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中央学術研究所紀要 第47号 002武藤 亮飛「庭野日敬の「宗教統一」の思想とその活動 ―宗教多元主義的実践の一事例として―」

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Academic year: 2021

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1.はじめに

 現在の日本においては、立正佼成会を中心とした宗教間対話(「宗教協力」)の展開 が活発であり、世界にまで広がりを見せている。立正佼成会の「宗教協力」の歴史を 辿ると、開祖・庭野日敬は、一時期「宗教統一」を盛んに唱え、「宗教協力」活動を邁 進していたことが分かる。後に見るように「宗教統一」を目指して、宗教間の交流・ 対話を行なおうとする流れは日本では戦前から確認できる。その根底には、「万教同 根」「万教帰一」などと表現される諸宗教の本質的な一致という考え方がある1  庭野も「万教同根」を唱え、諸宗教の協力へと踏み出していくが、教義をも含んだ 「宗教統一」が他宗教から理解を得られない、という道をたどる。この道は「宗教統 一」を掲げる多くの宗教者が通ってきた道である。しかし、立正佼成会は現在に至る まで、「宗教協力」をその活動の柱の一つとして掲げ続けている。「万教同根」という 思想、そして「宗教統一」という理想を掲げ、現実的な壁にぶつかっても尚、現在ま で対話・協力活動を立正佼成会が継続させているのはなぜか。本論では庭野日敬の思 想的な変遷と立正佼成会の活動を見ることでこの問いについて考えてみたい。

庭野日敬の「宗教統一」の思想とその活動

―宗教多元主義的実践の一事例として―

武 藤 亮 飛

1.はじめに 2.庭野日敬以前の「宗教統一」の理想 3.庭野日敬の思想と「宗教協力」活動の展開  3−1.庭野の日蓮宗「統一」の理想と日蓮門下協議会  3−2.「法華経」による宗教統一という理想  3−3.「法華経」から「真理」への移行と「国民皆信仰」の提唱  3−4.「宗教統一」の不使用と WCRP の開催 4.他宗教認識の類型と庭野の思想の位置づけ 5.まとめと補足

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2.庭野日敬以前の「宗教統一」の理想

 「宗教統一」について言えば、例えば自宗教の傘下にすべての宗教を入れてしまうと いう包括主義的なあり方も想定することができる。それは相手に改宗を迫る、促すと いう形で「統一」を為そうとする(自宗教が優位であり続ける)。しかし、「宗教統一」 が宗教の本質的な部分での一致を前提とするものならば、改宗を迫る必要がない場合 もある2。むしろそれは、諸宗教間の対話や協力を促すものとさえ言えるのである。な ぜなら、自宗教も含めた他の宗教との融合(この場合、自他に上下関係はない)が、 「宗教統一」の理想として考えられるからである。  その一例は、庭野に先駆け「万教同根」(すべての宗教は同じ根を持つという思想) を説き、「宗教統一」を唱えた大本の聖師・出口王仁三郎である。王仁三郎は世界人類 の平和と幸福のためには「人心の和合が先決問題」であり、「それには教を以て世界の 同胞が結合」しなければならないと考えていた3。その実践の一つに、1925年5月20 日、大本が中心となって、北京において全人類の福祉の増進と社会の繁栄を目的とし て、「世界宗教連合会」を発足したことが挙げられる4。この世界宗教連合会は、全人 類の福祉の増進と社会の繁栄を目的としているが、当時の大本の機関誌である『神の 国』には以下のように書かれている。    各宗教各宗派が門戸を設け障壁を築いて相争うことは宗祖の本旨に悖ること勿論 である。斯くの如き偏見を抱き又僻した観念に囚わるるのは皆天啓による宗祖の 真意を解せず、之が伝達者の人智による教に趨るからである。要するに宗旨相鬩 ぐのは端的に其の宗教宗派の不徹底なる愛を示すものというべきである。5  ここでは明瞭に、宗教の違いから争うのは「宗祖の本旨」「宗祖の真意」を理解して いないからであると述べられている。世界宗教連合会は、この「各自宗教本来の面目」 に諸宗教を復帰させうるものと言われ、「宗祖の真意」あるいは「本来の面目」を理解 したならば、「地上天国は成就し神の国は現出する」と謳われている6。また、大本に は、「既成宗教のすべては大本出現の先駆であり、各宗派をして本然の状態に復らしめ んことは大本の最も望むところである」という発想があった7。つまり、大本は諸宗教 を「本然の状態」に戻すことを使命として感じていたのであり、その「本然の状態」 に戻れば統一がなされると王仁三郎は考えていたようである。  ところが、この世界宗教連合会は長くは続かなった。というのも、実際に会議を開 いてみると、各宗教は、「宗教エゴイズム」が強く、「自分の宗教のよきことのみを主 張」する。そこで王仁三郎は派遣していた松村真澄に対して「帰れ」という電報を打 ったと言われ、世界宗教連合会も終わりを迎える8  このように、庭野以前から諸宗教の「統一」ということが考えられていたことは確

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かである9。それは諸宗教の本質的同一性を認め、そこに「帰る」という考え方であ る。しかし、これらの理想は結果的には挫折したと言っても過言ではない。本質が同 じであり、そこに「帰る」としても、その本質を体現するものは何か、言い換えれば、 どの教え、あるいはどの教団がその本質を現しているのか、という問題になると、そ れぞれの教団が自身の教義や教団と答えることは明らかである。そうなると、「宗教統 一」の行きつく先は包括主義にしかならない。結局、本節の冒頭に示した(布教によ る)「宗教統一」と同様、どの宗教が他の諸宗教を包括するのか、という議論に行き着 いてしまう。王仁三郎が「宗教エゴイズム」と表現したものがそこに表れてくるので ある10

3.庭野日敬の思想と「宗教協力」活動の展開

 立正佼成会は1938年に庭野日敬と長沼妙佼によって設立された、法華経を所依の経 典とする新宗教教団である。開祖・庭野日敬は1906年に新潟県で生まれ、28歳のとき に霊友会に入信し、その翌年、長沼政(妙佼)を霊友会に導いている。1938年に霊友 会会長の小谷喜美との法華経解釈の相違から同会を離脱し、「大日本立正交成会」を創 立し、「立正交成会」を経て、1960年に現在の「立正佼成会」に改名している(以下、 教団名は「立正佼成会」で統一する)。庭野は1999年、92歳で逝去した。立正佼成会は 庭野の生前から「宗教協力」を活動の柱の一つとしており、世界レベルから草の根レ ベルまで、幅広く諸宗教の交流・対話・協力を展開している。これほど教団全体で宗 教間対話を推進している教団も稀有といえる。  庭野もまた、王仁三郎と同じく、諸宗教が「本義」あるいは「本旨」(本質)におい て一致していると確信し、「宗教統一」を掲げた。「宗教統一」に思い至った時期や経 緯については明らかではないが、庭野自身は「若いころから、あらゆる宗教は手を握 り合って進まねばならないという信念」を持っていたと述べ、立正佼成会創立当初か ら「宗教協力」を「念願し主張し、実践」し続けてきたと語っている11。このように、 「若いころ」から庭野には「宗教統一」の希求があったと考えられるが、管見の限り、 庭野自身の「宗教統一」について明確な語りを確認できるのは1950年以降である。ま た、活動においても1950年を皮切りに他宗教への接触を始めていることが確認できる。 実際、立正佼成会のホームページに掲載されている、「宗教協力のあゆみ」は、1951年 の「新日本宗教団体連合会(新宗連)結成」から始まっており、立正佼成会本部の認 識においても、立正佼成会の「宗教協力」は1951年以降に本格化したと考えられてい るといって間違いない12。したがって、以下では1950年以降の庭野自身の言説を中心に 見ていきたい。

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3-1.庭野の日蓮宗「統一」の理想と日蓮門下協議会  庭野の「宗教協力」の具体的な活動の発端は、上記の「新日本宗教団体連合会(新 宗連)」結成に数か月先立つ「日蓮門下協議会」の結成である。これは立正佼成会など の法華経を所依の教典とする新宗教教団と、身延山を本山とする日蓮宗身延派(以下、 日蓮宗)との連合体である。これを結成した理由は、日蓮宗の「統一」を目指すこと にあったとされている。では、日蓮宗を統一することと、立正佼成会という個別教団 の関係はどのように考えられていたのか。  庭野によれば、日蓮宗という既成教団があるにもかかわらず、立正佼成会という新 宗教を創設する、しかも「在家仏教団」として創設する理由は、一つには「派閥争い」 を主とする僧侶中心の仏教界への批判、そしてもう一つは、日蓮の「一天四海皆帰妙 法」(全人類が法華経に帰依する)という願いの成就にあった。庭野は、伝統仏教教団 が「死者の供養と仏事法要」「形式的な説教」「信者の御機嫌取り」「政争」に奔走をし ていると批判している。これを打開するために「僧俗一体」、つまり伝統教団である日 蓮宗と立正佼成会が一丸となって、全人類を法華経に導いて救わねばならない、と述 べる13  このように日蓮宗が「派閥争い」に終始していることに対して批判的ではあったも のの、「心の中では〔日蓮宗の僧侶を〕尊敬いたしておる点が多々あり」、「僧俗一体」 が現状を打開する方法であると考えた庭野は、日蓮宗に接近し始める14。1949年に身延 山総務に就任した増田宣輪と面会した庭野は「宗教の興廃は懸って教学の成否に依存 するものであるから、総務は鋭意教学問題に全力を傾注して貰いたい」「宗教統一を実 現する意図のもとに、先ず法華門下だけでも統一の機構を醸成して貰いたい」という 二つの希望を、増田に述べている15。ここには、先ほど示した宗教の「本義」における 一致の確信と「僧俗一体」というあり方が前提とされている。そして、1951年8月、 増田の呼びかけで「日蓮門下協議会」は結成される。  ところが、庭野の思惑とは異なり、同会が日蓮宗開宗700年を盛大にするために結成 されたと考えた庭野は失望する。更に戒名を立正佼成会が独自につけていることなど を日蓮宗側が批判したり、立正佼成会に本尊の開帳を拒否したりするなど、衝突が起 き、その結果、立正佼成会は同年中に協議会を脱会することとなる16。その後、身延山 と立正佼成会の和解の場で、庭野は改めて以下のように発言している。    日蓮大聖人の教えは一つであるが、実行の面において根本的に相違点がある〔中 略〕身延山は総本山なのであるから、こうなくてはならぬということを、私共に 納得の行くように指導方針があってもよい筈である、この意味で私は増田総監が 就任された初対面(昭和二十四年二月十三日)からこれを力説し、統一的立場を とって下さるように要望して来たのであるが、そういうことに対しては御山から

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は何の指導も注意もなく、たまたま今春早々お開帳問題その他雑多の問題から一 方的に非難排撃され、出入禁止だとか破門したとかいろいろの悪宣伝をされてい る、しかし私共はその面の真相がいつかは世間によくわかってもらえると思って いたので、何を言われてもただ笑って来たが、今日はよい機会を与えて下さった ので一切を申上げてお互いに和解点を見出したいと思う17  庭野は「僧俗一体」となり、すべての人が法華経に帰依をすること(一天四海皆帰 妙法)を目指していた。日蓮宗側はそれに応えるような形で「日蓮門下協議会」を結 成するのであるが、実際には「僧俗一体」となって「統一的立場」からの法華経の布 教ということに対して、消極的であった。それは、「俗」である立正佼成会の教勢拡大 に対する牽制もあったとも推察される。 3-2.「法華経」による宗教統一という理想  「日蓮門下協議会」は瓦解したが、その後結成された新宗教団体の集まりである「新 日本宗教団体連合会」において、庭野は初代理事長の御木徳近(パーフェクト リバテ ィー教団第二代教祖)に、「宗教統一」を実現するために、教義(「各教団の中心とな る教えや修行法」18)についての対話を求める。ところが、「教義なんぞいじくったら収 拾つかないことになりますよ」と、ここでも理解を得られなかった19。それでも庭野 は、諸宗教が「本義」において一致していると確信を持ち続け、「宗教統一」の理想を 捨てはしなかった。  この頃(1950年代)の庭野は「宗教統一」は「法華経」を中心になされると考えて おり、以下の記述は、宗教を「統一」するのは法華経であるとの宣言ともとれる。    宗教統一というと話が大きいと思うかも知れませんが、同じ目的のものならば膝 を交えて屏風を立てずに話合えば、必ず「成程そうなんだなあ」ということにな る。宗教の正しいものが集まれば結局最後は私共が言う妙法二字の精神に到達す るわけでありますから、仏教を統一したものは法華経であり、色々な宗教思想を 統一したものもまた法華経であるとも言える。これは私が申上げるのではなく法 華経そのものゝ真価なのであります。20  このような考え方は、1954年に書かれた機関誌『交成』誌上で示された法華経の解 釈、特に「如来神力品」の解釈に如実に表れている。「如来神力品」は如来の「十大神 力」が示される箇所であるが、そのうちの一つ、「空中唱聲」は、諸天善神が衆生に対 して、法華経に随喜し、釈尊を礼拝・供養するように述べる場面である。この解説に おいて、庭野はその呼びかけの前半部分を以下の三つの部分に分ける。⑴「国あり娑 婆世界と名付く」⑵「国に仏あり釈迦牟尼仏と名付け奉る」⑶「その仏は今妙法蓮華

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経という菩薩を仏にする御法を説いている」の三つである。この内、⑵については「娑 婆世界の救主は大日如来でもなければ阿弥陀さんでもなくその他の神様でも仏様でも なく、釈迦牟尼世尊に限られていると断定」していると説明する。さらに⑶について は、「衆生成仏の極法は妙法蓮華経に限るのであって、他の如何なる余経も全然効果な しと決定されたのである」と説明する21。つまり、唯一釈迦牟尼仏だけが「救主」であ り、法華経以外は救いのために効果を発揮しないと解釈されている。  また、続く「咸皆帰命」の説明においては、「教理は一に統一され、仏は釈迦一仏に 帰されなければならない」と説明され、更に「通一仏土」においては、「「十方世界通 達無碍にして一仏土の如し」と仰せられたのは、正しくこの法華経に万教が帰一すべ きであることを御説明になられたのである」と説明する。しかも日蓮の「一天四海皆 帰妙法」は「通一仏土」と同じ意味であるとも言われている22  以上のように、1954年時点では明らかに法華経中心の「宗教統一」が想定されてい た。しかもそれは、「法華経に万教が帰一すべき」との表現からも明らかなように、包 括主義的な言説である。ここでは更に、法華経だけでなく、「釈迦」中心であるべきこ とも示されている。これを如実に示すものが、1954年に庭野が提唱した「新大乗仏教 運動」である。  庭野は西暦紀元前後に起こった「大乗仏教」の始まり(大乗仏教運動)を、仏教が 「出家僧侶の専有」となったことに対して、「仏陀に帰れ」という精神から起こった改 革運動との認識を示している。しかし、それら大乗経典が中国に伝わって以降はその 精神が失われ、「釈尊のお心にかなったもの」ではなくなってしまう。日本においても 同様で、それぞれの宗派が「互いに特質を主張し合うのみで一向に総合してお釈迦様 のお心を真に示したものはない」と批判する23。そこで庭野は「新大乗仏教運動」を提 唱する。    要するに仏教々団の一致点ということにつきまして、釈尊に帰れ、仏陀に帰れと いう提唱を、私は新大乗仏教運動とこれを称しまして、大乗経典の中でも真に釈 尊の本懐であるところの法華経を以て、仏教を信奉する人々の心と念願を一つに するべきであると信ずるのであります。24  以上のように、1950年代の庭野にとって「宗教統一」の中心と考えられていたのは 「法華経」であり、「釈迦」であった。この点では、自宗教が優れている、したがって 自宗教にすべての人々が改宗すべきと考えた数多の宗教と変わらないように見える。 ただ、ここでは「立正佼成会」の教えではなく、あくまでも「法華経」や「釈迦」を 中心に据えており、単なる自宗教中心の包括主義とも言い切れないことも事実である。

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3-3.「法華経」から「真理」への移行と「国民皆信仰」の提唱  1960年代に入っても「宗教統一」は目指すべきものとして言及されている。例えば 1963年12月1日、スワミ・ヴィヴェーカーナンダ生誕百年記念会の主催によって開催 された「第二回宗教会議」で庭野はこのように発言をしている。    世界の客観情勢が、宗教協力の重要性を認識するようになってきている現在、わ れわれ宗教家は、他宗教と仲良くするということからもう一歩すすんで、教義な どの理解を深め、いずれは教義を統一して一つになるべきであると思う。25  ここでは明らかに「教義」の統一を主張している。更に、その他にも1963年の「核 兵器禁止宗教者平和使節団」の参加にあたっては、同使節団が「宗教統一の曙」であ ると表現し26、1964年の大聖堂建立に際しては「私の念願する宗教統一」への一歩であ ると記している27。1965年6月にはあらためて「宗教統一におもう」と題した法話も示 している28  以上から、1950年以来、日蓮宗や御木徳近に消極的な態度を取られても尚、一貫し て庭野は「宗教統一」への理想を捨てず、教義的な一致も視野に入れた上で発言・活 動をしてきたと言える。しかし、1960年代に入ると「法華経」や「釈迦」があまり強 調されず、「真理」「宗教」「信仰」など、比較的一般的(普遍的)な用語が選択される ようになるという変化があったことを、強調しておかなければならない。  例えば、1960年に出版された『法華経の新しい解釈 全』(以下『解釈』)において は、「法華経」「釈迦」中心のあり方が後景化していることが見て取れる。54年の「解 釈」においては衆生の成仏にとって法華経以外の「他の如何なる余経も全然効果なし」 と断定されていたところが、60年の『解釈』では、釈迦が説いた「妙法蓮華・教菩薩 法・仏所護念」という教えが「真実無二の教えである」という表現に微妙に変化して おり、他経との比較をしていない。また、「未来教一」の解説においては、未来におい てはすべての教えが「仏の教えに帰一する」と変わらず主張されているが、その「仏 の教え」は「生命尊重、万物調和の理念」と示され、一般的な用語が使用され、法華 経が強調されていない。また、54年の「解釈」では「一天四海皆帰妙法」と同じ意味 だとされた「通一仏土」は「この宇宙間がすべて一つの仏土のようになってしまう」 と法華経に言及しておらず、そして「未来理一」では、「真理はあくまでも一つである から、未来において、いつかはすべてのものがこの一つの真理のレールの上にのって、 完全な調和のある世界をつくりあげることができる」と説明されている。ここでもやは り、法華経は強調されておらず、普遍的な「真理」が強調されていることが分かる29 また、1964年の法話において、法華経について、「他の一切経が劣るものであるとして 無視せよという教えではない」「一切経の根本義は一つであるという見地に立つもの」 と明言されている30

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 この「法華経中心」から「真理中心」への変化は、あくまでも表現(方便)におい ての変化ではあるが、この変化は「新大乗仏教運動」の提唱から「国民皆信仰」の提 唱への移行に象徴的に表れている。「国民皆信仰」とは1965年に庭野が提唱したもの で、「一天四海皆帰妙法」「新大乗仏教運動」とは異なり、文字通り、日本国民すべて が「信仰」を持つことを目指す運動である。では、ここで言う「信仰」とは何か。  庭野は「国民皆信仰」を説明する際に、「種々雑多な信仰」として、「天然崇拝、精 霊崇拝、動物や板きれを拝む」ことを挙げている。大衆は宗教を求めているが、こう いった「種々雑多な信仰」が「かえって真面目に宗教信仰を求める人たちに混乱と宗 教不信の念を与えているといえる」、だからこそ「正しい宗教信仰」が必要であり、「国 民皆信仰」を進めるのだという31  ここで大事なことは、「信仰」ということが、必ずしも「法華経」への帰依や立正佼 成会への入会を意味していないことである。もちろん、「法華経」が真理であると考え られていたことに変わりはないし、立正佼成会がその真理を担う団体であることも否 定はしていない。しかし、「国民皆信仰」はすべての国民が「真の宗教」に目覚めるこ とが目的であって、教団への所属やその方法は特に指定されていないのである。    本会が、人類の幸福を実現するためには宗教統一がなされねばならないと言うの も、それがため〔宗教の本義が一つであることに気付き、宗教間の対立をなくす ため〕であって、決して自己の教団の傘下にすべてを納めるというような実現不 可能な夢想を口にしているのではありません。32  この点について庭野は、普門館33の建設についてコメントする中で、普門館で他宗教 者に法華経を学んでもらいたいとしながら、以下のように述べている。    かならずしも法華経の信者に改宗してもらいたいというのではありません。それ ぞれの人の現在の信仰はそのままつづけてもらってもすこしもさしつかえないの であって、ただ法華経の真理を聞くことによって、ますますその固有の信仰に深 みを加え、その本義にめざめていただければ、それで十分だと考えるのです。34  庭野は「宗教の本旨」や「本義」が諸宗教に共通していることは繰り返し述べてい たが、その真理を体現したものが「法華経」であり、法華経の真理に気付くことが衆 生の救済となると考えていた。しかし、ここで他宗教の「本義」が「法華経」と同じ 真理を体現していると示唆している点は注目に値する。ここにも表現上ではあるが、 「法華経中心」から「真理中心」への変化が見出せるのである。  さらに付け加えれば、「妙法」の意味も変化しており、ここにも「法華経」から「真 理」への移行がうかがえる。1950年代は明らかに妙法=法華経であったが、1966年に は「妙法化」は「宇宙の真理」にそって生きることに導くことだと庭野は述べており、

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それは法華経に説かれている生き方に限定されるものではないと示唆されている35。更 に、1970年代には「妙法」が法華経に限定されない、と明言されている。    「一天四海 皆帰妙法」については、〈妙法〉という文字が入っていることから、 ややもすれば、法華経の教えだけを指すものだ、と受け取っている人がいるよう ですが、私の恩師の新井助信先生は、「日蓮聖人が言われたのは、そういう意味で はなく、一天四海がみな妙法の法に一つになっていることを、指されたものであ る」と、より広く解釈して教えてくださいました。36  ところで、宗教の本質(「本義」)が一つなのであれば、なぜ諸宗教の分裂が起こっ たのか、という当然の疑問が浮かぶ。庭野によれば、宗教が多様に存在している理由 は、地球上の交通や情報通信が不便であったため、異なる民族間の意思疎通が困難で あり、そのため、同じものを信仰しているにも関わらず、違うものを信仰していると 思い込んでいたことにある。つまり、「宗教統一」を妨げていたものは、交通機関や通 信機関という外的な環境的な要因であり、そういった要因が克服された現代において は、「あらゆる宗教がそれぞれ孤立し、あいかわらず排他性をもっているというのは、 時代錯誤」と指摘している37。したがって、「宗教統一」を行う外的な状況が克服され た今こそ、好機であると庭野はみなしていたのである。 3-4.「宗教統一」の不使用と WCRP の開催  1965年に入り、第2バチカン公会議でパウロ6世と会見した庭野は、「排外主義」「排 他独善」と考えていたカトリックの他宗教に開かれた態度に感動をする。そして「宗 教協力」こそ、「自分に与えられた天の使命であるという決定を新たにした」と語って いる38。そこから更に「宗教統一」を唱え、「宗教協力」に邁進していくことになる。  しかし、1967年頃から、「宗教統一」という用語の使用を控えるようになっていく。 そのことを後年、庭野は以下のように語っている。    わたしは、ひところ宗教統一ということを盛んに唱えていました。しかし、それ は百年先か二百年先に実現するかしないかという理想であって、現在の世界にお いては、統一という言葉は誤解を生じ、逆作用をも起こしかねないことを悟りま した。なぜならば、何千年、何百年のあいだ身にしみつき、血にとけこんでいる 自民族の宗教の信仰所作というものは、理屈を抜きにして、なかなか離れがたい ものであるからです。39  「宗教統一」は日蓮宗に拒否されたが、先に示したように、御木にもまた消極的態度 を示された。それについて庭野はこのように振り返る。

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   実際、そのとおりであって、理想と現実との間には長い時間をかけてジックリ解 決していかなければならぬ、大きなギャップがあるのです。そのことを、わたし も、だんだんと実地に知るようになりました。40  庭野は、「宗教統一」は「理想」として存在しているが、現段階においては実現が不 可能なもの、少なくとも拒否感を抱かれる言葉であると考えたようである。ここには 交通や通信といった外的要因だけではなく、人間の心理といった内的な要因もまた、 「宗教統一」を阻む原因であることが示唆されている。  このようにして「宗教統一」を見送った庭野は、諸宗教の「差異」に目を向けるこ とになる。    われわれは、その本質の平等さを尊重しあうと同時に、現象としてのそれぞれの ちがいをも認めあい、たいせつにしあわなければなりません。41  ここでは、諸宗教の本質的同一性だけでなく、差異も尊重すべきであることが述べ られている。また、「いろいろな宗教が存在するということは、真理を具現化するため に相互に補完し合い、助け合うためであるという認識が大切」と述べるように、諸宗 教の多様性は、単なる「誤解」に基づき、将来的に解消されるようなものではなく、 積極的な価値(補完・互助)が認められるものと認識されていくことになる42  具体的には、1967年以降、「力を合わせる」「手をとり合う」「協力」といった用語が 使用され、「統一」という用語は使用されなくなる。しかし、「区別」への拘泥は依然 として否定されている。庭野の焦点は、一宗一派の「差異」ではなく、一宗一派とい う「区別」に拘る「排他性」にあったのであり、それこそが「宗教統一」を妨げるも のと目されていたのである。排他性が対立(分派・分裂)を生み、人々を不幸にする と庭野は考えていたのであり、この「宗教統一」も、正しい信仰に至れば、派閥に拘 ることはなくなる、ということを意味していたのである43。したがって、「派閥争い」 に終始する日蓮宗批判の頃から、庭野の強調点は、あくまでも「宗教の本義」におけ る一致の主張と教団の排他独善性への批判にあり、1950年来一貫していると言える。 ただし、表現(方便)の上では変化が出てきていることは見てきたとおりであり、こ こに至って「統一」という用語の表現も控えることになる44  そして、「宗教協力」のためには、「ほんらいの信仰を深め、布教活動をつづけて」 いけばいいと会員に説くようになる。    自分の宗教にどこまでも徹してゆきますと、それはひとりでに他の宗教の本義と かよい合うようになります。そうならないのは、正しい宗教ではないのです。〔中 略〕〔宗教の〕相違点から目を転じて、深く各宗教の本義をつきとめていくなら ば、必定してすべては一つ0 0 0 0 0 0 なのです。世のあらゆる信仰者が、もうソロソロその

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ような理性を持つようにならなければならないとおもいます。一つ0 0 であるところ をお互いに見いだしさえすれば、協力はひとりでに生じてくるはずなのです。45  庭野は1970年には現在まで続く世界最大規模の宗教協力団体である、世界宗教者平 和会議(WCRP)の第1回世界大会を開催している。こういった「協力」が可能とな ったのは、決して庭野の「宗教統一」の理想、あるいはその思想的な基盤である「宗 教の本義」における一致、という考え方が受け入れられたからではない。そうではな く、共通の社会問題の認識とそれに対する活動・協力という指向性が一致したからで あると思われる46。実際、WCRP の第一回世界大会では、「非武装」「開発」「人権」に ついて語られ、むしろ教義的な話題は避けられており、具体的な社会問題に対して宗 教者がいかに協力できるかが語られていた。  同大会で採択された「京都宣言」では、参加者は以下の点で一致したと宣言されて いる。すなわち、人間の平等性と尊厳の確信、個人とその良心の尊さ、人間社会の価 値を認識すること、人間の力が絶対的ではないこと、愛、同情、無私、内面性の真実 と霊の力が憎悪、敵意、利己心に打ち勝つことを信じること、貧者、被抑圧者の側に 立つこと、善が終には支配することを望んでいることである。また、「平和の大義」に (「宗教」ではなく)「宗教者」が背いてきたとの反省が述べられ、「我々は、真実の恒 久平和を樹立すべき、宗教者としての責任に目覚め、かつその責任を担いうるように、 この会議に対して切に望むものである」と締めくくられている。  ここでは、「善」や「平和」とは何か、またそれぞれの宗教がそれらをどのように教 義的に裏付けているのかについては語られていないし、会議中にもそのような話は出 ていない。もちろん「教義」の一致についても語られていない。実際、この会議にお いて、第一回 WCRP 世界大会の事務総長であったホーマー・A・ジャックは以下のよ うに述べる。    我々は、世界のすべての全宗教の聖典には世界平和を要求する価値ある聖句が存 在するという確固とした前提をもって、出発することができます。しかし、すで に十分理解された事実を繰返すためのみに世界会議を開催するとしたならば、そ れに要する時間と費用を費やす価値があるでしょうか。47  このように、教義的裏づけがあることが前提として、具体的な活動や実践について 議論するべき(あるいは教義的な話題は避けるべき)と述べており、実際にそのよう な会議となっている。これは9回の世界大会を重ねた現在でも大きく変化していない。  このように、教義の話は避けられ、具体的な社会問題、そしてそれに対する活動や 実践において諸宗教の協力が展開していくことになる。このようなあり方であるから こそ、継続性を持っているということも言えそうである。しかし、それは「共通の社

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会問題」が基盤となって、諸宗教者の連帯を生み出しているに過ぎず、庭野が理想と した「宗教統一」とは異なったあり方に見える48  庭野は、WCRPの第1回世界大会が終わった後、1972年に出版された自伝において、 以下のように述べている。    私の唱える宗教協力は、ただ宗教人が手を握り合うということにとどまらず、「そ れぞれ自らの宗教の本義を究めることによって、各宗教に共通する真理をつかみ、 共通の真理をつかむことによって、おのずから一体感が生じてくる」という境地 をこそ、理想のすがたとして望んでいるのです。49  晩年に至っても、庭野は分裂状態、対立状態にある宗教を憂い、「まだまだ人類は 「悟り」に遠い」と話し、各宗教の「根本の真理」を学べば地上に平和が訪れると述べ ている50。これらの発言から、庭野が変わらず「宗教統一」の理想を持ち続けていたよ うにも見える。しかし、そこでの「一体感」や「協力」といった諸宗教の関係性が、 1967年以前の「宗教統一」が指し示していた事柄と一致しているかどうかは定かでは ない。ただ、1967年の法話における「世界中に宗教はいくらあっても、いっこうに差 しつかえない。表現や形式がちがって“神”という名をつかっても“仏”という名で よんでも、宗教の本義において、根本道理は一つだ」という発言からも、この段階に おいて、表現や形式を「統一」させるという意味での「宗教統一」は最早考えていな かったようである51  いずれにせよ、「宗教統一」という理想は受け容れられず、庭野はその実現を見送っ たにせよ、活動や実践のレベルに限定することで立正佼成会は「宗教協力」活動を継 続してきたと言える。また、ここで重要なことは、「宗教の本義」における一致という 確信が「宗教統一」を推し進め、さらには「宗教協力」活動へと展開することになっ たということである。それは現在でも同じであり、「宗教の本義」における一致という ことが立正佼成会の会員にとっては当然のことであり、宗教協力を推し進める原点で すらある。

4.他宗教認識の類型と庭野の思想の位置づけ

 以上、庭野の思想の変遷と活動について概観してきたが、ここで他宗教認識の類型 である「排他主義・包括主義・多元主義」を用いて、庭野の思想の変遷について改め て考えてみたい。  この三類型を初めて提示したのはアラン・レイスといわれており、この分類の基準 は「救い」の範囲にあるといえるだろう。すなわち、「排他主義」では自宗教以外の場 に救いはなく、他の宗教の存在を必要としない。「包括主義」では自宗教(の示す真理

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や業わざ)によって他宗教の信徒も含めて救われるのであり、他の宗教においても「真理」 は見いだせるので、他宗教の存在は否定されない。「多元主義」はそれぞれの宗教がそ れぞれの宗教によって人々を救うのであり、諸宗教は「真理」を「相補的」に示して いるので、むしろ積極的に他宗教から学ぶ必要がある52。以上が概要であるが、多様性 の尊重が叫ばれる現在において、排他主義が批判に晒されるのは当然のこととして、 包括主義、多元主義もそれぞれ批判されている。  包括主義のよく知られた例はカトリックの神学者カール・ラーナーが提唱した「匿 名(無名)のキリスト者」という考え方である。これは、他宗教の信徒も救われうる のであるが、それは例外なくキリストによって救われるのであって、本人の自覚を問 わずすべての人がキリスト者なのだという考え方である。このような考え方は、他宗 教者には受け入れ難く、排他主義と同じく自宗教を中心に据えている点が批判される こともある。  多元主義が、最も人口に膾炙するようになったのはジョン・ヒックに依るところが 大きいが、ヒックによる「宗教多元主義仮説」は多くの支持を受ける一方、多くの批 判に晒されてきた。ヒックによれば諸宗教の差異、特に真理主張―たとえば、キリス トが救世主であるという主張や、ムハンマドが神の最後の預言者であるという主張― における対立は、根本的な対立ではなく、「究極的実在」(Ultimate Real)の様々な表 現の対立に過ぎないという53。「偉大な世界的伝統は様々な実在〔the Real〕の概念や理 解、そして実在への応答を、人間存在の様々な文化的なあり方の中で構成する」ので あり、諸宗教は「実在」のレベルでは共通しているが、「実在」に対する表現が異なっ ているため、対立しているように見えているのである54。真理主張を含めた様々な差異 は、「実在」に対する見え方、応答の違いである。ヒックはカント哲学を援用して、「実 在」それ自体をそれ自体として認識することは不可能であると論じ、その違いは認識 の違いに還元される。その認識は、文化や歴史といったその時代的・地域的あるいは 個人的条件により変化するものである。また、その差異は「実在」を把握するために 「相補的」(complementary)なものである55。したがって、宗教とは実在に対する応答 であり、実在に触れた経験が宗教体験として経験され、それらの表現は、文化や状況 によって大きく異なる。その表現の違いが宗教の違いであり、宗教多元主義仮説にお いては、宗教の多元性は、それぞれが適切に「実在」を表現している限り、容認され るものとなる。むしろ他宗教は自宗教が説きえない「真理」を示している点で、必要 不可欠なものである。  以上のような多元主義的な考え方は新しいものではなく、決してヒックが始めたわ けでもない。例えば1893年の万国宗教会議でも示されていることが確認できる56。ま た、宗教学の祖であるマックス・ミュラーは、宗教そのものと諸宗教を区別し、「すべ ての宗教の上に、下に、背後に、ひとつの永遠の普遍的な宗教がある」と述べており57

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比較宗教学の前提には諸宗教の本質的一致の確信(願望)があり、多元主義的な志向 性を持ったプロジェクトであったことが示されている。  このようなヒック的な「多元主義」に対し、多くの批判が見られる。例えば、ゲイ ヴィン・デコスタは、諸宗教が「同等」であるとする多元主義を批判し、三位一体論 の検討を通してキリスト教の特殊性と普遍性を擁護する。そして、イエス・キリスト においてこそ神に出会うとしながら、他宗教における「聖霊」の働きは否定しない包 括主義を示す58。他方、ユルゲン・モルトマンは、多元主義は「帝国主義」だと批判 し、「多元主義によって寸足らずになった宗教のアイデンティティは、真の対話の始ま りというよりむしろ終わりなのではないだろうか」と疑義を呈している59。このよう に、多元主義はすべての宗教に同等の価値を認めるので、自宗教の優位性もアイデン ティティもなくなってしまうことが批判されるのである。  同様の批判は日本においても見られ、立正佼成会を含めた法華系仏教の「ネットワー ク」について記述をしている西山茂は、宗教が互いに自立し、協力体制(「ネットワー ク」)を構築するには「「包括主義」の道しか残っていない」と述べている。「包括主義 であれば、自宗教の最勝性〔優位性〕の立場を担保しながら他宗教の長所と思われる 部分を摂取したり容認したりすることができる」が、それに対して「多元主義」は「野 放図に全宗教を全認」する、つまり「多元主義」はどのような宗教の価値も平等に認 めるため、どの宗教も自己の優位性を保てず、自宗教を選択する必然性がなく、「信 仰」を維持できないと批判している。さらに、立正佼成会については「法華最勝や立 正安国の旗を捨てていない以上、限りなく他宗教に寛容な「包括主義」の立場だと受 け取ることもできよう」と分析する60  これまで見てきたように、庭野は排他独善、党派主義を嫌い、諸宗教の「本義」に おける一致を確信し、「宗教統一」を掲げて宗教協力を推進した。1950年代は「法華 経」による宗教統一を目指したという点では包括主義的であったと言える。それが「真 理」中心へと移行していくに従って、「実在」中心を主張する「多元主義」と非常に近 似していったように見える(ヒック的に言えば、「コペルニクス的転回」である)。付 言すれば、宗教が多元的に存在している状況の原因に「文化」や「時代的状況」とい った環境的要因を示す点はヒックと同じである。また、「釈尊」へ帰れという運動を展 開した点は、宗教の始原や創始者において、より「宗教そのもの」に近いものが示さ れていたと考えたミュラーとも親和性がある61  こういった庭野の思想と活動に一貫して言えることは、驚くほど自宗教に対する拘 りが見られないという点である。庭野の言説の中で「立正佼成会」が中心であったこ とは一度としてなく、それは1950年代から一貫して党派主義への批判を体現している といえる。庭野は以下のように述べている。

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   もはや、宗教や宗派の違いなどにこだわっている時ではありません。人類の危機 を救うのは宗教より他にはないのだという観点に立てば、些々たる教義のちがい や信仰所作の相違などにとらわれるのがどんなにバカバカしいことかが如実にわ かり、みんなと腕を組んで人類救済の大道を進もうという、広やかな気持ちにな るはずです。〔中略〕ひとりの人が人間平等の真理にめざめ、その理想にむかって 歩きだせば、おなじ真理と理想をいただく人がつぎつぎと無数に生ずる〔中略〕 これが真の布教というものです。もはや、現代の布教は、「この宗教にはいりなさ い」とか「わが会に入会しなさい」というような、縄張り根性のカスの残ってい るものであってはなりません。62  会員に向けて、「立正佼成会に入会しなさい」という布教をするべきではないと、こ の法話では示されており、ここに庭野の立正佼成会への拘りの無さが示されている63 以上から、庭野の思想と活動は、ヒック的な多元主義を実践していたと解釈すること も可能である。

5.まとめと補足

 庭野は諸宗教の「本義」における一致(万教同根)を確信し、「宗教統一」を目指し て「宗教協力」を推し進めたが、消極的あるいは反発的な反応に合い、断念をしてし まう。それでも「宗教協力」を推し進めることができたのは、第一に排他独善性、党 派主義への批判や諸宗教の「本義」における一致という確信が揺らぐことはなかった から、第二に「宗教協力」の現場においては「一致」や「統一」ということは前面に 出さず、社会問題の共有や実際の活動における協力に力点が置かれたから、第三に「立 正佼成会」への拘りがほとんどなかったからであると推察される。  第一点について言えば、用語や表現に変化があったり、姿勢が包括主義から多元主 義に変化があったりしたとはいえ、党派主義への批判は変わらず、諸宗教の「本義」 における一致を確信し続けていたことが、他宗教への信頼にもつながり、「宗教協力」 への実際の動機づけとなっていったと考えられる。実際、諸宗教の「本義」における 一致に共感したがゆえに、多くの立正佼成会会員が対話や協力へと踏み出していくし、 現場で「一致」への感動が聞かれることも少なくない。  第二点について言えば、WCRP の会合などで教義的な話が避けられ、実際的な問題 が取り扱われたという点が「宗教協力」活動の発展・継続の一要因と考えられる64。実 際の現場では「宗教統一」はもとより、諸宗教の「本義」における一致(本質的な一 致)を主張することが対話を困難とする(反発を買う)例も見られるため、この点は 重要である65。対話が困難となるのは、諸宗教の本質的な一致の主張が諸宗教の差異や

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独自性を等閑視するように見え、西山が批判するように自宗教のアイデンティティを 保つことができないと捉えられるからである。他方で、共有される問題への取り組み においては、他宗教の差異に言及せずに協力が可能であるし、その差異(アイデンテ ィティ)自体は直接議論せずとも、服装や言動によって表現・保持することが可能で ある。  第三点について言えば、庭野自身は「立正佼成会」という組織を絶対視しておらず、 常に「真理」や、それを指し示す「法華経」に軸足を置いていたがゆえに、他宗教と の協力活動に積極的になれたということである。つまり、「立正佼成会」を中心に宗教 を統一しよう、他教団を傘下に入れようということは意図せず(またその意図のない ことが他者にも理解された)、変化や組織的な統合(他の組織の傘下に入ること)につ いてさえも、場合よっては寛容であり得たということである。また、実際的な側面で もこの拘りのなさは重要であり、庭野は宗教協力活動を展開することについて以下の ように述べる。    世間には、これら〔宗教協力〕の動きを、立正佼成会の勢力拡張のためにやって いるかのように歪曲して見る向きもあったようですが、わたしはそんなケチな望 みは毛頭ありません。それどころか、立正佼成会はいろいろな意味でかえって犠 牲を払っているのです。66  宗教協力活動に戦略的な側面がなかったとは言えないかもしれないが67、しかし、庭 野の言う通り、費用や労力という点では大きな「犠牲」を払っていると言っても過言 ではないだろう。立正佼成会は、現在筆者が確認しただけでも60近い地域的な「宗教 協力」組織と関係を結んでいる。そのいくつかにおいては事務局役割を引き受け、実 際の運営を行い、行事の際には参加者の動員を行い、多額の活動資金の援助を行って いる場合もある。筆者が幾人かの事務局役割の立正佼成会会員に話を聞くと、「陰役」 ということを強調し、これが立正佼成会としての修行であり、表に出るべきではない、 との答えが返ってくる。このように、面倒な事務的な仕事(連絡調整や行事の運営な ど)を立正佼成会が一手に引き受け、さらに立正佼成会が前面には出ない(陰役)、と いうあり方は「立正佼成会」という組織への拘りのなさと通じるものがあるように思 われる。  以上、庭野の思想や表現上の変化、またそれに伴う活動の変化を見てきたが、同時 に変化していない部分についても確認することができ、庭野日敬及び立正佼成会の「宗 教協力」の根幹を、部分的にではあるが、示すことができたと考えている。しかし、 現在の立正佼成会において庭野の思想がどのように継承されているのか、また庭野自 身の思想の形成や変遷の契機は明らかとなってはいない。例えば、西山茂は、立正佼 成会が他宗教との連携で宗教的な理想(「立正安国」)を目指し、創価学会が独一でそ

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れをなしとげようとしたことを比較的に語っているが、ある側面においては対立関係 にあった両者の影響関係は無視できない68。その他にも「読売事件」を経て、脇祖・長 沼妙佼が逝去し、「真実顕現の時代」を宣言し、会の方針を改めたことなどについても 本論では触れられていない。こういった社会状況や佼成会の内部変容についても視野 に入れ、多角的に庭野日敬および立正佼成会の宗教協力活動の展開を位置づけていく ことを今後の課題としたい。 【謝辞】  本論執筆にあたって、川本貢市所長はじめ、中央学術研究所・現代宗教研究会の方々 に、多大な助言と示唆をいただいたことに心より感謝申し上げます。また、調査にあ たっては、中央学術研究所、佼成図書館の方々にご協力を得ましたこと、ここに改め て感謝申し上げます。 ――――――――――――――――――― 1  対馬路人がこの点に言及している(対馬路人「新宗教における「万教同根」思想 と宗教協力運動の展開:戦前期大本教の事例」中央学術研究所(編)『宗教間の協調 と葛藤』1989年、佼成出版会、275∼288頁)。 2  むろん、諸宗教の本質は共通したものであるという思想自体が一つの「信仰」で あるとも捉えられる。後に見るようにジョン・ヒックによる「宗教多元主義仮説」 が批判にさらされているのは、宗教の本質として「実在」を仮定している点であり、 それ自体が一つの信仰、宗教とも言えるからである。したがって、見方によっては 本稿で論じる「宗教統一」も宗教の本質的一致を認めよ、と改宗を迫るものである と言え、実際には反感を買うこともしばしばである。 3 大本七十年史編纂会『大本七〇年史』上巻、宗教法人大本、1964年、767頁。 4 同書、768∼769頁。 5 北村隆光「世界宗教連合会に就て」『神の国』第98号、1927年、76頁。 6 同書、76∼81頁。 7 同書、77頁。 8 『大本教学』第17号、1978年、16頁。 9  1923年に大本と提携を行い、現在でも交流のある道院は「五教同源」(道教・仏 教・キリスト教・イスラーム・儒教の本質的一致)を説いており、「万教同根」的な 思想は日本独自のものではない。他にも姉崎正治や渋沢栄一などが1912年に創立し た「帰一協会」は、宗教の相互理解や協力を期したものであったが、少なくとも渋 沢は「一つの宗教」「宗教を統一」することを理想としていたことなどに鑑みると、 「宗教統一」という思想が当時奇異なものであったとは言い難い(『佼成』第16巻第

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11号、1965年、36頁)。 10  王仁三郎も大本も、「宗教統一」を諦めたわけではなく、その後も人類愛善会を結 成するなど、諸宗教だけでなく人類の和合を求めて活動を展開し、エスペラント語 の普及や世界連邦運動への協力を行っている。宗教間対話にも積極的に参加をして おり、現在でも比叡山宗教サミットなどにも深く関わっており、活動は継続してい るが、大本の「宗際活動」および「統一」の志向性とその変遷については、機を改 めて論じてみたい。 11  立正佼成会『庭野日敬法話選集3:立正佼成会の教え(真実顕現時代)』1978年、 佼成出版社、46頁。 12 http://www.kosei-kai.or.jp/030katsudo/0302/post_32.html(2018年6月15日最終訪問) 13 『交成』第2号、1950年、5∼6頁。 14 『交成』第6巻第1号、1955年、15頁。 15 『交成』第3巻第3号、1952年、10頁。 16 同書、11頁。 17 「新宗教新聞」第6号、1952年6月25日、1面。 18 庭野日敬『私の履歴書』日本経済新聞社、1982年、119頁。 19 庭野日敬『平和への道』佼成出版社、1972年、197頁。 20 『交成』第4巻第3号、1953年、11頁。 21 『交成』第5巻第8号、1954年、21頁。 22 同書、21∼22頁。 23  『交成』第5巻第9号、1954年、11∼13頁。この大乗仏教から既存の仏教への批判 は、立正佼成会からの日蓮宗への批判と相似している。 24 同書、13頁。 25 「新宗教新聞」第281号、1963年12月20日、4面。 26 『佼成』第14巻第12号、1963年。 27 『佼成』第15巻第1号、1964年。 28 『佼成』第16巻第6号、1965年。 29 庭野日敬『法華経の新しい解釈 全』立正佼成会出版部、1960年、563∼567頁。 30 『佼成』第15巻6号、1964年、7頁。 31 同書、12頁。 32 同書、7頁。 33  1970年に落成した立正佼成会所有のホールであるが、広く外部団体にも開かれた 施設であった。これまでヘルベルト・フォン・カラヤンがベルリン・フィルハーモ ニー管弦楽団を率いて来日公演を行ったことが有名である。また、「吹奏楽の甲子 園」とも呼ばれ、全日本吹奏楽コンクールの会場として長らく使用されてきた。東

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日本大震災以降、耐震強度不足により、天井崩落のおそれがあることからホールと しての使用はなされておらず、2018年を以て取り壊しが決定している。 34 『佼成』第17巻第11号、1966年、16頁。 35 『躍進』第4巻第6号、1966年、12頁。 36  立正佼成会『庭野日敬法話選集6:世界平和』1979年、佼成出版社、204頁。発言 は1975年。 37 庭野日敬『無限への旅』冬樹社、1963年、251頁。 38 立正佼成会、上掲書、46頁。 39 庭野、上掲書、1972年、202頁。 40 同書、197∼198頁。 41 『佼成』第18巻第10号、1967年、11頁。 42 立正佼成会『庭野日敬法話選集別巻:法語録』1982年、佼成出版社、374頁。 43  繰り返し庭野はこのことについて言及しているが、例えば『佼成』第17巻7号、 1966年、10∼11頁を参照。 44  もちろん、その発言が誰に向けてなのか、何についてかによって、表現が変化す ることは当然であり、その対象に向けた変化(いわゆる対機説法)ではないか、と いう批判が予想される。実際、「法華経中心」であったはずの1953年においても、新 日本宗教団体連合会(新宗連)結成(1951年)について、「結成する目的が一つなら ば短所は捨て長所を生かして、お互いに助け合ってよい所へ帰着しよう、排他的な 考えは捨て、宗教の本旨に向かって団結してゆこうというところから一昨年、新日 本宗教団体連合会―新宗連を作った発起人の一人として私も加わったのでありま す」(『交成』第4巻3号、1953年、11頁)と庭野自身が述べるように、「法華経」で はなく「宗教の本旨」を強調している。だが、本論が主に参照・引用しているのは、 会員に向けての機関誌『佼成(交成)』であり、会員に向けての語りにおいても、あ くまでも用語上ではあるが、「法華経」「釈迦」ではない「真理」中心への変化、そ して「宗教統一」という用語の不使用という変化があったことが確認できる。 45 『躍進』第7巻第5号、1969年、15頁。 46  もちろん、宗教間対話の動機づけについては、もっと戦略的なものも考えられる し、他の要因も考えられるが、本論では重要な点ではない。この点については、拙 論「万国宗教会議再考―いかにして「対話」は始まるのか」(『宗教学論集』第33輯、 駒沢宗教学研究会、2014年)において考察をしている。 47  世界宗教者平和会議日本委員会編『世界宗教者平和会議《会議記録》:World Con-ference on Religion and Peace1970/京都』世界宗教者平和会議日本委員会、1972年、 106頁。

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ていると考えられる。しかし、「宗教者」「宗教」という言葉に対して決して反省的 であるわけではなく、諸宗教が本質的に一致しているかどうかが語られることはあ まりない。むしろこの点に関しては、対話は不在である。この点に関しては拙論「宗 教間対話研究の可能性:日本の宗教間対話の現状から」(樫尾直樹・本山一博(編) 『宗教間対話のフロンティア:壁・災禍・平和』国書刊行会)で考察を行った。 49 庭野、上掲書、1972年、215頁。 50 『佼成』第45巻第10号、1994年、14頁。 51 立正佼成会、上掲書、1982年、367頁。 52  岸根敏幸は、諸宗教に通底する普遍性や真理があると考える多元主義を「通約的 宗教多元主義」、そのような宗教的な本質を否定し(括弧に入れ)、自宗教が真理を 伝えていると信じながら、他の宗教の存在が他の真理の可能性を示しており、自己 変革の契機となりうると考える多元主義を「非通約的宗教多元主義」と区別してお り、「多元主義」にもバリエーションが存在していることを指摘している(岸根敏幸 『宗教多元主義とは何か―宗教理解への探究』晃洋書房、2001年)。しかし、本論で は議論を拡散させないために、あえて「多元主義」を岸根の言う「通約的多元主義」 に限定している。

53  Hick, J. An Interpretation of ReligionHuman Responses to the Transcendent (Second

ed.) New Haven, London:Yale University Press, 2004, p. 373. 54 Ibid., p.376. 55 Ibid., p.374. 56  例えば、万国宗教会議中に、このような多元主義的な発言がある。「有限のもの 〔人間〕は無限〔神〕を十分に把握できない、あるいは神自身の見方を完璧に表現す ることはできないので、必然的に、神の本性や姿勢についての個人的な意見は異な るということになる。しかし、適切に理解されたならば、これら多様な観点は不一 致や不和を引き起こさない。むしろ、より深い興味と考察へと誘う」(Barrows, J. H. (Ed.) The World’s Parliament of ReligionAn illustrated and Popular Story of the World’s First Parliament of Religions, Held in Chicago of 1893 Chicago:The Parliament

Publish-ing Company, 1893, p. 68.) 57  マックス・ミュラー『人生の夕べに』津城寛文訳、筑波大学附属図書館リポジト リ版、2017年、61頁。 58  ゲイヴィン・デコスタ、「キリスト・三位一体・宗教の多元性」ゲイヴィン・デコ スタ(編)『キリスト教は他宗教をどう考えるか』森本あんり(訳)、教文館、1997 (1990)、49頁。 59  ユルゲン・モルトマン「多元主義神学は宗教間対話に有効か」ゲイヴィン・デコ スタ(編)『キリスト教は他宗教をどう考えるか』森本あんり(訳)、教文館、1997

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(1990)年、202頁。 60  西山茂「門流を越えた法華仏教ネットワーク運動」西山茂責任編集『近現代の法 華運動と在家教団』シリーズ日蓮第4巻、春秋社、2014年、324∼328頁。    ただし、庭野はそれほど「立正安国」という言葉を強調しておらず、「法華最勝」 も50年代に比べると60年代以降は主張しなくなっており、さらには上記のように「妙 法」=「法華経」でもなくなっているため、どちらかと言えば「多元主義的」と判 断できるように思われる。 61  ミュラーは「諸宗教は、その最も古い形においては、またその創始者の精神にお いては、後代になって付着したような多くの汚点を、概して免れていました」と述 べ、すべての宗教は「その創始者や直弟子たちの時代にそうであったごとく、あり 続けることができない」と指摘する。そして、諸宗教は「絶えず源泉に帰る」必要 性があると示唆している(ミュラー、上掲書、64頁)。 62 『佼成』第19巻8号、1968年、10∼11頁。 63  すでに日蓮門下協議会結成において、「統一」が成し遂げられれば、その傘下に入 るつもりであったと証言している(庭野日敬『庭野日敬自伝:道を求めて七十年』 佼成出版社、1976年、274頁)。 64  WCRP の第1回世界大会で庭野は開会挨拶を行っているが、「宗教統一」はもち ろん、諸宗教の「本義」における一致にも触れていない。「交通の発達」「科学の進 歩」によって「人類」単位でものごとを考えるようになり、このような時代に平和 を創り出すのは宗教以外にはない、と述べている。「人間の幸福と救いという共通の 願い」を宗教が持つとは述べられているが、「一致」は強調されていないため、本質 的一致の主張が拒否感を抱かれることに対して、自覚的であったように見える(世 界宗教者平和会議日本委員会編、上掲書、61∼64頁)。また、1982年に書かれた自伝 では、「宗教協力のこつは、互いの一致点、相違点を弁まえ、そうムキにならずに気 長に続けていくところにあった」と記し、一足飛びに教義の話をするのではなく、 「仲良しになる」「気軽に話し合う」という点から始めることの必要性を示唆してい る(庭野、上掲書、1982年、119∼120頁)。 65  例えば山梨県宗教者懇話会の機関誌である『じべた』第2号(1976年、8∼17頁)に おいて、立正佼成会会員が諸宗教の本質的一致を主張し、反発を買う場面が見られる。 66 『躍進』第7巻第5号、1969年、13頁。 67  新宗教である立正佼成会が諸宗教と仲良くすることで、宗教としての「正統性」 を確保しようとしていたり、地域に根差した仏教寺院などと協力することで、地域 住民の信頼を得たりと「宗教協力」による自教団への利益がないとは言い切れない。 しかし、それが意図的になされているかどうかは別問題である。 68 西山茂『近現代日本の法華運動』春秋社、2016年、215∼230頁。

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