研究資料 黒田清輝宛五姓田義松書簡を読む
著者 角田 拓朗
雑誌名 美術研究
号 421
ページ 31‑50
発行年 2017‑03‑21
URL http://doi.org/10.18953/00005984
黒田清輝宛五姓田義松書簡を読む 三一 研 究 資 料
黒田清輝宛五姓田義松書簡を読む
角 田 拓 朗
はじめに 概要交友と書簡の全体像 五姓田義松の希望義松後半生の意味 黒田清輝の企図フランス式教育から明治洋画史形成へ おわりに
はじめに
ある集合写真 (挿図
( 、 た () 若い頃の義松は、金時計を身に着けるなど、衣服に強い関心とこだわりを示してい 気 味 に し た、 丸 刈 り の 白 髪 頭 の 義 松 か ら は、 往 年 の 強 さ を 感 じ る こ と は で き な い。 姿を伝える現在唯一のものでもある。カメラをまっすぐに見つめ、やや肩を落とし がいる。彼は大正四年(一九一五)九月四日に亡くなるから、この写真は晩年期の たちの集合写真である。その前から二列目右端に、 五姓田義松 (一八五五一九一五) 撮影」である。それは、同年十一月十七日、上野公園内精養軒にて写された洋画家 に発行された『美術新報』一二巻二号に掲載された「文展出品者親睦会出席者紀念 ( ) を見ることから、 本小稿を始めよう。 大正元年 (一九一二)
(
。そのことを考えると、盛装ながらも、そのくたびれた雰囲気に注意が向けられ る。それと同時に驚かされるのは、 義松の右隣に座る黒田清輝 (一八六六 一九二四) の存在である。
何故、義松の隣に黒田が座るのか。そもそもこの親睦会に義松が列席した理由は 何か。本稿は、この謎を軸にしながら、東京文化財研究所が所蔵する黒田清輝宛五
挿図 ( 「文展出品者親睦会出席者紀念撮影」『美術新報』(( 巻 ( 号 大正元年 神奈川県立歴史博 物館
挿図 ( 五姓田義松(挿図1
拡大)
美 術 研 究 四 二 一 号 三二
姓田義松書簡群が有する情報の総合的な解析とその存在意義について論じていく。
具体的には、 書簡の概要を詳述する中で両者の交友の接点を追っていこう。また、 義松の人物像について、過去指摘されてきたところと本書簡群から浮かび上がるも のとの相違を指摘しよう。続いて、書簡がやりとりされた中心的な話題である東京 美術学校への義松作品の売却について、当時の義松の経済状況と絡めて論じながら 義松の後半生の意味を問う。最後に、その購入に努めた黒田に視点をうつし、購入 の傾向と明治洋画史形成というねらいについて論じていきたい。
概要 交友と書簡の全体像 五姓田義松と黒田清輝 この二人は、 明治前期と後期を代表する洋画家として、 その名を美術史上に刻んでいる。従来、 その二人の交流の断片がいくらか紹介され、 その希薄な交友があることはおぼろげに認められてきた。その主だったところは黒 田 が 書 簡 や 日 記 の 中 で 言 及 し た も の で あ り、 明 治 十 七 年 ( 一 八 八 四 ) に 黒 田 が フ ラ ンスへ法律を学びに留学した早い頃、既に交際していた日本人のひとりとして「ご せだ」の名が挙がってい る
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。最初から義松を画家として意識したわけではなかろう が、その後もしばしば書簡等に登場することから次第にその存在に注意がひかれた のだろう。
そして、数ある書簡類の中でよく取り上げられるのが、黒田が画家を志すことを 義父に伝えた明治十九年 (一八八六) 五月二十一日付の父黒田清綱宛の書簡である。 黒田はパリで活動する日本人画家のうち注目する者として「五姓田、山本、藤」の 三 名 の 名 を 挙 げ て い る。 義 松 の ほ か は、 周 知 の と お り、 山 本 芳 翠 ( 一 八 五 〇 一 九 〇六) 、藤雅三 (一八五三 一九一七) を指示し、ともに明治十一年 (一八七八) に渡 仏し活動していた。その三名を日本人画家としては西洋画をよくすると黒田は書簡 で 認 め つ つ、 同 時 に 西 洋 人 の 中 に あ っ て は「 持 出 ス 可 キ 程 ノ モ ノ ニ 非 ズ 」 と 記 す。 同十七年に法律を学ぶために渡仏した黒田が、洋画を学ぶことに軌道修正すること を表明する書簡だからだろう、自らが画技を学ぶ正当性を主張したいがために三者 を軽んじているようにも読める。その真意はともかく、この書簡から、この頃には 二人が顔をあわせ、黒田は義松の作品のいくつかを実見していたと考えるのが適当 である。両者が出会った頃、明治十七年前後の義松の制作といえば、後に詳述する 《 操 芝 居 》 ( 油 彩、 明 治 十 六 年、 東 京 藝 術 大 学 ) な ど が 挙 げ ら れ る。 借 金 に 苦 し ん で い た義松ではあるが、画技としては充実した頃でもあり、初学の黒田に軽んじられる ほど拙かったはずはない。黒田なりの眼は育っていた最中にせよ、義松の真価をは かることはまだ難しかったのではないか。 この十九年の言及の後、二人の交流が格段の深まりをみることはなかったようで あ る。 『 黒 田 清 輝 日 記 』 や 五 姓 田 義 松 の 滞 仏 時 の 各 種 史 料 に も、 両 者 の 名 を 見 る こ と が な い。 そ し て、 一 足 早 く 義 松 が 明 治 二 十 二 年 ( 一 八 八 九 ) に 帰 国 す る。 洋 画 排 斥運動に対抗するために結成された明治美術会の結成に参加し第一回展に出品した ものの、二回展以後は不出品を貫いた。明治初頭に瞬く間に身に着けた西洋絵画技 術、そしてそれを駆使して皇室や政府、政財界人等の注文に応えた輝かしい業績と の隔絶のはなはだしさは、義松個人の資質以上に時代の大きな変化にも要因を求め ることができよう。結果として、不遇の後半生という今日まで通用している語りが 成立する。 一方、法律学習から洋画修行へとフランス留学の目的を変更した黒田は、同二十 六年 (一八九三) に帰国。洋画排斥運動に一定の抗いを示した明治洋画界の活動に、 黒田は加わった。いったんはその勢力増大に貢献したかたちとなったものの、会内 部 の 意 見 対 立 な ど も あ り、 黒 田 は 山 本 芳 翠、 久 米 桂 一 郎 ( 一 八 六 六 一 九 三 四 ) ら と と も に 同 二 十 九 年 ( 一 八 九 六 ) に 脱 会 し 白 馬 会 を 結 成。 以 後、 黒 田 は 白 馬 会 を 中 心に制作活動を展開すると同時に、東京美術学校西洋画科教授として教育活動をお こなっていく。以上、その端緒から明治三十年頃までの履歴を概観した限り、多く の洋画家たちが集まる記念撮影で二人が横並びに写る理由、親しさの痕跡はほとん ど見当たらない。 この謎への回答を直接的に示唆するのが、本稿で焦点をあてる黒田清輝宛五姓田 義松書簡二十五通になる。あわせて東京美術学校に五姓田義松作品が大量に収蔵さ れたという経緯について、従来考察が深まらなかったその謎を解明する重要な鍵と なるのが本書簡群であ る
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。各書簡の翻刻と解題は、別にまとめたのでそちらを参照 されたい。ここでその概要をまとめておくと、黒田清輝宛五姓田義松書簡群は、書
黒田清輝宛五姓田義松書簡を読む 三三 簡十八通、葉書七通の計二十五通からなる。発給年の内訳を記せば、明治四十一年 (一九〇八) が七通、 同四十二年 (一九〇九) が五通、 同四十三年 (一九一〇) が九通、 同四十四年 (一九一一) が一通、 大正三年 (一九一四) 一通、 そして不詳一通となる。 発給年不明の書簡は内容から推測して四十二年と考えられることから、四十一年か らの三ヵ年の間に本書簡群は集中し現存していることになる。明治十七年からわず か数年間のパリ時代にすれ違っていた両者が、それから二十年以上もの月日が流れ て、頻繁に書簡を交わそうとは思っていなかっただろう。しかも、その内容はパリ 時代の若き黒田がさほど評価しなかった義松の旧作を購入しようというものだった ことを考えると、誰しもが不思議に思うことだろう。 で は、 こ の 明 治 四 十 年 代 の 親 し い や り と り を 導 い た 具 体 的 な 接 点 は い つ な の か。 そ れ は、 明 治 三 十 六 年 ( 一 九 〇 三 ) に 開 催 さ れ た 白 馬 会 第 八 回 展 に お け る 両 者 の 邂 逅 に 求 め ら れ る か も し れ な い。 九 月 二 十 五 日、 「 同 處 〔 稿 者 註: 白 馬 会 会 場 〕 ニ テ 久 シ振ニ五姓田義松君ニ遇フ」と『黒田清輝日記』には記されるが、この久しぶりと いう表現がどれほどの時間的隔絶を示すのかは判然としない
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。明治四十一年九月二 十七日付書簡 (
の 談 話 記 事「 山 本 芳 翠 氏 の 逸 話 ( 中 ) 」 で あ る
()三十六年の邂逅後に黒田の記述の中に義松が登場するのは、 同三十九年 (一九〇六) 明治三十六年以前にも白馬会を訪れていた可能性も完全には否定しきれない。明治 No. 二十一〇一八) では白馬会展への出品をにおわせていることから、
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。 同 年 に 没 し た 芳 翠 に 関 す る 回 顧 談 を ま と め た 同 記 事 で、 フ ラ ン ス 時 代 の 交 友 を 語 る 中 で 義 松 が 登 場 し、 「 今 で は 横 浜 に引込んで居る」とある。確かに、この頃義松は横浜に住まい、ひそやかに活動し ていた。しかし、公の活動はほとんどなかったといってよく、画壇のいずれかとや りとりをしていたという記録もない。明治三十六年の白馬会展覧会場での邂逅から 三年後の記事であるから、この間にやりとりがあったのか判然としないものの、黒 田 が 何 ら か の 経 緯 か ら 義 松 の 動 向 を 耳 に し て い た 可 能 性 が こ の 記 述 か ら 浮 き 上 が る。 そ し て、 い よ い よ 翌 明 治 四 十 年 ( 一 九 〇 七 ) の 第 一 回 文 部 省 美 術 展 覧 会 あ た り で両者が本格的に交わることになったと想像されるが、この接点の考察は次節にお こなう。その交流を経て、明治四十一年九月、義松自身の所蔵作品だった初代五姓 田 芳 柳《 西 南 役 大 阪 臨 時 病 院 負 傷 兵 施 術 光 景 》 ( 挿 図
( ) の 東 京 美 術 学 校 売 却 へ つ
挿図 ( 初代五姓田芳柳《西南役大阪臨時病院負傷兵施術光景》 明治 (( 年 東京藝術大学
美 術 研 究 四 二 一 号 三四 ながったと推定される。ちなみに、同作の売却に関する具体的な資料等は存在しな いものの、本稿で言及する関係性を考えれば、黒田が口利き役を担ったと考えるの が自然である
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。
さて、本書簡群は、二人の交流を示すと同時に、晩年期の義松の活動を具体化す る意味も持つ。従来指摘されてきた前半期の輝かしい軌跡と対比される「暗黒」の 後半生という理解が果たして正しいのか、そのことを具体的な資料から検討するこ とが本書簡群からは可能となる。従来知られていた義松の晩年期とは、制作活動は ほぼ停滞し、酒毒にまみれた程度の理解だった。奇矯に走るほどではなかったにせ よ、酒乱であるかのような指摘もあった。その発言が重く響き、アルコール中毒患 者のような、悲惨な晩年を思い描いている人は現在でも多い。しかし、いずれも後 年の回想記等を根拠としており、今一度、実資料からその実像を立ち上げることが 求 め ら れ る。 稿 者 が 編 ん だ『 五 姓 田 義 松 史 料 集 』、 同 じ く 企 画 し た 特 別 展「 没 後 一 〇〇年 五姓田義松最後の天才」もまた、同様の意図による検証/顕彰をねら いとした。その中で手薄だった晩年期の考察を補完する位置に本稿がある。
考察を始めるにあたり、 書簡群を総覧し稿者の気が付いたことを記しておきたい。 まず、全体を通じて印象的だったのは、さほど字の乱れがない点である。稿者の管 見の限り、字そのものだけにこだわれば、パリ時代の書簡や日記などの方がより乱 れが激しい。むしろ本書簡群に認められる字は、誤記は多く、決して流麗ではない けれども、酒毒に侵されるとか、精神疾患を抱えたかのような印象は受けない。太 くしっかりとした筆の運びには、貧しいながらも市井に確かに暮らしたひとりの人 間を感じることができる。
加えて、内容面を通読した時の第一印象として目を見張ったのは、その交渉力で ある。 旧作販売が義松の生活に大きな割合を占めていたことは次節にて詳述するが、 その喫緊の課題を解決しようとするがために、言葉を重ね、頻繁に書簡を送り、購 入してくれるよう黒田に迫る。そのような重厚なやりとりは、ややもすれば偏執的 な 性 格 を 想 起 す る か も し れ な い。 げ ん に 明 治 四 十 三 年 は 黒 田 に お そ ら く 避 け ら れ、 旧作販売が叶わなかったわけだから、そのような側面を否定するものではない。し かし一方で、交渉を重ねるといった計画性と社会性を義松が身に着け、実践してい たことを確認する意味は大きい。時に文中にフランス語を挿入させ、黒田にパリ時 代という共通点を見出すよう演出するなど巧みな点も認められる。先にも挙げた従 来の義松像には、職人気質という言葉にしばしば付随する気難しさ、人付き合いが 苦手という印象がつきまとっていたように思える。それが不遇の後半生の一因だろ うと強く考えられていた。その性向を全否定する意図もないが、 より注目すべきは、 義松が交渉力を発揮し、後述する成果を自身で導き出した点である。この計画性や 社会性は父である初代五姓田芳柳らの活動などから学び取ったと推測され、その青 年期からの人物像も再検証するよう本書簡群の考察は促すものである。 以上概観したように、否定的な印象が強いため、本書簡群は公開が消極的だった とも聞く。しかし、本稿で明らかにするとおり、卑屈であっても決してその感情に とどまらず、自身の作品を後世に残すというより高次の目的を義松は達成したと評 価することができる。さらに、義松の晩年期や滞仏期の一端に関わる情報などが多 く本書簡群に含まれており、その存在意義は大きい。単なる借金生活の打開とだけ 本書簡群の意味を読み取ろうとするのは、それこそ危い。そこで次節では、その悲 哀の向こう側に読み取れる義松の希望に焦点をあて論じていこう。 五姓田義松の希望 義松後半生の意味
義松が黒田を頼り、旧作を販売することになった理由は、端的に言えば、義松の 新作の売り上げが芳しくなかったことにある。本書簡が交わされた明治末頃の義松 の 支 出 額 は 不 明 な が ら、 彼 の 収 入 額 は 作 品 販 売 記 録『 潤 筆 料 受 領 』 か ら 判 明 す る
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。 旧作を販売する前年から没するまでをまとめれば、以下のとおりである。なお、総 額に連なる( )内は、東京美術学校への旧作販売による収入額を示す。
明治四十年 二〇六円 (〇円)
明治四十一年 七八九円 (三〇〇円)
明治四十二年 六一〇円 (二四四円)
明治四十三年 五五五円 (〇円)
明治四十四年 六〇六円五〇銭 (〇円)
大正元年 六一五円五〇銭 (〇円)
黒田清輝宛五姓田義松書簡を読む 三五 大正二年 六二八円 (一一七円)
大正三年 三二六円 (四五円)
大正四年 一三四円 (〇円)
以上まとめてみると、確かに旧作販売の割合は高い。また、一点あたりの価格も 高 く、 そ の 売 却 益 に 依 存 し て い る こ と も 明 ら か で あ る。 『 潤 筆 料 受 領 』 に 記 載 さ れ る表記では読み取れないが、東京美術学校以外にも旧作を販売した可能性も残され ており、その割合はさらに高まることも考えられる。一方で見落としてはならない のは、新作の販売も継続していた事実であり、自暴自棄になって何もかも諦め活動 を完全停止したわけではなかった点である
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。
この旧作販売へ踏み出すことになったターニングポイントは、販売を開始する前 年の明治四十年に求めることができるだろう。十年以上振るわなかった義松は、お そ ら く 再 起 を か け て、 第 一 回 文 部 省 美 術 展 覧 会 へ 出 品 し、 出 品 作《 水 師 営 の 会 見 》 は入選を果たす。そして周知のとおり、同展の審査員に黒田が名を連ねている。こ の時点に注目する理由は、二点ある。ひとつは、明治四十一年九月から旧作販売が 始まったことから逆算して、 二人がこの時に出会い交流が再開したと考えられる点。 あくまで推測の域を出ないとはいえ、搬入搬出、また展覧会会場に出品者や審査員 が参集し、顔をあわせる機会が多かったことは、他の画家たちの事例から考えても 明らかで、以上の蓋然性は高い。
そして、もうひとつは、同作が高額で売却された事実、あるいは注文が増えるよ うな事実が『潤筆料受領』には見て取れない点である。明治四十一年十一月二十五 日 付 書 簡 (
るのが素直だろう。 至急求められたにちがいなく、そこで見出された打開策が旧作の販売だったと考え る。そして明治四十一年、文展出品に絡み格段に低まった収入を上向かせることが 三十九年は三三八円、四十一年は五〇五円であることから、明らかに低調だとわか から九月までの収益高は一四〇円であり、 前年度また翌年度の同時期と比較すると、 れ る。 以 上 の 推 測 を 論 証 す る よ う に、 『 潤 筆 料 受 領 』 に 記 さ れ る 明 治 四 十 年 の 一 月 されるとおり、義松は文展対策として他の仕事を退け、制作に打ち込んだと推測さ No. 二 十 一 〇 三 六 ) に 記 さ れ た《 操 芝 居 》 制 作 に 関 す る 内 容 か ら も 類 推 画家の本分と素直に考えれば不遇と評するのが適当だろう
(()きと比較すれば明らかに見劣りがするし、作品を新たに描き販売するという営みを 収めた作品などに優品がいくつもあると指摘したことはあるが、しかし前半生の輝 させたに違いない。義松の後半生すなわち明治二十二年の帰国以後にも、宮内省に まれたという事実は、一時代を築いた画家にとって表現のしようがない辛さを覚え パリで研鑽を積んだ技術や理念がおよそ通じず、主に滞欧期とそれ以前の作品が好 旧作販売の詳細とあわせて本節で考えてみたいのは、 義松の後半生の意味である。
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。しかし、そればかりを 画家の生涯と考え、軽々に評価するのも狭量だろう。それこそ黒田清輝が美術教育 や美術行政の側面で評価されているように、多面的に活動を理解し評価する余地が あってもよい。つまり稿者が主張したいのは、旧作販売にかける行動とその成果を 肯定的に評価することにより、義松の後半生は肯定的な解釈が可能になるというこ とである。義松が自らの恥を忍んでも、作品を残そうとした意志、以上の行動と成 果を支えた原動力について、本節では具体的に考察していきたい。
先の各年度の販売総額の推移を背景として、本稿末の関連年表を見ても明らかな とおり、明治四十一年に《操芝居》を売却したのを皮切りに、中断はあるものの大 正三年まで旧作売却は継続することがわかる。書簡を取り交わし、複数年にわたり 活動を継続した義松の熱意は、 時に作品に認められる飽きっぽさとは対照的である。 現存する書簡群は明治四十三年までに集中し、以後はまばらとなるが、しかし義松 の旧作売却活動は没する前年まで継続されていると考えてよい。その熱意は転じて しつこさともなり、明治四十三年に発給された書簡のいくつかにはその傾向があら われている。すると、黒田は度重なる義松の要求に応えず、逃げ回った様子が推定 される。それ以前にも義松作品をまとめて購入しており、それ以上参考品に加える ことを黒田は望まず、義松を忌避したと容易に想像される。そしてその年から三ヵ 年、 『潤筆料受領』を読む限り、購入の記録はない
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し か し、 そ の 後 も 購 入 を 進 め て い る 事 実 は、 関 連 年 表 に ま と め た と お り で あ る。 では、何故、その後も購入を進めることになったのか。ここで要点となるのは購入 された作品の性格であり、義松渡仏以前の作品購入に関心が向いていることがわか る。 以上の変化は黒田の意向が重要なことから次節でまとめて検証することとして、
美 術 研 究 四 二 一 号 三六
本節では義松に焦点をあわせ引き続き議論を展開したい。そしていま考察を進める 要点は、義松が黒田の意図をどれほどに理解していたのか、ということである。結 論からいえば、単に借金返済のために手っ取り早く作品を現金化することだけを目 的としたのではなく、むしろ義松は自ら進んで学生の参考に資するために作品が供 されることを願ったと考えられる。 その理由として二つの経験を指摘しておきたい。
ひとつに、義松もまた弟子たちに教授した経験が明治初頭の日本であり、同時に パリの私塾で学んだ経験が挙げられる。双方の体験を通じて、教育現場で参考品と して供される作品の重要性を理解していたと考えられる。ふたつめに、パリで学校 や美術館を巡った経験が挙げられる。義松の日記や家計簿を読む限り、渡仏した明 治 十 三 年 ( 一 八 八 〇 ) の 秋 か ら お よ そ 一 年 間 は 市 内 見 物 に 費 や し、 山 本 芳 翠 に 案 内 さ れ、 ナ シ ョ ナ ル・ デ・ ボ ザ ー ル を 訪 問 し た 記 述 か ら は 義 松 の 興 奮 が 伝 わ っ て く る
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。二人は興味深く各部屋をまわる中で、まさに参考品に出会う機会があっただろ う。そして、彼がパリやロンドンで学習した現場は、まさに作品の保存と公開を両 立した美術館だった事実を忘れてはなるまい。そこで数々のオールドマスターを模 写することで生計をたてた義松が、本人の主張に相当する明確な文書こそ存在しな いからといって、作品を残すことの意義や意味に無関心だったと考える方が不自然 である。むしろ、国家や社会の中に自身の作品をどう残し伝えるのが適当かという 課題に、同時代の日本人画家と比較して明らかに意識的だったと考えることのでき る要素が、その生涯に満ちている
義松のこの記憶がそのまま晩年期の作品売却に働きかけたと安易に結びつけるの は危険だが、必ずやその時の印象は深く義松に刻まれていたことは彼の日記にある 興奮からも明らかである。そして黒田が説明したにちがいない、国立の美術学校す なわち東京美術学校で参考品としての作品活用は、その記憶を呼び覚まし、喜びを 義松に与えたのではないか。だからこそ本書簡群にあるように、真摯に丁寧に継続 的に黒田とも向き合えたと想像する。借金問題のような消極的な意味合いだけであ れば、 複数年にわたって作品を収める希望はどこかで挫けてしまったと想像される。 輝かしい実績や技術があってもほとんど新作を売ることが叶わない老大家に残され た唯一の希望は、旧作を販売することで最低限の生活を維持することと同時に、自 らの誇りとすべき作品をまとめて残し伝えることだったのではないか。そのような 情熱を傾け、おおよそのねらいが達成されたことを考えれば、義松の後半生をいた ずらに否定的に語るのは不当なようにも思える。そこで、義松が働きかけ実を結ん だ東京美術学校所蔵五姓田義松作品群が果たした役割に言及していきたい。 義松の評価ひいては五姓田派の評価の歴史は、その時の論者がどの作品を見、ど の史料を読んだかに大きく左右されてき た
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。義松作品の評価という点でいえば、昭 和 六 十 一 年 ( 一 九 八 六 ) に 神 奈 川 県 立 博 物 館 ( 現・ 神 奈 川 県 立 歴 史 博 物 館 ) で 開 催 さ れた特別展「明治の宮廷画家 五姓田義松」が重要である。それまで散発的に言及 されてきた史料類が集成され、作品も数多く集められ、義松という画家の全体像を はじめてみることができた機会だった。およそその当時網羅できる作品を集めるこ と を 目 的 と し た 同 展 は、 東 京 美 術 学 校 ( 現・ 東 京 藝 術 大 学 ) の コ レ ク シ ョ ン に 加 え、 当時は幻とされた宮内庁所蔵品やヤンマーコレクションが出品されたことにより実 現 し た と い え る。 そ れ か ら 約 三 十 年 を 経 て 平 成 二 十 七 年 ( 二 〇 一 五 ) に 開 催 さ れ た 特別展「没後一〇〇年 五姓田義松 最後の天才 」は、没後一〇〇年を記念した 展覧会だったこともあり、これまで紹介されなかった作品や資料を可能な限り紹介 し、 五姓田義松という画家の全貌と力量を余すことなく伝えることがねらいだった。 そこで注目されたのが、神奈川県立歴史博物館が所蔵する大量の鉛筆画や水彩画だ っ た
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。義松が残した作品販売記録『潤筆料受領』を読む限り、彼が描いた作品のお よそすべての種類、そして主だったところは没後一〇〇年展で総覧できたと考えら れ、ようやくその実像や真価が認められる機会となった。
以上の展覧会からも明らかなとおり、義松作品の所蔵数からいって、以下の三機 関が主だったところといえる。すなわち、東京美術学校コレクションを継承する東 京藝術大学、宮内省由来の作品を継承する宮内庁、そして没後遺族が手放した作品 群をおよそまとめて購入した神奈川県立歴史博物館である。 その所蔵機関の特徴を、 義松の活動期間の区分と照らし合わせて考えてみると興味深い。義松の画業は明治 初頭から同十三年の渡仏まで、同十三年から帰国する同二十二年まで、そして帰国 後から大正四年に没するまでのおよそ三期に分類される。以上をまとめると、次の ようになる。
黒田清輝宛五姓田義松書簡を読む 三七 東京藝術大学 宮内庁 神奈川県歴博 渡仏前 ○ ○ ○ 滞欧期 ○ × △ 帰国後 × ○ ○ 〔凡例:○は所蔵していること、×は所蔵していないことを示す〕
右表において重要なのは、それぞれに義松の全体像を考えるには欠けている要素 があるということである。質の高い作品を納めた宮内庁には、一定数は所蔵されて いるものの、小品が伝わるわけではなく、滞欧期の作例も所蔵されていない。神奈 川県立歴史博物館は義松没後、さらには息子義彦没後の収集でもあるため、注文や 公開を主とした制作が少なく、従って油彩画が少ない。同機関の滞欧期に付された 記号△はそのことを示している。そして、本稿で言及する東京美術学校由来のコレ クションを継承する東京藝術大学は、義松生前に黒田との関係で納入したものが大 半であり、次節で言及する二つの傾向、すなわちフランスの作風を直接伝える滞欧 期と明治洋画史を語る作品に限定される。
以 上、 い ず れ も 義 松 を 理 解 す る に は 不 十 分 で あ る と 容 易 に 理 解 さ れ よ う。 ま た、 戦前から始まる義松理解とその評価は、以上の総合的理解の土台の上に築かれたわ けではなかったことも理解されよう。そして、戦前そして昭和六十一年展に至るま で重視され、今日でもその評価の核となっているのは滞欧期の作品である点には注 意が必要である。いわゆる移植文化史観に基づく日本洋画史観が席巻していた戦前 からの記述では、如何に西洋の絵画技術、思想や最先端の流行を、いち早く、正確 に、日本にもたらすかが要点だった。だからこそ、義松の滞欧期作品を数多く所蔵 し、まとまって積極的に公開に努めていた東京美術学校作品の果たした役割は、そ の功罪はあるにせよ、極めて大きかったといえる。このコレクション形成行為があ り、戦前から行われていた東京美術学校所蔵品を中心とした義松作品の展示公開が あったからこそ、幻ながらも五姓田義松という画家の存在が失われずに済んだとい う見方が成立する。そして、 それが単に黒田清輝と東京美術学校側の意図ではなく、 義松自身が関与したコレクション形成行為だった事実に改めて思いを寄せないわけ にはいかない。自らの作品を残し伝えることに努めたと理解することで、義松の後 半生はわずかながら輝きをとりもどし、かつその人間性を肯定的にとらえることが できると期待される。 黒田清輝の企図 フランス式教育から明治洋画史形成へ
第 一 節 で も 指 摘 し た と お り、 パ リ 留 学 時 代 の 黒 田 は 義 松 を 評 価 し て い な か っ た。 それにもかかわらず、後年、黒田が義松作品を東京美術学校に購入することを決め た理由は何か。本節で考察を深めるのは、その動機や背景である。黒田が企図した のは、東京美術学校の学生に参考品として示すため、さらに明治洋画史形成を目的 としたためだったと考えられる。この二点は絡みつつも、義松作品の収集について 限 定 的 に 見 れ ば、 前 者 か ら 後 者 へ と 収 集 方 針 の 重 点 が 推 移 し た こ と が 確 認 で き る。 本節では特に後者への重心移動を主に論じながら、東京美術学校が収集した義松作 品群の全容にも触れよう。
まず、 参考品について。東京美術学校で学生に供される参考品は、 帳簿上、 「標本」 等で採用されるというが、その発端や展開、概要については、既にまとめられてい るとおりであ る
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。同校開校以後、その収集方針の根幹は、学生の制作の参考とする ことだった。過去の名品や、教官や学生による制作ばかりでなく、関連する資料や 雑誌印刷物などもその対象であり、模写・模造による作例を積極的に収集した点も 重要であ る
)(((
。
本節の焦点となる黒田清輝が指導をおこなった西洋画学科が設置されたのは明治 二十九年。その指導内容は、臨写など近世以前からの日本絵画の伝統をおよそ否定 し、 黒田が実体験したフランスの学習システム、 すなわち鉛筆ではなく木炭の使用、 石 膏 デ ッ サ ン よ り も 人 体 デ ッ サ ン の 重 視 な ど が 採 用 さ れ た こ と が 指 摘 さ れ て い る
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。 模写という学習行為を否定する一方、パリの国立美術学校で実施されていたローマ 賞コンクールにならい、卒業生の留学制度を整え、留学生による模写作品を同校へ もたらす考えを早い時期に示してもい る
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。学習の一環としての模写を否定した黒田 だが、実物作品が乏しい状況が指導に大きな支障をきたすことも就任当初から意識 していただろう。 というのも、 就任した明治二十九年の第一回白馬会展に、 黒田は 《昔
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語り》の素描や下絵を計三二点出品しており、既に幾度も指摘されるとおり、それ は学生への教育効果を求めたことがひとつにある。西欧への留学が容易ではなかっ た時代、今日のように西欧から名品ばかりでなく実物がそもそも将来されることが ほとんどなかった時代、日本人による確かな技術の作品は貴重な教材だった。国外 ばかりでなく国内の参考品も集め展示し学生に資するようにという提言は、心の底 から必要だと認めたからにちがいない
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。ここに黒田が義松の作品を求めた最大の理 由がある。
現 在、 東 京 藝 術 大 学 に 収 め ら れ て い る 義 松 作 品 を 本 稿 末 に 目 録 と し て ま と め た。 そ の 購 入 順 序 を 見 る と、 黒 田 の 収 集 方 針 が 変 容 す る 様 が 明 確 に わ か る。 義 松 作 品 と し て 購 入 し た 第 一 号 は、 明 治 四 十 一 年 十 二 月 納 入 の《 操 芝 居 》 ( 挿 図
し て 指 摘 さ れ て き た
(()同作は黒田が実践し根付かせようとした「構想画」の参考作例として合致した作と ( ) で あ る。
(
。 フ ラ ン ス 絵 画 の 思 考 を 伝 え る に は ふ さ わ し い 作 品 と 理 解 し、 黒田も素早く購入を決めたのだろう。その後に続くのは、前節ほかでも論究したと お り、 《 操 芝 居 》 に 付 随 し て 黒 田 に 預 け 入 れ た 鉛 筆 画・ 水 彩 画 等 の 一 式 で あ る。 そ のため、必ずしもフランスの作風を展観することを目的としたものではなかったか もしれない。 そして、 次にまとまった納入となったのが、 明治四十二年十一月であり、
挿図 ( 五姓田義松《操芝居》 明治 (( 年 東京藝術大学
挿図 ( 五姓田義松《西洋婦人像》 明治 (( 年 東京藝
術大学
黒田清輝宛五姓田義松書簡を読む 三九 明 治 十 四 年 ( 一 八 八 一 ) す な わ ち 義 松 の パ リ 時 代 に 描 い た《 西 洋 婦 人 像 》 ( 挿 図
ボナのアトリエで描き高い評価を得たという《伊太利人半身像》 (挿図 白である。そして、 大正三年十一月の最後の納入品は、 義松がパリで学んだレオン ・ 美術学校におけるフランス由来の黒田式教育を補完する役割が期待されたことは明 究について発言していた黒田にとっては好都合の作例だったことは疑いなく、東京 ほか計二点である。しかも、うち一点は裸体画であり、この頃裸体画や人物像の研 ( )
( ) だった。
他方、明治四十二年からもうひとつの特徴、明治洋画史形成のための収集という 性格が色濃くなる。明治三十年代後半からその形成にむけた収集がはじまったとの 指摘もあるが、義松作品の収集に限れば、参考品から明治洋画史形成のための収集 へと重心が推移する様を観察することができる
)(((
。具体的に見ていくと、明治四十二 年十一月、 《西洋婦人像》 と同時に、 明治四年 (一八七一) の制作と伝わる 《婦人像》 (挿
図
作 品 を、 黒 田 が 意 識 的 に 選 択 し た こ と が わ か る。 明 治 四 十 三 年 三 月 一 日 付 書 簡 ( ( ) が 収 蔵 さ れ る。 こ の 時 点 か ら、 義 松 が 渡 仏 す る 明 治 十 三 年 以 前 の 明 治 初 頭 の
No.
二 十 八 〇 二 八 ) で は、 義 松 は 明 治 三、 四 年 頃 の「 写 生 油 画 」 他 を 発 見 し、 黒 田 に 見せたいと申し込んでいる。義松自身もパリ時代ではなく古い時代を示したいとい うのは、これ以前に両者の会話等の中で、より古いものを見たいという黒田側の欲 求が義松に示されたためと推測される。あるいは後述する明治四十二年発表の黒田 の談話記事の中に、義松はかすかな可能性を見出したのではないか。そうでなけれ ば、義松が独断で売却方針を変更する必然性は薄く、引き続き滞欧作を売り込んで いただろう。これほど明確に明治初頭の作品を売り込もうとしたのには、黒田側の 何らかの示唆があったと考える方が自然だろう。 ただここで注意が必要なのは、すぐに黒田が明治洋画史形成にかかる義松作品の 購入に動いたわけではない点である。明治四十二年十一月の購入以後途絶え、次は 大正二年(一九一八)七月を待たなければならない。明治四十三年は義松があまり にしつこく黒田に迫り、また翌年に東京美術学校が火災に罹災するなどの混乱もあ ってだろう、購入にしばし空白期間がある。その間に交わされた書簡もわずかしか 現 存 せ ず、 そ の 中 で 貴 重 な の が 同 四 十 四 年 三 月 二 十 六 日 付 書 簡 (
で あ る。 そ の 話 題 の 中 心 は 明 治 十 年 ( 一 八 七 七 ) に 制 作 し た《 自 画 像 》 ( 挿 図 No. 二 十 九 〇 五 八 )
その売り込みはすぐには実を結ばず、同作が購入されるのは大正二年十一月のこと あり、義松の意識が引き続き明治初期洋画の売り込みにあると理解される。しかし ( ) で 挿図 ( 五姓田義松《伊太利人半身像》 明治 (( 年 東
京藝術大学
挿図 ( 五姓田義松《婦人像》 明治 ( 年 東京藝術大学
美 術 研 究 四 二 一 号 四〇 であった。その購入に先立つ同年六月十九日に、義松は目録を提出するため、黒田 のもとを訪れている
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。そしてその目録にある渡仏前の制作である 《横浜亀ノ橋通》 《婦 人像》が、同年七月に納入されたことが各資料から判明する。ちなみに、東京美術 学 校 側 の 資 料 に よ れ ば、 こ の 月 二 十 五 日 付 で、 《 三 州 豊 橋 》 ( 挿 図
ねている
(()れたものと推測される。そして、その後、八月四日、鎌倉滞在中の黒田を義松が訪 の交渉の中で、黒田に御礼として差し出した作品がそのまま東京美術学校に寄贈さ 贈されている。 同作を義松が黒田に売却したという記録もないことから、 義松が諸々 ( ) が 黒 田 か ら 寄
(
。おそらくは直近の購入に対する御礼と、継続して《自画像》ほかの購入 を依頼したものと想像される。そして、ようやく十一月に《自画像》ほかが購入さ れている。
さて、この購入再開が果たされる大正二年の前年にも注目すべき動向がある。そ れは義松の妹渡辺幽香による義松作品の売却である。大正元年六月十六日、幽香は 石版画業中村某氏と黒田を訪れ、同十八日に黒田は幽香から油彩画を受け取ってい る
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。そして同月二十五日東京美術学校が幽香から買い上げたことが同校資料から判 明 す る が、 意 外 に も こ の 時 売 却 さ れ た 作 品 は す べ て 義 松 制 作 の《 自 画 像 ( 十 三 歳 ) 》
( 挿 図
(0 ) ほ か 計 三 点 だ っ た (()
(
。 い ず れ も 明 治 初 頭 の 制 作 と 伝 え ら れ て き た こ と か ら、 黒田は買い上げを決定したと推測される。そしてこの買い上げが、後の義松所蔵品 を再び納入し始める呼び水となったのだろう。そしてこの年末に、本稿冒頭で言及 した肖像写真の集いがあり、以後の納入につながっていく。この幽香所蔵作品の購 入を含めてまとめると、 明治四十二年十一月の購入を最後に二年以上途絶えたのち、 大正元年六月から大正三年十一月のおよそ二年の間に計四回の購入が果たされたこ とになる。比較すれば、集中的に購入をおこなった事実が浮かびあがり、その背景 には黒田による明治洋画史形成の意識があったことは明白だろう。
挿図 ( 五姓田義松《自画像》 明治 (0 年 東京藝術大学
挿図 ( 五姓田義松《三州豊橋》 明治 (( 年 東京藝術大学
黒田清輝宛五姓田義松書簡を読む 四一 以上、黒田による明治洋画史形成の意識に触れてきたが、今一度、その意識を丁 寧に考察したい。なぜなら、黒田の歴史観や形成への意識が曖昧だからである。黒 田自身が明治洋画史を語ることは少ない。管見の限り、 早い時期で確認されるのは、 明 治 三 十 年 ( 一 八 九 七 ) の 黒 田 清 輝 と 博 文 館 主 人 大 橋 乙 羽 に よ る 対 談 で あ る
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。 黒 田 が語る日本の洋画史の中で名が挙がるのは、司馬江漢程度である。また明治初期の 洋 画 を 含 め、 「 西 洋 の 画 の 模 写 」 と 語 る よ う に 実 に 浅 い 歴 史 認 識 で あ り、 本 格 的 な 理解にまで至っていない。その後はほとんど語ることもなく、明治四十年を過ぎた 頃からやや積極的に語り出す。そして明治四十二年の談話記事 「明治五年頃の洋画」 は比較的まとまった内容となる
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。しかし、 明治四十一年に本多錦吉郎が刊行した 『追 弔記念 洋風美術家小伝』の記述の枠内に過ぎない。その後、大正元年の談話記事 「 安 藤 仲 太 郎 氏 逝 く 洋 画 界 の 先 駆 者 」 は、 安 藤 の 訃 報 を 受 け た そ の 回 顧 談 に あ た る記事の中で明治初期洋画に触れている
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。記事中、高橋由一やワーグマンについて 触れるものの、実作品の解説等が語られるわけではない。続いて、義松没後の記事 ながら黒田の明治洋画史の理解の一端が知れるのは、談話記事「文展の傾向に就い て」である
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。文展鑑査について述べる一文の冒頭で触れる洋画史は、彼が語る中で は最も詳細である。そのうち明治洋画史の理解は、今日的な理解で言えば第一に工 部美術学校に属した画家たちを中心とした明治初頭から十年代に活躍した一派、第 二に第一に分類されたところから漏れた由一などの画家たち、そして第三に彼らの 次世代に位置する明治二十年代に帰国する黒田らに分けられている。義松ら五姓田 派 は、 第 二 の 分 類、 「 素 人 外 人 」 す な わ ち ワ ー グ マ ン に 指 導 さ れ た 者 た ち に 属 す る と容易に察せられる。関連して、明治初頭の様子を語る黒田の文として知られるの は 大 正 九 年 の 記 事、 「 日 本 に 来 遊 し た 外 国 の 画 家 」 で あ る
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。 し か し、 そ の 中 で 触 れ るワーグマンについても素っ気ない記述に終わる。以上、総覧して黒田による明治 洋画史理解と発信については、二つの特徴がわかる。第一に、黒田は積極的に発信 せず、かつ明治初期洋画には等しく冷淡なこと。第二に、その発信が本格化するの は明治四十年代のこと、である。
黒 田 の 記 述 が 冷 淡 に な る の は 必 然 で、 彼 自 身 が 明 治 初 期 の 日 本 で 洋 画 を 学 ば ず、 そ の 歴 史 を 語 る 材 料 を 持 た な か っ た た め で あ る。 明 治 四 十 年 代 に 語 り 始 め た の は、 その材料が揃い始めるのがその頃であり、かつ黒田が明治洋画史を意識するきっか けがあったからと推測される。そのきっかけとは、黒田にとって洋画の導き手山本 芳 翠 の 死 だ っ た と 推 定 さ れ る。 先 に も 言 及 し た「 山 本 芳 翠 氏 の 逸 話 ( 中 ) 」 の 中 で、 黒田は「明治絵画史を作る場合には多くの頁を君に割く価値がある」と語る。ここ に 明 確 に「 明 治 絵 画 史 」、 お そ ら く は 洋 画 史 に 限 定 さ れ る だ ろ う が、 そ の ス パ ン と そこで重視される三つの要件が示される。第一に先駆者であること、第二に海外留 学していること、第三に継続的に活動続けていることである。とかく黒田の意見が 珍しいということではなかろうし、実のところ、今日の画家評価も基礎的にはこれ に準じていると考えられる。そして、その理解に従うと、意外と多くの画家たちが 欠落する。たとえば義松をこの要件に照らし合わすと、第一、第二の要件を満たす ものの、第三の要件は合致しない。歴史に理知的に向きあってはいても、具体性を 欠き、黒田に限界があることを証する記述である。
語り部としての役割を満足に果たせない黒田だったが、他方、彼は東京美術学校 を舞台に、作品を集め展示するという行為で明治洋画史の構築に積極的に働いたと
挿図 (0 五姓田義厚《自画像(十三歳)》 明治元年 東京藝術大
学
美 術 研 究 四 二 一 号 四二
評価することができる。あるいは、黒田は自身が語れないという現実を理解したか らこそ、実作品を収集し、展示公開することに重心を傾けたのではないかと想像す る。げんにその収集行為を主導できるのは明治末から大正初頭にかけて、黒田以外 に存在しなかった。そして、彼が形成した東京美術学校西洋画コレクションは、今 日 の 近 代 日 本 洋 画 史 の 基 礎 の ひ と つ と な る 昭 和 二 年 ( 一 九 二 七 ) 開 催 の「 明 治 大 正 名作展覧会」 、 同四年 (一九二九) 開催の「洋風美術回顧展」の主要出品作となって いく。よって、その功罪はあるにせよ、言説ではなく実作品で明治洋画史構築に貢 献した黒田の功績は決して過小評価すべきではない。
最後に蛇足ながら、東京美術学校に収められた義松作品の総体を記しておく。本 稿末の目録にまとめた通り、その納入先は義松、幽香、そして義松の息子である義 彦の三者に限られる。 義彦は義松が没した後に東京美術学校に作品を納めているが、 それは黒田在世中ではなかった。義松が没したのは、大正四年九月四日。同月十日 の法要並びに埋葬には黒田も臨席し、弔慰金を遺族に取り計らったのが同月二十三 日、そして二十六日に義彦が黒田に作品売却の相談に訪ねたとい う
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。しかし残念な こ と に、 黒 田 が 仲 介 し て 東 京 美 術 学 校 が 義 彦 か ら 作 品 を 購 入 す る こ と は な か っ た。 義 彦 は い く ら か の 作 品 を 黒 田 の も と に 預 け た と 推 定 さ れ、 大 正 五 年 ( 一 九 一 六 ) 三 月九日に、黒田は水彩画沿革展覧会に出品するため、真野紀太郎に「五姓田義松君 ノ 作 品 五 点 貼 交 モ ノ 一 枚 」 を 貸 し 出 し て い る
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。 同 作 品 の 詳 細 や 現 存 は 不 明 な が ら、 翌 大 正 六 年 ( 一 九 一 七 ) 七 月 十 五 日 に 黒 田 が 義 彦 に「 預 リ 物 」 を 返 却 す る と あ る こ と か ら、 先 の 仮 説 は 妥 当 な と こ ろ と 考 え ら れ る
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。 そ し て 黒 田 没 後 の 昭 和 七 年 ( 一 九
三 二 ) 、 義 彦 は 計 十 一 件 の 作 品 を 東 京 美 術 学 校 へ 売 却 し て い る
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。 こ の 購 入 が 実 現 し た要因などは定かではないが、その背景に昭和初頭の近代日本美術史創設への高ま り が あ る こ と は 疑 い な く、 特 に 手 薄 だ っ た 水 彩 画 が 補 充 さ れ た こ と は 重 要 だ ろ う
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。 この義彦の働きかけによって、東京美術学校における五姓田義松コレクションはさ らなる拡充を果たしたのである。
おわりに
本小稿では、黒田清輝宛五姓田義松書簡二十五通を読むことにより、義松の人物 像を具体化し、明治洋画史形成の営みの一端を明らかにした。今一度、冒頭で紹介 した写真に言及して結びとしたい。冒頭において、記念写真の中に義松がいるわけ と黒田と並び座っているわけの二つを謎として提起した。同書簡群が明示するとお り、明治四十一年以後、義松は東京美術学校に旧作を売却して収入を得ようとした がために、同校への仲介者でありかつ実質的な決定権をもつ黒田に接近し交渉し続 けていた。第二節で言及したとおり、義松は晩年期、新作の売れ行きが悪く、旧作 の価格が新作よりも高いという現状を受け、 その売却に奔走したことがうかがえる。 その密なるやり取りが本書簡群の語るところである。残念ながら、明治四十五年す なわち大正元年当時の書簡こそないものの、おそらく写真が写された大正元年頃も 少なからずやりとりがあったと想像される。その推測の蓋然性は、第三節で論じた 大正二年の購入再開という事象からも高まろう。 以上の考察から、義松は黒田を頼り、そして黒田が義松を支持したあらわれが冒 頭の写真だと結論付けることができよう。思い返せば、かの集まりは文展出品者に よる親睦会だった。記事題目には「洋画の一大団体成る」とあり、その裏にあった ねらいはフランスのソシエテ・ナショナル・ボザールのごときものをつくるための 集まりだと記事において、松岡壽の言葉を引用して説明されている。すなわち、本 会 は 国 民 美 術 協 会 の 発 足 に 向 け た 集 ま り だ っ た こ と は 既 に 指 摘 さ れ る と お り で あ る
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。超党派的な美術家組合を発足させ、望むところの諸策を社会に働きかけるため の組織化に向けた親睦が、同会開催の意味だった。義松がそのねらいに事前に気づ いて出席していたのかは不明ながら、大正初頭の洋画壇ではもはや忘れられていた と自認していたことは、以下のことから察せられる。
この記念写真には、 五姓田派の高弟だった平木政次 (一八五九 一九四三、 号柳静) が 写 っ て い る ( 三 列 目 左 か ら 三 人 目 ) 。 し か し、 義 松 と は 並 ん で い な い。 平 木 に と っ て義松は師であるのだが、その時の交友関係を優先したに違いない。平木の写る向 か っ て 左 側 に は、 小 山 正 太 郎 や 吉 田 博 が お り、 ま た そ の 前 に は、 森 鷗 外 や 松 岡 壽 が写る。すなわち、不同舎から明治美術会、そして太平洋美術会へ続く面々が平木 の周囲に位置している。平木は五姓田工房解体時、既に一人前の画家として、また 様々な仕事を引き受けながら活動していた。明治美術会に参加し、太平洋美術会が
黒田清輝宛五姓田義松書簡を読む 四三 結成されて以後は同会で活躍、太平洋画会研究所にて指導した経歴もある
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