「学び」において「問い」と は,対話によって個人から生まれ,仲間を通し て新しい対話を生み,最終的に「問い」を生み 出した個人に戻ってくるものだといえる。 5.4 人の教育論にみる「問いのある授業」 の要件 4 人の教育理論を「問い」を生かす授業実践 という視点でみてきた。そこから得られた「問 い」に関わる要件は,まとめると以下の 4 つと なる。 1.「問い」は個人の中で生まれる 2.「問い」は意識してステージ (学習の場) に あげないと見えなくなる 3.「問い」は対話によって広まりと深まりが生 まれる 4.「問い」は問いをもった個人にもどって学び になる まず,一つ目の「『問い』は個人の中で生ま れる」と四つ目の「『問い』は問いをもった個 人にもどって学びになる」は,斎藤,東井,佐 藤が共に,学びが「個人から始まり個人へ戻 る」としているところに基づいている。上田は, これら三人以上に子ども一人ひとりの学習に注 目し,「カリキュラムは子どもごとに立てられ るべきである。 (上田 1986 p. 88)」とし,一 貫して個々の子どもが問い続ける姿を求めてい る。 斎藤と東井は,学習の形態を固定できるもの ではないとしながらも,どちらも個人から始ま り個人へ戻る形を提示している。佐藤も,授業 は「子どもの学びが個から出発し,他の子ども たちや教師との交わりとすり合わせを通して, 最終的には個に回帰する過程を追究している。 (佐藤 1997a p. 238)」としている。従来の授 業が,個人と離れたところから始まり,さらに 個人から離れたところでまとめられ終わってい るという実態への提言としてあげる。 以上のことを基にまとめた,一つ目の「『問 い』は個人の中で生まれる」である。これは, 子どもがどういうところで「問い」を持つのか ということにも着目したものであり,「問い」 は,教材や活動,友だちや教師の発言など,周 りの何かに触発されて生まれることに基づいて もいる。上田のいう「ずれの発見」は,「問い」
の発見そのものであるが,それは個人の中で発 見されるものなのである。そして,その発見の ためには,授業の中で,斎藤が言う「問い」が 生まれるような対話の時間や,ぶつかり合いの 場面を設定する必要がある。しかも,教師の評 価そのもの (いわゆるできる,できないの評 価) を求めるために立ち現れるものではなく, 子ども自身がこれまでの自分の経験や知識,思 いと関わらせてその対象と一対一で向かい合っ た瞬間,東井の言う「生活の論理」を通すこと で初めて現出するものともいえるものなのであ る。 二つ目の「『問い』は意識してステージにあ げないと見えなくなる」は,「問い」の発見と して取り上げられること,教室で共有すること の重要性である。「問い」は常に華々しく全体 の場に登場するものではない。斎藤が「問題」 をみんなのものにするために活用した「×× ちゃん式まちがい」法や,東井のいう瞬間に消 えてしまいがちな「おやおや」という疑問を書 き留めておくという学習帳の活用などは,形の ない「問い」を教室,授業というステージに上 げるための方法である。教師は,授業で見られ る子どもの様子だけでなく,子どもの生活や行 動や思考の軌跡を記録をもとに総合的に摑もう と絶えず努め,個人の中にある瞬間生まれた 「問い」を拾いあげなければならない。そのた めには,上田のいう「子どもの個的全体性」の 把握が重要となってくる。この「問い」を見つ け,拾い出し,全体の「問い」へと育てていく ために,こうした教師の仕掛けが必要である。 三つ目の「『問い』は対話によって切りひら かれる」は,「問い」をもったその個人が一人 で立ち向かうだけでなく,外界との対話が必要 であるということである。これは斎藤のいう 「相互のはげしいコミュニケーション」によっ て授業が再創造されていくという指摘,あるい は佐藤の対象世界との対話,自己との対話,他 者との対話で関係の編み直しを図る「学びの三 位一体論」に基づいたものである。対話の対象 が学習集団や学習グループであった場合,「問 い」をもった本人だけでなく,周りの子どもた ちにもまた新たな刺激が与えられ,思考が広が り,深まり,また「問い」が生まれる。上田が 「わかってしまったと思い,もうなんの疑念も 生じないような理解は正解ではない。たえず疑 問を生みだし続けるような理解こそ正解なので ある。(上田 1986 pp. 58-59)」というように, 「問い」は変化したり,立ち戻ったり,また新 たに生まれたりしながら,学びに結実するので ある。また,東井のいうように「育ちあい,磨 きあいは,子ども相互の間でもくり拡げられね ばならない。(東井 1958 p. 286)」のである。 四つ目に「『問い』は問いをもった個人にも どって学びになる」とは,先に述べた通り斎藤, 東井,佐藤の指摘による「問い」を生かした学 習を子ども自身のものにすることである。自分 の「問い」があらゆる対象を通して変化し,そ れに伴って初めはなかった思考や発見の軌跡を 見つめることで,子どもに学びの力がついたと いえるだろう。そこでまた,新たな「問い」が 生まれていれば,さらに学ぼうとする力がその 子を推し進め,さらに次のステップへ進むこと ができるのである。 お わ り に 4 人の授業の世界から導き出したこれら四つ の要件をみると,子どもの意識,教師の意識, 学習の手段,「問い」の段階等,多方面にわた る軸や視点をもつ必要性がみえてくる。 「問い」をどう生み出すのか,というところ では子どもと教材との出会い方や,対話の持ち 方に教師は意識して取り組まなければならない。 そして,子どもの内の無意識のものを意識させ る手だてを講じるべきである。書くことや,話 すこと等で形を与えながら,子どもが自分の思 考を自覚するということを随所に取り入れてい く必要があるだろう。このことに教師が心を砕 かなければ,これまで繰り返してきた授業のよ うに「問い」と子どもが離れてしまい,「問い」 本来の力を生かすことができないはずである。 また,生まれた「問い」を学級全体の「問 い」として取り上げるためには,十分な自己対 話や他者対話を通して,「問い」を自分に引き 寄せるという段階を設定する必要がでてくるだ ろう。そのためには,学習形態も見極めなけれ ばならない。「問い」と自分がしっかりと結び
つき,全体での交流に向かうことができれば, 子どもにとっての新たな発見や,新たな「問 い」につなげることができる。そして,そうし た経験が,学習した子ども自身に自信をもたせ, 次の課題に向かおうとする意欲の源になるので ある。 これらを可能とする授業がどのような形態を 必須とするのか,そしてそこでの教師の役割は どのようなものか。今後は,本稿の作業によっ て明らかになった 4 つの要件を礎に,「問い」 に関わる子どもの意識に注目しながら授業実践 を試み,「問い」の力を発揮させる授業モデル をつくっていきたい。 引用・参考文献 斎藤喜博 (1990)『学校づくりの記』(1958 初版) 国土社 (2006a)『授業入門』(1960 初版) 国土社 (2006b)『授業』(1963 初版) 国土社 (2006c)『授業の展開』(1964 初版) 国土 社 東井義雄 (1984)『村を育てる学力』(明治図書 1957 初版) ほるぷ出版 (1958)『教師の仕事 7 学習のつまずき と学力』明治図書 上田 薫 (1992) 上田薫著作集 5『個を育てる力』 黎明書房 (1986)『人間の生きている授業』黎明書 房 上田 薫・静岡市立安東小学校 (共著) (1999)『個 を見つめる授業』明治図書 佐藤 学 (1997a)『教師というアポリア ―反省的 実践へ―』世織書房 (1997b)『学びの身体技法』太郎次郎社 (2000)『授業を変える 学校が変わる』 小学館