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雑誌名 明治学院大学国際学研究 = Meiji Gakuin review International & regional studies

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(1)

「土着思想」,「執拗低音」としての日本資本主義 における土地所有―戦後日本資本主義分析の方法耕 運のために―

著者 涌井 秀行, WAKUI Hideyuki

雑誌名 明治学院大学国際学研究 = Meiji Gakuin review International & regional studies

号 35

ページ 53‑68

発行年 2009‑03

その他のタイトル Land Holding Rights as  Indigenous Thought and a  Basso Ostinato  in Japanese

Capitalism

URL http://hdl.handle.net/10723/1389

(2)

「土着思想」, 「執拗低音」としての日本資本主義における土地所有 

――戦後日本資本主義分析の方法耕運のために――

涌 井 秀 行

Ⅰ.はじめに

「もしも私が家を建てたなら / 小さな家を建て たでしょう / 大きな窓と小さなドアーと / 部屋 には古い暖炉があるのよ・・・ブルーのじゅうた ん敷きつめて / 楽しく笑って暮すのよ / 家の外 では坊やが遊び・・・そして私はレースを編むの よ / わたしの横には・・・あなたが居て欲しい」(1)

すでに去った恋人との新婚生活を夢見る女性の 思いを歌ったこの曲は,1973年に発表され,歌詞 に歌われた暖炉のある白壁の家は幸せな新婚生活 の象徴のように言われ,レコードは

160

万枚を超 えるミリオンセラーとなった。

1960

年代初頭「男 にとってはいわば『一億総サラリーマン化』が完 成し,女にとっては『サラリーマンの妻』=『奥 さん』に成り上がる夢」(2)が出来あがった。その 夢は

1970

年代初頭には見るものから,つかみ得る ものになった。それが冒頭の小坂明子「あなた」

である。しかしそれから

30

年後,厳しい現実がそ の夢を打ち砕いていく。

「職場の同僚が里帰りするたびに,老父が『お 前を

50

過ぎまで働かせて,家

1

軒建てられないと は,ふがいない亭主だ。男は家を持って一人前な のに,一生,アパート住まいで女房を工場勤めさ せるとは哀れな話だ』と嘆くという。このため同 僚の夫は妻の里には絶対,行かないそうだ。他の マイホームを建てた人も食べる物,着る物の出費 にも神経をとがらせ,金銭をめぐる夫婦,親子げ んかの毎日で『こんなことなら,無理せず,賃貸 に住んでるんだった』のローン地獄の真っただ中

という。知人の夫は借地だった土地を地主が売っ てくれる幸運に飛びついて,鎌倉の一等地を退職 金,全貯蓄をはたいて購入したが,定年の翌年,

61

歳で亡くなった。地主の座について,1年にも ならないうちの急死だった」(3)。朝日新聞投書欄 の「多大なローンに悲喜こもごも 戦後

50

年・土 地神話」と題されたパート主婦の「声」である。

その多大なるローンには生命保険がかけられ,借 主が死亡して返せない場合には保険金があてられ る。文字どおりの「ローン地獄」である。

一方で,企業・資本の大土地所有は,土地を「錬 金術」の「タネ」としてきた。「富士製鉄の

1965

3

月期決算で所有地は

570

万坪で坪当たり単価

567

円,貸借対照表上の簿価は

33

億円であった。

ところが所有地時価は

780

億円にのぼり,差し引 き

748

億円が『含み益』になっていた。この期の 富士製鉄の資本金は

820

億円であったから,富士 製鉄は資本金に匹敵する『含み益』」(4)を,地価 上昇によって得たのである。それから

25

年後平成 バブル崩壊寸前の

1990

年には,継続した地価上昇 は次のようなマジックも生み出した。無配を続け ていた石川島播磨重工業の株価の上昇は「首都圏 などに持つ

744

万平方メートルの土地の含み益が 大きいというのが,・・・理由だった。石播は,こ の株価上昇を踏まえて,・・・社債,ワラント債を

5

億ドル発行。これで調達した資金を研究開発や 豊洲のビル建設に投じることができた。豊洲近く の土地は,時価の

7

割とされる公示価格でも

1

平 方メートル当たり

200

万円前後。昭和初期に購入 した『今と比べたら,ただ同然』の安い土地が,

巨額の資産に化けたのだ」(5)

(3)

先ほどのパート主婦の投書は次のように続いて いる。「もし,その人が親から土地を相続出来た,

跡取り息子だったら,土地代金が寿命を縮めるよ うな人生を持たなくて済んだと思う。生まれなが らの地主は土地の高騰で暴利のそのまた暴利をつ かみ,相続の幸運のない者は多大な借金で土地を 買い,生涯,ローンの奴隷となる,経済格差の悪 循環に怒りを覚える」と。

この事情を日本と同じ第

2

次世界大戦の敗戦国 でありながら高成長=「ラインの奇跡」をなし遂 げた(西)ドイツと比べてみよう。1986年の話で あるがまず借家の場合。「ミュンヘンで会ったタク シー運転手ペーター・ベルテシさん(26)はハン ガリー人。19歳の時,1人で出稼ぎに来た。『4年 前から,

34

平方メートルの単身者アパートに住ん でいて,家賃は月

550

マルク(1マルク=75円換算 で

4

1000

円強)』・・・それが市中心部から地下 鉄で

20

分でいける。1972年のミュンヘン・オリ ンピック用に選手村として建てた高層ビルを住宅 にしたモダンな団地だ。副収入も入れると月収は

2500

マルク(19万円弱)」。次に持ち家の場合。「西 独一の総合電機メーカー,シーメンス社の広報部 次長ホルスト・ジーバートさん(47)も同じ団地 だが,こちらは分譲式。108平方メートルで,10年 前に

20

万マルク(当時の

1

マルク=120円換算で

2400

万円)で買った。『妻と大学生の息子の

3

人 なので十分な広さです。住宅ローンは今年で返済 完了ですが,公的資金も入れると年利

4%だし,

月収が

1

万マルク(75万円)だから楽でした。い ま売れば

30

万マルク(2250万円)はします』西 独の住宅面積は

1

人当たり平均

34

平方メートル。

ベルテシさんも,3 人家族のジーバートさんも,

ほぼ平均だ」(6)。これが西ドイツの住宅事情であ る。

土地所有権に関しては所有者の強い権利が認め られているドイツではあるが,用途や建築基準に おいて厳しい規制がしかれている。例えば用途で はフランクフルト市の場合,市内の面積の

55%は

公園,森林,農地などの緑地,15%が住宅地,事 務所などの就業地,道路,鉄道,空港などの交通

用地が

15%の割合となっている。また,借家にも

手厚い補助がおこなわれている。借家が全住宅の

6

割,都市部にあっては

8

割前後を占めるドイツ では,建主に対する建設費の低利融資,減価償却 の優遇策に加え,居住者には所得と家族規模に応 じた住宅手当で,一定の居住水準を維持できる仕 組みが整えられている。

いま述べた住宅に関する悲喜劇には土地所有が ついてまわるが,土地はそもそも人間労働の生産 物・果実ではなく,従って本来的な価値を持たな い。だが,有限的な土地が私的に占有・所有され ることによって地代という不労所得範疇が成立す る。封建制の解体は,農民を土地に武力で縛り付 けるという土地所有(領主)の絶対性をつき崩し,

地代が資本主義システムに照応するように変態し ていく過程でもあった。封建的土地所有者である 領主の経済外的強制(武力等)によって農民・農 奴の生計費に食い込むほどの地代は,資本の生み 出す利益(剰余価値)の一部から土地所有者に支 払われる資本主義的地代に変化していった。商品 生産の支配が進むにつれて,土地所有自体の経済 的価値の自立化・商品化が生じ,資本制地代・土 地価格が成立したのである。だが,そのプロセス,

その根幹である土地所有の優劣は各国の歴史的事 情によって大いに異なった。ヨーロッパでは英仏 のようにピューリタン革命やフランス革命によっ て封建的土地所有が解体し,土地所有の優位性が 消滅していった国々もあれば,ドイツのように封 建的な関係が色濃く残存した国々もある。しかし そのドイツでさえ近代以降はユンカー支配の下で も資本主義的経営へ移行し,土地所有の絶対性は 空洞化していった。戦後は西ドイツでも土地所有 は厳しい規制下におかれることになる。

「土地所有者たるの資格の圧倒的に優位」(7)な 性格とは,「半封建的土地所有」を規定して,山田 盛太郎が述べたものである。戦後の農地解放に よって消滅したかに見える「土地所有者たるの資 格の圧倒的に優位」な性格は,戦後には本当に消 滅したのだろうか。先ほど投書の「土地代金が寿 命を縮めるような人生」を送らなければならな かったサラリーマンの「マイホーム」残酷物語は その「優位性」の対極にある話なのではなかろう

(4)

か。それはちょうど,破傷風でのたうちまわって 死んでいった,長塚節「土」の女主人公・お品の ような小作人の「悲惨な暮らし」の戦後物語では ないのだろうか。日本において土地所有は古代以 来「土地所有者たるの資格の圧倒的に優位」のも とにあり,それぞれの時代の社会の基層となって 社会の仕組みを造形してきたのではないか。そし て近代以降も決定的意義をもち続け,戦後でも社 会を染めあげモディファイする「因子」だったの ではないのか。

丸山真男は,日本精神史における「個体性」を

「外来文化の圧倒的な影響」を受けつつも「執拗 に残存」する日本的な得体の知れないものを論及 し続けた思想家である。丸山はその得体の知れな いもの,つまり外来のものを受容し日本的なもの にモディファイしてしまういわば定型処理ソフト を,「古層」あるいは「執拗低音(バッソ・オスティ ナート)」(8)とよんだ。こうした考え方はひとり 丸山だけのものではない。加藤周一は言う。「超越 的な価値を含まぬ世界観は,排他的でない。故に 新を採るのに,旧を廃する必要もない。しかも,

新思潮が外部から輸入された場合には,内発的変 化の場合と異り,土着の世界観の持続性がそのた めに害われるおそれは少なかったはずである」(9)

と。日本では文化領域で新しいものが受容される 場合,新旧の交替にならず古いものに新しいもの が加えられるという発展パターンが歴史的に繰り 返された,というわけである。冒頭エピソードで 述べた悲喜劇は土地所有にまつわるものであるが,

「土地所有」とりわけ日本独特な「零細土地所有」

は戦前戦後を通して,日本資本主義を染め上げた

「執拗低音(バッソ・オスティナート)」あるいは

「土着世界観」ともいうべきものではないのか。

こう直結しなくとも,少なくとも丸山が述べ加藤 が言うことを,戦後日本資本主義分析をする際の 視角として,経済分析にも繰り込むことはできな いだろうか。

筆者は「アジア類型の原型として戦後日本資本 主義をとらえるための吟味分析」(10)をおこない,

「零細土地所有」を東アジア資本主義に通底する 基本構成・蓄積メカニズムの核として措いてきた。

問題を東アジアへと展開する前に一度立ち止まり,

近代以降の日本資本主義に通底する「執拗低音」

あるいは「土着世界観」として「零細土地所有」

を措定できるのではないか。戦後においても「零 細土地所有」がその意味をもち続けているのでは ないか。筆者はこのように考えた。小稿は,その 闡明のための方法を加藤周一,丸山真男から学び,

戦後日本資本主義分析の視角=方法を彫琢する際 の栄養素にしてみようとする論考である。これが 小稿の課題である。

Ⅱ.山田盛太郎の「時代画期」と丸山真男

「執拗低音」と加藤周一「土着思想」

1. 山田盛太郎の土地所有の画期と時期区分(政

治的変革)

山田盛太郎は,

1945

年の敗戦を境に戦後日本の 民主革命の基礎過程を分析するために,日本歴史 における土地制度の総括をおこなった。「およそ歴 史的劃期たる政治的一大変革の基礎となりうると ころのものは,土地所有の変革であるが,いまこ れを日本の歴史についていえば,それは大体,次 の四にわけうるであろう」(11)。歴史的劃期たる政 治的一大変革の基礎となりうるそれぞれの劃期に ついては,図

1

に示したとおりである。こうした 認識は加藤周一や丸山真男にも見られる。まずこ の土地所有と歴史的劃期の関係について山田の見 解を参照しつつ加藤の時期区分を確認しておこう。

2.

加藤周一の土地所有・時期(政治的変革)区 分,そして「土着思想」

加藤周一は 1 の時期を政治的には,「天皇家 が他の有力な貴族に対して,・・・次第に権力を独 占してゆく過程であった。・・・(身分制度として は)貴族支配層,原則として頭割り平等の耕地を 得た(『班田制』)『良民』,最下級の奴隷(『家人』,

『奴婢』)。『公民』または『良民』は,生涯に一定 の耕地を得たが,死後その土地を政府に還すので 封建的な意味での土地私有制はなかった。・・・律 令制の領民には,国家権力に対して,まったく政 治的な権利がなく, 納税と労働力提供の義務だ

(5)

1 土地所有の画期と時期区分

12

1 班田法(652白雉

3

年-742天平

14

年)

戸籍 【大化の改新】645年 ―→ 〔Ⅰ〕 奈良平安朝時代(710年-794年)

班田法(西暦

652-742

年)にあらわれた氏族制から房戸,戸へ分解する広汎な過程を基礎とする奈良平安朝時代

(710-794年)。

2 荘園(私墾田開発令;三世一身の法

723

養老

7

年)

藤原・平・源【承久の乱】(1221年) ―→ 〔Ⅱ〕 鎌倉封建制文治元年兵糧米反

5

1186

文治

2

年兵粮米停止 徭役 労働地代

荘園制(723養老

7

年の私墾田開発令を起点とする)における土豪〔地方豪族〕割拠的領有を基礎とする鎌倉幕府 時代(1186年-),換言すれば鎌倉封建制の時期。すなわち,労働地代が一構成要素となっている時期。

3 太閤検地(1582天正

10

年-98慶長

3

年文禄検地)

信長・秀吉・家康【応仁の乱】(1467年-)

地方豪族の領有的割拠の解体再編 ―→ 〔Ⅲ〕 徳川封建制(1603慶長

8

年)

(荘園制の最終的終息) 年貢 生産物地代

太閤検地(1582天正

10

年起点)を基準とする豪族割拠の広汎な解体とその全国的規模における再編とに由来する 徳川幕府時代(1603年-),換言すれば徳川封建制の時期。すなわち,労働地代は残存するが一般的には生産物地 代が支配的な時期。

4 地租改正(1873明治

6

年)

【明治維新】1868年 ―→ 〔Ⅳ〕 半封建的土地所有制

=半隷農的零細農耕 地租金納=現物小作料

地租改正における幕府ならびに藩の領有の廃止とその旧領有との直接的結合においてヒエラルヒッシュの形で生 成した所有ならびに保有の確認基準の一大再編を基礎とする日本資本主義時代,換言すれば半封建的土地所有制

=半隷農的零細農耕が日本農業の基本形を形づくる時期。すなわち,「現物年貢」と地租金納と分化する時期。

5 農地改革(1946年第

2

次)

【敗戦】1945年 ―→ 〔Ⅴ〕 零細土地所有=零細農耕 固定資産税

け」(13)が課せられた時代である,とした。

だが,この時代も解体の種を内包していた。「平 安遷都(794年)から・・・およそ

100

年間」に

「最初の転換期」が開始する。これは図

1

では 2 の時期にあたるが,「律令制の権力構造が・・・著 しく『日本化』され・・・経済的には,土地の私 有化による律令制の破壊が・・・はじまった」(14)。 この事態は,平安から鎌倉への時代転換を意味す るだけではなく,その後の日本歴史にとって決定 的な意味を持つ,自作農の層と王室・貴族・寺院 の大土地私有=地主権力が中央および地方に生ま

れ,これが「その後どれほどながく残ったかは,

いまさらいうまでもない」(15)。だがこの時期は

「再転換期」を内包していた。源頼朝・鎌倉新政 権は既存の貴族支配体制の外に,武士のクーデ ターによって軍事独裁政権をつくった。新政権は クーデターに参加し支持した新秩序=在地領主層

(「御家人」)の土地私有権を認めながら,律令制 荘園を経済的基盤とする旧秩序=天皇・貴族(京 都にいる不在地主)の土地私有権も認めなければ ならなかった。しかも新政権自身も平氏から没収 した荘園を主な経済的基盤としていたから,必然

(6)

的に新旧の二重性をもたざるを得ず,このバラン スの上に立つ不安定性を内包していた。しかし,

13

世紀における在地領主層の主導する農業生産力 の上昇(灌漑の発達,二毛作の普及,畑作農産物 の多様化など)は,この勢力バランスを崩し,在 地領主=武士層の優位性は確立(「再転換期」)し,

封建制へと時代は移っていった。

加藤は 3 の時期を「西洋への接触」という小 見出しをつけ,次のように述べている。「16 世紀 半ばから

17

世紀半ばに到る

100

年間は,二重の意 味で日本史の転換期であった」(16)。こう述べ,次 の

2

点をあげている。それは鉄砲・キリスト教の 伝来と武士権力の中央への集中である。鉄砲はそ れまでの軍事戦略を変え,信長・秀吉・家康によ る武士階級の全国統一を促進した。軍事力を背景 とし て 成 立し た徳 川 幕 府= 政権 は,「 そ の成 立

(1603)からおよそ半世紀の間に,封建大名の力 を弱め,さらに中央政府の統制力を強めた。

17

世 紀の半ばの徳川幕府は,全国支配のための官僚機 構を整備し,全国の耕地のおよそ

6

分の

1

を直接 に管理し,鉱山の大部分を抑え,主要都市を直轄 し,通貨の鋳造権を独占し,海外貿易を統制して,

直轄の軍隊

8

万人(秀吉の場合にはおよそ

1

万,

・・・10万石の大名の兵力はおよそ

2000

人・・・)

を動員できる状態にあった」(17)。こうした圧倒的 な経済=軍事=政治力を背景に,その後およそ

300

年の徳川幕藩体制は継続したのである。

加藤は 4 の時期をこう述べている。「第

4

の 転換期は

19

世紀であり,経済的には,すでに

18

世紀後半に著しかった市場の全国化・農産物の商 品化・貨幣経済発展の傾向が,・・・19世紀の前 半にいよいよ進んだ。・・・都会の貧富の差は極端 になった。上層町人は豊かで,大名たちは財政的 困難にもかかわらず浪費をつづけ,下層の武士は 貧しく,下層の町人の生活程度は低かった。農村 にもまた,地主層と貧農の分化が進み,地主層の 一部は,問屋制家内工業(または『マニュファク チュア』)を経営し(殊に綿糸・生糸・織物),貧 農はしばしば一揆にたち上って,都会の貧困層の

『打ちこわし』と呼応していた。このような前半 の状況から政府(藩・幕府・明治政府)の精力的

な介入と,外国技術の組織的な導入を通じて,資 本主義的工業化の過程がはじまったのが,

19

世紀 の後半である」(18)

この第

4

期以降の叙述においては第

3

期までの 叙述におけるほど,加藤は土地制度を規定的な要 因として叙述してはおらず,最後の 5 の時期の 戦後の土地制度についてはまったく触れていない。

なぜふれていないかを忖度(そんたく)すると,

次のように考えられよう。社会の構造と発展に関 するマルクス主義の歴史観(史的唯物論)は,社 会生活の基礎を物質的な生産力におき,社会の歴 史的発展はそれにもとづく,とする。そして生産 力と生産関係が社会の下部構造を規定し,それに 照応した上部構造が形成される。物質的生産力の 変化は下部構造を変化させ,それにつれて上部構 造が変化し,社会全体も変化し発展する(19)。加藤 が唯物史観にもとづいて社会の変化と発展をとら えていたことは明らかだが,明治維新以降の日本 の近代社会においては下部構造における土地制度 の決定的な意味が,それ以前の土地を生産力の基 盤とした社会(農業社会)と比較すればうすれ,

工業生産力とそこでとり結ばれる資本賃労働関係 が社会を規定する主要因(20)となった,ととらえ ていたからであろう。しかしより重要なことは,

社会発展における「土地私有化」「大土地所有」「地 主権力」の意義を加藤が確認したうえで,『日本文 学史序説』「あとがき」で述べる次のことである。

筆者は戦後日本資本主義を総体把握するための視 角耕耘の要諦がここにあると見る。

つまり「『日本文学史序説』という『史』すなわ ち『歴史』の解釈は,単に過去の個別的な事実の 年代的順序に従う叙述ではなく,前の事実を踏ま えて後の事実の生じる一すじの流れ,またはその 意味での発展を,明らかにしようとする試みであ る。文学の発展のすじ道は,全体としては,文学 外の条件を考慮しなければ,明らかにすることが できない。著者(加藤-引用者)はここで,日本 の土着世界観が外部からの思想的挑戦に対して各 時代に反応してきた反応の系列を,それぞれの時 代の社会的条件のもとで,その反応の一形式とし ての文学を通じて,確めようとしたのである。『土

(7)

着』とは英語の

indigenous(仏語の indigene)で,

外部からの影響がなく,その国の土から生れ育っ たというほどの意味である。『世界観』(独語の

weltanschauung)は,存在の面のみならず,当為の

面(価値観)も含めて,人の自然的および社会的 環境に対する見方を包括的にいう。・・・『日本文 学史序説』の目的の一つは,――しかしそれが全 部ではない――,第三の方法(外来の体系の『日 本化』の過程を分析し,『日本化』の特定の方向か ら,『日本化』を実現した土着世界観の力の方向を 見つける――引用者)により日本人の心の奥底,

そこに映った世界の姿,土着世界観の構造を知ろ うとすることであった」(21)

加藤の考え方を要約すると,以下のとおりであ る。日本文化の歴史発展のパターンとして,新し いものが受容される時,新旧の交替となるよりは,

古いものに新しいものが加えられるという発展の パターンが原則をなしている。「超越的な価値を含 まぬ世界観は,排他的でない。故に新を採るのに,

旧を廃する必要もない。しかも,新思潮が外部か ら輸入された場合には,内発的変化の場合と異り,

土着の世界観の持続性がそのために害われるおそ れは少なかったはずである」(22)。武田清子もこの 点について次のように批評している。「本人(加藤

――引用者)の世界観の歴史的な変遷は,多くの 外来思想の浸透によってよりも,むしろ,具体的 な感情生活の深層に働くところの持続と,そのた めに繰り返された外来の体系の『日本化』によっ て特徴づけられる」(23)と。

筆者が延々と山田の「土地所有の画期と時期区 分」と加藤のそれとそれにかかわる叙述をつき合 わせ,『日本文学史序説』の目的や日本文化の特徴 を引用したのは,日本の場合土地所有が「下部構 造が上部構造を規定する」という史的唯物論の原 理の一般にとどまらず,外来体系によって変形さ れた土地所有があたかも「土着の世界観の力」と なって,戦後も含めた近代以降の日本・日本資本 主義を染め上げたのではないか,と考えるからで ある。「外来の体系」である欧米資本主義が開国に よって日本に押し込まれ,その外来・欧米資本主 義が日本資本主義として定着する過程が「日本化

の過程」である。「日本化」した資本主義を実現し た「土着の世界観の力」が土地所有,すなわち戦 前では「半封建的土地所有制=半隷農的零細農耕」

ではないか,と考えるからである。この視角は山 田盛太郎の『日本資本主義分析』の方法に通底す る。土地所有が「土着の世界観の力」として,戦 後日本にも貫かれているのではないか。つまり「土 地所有(個人の零細土地所有と資本・企業の大土 地所有)」が戦後の日本資本主義をデフォルメした

「土着の世界観の力」なのではないのか。そして 今度はそこから逆照射するようにして,欧米資本 主義をとらえ返す。そうして見ると見えてくる日 本資本主義は別類型の資本主義として,とらえ得 るのではないか。再把握できるのではないか。こ のいわば方法論上の「仮説」を耕耘するために,

先ほどらい延々とした作業を,筆者はおこなって きたのである。

もちろん,加藤の仕事は,いうまでもなく日本 資本主義分析ではなく「日本の土着世界観が外部 からの思想的挑戦に対して各時代に反応してきた 反応の系列を,それぞれの時代の社会的条件のも とで,その反応の一形式としての文学を通じて,

確めようとしたものである」(24)。そのことは筆者 も充分承知している。しかし分析の方法論,視角 を耕耘するうえで,加藤の仕事を学ぶ意義はおお いにあると思う。だがいわばこうした「土着世界 観」なる見方,別な言い方をすれば日本の巨大な 変化,とくに思想の変化にもかかわらず「変わら ないもの」をつきつめて行く知的営為は,加藤に とどまらなかった。先達としてこの作業を戦後追 求してきた思想家が丸山真男である。

2.

丸山真男の土地所有・時期(政治的変革)区分,

そして「執拗低音」

丸山は全体構造としての日本精神史における

「個体性」を「外来文化の圧倒的な影響」を受け つつも「執拗に残存」する「日本的なもの」の「え たい」を論及し続けた思想家である。小稿では,

その知的営為を「原型・古層・執拗低音」,「思想 史方法論についての私の歩み」(25)と副題につい た講演記録をたどりながら見てみよう。丸山はそ

(8)

の営為のスタートを「戦後」体験におく。

「戦後になってすぐ私の頭に浮んできた反応は,

戦争中の思想的な鎖国がとけたということです。

つまり敗戦まではご承知のように日本は非常に厳 しい思想統制を敷きました。・・・それがご承知の ように,戦後にはどっと『開国』になったわけで す。『鎖国』から『開国』へという現象 ――それ が一研究者としての私の目の前にひろがった現実 だった。学問的な考察の以前に,日常現実の体験 としてそれがありました。解放されたという感覚 は,同時に思想的な開国を意味したわけです。そ の時私にダブル・イメージとして映ったのが明治 維新だったのです」(26)。丸山はこのようなダブ ル・イメージを背景として,「開国」という問題の 思想史的意味を考える。丸山は「開国」をキーワー ドに日本史の時期区分をおこなう。「7世紀の大化 の改新から律令制度の建設( 1 )(27)という一 連の過程は明治維新と並ぶ,日本史における二大 転機」(28)とした上で,第

1

の開国をキリシタン

(1549年)・南蛮文化の渡来( 3 ),第

2

の開国 を幕末=明治維新( 4 )第

3

の開国を

1945

年 の敗戦( 5 )としている。丸山のこの叙述はマ ルクス主義の「歴史発展段階論」を下敷きにして はいるが,「私はかつてマルクス主義者であったこ とはありませんけれども,何といっても時代から 言って思想的および学問的に非常にマルクス主義 の影響を受けて来ました。当面のテーマ(開国)

に限定していうならば,普遍史的な歴史的発展段 階があることを当然の前提として思想史をも考え ていた」(29)。しかし「私は哲学的にマルクス主義 に疑問を持っていましたし,また上部構造として の思想史という立場だけで思想史の解明が出来る か,ということについても,すくなくも私の勉強 したマルクス主義者の説明では納得が行かなかっ た。けれども,思想史も歴史にはちがいないし,

歴史を考える上ではやはり世界中にあてはまる歴 史的発展段階があるはずだというのが,私の基本 的な考え方」(30)であると,丸山は述べている。

このように述べた後に「『縦』の歴史的発展段階」

について,「どうしてもそれだけでは幕末維新の思 想的景観を,さらに,今度の戦争以後の思想的文

化的景観をとらえきれないのではないか」と方法 上の不十分さを述べて,方法論の彫琢を試みる。

丸山は歴史的な縦の線をたどりながら,いわば

「『横から』の急激な文化接触という観点」を加え ることによって方法を補強し,とらえきれないも のをとらえようとする。すると日本の「開国」に 見られるような「『横から』の急激な文化接触」は 西ヨーロッパではルネッサンス以降にはなく,日 本・東アジアにおける特有の問題である。この「『横 から』の急激な文化接触」こそが「開国」という 歴史的現象であり,横からの異質な文化の日本の 受容の仕方に歴史貫通的な「思考・発想のパター ン」(31)がある。それを明らかにすることによっ て初めて,思想的文化的景観をとらえきることが できる,という結論に丸山はたどりつくのである。

この丸山の異質な文化の日本における受容の仕 方の「思考・発想のパターン」は「原型」→「古 層」という順序をたどり,結局「執拗低音(バッ ソ・オスティナート)」に落ち着くことになる。そ の経緯は理解しておく必要があるので,簡単にふ れておこう。「原型」を「古層」に変えた主な理由 は,「原型」というと一番「古い」時代という歴史 的発展段階,時間的な概念と誤解されかねないの で「古層」という表現に変えた,という。また「古 層」を「執拗低音(バッソ・オスティナート)」に 変えた理由は,マルクス主義の「土台」のように 誤解する人が少なくなかったからだ,という。こ うした変遷を経て,異質文化の日本的受容の仕方 における「思考・発想のパターン」を「バッソ・

オスティナート(basso ostinato)」ととらえる。そ れは「低音部に一定の旋律をもった楽句が執拗に 登場して,上・中声部と一緒にひびくのです。一 つの音型なのですけれども,必ずしも主旋律では ないのです。主旋律はヴァイオリンやフルートの ような木管で上声部に奏せられても構わない。た だ,低音部にバッソ・オスティナー卜があると,

主旋律に和声がつくだけの場合とは,音楽全体の 進行がちがって来る。かりにこの比喩をもちいて 日本思想史を見ると,主旋律は圧倒的に大陸から 来た,また明治以後はヨーロッパから来た外来思 想です。けれどもそれがそのままひびかないで,

(9)

低音部に執拗に繰り返される一定の音型によって モディファイされ,それとまざり合って響く。そ してその低音音型はオスティナートといわれるよ うに執拗に繰り返し登場する」(32)

音楽の素養がないとなかなか理解ができないが,

辞典の記述を要約すると「執拗低音(バッソ・オ スティナート)」とは,「ある一定の音型を同一声 部で何度も繰り返す手法で,低声部に置かれたも のをとくにバッソ・オスティナート(固執低音)

という」(33)。バッハのシャコンヌ(パルティータ 第

2

番最終楽章)が有名であるが,変奏曲形式と 結び付いたり,ラベルの「ボレロ」のように,リ ズム面に応用されたりするものもある。執拗に繰 り返される低音主題の上声部で,連続して様々な 変奏が展開される古典的音楽形式のことを総称し てバッソ・オスティナートと呼ぶ。この時執拗低 音そのものは確固としたメロディを持たず,その 上で変奏される主旋律を支える役目のみを担うが,

変奏される主旋律は次第に執拗低音の影響を受け 時には大きく変質させられ,独自のメロディを奏 でることになる。この音楽を変質させる聴こえざ る力=執拗低音こそが,執拗低音による音楽の本 質となる。

聞き覚えがあるラベルのボレロを思いだすと,

曲の始まりは聞こえるか聞こえないか位の音のス ネアドラムの

「タン・タタタ・タン・タタタ・タン・タン タン・タタタ・タン・タタタ・タタタタタタ」

というリズムから始まり,次第に大きくなりまた 小さくなり,それが全曲

15

分間ずっと続く。そし て同じメロディのパターンを様々な楽器が演奏す る。このリズムの部分が丸山の言う執拗低音であ る。丸山は日本文化の本質は執拗低音としての文 化であり,そこへ入ってきた別の主旋律,例えば 儒教・仏教・西洋思想などを変奏することで,「日 本らしさ」を形成してきたのだと結論づけた。曰 く,「『思想』にかぎりますが,日本の多少とも体 系的な思想や教義は内容的に言うと古来から外来 思想である,けれども,それが日本に入って来る と一定の変容を受ける。それもかなり大幅な『修 正』が行われる。さきほどの言葉をつかえば併呑

型ではないわけです。そこで,完結的イデオロギー として『日本的なもの』をとり出そうとすると必 ず失敗するけれども,外来思想の『修正』のパター ンを見たらどうか。そうすると,その変容のパター ンにはおどろくほどある共通した特徴が見られ る」(34)。ここまで来ると,丸山の「原型・古層・

執拗低音」は加藤の「土着世界観」とクロスする ことが分るだろう。

この方法を駆使して丸山は,縦の歴史的発展段 階論でとらえきれない問題を,いわば横波の「衝 撃論」を組み込むことによってとらえようとする。

それを具体的に述べたものが,次の

2

点である。

「朝鮮半島を含む中国との大規模接触と大化の改 新から律令制度の建設」と「西欧の衝撃と明治維 新」という日本史における二大転機・横波「仮説」

である。ここでは,当面の筆者の問題関心から,

後者の明治維新を検討してみよう。やや長いが引 用する。「大化改新とならぶ大変革である明治維新 を一例にとって見ます。維新の生産関係の変革を 集中的に表現しているのは,ご承知のように明治

5,6

年の地租改正です。これによって,地主に対 して完全な土地所有権を与えたから,これはあき らかに農地改革です。ところが当時の地主という のは直接耕作者かというと必ずしもそうではない。

江戸幕藩体制の内部においてすでに地主と小作と の階級分化が進行し,かなりの程度,不在地主も 生じていた。たとえばフランス革命ですと,直接 耕作者(日本でいえば小作人)に土地の所有権を 与え,貴族の土地は無償没収です。これが『古典 的』なブルジョワ革命になるわけです。ところが 日本の場合,小作人の小作料は江戸時代の五公五 民に近い高額が保証され,フランス革命にあたる ような,原則として直接耕作者にのみ農地所有権 を認めるようになったのは戦後の農地改革です

(この場合も山林地主は除外されました)。これが,

明治維新というのが果して不完全であるにしても ブルジョワ革命といえるのか,それとも絶対主義 の樹立なのかをめぐって,先ほど申しましたよう な,労農派と講座派の激しい論争が生じる一つの 背景です。ということはやはり明治維新という非 常にドラスティックに見える変革でも,意外にそ

(10)

の前の体制との間に連続性があるということを意 味しているわけです」(35)。あきらかに丸山は「『修 正』のパターン」を問題にしている。そして丸山 はパターンを媒介する「執拗低音」をうみだす「ド ラム」を「土地所有」に見立てている。こう丸山 を理解するとどうであろうか。

以上前段では加藤「土着思想」の力,後段で丸 山「執拗低音」を論じてきた。そこで次に,この 学習を生かして,次の作業に入ろう。それは山田 盛太郎『日本資本主義分析』をその視角で読み直 すことである。

2.

加藤「土着思想」・丸山「執拗低音」の方法 からの山田『日本資本主義分析』再読

陸軍や海軍の軍事工廠(工場)の躍進に見られ るような戦前の日本資本主義の発展は,究極的に は農村における,純粋ではないが半ば封建的な関 係に支えられていたと,言える。農村における半 封建的な関係とは,天皇制国家の縮小・凝縮され た姿でもあった。この関係を支える基礎的な統治 原理は,君(天皇)への「忠」と親への「孝」で ある。家長(親)への「孝」は絶対であるという 観念は,天皇を国の家長に見立てて,家長の権力 は絶対であるという家族国家観へと高められ,政 治支配の理論として機能していたのである(「家長 的家族制度」)。ちょうどフランス革命後のフラン ス農民が農地を無償配分され,ナポレオンの熱烈 な支持者(「ナポレオン的観念」)となったように,

農民は自作農を中心として天皇の熱烈な支持者と なり,絶対主義天皇制を支える基盤となり,君(天 皇)への「忠」原理の具現者となった。

この原理は次に述べるような経済関係によって 成り立っていた。自作農家は,養蚕という農家副 業(「老幼婦女の微弱なる労働」)に助けられては じめて農村の中軸としての体面と地位を維持でき たのである。かすり伊勢崎手織りの里よ / かかあ 天下も自慢のひとつ / 女房いなけりゃ夜も日も 明けぬ,と「正調八木節音頭」8 番に唄われるほ ど,上州,いや全国の絹・綿製糸織物産地の「か かあ」は夫のため家族のためには労をおしまな かった。また農村の下層に位置する小作農家は両

親と未婚の長男が農業に従事し,娘や時には母親 が自家や近くの家内工業の工場(「惨苦の茅屋」=

いたましい程のあばら家)で絹糸紡績や絹織物で 手間賃を稼いで家を支える。また娘や次三男坊が 都市の繊維産業や大工場に出稼ぎに出て,厳しい 労働に肉体をすり減らしながら低賃金の中から仕 送りをして故郷の家を支える。「雪が降ってくりゃ,

野麦峠には銭が降ると思って行け」と親にいわれ,

飛騨高山から製糸工場のある岡谷・諏訪に抜ける 雪の野麦峠は工女たちの赤い血で染まったという。

当時飛騨地方の田んぼ

1

反歩が

100

円か

150

円の 時に,年季明けには

100

円を持ち帰る「百円工女」

もいたという。しかし工女たちの「糸引き」労働 は,1000人あたり死亡者

23

人という推計が示す ように,過酷この上ないものであった。その

7

割 が結核だったという(36)。収穫した米の

7

割近くを 地主に持ってゆかれ,肥料や種代を除くと手元に

2

割弱しか残らない小作農家は,食うだけで精一 杯の暮らしを家族間の相互扶助によって,ようや く維持できたのである。この農村の頂点にいたの は地主であった。地主は税(「控訴諸掛」)を納め ても,およそ全収穫の

3

5

分で暮らしを維持し,

地位を保持できたのである。地主は所有農地を自 身で経営するより,細かく分けて小作に貸出し小 作料を取った方が経済的に有利であったから,小 作農家に寄生する,文字どおりの「寄生地主」に なったのである。「かくの如き。土地所有者たるの 資格が圧倒的に優位を占める・・・場合において は,利潤を目標とする資本主義的経営の成立しう る余地」(37)はない。農業経営者(資本家)が地 主に収穫物の

7

割近くの地代を払わねばならない とすれば,到底経営は成り立つはずがない。ここ に「利潤の成立を許さぬ全剰余労働吸収の地代範 疇=地主資格」が成立することになる。そしてこ の「地代範疇=地主資格」は,小作人が地代を地 主に納め,地主が税を国家に納める事によって成 立することになる。そしてこの

7

割近くにもなる

「地代と税」は,とうてい資本主義的経済法則か ら導かれたものではなく,絶対主義天皇制国家の

「公力=強力=〔経済外的強制〕」によって可能と なったのである。徳川幕府・封建制顔負けの「半

(11)

封建的」性格といえよう。この税が強力な軍事力 を確保するための軍事工業(軍工廠)の原資となっ たことは言うまでもない。

こうした経済関係が土台となって,親を支える 子の親孝行の観念=「孝」は,国の家長・親であ る天皇を支える「忠」という観念に二重写しとなっ て,国家的な規模にまで拡張されていった。親へ の孝の観念の中で生き孝行を尽くす小作農民に とって,天皇の赤子として,国の親である天皇へ の「孝」を尽くすこと=「忠」は当然とされた。

儒教的「忠と孝」の観念は,日本国家を異様なま での神がかりの国に肥大化させていった。こうし て,国家の頂点に立つ天皇を,底辺の農村が支え るという構造は,戦前日本資本主義=日本国家の 強さを意味していた。この忠と孝の観念はすでに 述べたように,同時に経済的な強さも意味してい た。すなわち親孝行の証である賃金(手間賃や仕 送り)の補充があるからこそ,小作農家は高率小 作料を支払えるのである。また逆に家計補充であ るから低賃金が成立する。また親元の家計を支え ねばならないからこそ,故郷の家が自分をあてに して待っているからこそ「肉体消磨的労働条件」

過酷劣悪な労働にも耐えようとする。半隷農的小 作料支払い後の僅少な残余部分と妻や娘の機織な どの低い賃金の合計で貧しい一家の家計・暮らし がようやく成り立つ。「かかる関係の成立こそは半 隷農的小作料と半隷農的労働賃銀との相互規定関 係存立そのものを意味する」(38)。この相互規定が

2

層構造アーチ(「二層穹窿」=屋根を支える太い 半円形の梁)となって,軍事重化学工業をささえ,

さらにその上に聳え立つドーム(伽藍)である「天 皇制=軍義的農奴制的官府」を支えているのであ る。この相互規定のうちにある日本資本主義の厖 大な寄生的地盤=恥部(39)こそが「日本資本主義 興隆の絶対的要件」であり「日本資本主義存立の 地盤」なのである。

しかし,この「相互規定関係」,戦前日本資本主 義・国家の強さの「絶対的要件」「地盤」は崩れは じめ,強さは逆に弱さに転化する。第

1

次世界大 戦後の戦後恐慌(1920大正

9

年)は,繭価の暴落 による養蚕(農家)の破綻と輸出産業である絹糸

紡績や絹織物などの繊維産業を破綻させ,「相互規 定関係」「存立の地盤」を掘り崩していった。農村 生活の破綻的な状況のもとで,農民たちは天皇制 国家の支配原理の虚妄性に気づき,国家は揺らぎ 始めることになる。絶対主義天皇制国家・政府は,

この危機の打開を国内の強圧政治と中国大陸への あてもない侵略戦争によって回避していこうとす る。だが資本は自らの意に反して,この流れに反 対し抵抗する勢力=労働者を訓練し階級に育て上 げる 。「 生 産 機構 =労 役機 構は 労働 力を 陶冶 す る」(40)のである。日本資本主義の基軸であり最 重要産業である「軍事機構=鍵鑰(キイ)産業は,

必然的な事情の下に,最も良く透視のきくまた最 も質量的な労働力を陶冶する。当該プロレタリ アートの客観的作用遂転の問題【=革命】におけ る応答的【必要】条件はここに成立する」(41)。 陸軍工廠,海軍工廠,製鉄所や炭鉱,あるいは 繊維関連大工場での労働の中で,労働者は組合を 結成し労働争議で資本に対抗する。こうした労働 者の中で旋盤工,ミーリング工,製罐工などが重 要な役割を果たすが,なかでも「労働力群編成の 枢軸として・・・最も透視のきく」(42)リーダー となりうる労働者は旋盤工達である。工業の「基 本技術」にかかわる旋盤は機械を作る機械=工作 機械(マザー・マシン)のひとつで,機械制大工 業の中枢に位置する機械である。その操作(労働)

は当時の水準においても数百分の

1

ミリの精度を 要求されたが,その労働の質・内容からも分かる ように,旋盤工は「科学的技術的な熟練と体力と が所要とせられ,したがって厳格なる修練が施さ れ」(43)た者達だったのである。物事をきちんと 見つめ,やり遂げる能力を彼らは身につけていく。

「軍事機構=鍵鑰産業」における,「厳格な修練」

を経た「頑強,強靭なる『鍵』労働力」(44)をも つ彼らこそが,「資本主義生産過程それ自体の機構 によって訓練,結合,組織」(45)された者=プロ レタリアートであり,来るべき〔日本革命〕の担 い手となる。

その場合,日本革命の第一の課題は,「資本主義 改更」すなわち社会主義革命に置かれるわけでは ない。「半封建的土地所有制=半農奴制的零細農

(12)

耕」は,日本資本主義の岩盤である地主制と大工 業をささえた。これによって軍事警察的絶対主義 は存立し得たのである。しかもそれが「忠孝」の 思想的土台となって天皇制イデオロギーを支えて いたのである。まずここの打破が求められること になる。農村の半封建制の打倒を中心任務とした ブルジョワ民主主義革命がプロレタリアートの当 面の目標になる。当然のことながら当事者である 農民との同盟は不可欠である。「労農同盟」の形成 によって,軍事的警察的絶対主義の打倒と,農村 における土地改革を主眼としたブルジョワ民主主 義革命を目指しながら,その先に社会主義革命を 展望する。曰く「プロレタリアートがプロレタリ

アートとしての基本型列と基本線とにつくものと なる。軍事的半農奴制的な日本資本主義の厖大な る地盤を構成する所の半隷農的零細耕作農民での 基本線は,それの下にそれへ統合するものとなる。

両基本線の統合【労農同盟】での規定的展望は,

諸々の労役型の分解とその二層穹窿,二重の基礎 原理の壊頽の客観的過程において,その科学的必 然の客観性が与えられる」(46)

『日本資本主義分析』は『日本資本主義発達史 講座』」掲載の一連の諸論文(1932年

5

月~1933 年

9

月)をまとめたものであるが,同時期に発表 された「三二テーゼ」(1932年

5

20

日「インプ レコール」独語版発表年月日)とシンクロする性

(13)

格の著作であった。「三二テーゼ」は日本の支配構 造を天皇制・地主的土地所有・独占資本主義の

3

要素から分析し,ブルジョア民主主義革命から社 会主義革命への強行転化を説いたコミンテルンの 日本革命の方針書である。「全機構揺撼(ヨウカ ン)によって象徴付けられる所の一般的危機の推 展」(47)の時代に,「暴圧の身に迫るのに抗し,激 動の時代のうちに科学を担うものの使命をみて とった,当時なお少壮とみられる科学者たちの一 団は,・・・『講座』に拠りつつ,・・・この国の歴 史に『変革の科学』の礎をおき,そこに不滅の文 字を刻むことになるのであって(いわゆる『講座 派』マルクス主義の成立と『資本主義論争』の開 始),じじつそれは,やや逆説めくが,そうした歴 史的時機だけが,またそうした『限界状況』若さ だけが,産みだしえたにちがいない,ひとつの記 念碑的事業」(48)であった。この「事業」は「当 時のこの人たちの身辺から推して,それはもはや 己が生存それ自体の『証し』」だったのであり,『資 本論』の「師・先人の説をうけついで学問を進め,

述べる祖述者」としての生涯を送ろうというよう な者には,とうてい成し得ない「事業」であった。

以上が加藤「土着思想」,丸山「執拗低音」の検 討の後,読みなおした山田盛太郎『日本資本主義 分析』の要点である。再度,加藤と丸山の視点で それを布衍すれば以下のとおりである。「西欧の衝 撃」は経済面でいうと輸入・移植された欧米の資 本主義(生産手段)との出会いである。それが日 本のいわば「土着思想」「執拗低音」とも言うべき

「半封建的土地所有=半隷農的零細農耕」すなわ ち「半封建的基盤」に接触したとき化学反応を起 こした。この「半封建的土地所有=半隷農的零細 農耕」というのは,丸山の叙述(49)をもってすれ ば,直接耕作者である小作人には土地所有権は与 えられず,封建領主たちの領地=土地所有権はか たちを変えて温存され,江戸時代と同じ高額の小 作料も保証された,ということである。丸山の言 う「横からの異質な文化」の日本の受容の仕方に おける歴史貫通的な「思考・発想のパターン」の ことである。丸山は「パターン」というような言 い方で,受容の仕方いわばソフト面を強調してい

るが,それは思想面を考察する場合にはそうなる であろう。だが実体を問題する場合にもその方法 は援用できると思われる。「横からの異質な文化」

が「執拗低音」である「半封建的土地所有=半隷 農的零細農耕」という「半封建的基盤」と接触し たとき,どの様な化学変化・反応が起き,なにが 生成されたかをみる際の分析視角・方法としても,

その方法は有効だと考えられる。

農家の娘と次三男は,この土壌からしみ出るよ うにして農村家内工業・工場制手工業や都会の大 工場の労働者となっていく。欧米の資本賃労働関 係は,モディファイされ日本型に鋳なおされる。

農村内工業で働く娘の賃金と都会の大工場の男女 職工の賃金は,実家である農家の生計費を補充す る。生計補充的であるから賃金水準は低く抑えら れ,また家計を補充しなければならないから厳し い労働にも耐え得る。戦前の労働者を半隷奴的賃 金労働者という理由がここにある。「日本産業の花 形とまでよばれる日本紡績をも含めた一般産業に おける低賃金。まことに身を消磨してゆくほどの 低い労働条件。そのようなもとに働きにゆく膨大 な労働力群を流れ出でしめるいっそう低い農村経 済生活条件の存在―すなわち,日本資本主義の半 封建的基盤がここに存するのであります」(50)。欧 米の労働者はこのようにしてモディファイされて,

日本の労働者になった。これによって「自作農」

は農村の中核としての体面を保て,小作人は何と か暮らしていけ,地主は高額の小作料を徴収でき,

地租を国家に納めることが出来る。威容を誇る「天 皇制=軍義的半農奴制的官府」政府はこうして維 持される。この相互規定の厖大な寄生的地盤=恥 部こそが「日本資本主義興隆の絶対的要件」であ り「日本資本主義存立の地盤」なのである。第

1

次世界大戦後の戦後恐慌(1920大正

9

年)から続 く世界恐慌(1929年)によって「半封建的基盤」・

農村は壊滅的打撃(51)を受け,

2

本のアーチ(「二 層穹窿」)は威容を誇る「天皇制」をささえきれな くなった。「天皇制」を支えた

2

つのイデオロギー

「家父長的家族制度」と「ナポレオン的観念」は,

大きく揺らぎ崩落し始めたのである。したがって

15

年戦争(1931昭和

6

年~1945昭和

20

年)は,

(14)

農村解体・破滅を中国大陸への侵略によって防遏 しようとした絶対主義天皇制政府の選択なき選 択・「国策」であった。

Ⅲ.まとめ――戦後日本の「土着思想」 ・ 「執 拗低音」

1945

8

15

日,無条件降伏で戦前日本・軍 事的=半封建的帝国主義国家は瓦解した。加藤周 一は東京大空襲犠牲者を本郷東大病院で治療した のち信州上田で,丸山真男は広島陸軍船舶司令部 で被爆二等兵として,そして山田盛太郎は機能停 止の上海東亜研究所の職員として,それぞれの敗 戦を迎えた。

丸山はこの敗戦を「第

3

の開国,敗戦・全面開 国」として,「第

1

の開国,キリシタン・南蛮文化 の渡来」,「第

2

の開国,幕末・明治維新」と並ぶ

「文化接触」「衝撃」と,とらえた。しかし,管見 によれば丸山は「原型・古層・執拗低音」という 日本思想史における方法論上の劃期としては触れ てはいるが,敗戦後の「日本思想」そのものは論 じてはいない。すなわち「戦後日本の巨大な変化,

特に思想の変化,その変化にもかかわらず変わら ないものをつきつめる知的作業」を十分に果たせ ぬまま世を去った。加藤は,敗戦が政治・経済・

社会・文化の大変革期であったことを認めた上で,

「著者自身がその渦中にあった一時代の文化と同 時代人の仕事を客観的に眺めることは,遠い時代 を振り返る場合よりも,はるかにむずかしい」(52)

とし,「整理の試み」にとどめている。

山田にとっては『日本資本主義分析』で展望し た【革命】の機会が

12

年目にめぐって来たことに なる。「【労農同盟】での規定的展望は,諸々の労 役型の分解とその二層穹窿,二重の基礎原理の壊 頽の客観的過程において,その科学的必然の客観 性が与えられる」と述べた展望である。「日本資本 主義は・・・敗戦(昭和

20

8

15

日)ととも に崩壊した。日本の史上における一階梯としての 軍事的半封建的,日本資本主義は,明治維新以来,

敗戦に至るまでほぼ

4

分の

3

世紀にわたるその歴 史的生涯をここに了えた。一の階梯が終り,新た

な,より高次な階梯が劃期されようとする。その 劃期=変革〔民主主義革命〕の基本過程となると ころのものは,旧構成の基抵〔半封建的土地所有 制=半隷農的零細農耕〕における変革的な再編で なければならぬ。かくして次の点が明らかである。

日本における土地問題の解決は,現在,進行中の,

日本民主化の過程における最も基礎的な一要素を 構成する。その意味においで,今次の農地改革は,

民主主義革命期日本における最も重要な課題をな すところのものである」(53)。山田はこう述べて,

これ以降農地改革の研究に全精力を傾注する。

「日本農業の方向は自ら与えられます。すなわ ち,第一。日本農業の変革は小作関係重圧と零細 耕作との相互規定の構造を揚棄する方向に向けら れねばならぬこと。したがってまず小作関係の重 圧から解放することによって経営改善=拡大の指 向を促し,日本農業の構造上の型の高度化を指向 すべきこと。第二。日本農業の構造上の型の高度 化に対して,技術的基礎を準備すべきであること。

かくのごとくして,日本農業の,より高度の,本 格的な農業構造への再構成を達成しうるならば,

そのときはじめて,日本の歴史上,第五の劃期が,

その意義を獲得するに至るものとすることができ るのであります」(54)。戦後の「民主主義革命」に おいて最も規定的と山田が考えた「農地改革」は,

たしかに耕作者に土地所有権が認められ,その点 では明治維新で積み残されたブルジョワ革命の課 題,山田が「第一」としてあげていた課題は達成 された。しかし農家

1

戸あたりの耕地所有面積は 平均

1

ヘクタールで,とうてい農家が自立できる 経営面積ではなかった。「零細農耕」は取り残され たままで,山田が「第二」に掲げた「本格的な農 業構造への再構成」は達成されず今日まで残され た。だがその残された課題=「零細地片私的土地 所有=零細農耕」は農村にとどまらず都市へと拡 散し,資本・企業の土地所有,さらには都市勤労 者の「小規模住宅地所有」問題へと拡大していっ た。それが冒頭に掲げた「土地」にまつわる悲喜 劇を生み出した。

こうしたことが可能となったのは,おもに次の ふたつの理由による。第

1

に有効な制限原理をと

(15)

もなわない土地の「絶対的私的所有権」が認めら れ,封建領主並みの「土地所有者たるの資格の圧 倒的」な優位は保持された。そして第

2

に不徹底 な「農地改革」によって細分化された零細農地・

土地「所有」は,「土地の切売り」・売買を容易に した。高度経済成長による太平洋ベルト地帯への 資本・企業の集中・集積は地代・地価高騰の強い 要因となった。地価騰貴は

1951

年から

1990

年ま でのおよそ

40

年間継続した。「土地神話」が語ら れ,土地は投機の対象となり,キャピタルゲイン は発生し続けた。小坂明子が歌った「白い家」・庭 付き一戸建て住宅は,地価上昇によって「売れば これだけになる」というサラリーマンの期待値・

幻想を生み出した。同時に零細農地,とりわけ都 市近郊の農家は,地価上昇の「恩恵」に浴した。

土地所有者たる資格の圧倒的優位は,戦後保守政 治に最も苦しむ勤労者と農民,とりわけ農民が保 守政治の分厚い支持層になるという転倒的観念を 生み出した。没落させられる者が没落させる者を 熱狂的に支持する「ナポレオン的観念」は戦後に も継続したのである。

戦後日本資本主義は,アメリカの冷戦体制構築 という世界プロジェクトの一環として〈外から〉

日本政府も関与して〈上から〉立ち上げられたの であるが,その時本来無価値であるはずの土地を 資本と見立てたのである。右肩上がりの地価の「含 み益」は,およそ

40

年間(1951年~1990年)継 続し,企業・資本の借入れを可能にし,生産設備 などの現実資本に転化した。また,企業・資本は この土地を投資・投機の対象にして,莫大な利益 をあげた。

そしてもう一点,日本の「高度成長」=「高蓄 積」にとって欠かせないのは,厳しい労働に耐え る低賃金労働力の存在である。「自動車絶望工場」

の著者・鎌田慧は「当時の出稼ぎは中高年が

8

割,

残りが若者だった。今と逆ですね」という。1970 年代初頭,鎌田の故郷・東北の出身者を中心に,

全国で年間約

55

万人の出稼ぎ労働者が主に工業 部門へ送り出されていた。同時に農村の若者たち も「中卒・金の卵」という若年労働者として都会 の職場に出かけていった。零細農地=農家所得で

は食えない農民は都会への「出稼ぎ」によって,

「田舎の家」の家計・暮らしを維持したのである。

また兼業によって何とか暮らしをたてた。いずれ にしても,高度経済成長による人手不足が農漁村 から猛烈な勢いで人を吸い上げ,農村は労働力を 排出する「労役土壌」となった。家計補充的であ るから低賃金が成り立つ。また逆に,低賃金でも 帰るべき田舎の暮らし・農業があるからそれを甘 受し,過酷な労働にも耐える。これらに関わるも ろもろの話は,経済大国日本のもう一つの側面で ある。アメリカからもち込まれた外からの「仕組 み」が日本の「基盤」=土地所有に接触して「日 本的な仕組み」に転化した。丸山の言う「第

3

の 開国・敗戦・全面開国」で「横からの異質な文化」

=「アメリカ民主主義」が「執拗低音」とも言う べき「零細地片私的土地所有=零細農耕」という

「四分の一封建的基盤」と接触した。この時どの 様な化学変化・反応が起き,そこになにが生成さ れたのか。中断した「農地改革」の結末,遣り残 した問題が今日浮上してきている(55)

(1) http://listen.jp/store/artword_1000883_1361.htm(2008.

8.10

アクセス)

(2) 上野千鶴子『家父長制と資本制』(岩波書店,1990 年)194頁。

(3) 「朝日新聞」1995年

7

9

日,朝刊

5

頁。

(4) 飯田清悦『一流会社の含み資産』(三一書房,1966 年)174頁。

(5) 「朝日新聞」1990年

7

20

日,朝刊

9

頁。

(6) 「朝日新聞」1986年

8

30

日,夕刊

7

頁。

(7) 山田盛太郎『日本資本主義分析』(岩波書店,岩波 文庫,1977年)236頁。

(8) 丸山眞男「Ⅲ,原型・古層・執拗低音,思想史方法 論についての私の歩み」(加藤周一・木下順二・丸山 真男・武田清子『日本文化のかくれた形』岩波書店,

岩波現代文庫,2004年

136-148

頁)。

(9) 加藤周一『日本文学史序説,上』(筑摩書房,ちく ま学芸文庫,1999年)45頁。

(10) 「戦後日本資本主義の『基本構成』分析試論,欧米 類型からアジア類型(日本・アジア

NICs・中国)と

しての再定義」(『国際学研究』明治学院大学紀要,第

32

号,2007年

12

月,35頁)。

(11) 山田盛太郎「農地改革の歴史的意義,問題総括への 一試論」(『山田盛太郎著作集,第

4

巻』岩波書店,

1984

参照

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