韋氏研究(二)
章
氏 ア御里 三︶
矢
第三節唐代章氏
野
主
税
唐代に於ても︑南北朝の系統は夫汝引継がれてゆく︒従って此所でも
北朝系統の子孫と︑南朝系統の子孫に分けて説明を加えよう︒
第一項 北朝系統の子孫 第一目平斉公房
潜の子孫填の系禁平斉公房である︵房名は新唐書宰相世系表による︒以下全様︒︶.前述の如
く︑填の子に峻と師とがあったが︑唐詞では峻の子孫が唐末に栄え︑師
の子孫が唐初に栄えた︒ω章保衡豪︒峻の子孫に唐紅の宰相保衡豪がある︒弓台伝︵灘 認㌶︶によれば︑﹁祖元卓慈皆進士登第﹂とあるのみで︑曾祖
以前を明かにしないが︑父懇は大中四年礼部侍郎となり︑五年貢挙を典
し︑最後は武昌軍節度使であったらしい︒夏に角︑祖︑父共に進士登第
の官僚で︑父は中央官僚としても相当の地位まで進んだわけである︒保
衡も亦進士科に登第し︑感通十年正月灘宗の女︑同昌公主に回した︒
公主は諮宗寵愛の郭淑妃の所生で︑従って一宗の最も寵愛するところで
あったから︑その縁によって︑保衡はやがて︑翰林学士︑学士承旨︑宰
相と累進した︒この陞任の速かなことは︑ ﹁自尚主至是︒裁再暮︒﹂と
指摘されているほどである︒而も公主を通じての天子の恩寵を背景とし
て︑貢挙の師たる王佐を始めとして︑同じ門生たる逼塞或は楊収︑路巌 二六
の如き有力官僚を次汝と排斥する如き偏狭の人物であった︒保又も亦進
士登科後︑翰林学士となり︑学士承旨に至った︒
以上によって明かな如く︑峻以後此系統は政治的不振時代にあったも
のの如く︑漸く懇に至って中央政権に近づき︑帝室の外戚となることに
よって翰林学士となり︑宰相となって再興した一家であった︒所謂新興官僚としてみられるわけである︵囎鋸諮騰塾仕雛趨︒
② 重弘敏一家︒次に師の孫に弘敏があった︒師が階の王室と密接な関
係をもつ官僚であることは既に述べたが︑その子徳政については何等明
かにできない︒弘敏は則天帰詣初年の宰相となった︒時は宛も高直崩御
の直後︑万宝即位の時であって︑嗣聖元年正月︑左散無常侍から太府卿
となり︑同中書門下三品となった︒中宗の皇后はいうまでもなく︑章后
で︑この正月に后の父章玄貞に侍中を授けんとして中令書襲炎と中宗が三つ董件のあっ蒔のことである︵醜鞭購攣.とすると︑弘警
章后との同族の故を以て宰相に任ぜられたのではないかと考えられる
が︑重后一門と平斉公房が密接な関係にあった様子もなく︑又︑南北朝
時代に於てさえ殆ど独立的傾向にあった各門流が︑そのような密接な関
係を結ぶとも考えられず︑恐らく偶然の結果であろう︒けれども︑弘敏
が特に政治的に活動した跡もないのに宰相となったのは何故であろう
か︒或は階代以来の官僚としての家柄の故であるかも知れぬが明かでな
い︒ 第二目道遙 公房
隻の子孫たる回目公房に属して著名となった家には︑肇︑黄裳︑自門
挺︑公粛︑商口などの家がある︒
1 章 肇 一 家︒
書駒︵ 旧回書︵15︶新唐書︵四︶︶の伝によれば︑肇は代宗達て京兆叢陪臣
郎等を歴任した有為の官僚であり︑代宗は宰相に進めようと考えていた
ほどの人物であった︒その子には︑綬︑貫之︑繧の三人があった︒綬は
明経及第の後︑徳宗によてっ左舞閾を以て翰・林学士に補せられた︒﹁貞元
之政︒珪華決於内属︒綬所議論︒常合中道︒﹂とか︑ ﹁帝政多所参逮︒﹂
とか伝えられ︑徳宗は頗る彼を寵愛したらしいから︑政治的に貢献する
ところがあったであろうが︑詳細は不明である︒綬の子温はその伝によ
れ論肇㎜ ︶︑智嚢±才にして両経始に及第し︑更に書判抜粋
の秀才であった︒父綬は︑彼の﹁判入高等︒在藁士之上︒﹂というのを聞い
て︑それは実力ではなくて権幸に結んだ結果ではないかと心配したとい
う話がある程である︒其後累進したが牛李の党争にも捲き込まれず︑李
徳裕すら︑ ﹁此人堅正中立君子也︒﹂と評し︑一目おいた人物であった︒
弾薬の訣﹂・後︑召されて翰林学士となったが︑父綬が学士となって.憂畏病
をなし︑遺参して禁職につくことを禁じたという理由で固辞して拝しな
かった︒丈宗末年楊嗣復と意見が合わずして陳號観察使となり︑記憶立
ち李徳裕が政権を握るや吏部侍郎となった︒再び宣撒察使として外任に
ついた︒ 綬の弟︑貫之の家は兄の家に劣らず官僚として繁栄した︒貫之は少く して進士登科︑貞元の初に縫良方正科に霧した︵灘講補門
番.元和三年更部員外郎の職にあって︑餐の士の考讐を命暗れ
るや︑時病を指摘する三人を上智せしめんとして他の考策官と意見が合
わす︑遂に地方官として転出したが︑やがて召返されて礼部侍郎として
凡そ二年の間選挙にあっかり︑そのとる所は︑ ﹁抑浮華︒先行実︒﹂で
あり︑ その後尚書右丞を経て︑ 元和九年十二月同平章事を加えられた
識見をもったことは︑その准西之役に対する進言によっても察すること (全P5︶憲宗本藤下︶.彼は単なる能吏ではなく︑大局的見地からの政治運営の
ができる︵旧唐書︵旧︶章貫新唐書︵58︶之伝︶.けれども後に指摘する恕︑余りに清流垂
んずる態度の故に︑寵臣張宿の街むところとなり︑且はその兵を罷めんと章氏研究 する主張が憲宗の容れるところとならず︑一且湖南観察使として出でぎ 擁藍建鞭縛つ羅慕聾輪哩擁製織︑隣の中︑懊は著名である︒両者共に進士に登科したが︑漢は又︑家詞科の登第者でもあった︵図上︶︒初は仕官を好まなかったが︑周握に引立てられて考功員外郎となり︑翰林学士に充てられ︑累遷して兵部侍郎学士承旨となった︒その同僚薄寅と共に宣宗の厚く遇して政見を徴するところであった︵全上︶︒而も公正な人物で︑京兆サとなっては︑帝舅鄭光の姦状を指摘して権貴を抑え︑帝から判戸部の要職を与えられようとしてもこれを受けない剛直さであった︵墨書墨黒雛稽正誕中十二年には︑自ら進んで河陽三城節度使となり︑繋宗時代一且吏部侍郎と なったが︑執権者とA・わずして再び那岐節度使となった︵聖母書︵恨貫之伝︶︶.灘には五子あり︑その四人まで進士登科の秀才であったが︒末子郊の丈名最も高く︑昭宗末の翰林学士となり︑学士承旨に至った︵全上︶︒ さて︑以上によって明かな如く︑此一家は殆ど明経或は進士並に制挙の登第者で︑官僚として立身した人達であった︒勿論中には︑漢の如く始めは仕官を好まない者もあったが︑仕官後は反ってその官僚的性格をはっきりさせている.旧肩書︵翻︶の史臣評にも︑葦氏三宗︒世多方俊︒純繧遭難︒為満干魯︒﹂とある如く︑官僚として朝権に奉ずること厚き家風が見られる︒例えば前述の如く︑章襖が天子の判戸部たらしめようとの意を拒んで︑自分は老年であり︑気力が衰えたから︑そのような劇職にはつきかねる︒願わくば一下鎮に任ぜられたいと辞退したが︑家に還って甥の柳砒語ったところによると︑ ﹁吾本不為宰相知︒上便委以使務︒脱謂下身岐而得︒講書以自白︒今時事寝悪︒皆吾輩負爵位致然︒﹂ というのが拝しなかっ蓮由でのるとい善導︵お曙即ち政治は宰相第一であるべく︑帝と親しいからといって﹁忽自旨旨﹂りして職を与
二七
章氏研究
えらるべきではなく︵旧墨書︵拙貫之伝︶︶︑而も自分鏡在の政治が漸く振わな
いことに対して責任を痛感するというのである︒このような官僚性は︑
此一家が翰林学士を多く出したというところに︑最もよく現われてい
る︒学士の地位は天子のプレーγトラストの地位であり︑官僚中の俊秀
が集中していた地位である︒中でも学士承旨の地位は特殊の重位で︑外廷の宰相に匹敵する地位であっタ鞭︶.些家に於ては学士及び学士
承旨として活動する者多く︑此一家の官僚性を知ることができる︒その
ような天子の親近官僚としての立場を知って︑始めて前述章 の述懐を
真によく理解することができるであろう︒ ところが︑そのような官僚性を否定するものではないけれども︑三四
一家には保守的な︑家柄を重んずる気分が残っていたのではないか︑と
思われる節がある︒それは︑ ﹁貫之為相︒出身月下︒以清流品為先︒故 回避舞愚蒙絶︶調復対﹃土.温志州錘択清擁︑
では︑この清流とはどのようなことを意味しているのであろうか︒貫
之については︑憲宗が張仲素︑豹文昌を翰林学士にしたいと望んだ時︑
宰相たりし彼は︑ ﹁行止未正︒不宜在内庭︒﹂といって反対したという
話がある︵ 即藷︵得︶︶.その意味は斯・璽.︵鵬︶に︑﹁貫之謂学士質
備顧問不宜酌取辞芸︒﹂とあるところを参照するに︑学士の地位は天子の
顧問に備わる地位であるから︑単なる辞芸の士でなく︑見識も言動も正しい写れ諸物でなくてはならないというものであろう︒新卜書︵塑
は︑ ﹁︵貫之︶居輔相︒厳身律下︒以正議裁物︒﹂と評しているが︑こ事件
の評言と︑先述の﹁以清流品為先︒﹂という評言とを︑この二人の採否の
に照して考えれば︑清流とは︑政治的識見あり︑言動をかりそめにしな
いことを指するものの如くである︒
けれども藍についての場合は多少異るが如くである・回田伝︵旧羽書︵68︶︶ 二八
によれば︑彼が尚書右丞の職にあった時︑塩鉄判官三訂が功績があった
ので︑塩鉄三三瑛の上奏に従い︑帝は蜀を職方員外郎に抜擢しようとし
た︒その時温は︑ ﹁三朝巳三郎官最一二選ゆ不可以賞能吏︒﹂と反対し
た︒そこで帝は楊嗣復に尋ねたところ︑ ﹁重温志在錐択清流︒然銚旦助士
行乞砧︒梁一元崇之孫︒⁝⁝⁝人若有守旧︒不入清流︒敦為陛下当山劇
者︒此衰晋之風也︒﹂と対えたという︒即ち︑温の意見は︑吏材ありと
いうだけでは清選の一目に任ずべきでないというのに対し︑三嘆復は吏
能ある者が清流に入らないということになれば︑一体誰が陛下の為に劇
務につくでありましようかと反駁しているわけである︒けれども︑二三
が眺日助は名臣の後であるといい︑有能の才を抑えるのは衰晋の風である
と指摘しているのを見れば︑清流は矢張り家柄を指すものと考えられ
る︒先に貫之が﹁行止未正︒﹂と評した中には︑家柄としての言動に欠け
るところがあるとの意を含んでいるものというべきではなかろうか︒今
三士によれば︵唐氏士族の性格素描e︶史学研究第九巻第十一号︶︵歴Y輩の乱後に於いては︑
清流の意味は全く士族︵官僚と同義語︶の意となったとされるが︑ここ
にいう清流には矢張り家柄尊重という意が含まれていると解すべきであ
ろう︒貫之や温はその社会的家格並に肇以来の政治的地位を自負する気
持が強かったのであろう︒それは一応一般にも認められていたことは︑
例の鄭注が鳳翔に鎮した時︑ ﹁自知不為所天︒求徳門弟子為参佐︑請温
為副使︒﹂といわれているのでも推察されるし︑或は河東の著姓たる柳公 緯の子仲響貫之の女が婚していることからも聴せられ︵通番書︵倣貫之伝︶Y
又彼等自身︑それに相応しい家庭を作り上げようとしていたことからも
伺われる︵全上︶︒
併し︑この一門と雌も︑肇の時以前は史上全くその活動をみず︑社会
的地位は別としても︑政治的には翰林学士院を中心とする新興官僚の一
にすぎず︑一方楊嗣復も名家の後とはいうものの︑直接の祖先は皆卑
官にすぎず︑漸く父於陵に至って中央政界に乗出したものであった
ヰ︵羅蟹協曙薯略同様の条件であるに拘らずこの様竺は保守的傾向をもち︑他は現実的な態度を持しているのは︑唐楽社会における実
力主義への移行と保守的気風残存の社会相を示すものであろうか︒とはいえ︑保守的気風の強い重氏すらも︑専ら朝権に奉じてその一家繁栄を
求める官僚であったことに違いない︒
ω 章黄犬一家︒世康の第三子福奨の四二孫に黄裳があり︑その孫に博
があった︒新一書宰相世系表︵74上︶によれば︑黄門の祖先は地方長官乃
至それ以下の寡にすぎなかった・藩伝︵噺礪哩.︶によれば蔓は漸西
節度使に至ったが︑その子蔓は河南府参軍に止まったという︒従って此
一家は中央政権とは殆ど関係なく︑政治的には恵まれない状態にあっ
た︒博は進士登第後︑京官を歴任して衛尉卿に至ったが︑又平慮節度使
昭義節度使等も歴任し︑武人としての活躍が主であったようである︒
㈲臥処星婆影野屡︵旧唐書︵59︶︶によれば︑彼の父万は荊嘉度参謀
にすぎず︑政治的には全く不振の一家であったらしい︒彼は李紳と︑
﹁皆以孤進同年進士﹂て相善かったといわれるから︑彼の官僚としての
立身は︑全く実力によるものであったと思われ︑此門流に於ても各家汝
は独立化の傾向を辿っていたことを思わせる︒では彼はどのようにして
自らの地位を開拓して行ったであろうか︒ 庭厚播学の文人であったらしく︑その伝によれ轟難冤Y
﹁通五経︒博覧史籍︒外文思謄逸︒﹂と記され︑元和初年に進士に登科し
たのは勿論︑才識兼学並に賢良方正の両制挙に登第した秀才であった︒
章貫之と友善の故を以て一旦開州刺史に艇せられたが︑元和末戸部郎中
に還り︑穆宗即位するや︑ ﹁其学有師法︒﹂との故に召されて翰林侍講学
士となり︑其後︑単に学問上のみならず︑政治的な献言も多く︑穆宗︑敬
宗に仕えて献替の任をつくした︒殊に長男の時︑李逢吉︑李紳の党争に
際しては公平中正の態度をとって孤立の李紳の立場を弁護し︑遂に翰林章氏研究 学士︑学士承引となり︑文宗即位するや︑佐命の功を以て中書侍郎︑同中書門下平章事となったが︑宰相としての政治は厳正で︑相府慨然たるものがあったという︒或は又︑帝は政治に努力したのではあったが︑決断力に乏しく往汝にして宰相の既に奏上して許可された事柄が中頃することがあったので︑処厚は厳重に帝に抗議し︑萄も宰相の意用いられず︑政﹁出自他門︒﹂というのであれば︑宰相の任を辞退したいと申出たので︑その後横議する者がなくなったという︒而も︑ ﹁処厚在相位︒日記済時︒不為身計︒中外補授︒威得其宜︒﹂という如く政治に献身し︑よって︑ ﹁処厚当国柄二周歳︒一口之謀︒頗四時誉︒﹂と評された︒彼は純然たる官僚であって︑新興官僚の根拠地たる翰林学士院にあって天子の密謀に参ずると共に︑宰相となっては︑そのおだやかな性格に似ずして
﹁至一山諦敷込及軟轄︒待街吏国焼︒難然不可奪︒零雨非魁偉︒如甚濡
者.︒而庶僚請事︒畏三相顧︒難相与語靴墨︒不敢私謁︒﹂といわれる如き
官僚振を発揮している︒彼の祖先の貧弱︑孤進の境遇からみて︑彼はそ
の自らの才能と官僚としての忠誠さによって︑その一家を再興したもの
といえるであろう︒
ω 章 挺 一 家
隻の孫に挺があった︒挺は少くして隠太子と相善かったが︑武徳七年
の頃︑太子が宮臣と謀通のことありとの噂や︑翌年諸書煙管楊文幹の大
逆等によって太子身辺の宮漏がこれに坐し︑挺や鳥道︑苦髪等一時遠流となった︵羅簸騨魏等やがて召還されたが︑貞観の虚器珪の
推挙によって尚書右丞︑御史大夫等を歴任した︒太宗は章挺の門地を重んじていたらしく︑御史大夫に任じた時︑ ﹁卿之任御史大夫︒独筆意
耳.左右大臣無為鑑煮卿勉之哉︒﹂といったという︵旧乱書︵77章遅退︶莚
の女は太宗第五子減磁祐に嫁したので︑挺は外戚としても尊重せられ︑
常に房玄馬︑王難︑魏姦悪と倶に政治上の顧問に応じた︵駆上︶︒又︑彼
自身も自らその門閥たることの意識は強かったと見え︑御史大夫たりし
二九
章氏研究
頃︑監察御史たりし馬周が寒士である故を以てこれに礼を尽さなかった
という︵斎忌︶︒挺の家は︑父が前述の如く階の民部尚書︑妹が言論王の
妃であったから︑確かに唐臣中でも一流門閥であったに違いない︒従っ
て貞観民族志の纂修が行われるや︑高士廉︑令孤徳苓等と共にその任に
ついたが︑それは布目潮瀬氏の卓見の如く︑旧貴族の代表として参加したものであろ久無罪嫉童鰺︶.
このように挺は唐朝によって前代以来の門閥として優遇されたとはい
うものの︑勿論それは唐朝官僚たる限りに於てであって︑決してそれを
逸脱するものではなかった︒それは太宗が挺を宰相たらしめようとした
ところ︑前述の馬周が︑ ﹁挺傲狼︒非宰相器︒﹂と奏するやその採用をや
め︑紅隈が高麗征伐に当って漕運の全責任を負わされたのに︑遂行不充
分な為に太宗の怒を買い︑遂にその職を罷めらるると共に︑官位を剥奪
されて庶民とされをいう事によっても明かである︵新唐書︵98︶章挺旧唐書︵71︶伝︶.挺の子には待価及万石があった︒論理︵離山畑︶によれば︑待価
は唐の宗室たる江夏王道宗の婿であったので︑永徽中江夏王が罪を得るや縁坐して左遷され︑盧竜果毅となったが︑高麗の役起るや︑父に似ず
勇⁝堅し︑後年にも蘭州︑粛乱心の刺史を拝して吐蕃に対して藁葺の功を立てた︒武后の政を執るや吏部尚書を拝し︑ついで垂換二年六月宰相を拝した︒永昌元年五月︑安息道大配管として吐蕃を討ち︑軍敗るるの故
を以て鯖に流されて死んだ︵旧蘭書︵6︶則天武后本記︶.
以上の如く︑彼は宰相とはなったが︑実は単なる武人に過ぎず︑主と
して対北辺の戦斗に従った︒ ﹁時価素無色直面才︒自流職者而起︒居選
部︒饒三無叙︒甚為当時所嘘︒﹂と評されたり︑自らも亦宰相の地位にあ
って︑﹁不自助︒累表辞職︒不断︒旦請尽力行陣︒許之︒﹂とある如く︑ その任に斐ることを自覚していたよ妾のる︵鰭飽肇.その
祖先に武将が多かった如く︑彼も亦謬りであって︑その門地の故に道宗
の女と寒したとはいえ︑文官としての任に堪えうる教養はなく︑単純な 三〇
る武人官僚に過ぎなかった︒
官倉石については殆ど伝えるところなく︑ただ兄に似ず頗る学業あり︑
特に音律に通じていたとい雌器膳︵89︶︶.
さて︑次にその子孫についてであるが︑ここには多少問題がある︒新
畑書宰相世系表︵74上︶によれば︑器量の子は烈であり︑その子孫に弘景
がある︒ところがこれには異説があるので︑いま問題を明かにする為に
系図を作製しよう︒
① 思 謙−承 慶一長 祐︐
モ暦︶(旧中宗︑寄 相武后︑ 一三 立
目
② 思謙一承
(新o争齦S十六章思謙伝︶r嗣
慶
一恒1済
③
立一恒︵雄踏孫︶ ⁝弘 景
1済一子 賀⁝⁝待唯一烈一嗣立一尭一弘景 宣田家戸興道令
(新o総ノ相世系表旧唐書巻七十七牽挺伝同 巻一百五十七章一景伝︶
誓書馨百︶の慧懐古によれば表にみる如く︑弘五塵立の孫で
南朝系統の章氏である小迫遙公房に属するので︑この北朝落零遙公房と
は全く別である︒即ち弘景なる人物は果して︑系図③の如く道遙な公房
に属するか︑②の如く小適遙公房に属するかという問題が起る︒
弘景の所属を考える場合︑彼が︑ ﹁後周道遙公隻之後︒﹂とあることを ア先づ蕾三きでのる︵墾撚怖曙思謙は勿塗の後ではない.次に
②の如く下立の孫とすれば︑①の如く旧唐書が全くふれていないのが不
思議である︒而も②では弘景は嗣立の孫というのみで誰の子なるかを明
示しないのも曖味である︒若し①②に於ける棚立の孫であれば宰相たり
し者の孫であるから資料に欠けた筈はない︒済の子が記してあるくらい
であるから︑弘景も誰の子なるかを明示してよい筈であるのにそれがな
い︒第三には章弘景の伝には︑ ﹁祖嗣立業宣州吾々︒父尭風洋州興道
令︒﹂と明記するから︵全上︶︑この嗣立は①②の徒立とは全く別人であること明かであり時代的に見ても︑①②の並立は③の待価と同時代の人で
あるから同一人ではない︒これが同名異人たることが明かとなれば︑上
述の点と考え合せて︑新譜書が宰相世系表には正しく記し乍ら︑列伝記
述の際に町立という名につられて︑有名な濫立の子孫として弘景を組込
んでしまったものと解せざるを得ない︒従って③の世系を以て正しいも
のと考える︒
弘書その伝︵旧記書︵57︶︶によれば︑貞元中進士登第元和三年左拾遺を拝し︑その買主補闘に転じて翰林学士に召されたけれども芝煮の失敗によ
って学士を罷められた︒一時地方官として外任についたが︑着払の世と
なって吏部侍郎となり︑ ﹁鉛綜平允︒権邪揮其段勤︒不影干以非道︒﹂と
いわれる公正な掌選振であった︒後に尚書右丞を拝した時も︑吏部の授
官不当なる者六十余人を遅して︑ ﹁弘景素論硬亮称︒及居綱轄之地︒郎
吏望風修整︒﹂と称せられた︒彼は誠に職責に忠実な官僚であって︑ ﹁歴
官行事︒始終以直道自立︒議論操持︒無所阿附︒当時風教︒尤為僑頼︒
台長慶己来︒目為名卿︒﹂と評されている︒
以上の如く︑此一家は挺の頃は尚︑北朝系門閥としての誇をもつとい
た如くであるが︑待価以後の凋落と共に名門の誇を捨て去り︑単なる官
僚として再興された如くである︒それは豊富に於ては全く門閥臭なく︑
科挙を経て︑翰林学士となったその才学と︑職実遂行に忠実なる官僚性
とによって︑尚書左丞の地位にまで至ったと思われることによっても伺
われる︒ この迫遙公房全体を通観して考えられることは︑これに属する人汝の
中には門地を誇り︑又それに相応しい待遇を朝廷から受けた人々もある
が︑併しそれも唐朝官僚としての性格を逸脱するものではなく︑時代が
降るにつれて漸次その官僚的性格は強まり︑帝権に奉仕するものとして章氏研究 忠実なる官僚となり︑又概ねは科挙合格者であって︑その立身は官僚としての才能︑功績によるものであり︑特に肇一家に於ては多くの翰林学士を出して天子の側近官僚としての性格が強く︑而も多くの場合は直接の祖先は政治的に無力であって︑一家の再興は官僚的性格によるもので︑特に処厚︑八景の如き場合は配りであり︑門閥或は著書を誇るが如きは殆ど問題とならないのであり︑それと関連して︑少くとも此房に関する限りでは︑房一門の全体的︑族的雲合すら考えられず︑各家は夫汝独自の官僚的努力によって︑自らの道を切開いてゆく傾向の強かった如くである︒勿論処厚は彼自身が辛苦して立身したが故であろうか︑同じく不遇のその従父兄にあたる章堀︑に対して同情していたということはあったらしいが︵虚言臓Y具体的なことは全く不明である.
第三目 鄭 公 房
この門流は壁書の子孫であるが︑章氏の中でも繁栄したものに属す
る︒この門流では巨源︑安石︑丹三家の活動が明かにされうる︒ω 章巨獣一家
巨源は孝寛の子総の曾孫である.祖述伯は裳奉御︵旧唐書︵92章安石伝︶︶︑父は思仁︑これも尚奎御であった︵難輝畢従って︑この豪総
以後は政治的に不振の状態にあったと見てよいであろう︒ところが巨源
に至るや︑則天武后︑中宗時代に相たること三度に及び︑尚書令を拝す
るに至った︒それは一体何故であったであろうか︒
彼は実は単なる細務官に過ぎなかった.旧唐書︵︵92︶章安石伝︶には︑宰相
となってからのことについて︑﹁有吏才︒勾覆省内丈案︒下締剥徴︒難為下所念愕然下記収受.﹂と述べているが︑新璽.は︵指環曙
﹁其治委砕無大体︒﹂と酷評している︒では何故このような人物が屡六
宰相として用いられているのであろうか︒それについては旧唐書に記さ
れた戸部員外郎嶺桜の巨源弾劾文に明かである︒李畠は巨源の罪四ケ条
一三
章 氏研究
をあげているが︑その間の事情を旧唐書︵︵92︶章安石伝︶によって示せば次の如
くである︒
先づ第一には︑国家に対して何等功なくして大官を拝し︑章后とは殆
ど親縁関係なくして︑その昆季となっている︒これは中人に通じ武后に
附合してのことである︒このようにして皇家の基礎を乱すことこれ一罪
である︒第二には︑郊杞は国の大事であり︑昔から婦人の亜献を聞かな
いのに︑巨源は礼部侍郎徐堅以下の反対にも拘らず︑皇后をして亜献せしめ︑自ら終献をなしている︒これ三后の帝位を図らんとするを助長し
たものである︒第三は︑中田崩御に際し章氏の権を奪って唐室の権威を
確立すべきであったに拘らず︑それが直に出来なかったのは︑巨源が章
温に附していたからである︒その為に諭旨朝に臨み︑温が国政を執る結
果となった︒第四には︑人は邦の本であるに拘らず︑回忌が宰相として
なすところは︑専ら勾徴を行うことであり︑兆庶をして流離せしめ︑戸
口を減耗せしめるにすぎなかった︒特に武三思に附会して河朔の民をし
て流散せしめ︑ ﹁第二切身︒朝夕奔命︒﹂せしめたごときこと第四百で
ある︒この論に対して︑ ﹁論者是之︒﹂と評されていることからみて︑
この評言は当っていると見なければならぬ︒
以上によるに︑巨源は所謂能吏ではあっても政治家ではなく︑武氏︑
重畳年記温に附して宰相たることを得たものであって︑単なる吏僚とし
て章氏の手足となって動いたが故に︑長く高官にあったものであろう︒
決して彼が名門であるとか︑有為の大才いとかいうごとき故ではなかっ
たのである︒
勿論章氏専権に及んで︑章后との間に特殊関係が結ばれたことは李畠
の指摘する如くであり︑ ﹁直入章后三等親︒叙為兄弟︒編在属籍︒﹂と伝
えられている︵旧罫書︵92童安石伝︶︶.然るに章后吉事馬房に属し︑即公房と
は遠縁に過ぎず︑殆ど親縁関係はなかった筈である︒それが叙して兄弟 三二
となったというのであるから︑同じく牽氏に属するという︑かすかな繋
りをもととして︑特殊な親縁関係を造り上げたものであろう︒けれども
彼がその故にのみ一位にあったのではないことは︑武后時代既に宰相と
なっていることでも明かである︵口上︶︒又︑同じ郎公房に属する章安石
にしても︑同じく則天武后の時に宰相となったので︑必ずしも章后の故
を以て顕位に至ったわけではない︒後述する如く︑三后の周囲に同族的
結合をなした者は︑矢張り重后と同じ鮒白房に属する者であって︑巨源
はその能吏と阿談性の故に︑属籍に附されたに過ぎぬので︑直ちに其処
に異った門流間に於ける族的結合の姿を見るわけにはいかぬ︒㈲重安石一家
芸及暗流鑓の孫である.客の伝︵旧前書︵92︶新家書︵22︶︶によれば︑彼は
明経登科の後︑一時地方官となったが︑蘇良嗣にその人物を見出され︑
特に則天武后に推薦され︑それより累進して遂に習気元年十一月鷺台侍
郎を以て宰相となった︒この後︑吏部尚書等を経て中書令となり︑中宗
膚宗三代の間宰相たることが多つた︒政をなすこと清厳で︑その面目を
伝える逸話は︑餌差の頃の権臣張易之が︑蜀商数人を内殿に引入れ︑后
の前で博戯した時︑彼は﹁蜀商等賎類︒不合預登此箋︒﹂と主張してこれ
を遂出してしまった︒為に座にあった者皆色を失ったと伝えることであ
る︒これは勿論︑彼の荘重な性格から来るものであろうが︑又︑反面︑
﹁蜀商睦言﹂と武后の面前できめつける態度には︑自らの門地を誇る気
持も強かったのではあるまいか︒
その子に陽︑斌の二人があった︒此二人は倶に聰敏であり︑而も︑
﹁風標整峻﹂とか﹁容止厳属﹂とか評される如く名門の子弟としての風
格を備えていたらしい︒更に両者学問に精励し︑その学才は当時著名の王
維︑野獣等の推重するところであった︒特に防は︑宋環が︑﹁盛徳遺範三斜
是 ︒﹂と評したほどであった︒防は後に中書令警急齢の引くところとな
り︑礼部侍郎吏部侍郎を歴任したが︑当時﹁選人多年集︒与正調相帯︒﹂
す有様であったので彼は厳正なる態度で臨み︑﹁黙正数百工︒鈴綜外為公
平︒﹂といわれた︒併し乍ら︑その高名の故に時の権臣李林甫に忌まれて
地方官に出で︑数遷して河東太守に至った︒更に天引十二年楊国忠に忌
まれて聴せられ︑平楽尉となったが︑偶汝安芸山の乱起り︑粛宗霊武に
即位するに及んで呉郡太守︑江東節度使となり︑乱平定後︑吏部尚書︑
礼部尚書等を歴任した︒彼は早くから台輔の望をもっていたが︑遂に実 ト 現せず讐とし薬︑伍ずして卒したといλ囎輩喫藤︶.
弟斌は︑開元十七年忌の才地の故を以て酵王業の女︑平氏縣主の婿と
なった︵旧唐書︵95︶恵宣太子業伝︶.奎+瓦斯の手中に落ち︑黄門侍郎を偽授さ
れ憂憤の中に卒した︵置上︶︒
安石の兄叔夏も学者で叔父現によって︑よく漢丞相の業をつげりと評 されたほどであった︵購難範馨群籍冨経にあげられ︑無常博
士より累遷して︑中宗復位後︑国子祭酒に進んだ︒その子縮も市制に詳しく︑太下男を経て太子少師となった︵已上︶︒
このような華凹しい中央顕官としての活躍に比べ︑まことに不振の家蝿無餐麟耀瓢麟饗諺撰犠洲
﹁是以家人忌貧位︒不称徳︒﹂といっている︒同じ門流に属し乍ら︑この
ように淋しい一家もあったわけである︒玄堂志によれば︑端の妻は太原王
氏の出というが︑実際は太原王氏に非ぎる中山王氏であることは︑守屋
氏の既に指摘されたところである︵六朝門閥の一研究第六章第三節︶.併し乍らその中薬
氏も北魏時代より太原王氏を詐称していたのであり︵全心︶︑二面に於い
ては太原王氏に属する著姓として考えられていたわけである︒
此一家の歴史をみて注目すべきは︑その名門を誇る熊度とそれが漸次
くつれてゆく状態である︒魚商等を賎類ときめつけ︑鳳閣侍郎陸元方を
車 氏 研究 して︑﹁門真宰相.非吾等所及也︒﹂と歎ぜしめ蕪度には︵旧唐書︵92章安石伝︶Y門閥としての自負心がみられるのではなかろうか︒というのは︑ ﹁代為関中坐姓︒人物良冠︒変項栄盛︒﹂といわれている如き社会的地位︵二上︶︑且又︑孝寛以来の顕官累世なること︑或は又︑階が︑ ﹁門地豪華︒早一掃列︒﹂と評されているが如き背景があるからである︒防は早く吏部侍郎の栄職に至り︑その生活たるや︑ ﹁悲涙閻閣︒列侍左右寡黙⁝数︒衣書薬食︒成有典掌︒而野馬憧奴︒勢偉烈王家︑主唱︒﹂という豪奢さであり︑又﹁自以才地人物︒坐取三公︒﹂との自負をもっといたのである︵全上︶︒それは祖先以来の顕職歴任の門閥性や︑宋環の人物評等を見れば︑無理もないわけではあるが︑併し乍ら︑彼が決して南北朝的貴族の感覚をも
っていたのでないことは︑ ﹁然以道誼合︒難後進布衣︒与均礼︒﹂という 如きことでも明らかでのる︵灘晴俊誰その考な点はその子允が︑
﹁難生憧数十︒然応門窟客︒必勝・王之︒﹂といわれるところによっても伺れわる︵焦翠黛鷺難Y
以上の如く︑仮令門流自負の傾向があったとしても︑も早それは南北
朝的なものと異っていることは︑彼等が概ね科挙の合格者であるという
ことによっても推察できるが︑又︑冷温山の乱が起り︑楊国忠が防を憂
死せしめるようと計った時︑平楽の人が彼に保身の途を説いたのに対し
て︑彼は義積信下国朝斐代也︒しと答えているが︵旧唐書︵92葦安石伝︶∀これ
は彼が唐朝官僚たることの誇と自信とを示したものをいえるであろう︒
さて孝寛を中心とする車氏一族は武人として活躍した者が多かったの
に︑安石のころとなるや学問に励む者多く︑叔夏の如きは儒学列伝に加 えられるほどの︑﹁精通三礼﹂の箸でのったし︵旧唐書︵暇下章濫読伝︶響町斌
兄弟は︑﹁重言億倶有壁.﹂といわれ︵旧副書︵92章安石伝︶︶︑当量人の
推重するところであった︒かくの如く︑武人官僚の家は漸次文人官僚化し︑科挙という関門を経て官僚としての地位が確保されているわけであ
三一二
章 氏研究
つた︒ 次にこの一家の一事件を通じて︑唐代における族的結合について考え
てみたい︒事件というのは︑童堅が李林甫によって陥れられた時︑章斌が︑﹁以宗護巴陵太守﹂せられを写ものである︵灘曙ぞこ
れは防について︑﹁宗人代墓柏︒坐不紅教︒既経州刺史︒﹂とあるのを参照すれば︵灘噛壱宗族としての山回於て回せられた㌍要
る︒ところが堅は章氏世系表︵章末︶に見る如く彰城公房に属するもの
であって︑斌との族的関係は甚だ薄いものであり︑南北朝時代既に各門流
は独立化の傾向にあったこと前述の如くであるから︑唐代に至って門流
の異った人汝が累疑されるというのは甚だ奇異に感ずる︒いま旧唐書
︵29︶の章斌の伝をみるに︑同じことが︑﹁斌以親累業事太守︒﹂とあ
る︒新唐書が﹁宗﹂を以てとしているのは︑元来﹁親﹂を以てとあった
ものであろう︒そうだとすれば︑斌の累既は宗族の故ではなく︑特殊の
親縁関係が堅との間にあったものと解すべきである︒兄防が旧せられていないというのもその証拠であろう︒ らい渉伍その間の事情をみるに︑資治通鑑︵︵刎︶天意忍野秋七月の条︶によれば︑章堅の
底心︑芝が堅の冤を上奏して漬せられたことを記した後に︑ ﹁李林一因
言︒堅回気適之一周朋党︒後数日︒堅長流臨封︒適之財宜春太守︒太一一
卿卓斌既巴陵太守︒嗣聾王覇財夷陵別駕︒唯陽太守斐寛財生口別書︒河
南サ李蔓物財意表太守︑凡堅親党︒坐浄財者数十人︒﹂と見える︒通掛に
葬王業 よれば斌は親党の故を以て既せ
章一 十一姉
−堅1妹 十粛宗 嗣藤王瑚i平恩県主 十 十二 旧唐書巻︵五十六︶ 恵宣太子業伝
章安石伝 ム⊥うか︒今︑堅を中心とした系図を@ 書︵九十二︶ 如何なる関係にあったのであろ られたという︒では斌と堅とは
示せば次の如くである︒これに
よれば︑堅と斌とは極めて近い親縁関係にあったわけである︒勿論新品書の如く宗と解することは出来 三四
ない︵等細謹鋸轟記法︶.その他の人乏ついてみるに︑多雀堅
との繋りのあるのは斐寛ぐらいのもので︑寛は堅と同じく彰城房に属す 垂銑の女婁っている︵知灘︵絶曙けれども票護されたのは︑
寧ろ彼が山鴬︑李適之等と共に李林甫の対立勢力であったからであろう
( 。通鑑︵21︶天宝三載十二月の条︶.李適峯謡物にしても亦誉である︵鞍開演W
繋叢︶︒即ち︑李林甫に対立する勢が朋党の名を冠せられて︑蒔に ら排斥せられたものに外ならない︵資治通鑑︵即天宝冠争乱七月の条︶.呈の如く考えるな
らば︑堅をめぐる流財は殆ど政治的対立の故で︑斌と羅も親党の故では
あっても︑宗族たるが故ではない︒この場合に於いても各門流は夫汝独
立していて何等宗族的関係は保っていなかったと考えられるのである︒
㈲ 車 丹 一 家 アこの蒙鏡の子孫でのる︵鞠灘︵佗曙その中で茗なのは抗︑丹
田宙である︒抗は現の孫︑明経登第後︑地方官として令名が高かった
が︑右台御史中丞に転じてから︑中央諸官を歴任し︑開元十一年刑部尚
書に至った︒彼は所謂循吏であって︑ ﹁以清謹副子︒﹂し︑或は︑ ﹁以清
倹自守︒不同産業︒及終喪事︒殆不能給︒﹂といわれた人物であった
(旧iP︶92章安石伝︶罵
丹は現の次子幼平の曾孫である︒この系統は一品以来顕位に至らず︑
丹の父政の如きは鷺丞にすぎなかった︵韓昌黎集︵25︶唐故江西観察使章公墓誌︶.丹は幼くして父に死別し︑外祖顔真卿に従って学び︑明経に登第し︑のち︑従父 ア熊に従・て︑五経科に登第した︵龍晴恰罵仕官後齢して︑容州刺史
となって善政を施き︵全島︶︑召されて朝議大夫となるや﹁審然有旧名︒﹂り︵難落鮎轟故Yその後は外に出でて劒南東川鍵使となり︑引
続いて諸地の観察早使となった︒彼も亦立派な良吏であって︑民政に努
めたこと︑ ﹁凡為民去害興利︒若嗜欲︒居三年︒於江西八州︒懸屋便︒﹂
と評されている如くで︵陸上︶︑新唐書に︑ ﹁箕田読元和実録︑見丹政事
卓然︒壱日与宰相語︒元和時治民敦第一︒周塀対︒臣国守江西︒章丹有 大功.徳被八州.﹂と記される質であ桑輪町
丹の子宙は蔭によって入流したが︑ 丹の功績を認めた平筆の抜擢する
ところとなり︑諸職を経て永州刺史となり︑例えば常平倉の設置︑納税
組織の創設︑社の設置︑或は弊俗を改めしめる等の功績をあげた良吏で
あった︒最後に嶺南節度使に至った︒その弟嫁も亦福建観察使に至った
︵全上︶︒
この一家は知られる限りに於ては皆良吏であ︵︑て︑天子の忠実なる循吏であった︵弓懸難撫難二又︑安互舞の傾向とは異って
些も門流を誇る如き臭味がないことは注目すべきであろう︒それにも拘
らず︑社会的には尚著姓と目されていたことは︑丹の先夫人が清河崔氏
たる支江粒調の女︑後夫人は蘭陵薫氏で中書令垂の孫︑殿中侍御史恒の女であっをとで明かである︵薮蕪世Y調の門流たる清河小房並に
調蒙はこの頃政治的に歪の状態であったらしいが︵新唐書世系表︵72︶下︶︑恒の
両は繕に入っても繁栄を極めていたのでのった︵調踵.藤撃験.灘無薫∀ 以上鄙公房について述べたところによって︑次の如き点を指摘できる
のではあるまいか︒階朝から引続き顕職にあった父祖を持つ一家には︑
名門を誇る気風が強かったが︑漸次それも弱くなって官僚としての生活
態度に変りつつあり︑反対に父祖が卑官に過ぎなかった場含は︑全く官
僚としてのあらゆる努カー自らの努力によって立身が計られ︑又事実︑
起源︑丹の如きはそのようにして成功したわけであり︑従って同じ即公
房に属するからといって︑又その中の同じ分派に属するからといって︑
必ずしも同族的結合があったわけではなく︑恐らく漸次分化してゆくそ
の一家に於いてのみ緊密な結合は在したと思われる︒それは官僚として
不振であった端一家が冷遇をうけたことからも察せられる︒又︑官僚と章氏研究 しての成功が︑同族内に於ける地位︑乃至は社会的対外的地位にも影響したことは︑同じく著姓と見られていたとはいえ︑官僚として地位の低い豪の女︵八環室金石補正︵66︶大唐華頷下郵縣丞京兆毒公夫人墓誌銘参照︶が端の妻であっをとや︑或は丹の先夫人が官僚として成功した名族の女であったこと︑更には官僚として栄えた安石︑叔夏の一家が多く王室と結んだこと等によって伺われる︒それらによって︑筆者は此一門の官僚化の姿を見るのであり︑この官僚化の傾向の前には︑社会的家格も影をうすくしつつあったことを指摘できると思う︒
第四目閾 公 房
閥の子孫は閲公房と彰城公房の二門流に分れる︒閲公房には章表微一
家︑章元甫一家︑章機一家があった︒ アω翠微豪.護は元礼︵範︶の七世孫といわれるが︵翠雲π壱
どの家系に属するか不明である︒進士登第後︑久しく諸使府にあったが
元和十五年京師に還って監察御史を拝し︑翌年翰林学士に充てられた
(旧o早i侶︶下章表無筆︶︶.極めて公正な人物で︑敬宗の塞逢士.によって乱獲其の
一党が排せられて翰林に人を欠くや︑李逢吉の意を迎えようとした人汝
と異って︑独り章処厚を推薦し︑或は又︑路階を学士に薦めて己の右に処らしめたことなど︑私を計らずと評された人物であった︒併し︑政治 ア的には不遇で戸郭侍郎に至ったにすぎない︵鞠糖蟹π曙
表微の祖先について新︑旧両唐書何等伝えるところがないのは︑此一
家が衰微の中にあったことを思わせるが︑その堂兄に﹁蜀小将章少卿﹂なるものがあっをうのも︵酒黒蜜箏それを推測芒める.それ
は又︑彼の官僚としての生活にも影響するところ大きかったことは︑監
察御史になったころ﹁爵禄讐滋味也︒人皆欲之︒吾年五十︒拭鏡告白︒
冒遊少年間︒取一班一級︒不見入味也︒将笠松菊主人︒不幌陶淵明︒﹂と
歎じているのでも明かである︵全上︶︒淡汝とした詠歎の中に︑反って官
三五
章氏研究
僚としての立身はその切望するところであったことが察せられるが︑そ
れにも拘らず年五十にして漸く監察御史の地位を与えられたのである︒ けれども翰楚入・てから茎立な昇進をつづけたが︵旧唐庇︵倍︶下重表微伝︶︑漸
くその人物︑学識が認められにが故であろう︒このような彼の一生を見
るに︑彼が章氏に属するということは︑何等その官僚としての立身に関
係していないのであって︑全くの一寒士がその才能の認められざるにあえぎながら︑漸くにして一家を興した状態を想見せしめることは注目す
べき点である︒
ω章元甫一名︒元甫についても出自に関しては何等記述がない︒併し
新唐書宰相世系表によれば︑丈宗の曾孫という︒彼は吏才にたけた人
物︑所謂能吏であったと見えて︑﹁以吏術知名︒﹂とか︑﹁元甫有器局︒ ら所薯声.﹂と記されている︵墾藤M曙初め地方にあった壁皐に三
見出され︑杜鴻漸の推挙をうけて尚書右回となり︑又鴻功の推薦で准南
節度吏に任ぜられた︵全手︶︒
この元甫の場合は︑全く彼の吏才による立身と考えられ︑車身︑杜鴻
漸に見出されたのもその能吏振によるものであろう︒成程車防は同族で
あるが︑その故に元三を特に引立ててやったわけでもないようで︑前述
の如き防の後進布衣を一概に蔑視しない能度からでたものにすぎないで
あろう︒㈲ 章機一家︒この一家は範の子恪よりでている︒この一家について
は︑新肩書宰相世系表は記すところがない︒機その孫景駿は何れも良吏
として著名であり︑則天武芸が機の孫岳に対して︑ ﹁卿是毒機之孫︒勧 ら幹固有蚕也.﹂といっξとからみても︵旧唐馬︵呈上章機巧︶Y篠として撃
として努める良吏的家風があったものと考えられる︒さて︑機はその伝
(旧m書︵85︶上︶によれば・太宗の票ら仕官し・常傭に使して旨に構い・高下
顕慶嘉には尾州群吏として治政に努め︑上元中には司農卿に至った︒そ
の子孫に景轟轟岳がある︒景駿は祖機にも勝って良吏としての名声があ 三六
つた︒明経登科の後︑主として地方官を歴任し︑直接人民に接する第一
線官僚として︑その地に適応した政治を行ったらしく︑肥郷令となって
はその北界にある滝水を治めることに全力を投じ︑水禍を防ぎ三田を増し︵正論晦Y房州刺史となっては︑宥蛮蓋.無養鯉杞章し
という風俗を改めることに努力し︑当時政績をあげた薦甚深︑楊茂謙と ア並び称せられた︵灘讐伯曙
その弟岳も亦︑ ﹁以吏幹著名︒﹂とあるから︑吏才ある人物であったら
しいが︑地方官としても政績をあげた︒
此一家は景駿兄弟から二派に分れるが︑共に繁栄した︒
景駿の子述は学者一特に史学者として著名であり︑譜学にも通じてい
た︒弟達も亦学才あり︑為に当時文名の高かった開元の宰相訓説に﹁趙 章.峯.今一杷引写.﹂と称せられをいゑ器灘一躍述箋.を蔵
すること二万巻︑史職にあること二十年で︑国史一百一十二巻を完成し
﹁良史之才︒﹂ありと評せられた︵全上︶︒ この学者兄弟がでたのも︑恐
らく父祖以来の好学の風の影響であろうか︒述の柔の子に渠牟がある.氷二一の士であり︵雛離懸物撫勤 ら罐Y渠牟も嚢悟にして疑銘じ詩に巧であ・た︵難事掲曙け
れども彼渠牟は所謂姦俵の人物であって︑﹁渠牟形神桃躁︒無気書子器︒
志向図根道徳︒﹂と評される如くであった︵打上︶︒従って口癬を以て徳宗
の御意を得︑特に陸賛免相の後︑帝が庶政を親らするに及んで︑斐延齢
学漫運の徒と共に︑その権は宰相凌ぐものがあった︵全上︶︒
次に岳には・と恒の二子があった︒気管一は地方卑官にすぎなかった
が︑責の子皐は顕位に至った︒皐は建中三魚苗錨が鳳翔節度使になった
時︑営田判官としてこれに従った︒ところが翌年朱砒反し︑鳳翔兵馬使
丁楚琳が錨を殺して批に帰した︒此時批は皐を誘ったが︑皐は使者を殺して批と対立したので︑徳宗は彼を謬論刺史に任じ︑奉義節度を新設し
てこれに報いた︵鯉晴哲曙興莞年徳宗京に還るや︑召されて左金
吾衛将軍となり︑ついで張恩賞に代って一望西川節度使に任ぜられた︒
この後ずっと蜀に在り︑貞元十二年には同平章事を加えられ︑十七年には中書令を加えられた︵詮雛難辱此間の彼の功攣記して新唐書の伝︵851︶には︑軍治蜀二f馬引出師.凡破吐蕃四+八互嚢節
度︑都督︑城主︑籠官千五百︒斬首五万余級︒獲牛羊二十五万︒収器械
六百三十万︒其功烈為西南劇︒しと述べている︒けれどもこのような功労 の裏には蚕薮.量月払.卒致望錆.時論斐.L︵旧唐書︵一章領髪︶︶勤隷事書喋野鱗章程一籍賭讐擁
われ︑又二十年に余る長い在職によって朝権に対して半独立的な一王国
を形成していたのであって︑ ﹁厚給賜以撫士卒︒士卒婚嫁死喪︒皆供其資費︒以是得久安其位︒而士卒楽為之用︒﹂といわれる状態であり︵鷺罐響﹁繁野面善果軌ごと鵜される墾畷.
憐邊劉闘の謀反の先駆をなしたのであった.代贔官にいたることもなく︑平凡な官僚として続いて来たこの一家に︑巧に帝意に取入ること
によって半独立的な藩国を握る官僚がでたことは注目すべきであろう︒
恒の適正貰は製合格の秀才であったが︵唐概要︵76︶科挙︶︑宣宗に見出され
て︑後には嶺南節度使に至った︒彼も亦善政を以て知られた良吏であった︵難晴囎曙
以上閾公房について考察したが︑注目すべき点は先づ︑表面や元徳の
場合に見られる如く︑自己の才能︑努力によって独自の立身をなしたこ
とであろう︒それには︑天子に仕えて忠実なる官僚であることは勿論で
あるが︑その外に学問︑楽才︑等の優秀な才能が必要であった如くであ
る︒或は又︑渠牟︑皐の如き天子の動静に応じて巧に身を処する技術も
必要であった︒何れにしても︑彼等は天子によって認められるか否かに章氏研究 よって︑栄枯盛衰する官僚にすぎなかった︒を以て著聞する家さえ成立していたことは︑語るものであろう︒
第五目 彰 城 公 房 機一家の如く︑循動的家風この一門の官僚的性格を物
閲の子道珍の系統に︑澄︑雲起︑元珪の家があった︒
ω 章澄一家︒この家についての詳細は不明であるが︑単なる官僚にす
ぎなかったようである︒ただ元旦の官僚としての立身が︑その母が章氏
である張芝之との︑及び舅陸頗の妻が三后の姉であるという︑姻族関係によ・てなされを伝えられることは︑二三きである.︵翻壌鍔
正直p翫嬰劉聴︶
ω章雲起豪華起はその伝︵旧唐書︵75︶︶によれば︑幾代明経に登第し︑唐
に至って益珍魚台兵部尚書に至ったが︑落馬の謳によって建成一味とし
て処断された︒彼は誠にすぐれた見識ある剛直の士で︑無代に於ても交
帝の愛婿柳述の専権を非難して反って抜擢をうけ︑場帝に対しては︑山
東出身者による朝政聾断の弊を断じて帝の慮れるところとなり︑又出で
ては契丹を討って功あり︑ ﹁才兼文武︒﹂と称せられた︒けれども︑その
剛直の故に寳軌の暴政を批判して遂に謙せられるに至った︒その孫方質
は則天武后朝に於ける宰相となったが︑権臣武承嗣︑三思に対し︑些も
屈するところがなかったという︒
㈹ 章元珪一家︒元珪は開元初年充州刺史となったが︑その子堅は玄宗
に仕えて財政上顕著な功績を建てた︒堅は早く官途に入り︑開元廿五年
長安令として吏才を称せられたが︑官官に接近して立身を計り︑至宝元年玄宗の認めるところとなって陳郡太守︑水陸運使に抜擢された う
(銀瘁i−0︶活璽.︵侶︶食貨志によれば︑麦商量.−−国論於江准
転運租米︒取州県義倉粟︒土市軽装︒差富戸内船︒若遅留損壊︒皆徴般
三七
章 氏研究
戸︒雨中漕渠︒馨広運潭︒以挽山東之粟︒歳四百万石︒帝以為能︒又至 ら貴響とその藷を述べている.両三.の轟齢鑓讐によれば︑各
郡名を記した牌を立てた二丁が︑二︑三百艘も連橋三里に亘り︑未だ関
中の人汝の見たこともない舟運をみて︑京城の人汝は驚骸したとその壮
観が伝えられる︒その後︑官を進められると共に︑水陸転運使︑租庸転
運使等を加えられたが︑天宝五載に及んで︑李林甫の謳するところとなり︑臥せられるに至った︵難轄㍉∀
李林甫の謀略が何故行われたかということについては︑堅が玄宗に寵
せられ︑河西朧右節度使皇甫惟明等の後援があるので︑李林甫に代って
やがて相となるのではないかという懸念からであると伝えられる︒ ら︵熱論川劇堅薫らくこれは事実で・の含.と零のは︑林甫量と
はその親縁関係の故に︑初は相当親しくしていたのが︑堅が寵せられる に及んでこれと対立するに至ったからでのる︵旧唐書︵腺︶章甫林伝参照旧唐書︵59︶一一伝︶.
この彰城公房をみるに︑平凡なる官僚として︑或は剛直なる官僚とし
て︑或は理財にたけた官僚としての相違はあれ︑何れも帝権をめぐる官
僚としての姿である︒而もその立身が︑姻戚関係︑或は吏才︑人物とい
う個入的特長或はその他の理由等によって行われているのであって︑同じ門流或は同宗の援助︑協力による如きことではないのである︒ここに
も蘭虫に家を中心とした分裂状態が考えられるので︑少くとも政治的面
に於ては同族ということは何等の意味を持たなかったといえよう︒
第六目 鮒 馬 一房
この門流は報命︑痴話の一族である︒正史列伝による限り︑その祖先
は弘表以前は不明であり︑鳥海は曹王府典軍に過ぎず︑津后の父空喜も ヨ初は並・州参軍に過ぎなかった︵灘晴侶曙温の群雲は玄貞の兄︑高
直豊島州刺史に至った︒此の一門が高官に至り︑一門に公主と介する者が 三八
多二等も︑一に重罰の故である意われる︵蝶月賦錨籍戦
中宗復位以来︑政権は章后の手に握られ︑この門流が極盛にあったこと
は︑三州司兵皇軍燕端点が︑ ﹁皇后濡乱︒干預国政︒宗族球道﹂と批判した如くであって︑景竜三年下は宰相となり︑中宗の崩ずるや︑后と諜
って内外の兵馬の権を章氏の手に集め︑零丁の故事に遵わんとし︑遂に 臨聖に馨られるに至った︵鷺舞筋麟元罵
さて︑﹁宗族彊盛﹂と指摘された場合の宗族とは一体如何なる範囲の
人を指しているのであろうか︒それを具体的に示すものは︑中国崩御に
当って︑章后並に温が自家勢力の結束を固めようとした時の人汝であろ
う︒というのは︑これらの人嘉引せられ蒔のことを︑旧唐書︵巻83︶
重温伝には︑﹁宗族無二長皆死︒﹂と記しているからである︒今︑新︑旧
両々書︑資治通鑑等によってその人名を挙げれば︑章氏一門の播︑謄︑
捷︑灌︑濯︑鋳︑元︑及び温の外甥高嵩であった︒此等の人女が后︑温
と如何なる関係にあるかは︑別表章動世系表の通りであるが︑不明なの
は︑鋳︑塘︑元である︒資治通鑑考異︵12︶によれば︑実録には濯の名な
く灌と見えるというから恐らく同一人であろう︒いまこの不明三人を一
応除外して考えるに︑ここに結束した人平は皆鮒馬房中の仁の一門を中
心としたものに過ぎないこととなる︒臨溝王の謀.獄は︑ ﹁崔日用将兵︒
謙諸章於杜曲︒強裸児無仁者︒諸杜濫死非一︒﹂といわれる如く徹底した ・ものでのっ即しい︵資治通三景︵四雲元年六月の条︶︶.勿論唐健於いて集肇団体
として法典の対象にはなっていず︑罪状如何によって具体的に割に狭い
範囲で処罰せられだわけではあるが︵牧野巽氏﹁明代の家族形態﹂㈲
︵支那家族研究所収︶︑この場合は単なる法典適用の範囲を越えた諌鐵
であったことは既にのべたところで明かである︒それでも面積が鮒馬房
以外に及んだ証拠はない︒郷公房の安石︑或は南朝章氏の蔓立の如きは
依然として宰相の地を占めていたのである︒勿論鄭公房の巨源が訣せら