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生々流転 Taikan Yokoyama Metempsychosis 明治維新の年に生まれ 明治 大正 昭和を生きた横山大観 岡倉天心の導きによる徹底した東洋思想への学びを基礎に置き さらにその才能は 大正という時代の自由な空気の下で 究極の水墨画として結実する 日本画 西洋画の枠を超え 世界一の

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Academic year: 2021

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(1)

日本資本主義の父

渋沢栄一と

養蚕・絹産業

の夜明け

020

富岡製糸場を作った男

渋沢栄一と

近代製糸場建造

022

日本の絹づくり

未来予測図

026

養蚕技術や新しいテクノロジーの

優位性は日本にある。

蚕業技術研究所 所長・農学博士 新保 博

“ふい絹と万能繰糸機”で、

日本独自の物づくりへ

蚕糸科学研究所 所長・工学博士 清水重人

物づくりの支え手、

現在の製糸場

030

碓氷製糸農業協同組合/(株)宮坂製糸所 松澤製糸所/(株)松岡/西予市野村シルク博物館

横山大観

「生々流転」と

絹の物語

004

書家 岡本光平

絹に書く

008

幻の画絹の探求と

再現に挑む

012

千年前の仏画模写を通じ

画絹の謎を解く

東北芸術工科大学 文化財保存修復研究センター 森田早織さん

純国産宝絹が

できるまで

014

自然と人とが手を取り作る、奇跡の宝物

純国産絹のいま

016

伊と幸

機屋との60年来の信頼で織りなす白生地

千總

純国産絹と鉄壁の染め場が作る至高の友禅

蚕糸・絹業

提携グ ルー

プ の 活動紹

純国産絹マーク

使用許諾者

061

ニッポンを、一服召しませ。 茶室は和文化の“プレスオフィス”

064

提携グループリスト 060

日本蚕糸絹業開発協同組合国産シルク研究会 034 日本蚕糸絹業開発協同組合国産シルク研究会普通蚕種部会 日本蚕糸絹業開発協同組合国産シルク研究会熊本部会 絹の会ぐんま200プロジェクト 036 結城紬風土31研究会 037 日本絹文化振興会 038 東京シルクの会 039 “絹を未来に” プラチナボーイ研究会 040 白繭細1号プロジェクト開発チーム 041 松澤製糸紬の会 042 松澤製糸所純国産シルクの会 信州オリジナル絹の会 044 千總純国産絹製品販売・商品開発 グループ 045 純日本の絹文化協会「松岡姫グループ」 046 純国産絹振興会“きぬなり” 047

Chapter

Chapter

Chapter Contents 表紙協力/森田早織 撮影/佐藤洋彰

(2)

生 々 流 転

Taikan Yokoyama

“Metempsychosis”

明治維新の年に生まれ、

明治・大正・昭和を生きた横山大観。

岡倉天心の導きによる

徹底した東洋思想への学びを基礎に置き、

さらにその才能は、

大正という時代の自由な空気の下で、

究極の水墨画として結実する。

日本画・西洋画の枠を超え、

「世界一の絵を描きたい」

と願い続けた

彼の渾身の作がこの

せい

せい

てん

」である。

生々流転 1923(大正12)年 絹本墨画 (部分)/東京国立近代美術館蔵

「生

転」

Chapter

(3)

  葉 か ら こ ぼ れ 落 ち た 小 さ な 露 は、 流転をしながら、最後にまた一滴の しずくへと帰ってゆく。常に変化し 続ける、人の一生、ひいては万物の ように。     仏 典 に 着 想 を 得 た「 生 々 流 転 」は、 師・天心の導きにより東洋思想に傾 倒しながら、日本画にとどまらない 普遍的なテーマを追い求めた、大観 の芸術活動の集大成である。   縦 55・ 3センチ、横 40・ 7メート ル。日本一長い巻物であり、本誌面 で掲載したのも、ごく一部分に過ぎ ない。   実は当時、大観は日本画用紙の開 発 に も 積 極 的 で あ り、 「 生 々 流 転 」も 越前和紙で試筆を重ねた。   し か し な が ら、 彼 独 特 の「 片 ぼ か し 」技 法 を 十 分 に 表 現 す る た め に は やはり絹が最適と判断され、描き直 しも含めると、実に 100 メートル 近い絹が使用されたのである。   「世界一の絵を描きたい」 。こう願 う大観は、ある時期より墨色に強い 執着 を 見 せ 始 め る 。「 生 々 流転 」で は 、 通常は骨董品として観賞用のみに使 用されるような、中国・明時代伝の 名墨が惜しげもなく用いられた。し な や か な 絹 本 が、 今 も 生 き 生 き と、 大観にしか表現できない特有の墨色 をたたえている。

木々

となり、

さな

れが

まれる。

れは

山間

となり、

水辺

きる

動物

自然

人間

みを

目撃

しながら

やがて

きな

となり、

最後

となり

る。

生 々 流 転

Taikan Yokoyama

“Metempsychosis”

Chapter 1Passion for Silk 絹にこめた情熱

S ilk Crea t o r s 007 S ilk Crea t o r s 006

(4)

気 鋭 の 現 代 書 家 が 師 と 仰 ぐ 希 代 の ア ー テ ィ ス ト 空 海   全 国 最 年 少 の 17歳 で 毎 日 書 道 展 に 入 選 す る と い う 書 道 界 の「 エ リ ー ト 」 で あ り な が ら 、 1 9 8 5 年 以 降 は 全 て の 書 道 団 体 を 離 れ 、 書 道 の 枠 を 超 え た 幅 広 い 創 作 活 動 を 行 う 岡 本 光 平 氏 。   文字のルーツを追い求めユーラシ ア大陸全般で研究取材を重ねる岡本 さ ん が 、「 素晴 ら し い ア ー テ ィ ス ト で あ り、 す さ ま じ く 上 手 い 書 家 」と 敬 愛してやまないのが弘法大師、空海 である。   岡本さんは大学時代を含む 11年間 を 京都 で 過 ご す 。 そ の 間 に は 東寺 ( 教 王 護 国 寺 ) の 発 掘 調 査 員 と し て 空 海 ゆ かりの地に身を置き、東寺の所蔵す る空海の書に私淑してきた。   中でも、日本の国宝中の国宝と絶 賛 す る の が 、 東寺所蔵 「 真言七祖像 」 である。   遣 唐 使 と し て 唐 の 都 長 安 に 渡 り、 日 本 に 密 教 を 伝 え た 空 海。 こ の「 真 言 七 祖 像 」は、 七 幅 か ら な り、 彼 が 教えを受けた七人の密教の師の肖像 に 、 空海 の 筆 に よ る 師 の 名 が 連 な る 。 いわば、空海の仏教の正当性を示す ものである。   実 は 、 こ の「 真言七祖像 」は 絹 に 書 か れ て い る 。 N H K が 空海 の 人生 を 追 う シ リ ー ズ 番 組 を 制 作 し た 際 に、 この書を書家の立場から解説し、復 元制作 を 行 っ た の も 岡本 さ ん だ っ た 。   したためられた空海の筆跡につい て、 岡 本 さ ん は「 飛 ひ 白 はく 体 たい 特 有 の 刷 毛 目、きれいなかすれが表現されてお り、相当高級な絹が使用されていた ことは間違いない」 と分析する。   この絹が果たして日本で作られた も の か ど う か 、と い う こ と は 今 と な っ ては定かではない。ただし遣唐使に より唐の最先端の技術や文化が次々 ともたらされ、さらにそれを日本で 独自に花開かせたようとしていた時 代 背 景 か ら 察 す る と「 私 は 絹 の 専 門 家ではないので、あくまで個人的な 見解ですが、当時の日本にこの位上 質な絹を作る職人およびその技術が 存在 し た と 考 え て も お か し く な い 」と 語る。

Calligrapher

Kohei Okamoto

岡本光平

1 9 4 8 年 生 ま れ。 大 学 時 代含め 11年間を京都で過ご し 、真言密教学院書道講師 、 東寺発掘調査員をしながら 空海をはじめとする仏教美 術、 古 筆、 考 古 学、 民 俗 学 を 独 学 で 学 ぶ。 36歳 で 有 力 書 道 団 体 を 離 脱。 欧 米 お よ び 韓 国、 中 国 な ど ア ジ ア 広 域 で の 取材研究 を 続 け な が ら 、 書 道 の 枠 を 超 え た、 気 鋭 の 現 代 ア ー ト 書 家 と し て 活 躍 中。 ニ ュ ー ヨ ー ク ・ ハ モ ン ド 美 術 館 個 展 ( 2010 ) を は じ め、 国 内 外 で 精 力 的 に 個 展 を 開 催。 主 な 作 品 所 蔵 先 は 覚 城 院( 香 川 )、 資 生 堂 ア ー ト ハ ウ ス、 在 韓 国 日 本 大 使 館 ほ か 多 数。 N H K 「 国 宝 探 訪 空 海 」「 新 日 曜 美 術 館 」「 美 の 壷 」等 T V 出 演 も多い。 岡本さんによる空海「真言七祖 像」の一部復元(絹本)。南イン ドのバラモン龍猛(龍樹)の梵名 漢飜より「飜」を書す。当時の長 安で大流行していた飛白体の 文字を空海が日本に持ち帰り、 さらに彼にしかできないレベル の高い芸術作品として結実さ せる。文字自体がシャーマニス ティックな意味合いを持ち、信 仰の対象となる。書かれた筆記 具は不明とされ、岡本さんは竹 をささら状に裂いた竹筆で再現 した

Chapter 1Passion for Silk 絹にこめた情熱

S ilk Crea t o r s 009 S ilk Crea t o r s 008

(5)

Calligrapher

Kohei Okamoto

着物の白生地に即興で書 いていただいた。純国産絹 の艶やかな白に奈良・南松 園製墨の美しい黒が映え る。絹同様、国産の墨も近 年大変希少となった。「芸 術を創り出す素材そして それらを産み出す優れた 職人たちを日本はもっと 守っていくべきでは」と岡 本さん   「 書 で い ち ば ん 大切 な の は ス ピ リ ッ トであり、手技ではありません。書 き手は無になって、文字の形や奥底 にある神宿るものを引き出し、文字 に託すのです」   岡本さんの言葉を借りれば、文字 は天然の化身。自然が育み育てた絹 は、万物の神秘を伝えるにふさわし い 素材 と し て そ の 書 き 手 を 自 ら 選 び 、 霊性あふれた作品のみをあらゆる世 の人に伝えてきたと言えるだろう。 類 ま れ な 技 量 の 持 ち 主 に の み 書 く こ と が 許 さ れ る 絹   絹に書かれた書は、江戸時代にも 書画ともに名手であった ぬき すう おう どの例があるが、 比較的多く見られ るのは、国産絹の生産が盛んであっ た 明治時代 か ら 戦前 に か け て で あ る 。 明治期に内務大臣を務め、日本でも 有数の筆の名手である 副 そえ 島 じま 種 たね 臣 おみ など は絹に書を残している。   しかし高価な素材である絹に書く ことができたのは、貴族などの身分 が高い人、または絹という素材にふ さ わ し い 技 量 の 書 き 手 に 限 ら れ た。 さらに、戦後以降には絹に書かれた 書というのはほとんどみられない。   岡 本 さ ん は そ ん な 現 代 に あ っ て、 絹の特性を理解し絹に書す経験と技 量を持つ、貴重な書き手である。曰 く 、「 絹 に 書 か れ た 文字 は か す れ が 美 しく、紙とは違う上品な艶っぽさが あります」 。   そんな岡本さんに、特別に純国産 反物 文字

汲古知今

稽古而今

無限過去

無限未来

古きに学び

 

今を知る

過去に限りなし

未来に限りなし

すべてが

ひとつに連なる今である

S ilk Crea t o r s 011

(6)

精細 カ メ ラ 撮影 の 許可 が 下 り た の だ 。 森 田 さ ん は こ れ ら の 調 査 の 結 果 に、 過去の先行研究や調査で得られた画 像や資料を加味することで、想定復 元模写に必要な多くの情報を得た。   その結果千年を超えた同時代の作 品にはほとんど残っていない画絹の 継ぎ糸や絵具などが観察でき、材料 準備や制作工程を考察するのに有効 な情報を得ることができたのだ。そ してこのことが当時の画絹の作られ 方や縫合方法の解明の扉を開いた。 桑 か ら 育 て て 復 元 し た 画 絹   では今回の調査研究で、青不動を 描いた画絹については、どのような ことが分かったのだろうか。   「 ま ず と て も 上 質 の 絹 だ と い う こ と 。 均整 の と れ た 繊細 な 組織 で あ り 、 衣服用に織られた生地を流用したの 平 安 時 代 か ら の 秘 仏   仏 画 の 制 作 は 、 平 安 時 代 に 日 本 に 密 教 が 入 っ て く る と 盛 ん に な っ た 。 な か で も 京 都 ・ 青 蓮 院 に 伝 わ る「 青 不 動 画 」は 、 と り わ け 作 品 の レ ベ ル が 高 く 、 保 存 状 態 が 良 い こ と で も 知 ら れ る 。   そのことに着目して、この絵を材 料や道具から、技法、また当時の絵 仏 師 が 何 を 表 現 し よ う と し た か に 至 っ て ま で、 丹 念 に 復 元 模 写 ( 想 定 復 元 模 写 ) し よ う と い う 試 み に 挑 戦 し た のが、東京芸術大学大学院で日本画 の保存修復について研究し、博士論 文を記した森田早織さんだ。   森田さんは研究者であり日本画家 の卵でもある。この難しいテーマに 挑戦した背景には、自身も含め画家 が丹精込めて描く絵を、どうしたら 後世に長く残せるかという問題意識 もあった。   とはいっても研究対象は国宝であ り、しかも創建以来ほとんど開帳さ れ た こ と の な い 秘仏中 の 秘仏 で あ る 。 青蓮院がいち学生の研究に協力して く れ る か ど う か は 、は な は だ 疑問 だ っ た。   しかし、森田さんの熱意に門戸は 開かれた。青蓮院から熟覧調査と高 ではなく、絵を描くためにわざわざ 作られたものだと推察されました」   こ う し た 結果 を も と に 、森田 さ ん は 画絹の復元に取り組んだ。それに協 力してくれたのが、京都の織物メー カ ー「 勝山織物 」で あ る 。 同社 は 長野 県伊那に絹織製作研究所をもち、絹 織物の研究をしている。この研究所 に所属する志村明さんと秋山賀子さ んとの共同研究によって、青不動の 想定復元模写を可能にしてくれる画 絹は生まれた。   「 桑 を 育 て 、 蚕 を 飼 い 、 糸 を 作 り 、 白 生 地 を 織 る こ と ま で 、 す べ て 自 分 た ち の 手で 試 行 錯 誤でき る こ の 研 究 所 だ か ら こ そ 開 発 し て も ら えた の で す 」   求めたのはしなやかでありながら ピンと張り、繊細に均等に揃った組 織とそこから生まれる美しい透け感 を も つ 絹 だ 。「 座繰 り で ゆ っ く り 引 い た糸で織ってもらい、この生地にた ど り つ き ま し た 」。 一 般 に 流 通 す る も の と は ま っ た く 違 う そ の 手触 り に 、 この画絹の開発にかけた手間と時間 と精力の大きさがうかがわれる。   完成した想定復元模写の青不動画 は、縦 222 センチ×横 163 セン チ。畳 2畳分を超える大作だ。果た し て 千 年 後、 「 模 写 の 芸 術 品 」と な る だろうか。精魂込めて開発された画 絹は、森田さんの描いた青不動の下

京都の名寺

「青蓮院」

に伝わる国宝

「絹本着色青不動明王二童子像」

「青蓮院の青不動」

として

平安時代から千年以上にわたり

人々の信仰と崇拝を集めてきたこの仏画の

復元を手がけたひとりの女性がいる。

彼女の取り組みの過程には、

ぎぬ

」に関するある発見があった。

幻 の 画 絹 の

探 求と再 現 に 挑 む

千 年 前 の 仏 画 模 写 を 通じ 画 絹 の 謎 を 解く

東北芸術工科大学 文化財保存修復研究センター 常勤嘱託研究員

森田早織

さん 森田さんによる青蓮院所蔵国宝「不動明王二童子像」 想定復元模写(2013年)。高野山の赤不動、三井寺の黄 不動とともに、日本三大不動画のひとつとして数えら れる。10世紀後半から11世紀前半作と推察される

Chapter 1Passion for Silk 絹にこめた情熱

S ilk Crea t o r s 013 S ilk Crea t o r s 012

(7)

蚕は約 25日間、桑を盛ん に食べる時期、眠ったよ う に 動 か な い「 眠 」と 呼 ば れる脱皮の時期を 4回繰 り返し大きくなる。 蚕 が 糸 を 吐 い て 作 っ た 繭、この繭から生糸が作 られる。使用目的に応じ て良質で多品種の繭を作 る こ と が で き る の も 、日本 ならではの技術である。 繭 を お 湯 で や わ ら か く し 、 引き出した糸を引きそろ え 生 糸 に す る。 「 座 繰 り 」 と呼ばれる手作業の手法 ( 1) そ の 原 型 だ。 現 在 ではオートメーション化 された自動繰糸機による 製糸 ( 2)が主流である。 繭 を ほ ぐ し た「 真綿 」か ら 手作業で糸を紡いでいく 方法。結城紬など、より 繊細な風合いを必要とす る生糸には、今でもこの 昔ながらの真綿つむぎに より作られた生糸が使わ れている。 1 5 0 0 年 も 前 か ら 続 く 原 始 的 な 方 法 が 地 じ 機 ばた ( 3) だ 。 全身 が 織 り 機 と な り 、 腰で 経 たて 糸 いと を引っぱりなが ら 織 り あ げ て い く 。 一方 、 高 たか 機 はた ( 4) 足 下 の ペ ダ ル を交互に踏み込むと経糸 の上糸と下糸が入れ替わ り、 緯 よこ 糸 いと を織りこんでい く。

り、

る、

絹。

ま、

産・

糸・

は、

、国産

生糸

使

品、

宝絹

」づ

綿

01

02

03

4 1 3 2

Chapter 1Passion for Silk 絹にこめた情熱

S ilk Crea t o r s 015 S ilk Crea t o r s 014

(8)

の 裏 に あ る 自 社 工 場 の 中 に 10台 の 織 機 と、 この道 60年を超える百戦錬磨の織り手さん を抱えているからだ。   とはいっても、扱いの難しい純国産生糸 を 使 う と 、 一日一反織 り き る こ と が 難 し い 。 白生地は一反を一日で織りきらないと、織 機を止めたところに段ができて不良品のも と に な る 。「 こ ん な や や こ し い 仕事 は で き な い 」と 断 ら れ て も 仕 方 な い の に、 当 主 の 恒 明 さ ん は 黙 っ て 引 き 受 け 続 け て く れ て い る 。 伊と幸ならではの商品として純国産生糸で 織 っ た「 松岡姫 」ブ ラ ン ド の 白生地 を 世 に 出 し続けたい幸さんにとっては、かけがえな くありがたい存在である。   幸さんが羽賀織物を頼りにするもう一つ の 理由 は 、 後継者 が い る こ と だ 。 信彦 さ ん 、 33歳。 7年 前 に 故 郷 に 戻 り 家 業 を 継 い だ。 「 戻 っ て き た と き に は 自社 と 出機 を 合 わ せ て まだ 50台の織機をもっていたのに、それが 7年で半減した。これをみても将来に不安 がないわけではないが、できることは精一 杯 や っ て 踏 ん 張 り た い 」と 信彦 さ ん は 言 う 。 「 あ え て 他社 が 避 け る 難 し い 純国産生糸 を 織 るのも、挑戦の一つだ」 とも。   お互いの祖父の代から 60年にわたる付き 合いを続けてきた伊と幸と羽賀織物。松岡 姫の白生地は、両社のあいだに通う極上の 信頼で織りなされている。

に も 雪 が 降 り 出 し そ う な 寒 い 朝 、 舞 鶴 自 動 車 道 を 北 に 向 か っ て 走 る 車 の な か に 着 物 を 着 た 女 性 の 姿があった。北川幸さん、京都の老舗白生 地問屋 「伊と幸」 の副社長だ。   幸さんが目指しているのは、京都府与謝 郡与謝野町加悦にある羽賀織物。伊と幸が 60年 来、 白 生 地 を 織 っ て も ら っ て い る「 丹 後の機屋さん」 である。   こ の あ た り は「 丹後 ち り め ん 」の 里 で あ る 。 伊と幸が取引する機屋さんも付近に何軒か あるが、そのなかで純国産繭から引いた純 国産生糸を織ってくれるのは羽賀織物だけ だ。   細いがゆえに継ぎ節が多く、扱いが難し い純国産生糸は機屋泣かせだ。自動織機で 織るときにも、ベテランの織り手さんがほ ぼかかりきりになって、トラブルが起こら ないように神経をとがらせていなくてはな らない。さらに機屋さんは生糸をいったん 買い取って白生地を織るのだが、純国産生 糸は購入価格も高い。こうした問題が幾重 にも重なるので、純国産生糸を使って白生 地 を 織 る こ と を 承諾 し て く れ る 機屋 さ ん は 、 極端に少ないのが現状だ。   そ れ を 羽賀織物 が 引 き 受 け ら れ る の は 、店

純国産絹

いま

機屋との60年来の信頼で織りなす白生地

伊と幸の副社長、北川幸さんは、「時間の許す限り丹後を訪ねて、機屋さんと直接話をしたい」と言う。 思うような出来上がりの白生地は、そうした熱意と交流の中から生まれる

伊と幸

純国産生糸できれいな白生地を織るには熟練の技が要る。 羽賀織物がこの仕事を引き受けられるのは、 60年以上も店裏の機場に通って来てくれている超ベテランの織り手さんがいるからこそだ

どこも引き受けてくれなかった

純国産生糸での白生地づくりを引き受けてくれたのは、

3代にわたって付き合いを続けてきた丹後の機屋さんだった。

いま、その物づくりへの熱意は、

後継者に引き継がれようとしている。

Chapter 1Passion for Silk 絹にこめた情熱

S ilk Crea t o r s 017

(9)

世に聞こえる「友禅の千總」を支えているのは、

手描き友禅に心血を注ぐ染工房だ。

純国産絹の白生地を使うようになって、

その仕事ぶりに拍車がかかった。

いま、目指すのは至高の友禅を世に出すことだ。

  「 そ れ ま で は 白生地 の 品質 に つ い て 、 苦労 している部分がありました」   友禅のできあがりは、染めの技術と白生 地の良し悪しの両方に左右される。ときに は納得のいかない白生地を使わなくてはい けないこともあるが、そのことをできあが りの言い訳にしたくない。そのために染め 場ではどんな白生地にも対応できるように 技術を磨き、染めるまでの下処理の方法や 糊の作り方、置き方などにもひとかたなら ぬ工夫をしてきた。   それが、俵さんが作る純国産の白生地に 染めるようになってから、白生地に対する 葛藤がなくなったと言う。俵さんが誠実な 養蚕農家を開拓するところから始め、製糸 にも織りにもこだわって作った純国産絹の 白生地は、使いこなしが難しい面はあるに せ よ 、 高 い 技術 を も っ た 染 め 場 に と っ て は 、 まさに待ちに待った素材だった。   心 を は や ら せ る そ の 白 生 地 を 見 る と き、 し か し、 工 場 長 の 目 に 透 け て 見 え る の は、 背後にある俵さんのここまでの苦労だとい う。そしてその苦労に応えるためにも、よ り高みを目指して友禅を追究し続けようと 思うという。   友禅への志で結ばれた職人との絆を、い ま純国産絹がより固く結び直している。

も が 認 め る「 友禅 の 千總 」を 作 り 出 す 染 め 場 は 、 烏丸三条 の「 千總 」本 社 か ら 歩 い て 10分 ほ ど の と こ ろ に ある。   虫籠窓のある昔ながらの京町家の商家を かたどったその染め場は、実は平成 4年に 建て替えられており、外観は古風だが、中 には様々な工程の作業が展開される数々の 仕事部屋と広々とした板場などが合理的に 配置されている。急ぎのオーダーや試行錯 誤が必要な難しい染め注文にも応えられる ように設備も整えられている。   こ の 要塞 の よ う な 染 め 場 が 、水 も 漏 ら さ ぬ 体制で待ち受けるのは、本社からオーダー される特撰品の手描き友禅の発注だ。他の 追 随 を 許 さ な い 千 總 の 手 描 き 友 禅 着 物 は、 千總のプロデュース力と染めの技術力がひ とつになって生まれているのだ。   そのコンビネーションをより確かにした ものがある。 10年前に同社の俵武司さんが 開 発 に と り か か っ た、 経 たて 緯 よこ 1 0 0 パ ー セ ン ト純国産生糸で織ったピュアな白生地だ。   「 こ れ は 経 緯 同 じ 糸 で 織 っ た 白 生 地 な の で、組織が均一で安定していて、糸の悪い 性質が出にくく、安心して染められるので す」 と、工場長は言う。

純国産絹と鉄壁の染め場が作る至高の友禅

この工房と千總との付き合いは100年を超える。 苦楽をともにする伴侶のような関係で、 他の追随を許さない名作と呼ばれる友禅きものを数多く生んできた

純国産絹

いま

千總

瀟洒な構えの工房の中では、10人の職人さんたちの手で、日々ものづくりが行われている。 下絵から金加工まで多くの工程を経て、年間約300反の友禅きものが千總に納められる

Chapter 1Passion for Silk 絹にこめた情熱

S ilk Crea t o r s 019

(10)

Gunma

Tomioka Maebashi

鎖国を解くと同時に、

輸出の主役に躍り出たのは絹産業だった。

ところがこの輸出ブームは、粗製濫造を生み出し、

日本生糸の評価を失墜させた。

そこで明治政府が乗り出したのが、

官営の大型製糸場の建設である。

託されたのは、異色の官僚、渋沢栄一。

2年後にできたのが、

世界でも指折りの規模と設備を誇る

官営製糸工場

「富岡製糸場」

だった。

 

日本で初めて導入された器械製糸機

鎖国を解くと同時に、

輸出の主役に躍り出たのは絹産業だった。

ところがこの輸出ブームは、粗製濫造を生み出し、

日本生糸の評価を失墜させた。

そこで明治政府が乗り出したのが、

官営の大型製糸場の建設である。

託されたのは、異色の官僚、渋沢栄一。

2年後にできたのが、

世界でも指折りの規模と設備を誇る

官営製糸工場

「富岡製糸場」

だった。

 

Chapter

日本の絹づくりと技術革新

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一日 8時間労働、日曜日定休という 労働条件の発信など、日本の近代化 に果たした役割は大きい。 渋 沢 い ち ば ん の 傑 作   富岡製糸場建設の指揮を執った渋 沢は、現在の埼玉県深谷市の豪農に 生まれ、幕末には徳川慶喜の家臣を 務めた。維新後は官僚となり、この 時代に富岡製糸場を建造した。その 後、実業家に転身し、多種多様な企 業や組織の設立にかかわった。   事業としては決してうまく行った と は い え な い 富 岡 製 糸 場 だ っ た が、 渋沢は、自分が作った富岡製糸場が その後の日本の経済界に与えた影響 を、こうした経歴を歩むなかで、肌 で感じていたことだろう。   富 岡 製 糸 場 は 1 9 8 7 年 ( 昭 和 62年 ) まで持ち主を変えながら操業を続け た。そして現在、群馬県および富岡 市を中心に富岡製糸場とそれに関連 する絹産業遺産群を、世界遺産に登 録する取り組みが進められている。   幾度も取り壊しの危機に遭いなが らも熱い反対運動に守られて命永ら え、いまや世界遺産になろうとして い る 富 岡 製 糸 場。 5 0 0 に も の ぼ る 組 織 や 企 業 を 作 り「 日 本 資 本 主 義 の 父 」と 呼 ば れ る 渋 沢 の、 実 は い ち ば んの傑作ではないだろうか。 が近隣で採掘できたこと、そして何 よりこの一帯が江戸時代から続く養 蚕地帯であったことにあった。   渋沢は当時生糸の検査人として来 日していたフランス人技術者のポー ル・ブリュナと契約を交わし、日本 初の巨大製糸場の建設に取り掛かっ た。ブリュナは、上州に伝わる座繰 り の 技 法 や 日 本 の 風 土 に 合 っ た「 再 繰 式 」の 繰 糸 機 を 採 用 し た り、 ま た 小柄な日本女性に合わせた小型器械 を製造するなどして、日本初の大規 模製糸場の操業準備を進めた。   一方 、建築設計 を 担当 し た の は 、江 戸幕府が横須賀製鉄所を建設するた めに雇ったフランス人技師のエドモ ンド・ A ・バスチャンだった。建設 工事は日仏のスタッフが混ざり合っ て急ピッチで進められ、わずか 2年 後 の 1 8 7 2 年、 1万 5千 坪 の 敷 地 に、木骨レンガ造りの巨大な製糸場 が完成したのである。   工 場 内 で は 3 0 0 人 の 女 が 一 度 に働けた。当時、製糸の本場だった フランスでも 20~ 30人規模の工場が 一般的だったというから、いかに大 きかったかが分かる。   結果的には、この大き過ぎる先端 工場は生まれたばかりの近代国家の 手に余り、経営的にはうまく行かな い時期が長く続くのだが、それでも 先 端 の 製 糸 技 術 の 民 間 へ の 拡 散 や、 背 水 の 陣 を 敷 く 明 治 政 府   明治政府にとって富岡製糸場の建 設は背水の陣だった。   江 戸 時 代 末 期、 1 8 5 9 年 の 横 浜 港開港と同時に輸出の主役となった 生糸と、その 5年後に輸出が解禁さ れた蚕種の評判が地に落ちていたか らだ。   その経緯はこうだ。明治維新を迎 え 新 し い 国 家 体 制 と な っ た 日 本 が、 列 強 国 に 組 み 伏 せ ら れ な い た め に、 「 富国強兵 」「 殖産興業 」の ス ロ ー ガ ン のもと推進した絹産業は、当時ヨー ロッパに蚕の微粒子病が流行ったこ と も あ っ て 一躍 、 花形産業 と な っ た 。   し か し外 国 か ら の 大 幅 な 需 要 増 は 品 不 足 を 招 き 、 そ の 結 果 、 経 験 のな い 新 規 参 入 者 や 金 儲 け に 走 る商 売 人 に よ っ て 、 著 し い 品 質 の 低 下 が 引 き 起 こ さ れ た 。 外 貨 獲 得 の 生 命 線 だ っ た 生 糸 や 蚕 種 に 粗 悪 品 の レ ッ テル が 貼 ら れ る よ う に な っ て し ま っ た の だ 。   こ の 事 態 に危 機 感 を 抱 い た明 治 政 府 は 、 規 格 が 統 一 さ れ た 上 質 の 生 糸 を 大 量 生 産 で き る 体 制 を 整え 、 失 墜 し た 日 本 の生 糸 の 評 判 を 回 復 させ る こ と が 急 務 だ と 考 えた 。 そ こ で 模 範 的 な 官 営 の 製 糸工 場 を 設 立す る こ と を 決 め 、 そ の建 設 を 大 蔵 民 部 省 の官 吏 だ っ た 渋 沢 栄 一 に 託 し た の だ っ た 。 近 代 化 を け ん 引   この大役を任された渋沢は、候補 地 の 検 討 を 重 ね た 結 果、 当 時 人 口 2千人ほどの寒村だった富岡を建設 地に選んだ。その理由は、製糸に必 須となる大量の水が確保しやすかっ たこと、製糸機械の動力となる石炭

作っ

栄一と

2埼玉県深沢市に残る明 治 28 年建築の旧渋沢邸、 通称「中の家」の主屋 3同市にある渋沢の銅像。 渋沢は大政奉還までパリに 学び、今につづく国家経済 の礎をつくった 1重要文化財の西繭倉庫。木材の骨組みの間にレンガを積み並べる工法「木骨レンガ造」 4製糸工場の入り口。中では300人の工女が一度に働くことができた 5工女の寄宿舎。工女は良家の子女が集められた 6当時の栄華をしのばせる貴賓室 4 6 5 2 3 Chapter 2日本の絹づくりと技術革新

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鉄水溜(てつすいりゅう/鉄 水槽)は明治 8(1875)年に 建造された直径15m、深さ 2.4mの丸い鉄製の貯水槽。 製糸場で使う水を製糸に適 した水にするために使用され ていた鉄水槽。組み立ては、 当時の最先端技術として造 船の技術であるリベット接合 が用いられている。煙突を高 くしたのは、燃焼効率を高め るとともに、煤煙を広く拡散 させるため。電気がない時代 なので、蒸気機関を動かすた め石炭を燃やさなくてはなら なかった Chapter 2日本の絹づくりと技術革新 S ilk Crea t o r s 025

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圧 倒 的 な 研 究 の 蓄 積 と 世 界 最 大 の 蚕 の 遺 伝 資 源   蚕業技術研究所は中小蚕種製造業 者のニーズに応え、優れた蚕品種を 育成 し て き ま し た 。 近年 は 遺伝学的 ・ 生理学的研究の成果から、様々な特 徴をもつ蚕品種の開発も進んできて います。   当所は蚕糸・絹業提携 16グループ に対して 17種の蚕品種を提供してい ます。具体的には、雄蚕品種である 「 プ ラ チ ナ ボ ー イ 」や 玉繭 を 作 り や す い「玉小石」 などです。   そ れ ぞ れ 特徴 が あ り 、 雄蚕品種 は 、 文字通 り 雄 の み が ふ 化 す る 品種 で す 。 蚕は同じ量の桑を食べても、雄のほ うが雌よりも 20%ほど多くの絹を生 産し、糸も細くて長いので、昔から 雄 の 蚕 の み を 飼育 す る の が 夢 で し た 。 1 9 5 0 年 代 か ら 研 究 が 始 ま り、 致 死性の遺伝子機能を活用することで 2 0 0 7 年 に 世 界 で 初 め て 完 成 さ せ たのです。   「 玉小石 」は 、 江戸時代 か ら 飼育 さ れ て い た 在来種 の「 小石丸 」の 遺伝子 を受け継ぐもので、玉繭を多く作る 品種です。古くから玉繭を利用した 紬が各地で織られていましたが、現 在では、国産の玉繭の入手は非常に 困 難 な 状 況 に な っ て い ま す。 「 玉 小 石 」は 「 牛首紬 」に 利用 さ れ て い ま す 。   最 近 、 各 地 方 に 根 づ い た 、 特 徴 あ る 蚕 品 種 の 開 発 も 望 ま れ て い ま す 。 な研究の蓄積があるからです。明治 の開国以来、日本は国策として蚕糸 業に力を注ぎ、試験研究体制も整備 してきました。その礎を作った一人 が遺伝学者の外山亀太郎博士です。   外 山 博 士 は 1 9 0 6 年、 「 メ ン デ ル の 法 則 」が 動 物 に も 当 て は ま る こ と を、蚕を用いて世界に先駆けて実証 しました。また異なる品種を掛け合 わせると、両親より優れた次世代が 生 れ る「 雑種強勢 の 原理 」も 発見 し た のです。   このことは日本の蚕糸業を大きく 発展させ、以降、大学や国公立の専 門機関で蚕糸研究が活発に行われて きました。   もうひとつは、世界最大の蚕の遺 伝資源をもっているからです。我が 国で飼育されている蚕の系統・品種 は 2千 種 を 超 え る と い わ れ て お り、 我が国ほど蚕の系統・品種が体系的 に維持・保存されている国はほかに ありません。こうした豊富な遺伝資 源が育種の素材として利用されてき たのです。   以上の 2点が、短時間で現場の声 を形にする蚕品種の開発力を支えて いるのです。 遺 伝 子 組 み 換 え 技 術 が 進 化 し 、 光 る シ ル ク な ど が 実 用 化 へ 野 菜 な ど で は地 産 地 消 が 注 目 さ れ て い ま す が 、 絹 の 分 野 で も 画 一 的 な 大 量 生 産 よ り 、 地 方 の気 候 風 土 や 文 化 の 特 徴 を 生 かし た 絹 づ く り 、 そ の た め の蚕 品 種 の 開 発 が 期 待 され て い ま す 。   こ うし た 蚕 品 種 の 開 発 は 私 た ち研 究 者 の 思 い だ け で 進 め る の で は な く 、 現 場の ニ ー ズ を 十 分 に 踏 ま え て 行 っ て い ま す 。 我 が 国 の 研 究 者 ・ 技 術 者 は 、 その 時 々 の ニ ー ズ に 合 っ た 蚕 品 種 を 迅 速 か つ 的 確に 育 成 し て き ま し た 。   で は 、「 そ れ が ど う し て 可 能 で あ る の か 」と い え ば 、 理 由 は 2つ あ り ま す 。   ひ と つ は 、蚕 と 絹 に つ い て の 圧倒的   現在、日本の繭の生産量は、一般 財団法人大日本蚕糸会の統計資料に よ る と 、 2 0 1 1 年 で は 約 2 2 0 ト ン となっています。世界の繭の生産量 はこの 20年、ほぼ 80万トン前後で推 移し、その中で日本の繭の生産量は わ ず か 0 ・ 03 % 程 度 と な り ま す。 今や圧倒的な生産量を誇る中国やイ ンドには、 「量」 ではかないません。   しかし、それでも前述したように 世界の中でも日本の開発力は非常に 高 く、 「 質 」で は 十 分 に 戦 っ て い け る 力をもっています。   例 え ば、 日 本 は、 2 0 0 0 年 に 世 界で初めて、独立行政法人農業生物 資源研究所が蚕の遺伝子組換えを成 功させました。   現在は人も含めてゲノム研究が進 み、従来ブラックボックスであった ものが論理的かつ網羅的に考えられ るようになり、蚕の遺伝子組換え技 術もさらに進んできています。   今、注目されているのは、クラゲ の 光 る 遺 伝 子 を 組 み 込 ん だ「 緑 色 蛍 光 タ ン パ ク 質含有絹糸生産蚕 」で す 。   蛍 光 タ ン パ ク 質 は 熱 に 弱 い た め、 煮繭や繰糸の過程で熱を加えると色 が抜けてしまうので、低温で糸を繰 る方法も開発しました。緑の他に赤 やオレンジなど様々な蛍光色をもつ 絹糸が作られています。   遺伝子組換え蚕の使用は、生物多 様性 の 確保 を 目的 と す る「 カ ル タ ヘ ナ 法 」で 規制 さ れ て お り 、 こ れ ま で は 拡 散防止措置 を 講 じ た「 第 2種使用 」し か 行 わ れ て い ま せ ん で し た 。 2 0 1 4 年 2月に学識経験者による環境影響 をクリアし、隔離施設での試験飼育 が承認されました。一般農家での飼 育を目指す国内初の取り組みになり ます。   今 後、 さ ら に 安 全 性 が 確 認 さ れ、 農家でこの蚕を飼育する量産体制が 構築されることを期待しています。   養蚕技術や新しいテクノロジーの 優 位 性 は ま だ ま だ 日 本 に あ り ま す。 この日本の養蚕技術を継承させ発展 させるためには、大人に対して啓蒙 するだけではなく、未来を創る子ど もたちにも蚕の世界を知ってもらい

日本の蚕業の伝統を守りつつ、遺伝子組み換え技術を用いて、養蚕業の未来を拓く。

蚕業技術研究所、新保博所長に

「蚕」

研究の現状と未来を聞く。

蚕は 天 の 虫 と 書 き ま す 。 天 か ら 与 え ら れ た ギ フ ト だ と 、私 は 思 っ て い ま す 。

一般財団法人大日本蚕糸会

蚕業技術研究所

所長・農学博士

新保

1蚕の卵の保管は温度と 光と乾燥が重要。蚕業技 術研究所では一定の条件 で冷蔵室に保管 2 雄と雌を仕分けする。 雌は雄より40%位重く、 また尻の部分にも違いが ある 3 遺伝子組み換え蚕の 研究が進めば、生糸を用 いた人工血管などの利用 も期待できる 一般財団法人大日本蚕糸会 蚕業技術研究所 (茨城県稲敷郡阿見町) 蚕業技術研究所は、財団 法人大日本蚕糸会蚕糸科 学研究所小平支所から、 昭和49年4月に蚕品種研 究所として独立。平成11 年12月には蚕業技術研究 所に改編し、研究業務の 領域を拡大。主な業務内 容は5つ。 ◉特徴ある蚕品種の開発 ◉養蚕新技術の開発 ◉蚕種製造および配布 ◉研修および技術相談 ◉桑園の管理

光る性質を残したまま生糸にする方法を開発。衣料や インテリアなどへと用途が広がる

1

日本の絹づくり

未来予測図

の話

1 3 2 Chapter 2日本の絹づくりと技術革新 S ilk Crea t o r s 027 S ilk Crea t o r s 026

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と も あ り、 そ の 対 応 と し て 多 品 種・ 小ロット化への技術対応が求められ ています。   そこで当所では、糸づくりの工程 における独自の技術開発を 3つほど 行いました。いずれも通常の 21、 27 デニールの生糸とは競合しない分野 に特化しています。 極太生糸 「ふい絹」 の開発

1

  「 ふ い 絹 」と は 太 繊 度 低 張 力 繰 糸 機 で 繰 製 さ れ た 生 糸 で 、 繭 糸 のも つ 特 性 と 機 能 を そ の ま ま 生か し た も の で す 。   そ の モ デ ル は 古代 の 絹「 絁 あしぎぬ 」で し た 。 撚りがなく、ずり出した太糸で平た くムラがあり、セリシンを残したも のです、これを現代の技術で再現し たわけです。     今 、 こ の ふ い 絹 づ く り を 応用 し て 、 「 情 報 内 蔵 糸 」の 研 究 を し て い ま す。 具体的には、節や糸の細太を自在コ ントロールできる技術を用いて、音 楽や声を周波数変換させて情報化し て糸に盛り込むといったことです。 「万能繰糸機」。コンピューターで管理されている「ロードセルセ ンサー」機能と「スラブキャッチャー」機能。どちらもデータは 記録され、そのデータが商品展開におおいに役立つ プログラムにより節の大きさや間 隔が設定された「ふい絹」 「自動繰糸機」。通常の21デニールの生糸を作る場合、原料繭(約3デニー ル)を約7粒必要とする 世界標準となった「自動繰糸機」。日本が世界に先駆けて開発した繰糸機   「 波 」の 音 の 情報 を も つ 糸 で 織 っ た タペストリーというのはどうでしょ う。またもっと想像たくましくすれ ば、生地にレーザー光線を当てると 元の音楽が流れてくるとか。原理的 には可能です。そうした日本独自の 技術力を生かした研究を積極的にし ています。 最 高 級 の 製 品 を 作 る 体 系 を 築 き 技 術 の 継 承 を 図 る 超極細生糸を生む 「万能繰糸機」 の開発

2

  超 極 細 生 糸 ( 5~ 6デ ニ ー ル ) を 作 る た め に 開発 さ れ た「 万能繰糸機 」の 説 明をする前に、従来の自動繰糸機に ついて、少しお話します。   自動繰糸機は日本が世界に先駆け て作り出し、昭和 30年代後半から一 気に普及しました。増産を図るため 高回転による能率向上が行われたの です。そのために糸の伸度は低下し 「 針金生糸 」を 作 り ま し た 。 そ れ が 今 、 様々な問題を生んでいます。   ま た 自 動 繰 糸 機 で は、 5~ 6デ ニールの生糸を作る場合、極細 1号 の 繭 ( 1粒 約 1.7デ ニ ー ル ) が 3粒 ほ ど 求 められますが、 10デニール以下の細 い生糸の制御が不安定で、品質に難 が出ることが多々あります。   そこで当所は、糸の太さを電気信 号によって制御し、超極細生糸を安 定的 に 作 る「 ロ ー ド セ ル セ ン サ ー 」機 能や、繰糸中の湿潤生糸に対応する 節 を 検出 す る「 ス ラ ブ キ ャ ッ チ ャ ー 」 機能を付加した万能繰糸機を開発し たのです。   現在、この万能繰糸機によって得 られたデータをもとに様々な商品開 発 の 可 能 性 が 高 ま っ て い ま す。 6 A 格などの高格生糸や低張力生糸とい う既存の生糸にとどまらず、世界一 薄い織物や特殊手術用縫合糸などへ の商品化についても進行中です。 超高格生糸 (新宿ブランド生糸) 開発と、その技術の継承

3

  万能繰糸機の開発により高品質な 生糸の生産が実現可能になったこと は、既に述べました。しかし万能繰 糸機は、 5緒型のものしかなく量産 が望めません。   そこで当所では、万能繰糸機の機 能のひとつのスラブキャッチャーを 当所 の H R 自動繰糸機 に 組 み 込 む こ と で 限 定 的 に 高 品 質 な 生 糸 ( 新 宿 ブ ラ ン ド 生 糸 ) を 生 産 し、 蚕 業 技 術 研 究 所 との協力体制をとり製品化による実 証実験をしていきたいと考えます。   日本の最高級の製品を作る体系を 築けたらというのが最終的な目標で す。そうすることによって日本の高 格生糸製造技術の維持と継承が図れ 「 ふ い 絹 」の 技 術 で 、糸 の 節 や 細 太 を コ ン ト ロ ー ル 可 能 に   蚕糸科学研究所 と は 文字通 り「 糸 」 に か か わ る 様 々 な 研究 ・ 開発 を し て いる機関です。提携グループへの支 援 で は、 当 所 の 研 究 分 野 で あ る「 純 国 産 生 糸 の 特 長 を い か に 出 す か 」を 課題に取り組みました。   今 、 国内 で 流通 し て い る 生糸 ( 等級 が 4~ 6 A 格 で 、 繊度 が 21、 27デ ニ ー ル ) の ほとんどが中国で自動繰糸機によっ て生産されたものです。国内生糸と は量だけでなく価格や質の面でも対 抗できない状況にあります。   また純国産繭は生産量の減少と消 費者ニーズの多様化が進んでいるこ

日本独自の

3つの技術開発によって、高格生糸と低張力生糸が生まれている。

蚕糸科学研究所、清水重人所長に

「蚕糸」

研究の現状と未来を聞く。

一般財団法人大日本蚕糸会

蚕糸科学研究所

所長・工学博士

清水重人

一般財団法人大日本蚕糸会 蚕糸科学研究所 (東京都新宿区) 昭和15年に財団法人蚕糸 科学研究所として設立。 昭和 17 年に社団法人大 日本蚕糸会と合併し、財 団法人大日本蚕糸会蚕糸 科学研究所となる。その 後、組織機構を整備し、製 糸技術及び絹加工技術を 中心に行う。現在、社会の ニーズに対応した絹に関 する研究を推進中。主な 業務内容は5つ。 ◉新しい製糸技術の開発 ◉絹加工技術と絹衣料機 能の利用技術の開発 ◉絹タンパク質利用技術 の開発 ◉繭鑑定及び生糸品質の 評価 ◉絹に関する研究・技術 支援機能の発揮

〟で

、日

2

日本の絹づくり

未来予測図

の話

蚕 の 命 を い た だ く 、そ う い う 事 を 大 事 に す る 。 そ ん な 物 づ く り を し て い き た い で す ね 。 Chapter 2日本の絹づくりと技術革新 S ilk Crea t o r s 029 S ilk Crea t o r s 028

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  現在、日本国内で稼働してい る製糸工場は全国で 5か所。そ のなかで国内最大規模の製糸工 場 が 、 碓氷製糸農業協同組合 ( 碓 氷製糸工場以下同じ) だ。   この碓氷製糸工場には全国で 生産される国産繭の約 6割にあ たる量が集ってくるが、以前と 比べその絶対量は決して多くな い。 養 蚕 農 家 の 減 少 に よ っ て、 かつては工場の繰糸機 10セット がフル稼働していたが、いまは 2セットしか動いていない。   「 富 岡 製 糸 場 が 世 界 文 化 遺 産 へ推薦された。養蚕に携わる若 い 世 代 が 増 え て く れ れ ば 」と 組 合長の高村育也さんは願いを口 にした。   長野県岡谷市で唯一残る製糸 場、宮坂製糸所では、日本古来 の 諏 訪 式 座 繰 機 と 上 州 座 繰 機、 そしてオートメーション化した 自動繰糸機の 3つの方式によっ てそれぞれ特徴をもった生糸を 生産している。   諏訪式座繰機は、明治期に岡 谷 ・ 諏訪 で 開発 さ れ た 。 糸 は〝 か さ高〟で柔らかい風合い。手づ くりのため適度な繊度むらがあ る。上州式座繰機は日本古来の 繰糸方法を改良したもので、節 の あ る 糸 が 特徴。 一方 、自動繰糸 機は諏訪式座繰機をオートメー ション化したものであり、繊度 がきわめて均一だが、その一方 で シ ワ に な り や す い 欠点 も あ る 。   3種の繰糸方法により古代の 糸から現代の糸まで、宮坂製糸 所では様々なニーズに対応した 生糸を生産している。   明治初期に始まった諏訪の製 糸業、現在残るのは下諏訪町の 松澤製糸所 1社だけである。   歴史あるこの製糸所は、現在 では繰糸方法が完全オートメー ション化され、 200 人規模の 人手が必要だった仕事も今では 7人で行っている。   自動繰糸機により高品質な生 糸を、 1日に約 50㎏生産する一 方、煮繭に必要なお湯は創業以 来変 わ ら ず「 ま き 」を 燃料 に し た ボイラーを使用。昔ながらの手 仕事にこだわっている。

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碓氷製糸農業協同組合 株式会社宮坂製糸所 松澤製糸所 群馬県安中市 長野県岡谷市 長野県諏訪郡 碓氷製糸農業協同組合 |群馬県安中市松井田町新堀甲909 ☎027-393-1101 株式会社宮坂製糸所 長野県岡谷市東銀座2-13-28 ☎0266-22-3116 松澤製糸所 |長野県諏訪郡下諏訪町曙町5357 ☎0266-27-4191

物づくりの支え手、

現在

製糸場

1879(明治22)年、全国に650程あった製糸場もいまでは数カ所を残すのみ。

日本の近代産業を支えた製糸業、現在でも稼働している全国の製糸場を訪ねた。

Chapter 2日本の絹づくりと技術革新 S ilk Crea t o r s 031 S ilk Crea t o r s 030

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Chapter

蚕 糸・絹 業

提 携 グ ル ー プ の

活 動 紹 介

国産の繭および生糸が希少となった今、

絹づくりに携わる人々は熱意をもって

物づくりに努めています。

養蚕家はじめ繭・生糸、絹織物等の生産関係者、

そして問屋・小売店等の流通関係者が一体となり、

グループを作り、活動しています。

ぜひ商品を楽しく眺めていただき、

皆さまの暮らしを「宝の絹」で彩ることができますよう、

提携グループ一同が心より願っています。

さらに汚れや不良が少ないのが その特徴だ。   国内の絹糸産業は縮小の一途 をたどるが、世界に冠たる製糸 生産技術は世紀を超えて受け継 がれており、現代そして未来へ さらに継続・発展させていくの が松岡の使命でもある。   松 岡 は、 明 治 20年 松 岡 製 糸 場」 として創業を開始。   現在では、日本を代表する高 級 生 糸 の 代 名 詞 と も い わ れ る 「 松岡姫 」を 製造 し て い る 。 日本 古来よりの優良原蚕 3種のうち の ひ と つ が「 松岡姫 」で 、 細繊維 度 を 誇 り、 し な や か で 軽 や か、 図ることを目的に、同年 7月に 野村シルク博物館としてオープ ンした。   20年 に 一 度 行 わ れ る 伊 勢 神 宮 式 年 遷 宮 の 生 糸 は 、 伊 予 の 生 糸 を 使 う こ と が 古 代 か ら 慣 わ し と な っ て い る 。 県 内 で は 生 糸 が 生 産 で き る の が 西 予 市 の み と な り 、 生 糸 づ く り を は じ め と す る 染 織 の 全 工 程 を 指 導 す る 野 村 シ ル ク 博 物 館 が 貴 重 な 存 在 と な っ て い る 。   愛媛県西予市は、かつては全 国 で も 有 数 の 養 蚕 地 で あ っ た。 良質 の 生糸 「 伊予糸 」の 産地 と し て知られていたが、原料繭の減 産などによる影響で平成 6年に 野村工場を閉鎖した。   しかしながら、町の根幹産業 であった養蚕・蚕糸業の歴史と 文化を後世に正しく伝え、シル クを中心とした染織文化の情報 発 信 と「 人 と 文 化・ 町 と 農 村 の 交 流 」を 促 進。 地 域 の 活 性 化 を

西予市野村シルク博物館 山形県酒田市 愛媛県西予市 松岡株式会社 |山形県酒田市字仲町20 ☎0234-62-2222(代) 西予市野村シルク博物館 愛媛県西予市野村町野村8-177-1 ☎0894-72-3710

松岡株式会社 Chapter 2日本の絹づくりと技術革新 S ilk Crea t o r s 032

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  裏絹商品の製造卸、絹小沢が 商品の差別化を図るため、純国 産繭の生糸を使った商品づくり を始めたのは平成 8年。群馬県 蚕糸技術センターのオリジナル 蚕品種 「 世紀二一 」に 、 U V カ ッ ト・防汚・撥水などの機能を付 加 し た「 S U P E R S I L K 世紀 21胴裏 絹 」を 開 発 し た。 以 来、 純 国 産 繭の商品づくりに力を注ぎ、平 成 17年には物づくり環境を整え る た め「 日 本 蚕 糸 絹 業 開 発 協 同 組 合 」を 立 ち 上 げ た。 組 合 員 は 製糸 ( 碓氷製糸 ) 、 製織 、 染加工 な ど。垂直型の連携体制を実現さ せた。   蚕糸・絹業提携支援グループ に参加したのは、それから 3年 後。 新 た に 養蚕農家 を 加 え 、組合 内に群馬のブランド繭に特化し た〝国産シルク研究会〟と〝国 産 シ ル ク 研 究 会 普 通 蚕 種 部 会 〟 を作った。   ブ ラ ン ド 繭 は「 世紀二一 」、「 ぐ ん ま 2 0 0 」、「 新小石丸 」、「 ぐ ん ま 黄金 」、「 上 じょうしゅうけんぼし 州絹星 」。 普通種 は 「 春 しゅんれいしょうげつ 嶺鐘月 」と 「 錦 きんしゅうしょうわ 秋鐘和 」。 胴裏 や八掛、襦袢地、黒紋付地、色 無地、江戸小紋、おくるみ、小 風呂敷、袱紗など、品揃えを充 実させた。   グループ活動としては、製糸 工場の見学や養蚕農家の支援な どを定期的に開催。中でも話題 を呼んでいるのは春の恒例プロ ジェクト 「桑苗の植樹」 だ。   同 会 理 事 の 土 井 芳 文 さ ん は 「 今 年 は 百 貨 店 や 呉 服 店 な ど の 関係者 、 18社 30人 を 集 め 、3 0 0 坪 の 畑 に 3 5 0 本 の 苗 を 植 え ま した。群馬県の繭生産量は全国 の約 4割、生糸は約 6割を生産 す る。 全 国 一 の 養 蚕 県 と し て、 この文化を守るため、物づくり だけでなく継続的な支援活動も していきます」 と語る。

03

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Silk Creator

垂直型の連携で

養蚕県群馬の支援&

裏絹商品づくり

グループ名

日本蚕糸絹業開発協同組合 国産シルク研究会

日本蚕糸絹業開発協同組合 国産シルク研究会

普通蚕種部会

日本蚕糸絹業開発協同組合 国産シルク研究会

熊本部会

代表企業等 絹小沢株式会社 ☎ 027-361-2311 「当組合の活動が今 回の蚕糸・絹業提携 グループのモデル ケースとなったので す。垂直型の取り組 みによって、国産繭 を宣伝して、存在感 を高めていきたいで すね」と土井さん 正面に会社の顔、 暖簾を掲げる 1艶やかな純国産絹の白生地 2右から、世紀二一を用いた槐(えんじゅ)の樹液 の重ね染で深い黒に染め上げた紋付地、新小石丸 の色無地、県内在住の日本工芸会正会員藍田正雄 氏の江戸小紋 3ユネスコの世界文化遺産への推薦を祝して作っ た富岡製糸場をモチーフにした地紋で織った長襦 袢地 4群馬県産繭の羽二重絹を側に、同県産の真綿を 詰めた「愛おくるみ」 5八掛・胴裏寸法に白生地を切る作業。常に白生 地に触っている社員たち 1 3 4 5 2 S ilk Crea t o r s 035 S ilk Crea t o r s 034

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  「 絹 の 会 」の 代表 、 前橋 の 着物 専門店 「 に し お 」の 店主 、 西尾仁 志 さ ん 。「 蚕糸業 の 衰退 は 日本 の 染 織 文 化 の 危 機 」と 捉 え、 上 質 で付加価値の高い糸を安定的に 供給する事が何よりも大切だと 考えていた。   そ こ で 平 成 20年、 群 馬 県 と 共 催 で「 絹 の 郷 シ ン ポ ジ ウ ム ・ 現地 見学会 」を 開催 し 、県内 の 技術力 の高い養蚕農家と碓氷製糸、全 国 の 機屋 、染織家 を 組織 し「 絹 の 会 」を 発 足。 翌 年 に は 蚕 糸・ 絹 業提携グループ全国連絡協議会 に登録し、本格的に糸づくりを 始めた。   「 良 い 着物 を 作 る に は 、 蚕 と そ れ を 育 て る 農 家 の 技 術 が 必 要。 選 ん だ 蚕品種 は 〝 ぐ ん ま 2 0 0 〟 でした」 とは西尾さん。   蚕の特徴は主に 4つ。①飼育 しやすさ②繊度の細さ③白度の 高さ④染色性の良さ。これらの 優れた点を製品まで維持するた めに糸に負担を極力かけない方 法で物づくりをする。例えば春 繭は生繰り、晩秋繭は塩蔵後に 低速で繰糸し、糸質が生きる織 りのきものや帯を作る。   現在、 50人の会員の内、染織 作家が 9割を占める。   「 染 織 作 家 も お 客 さ ま も 純 国 産糸が欲しいわけではありませ ん。最高の糸で作られた製品の 着心地や質感を求めている。そ れを肝に銘じて良い糸づくりを し、それを生かす着物づくりを しています」

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Silk Creator

仲間とともに目指すは

良い糸づくりと、

糸質を生かす着物づくり

グループ名

絹の会ぐんま200プロジェクト

代表企業等 絹の会 ☎ 027-235-5510 1発色の良さ、肌触り、ドレープ感など最高の糸を求 める染織作家たちが集まる「絹の会ぐんま200プロ ジェクト」 2民芸運動の柳宗悦の甥の子どもに当たる、柳崇さ んの作品。軽やかな気品が漂う、源氏香を花織りで施 した着物 3糸にストレスを与えない塩蔵の方法。艶と光沢、独特のしっとり感で絹糸の魅力を再認識させる 4花織が可憐な染織家、児玉京子さんの作品 1 3 4 2   結 城 紬 の 老 舗 小 倉 商 店 で は 古 く か ら の 結 城 紬 を 保 管 し て い る が 、 あ る 時 昭 和 の 後 半 に 突 出 し た 品 質 の 製 品 が あ る こ と に 気 づ く 。   一見、木綿と見間違うような 素朴で温かな風合いが結城紬の 特 色 だ が、 こ れ ら の 生 地 は「 普 通 の 結 城 紬 と は ど こ か 違 う 」絹 の光沢と張りを持ち合わせてい た。共通するのは、結城産真綿 を 用 い 、当時結城 の 一、 二 を 争 う 名工が手がけたものであった。   「 幻 の 紬 を 再現 し た い 」思 い は 、 繭づくりにたどり着く。昭和後 期 に 使 わ れ て い た の は 、「 朝 ・ 日 × 東・ 海 」と い う 蚕 種。 こ の 品 種を福島県伊達市の農家ととも に作る試みが始まった。   紬の要を担う各工程の職人た ち は こ の 繭 を「 真 綿 の 引 き が 強 い 、 糸 が 切 れ に く い 」つ ま り 、 結 城紬 に 適 し た 繭 で あ る と 評 し た 。   真綿からの糸つむぎ、絣くび り ( 防染 す る 柄 の 部分 を 綿糸 で 括 る こ と ) 、 地機織 り 、 以上 の 三工程 の 手 間 ひ ま を 惜 し ま な い こ と が、 結城紬の条件とされる。      小倉商店 に は 、 い ま 、「 繭 づ く り 」の 大事 な 作 り 手 が 加 わ っ た 。 農家とともに、幻の紬への飽く なき探求は続く。 年間500kgの「朝・日×東・海」が至高の結城紬を生み 出す

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Silk Creator

結城紬黄金期

「紬の中の紬」復刻への鍵は

かつての蚕種への回帰にあった

グループ名

結城紬風土 31 研究会

代表企業等 株式会社小倉商店 ☎ 0296-32-2121 1繭を拡げて作った真綿を手でつむぎ糸にする。空気 をたっぷりと包み込み、独特の風合いを生み出す 2原始的な織機である地機(じばた)。経糸(たていと) を人の腰に固定して糸の張り具合を調整するため、無 理な張力がかからない。糸に優しいので繊細な手つむ ぎ糸に最適 3厳しい検査に合格した反物にのみ付される本場結 城紬の証紙に加え、純国産絹マークが付されている 1 2 3 S ilk Crea t o r s 037 S ilk Crea t o r s 036

参照

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