再生産表式論 と第 Ⅰ 部門の不均等発展 の限界
花 田 功 一
は じめに
いわゆ る 「 生産 と消費 の矛盾」 (マルクスによって 「す べ て の現 実 の恐慌 の 究極 の原因」1 )と規定 された生産力の無制限的発展傾 向 と労働者階級 の制 限 さ れた消費 との間の矛盾) の解明が再生産表式論 の課題 であるか否か につ いては 現在論争 中の事柄であ るが,もし,「 生産 と消費 の矛盾 」 の解 明が再 生 産 表 式 論 の課題 であるとい う立場 に立っな らば,当然 ,生産 の消費 によ る究極 的 な制 約関係,したが ってまた,第 Ⅰ部門の不均等発展 の限界 を再生産 表式 論 の論理 レベルで解 明 しなければな らない 。 2) なぜな ら,生産 が消費 によ って究 極 的 に 制約 されているがゆえに,したが ってまた,第 Ⅰ部 門の不均等発 展 に は限界 が あ るがゆえに,消費 を制限 しなが ら生産 を拡大 してゆ くこと,したが ってまた, 第 Ⅰ部門が第 Ⅱ部門 に対 して不均等 に発展 してゆ くことが矛盾であると言 え る
のであって,もし,生産が消費 によって究極的 に制約 され るとい うことが な い な らば,したが って また,第 Ⅰ部門の不均等発展 には限界 が な いな らば,それ が矛盾であ るとは言 えな くな り,したが って,再生産表式論で は 「生 産 と消費 の矛盾」 につ いて語 ることはで きな くな るか らである 。 と ころが,「生 産 と消 費 の矛盾」 の解 明が再生産表式論 の課題 であるとい う立場 に立っ論者 にあ って も今 まで この生産 の消費 による究極的な制約関係 ‑第 Ⅰ部 門の不均等発展 の限 界 の解明 に決 して成功 して こなか ったのであ って,そ の ことが,「生 産 と消費 1 )K. マル クス 『 資本論』第 3 巻 『マル クス ・エ ンゲルス全集』第 2 5 巻 ,大月書店 ,61 9
貢。
2) 誤解を避けるために念のため述べておけば,もちろん,ここで言おうとしているこ とは,最 も基礎的な解明をしなければならないということであって,全面的な解明 が再生産表式論で可能であると考えているわけではない。
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の矛盾 」 の解 明が再生産表式論 の課題であ ることを否定す る論者 に対 して一つ の確信 を与 え る結果 にな っていると思 われ るのである 。
こうした問題状況 に鑑 み,本稿 では,「 生産 と消費 の矛盾 」 の解 明が再生 産 表式論 の課題 であるという立場 に立 って,生産の消費による究極的な制約関係 ‑ 第 Ⅰ部門の不均等発展 の限界 を再生産表式論 の論理 レベルで いかに把握 すべ き か とい う問題 に一つの解答 を与 え ることを試 み ることに したい。
この場合,検討 を欠かす ことがで きないのは,や は り,ツガ ン‑パ ラノ フス キーの見解で あろ う 。 周知 のように,ロシアの経済学者 ツガン‑パ ラノラスキー はマル クスの再生産表式 を利用 して,我 々の見解 とは正反対 の立場 に立っ見解, つ ま り,社会的生産 の比例 的配分 が保 たれていさえすれば生産 は消費 の状態 と
は無関係 に無限 に拡大 してゆ くことがで きるとい うこと,したが って また,坐 産 と消費 との間 には矛盾 は存在 しないとい う見解 を最初 に主張 したのだか らで ある 。 そ こで,この ツガ ンの見解 がいかな る根拠 に基づ いて主張 された もので あるかを検討す ることを通 じて上 の問題 の解 明 を試 み る ことに した い ( 第 1 節)。
ところで,周知 のよ うに,我 が国で は生産 の消費 による究極的 な制約 関係 を 明確 に しよ うとす る独 自な試 みが富塚良三氏 の 「 均衡蓄積軌道」 の提起 によっ て始 め られた 。 3) 氏 の問題提起 は鋭 く,且つ,斬新 で あ り,多 くの研 究者 に影 響 を与 え,様 々な貴重 な研究成果 を生 み出 して きた。 しか し,そ う した様 々な 研究 も富塚氏 の問題提起 のそ もそ もの眼 目であ った生産 の消費 による究極的な 制約関係 の解 明 につ いて はいまだ説得的な解答 を与 え るに至 って はいないよう に思 われ る 。 そ こで,第 2節 で は,富塚氏 の問題提起 に沿 った研究 の一 つ の到 達点 と目され る井村喜代子氏 の恐慌論 を検討 す ることによって,なぜ従 来 の研 究がその問題 で十分 な成果 を生 み出す ことがで きなか ったのか とい うことを明
らかに し,我 々の与 えた解答 の意義 を鮮明 に してみたい。
3 ) 富塚氏の問題提起については,同氏 『 恐慌論研究』,未来社,1 9 6 2 年 を参照。
再生産表式論 と第 Ⅰ部門の不均等発展 の限界 7 5
第 1 節 ツガ ン説 の検討
本節 ではマル クスの再生産表式 を利用 して,社会的生産 の比例的配分 が保 た れていさえすれば第 Ⅰ部門の不均等発展 には限界がない とい うことを最初 に主 張 した ロシアの経済学者 ツガ ン‑パ ラノフスキーの見解 を検討す ることを通 じ て,第 Ⅰ部門の不均等発展 の限界 を再生産表式論 の論理 レベルで いか に把 捉 す べ きか とい う問題 について一つの試論 を提 出 してみ ることに したい。
ツガ ンは 『英国恐慌史論 』第‑篇 「 恐慌 の理論 および歴史」第一章 「 資本主 義経済 における恐慌 の根本原因」 において上 の主張 を展開 してい る 。 まず,そ
こでの ツガ ンの見解 を追跡す ることか ら始 めよ う 。
ツガ ンによれば資本主義的生産 の特徴 は何 よ りも 「 人間を 自己 目的か ら単 な る生産手段 に変 えて しま う」 ( 上掲書,救仁郷 繁 訳,ぺ りか ん社 ,1 972 年 ,2 4 頁,以下本書か らの引用 は p. 2 4 のよ うに略す) 車ころにあるが,そ の結果 「国 民消費 と国民生産 との関連が,資本主義経済 において はま った く新 しい性 格 を 帯 び る」 ( 同上) ことにな る 。 つ ま り,労働者 が必要 とす る消費 手 段 も機械 が 必要 とす る燃料 も同一 の範噂 に属す るもの とな り,生産 に必要 であ るが ゆ え に のみ生産 され るにす ぎない もの とな る 。 したが って,「も し技術 上 と経済 上 の 考慮 が一致 して,機械 が労働者 よ りも有利 な生産手段 とみ られ るな らば,労働 者 の代わ りに機械 が採用 され,人間向 け消費手段 の代 わ りに機械用 の燃料 が生 産 され る」 ( 同上) とい うことになるのである 。
こうした ことの結果 と して,資本主義 的生産 は労働者 の消費 を狭 い範 囲 に制 限す ることにな るのであ るが,そ うだ とすれば,このよ うに して労働者 の消費 ,
したが ってまた,消費手段 の生産 を制限 して も資本主義 的生産 は発展 して ゆ く ことがで きるのか とい うことが問題 となる 。 この疑問を ツガ ンは次 のよ うに表 現 している 。
「で は,資本 の価値増殖 のためには市場 が絶対必要なのではないか。 したが っ
て資本主義経済 において もや は り,最後 には,商品 の販売 が国民 消費 の規模 に
よって定 まるので はなか ろ うか。 もし国民生産が国民消費 よ りも速 いテ ンポで
増大す るな らば,社会的生産物 の実現 は,したが って資本 の価 値 増殖 は,果 た して可能 なのだろ うか。 それ故 に,資本主義経済 において は,他 の あ らゆ る様 式 の経済 と同 じに,社会 的生産 の限度 が社会 的消費 によ って定 まるので はなか
ろ うか 。 」( p. 2 4 ‑ 2 5 )
この疑問 に答え るべ くして ツガ ンは再生産表式 を導入 して くるわ けであ る。
ツガ ンは独 自な単純再生産表式 ( 第 Ⅰ表式) と拡大再生産表式 ( 第 Ⅱ表式) を展開 し,後者 か らの結論 と して次 のよ うに述べて いる 。
「 前記 の表式 は,それ 自体 きわめて簡単 な原則 で はあ るが,社会 的資本 の再 生産過程 の理解が不十分 な らば異議 を招 き易 い原則 を,す なわち,資本主 義 的 生産 はそれ 自身 のために市場 を創 出す るとい う原則 を,明 らか に立証 した に違 いない。 もし社会的生産 の拡大 が可能であ り,そのための生産諸力が十分 で あ るな らば,社会的生産 の比例 的配分 が存在す るときは,需要 もまたそれ に照応 して拡大す るに違 いない。 なぜ な ら,こうした条件 の もとで は,新 し く生産 さ れた各商品が,他 の商品を獲得す るための,新 しく現 われた購買 力 を代表 す る か らである 。 」 ( p. 3 3 )
ところで,ツガ ンの拡大再生産表式で は三つの部 門 ( 第一部門 一生産手 段生 産部 門,第二部門 一労働者用消費手段生産部門,第三部 門 一資本家 用消費手 段 生産部門) が均等 に発展 しているのであ り,したが って,その表式 自体 は消費 の状態 とは無関係 に生産 が拡大 してゆ くことがで きるとい うことの論証 に役立 つ ものにな ってはいない。 そ こで,ツガ ンは単純再生産表式 と拡大再生産 表 式 ( の第二年度) とを比較す ることによ ってその主張 を行 っている 。
「 社会 的資本 の単純再生産 と,規模拡大 によるその再生産 との比較 か ら,吹 の きわめて重要 な結論 を引出す ことがで きる 。 それ は,資本主義経済 にお いて は,商品 の需要 が社会的消費 の総規模 とは,ある意 味で無関係で あ る とい う結 論,すなわち,『常識 』の見地か らすれば,いかに不 条理 に見 え よ うと も,社 会的消費 の総規模 が縮小 しなが ら,それ と同時 に,商品 に対 す る社 会 的総 需要 が増大す ることがあ り得 るとい う結論 である 。 」 ( 同上)
このように単純再生産表式 と拡大再生産表式 との比較 か ら消費 の状態 とは無
再生産表式論 と第 1部門の不均等発展 の限界 77 関係 に総生産 が拡大 しうるとい う結論 を引 き出す ことはそれ 自体 もちろん問題 であ るが,その点 につ いてはここで は問題 に しないでお くことにす る 。 4) 均 衡 を保 ちつつ,( 絶対的 あるいは相対 的 に)消費が縮 小 しなが ら総 生産 が拡 大 し てゆ く拡大再生産表式 を描 くことは可能であ るか らである 。 ここでは,ツガ ン がそ うした拡大再生産表式 ,た とえば,レーニ ンが展開 した不均等 発 展 表式 5)
のよ うな表式 を描 くことによって上 の結論 を引 き出 していると仮定 してお くこ とにす る。
こうして,ツガ ンは社会的生産 の比例 的配分 が保 たれている拡大再生産表 式 を展開 し,社会的生産 の比例的配分 が保 たれているもとで は,生 産 ‑供給 が そ れ 自身需要 を生 み出 し,したが って,消費 の状態 とは無関係 に生 産 が拡大 して ゆ くことが可能であ るとい う主張を行 ったのであ るが,このよ うな社会 的生 産 の比例的配分が保 たれていさえすれば生産 ‑供給 がそれ 白身需要 を生 み出す と い う主張 はいかな る考 え方 に基づ いて いるのであろ うか。
これにつ いては次 の文章か ら明 らか にな るであろ う。
「われわれには,資本家がみずか ら消費 しない利潤部分を財宝 として保 存 し た り,ただ単 に金庫 に しまっておいた りす るとは考 え られない。資本家 が新 し い利潤 を得 るために,自分 の消費 を止 めて念 出 した利潤部分 を資本化す る こと に努 め るとい う前提か ら,われわれ は出発 したのであ る 。 」 ( p. 2 8)
この文章 か らわか るよ うに,ツガ ンの上 のよ うな主張 は,資本 家 は 自 ら消費 しない利潤部分 を必ず資本化す るとい う考 え方 に基づ いてい るのであ る。 な る ●●
ほど,社会的生産 の比例的配分 が保 たれているとい う前提 の もとで,資本家が 4 ) なお,この点がカ ウツキ‑によ って批判 され,ツガ ンが反批判 の ため に 『マ ル クス
主義 の理論的基礎』で新 しい表式 を展開 した ことはすで に周知 の ことなので ここで は特 に触 れない。 この点 について は,た とえば,岡 稔 『 資本主義分析 の理論 的諸 問 題』,新評論 ,1 97 5 年 ,1 4‑ 1 6 頁 ,小林貿賓 『 再生産論 の基本 問題』,有 斐 閣 ,1 97 5 年 , 1 07 ‑ 11 2 頁 を参照。 なおまた,ツガ ンが上掲書 で新 しく展開 した表式 につ いて は松 石 勝彦氏 のす ぐれた批判的解説があるのでそれを参照 され た い ( 「好 況 過程 の二 部 門 分析 一二大部 門間の関連 の実証的 ・理論 的分析 ‑ 」
『経済学研究』 ( 一楠大),第1 5 号 ,
1 9 7 1 年 ,37 4‑ 39 4 貢)0
5) レーニ ンが展 開 した不均等発展表式 につ いて は 「いわゆ る市場問題 について 」 『レー
ニ ン全集』第 1 巻 ,大月書店 ,80‑ 8 2 頁 を参照。
自 ら消費 しない利潤部分 を必ず資本化す るとす るな らば,消費 の状態 とは無 関 係 に生産 ‑供給 がそれ 自身需要 を生 み出 し拡大再生産 は順調 に進行 してゆ くと
い うことになるであろ う 。 6)
それで は,なぜ,ツガ ンは資本家 は自 ら消費 しない利潤部分 を必 ず資本化 す ると考 えたのであろ うか。 これにつ いて はた とえば次 の文章 が明 らか に してい ると考え られ る 。
「資本主義経済 にお ける規定 的な契機 は,消費ではな くて,生産 で あ る 。 資 本家 的企業者 は可能 な限 り最大 の利潤 を実現す ることに努力す るけれ ど も,可 能 な限 り最大数量 の消費手段 を生産 しよ うと努 めるわけではない。 それ ととも
に,資本主義 的競争 の法則 によって,この利潤 の うちかな り大 きな部 分 を資本 化す ること,この利潤部分 を,ま った く人間の消費 に向け られな い生産 手 段 に 多 かれ少 なかれ転化す ることが要求 され る。 それ故,ある意味で,資本 主義 的 生産 の目的 は消費 にあ るので はな くて,資本 その ものの増大 にあ る,とい うこ
とがで きる 。 」 ( p. 3 4)
ここか らわか るように,ツガ ンは,資本主義 的生産 の直接的 目的 は消 費 で は な く生産 その もの ( 最大限 の利潤 の獲得) であ り,資本家 は競争 によって絶 え ず生産拡大 に等 区り立 て られて いるとい うことか ら,資本家 は自 ら消費 しな い利 潤部分 を必ず資本化す ると考 えたので ある。
以上 が社会 的生産 の比例 的配分 さえ保 たれていれば第 Ⅰ部門の不均等発展 に は限界がないとす るツガ ンの見解 の概要 であ るが,ツガ ンの見解 の根本 的特徴 は資本主義把握 の一面性 にあ るよ うに思 われ る 。
な るほど,ツガ ンが言 っているよ うに,資本主義 は 「 人間を 自己 目的 か ら単 な る生産手段 に変 えて しまう。」彼 の言 うよ うに,「 資本主義経済 におけ る規定 的な契機 は,消費 で はな くて,生産で ある 。 資本家的企業者 は可能 な限 り最大
6) ここでは蓄積資金や固定資本の減価償却基金の積み立ての問題を一切捨象 して考え ている。ツガンはそれらの問題を一切捨象 しているし,それらの問題の存在は本稿 の論旨にも影響を与えないので,我々もツガンにならってそれらの問題を一切捨象
して議論を進めてゆく。
再生産表式論 と第 Ⅰ部門の不均等発展の限界 7 9 の利潤 を実現す ることに努力す るけれ ども,可能 な限 り最大数量の滑費手 段 を 生産 しよ うと努 めるわけで はない。」 しか し,だか らとい って,この よ うな倒 錯 した関係 だ けが資本主義的生産 の本質 であるわけで はない。資本主義 的生産
は他面で は社会構成員の物質 的欲望 を充 たすための一つ の生産様式なのであり, 社会構成員 の物質 的欲望 を充 たす とい うことを根拠 と して存在 してい る生産様 式 なのであ る 。 したが って,資本 は社会構成員 の物質 的欲望 の充足 と無 関係 に 価値増殖 を行 っているのではな く,社会構成員 の物質 的欲望 の充足 を通 じて価 ●●●
値増殖 を行 っているので ある 。 資本主義的生産 はこのように社会的生産一般 と い う性格を持つ とともに歴史的 に独 自な性格 を も兼 ね備 えてい る二面 的な もの なのである 。 したが って,資本主義 的生産 は特殊資本主義的な側面 か らと社 会 的生産一般 と しての側面か らの両面 か ら捉 え られなければな らないのである。
ところが,ツガ ンは資本主義的生産 を特殊歴史的な側面か らしか見 よ うと し ていないのである 。 この側面か らしか資本主義的生産 を見 ないな らば,資本家 は消費 の状態が どうであろ うとか まわず最大限の利潤 を 目指 して投資 に遇進す るもの と してのみ把握 され ることにな る 。 資本家 が消費 の状態 にかまわず投資 に遺進す るとすれば,資本家が 自 ら消費 しない利潤部分 は必 ず資本化 され る と いうことにな るであろうし,そ うすれば,社会 的生産 の比例的配分 が保 たれ て いるとい う前提 の もとで は,生産 ‑供給 がそれ 自身需要 を創 出 し,消費 の状態 が どうであろ うと再生産 は順調 に進行す るということになるであろう。 したが っ てまた,第 Ⅰ部門 はどこまで も不均等 に発展 してゆけるとい うことにな るで あ ろう 。 こうしてみ ると,先 に要約 した ツガ ンの見解 は資本主義的生産 を特 殊 歴 史的側面 か らしか見ていない ことの必然的な帰結 で あるとい うことが言 えるの であ り,その意味か らすれば ツガ ンの見解 はそれな りに首尾一貫 した もので あ
るとい うことがで きるので ある 。
従来多 くの論者 が ツガ ン批判 を試 みなが ら,それに成功 して こなか った の は
これ らの論者が ツガ ンと同 じ一面的 な理論的立場 に立 っていた ことが主 な原因
であるように思 われ る。 ツガ ンと同 じ立場 に立 ちなが らツガ ンの理論的結論 だ
けは拒否 しよ うとした ことが ツガ ンに勝 るとも劣 らないよ うな奇説 が繰 り返 し
生 み出 されて きた主要 な原 因 で あ るよ うに思 われ る。 ツガ ンの立場 に立 て ば ツ ガ ンの結 論 は必 然 的 なので あ るか ら,ツガ ン批判 に成功 す るため に はツガ ンと は異 な った立場 に立 っ こと,つ ま り,資本 主義 的生産 を特殊歴史 的側 面 か らと 同時 に社会 的生 産一 般 と して の側面 か らも把握 す ることが是非 とも必要 だ った ので あ る 。 7
)そ こで今 ,資本主義 的生産 を その特殊 歴史 的側面 か らばか りで な く社 会 的生 産一般 と して の側面 か らも捉 えて み よ う 。 そ うす れば社会 的生産 の比例 的配分 が保 たれて い さえす れ ば,消費 ( 消費手段生 産) と無 関係 に生産手段生 産 が拡 大 を続 け る ことがで きるとい う見解 の誤 りは直 ち に明 らか にな る。 消費 ( 消費 手段生産) が押 さえ られて い るに もかか わ らず生産手段生産 が どん どん拡大 を 続 ける とい うことは,社会構成員 の物 質 的欲 望 の充足 とは無 関係 な物 が どん ど ん生産 されて ゆ くとい うことで あ る。 声・ れ は貴重 な資源 の浪費以外 の何 もので もない。 も し,こ う した浪費 に対 して資本主義 的生産 が全 く無 関 心 で あ り,現 実 に も,この よ うな浪費 が ど こまで も行 われて ゆ くと した ら,資本 主 義 的生 産 は社会構成員 の物質 的欲望 を充 足 す るための生産様式 で はない とい うことにな るので あ り,自 らの存在意義 を主張 しえな くな り,早 晩社会構成 員 の物 質 的欲 望 を満足 させ るための合理 的 な生産様 式 に取 って代 われ ることになるであろ う。
しか し,もちろん,資本主義 的生産 は社会構成員 の物質的欲望 を満 足 させ る 7 ) 我々の知 る限 りでは,唯一松石勝彦氏だけがこうした視角からツガ ン批判を行 って
おられる 。 たとえば,氏は次のように言われている。「 資本主義的生産の目的は生産 そのものであるといっても,社会的欲望を充足させるかぎりでの生産 とい う制約条 件がついていることをツガンは見落 した。資本主義的生産 といえどら,社会的生産 の一形態であることを考えればこのことは当然である . 」( 前掲 「 好況過程の二部門 分析 」 ,3 5 7
貢。なお,氏の新著 『マルクス経済学』,青木書店,1 9 9 0 年,1 3 9 貢にもこ
れと同 じ叙述が見 られる)氏がこうしたツガン批判をすでにかなり以前 に行 ってお られることは実に旺冒すべきことであると言わなければな らない。 しか し,氏 の場 合,こうしたツガン批判が 「 第 Ⅰ部門と第 Ⅱ部門はなぜ相互 にか らみあいなが ら, もちつ もたれつ発展するのか ?なぜツガンの想定するように,第 Ⅰ部門だけが独立 的に発展 し,第 Ⅱ部門は縮小することにならないのか ?」( 同上,3 5 2 貢) とい うこ
とを解明することを目的としていたにすぎないこと,及び,氏 の関心が主 に産業循
環過程の解明にあることのために,残念なが ら,こうした批判 が これか ら我 々が述
べる方向へ発展 させ られることな く終 っている 。
再生産表式論 と第 Ⅰ部門の不均等発展 の限界 8 1 ための一つの生産様式である 。 したが って,資本主義的生産 にお ける各 生産部 門 はは じめか ら社会構成員 の物質的欲望 を満足 させ るための分業 の各環 を構成 ●●●●●●●●●■●●●●●●●●●●
しているのであ る。 この点 は生産手段生産部門 といえ ども何 の変 わ りもない。
消費手段生産部門 も生産手段生産部 門 も全体 として社会構成員 の物質的欲望 を ●●●●●●●●●●●●
満足 させ るための,したが って,消費手投 を生産す るための有機的に関連 し合 っ ●●●●●●●● ●●●●●●●●●●●●
た分業体制 の一環 を構成す るもの として存在 しているのであ る 。 ここにこそ生 産手段生産者 といえ ども決 して消費 ( 消費手段生産) と無関係 に生産 を行 いえ ない し,また,実際 に行 ってい るわ けで もない根拠 があ るのであ る 。 どん な に 消費 ( 消費手段生産)か ら遠 くに位置す る生産手段生産者 といえども常 に言 わ ば消費 ( 消費手段生産) の方 を向いて生産 を行 っているのであ る。 したが って, 消費 ( 消費手段生産) が停滞 して くれば生産手段生産者 の生産意欲 ( 投資意欲)
も早晩減退 してゆかざ るをえないのであ る。
こうい うわ けで,資本主義的生産 は消費 ( 消費手段生産) を直接的 目的 と し ているわけではないが,消費 ( 消費手段生産) と無関係 に生産拡大 を続 け るわ けにはいかないのであ り,生産手段生産 も結局 は消費 ( 消費手段生産) によ っ て制約 を受 けるので ある 。 ツガ ンの見解 は資本主義 的生産 を全 く一面的 に しか 見 ないことか らくる非現実的な幻想 にす ぎないのであ る。
もっとも,上 のよ うに述べたか らとい って,消費 ( 消費手段生産 ) を何 ら顧
慮す ることな く生産拡大 に遭進 す るよ うな生産手段生産者 が全 く現 われない と
考 え るわ けではない。 そ うした生産手段生産者 が現実 には多数現 われ ることは
否定で きないであろ う 。 しか し,消費 ( 消費手段生産) を何 ら考慮す る ことな
く闇雲 に生産拡大を行 うとい うことは,資本主義的生産 に とって犯罪行 為 に等
しいのであ る 。 なぜな ら,それ は貴重 な資源 をむやみに浪費す る行 為 で あ り,
社会構成員 の物質的欲望を満足 させ るとい う資本主義的生産 の一つの社会的生
産様式 と しての存在根拠 を傷 っ ける行為 であ り,したが って,資本主義 的生産
の存続 を危 うくす る行為 だか らであ る。 もし,資本主義的生産が こうした行為
を行 う生産手段生産者 を価値法則 とい う経済的な力で破滅 させ られない と した
ら,政治的な力で破滅 させ ることにな るであろ う 。 消費 ( 消費手段生産) を何
ら顧慮せず生産拡大 に遺進す るとい うことは資本主義 的生産 に とってそれ ほど 重大 な意味を持 っていると考 えなければな らないのであ る。 しか し,実 際 に は こうした消費 ( 消費手段生産) を何 ら顧慮 す ることな く生産拡大 に遥進す るよ うな生産手段生産者 は政治的な力を待 っまで もな く価値法則 の力 によ って破滅 させ られて しま うのである 。 それはた とえば需要 を何 ら顧慮せず消費手段 を生 産 した資本家 の場合 と同 じであ る 。 需要 を顧慮 しなか った結果 と して過剰 に生 産 された消費手段 の価格 は価値以下 に低落す るのであ り,その ことを通 じて そ うした資本家 は自動的 に排除 され る 。 消費 ( 消費手段生産) を何 ら顧慮せず生 産拡大 を行 った生産手段生産者 の場合 もこれ と同 じであ る。 どの生産手段生産 者 も皆消費 ( 消費手段生産) を顧慮せず闇雲 に生産手段生産 を拡大 してゆ くの な らばな るほど消費 ( 消費手段生産) とは無関係 に生産手段市場が拡大 してゆ くか もしれない 。8 )しか し,先 に述べたよ うに,資本 主義 的生 産 を構成 す る ど の生産部 門 も,したが って また,生産手段部 門を構成す るどの生 産部 門 も社会 構成員 の物質的欲望 を充足す るための有機 的 に関連 し合 った分業の各環 として 存在 して いるのである 。 したが って,生産手段生産者 の最大多数 は生産手 段生 産 を絶 えず消費 ( 消費手段生産) に照応 させ ようとしているのであ る。 どんな に消費 ( 消費手段生産)か ら遠 くにいる生産手段生産者 といえ どもその最大多 数 はいっで も言 わば消費 ( 消費手段生産) の方 を向いて生産 を行 っているので あ る 。 したが って,生産手段部門の,全体か ら見 れば ほんの一部 の資本 家 が 自 分達 だけ消費 ( 消費手段生産) と無関係 に生産手段生産をどんどん拡大 していっ た と して も必ず過剰生産 に陥 るのであ り,価値以下‑の価格低落 によ って早 晩 破滅 して しま うのである 。
ところで,言 うまで もない ことであるが,上 で述 べ た ことは,決 して,何 か 既存 の消費 ( 消費手段生産)規模 があ って,生産手段生産者 はその消費 ( 消費 手段生産)規模 に照応す るよ うに生産手段 を生産 しよ うと しているとい うこと
を主張 しよ うとす るもので はない。
8 ) もちろん,社会的生産の比例的配分が保たれると仮定すればの話であるが。
再生産表式論 と第 Ⅰ部門の不均等発展 の限界 8 3 資本 は生産 を拡大 す ることによ って一定程度 まで雇用 を拡大 し消費 を拡大す ることがで きる し,資本主義的生産 の もとで は生産拡大 による雇用拡大 によ っ て しか消費 を拡大す ることはで きないのであ る 。 9) だか ら,最大 限 の価値増 殖 を目指す資本家 ( 第 Ⅰ部門の資本家 だ けでな く第 Ⅱ部門の資本家 も) は消費 の 拡大 が見込 めれば既存 の消費規模 にか まわず積極的 に生産 を拡大 してゆ くので ある 。 したが って,生産手段生産者 も絶 えず生産 を消費 に照応 させ よ うと して いるといって も,その消費 は決 して既存 の消費 なので はな く,将来見 込 まれ る 消費 なのであ る 。 ところで,生産拡大が始 まった当初 は消費 も順調 に拡 大 し, 生産 が大規模 に拡大 されればされ るはど消費 もまた大規模 に拡大 してゆ く 。 そ してまた,こうして消費 が順調 に拡大 してゆけばゆ くほど資本家 はよ り大 きな 消費 の拡大 を見込んで ます ます大規模 に生産 を拡大 してゆ くということになる。
しか し,このよ うに最初 は生産 の拡大 にはぼ照応 して消費が拡大 してゆ くと し て もそれがいっ まで も続 きえない ことは明 らかで あ る 。 「社 会 の消費 力」 は
「 敵対 的な分配関係」 と 「 蓄積‑の欲求 」1 0 ) とに よ って狭 い範 囲 に制 限 されて いるか らであ る。 したが って,労働者 の消費 を中心 とす る個人的消費 の伸 び は しだいに全体 としての生産 の拡大 に立 ち遅 れてゆ くことになるのであ り,そ の 結果 ,しだいにます ます第 Ⅰ部門の拡大率 は第 Ⅱ部門の拡大率 を凌駕 して ゆ く
ことにな るのである 。 そ して,この第 Ⅰ部門の不均等発展が一定程度進 展 す れ ば消費 の停滞 は誰 の 目に も歴然 とした ものにな って くる 。 こうな って くると, そのよ うな段階で はます ます大規模 に第 Ⅰ部門で新投資が展開 されて増大す る 余剰生産手段が吸収 されてゆかない と生産手段が過剰 になって しまう状況になっ て いるにもかかわ らず,第 Ⅰ部門の資本家 の投資意欲 は逆 に しだいに減 退 して
くるのであ り,その結果やがて生産手段部 門で過剰が発生 し,それ が急 速 に全 部門 に波及 し,全般 的過剰生産恐慌 が惹起 され ることになるのである 。
ところで,上 に述べた ことか らすでに明 らかであるが,一般 に誤 解 されて い るよ うに第 Ⅰ部門の不均等発展 は決 して生産手段部門の資本家が消費 を何 ら顧
9 ) もちろん,資本家の消費や消費性向を問題 に しなければということであるが。
1 0 ) マルクス 『資本論』前掲書 ,3 07 頁。
慮せず生産拡大 に遥進す るとい うことか ら生 じるわ けで はないのであ る 。 生産 手段部門の資本家 といえ ども絶 えず消費 に注意 を払 ってい るのであ り,自 らの 生産 を,生産 それ 自身が生 み出す将来見込 まれ る消費 にで はあるが,絶 えず消 費 に照応 させ よ うと してい るのである 。 しか し,生産拡大が どの くらいの消費 を生 み出すか は誰 に も正確 にはわか らない し,しか も,生産拡大 が始 ま ってか らしば らくは生産拡大 とともに消費 も順調 に伸 びてゆ くのであ る 。 こうした事 情が消費 の増大 に対す る過大 な見通 しを生 み出す ことにな るのであ り,この過 大な見通 しが生産 が消費 を越 えて拡大 してゆ くこと,つ ま り,第 Ⅰ部 門 の不均 等発展 を生 じさせ ることになるのである 。 そ して,こうして,第 Ⅰ部 門 の不均 等発展 は消費 の増大 に対す る過大 な見通 しの結果 と して生 じるものであるがゆ えに,見通 しが過大であ った ことが明 らか になればその不均等発展 もやが て終 蔦を迎 えざ るをえないとい うことにな るのである 。
以上 ,ツガ ンの見解 の検討 を通 じて第 Ⅰ部門の不均等発展 の限界 につ いて考 察 して きた。今 まで述べて きたよ うに,資本主義 的生産 も社会構成員 の物質 的 欲望 を充足す るための一つの生産様式であることに変わ りはないのであ り,そ こにおける各生産部門 はどれ も社会構成員 の物質的欲望 を充足 させ るために必 要 な有機 的 に関連 し合 った分業 の各環 と して存在 しているのである。 したが っ
て,生産手段部門の資本家 といえども決 して消費 ( 消費手段生産) と無 関係 に 生産 を行 って いるのではな く,絶 えず生産 を消費 ( 消費手段生産) に照応 させ よ うと して いるのである 。 したが って また,第 Ⅰ部門の不均等発展が進展 し消 費 ( 消費手段生産) の停滞が明 らかになれば早晩生産手段部門の資本家 の投資 意欲 も減退せ ざるをえないのである 。 再生産表式論 の論理 レベルで は第 Ⅰ部門
の不均等発展 の限界 はこのよ うに して説明 され るべ きであると思 われ る 。1 1 ) ll ) 因に , 『 資本論』の中で資本主義的生産が社会的生産一般でもあることがはっきり述
べられているのは第 1部第 1篇第 1章 「 商品と貨幣」においてである
。そこでは資 ● 本主義的生産の基底的部分としての商品生産の持つ社会的生産一般としての性格の ●●●●●●●●●●●●●●●●
歴史的に特殊な形での発現として価値や貨幣の発生が論証されているか らである。
たとえば,マルクスは次のように述べている。「 労働生産物の価値形態は,ブルジョ
ア的生産様式の最 も抽象的な,しかしまた最 も一般的な形態であって,これによっ
てこの生産様式は,社会的生産の特殊な‑種類として,したがってまた同時に歴史
再生産表式論 と第 Ⅰ部門の不均等発展の限界 8 5 周知 のよ うに,マル クスは第 Ⅰ部 門 の不均等発展 の限界 ‑生産 の消費 によ る 究極 的な制約 関係 について次 のよ うに述 べて い る 。
「すで に見 たよ うに ( 第二部第三篇) ,不変資本 と不変資本 とのあいだ に も 不断 の流通 が ( 加速 された蓄積 は別 と して も)行 なわれてお り,この流 通 は, け っ して個人 的消費 にはい らない とい うか ぎりで は一応 は個人 的消費 か ら独立
して い るが,しか し究極 的 には これ によ って限界 を画 されている,なぜ な らば, 不変資本 の生産 はけ っ して不変資本 その もののため に行 なわれ るので はな く, 個人 的消費 にはい る生産物 を供給 す る生産部面 で よ り多 くの不変資本 が使用 さ
れ るか らこそ行 なわれ るのだか らであ る。 」1 2 )
この よ うに,マル クスは第 Ⅰ部 門 の不均等発展 の限界 を 「 不変資本 の生 産 は け っして不変資本 その もののために行 なわれ るので はな く,個人的消費 に は い る生産物 を供給す る生産部面 で よ り多 くの不変資本 が使用 され るか らこそ行 な われ るのだ」 とい うことに,つ ま り,資本主義 的生産 において も生 産 手 段 はそ れ 自身 のため にで はな く,消費手段 を生産 す るために生産 され るのだ とい う こ とに求 めて い る 。 このよ うに,マル クスは資本主義 的生産 の社会的生産一 般 と しての側面 か ら第 Ⅰ部 門 の不均等発展 の限界 を規定 しよ うとしているのである。
したが って,第 Ⅰ部門 の不均等発展 の限界 に関す るマル クスの見解 は今 まで述 べて きた我 々の見解 と全 く一致 してい ると言 って よい と思 われ る 。
この不均等発展 の限界 に関す るマル クスの叙述 につ いて は,た とえ ば,井 村 喜代子氏 の , 「 Ⅰ部門 の生産拡大が Ⅱ部門 の拡大 による Ⅱmc に対 応 して のみ行 われ る ものであ ると主張 し, Ⅰ部門 の生産拡大 が個人 的消費 か ら 『独立 』して,
的に,特徴づけられているのである . 」( 『 資本論』第1 巻 『マルクス ・エ ンゲルス全 集』第 2 3 巻,大月書店 ,1 0 8 貢) この点については,さしあたり,こうした視角か ら 貨幣発生論‑価値形態論を論 じた拙稿 「 価値形態論 」 ( 種瀬 茂編著 『資本論の研 究 』,青木書店 ,1 9 8 6 年所収)を参照されたい。 ところで,上のことから考えると資 本主義的生産を特殊歴史的側面からのみ把握するツガンの見解は彼の商品生産に対 する理解と密接に関係 しているのではないかと思われる。 この点は非常 に興味深い 論点であるが別稿に譲 らざるをえない。さしあたり,小林貿需氏の前掲書 『 再生産 論の基本問題』の第一部第二章第二節を参照されたい。
1 2 ) マルクス 『 資本論』第 3 巻,前掲書 ,3 8 1 頁。
、 \ 工場増設 のための工場増設
寸とい う内容 を もってすすむ ことを否定 してい る よ うな叙述 で,不正確 である」1 3 ) とい う批判 がある 。 しか し,この よ うな批 判 は,上 の引用文全体 の関連 を見落 した誤 った批判であ ると言 わなければな らな いであろ う 。 マル クスは 「 不変資本 と不変資本 とのあいだ・ ‑‑‑の流通が‑
‑‑ 一応 は個人的消費 か ら独立 している」 ことを認 めた上 で,したが って,生 産手 段部 門が消費手段部門 に対 して不均 等 に発展 しうる ことを認 めた上 で,その
「 一応」 の 「 独立」,したが って,生産手段部門の不均等発展 が,「 究極的には」 ●●●●●
個人的消費 によって 「限界を画 されている」根拠 と して上 のよ うに述 べてい る のであ る。 したが って,上 の叙述 は決 して生産手段部門の不均等発展 を否定 し た もの として受 け取 るべ きで はな く,資本主義的生産 は社会的生産一般 で もあ るのであ り,生産手段 は決 してそれ 自身 のためで はな く,消費手 段 を生 産 す る ために生産 されているのだか ら,生産手段部門が不均等 に発展す ることが で き ると して もどこまで もそれを続 けてゆ くことはで きない とい うこと,消費手 段 生産 の停滞が明 らかにな って くれば早晩生産手段生産 も停滞す ることにな らざ
るをえない とい うことを主張 しよ うと した もの と受 け取 るべ きなのであ る 。 氏が上 のよ うにマル クスを批判 され るのは,氏 にあ っては資本主義的生 産 も 社会的生産 の一つの形態 にはかな らないので あ り,したが って,資本主義 的生 産 にあ って も生産手段 はそれ 自身 のためで はな く消費手段生産 のために生産 さ れ るのだ ということ,そ して,そ うだ と して も資本主義 的生 産 にお いて は,先 に述 べたよ うに,生産手段部門の不均等発展 は不可避 であるとい うこと, こ う
した ことが理解 されていないか らにはかな らないのであ る 。
最後 に,再生産表式 と 「 生産 と消費 の矛盾」 との関係 につ いて述べておけば, 従来 ,再生産表式 において 「 生産 と消費 の矛盾」が構造的 に措定 されて い る と
され る場合 には,個人的消費 と直接的関係 を持 っていない I c十mc 部分が生産
1 3 ) 同氏著 『 『 資本論』の理論的展開』,有斐閣 ,1 9 8 4 年 ,2 1 7 頁。なお,氏の 「 『資本論』
の再生産表式分析と ( 生産と消費の矛盾)‑残された分析の確認を中心 として」富
塚良三 ・井村喜代子編 『 資本論体系 4 資本の流通 ・再生産』,有斐閣 ,1 9 9 0 年 ,2 5 7
頁にも同様なマルクス批判が見 られる。
再生産表式論と第 Ⅰ部門の不均等発展の限界 87 の消費 か らの相対的独立 を表 わ し, ⅠⅤ+mv+mk と ⅡC+mc との交換 関係 が 生産 の消費 による究極 的な制約関係 を表 わ し,これ ら両者 の関係 の中 に 「生産 と消費 の矛盾」 が構造 的に措定 されていると説明 され る場合 が一般的であ った よ うに思 われ る。1 4 )しか し,今 まで述べ て きた よ うに, Ic+mc が個 人 的消費 によ って究極的 に制約 を受 けることにな るのは資本主義的生産 の社会的生産一 般 と しての側面 によるのであ り,決 して, ⅠⅤ+mv+mk と ⅡC+mc との交 換 関 係 とい った価値 ・素材補填上 の関係 によるので はないのである 。 そ うした意味 で従来 の説明の仕方 には賛成 で きないのであ って,個人的消費 と直接的 関係 を 持 たず,したが って,一定程度個人的消費 か ら独立 して発展 で きるに もか か わ らず,資本主義的生産 の社会的生産一般 と しての性格 によ って究極的 に は個人 的消費 によ って制約 を受 けざるをえない とい う二面 的性格 を持 った Ic+mc 部 分 その ものの中に 「 生産 と消費 の矛盾」 が措定 されていると考え るべ きであ る
と患 われ る。 そ して ,Ic+mc が個人的消費か ら ( 一応 で はあるが) 独立 して ゆ くその運動 の形態,したが って また , 「 生産 と消費 の矛 盾」 の運動 形 態 を明
らかに した もの こそいわゆ る レーニ ン表式 であ るわけである。1 5 )
第 2 節 井村恐慌論 の問題点
本節で は再生産表式論 に関わ る井村喜代子氏 の恐慌論 につ いて検討 し,なぜ 従来の研究が生産 の消費 による究極 的な制約関係 を解 明で きなか ったのか とい うことやそれが解明で きなか った ことの結果 と して生 じた論理上 の問題点 につ いて検討 してみ ることに したい。
井村氏 は再生産表式論 において 「 生産 と消費 の矛盾」 につ いて語 られ るに も かかわ らず,生産 の消費 によ る究極 的 な制約 関係 ‑第 Ⅰ部 門 の不均 等発展 1 6 )
1 4 )こうした説明の典型的な例が吉原泰助氏の説明に見 られる。たとえば,氏の 「 表式 分析と 『内在的矛盾』の論定」同氏編 『 講座 ・資本論の研究 第 3 巻 資本論の分析
( 2 ) 』,青木書店 ,1 9 8 2 年 ,2 2 6 頁を見 られたい。
1 5 ) この点については,拙稿 「 資本構成高度化にともなう第 Ⅰ部門の不均等発展につい て 」 『 商学討究』,第 4 0 巻第 1 号 , 1 9 8 9 年参照。
1 6 ) 第 Ⅰ部門の不均等発展と言 う場合,前節の終りで言及 したように,我々の場合には
の限界 は再生産表式論で は解明で きない とされ る 。 そ こで,まず,その理 由 に つ いて氏 が述 べてお られ ることを聞 いてみ ることに しよ う 。
氏 は次 のように言 われて いる 。
「ここでの考察 は,本節 冒頭で指摘 したよ うな諸前提 の もとでの考察であり, 新投資や更新投資の運動が市場価格 ・市場利潤率 の動 きと関連 しっついか に展 開 して い くか とい う点 の考察 を欠 いてい るので, Ⅰ部門の告 の低下 が何故 に 生 じるのか とい うことの解 明 は ここで はで きない 。 」 ( 『恐慌 ・産業循環 の理論
』,有斐閣 ,1 97 3 年 ,1 0 9 頁,以下本書 か らの引用 につ いて は貢数 のみを記す) このよ うに民 は , 「 新投資や更新投資 の運動 が市 場 価 格 ・市場 利潤 率 の動 き と関連 しっつ いかに展開 してい くか とい う点 の考察」 まで進 まないと Ⅰ部 門の
普
‑ Ⅰ部門の総投下資本拡大率 の低下 の原因が解 明で きない とい う理 由で, 再生産表式論 で は第 Ⅰ部門の不均等発展 の限界 は解 明で きない と考 え られ るの であ る。 しか し,氏 は上掲書第 2 章第 2 節 「 『資本論 』にお いて残 された問題」
において , 「 社会 的総資本 の再生産 の分析 にお いて,生産 と消費 とが 内的 に は ●●●● ●●●
『非 自立的 』であるとい うことの内容 を明 らか に した うえで,それを理 論 的基 準 と して,生産 の消費か らの 『自立化 』 ・『独立化 』の内容 を明 らか にす る こ
とが不可欠 なのである 」 ( 50 貢,傍点 一井村氏) と問題 を設 定 され て いた。 こ のよ うに再生産表式論 で 「 生産 の消費か らの 『自立化 』 ・『独立化 』の内容」
だけでな く , 「 生産 と消費 とが内的 には 『非 自立的 』であるとい うことの内容」 ●●●●●●●
も明 らか にで きるとすれば,当然 ,その 「 生産 の消費 か らの 『自立 化 』 ・『独 立化 』」 の限界 ,つ ま り,第 Ⅰ部 門の不均等発展 の限界 も再生産表式 論 で明 ら か にで きるはずであると思 われ るのであるが,氏 はそれ はで きない と言 われ る のであ る 。 そ こで,氏が解 明 してお られ る 「 生産 と消費 とが内的 には 『非 自立 ●●●●●●●
資本の有機的構成高度化のもとでのそれを念頭に置いているのに対 して,井村氏の
場合には,主に資本の有機的構成一定のもとでのそれ ( 氏のいわゆる
「Ⅰ部門の不
均等的拡大 」) を指 しているという違いがあるが,この違いは本稿の論旨に大きな影
響を及ぼさないと思われるので,本稿ではこの違いについては問題にしないことに
する。なお,この違いについては前掲拙稿 「 資本構成高度化にともなう第 Ⅰ部門の
不均等発展について」を参照。
再生産表式論 と第 Ⅰ部 門の不均等発展 の限界