今, 変動する社会の中で, 私たちは安心や信頼を求めているようである。 安心や信頼は, 日 常生活の中でたがいに理解し, 援助しあう人間関係から生まれるといえる。 ここでは, 私たち が他者を理解し, 援助するために踏まえることが望ましいいくつかの原則を, 心理学の観点か ら探っていきたい。 福祉・教育・保育の現場での実践に共通する, 基本的な視点を考えていく。
1 人間理解の2つの方法と援助
他者を理解する方法には2つある。 1つは, 他者に外在する基準によって, 人を客観的に理 解する方法である。 たとえば, 医者は診断基準に依拠して 「患者は鬱病」 と診断する。 高校生 は模試の偏差値によって, 友人に 「お前は頭がいい」 と言う。 企業の人事担当者はSPI (適性 検査) の結果から, 「この学生を採用しよう」 と考える。 これらの理解は, 治療, 入学者の決 定, 人事採用といった, 理解する側の目的のためになされる。 私たちは, 自分の目的を実現す るための手段として, 他者を外的, 客観的に理解しようとする。
他方, その人を知りたいという動機から, 自分の目的のためというより, 他者本位の理解が なされることがある。 親友あるいは恋人について, 彼 (彼女) のことをもっと知りたいといっ た例である。 そこでは, 他者に内在する基準にそって, 共感的に理解する方法がとられる。 他 者がなぜそのように振る舞うか, そのことを自らの経験をモデルに 「そうする気持はわかる」
と納得していく。 この場合の共感は, 同感 (情) と異なる。 そのことを平木典子 (1989) は, つぎのように説明する。 冬の日, 冷たい川の中で, 染め物をさらす人がいる。 川に入ってその 人に 「冷たいね」 という人は, 同感 (情) する人である。 しかし, 川には入らないが, 川の中 の人のしぐさや顔つきをじっと見つめ, その人と言葉のやり取りをする中で冷たさを実感し,
「冷たいでしょうね」 と心からいえる人は, 共感する人である。 そこでは, 「相手の基準にそっ て, 実感的に想像する力」 が求められる。
援助は他者本位の視点, 他者への関心からはじまる。 そのため, まず相手を内的基準から共 感的に理解することが, 援助の第一歩となるべきである。 その理解がある程度すすんだ段階で, 必要におうじて外在基準による客観的理解, たとえば心理テストによるアセスメントなどを実
人間の理解と援助の心理学 *
矢 澤 圭 介**
*The Psychology for Understanding and Helping a Person
**Keisuke YAZAWA (立正大学社会福祉学部人間福祉学科)
キーワード:共感的理解, 3つの着眼点, やる気とやらされ気, 応答的対応
施していくことになる。
2 共感的理解の3つの着眼点
では, 共感的理解はどう行ったらよいのか。 相手に肯定的関心を持って, その人の生活の場 で, 相手を関与的に観察していくことはおおいに役立つ。 観察やその人とのやり取りから,
「どうしてあそこでああする (いう) のか」 と, 相手がそこで経験しているであろう内容をつ かんでいく。 そこでは, つぎの3つの着眼点が役立つ (キーン, E. 1989)。
第1に, 相手を, 過去をもち, 未来を予期してそこにいる, 時間的存在としてとらえる。 人 は歴史を背負い, 過去の記憶にもとづいて未来を志向しつつ生きている。 このことが現在の振 る舞いの背景となっていることを忘れずに, その振る舞いの意味をつかむ。 たとえば, 5歳児 が友だちの家へのお泊まりの準備をしている。 彼女は, 友だちと過ごした楽しい時間を思い出 しながら, 「楽しいお泊まり」 を予期して, お気に入りの人形を袋に詰めるのである。 また, 大震災を体験した中学生は, はしゃいでいたかと思うとふと黙り込んでしまう。 過去の悲惨な 記憶が急激によみがえり (フラッシュバック), 現在の状況に取り組めなくなってしまうので ある (心的外傷後ストレス障害)。 このように, 過去の体験の概要を知っていればいるほど, その人の現在の振る舞いの意味はつかみやすくなる。
第2に, 相手がその生活の場, 空間をどう見ているかをとらえるようにする。 たとえば, 電 車の中, 私の目の前で, 下校時の女子高生が制服のスカートをたくし上げ, ゴムひもを取り出 してミニスカートにした。 また, OL風の女性が電車の中で歯を磨いた, という雑誌記事があっ た。 この人たちと, 電車という場を公共的空間と見なす, 私の見方とは決定的に異なるといえ る。 同じように, 施設で利用者の居室を見せてもらえば, その人が施設をどうとらえているか はある程度わかる。 人は自らの視点で, 生活しやすいように環境をつくるからである。 俳句の 本があり, 家族の写真の飾られた老人施設の居室, 何の装飾もなく, 学習机の上にカバンが乱 雑に放り出されている児童養護施設の居室。 それを見れば老人と児童のどちらが, 施設を自ら の 「居場所」 と見ているかは, 一目瞭然であろう。
第3に, 相手を周囲の人々と関係を取りむすぶ, 社会的存在としてとらえていく。 私たちは, たがいに役割期待を寄せ合いながら生きている。 たとえば, 学生は, 教師が有用な知識をわか りやすく伝えてくれることを期待する。 教師は, その期待に応えようと努力する。 それは, 彼 らを失望させたくないからである。 また, 一度約束したら, 私たちはたがいにそれを守ろうと する。 したがって, 相手の振る舞いを理解しようとするなら, 相手がその場で, 周囲とどんな 人間関係にあるかをつかまなくてはならない。 もちろん, 役割にはフォーマルなものとインフォー マルなものとがあり, 後者の方がつかみにくく, そしてしばしば相手の振るまいへの影響は大 きい。
相手に関心をもったら, その身なりと姿勢, 体つき, 表情, 身振り, 動作をよく観察し, そ の人の活力の程度や感情の起伏をとらえる。 また, 落ち込んだすわり方をしながら, 「気分が
いい」 というといった言葉と振る舞いの不一致に注目する。 それは, その人が何らかの問題を かかえている可能性のサインだからである。 さらに, 自分はリラックスして相手に集中できて いるか, その場の状況で違和感を感じていないか (相手について何か見逃しているかもしれな い), と自分の状態にも目配りして, 相手にかかわりつつ観察していく。 そうした観察にもと づいて, 相手が気持を過去に向けているのか未来に向けているのか, 場面をどう受けとめてい るのか, 他の人々とどのような関係にあるのか, という3つの着眼点にそって, 「相手はこの 場面でどんな経験をしているか」 を考え, 感じ取っていく。
3 共感的理解そのものが援助になる
心理学では, ピグマリオン効果 (ローゼンソール, R.・ジェイコブソン, L., 1968) という現 象が知られている。 ピグマリオンとは, ギリシャ神話に登場するキプロス王である。 彼は理想 の女性像を彫刻し, その像に恋した。 彼はヴィーナスに祈り, その結果, 像は命を得て彼はそ の女性を妻とした。 この逸話と同様に, 教室で教師がある生徒に期待をいだくと, その期待は 成就し, その生徒は能力を伸ばす傾向がある。 この現象をピグマリオン効果という。 どうして そういうことが起こるのか。 「この子は伸びるはず」 と教師が期待をいだくと, 教師は無意識 のうちにその生徒への質問を多くし, 解答できないときにも考える時間を与え, ヒントを出し たりすることが見いだされている。 人間として相手を尊重した, 親切で配慮的な扱い (つまり
「見守り・気づかい」) が, 生徒の能力を育てるのである。
いじめでの 「シカト (無視)」 がどんなに辛いかを考えれば, その対極にあるものとして,
「見守られる」 ことがどんなに励みになるかは容易に理解される。 相手を共感的に理解し, そ の理解が相手に伝えられるならば, その人は 「わかってもらっている」 という実感をもつだろ う。 その実感は, その人の孤立感をうすめ, 「駄目な自分」 を責めるかたくなな姿勢をゆるめ, その人を自由にし, 現実にもう一度立ち向かう勇気をわき上がらせる。 他者から 「見守られ・
気づかわれる」 ことは, 人間の成長を生み出しうるのである。
しかも, 「見守られる」 ことは, 対象者の 「わかってもらっている」 という意識性をともな わなくても, 人の成長変化を引き起こすらしい。 三好春樹 (1992) は, ある特別養護老人ホー ムで植木, 洗剤と手あたりしだいに 「異食」 する, 74歳の女性の事例を報告している。 この場 合, 手足をベッドにしばる 「抑制」 も1つの手段だが, それでは問題の何の解決にもならない。
寮母たちは話し合って, 昼間, 職員を1人, マンツーマンでこの女性に付けることにした。 ベッ ドで横になっていれば, ベッドサイドで手を握って話しかける。 うろうろしはじめたら, 手を つないで一緒に歩く。 何か口に入れようとしたら, やんわりと止める。 歩き疲れて昼寝すると きには添い寝し, 寝入るとベッドから出る。 こうしたことを毎日繰り返したところ, 1週間で ぴたりと異食も徘徊もしなくなったという。
この女性の変化は, どうして起こったのか。 私には, 2つの要因が働いたように思える。 1 つは, スキンシップといったレベルでの寮母との交流が, 痴呆の進んだ女性に非意識 (非言語)
的な 「わかってもらっている」 感, 「人との絆」 感を生み, 精神的安定を促したこと。 もう1 つは, 寮母が話しかけ, 異食を制止し, 行動をともにしたことが, 女性が彼女なりに 「生活と いう現実」 の認識を回復する手助けになったことである。 ケアという実践では, この励まし・
支える側面と現実 (リアリティ) を伝える側面が, 「車の両輪」 になると私は考えている (こ の点は後で再び扱いたい)。 こう考えると, 相手への共感的理解はケア (見守り・気づかい) の1つとして位置づけられるのである。
4 人間は意味を求めて生きている
それでは, なぜ他者のケアや共感的理解は個人の成長を促しうるのだろう。 いろいろな考え 方ができるが, ここでは 「人間が, 内からの要求と外からの要求に応えて生きているから」 と 答えておこう。 内からの要求に応えていく意欲を 「やる気」, 外からの要求に応えていく意欲 を 「やらされ気」 と名づける。 現代社会は競争社会であるため, そのシステムにどっぷり漬かっ て, 私たちにはやらされ気が過剰に喚起される。 やらされ気は外からの賞や罰で動かされる意 欲だから, どうしても結果や達成に私たちの意識が向きがちになる。 そのため, 取り組みのプ ロセスを楽しむことができにくくなる。 しかし, 人生では, 歩く, 見る, 味わうといった生活 自体が意味をもつから, それらが積極的に楽しまれなくなると, 私たちは人生そのものに疑い をもち, 倦怠・無気力に陥りやすくなる。
これに対し, やる気は, 自分自身が本当にやりたいからやる意欲である。 好奇心の発揮,
「やればできる」 という実感の追求, 自分からすすんでやり抜く自立心などがそこには含まれ る。 現代社会を健康に生き抜くには, このやる気とやらされ気のバランスが必要である。 理想 的には, この2つの意欲が一致することである。 しかし, ややもするとやらされ気がやる気を 上回ることが多くなる。 ところで, 私たちが生きていくのに, 他者からのフィードバックは, 自分のとらえ直し, 自分が生きる現実 (リアリティ) の確認のためかけがえなく重要である。
そのフィードバックが, 客観的理解にもとづいて与えられるなら, やらされ気が刺激され, 共 感的理解にもとづいて与えられるなら, やる気が刺激されるということは容易に理解されるだ ろう。 他者のケアや共感的理解は, 私たちがやらされ気の中で見失いがちな, やる気を回復す るきっかけとなりうるのである。
心理学者のマスロー, A. (1963) は, 1938年頃, 学部卒業と同時に, 異例の高給の得られる チューインガム工場のマネージャー補佐の職を得た女子学生の事例を紹介している。 彼女の幸 運は友人たちの羨望の的であった。 しかし, 彼女は1年を経ると, 不眠, 食欲不振, 月経障害, 性的嫌悪, 漠然とした不快に悩み, やがて人生全体への無意味感にさいなまれるにいたった。
マスローが話してみると, 学部時代, 彼女は心理学の優秀な学生で, 幸福で成功をおさめてい た。 知的研究に魅せられていたにかかわらず, 家庭の事情から大学院への進学はできなかった。
それでも, 現在の仕事と俸給を幸福と思うべき, と考えていたのであった。 マスローは彼女に,
「あなたが深い挫折感を味わい苛立つのは, 自分自身の知的な自己から離れているからに過ぎ
ないのではないか。 心理学への知能と才能を使っていないことが, 人生への倦怠や生活のふつ うの楽しみへの身体的障害のおもな原因ではないか」 と話した。 彼女はマスローの提案を受け 入れ, 仕事の後で夜間の大学院で勉強を続けることにした。 それによって, 彼女はすっかり元 気になったのであった。
マスロー (1967) は, また, シナノンという麻薬中毒回復者の共同社会についてつぎのよう に述べる。 人間が基本的に必要とするものは少ない。 第1に, 人間は保護感と安全感を必要と する。 つまり, 安全を感じるよう, 小さい頃に大事にされる必要がある。 第2に, 人間は何ら かの家庭, 部族, 集団への帰属感を必要とする。 第3に, 他者から愛情を向けられ, 自分たち が愛されるに値する者であるという感情をもたなくてはいけない。 そして第4に, 尊敬と尊重 を体験しなければいけない。 私たちが抱えるアルコール・薬物・犯罪といった問題は, 社会の 中で人々がこうした基本的な欲求を充足できないことに, 原因が求められる。 その欲求不満か ら, 麻薬中毒者は主観性の塔に閉じこもって, 周囲の者を自分の生き方を脅かす者として心の 底で恐れるようになる。 シナノンでは, 中毒という精神疾患は 「責任放棄」 とみなされ, メン バーは集団療法の中で赤裸々に接し, 批判しあう。 これによって, メンバーは 「人生で初めて, 真の親密感, 友情, 尊敬を体験し, 自分が自分であり, それゆえに人々は自分を殺そうとはし ないことを感じ」 るのであった。
マネージャー補佐の女性のように, 中毒者のように, やらされ気で生き, 生活行動が自動化 し, 態度が受動化すると, 私たちの精神的・身体的健康は損なわれがちになる。 マスローは, 前記の4つの基本的欲求が充足されると, 私たちには 「自己実現」 の欲求が起こるという。 そ れは 「人がなることの可能なすべてになろうとする」 欲求である。 そこでは, 真・善・美・全 体性・躍動・独自性などの価値が追求される。 たとえば, 「うまい食事」 に目覚めた大学生が, レストランでバイトをし, 夜間の調理師専門学校に通う。 そこでは, 調理, サービス, インテ リア, 経営という領域が新たな世界として立ち現れ, そこで体験し学習することに精神が集中 される。 やがて, 彼の中では 「うまい食事」 を作り, 提供するという 「意味」 が確固としたも のになる。 その 「意味」 は意志を刺激し, その実現へと彼をいざなう。 人間は意味を求めて生 き, その実現に集中できている限りで健康なのである。 受動的態度は退屈を生み, それは意志 を損ない, そして健康をも損なう。
5 援助の基本はニーズへの応答的対応
人間はやらされ気だけでなく, やる気で生きたい存在である。 それを 「意味を求める」, 「自 己実現」 と表記してきた。 その核心にあるものを突き詰めると, 「人間は自分のことは自分で 決めたい存在」 ということができるだろう。 たとえば, 2歳児が服を着ようとするのを手伝お うとすると, 「いや」 と拒絶されることがある。 また, 塀に穴があいていて, 「覗くべからず」
と書いてあったら, 皆さんはどうするだろう。 多くの人は, かえって覗きたくなるのではない か。 このことを心理学者のブレム, J. (1966) は, 他者からの制止で行動の自由が阻止される
と, その自由を取り戻そうとする心理的抵抗 (「リアクタンス」) が働くからと説明する。 この ことを踏まえると, 他者への援助は, その人の自己決定の方向に沿ったものでないと, 「お節 介」, 「よけいなお世話」 になってしまうことになる。
高齢者は子どもと会う機会が多いほど幸せ, とふつう私たちは考える。 しかし, それは高齢 者がどんな期待をもつかによって違ってくるらしい。 アメリカのデータ (リー, G.・シーハン, C. 1989) だが, 高齢者が身内の支援を期待するかどうかで分類し, その生きがい感とさまざ まな条件との関連を調査している。 その結果, 身内支援を期待しない場合には, 子どもと会う 機会が少ない方が男女とも生きがいを感じ, 身内支援を期待する場合には, 子どもと会う機会 が多いほど女性でのみ生きがいを感じるということであった。 高齢者と接する場合, 私たちは
「高齢者とは弱い者, 何でもしてあげるべき」 と考えがちである。 しかし, そのことが, 高齢 者の 「有用感 (自分が人の役に立っていると感じること)」 を奪ってしまっていることに気づ くべきである。 たとえば, 老人から心遣い (お茶, 食事を振る舞われる, お礼される) された とき, ふつう 「老人からもらうなんて, とんでもない」 と思いがちである。 しかし, それは高 齢者を対等な関係と見なしていないために起こる考えである。 その好意を素直に受け取ってあ げた方が, 相手を喜ばせ, 元気にさせる。 福祉の現場で, 「高齢者を早死にさせる法」 がよく 語られる。 1) ふかふかの布団に寝かせ, 2) 熱いものはフーフー吹いてやり, 3) 柔らかく 栄養のあるものを食べさせ, 4) 一番風呂に入れるというもの。 これは高齢者を大事にしすぎ ることは, 決して相手のためにならないという逆説的教訓である。 元気な高齢者は, よけいな 遠慮や気づかいよりも, 人の役に立てることを望んでいる。 少しぐらい作業が遅くても, かえっ て面倒でも, すすんで働いたり手伝ったりしてもらうべきである。 それが高齢者の体と精神を 活性化させる (毒蝮三太夫・井上勝也, 2000)。
つぎに保育の現場に目を転じよう。 自由保育の実践園での事例である。 運動会の1か月前か ら, 玉入れや綱引きの綱が園庭に出してある。 子どもたちは, 自由に赤い玉や白い玉をとって, バスケットに入れる。 運動会のダンスの音楽がなっている。 「先生, 踊って」 と年少組の女の 子にいわれて, 保育者が踊る。 年少児もみようみまねで踊る。 踊りの輪が次第に大きくなる。
砂場で遊んでいる子どもも, 時々, ちらちら見ている。 子どもの頭の中にダンスの 「構造」 が できあがる。 子どもたちは, 運動会の前に, 特別な練習をすることもなく, 自然に踊れるよう になる。 時間をじっくりかけて, 無理なくそれぞれのペースで踊りを学習していく (飯島婦佐 子, 1990)。 ここには, 運動会が秩序正しく進行するよう, ダンスを一斉に教え込むという保 育者の姿はない。 保育者は, まず環境を設定する。 その環境が子どもたちの興味関心を引きつ けたなら, そこから生まれるニーズ (「先生, 踊って」) に保育者は応えていく。 それが自由保 育の基本的原理である。
子どもの気持を保育者が受けとめることが, 自由保育では大切にされる。 行動を受けとめ, 敏感に反応する。 つぎに, 子どもに自分の能力を使う喜びを味わわせてやる。 そして, うまく やれたら一緒に喜び, うまくいかなくても 「もう少しがんばればできるよ」, 「こうしたら」 と
励ましていく。 行動の評価基準を保育者 (援助者) の側でなく, 子ども (被援助者) の側に置 いて接していく。 したがって, ほめるのは本人自身が以前とくらべ進歩したことを認める場合 で, 保育者のもつ基準に合致した場合ではない。 他方, 安全に関する約束事や, 物を大切にし, 最後までやり遂げることもきちんと伝えていく。 自由保育では好きな遊びをいつでも始め, い つでもやめられる。 そのため, たとえば, 少しだけやって飽きてしまう子どもには, 「1つちゃ んとやってからにしよう」 と注意する。 また, 「ナイフをこんなところに置いておくとけがす る」 と注意していく (堀合文子氏の保育:内田伸子, 1986から)。
自由保育の考え方には, 「対象を内面的・共感的に理解し, そのやる気を育てていく」 とい う援助の基本が貫徹している。 その一方で, 「対象には自分が生活する現実 (リアリティ) を きちんと伝え, 体験してもらう」 という, 援助のもう1つの原則も踏まえられているのである。
援助する人間関係では, 相手を一個の人格として, 対等に接していくことが基本になる。 たと えば, なかなか宿題をしようとしない子どもに, 親が 「早くやってしまいなさい」 というより も, 「後で眠くてつらくなるよ」 と伝えることである。 また, 朝起きられない子どもに 「早く 起きなさい」 としつこく声掛けすることより, 遅刻して恥ずかしい思いを体験させることであ る。 援助とは, 一個の対等な人格として共感的に相手を理解し, そのニーズ・やる気をとらえ, 一方で現実 (リアリティ) を伝えながら, そのニーズ・やる気に応答していくことといえよう。
親切に手助けすることが, 相手にとってはよけいなお世話であったり, 相手のやる気や有用感 を損ない, その自立心を喪失させることはよくあることなのである。