上野国寛文郷帳諸写本の検討
丑木幸男
一郷帳の作成
幕藩制国家は国絵図・郷帳の作成を通して'律令制以来の地方制度である国郡制を利用して領域的な支配をはかっ(‑)たことが指摘されて以来'国絵図・郷帳についての研究が急速に進展している。(2)郷帳については﹃関東甲豆郷帳﹄に'関東、甲州'豆州の元禄・天保の各国の郷帳が紹介され'﹃内閣文庫所蔵史(3)籍叢刊﹄五五・五六に'内閣文庫所蔵の全国の天保郷帳が影印本で紹介され'史料紹介も進んでいる。
しかし'国絵図と郷帳との関連や'郷帳の作成過程'郷帳に記載されている村や石高の実態について'まだ解明す
べき点が多い。
郷帳は国絵図の作成にあわせて'慶長'正保'元禄'天保の四回作成されたが'特に大きな変化は元禄期に認めら
れる。すなわち'正保期までは所領区分が明記されるのに対して'元禄以後は国郡の記載だけで所領区分は省略され'
江戸幕府が国郡を確定し、全国土を領域的に支配することを明確にしたことである。
正保郷帳については'国郡を単位としていることから、幕府が全国土の土地所有権者であることを明示しょうとし
上野国寛文郷帳諸写本の検討(丑木)七一
史料館研究紀要第二三号七二
た意図は明かであるが'記述が国により不統一であり、その完成は元禄期を待たなければならなかったといえる。元
禄郷帳と比較して記述が詳細であり'領主名が記載され'また、はへ山'芝山や早損'日損などの注記が多いことが
指摘されている。しかし'正保国絵図が作成された過程は明らかにされているが'郷帳の作成については必ずしも解
明されているとはいえないので、やや詳細にその経過を検討してみよう。
寛永二十一年九月'徳川家光が国絵図・郷帳の作成を命じ'同年(正保と改元)十二月'各大名に基準を示して作
成が要請された。(4)十二月二十二日、佐賀藩の記録によると'郷帳については次のとおり指示されている.I
l郷村知行高'別続二帳作り'二通上ケ侯事'
一絵図'帳共二郡分之事'
一絵図'帳共二郡切ニ'郷村之高上ケ可申事'
一帳之末二一国之高上ケ可申事、
一絵図'帳共ニ'郡之名井郷之名'惣而難字二は'朱こて仮名を付可申事
一絵図'帳共ニ'村二付侯はへ山井芝山有之侯処は書付之事
一郷村、不落様二念を入'絵図井帳二書付侯事
一'水損'早村之郷村'帳二書付侯事
郷帳は二通を提出することにし、郡単位に記載Lt国高を集計させた。村名の難字にはルビを付け'はへ山'芝山'
水損'早損の注記をさせた。
国絵図は正保二年から慶安二年末の間に幕府へ提出されたが、郷帳は同時ではなくその後に提出され'長門・周防
では国絵図を慶安二年八月二十一日に提出し'郷帳は三か月後の同年十一月二十日に提出した。
国絵図原本は現在はな‑'控え'模写が保存されている。過失した時点も不明であり'享保二年には国絵図が七六(5)枚あり'そのうち年号が記載されているのは'正保が11枚'慶安が二枚'寛文が1枚であったという。寛文期のも
のがあることから'すでに享保期に正保以後に過失した国絵図のあったことも推測されている。肥前国絵図は明暦二
年の江戸大火で焼失したので'その後の模写本を幕府から借用している記事が紹介され、内閣文庫所蔵の国絵図摸写
本の検討により、明暦の大火で焼失した国絵図を模写したのは寛文四年から十年までの間であることが推定されてい(6)る。
正保郷帳は次のように提出されている。活字化されたものだけであるが'必ずしも元禄や天保の郷帳のように一時
に提出されたものではなく'また名称もさまざであったことは分かる。
播磨之国知行高辻郷帳上正保三年九月
信濃国郷村帳下正保四年三月三十一日
丹波国郷帳正保四年三月
摂津国慶安元年九月
なお﹃武蔵田園簿﹄は正保国絵図に添えられた郷帳といわれているが'慶安二・三年に作成されたと推定されてい(7)る。
正保郷帳は正保二年から慶安二年に国絵図と同時に提出されたものもあるが'それ以後に提出されたものあるとい
える。
上野国寛文郷帳諸写本の検討(丑木)
史料館研究紀要第二三号
その書式は次のとおりである。
(8)播磨之国知行高辻郷帳上
明石郡
大久保加賀守領分
一高四百九拾四石五斗四升九合清水村松山有
内覧覧完堀斗四升九合柴[中略]
加東郡
御蔵入猪飼次郎兵衛代官
一高五百三拾七石九斗五升五合森村小松山有
内諾語群恥糾和栗合的筋[中略]
惣村数合千五百七拾ケ村
高都合五拾四万弐千百三捨石壱斗弐升七合
右之内
拾万五千百五拾七石七斗壱升弐合
七 四
御蔵入
内
弐万三千四百六拾壱石五斗七升壱合
小野長左衛門代官[中略]
七万石大久保加賀守
拾五万石松平下総守[中略]
三千七拾八石三斗九升七合寺社領
己上
惣高合五拾五万四千六百弐拾九石七斗八升七合
寺社領新開共ニ
正保三年
成ノ九月昔日 松平下総守
(9)信濃国郷村帳下
高井郡
設楽長兵衛
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七 五
史料館研究紀要第二三号
七
六
御蔵納御代官 近山五郎右衛門
青木弥惣右衛門
天羽七右衛門
一高弐百六拾六石弐升八合越村かや山有
内軌諾頒荒諜忙4TdE4E架[中略]
真田伊豆守領内
1高八百三拾壱石九斗壱升大童村芝山有
内諾諾第四斗壱升舶苅水損所[中略]
都合五拾七万八千四百六石四斗五合高辻
此わけ
一六万九百拾九石三斗三升壱合御蔵納
1千六百八拾弐石五斗五合、尾張大納言殿[中略]
一千五百石
一千石 諏訪上下社領
戸隠山社領
一千石
一弐百石
一百石
一千九百七石壱斗弐升九台
正保四年
三月十一日 善光寺領
八幡社領
飯純山社債
在々所々少宛之
寺社領
真田伊豆守
(to)丹波国郷帳
多喜郡
松平山城守知行
一高七百七拾五石三斗野中村
日損少有
内蒜観望蓋料論壱合砦[中略]
五味備前守御代官所
一高九百三拾八石九斗八升六合東芦田村
上野国寛文郷帳諸写本の検討(丑木)
七七
史料館研究紀要第二三号
七 A
内諾諾監記旭贈4EIE4n
水 日 林柴
損 損 畠 田 有山
所 有 方万 有
[中略]
丹波国高都合弐拾八万九千八百廿九石壱斗四升六合
村数七百八拾六ケ村
内
弐拾三万五千弐百五捨石八斗八合
五万弐千七百六拾玉石六斗六升三合
千八百拾弐石六斗七升五合
右高之内
弐万弐千八拾五石九斗七合
千百八拾九石五斗七升七合
四百拾七石六斗三升三合
四万八千八百弐拾三石九斗五升 五味備前守御代官所
禁中様御領
二条殿御領
松平山城守知行
[中略]
四捨石五升五合[中略]
正保四年亥ノ三月昔日 等持院領
松平山城守
稲葉淡路守
菅沼左近大夫
(‖)摂津国
有馬郡
一高三百四捨石 御成人御代官松波十右衛門生瀬村[中略]
1高六百拾四石三斗三升阿詔榊守領[中略]
高都合三拾七万五千四百九拾六石七斗五升五合
本高ノ外銀拾貫七百弐拾五匁三分
此わけ
高給壱万七千九百八十石五升四合御歳入
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七 九
史料館研究紀要第二三号
銀拾貫七百弐拾五匁三分
高四千八百七拾六石六斗四升1台[中略]
高三拾石
高弐百石[下略]
慶安元年
瑚九月‑ 同断
院御所様御領
木村藤右衛門領
伯庵領
書式もさまざまであり'まだ統一はされていない。
幕府領については「御歳入猪飼次郎兵衛代官」(播磨国)'「御蔵納御代官青木弥惣右衛門」(信濃国)'「五味備前守
御代官所」(丹波国)'「御蔵入御代官松波十右衛門」(摂津国)と表示され'播磨国と摂津国がやや共通しているが'
それ以外は異なっており'また'巻末の一国分の集計は歳入'蔵約とあるだけでいずれも代官ごとの支配地合計石高
はない。
知行地については領分'領、知行とそれぞれ記載している。
寺社領については'播磨国では村高のなかに寺社名と石高を記載Lt郡ごとの集計にはないが'1国の集計には寺
社領の総石高を記載するだけで'寺社名も寺社数もない。
信濃国では諏訪社や善光寺などの有力寺社について村ごとにも'郡ごとの集計にも'国ごとの集計にも記載してい
るが'それ以外の寺社領についての記載はなく、「在々所々少宛之寺社領」と一括して1国石高に含めている。
丹波国では村高の記載には寺社領についての記載は皆無であるが'一国の集計に等持院などの寺社名とその石高が
記載され'有力な寺社領は1国石高に含めている。
摂津国・播磨国では村高に寺社領が記載され'郡ごとの集計は石高だけであるが、一国の集計には寺社名とその石
高が記載され'有力な寺社領は一国石高に含めている。(t2)﹃武蔵田園簿﹄では'幕府鏡については「八木次郎右衛門御代官所」、知行地については「間宮息左衛門知行」'寺
社領については村高に寺社領の記載があり'郡ごとの集計は御領'私憤と寺領'社領の石高を記載Lt一国の集計は「武蔵一国高寄」として'幕府領は代官ごとの支配石高'知行地は領主ごとの石高'寺社領も寺社ごとの石高を記載
している。
二上野国郷帳の再提出
上野国絵図は中川忠英旧蔵国中に模写本があり、二舗に分割され'「上野国高辻拾四郡都合高五拾壱万五千弐百拾(̲3)玉石余」と記載されているという。しかし'上野国分の正保郷帳はな‑'寛文八年の上野国郷帳が国立公文古館内閣
文庫にあり'その写本が各地にあり、単純に筆写の段階の誤写とは思われない'異なる二系統が認められる。
本稿では上野国寛文郷帳の諸写本を比較検討することにより'郷帳の性格について検討を試みるものである。(;)上野国寛文郷帳については'﹃上野国郷帳集成﹄として'元禄・天保郷帳'旧高旧領取調帳'上野国御改革組合限
地頭性名井村名郡附帳とともに紹介し、その解説で次の点を指摘した。
郷帳作成時期作成時期については寛文郷帳の奥書には「寛文八年十一月日酒井雅楽守」とあり'その時点で
上野国寛文郷帳詩写本の検討(丑木)八一