ForschungsinsCitut)へ移った。東京には既に日独文化協会があったが、32年(昭和7)頃か ら、駐日ドイツ大使フォレッチュと元首相の清補圭吾伯爵の発起で京都にもドイツ文化研究所 を作ろうという動きがあり、34年11月3日に関所式を行った。この研究所も日独文化協会と同 じく日独両政府の支援を受けていた。初代の主事には、シーボルトや明治以前に来日したドイ ツ人の研究で知られたトラウツ博士が任命され、1938年その後任にエッカルトが就任した。こ の頃の彼は日本音楽研究、特に雅楽の研究で頭角を現しつつあった。
昭和16年3月、大阪毎日新聞紙上に昭憲皇太后御歌「金剛石」「水は器」が独逸文化研究所 理事だった竹内萬兵術によるドイツ語訳で発表苔れた。これは竹内の回想によると、京大教授 成瀬清(無極)とエッカルト博士の綿密な校訂を経てオット駐日ドイツ大使に提出、当時の三 国同盟ドイツ語雑誌『ベルリン。ローマ。東京」に掲載された。日独両語の差異から「水は器」
のにころの駒に、むちうちて…」の章句には非常な苦心を要したが成瀬、エッカルト両博士 の親切な指導によってリズムも整えることができ、楽譜にのせて奉唱されるまでになったとい
う。(竹内箸『わたしと薬とドイツ」、内外印刷出版株式会社、昭和53年)
エッカルトが主事を勤めた時代の独逸文化研究所は、昭和19年戦時中、創立10周年に際して 理事長上野精一の主催で京都「すみ屋」にて記念宴会を開催し、東郷茂徳外務大臣、パルザー 総領事、新村出、松本信一、成瀬清の三人の京大教授、木子七郎、西彦太郎、竹内蔦兵衛の各 理事、エッカルト主事、下郷良順監事、エーバスマイヤー副主事らが出席した。だが同研究所 はこの頃が活動の最後で、戦後は米軍に接収され、解散させられた。
エッカルトは1944年に帰国し、ドイツ各地の大学の臨時講師として、また64年からはベルリ ン自由大学の教授として日本学、日本音楽史を講じた。雅楽の歴史的研究に専念、多数の論文
がある。1969年(昭和44)2月26日ベルリンで亡くなった。
九州帝国大学医学部独文校閲係
へルタ・ミュラー
昭和戦前の九大医学部の教授・助教授・講師たちにとってヘルタ・ミュラー(Hertha Mijller)というドイツ女性は忘れられないであろう。当時はドイツ医学全盛で日本の医学者も 学術論文はドイツ語で書くことが多かった。またドイツ語で研究発表する場合もあった。そう した際にその独文の校閲をしたのがヘルタ。ミュラーであった。彼女はその仕事を昭和8年か ら16年まで務めたので、その間ドイツ語のことで何かと彼女の世話になった九大関係者は医学 部だけでなく他の学部にも多かったと想像される。当時九大には彼女以外にドイツ人は務めて いなかったからである。
さて現在、九州大学医学部事務に保存されている履歴書によると、彼女の経歴は以下の通り である。
原籍はベルリン市シェーネベルク区のハウプト街1番地。1897年(明治30)1月31日ベルリ ンに生まれたロベルリンの国民小学校を卒業後、同市の保母養成所に入り1915年に同所を卒業、
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1916年から1920年まで家庭教師を務めた。その後192,年には小学校教員の国家試験に合格し、
同年9月から22年3月までコブレンツ市幼稚園主任となった。翌年にはウィーン市立病院児童 保健部主任に転じたが、ここは半年で辞め、再びベルリンに戻り、当市の学童保健部主任を26 年9月まで務めた。27年4月には高等女学校卒業資格試験に合格すると同時に、ベルリン中等 教員養成所に入学し、1年後に同所を卒業している。29年4月から1年間ベルリン市精神異常 児保養部主任の地位にあった。その2年後には独逸国立大学入学資格試験に合格した。この間 30年5月から33年7月までベルリンの市立児童畳間保養所というところで主任を務めていた。
そしてその後間もなく来日した。履歴書には昭和8年(1933)10月31日付で「九州帝国大学医 学部附属医院精神科図書整理事務ヲ嘱託ス」とあり、月手当金50円を支給された。
来日の理由は、ヘルタ。ミュラーがユダヤ系ドイツ人であったところから、その頃ナチスが 台頭しヒトラーが首相に任命(1933)されたたぬ、そのユダヤ人迫害政策に耐えかねてのこと であった。当時ベルリンの彼女の家には九大医学部の先生力桐人か下宿していたとかで、その 九大の先生を頼って母親と一緒に来日したのであったc最初は附属医院精神病科の米山達雄講 師(のち助教授)のところで図書整理の仕事につき主に独逸図書の整理に当たった。精神病科 に務めたのは来日前の経歴を考慮した結果であろう。だが、次いで昭和9年4月からは医学部 の独文校閲を嘱託された(月手当50円支給)。これはそれまで医学部講師で独文校閲の仕事に 従事していたドイツ人アレキサンデル。スパン(この人は専門は農芸化学であるが、第一次大 戦で捕虜となり久留米俘虜収容所にいる時、日本語を習得し、後に漱石の「坊っちゃん」をは じめ種々の近代日本文学作品を独訳し、またiDasJungeJapan」という独文雑誌を独力で 編集発行した奇特な人である。)が昭和9年3月19日付で一身上の都合で依願退職したので、
その後任として彼女が起用言れた。
精神病科の前記米山達雄助教授とは親しかったようで、彼が昭和10年にドイツに留学した時、
ベルリンで彼女の叔父フロイデンハイムが彼を出迎え、市内を案内している(米山「滞欧日記」、
『九大医報」第1,巻第3号、昭和11年)
ところでヘルタ・ミュラーは来日後、間もなくして日本語を学び始めた。精神病科での仕事 のために一日も早く日本語を覚える必要がもった。この時彼女の日本語⑳教師となったのは当 時九大図書館に勤務していた千代正一郎である。千代は昭和9年九大狼文科卒であるが、卒業 しても直ぐにドイツ語教師の口が無く図書館で洋書の総目録の作成の仕事をしていた。彼女の 出した条件は月謝は出さないが、その'代わりにドイツ語会話を教えるというもので、つまり交 換教授であった。千代はそれから約4年間、週一回彼女の家に通った(千代正一郎「ドイツ語 教育五十年」)。
教材としては小学校の国語の教科書を用いた。まず彼女が読んで、その発音に誤りがあれば 千代が直す。次に日本文を独訳するのを、同様に彼が直す。分からない場合は説明する。もと もと独訳を前提としない純粋の日本文なので説明には苦労したようだ。次に今度は千代が同じ 文を独訳する番で、彼のドイツ文を彼女が訂正した。こうした交換教授を4年近く続けたので 彼女のドイツ語を聞き取るのが大分らくになった。たまに彼女が不在の時は母親が出て来為こ とがあったが、その早口のドイツ語を理解するのに苦労したようだ。千代は大学卒業後4年目 に広島陸軍幼年学校のドイツ語教師の採用試験を受けて合格したが、その時のドイツ語の書取
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が満点でドイツ人試験官を驚かせたという。これは九大図書館で洋書目録の作成の仕事を通じ て正しい独語の綴り方を養ったことと、ヘルタ・ミュラーとの交換教授に依るところが大きいと 語っている。
ところでヘルタは大平洋戦争の始まる10カ月前に九大医学部を解雇されている。履歴書には 昭和16年2月28日付で「願二依り独文校閲嘱託ヲ解久職務勉励二付為手当金百円給与」と記 されているだけである。彼女がユダヤ系であったことが或いは災いしたかも知れない。医学部 で独文校閲の仕事が不要になったことは考えられぬ。彼女の後任として「シャーロッテ・ソフイー
・サラ・シモニス」というドイツ女性が同年4月16日付で独文校閲嘱託として雇い入れられた からである(『九大医報j第15巻第6号、昭和16年)。この女性は戦後、九大医学部で独話会話 を教えた江崎シャルロッテ夫人である。
九大を辞めてからへルタはアメリカに渡ったというが、その後の消息は不明である。「九州大 学医学部五十年史』には彼女の名前は-回だけ登場するが、『九州大学七十五年史」や『写真 集・九州大学史(1911~1986)』には全く登場しない。それでも彼女と何らかの交渉のあった 人には忘られぬ思い出となっているに違いない。
レーヴェンフェルダー、ヘルプスト両先生
最後に、筆者の九大独文科生時代の恩師である二人のドイ ツ人女,性教師のことを書いて置きたい。40年近い昔のことで はあり、しかも二人とも九大在勤は短期間だったので、もう 覚えている人は少ないであろう。
ドクトル・ゲルトラウト・レーヴェンフェルダー先生(Dn GertraudL6wenfelder)は、バイエルン州北部ヴユルツブ ルク市の東南約15キロに位置するマインベルンハイムという 小さな町の出身で、生家は薬局。初め先生はマインツ大学で 学び、次いでミュンヒェン大学のポルヒェルト教授もとで演 劇学を専攻し、ドイツで「オペラの初めより国立劇場創設 (1651-1778年)に到るミュンヒェン宮廷劇場の舞台装置」の 研究で学位を受けた女`性である。来日前はミュンヒェン郊外 レーヴェンフェルダー先生 のグラーフィングにあるゲーテ・インスティチュートで外国 人にドイツ語を教えていた。この間スエーデンにも派遣され’年間講師として教えた。
1959年(昭和34)4月1日付で九州大学文学部の外国人教師として招聰された。ポルヒェル ト教授の推薦によるものだった。戦後の九大文学部における最初のドイツ人教師であり、それ まではドイツ人教師の講義と言えば、他大学から例えば、学習院大学のロベルト・シンチンゲ ル、南山大学のエルヴイン・ヤーン、東大のヴーテノウといった方々が集中講義で見えていた。
当時は現在のように教養のドイツ語の授業もドイツ人教師が当たるといった時代ではなかった。