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新 藤 協 三

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Academic year: 2021

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(1)

国文学研究資料館紀要第八号︵一九八二年三月︶

異本三十六人歌仙伝

要旨三十六歌仙の伝記を集成した﹁三十六人歌仙伝﹂は︑従来︑群書類従所収本文およびそれと同系の本文を有

する伝本のみが流布していたが︑最近管見し得た松野陽一氏御所蔵の一本は︑それら流布本系の諸伝本とは大きく異な

り︑明らかに異本の立場に立つ本文を有するものであることを知った︒この松野本は︑おそらく流布本系本文よりも前

段階の本文であると推定され︑かつ︑その奥書によれば︑作者および成立年時に関する従来の通説を修正することが可

能になり︑また︑三十六人歌仙の伝記研究の面にも少なからず資するものと思われる︒そこで︑松野本﹁三十六人歌仙

伝﹂の全文を翻刻し︑解説をも付した︒ I翻刻ならびに解説I

新藤協三

(2)

一︑虫損の部分︑判読壬

出して説明を加えた︒ 一︑解読の便をはかるために︑私に句読点︑返り点を施し︑内容を掴酌して適宜改行した︒ 一︑各丁の表裏の改たまる箇所は︑﹂域﹄肋.:・のように明示し︑表は﹂︑裏は﹄で区別した︒ 一︑虫損の部分︑判読不能の部分については︑|注1|︑一注2|⁝⁝のように一一で囲んで示し︑末尾に一括して注 翻刻にあたっては可能な限り原本の体裁を尊重する方針に従うこととし︑次の諸点に留意しつつ一部手を加えた︒ 一︑漢字については原則として旧字体︑略字体︑異体字も全て原本どおりとしたが︑平仮名︑片仮名については通行

一︑意味不通の語句︑明らかに誤写︑誤脱と思われる部分には︑右傍に︵マごと記した︒

一︑行間の書入等には墨︑朱の二様があるが︑朱で記されたもののみ︵朱︶と明示した︒したがって︑特に断らない

ものは全て墨書である︒但し︑歌人名と和歌の右肩にある合点は︑前者が朱︑後者が墨で施されていて混同される

ことがないため︑歌人名に施された合点については︑特に︵朱︶と明示することを省略した︒ 体に改めた︒ ︵翻刻︶

(3)

異本三十六人歌仙伝(新藤)

︑ 柿本朝臣人麿先祖不見

万 梅のはなそれともみえす久かたのあまきる雪のなへてふれ畠は

古 ほのj︑とあかしの浦のあさ霧の鴫かくれ行舟おしそおもふ

件人︑就二年々除目叙位等一尋二其昇進︽無し所し見︒但古万葉集云︒文武天皇大宝元年幸二子紀伊国一時︑作ゞ

奇︒従二車駕一見二結松毛其奇云︒

後みんと君かむすへるいはしろの小松かうれを叉設けんかも

国史云︒大宝元年九月丁亥︒天皇幸二紀伊国毛冬十月丁未︑車駕至二武漏温泉や戊申︑従官井群司等︑進〆

0

︵ママ︶ 今案︑件行幸日︑従し駕者定二叙爵一歎︒如二古今和﹂瞳集序一者︑注二先師柿本大夫雫可レ謂二五位一歎︒

古今金玉集序云︒及二奈良御宇一和吾大興︒彼天皇知.食和奇趣一歎︒同御時有正三位柿本人丸者↓和奇仙 国史云︒大宝 階井賜二衣衾↓

歌仙傳

奇仙傳丙題︶

依二件文一廻二私案︽頗可レ謂二相違↓或乗二竹帛一傳︑間巷以二大同之主一号二奈良帝や然而就二万葉集一尋二人丸 ︵外題︶

(4)

此難無謂奈良宮 何時指南大同之 時元明元正天皇 以後桓武天皇 厩時仏皆平城宮

也│荏以匿何比

日並皇子尊磧宮之時奇云︒

み 久方の空みることくあふぎみし御子のみかとのあれまくおしも

件皇子︑持統天皇三年四月莞︒従二天武天皇元年一﹄瞠至二子件三年一合十八年也︒是以案︑天智天皇御宇

思ふなと君はいふともあはんときいつとしりてか我こひさらん

在二石見国一臨レ死之時︑自傷寄云︒

鴨山のいはねしまけるわれをかもしらすていもかまちつ壁あらん

就二件作寄等一往年子二石見国一逐臨レ死之由所二注出一也・﹂冴 明日香皇女脳蹟宮之時謁云︒

飛鳥河しからみわたしせかませはなかる掻水ものとけからまし

右皇女︑文武天皇四年四月莞︒件等親王莞時如レ此作し歌︒是以注︑天智天皇御宇以後︑文武天皇御在位

従二石見国一別し妻来時︑作し謡云︒

いはみの宝局角山のこの間よりわかふる袖をいもみつらんか 誼在世之時卒天智天皇御宇以後︑文武天皇御在位之間人也︒ ︵ママ︶︵ママ︶ 聖見歎︒将傳云︑書写之誤歎︒正二位条又以審︒

件皇子︑桂

以後人歎︒

妻依羅娘子奇云︒ 右皇女︑ 間人也︒ 何以称二奈良御時之人麿一哉︒古賢撰集有し所

(5)

異本三十六人歌仙伝(新藤)

木工頭従五位上紀朝臣貫之先祖不見﹄

︑ さくらちる木の下かせは寒からて空にしられぬ雪そ降ける

おもひかれいもかりゆけは冬のよの川かせさむゑ千鳥鳴也 ︵ママ︶ 延喜六年二月任二越前守権少将や御書所預︒同七年二月任二内膳典膳儲龍憎潔興同十年二月任二少内記↓十三年

任二大内記↓同十七年正月七日叙二従五位下↓同月任二加賀介毛同十八年二月任二美濃介毛延長元年六月任二大

監物毛同七年九月任二右哀曇同八年正月任二土左守や天慶三年任二玄蕃頭↓同六年正月七日叙二従五位上↓

同八年三月任二木工権頭↓九年月日卒︒

︑ 散位凡河内宿祢躬恒先祖不見 私日此奇古今素性奇也尤不審 山高み雲井にみゆるさくら花心の行ておらぬ日そなき﹂識 ︑ 我やとの花見かてらにくる人はちりなん後そ恋しかるへき 萬葉集第一云︒持統天皇幸二子吉野乏時︑柿下朝臣人麿作し歌︒怖煥蘇帖鍬姫湘輔凱誹伝蒲

見れとあかぬよしの及川の常滑のたゆることなく又帰りこむ 天武天皇八月乙卯五月庚辰朔甲申幸吉野宮有此時欺︵ママ︶ 右日本記云︒三年己丑正月天皇幸二吉野宮や八月幸二吉野宮や四年庚寅二月幸二吉野宮毛五月吉野宮︒五年

︵ママ︶ 辛卯正月幸二吉野宮毛四月吉野宮者未し知二行何日や従し駕作レ奇︒

持統天皇幸二子伊勢国一之時︑留レ京人麿作し奇云・献二泊瀬皇女壬鵡膜離珊繼雛斎馴呼祇鍬蔽糎莊蹄刑身娘鱈一年

︵ママ︶ を象のうらにふなのもすらんをとめらか玉ものすそに塩みつらんか

(6)

︑ 伊勢前大和守従五位上藤原継蔭女也︒継蔭元伊勢守︒

人しれすたえなましかはわひつ世もなぎなそとたにいはまし物を ︑ 三輪の山いかに待象ん年ふともたつぬる人にあらしとおもへは

所生

寛平御時更衣云左︒離し無し不し見皆是兒女子之説也︒但寛平末年誕争皇子一之由見二家集↓七条后宮人云Ao

員 誕生皇子ヲ︿桂ニソ置テ養ケル︒伊勢︿后宮と仕シテ夙夜シヶルニ︑雨降日恋二皇子一氣色ヲ后宮御覧して

り 月の内のかつらの人をこふとてや雨になみたのふるそはるらむ

亀 桂凛眺脇埋辞職厭權嗽即冊岬暇謹散紺宮.

久かたの中におひたる里なれはひかりをのみそたのむへらなる

皇子及二八歳一莞者鮴總軒蠅融之間歎・蒻家集之誤也︒不し慥歎︒ 延滉四年大井河行幸和寄署所︑注二散位凡河内躬恒如件日︑題九讃人六人毎し題各一首︒但躬恒除二鶴江立一 之外毎レ題献二二首↓奥又副二一首一也︒依二奇多一不し注︲害︒

︵ママ︶ 後撰和奇集才十五巻云︒淡路橡秩満帰都之由見二右寄毛云︒

れ ひぎうへし人はむへこそおひにけり松もこたかく成にけるかな

ミ 其詞云︒淡路橡任満上之時︑兼輔卿粟田山庄にて讃云奄﹄

被仰︒ 任二和泉権橡七 寛平六年二月廿八日任二甲斐権少目毛延喜七年正月十三日任二丹波権少目↓御厨子所︒同十一年正月十三日

(7)

異本三十六人歌仙伝(新藤)

︑ 中納言従三位兼行春宮大夫大伴宿祢家持

\ さをしかの朝たつをの掻秋そのに玉とみるまてをける白露

まきもくのひはらもいまたくもられは小松か原にあわ雪そふる

︵ママ︶ 天平年任二内舎人や同十七年正月授二従五位下↓同壼十八年三月任二宮内少輔毛同六月任二越中守↓同廿一

年四月叙二従五位上毛天平勝宝二年四月任二兵部少輔↓同十一月為二山陰道使や天平宝字二年正月任二因幡守↓

同六年正月任二治部大輔↓同八年正月任二薩r守や神護景雲元年任二大宰少試↓同四年六月任二民部少輔毛九

月任二左中弁一兼二中務大輔毛宝亀元年十月叙二正五位下壬同二年十一月叙二正五位上二二年二月任二式部権大

︵ママ︶ 輔↓五年三月相模守︒同九年任二左京大夫毛六年十一月任二左衛門督↓七年三月任二伊勢守七八年正月叙二従

四位上↓九年正月叙二正四位下毛十一年二月任二参議毛同九月兼二右大弁毛天應元年四月兼二春宮大夫屯五

月四日任二左大弁↓鮴湫︒八月為二左大弁春宮大夫↓先房鷆蝿慨喪解任︒十一月士一百叙二従二莅↓延暦一兀閨

正月坐二氷上河継反事一免移二京外壬四月有し詔宥鯵罪復二参議春宮大夫や同六月以二本官一出為二陸奥出羽按察

使鎮守府将軍や在任無し幾七月十九日舞二中納一三鱸蛇決夫三年二月任二持節征夷将軍↓四年八月莞︒ ︑︒十月六日入内九日為女御︒寛平九年七月 東七条后藤温子仁和四年●廿六日・為皇大夫人︒延滉五年五 廿六日

月出家︒七年六月崩︒年三十六︒昭宣公才

承平四年戦三月廿六日︑皇太后穏子五十御賀御屏風伊勢献二和蚤

今案︑亭子院醍醐朱雀三代間人也︒

三女︒

(8)

︑ 山邊宿祢赤人先祖不見﹄ ︑ あすからはわかなつまんとしめしのにぎのふもけふも雪はふりつ掻

故万葉集云︒神亀元年甲子冬十月五日幸二紀伊国一時︑作二奇三首む

わかのうらに塩みちくれはかたをな承芦へをさして田鶏鳴わたる

国史云︒神亀兀年冬十月蒜天皇幸二紀伊勇癸巳行至一那賀郡玉垣勾頓宣甲午至二海部郡玉津嶋頓亘留

日力 十有餘月︒従し駕百寮六位巳下至二伴部一賜レ禄︒詔日︑改二弱濱名一為二明光浦毛

廷 古万葉集云︒神亀三年秋九月幸二子播磨国印南郡一時︑作し奇従レ駕︒其奇日︒ ︵ママ︶れ いなみのふあさちをしなみざぬるよのけさからあすはいへし畠のはる

秋 ミ 国史云︒神亀三年九月被し定二造頓宮司井装束房司簔為し将レ幸二播摩国印南野一也︒冬十月辛圃凹行二︲

︵ママ︶ 幸播r国印南野↓至二甲寅印南野邑美頓宮一・辛酉︑従し駕人及播r国郡司百姓等︑供︒奉行在所一者︑授レ位

古万葉集云︒天平八年夏六月幸二子芳野離宮一時︑應レ詔作レ寄云︒ ︵一宇空白︶︵ママ︶ 神代よりよしの世みやにありかよひ高れるは山川とよみ

︵ママ︶ 国史云︒天平八年夏六月乙亥行︒幸芳野離宮↓秋七月丁亥詔賜二芳野監乃例進百姓物︒ 幸播r国印南野↓ 賜レ禄︑各有し差︒ 古万葉集云︒天〒 後廿餘日其骸未レ葬︒大伴継人竹良等︑射.殺中納言藤原種継一事發覚下獄︒按鹸之事連二家持等幻由レ是追 l 除コ名其息永主等一並虚匠胆︒

庚寅車駕還し宮︒

(9)

異 本 三 十 六 人 歌 仙 伝

○ や ゑ の し か た あを我も入ら

驍繋蕊○プ

(新藤)

︑ 蔵人頭従四位上行右近衛権中将在原朝臣業平

弾正尹阿保親王五男母伊豆内親王﹄

世の中にたえてさくらのなかりせは春の心はのとけからまし

︑は

月やあらぬ春やむかしの春ならぬわか身ひとつのもとの身にして

■ 承和十四年正月日補二蔵人↓同年任二左近衛将監↓嘉祥三年正月七日叙二従五位下一貞観四年正月七日叙二

従五位上屯五年二月任二左兵衛権佐毛六年三月任二右近衛権少将↓七年三月任二右馬頭壬十一年正月七日

叙二正五位下↓十五年正月七日叙二従四位下幻十九年正月任二右近衛権中将屯元慶元年十一月廿一日叙二従

權︵ママ︶

四位上毛二年正月兼二相模守三二年十月補二蔵人頭毛四年正月廿八年卒︒五十六︒

一注4− 国史云︒貞観十四年四月十七日︑勅遣下正五位下行右馬頭在原業平向二鴻艫舘一労二間渤海客一上︒﹂港

大和物語云︒水尾天皇御時︑右大弁云為娘女御井御息所︑天皇御遁 世之後︑在中将蜜と通也︒

皇后高子行啓大原野之日︑中将詠奇云︒ オホハラャヲシホノ山モヶフョリハ神代ノコトモ思ヒイッラメ

︑ 僧正遍昭大納言正三位良峯安世男︒俗名宗貞︒

未の露もとの雫や世の中のをくれ先たつ例なるらん

廿九才

右兵衛佐 砒承和十一年正月補二蔵人毛十二年正月七日叙二従五位下毛同十一日任二左衛門督↓十三年正月士一百兼二備前 畳ミミ亀 岻介心同日任二左近衛少将毛嘉祥二年正月補二蔵人頭↓廿四才同三年正月七日叙二従五位上↓同三月廿一日帝

砿朋︒庚子定二御葬諸司︽為二装束司壬丙午出家為し僧︒先皇寵臣也︒先皇崩後哀慕無し巳︑自帰二佛理一以求二

(10)

︑ 素性法師左近少将良峯宗貞男︒ ︑ 今こんといひしはかりになか月の有明の月を侍いてつるかな

承わたせは柳さくらをこぎませて承やこそ春のにしき成ける﹂瞼

みてのみや人にかたらん桜はな手ことに折て家つとにせん

由歎

寛平八年閨正月行.幸雲林院一之日︑大納言源朝臣奉レ勅宣命︒留性大法師為二権大律師︽弘延素性両法師

施二度者一人屯共起稽首睾レ聲歓喜︒

昌泰元年宮瀧遊覧記云︒号日二良因朝匡取二住所か撰一鮖趾勝也︒数日前駈間献和歌︒免レ暇帰し寺日給二御 ︵ママ︶︵ママ︶ 衣御馬毛數盃之後︑兼茂恩賜着二御衣一騎二御馬一直向レ山者︒

○鮒噸鯆胎鳩延喜六年二月廿六日御記云︒・於二御前一書一御屏風毛左近中将定方給レ酒献レ歌︒即給二禄赤絹御衣御馬等一

孵謝魂一日也︒

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賜二七十賀毛に

号二花山僧正や

国史云︒貞観 報持恩や時人感︒元慶一年任二権僧正鉄始慌五︒仁和元年十月廿三日韓.任僧正弔士一月十八日於二仁壽殿一 賜二七十賀毛太政大臣左右大臣預二其座や寛平二年正月十九日卒︒時年七十六︒干し時為二元慶寺座主↓故

生年弘仁六年鍬

雑類略説云︒僧正遍昭仁和二年三月十四日賜二食邑百一貝聴三駕レ萱出.入宮内毛 貞観十一年二月廿六日甲寅︑延六十僧於二大極殿一限二三日一輔.読大般若経毛詔授二僧遍昭法眼和尚

(11)

異本三十六人歌仙伝(新藤)

猿丸大夫

遠近のたつきもしらぬ山中におほつかなくもよふことりかな ︑ おく山に紅葉ふ象わけ鳴しかの声きく時そあきはかなしき

定 不修知二何代人↓但古今和歌集序︒・大伴黒主之虚注二古猿丸大夫次一也︒付二件文一以案之︑黒主仁和初献二 ︑ 大内記紀朝臣友則蕊蕊薯鰐謹罫鐡鼈常

滋賀郡小関山在道場︒ 号藤尾寺︒件地大納言封地也︒ ︑ 秋かせにはつかりかねそきこゆなりたか玉章をかけてきつらん

夕されはさほの河原の河霧に友まとはせる千とりなくなり

寛平九年正月十一日任二土左嫁屯同十年正月廿九日任二少内記や延木四年七月廿五日任二大内記心

父歎父歎

古今和歌集云︒依二惟喬親王訓一集二詞到之寄↓別副云︑一首送二彼親圭是以案︑可レ謂二友則囲凹奇人一

歎・囎順淵紐順獺斗靭非距棚計肥部慎治病其寄云︒

ことならはこのと葉さへもぎえな世ん承れはなみたのたきまさりけり

︵ママ︶ 本院大臣言談之次︑於二無官一送二叶年一之由歎和奇云︒

はるノ︑とかすはまとはすありなから花さかぬ木をなに畠そへけん﹂財

いま出てになとかははなのさかすしてよそとせあまりとしきりはする

イ本奇齋歎

依二如レ此・|案し之︑生年仁和函凹衡比歎︒

、 大臣返

(12)

︑比

篁 小野小町峨獅酢肌覗押也︒別傳云・中女也相違

色象えてうつるふものは世中の人の心のはなにそ有ける ︑ おもひつ蚤ぬれはや人のゑえつらん夢としりせは覚さらましを

古今和寄集雑下云︒文屋康秀参河橡に成て︑あかたみにはえ出た蚤しやといへりける返事によめる

侘ぬれは身をうぎ草のねをたえてさそふ水あらはいなんとそ思﹂岨

遍昭僧正集云︒遍昭出家之後参.詣長谷寺一小野小町送二和寄壬

︵ママ︶ いはのうへにたひれをすれはいとさむし苔の衣もを我にかさなん 大嘗會和寄一之由見二彼集毛而當し昔称し古︑可レ謂二上古人↓奇云︒

︵ママ︶ あふみのやか皇み山をたてたれはかねてそみゆる君か千とせは﹄

価錐し尋二件人歌於万葉集一無し所し見︒若是異名歎︒若將假二他名一入二彼集一歎・往代之事暗以難し決︒而臨二

延喜御宇一被し撰二古今和奇集一之日︑件大夫奇多載二彼集↓是以廻二私案︽件太夫若撰二万葉集一之後元慶以往

之比人欺︒

ふたり

山ふしの苔の衣はた畠ひとへかさねはうとしいさひとりねん ミミミ

︑ 中納言従二莅兼行右衛門督藤原兼輔鮎瑚紳那雅四位上 遍昭返

(13)

異本三十六人歌仙伝(新藤)

夕月よおほつかなぎを玉ぐしけ二見のうらはあけてこそぷめ 、

寛平九年七月昇殿・本宮・十年正月任二讃岐縁一

醍醐天皇才一章明親王母更衣入内之時兼輔以詠寄云孤刎肺縦棚恥嘩溌鰍嘩岫恥州批︑も︒

四月八日昇殿︒昌泰四年二月任二左衛門少尉毛延喜二年正月七日叙二従五位下一﹄皿飯壷柵社︒二月廿一日昇殿︒

三年正月任二内蔵助毛六年正月七日叙二従五位上毛卿兀︒七年二月兼二右兵衛佐↓十年正月廿七日補二蔵人一任二

右衛門佐毛捌元︒十二一年正月任二右近少将壬加元︒十四年正月兼二近江介や十五年正月七日叙二正五位下↓刑峨

十六年三月兼二内蔵権頭や十七年正月兼二内蔵頭毛八月廿八日補二蔵人頭↓十一月十七日叙二従四位下の併一・

同廿二百補二蔵人頭壬如故︒十九年正月兼二備前守屯同月任二左近衛権中将↓加瀬領廿一年正月任二参議↓鮴辨同

二月七日昇殿︒廿二年正月七日叙二従四位上毛延長二年二月一日兼二近江権守や五年正月十二日叙二従三位一

任二中紬一三同四月廿九日昇殿︒八年十一一月兼二右衛門督↓承平二一年二月十八日莞・鵡悴七︒

号堤中納言︒延長八年二月廿九日式部卿敦慶親王莞︒﹂醒 兼輔卿向彼旧宅見花詠奇︒

さぎにほひかせまつほとの花ゑれは人のよ農りはひさしかりけり

はる/︑のはなはちるとも咲ぬへしまたあひかたき人のよはうぎ 冬嗣公内舎人左中将従四位上参議従四位下右衛門督 四男良門l利基I兼茂1度正四男云々

内大臣従二位 l高藤I兼輔l清正讓蕊蹄鰕羅者系圖

三条右大臣返

(14)

︑ 権中納言従三位藤原朝臣敦忠就鰍陥慨柳舩朧職押偲 ︑ あひゑての後のこふろにくらふれはむかしは物をおもはさりけり ︑ 中納言従三位藤原朝臣朝忠岾隊陥綻労柳茄臨下搬僻釉言

従二位右大臣 勧修寺始左大将 冬嗣l良門l高藤l定方l朝忠 母山城国宇治郡大領宮道祢益女也後為正五位下 宮内大甫彼家池と勧修寺也 ︑ あふ事のたえてしなくは中ノ︑に人をも身をもうらみさらまし

本ノママ

萬代のはしめとけふを祝をきていま行末を神やまもらん

延滉十七年十月廿四日昇殿︒延長二年任二右近衛将監ご二年補二東宮蔵人や四年正月七日叙二従五位下や

八年 纈喧御五年十一月任二侍従毛︒九月廿二日昇殿・東宮︒十一月十﹄︑八日補二蔵人や九年三月任二右兵衛佐↓

承平五年二月任二左近権少将↓六年正月七日叙二従五位上毛同月兼二播磨権介や天慶四年正月七日叙二正五位

下↓三月兼二丹波介↓六年正月七日叙二従四位下↓同月十四日昇殿︒二月任二内蔵頭毛九年二月任二近江守↓

十一月十九日叙二従四位上↓悠紀︒天暦二年三月九日昇殿︒五年正月任二左近衛中将毛六年正月兼二伊勢権

守雫十二月任二参木毛七年正月兼二備前守↓八年正月任二大宰大試三二月辞二大試↓十年正月叙二正四位下↓同

月兼二讃岐守雫同二月七日昇殿・天徳元年四月任二右衛門督↓五月為二検非違使別當↓二年正月兼二備中権守↓

四年正月兼二伊与権守や應和元年十二月二日叙二従三位邉営行事︒同月十六日昇殿︒三年九﹂幽月任二中納一一三

囎捌営同十月廿八日昇殿︒康保二年十一月依レ病辞二督井別當↓二一年士一月一百莞︒諦排繩附抓附言︒

(15)

異本三十六人歌仙伝(新藤)

︑ 従五位上守右近衛少将兼備後権介藤原朝臣高光剛際紡脈糊翻獅覇 ︑ 春過てちりばてにける梅の花たふかはかりそ枝にのこれる

みても又またもみまくのほしかりし花のざかりにすぎやしぬらん

天暦二年八月十七日昇殿︒九年十一月廿二月叙二従五位下↓鮴瀧十年三月任二侍従毛天徳二年正月十九日

昇殿︒同七月任二左衛門佐↓四年正月任二右近衛少将↓五年正月七日叙二従五位上や同月兼二備後権介↓應和

一兀年十二月四日到二横川一入道︒鵬瀞武柊秒柳訓焔同二年十月一日︑令レ仰二﹂崎伊尹朝臣得度者右近少将高光

井相従者二人之由壬康保二年三月十九日︑前右近少将高光賜二臨時度者二人毛名籍又作下可レ令二高光授戒一

之由上︒巳上御記︒

︑ 従四位下源朝臣公忠 延木十七年二月十五日昇殿・年士一︒同廿一年正月廿五日叙二従五位下幻十六︒於二殿上一加二元服蚤名︒廿二

︵ママ︶ 年二月十七日昇殿︒廿三年正任二侍従毛延長六年正月七日叙二従五位上︽殿上︒六月任二左兵衛佐や八年九 ︵ママ︶ 月廿二日昇殿︒十二月任二右衛門佐毛九月二百任二左近衛少将↓承平二年十一月十六日叙二正五位下壬鮴瀧

四年正月七日叙二従四位下毛同月十二日昇殿︒十二月任二権中将↓五年三月八日補二蔵人頭T六年正月兼二誌

播磨

o守屯天慶二年正月七日叙二従四位上↓八月任二参議毛鮴噸同十月廿六日昇殿︒四年十二月兼二近江権守↓

五年三月廿九日叙二従三位一任二権中納言型千七︒六年三月七日莞︒年舟八︒号二本院中越一三

(16)

︑ ゆきやらて山路くらしつ郭公今ひとこゑのぎかまほしさに

よるつ代はなをこそあかね君かためいのる心のかぎりなけれは

︵ママ︶ 延木十一年廿二日昇殿︒廿四︒十三年四月任二掃部助や十五年正月十九日昇殿︒十八年三月十七日補二蔵

大二

人壬年舟一・十九年二月兼二近江権少擬至廿一年三月任二修理権曇延長三年正月﹄職七日叙二従五位下↓

蔵人以方︒ 本官如故︒三年六月任二内蔵権助毛六年正月任二民部少輔毛五月十日補二蔵人や七年正月任二右少弁屯八年九月

停二蔵人毛依昇賀也︒十一月十八日更補二蔵人や承平二年正月七日叙二従五位上幻三年正月兼二山城守や十月

韓引任権右中辨↓抑繊守六年正月七日叙二正五位下↓七年正月辞二五位蔵人李以二男信明一補二蔵人↓即昇殿︒

九月任二右中弁毛八年正月七日叙二従四位下↓五月三日昇殿︒天慶三年三月任二太宰大詠む不赴︒五月六日昇

殿︒四年三月任二近江守↓四月十一日昇殿︒六年二月兼二右大弁一八年依レ病辞し弁︒九年卒︒鮓細針坑亭虻

和四年

井弁︒

︑ 右衛門府生壬生直忠岑先祖不見﹂蝉 ︑ 有明のつれなくみえしわかれよりあかつきはかりうぎものはなし

春たつといふはかりにやみよしの強山もかすみて今朝はみゆらむ

時しもあれ妹やは人のわかるへぎあるを承るたに恋しきものを 第十三正四位正大蔵卿蔵従四位下陸奥守蔵正四位下美乃守蔵但馬守 光孝天皇1割国紀l公忠l信明I通理1国聖1国 サネ奇人 蔵能登守蔵筑前守 l方国l道齋 奇人 輔朏繍雌継節圓康坊

(17)

異本三十六人歌仙伝(新藤)

︑ 従四位上徽子女王距飾献酬捌蝿珊親王女︒ ︑ ことのねにみれのまつかせかよふらしいつれのをよりしらへそめけん

かつみつ挫影はなれ行水の面にかく数ならぬみをいかにせむ

承平六年九月十二日卜定︒八歳︒為二齋宮↓天慶八年正月十九日遭二母氏喪↓同七月十六日退出︒天暦元年正

月入内・﹄幽年十九︒五年砿月廿三日内宴︑叙二従四位下毛女御︒應和二年正月八日叙二従四位上↓寛和元年

︑ 祭主従四位下行神祇大副大中臣朝臣頼基随杠鵬賊拓粒 ︑ 一ふしにちよをこめたる杖なれはつくともつきし君かよはひは

延詫元年六月任二神祇少祐や孵輔暁五年正月韓二権大祐毛承平二一年正月韓.任権小副屯天慶二年十月七日任二

祭主や同四年正月七日叙二従五位下↓撫生八年正月七日叙二従五位上毛十月任二大副屯九年十一月十四日叙二

正五位下↓天暦五年正月七日叙二従四位下や天徳二年卒︒

天暦十年五月十一日大外記御舩宿祢傳説勘文云︒唯し有二氏五位一依レ非二神祇官人杢以二六位官人一補二祭主↓

閨ィマタュキ

天慶二年七月﹂鱈二日甥牲喚猿一件年暦名帳一有二従五位上完行朝臣毛為二下野守一未二入京や

寛イ

大和物語云︒和泉大将定国被レ参二左大臣亭一之夜︑壬生忠峯参二御供一於二階下一詠レ寄云︒

かさ塾ぎのわたせるはしの霜の上をよはにふぷわけことさらにこそ

月入内・﹄年十

卒︒群蛎針牝鰄琿

(18)

︑ 従四位上行右兵衛督藤原朝臣敏行雛蝋拙明瞭順繩順紐名虎女︒

心からはなのしつくにそほちつ皇うぐひすとのみとりのなぐらん

住よしのぎしによる浪よるざへや夢の通路人めよくらん

久かたの雲の上にてぶる菊はあまつほしとそあやまたれける

年 貞観八年正月任二少内記毛十二年二月任二大内記や十三正月補二蔵人屯十五年正月七日叙二従五位下↓同月任二

出羽介↓八月任二中務少輔や十六年正月任二大宰少試↓十七年正月圖書頭︒元慶二年正月任二因幡守二一年八

月任二右兵衛権佐ヱハ年正月七日叙二従五位上↓仁和歸二環靜近衛少這四年正月兼二備前権介↓士月

補二蔵人↓寛平四年正月七日叙二正五位下↓五年六月兼二同介雫六年二月任二権中将↓四月兼二春宮大進↓七年

二一月轄兼二権亮耐州︒十月補二蔵人頭や十一月韓レ亮︒八年正月叙二従四位下毛四月依レ病辞二蔵人頭雫九年

正月兼二近濯宝七月士言叙二従四位上至落九月任二右兵衛萱延木菫卒︒蕊転毒

従五位上従四位上従四位上五位蔵人正四位下 大織冠一男南家参木従三位阿波守蔵肥後守按察使頭従四位上参木 武智麿l巨勢麿l真作l村田I冨士麿l敏行l伊衡 左大臣正二位シクリ能書左衛門督

︑ 散位従五位下源朝臣重之赫駄號惚維怖岬預嗜従五位下

宮 第四品四位参木治部卿四位皇太后大夫 清和天皇l貞元親王l兼忠l能正﹂蝿 母参木仲稼女母昭宣公女 五位相模守或云 I兼信1重之兼忠男

(19)

異本三十六人歌仙伝(新藤)

一注8− ︑ 正四位下行右京大夫源朝臣宗子式荊卿鉢賑瀬野孫欺︒

常磐なる松のみとりも春くれはいまひとしほのいろまさりけり ︑ 山さとは冬そざひしざまさりける人めも草もかれぬとおもへは

寛平六年正月七日叙二従四位下幻王氏︒改レ姓為し臣︒八年正月任二丹波権守↓九年十一月廿三日叙二従四位上屯

駐唾延木四年﹄二月任二攝津権守や五年正月任二兵部大輔や八年正月任二右馬頭毛十年兼二参河権守↓十五

年六月任二相模守や延長三年十月任二信濃権守や承平二年八月任二伊勢権守二二年十月任二右京大夫毛天慶二

年正月七日叙二正四位下や同年と月卒︒

あたらよの月と花とをおなしくはあばれしれらん人に承せはや ︑ 散位従四位下源朝臣信明前右大弁公忠朝臣一男︒ ︑サネ

恋しさはおなしこゞろにあらすともこよひの月を君みざらめや

承平七年正月十六日補二蔵人↓敢舩鮒胤姫榊之︒八年二一月任二左衛門権少尉や同四月一日如レ菖為二蔵人↓天慶

二年二月任二式部少丞毛四年一二月任二大丞↓五年三月廿九日叙二従五位下︽舗吠任二若狭守や十年二月任二備 ︑ かせをいたみ岩うつ浪のをのれのみくたけて物をおもふころ哉

康保四年十月任二左近衛権将監↓肺鋤滞同月任二右近将監や慨縦柾州姫也︒安和一兀年十一月廿七日叙二従五位

下や謝池鯛二年正月任二相模権介↓天延二一年正月任二左馬助や貞一兀々年七月任二相模権守↓長保年月於二陸奥

国一卒︒誠捌腕瀞緩防帥珊蝋︒

(20)

︑ 従五位上行紀伊守藤原朝臣清正中納言兼輔戊辰生︒

二男︒

︑ 子日してしめつるのへのひめ小まつひかてや千世のかけをまたまし

あまつかせふけ井の浦にゐるたつのなとか雲井にかへらさるへき

延長八年十一月廿二日叙二従五位下毛鵬鰄鴨承平四年閨正月任二紀伊権介↓天慶五年任二備後権守↓九年四

月昇殿・本官︒七月任二右兵衛権佐↓天暦元年十二月補二蔵人三一年正月七日叙二従五位上三一月兼一託院長官手

五月兼二修理﹄権曇停長官︒四年二月任二近江介↓三月昇殿︒八年三月延.任一年毛同九年十月任二右近衛

少将↓十年正月任二紀伊守雫十月八日昇殿︒天徳二年七月卒︒

わかやとのかぎねや春をへたつらん夏きにけりと見ゆる卯のはな

︑る

水の面にてる月なみをかそふれはこよひそ秋の最中成けり

ミ︵朱︶ ︑ ︵朱︶允 従五位上行能登守源朝臣順雄熊畑擢に鴫伽上至朝臣孫︒

嵯峨歎右大将 弘仁天皇I定l至lまl順 大納言 後守や天暦二年正月十日﹂叙二従五位上↓治国︒七年正月任二信濃守↓天徳二年正月任二越後守や不赴︒四 年正月七日叙二正五位下↓治国︒應和元年十月任二陸奥守↓安和元年十二月五日叙二従四位下↓治国︒天禄元 年月日卒︒雌林叶篶

正三位 右大将

(21)

異本三十六人歌仙伝(新藤)

︑ 藤原興風参議濱成曽孫︒道成孫︒ ︑ 誰をかもしる人にせん高砂のまつもむかしの友ならなくに

を ぎゑこふるなみたのとこにみちぬれは身はつくしとそわれは成ける

ミ︵朱︶ 昌泰三年正月十一日任二相模擬毛延木二年二月廿三日任二治部少丞圭

瀕惜十四年四月十一百任二下総権大撮濤和院籍︒

秋野の萩のにしきを我かやとに鹿の音なから移してしかな ︑ 契ぎな形見に袖をしぼりつ掻末のまつ山波こさしとは﹄

天暦五年正月任二河内権録毛校書殿労︒應和元年三月任二少監物や蔵人所労︒二年正月任二中監物↓康保三年

正月任二大蔵少丞↓四年十月任二民部少丞や柳諦噛卿士一月韓二大丞毛安和二年九月廿一日叙二従五位下↓省

労︒十月任二阿波権守屯天延二年正月任二周防守毛八月兼二鐺銭長官壬天元と年三月十九日叙二従五位上圭

鵬猟師寺寛和二年正月任二肥後守↓永昨二年六月卒︒年八十三︒ ︑ 肥後守従五位上清原真人一兀輔椚脈揃識艤戎柵鮒施政脚蛎

筑前守高向利生女︒ 天暦七年十月補二文章生↓十年正月任二勘解由判官毛應和二年正月任二民部少丞一次補二東宮蔵人三二年正月 任二大丞屯康保元年二月七日叙二従五位下↓省労︒同月任二下総権守↓四年正月任二和泉守↓天延二年十一月廿 五日叙二従五﹂位上毛治国︒天元二年正月任二能登守毛永観元年こ月卒︒年七十三︒

四年正月廿五日任二上野権大撮碓趾棚

(22)

︵ママ︶ 七夕にかしつとおもひしあふ事をよそのなぎ名の立にけるかな﹄

いは橋のよるのちぎりもたえぬへしあくるわひしぎかつらぎの神

国鍬

三条院儲園時女蔵人也︒ ︑ 散位従五位下藤原朝臣仲文雌飾並趾垳信乃守

おもひしる人にみせはや終夜我床なつにをぎゐたるつゆ ︑ 有明の月のひかりをまつほとにわかよのゐたく更にけるかな

天暦兀年補二東宮蔵人雫天徳二年壬七月任二内匠頭↓御給︒康保四年五月廿五日補二蔵人や暇弥十月十一日 ︑

甲斐守

従五位下行丹波介藤原朝臣元真従五位下清邦二男︒ ︑ 年ことの春わかれをあはれともひとにわかる掻人そしりける

承平五年一百任二加賀縁議院天慶一年十二月任二玄蕃少允毛八年十月鱒二大允韮天暦六年任二修理少進↓天

徳五年正月七日叙二従五位下や諸司︒康保三年正月廿七日任二丹波介幻 ︑ 従五位下行加賀介坂上宿祢是則先祖不見 美よしの畠山のしら雪つもるらし故郷ざむくなりまさるなり

延喜八年正月任二大和権少録↓御書所労︒同八月廿八日縛二大嫁↓復任︒士一年三月任二少監物↓十五年二月

縛二中監物ご岬十七年正月任二少内記毛延長二年正月七日叙二従五位下心局労︒同月任二加賀介↓卒年不祥︒

︑ 小大君

(23)

異本三十六人歌仙伝(新藤)

︑ 祭主正四位下行神祇大副大中臣朝臣能宣榊馴鍬矧頼基

千年まてかきれる松もけふよりは君にひかれて萬代やへん ︑ 紅葉せぬときばの山にすむ鹿はをのれなきてや秋をしるらむ

天暦五年正月任二讃岐権擬蔵人所労︒天徳二年閨七月神祇少祐︒四年正月韓二大祐毛應和二年九月縛二権少

︵ママ︶ 大 副↓安和元年十二月縛二少副壬天禄元十月廿日叙二従五位下二一年閨二月任二少副↓同年十一月補二祭主毛天

亀︵朱︶ 延二年十一月廿五日叙二従五位上毛糊姐餅唾貞一兀二年八月二日叙二正五位下幻能鵬祈賞︒永観二年十月十

一日叙二従四位下毛鮒柵蝕︒寛和一兀年十月廿日叙二従四位上至猷鵜主賞︒一一年十一月十八日叙二正四位下や大嘗

會︒正暦三年八月九日卒畦針祁生︒﹄恥

︑ 摂津権大目壬生直忠見駄輔墹柵碓脇蕊鯛字峅烙多と本見字作

子日する野邊に小松のなかりせはちよのためしに何をひかまし

か やかすとも草はもえなん春日野はた些春の日にませたらなん ︑ 小夜ふけてねざめさりせは郭公人ってにこそきぐへかりけれ

天暦八年五月御記云︒御厨所定外膳部以一謹吋見一鮴軸︒為二定額膳蟄天徳二年正月冊日任二摂津権大且 ︵ママ︶ 叙二従五位下↓蔵人労︒同月任二加賀権守壬五年正月任二伊賀守毛天禄四年二月七日叙二従五位上毛治国︒貞元二 年正月任二上野介や八月二日叙二正五位下毛雌恥正暦二一年一一月卒︒七贈身元年癸未生︒﹂秘

(24)

敦イ 小務宇多院矛四二品中務卿教慶親王女云々・母伊勢. 母高藤大臣女

私云此奇拾遺朝忠奇也如何 うぐひすの声なかりせは雪きえぬ山里いかて春をしらまし

秋かせの吹につけてもとはぬかなおきの葉ならは音はしてまし

朱雀院以後円融院御宇間人也︒卒年不詳︒天元年中源順贈答和歌見二家集↓ ︑ 前駿河守従五位上平朝臣兼盛樅孤加趾垳砿馴献珊憶

一品式部卿五位文兵部大甫 光孝天皇l是忠I興我王l篤行王l兼盛

太山いて&よはにやたつる郭公あかつきかけてこゑのぎこゆる

かそふれはわか身につもる年月ををくりむかふと何いそぐらん

︵ママ︶ 天慶九年五月五日叙二従五位下↓王俄和︒天暦四年二月﹂瞳任二越前権守↓年改レ姓為し臣︒天徳五年五月任二 2 ︵ママ︶ 山城介↓應和三年四月任二大監物↓康保三年正月七日叙二五位上茨ォ︒天元二年八月任二駿河守↓正暦元年

齋院次官 承保二年依二左府仰一盛方注二l出之︒其時件盛方 六位也 日野左衛門権佐 以二行盛朝臣自筆本一贈左大臣時信被し注し之︒

︾一 山城介↓唾 十二月卒︒ ︵四行分空白︶

21ウ

(25)

異本三十六人歌仙伝(新藤)

注 注 注 注

8 7 6 5

注 注 注 注

4 3 2 1

◇︑︑

﹁井﹂のように読承得るが︑なお判読不能︒

二字︒﹁後注﹂と読承得るが︑意味不明︒ 注5に同じ︒ ﹁文﹂あるいは﹁父﹂を読めるが︑﹁文﹂と読んだために疑問を傍書したものと推定される︒ 一字あるいは二字か︒二字とすれば﹁以上﹂のように読承得るが︑なお判読不能︒ ﹁流﹂のように読承得るが︑虫損のため判読不能︒ ﹁永﹂を書き損じたために︑見セ消チにして改めて傍書したもの・ 一字あるいは二字か︒﹁鴻艫舘﹂の﹁艫﹂の字形がやや崩れているので︑訂正の意味を含めて疑問を傍書したものと推定される 叉以二贈左府自筆一信国書.写之↓ 嘉応二年六月廿八日以二前兵部少輔信国本一書写旱︒

吏部員外郎藤敦綱

文和二五と比害し之︒ 暦応四年九月六日︒

判読不能︒ ︵三行分空白︶ 泰直筆也

L−−

22オ

(26)

翻刻した松野陽一氏御所蔵の﹃三十六人歌仙伝﹄は︑二七・七×一九・七毛ン垂の袋綴一冊本で︑用紙は楮紙︒

表紙は薄茶の地に茶で芦︑群雁模様を描く︒題祭はなく︑左上に直接﹁歌仙傳全﹂と外題を書く︒丁数一三丁︑墨

付一三丁で遊紙はない︒一丁裏に﹁奇仙傳﹂の内題︑一三丁表に奥書を持ち︑一三丁裏は白紙となる︒書写年代は江

戸後期と推定されるが︑虫損が甚だしく判読不可能な部分もある︒

この松野本は︑流布本の群書類従第六十五所収本文と対校すると︑種々の点で大きく異なり︑流布本に対して明ら

かに異本となる本文を有するものである︒そこで︑以下松野本本文の特徴を︑流布本との比較を中心にして概観した

閲類従本系統

︵注1︶ Ⅲ群書類従所収本②東北大学附属図書館蔵︵九三・四四二・一三﹁冊六人集﹂付載本

佃非類従本系統

︵注2︶ 側東北大学附属図書館蔵︵別置・伊五・四一五︶本 ︵注4︶︵注5︶ ︵丑.拾八︶本側松野陽一氏蔵一本 松野本と流布本とを比較するに際しては︑先ず管見し得た流布本系伝本内の異同を検して︑流布本系本文の実態を 把握しておく必要があろう︒管見の伝本は必ずしも多くないが︑類従本を中心にすれば︑次に掲げる二本統に細分さ れる︒ い︑と田噌ハノ◎

︵解説︶

⑭名古屋大学附属図書館蔵︵W九二・二三・塾本矧彰考館蔵

(27)

異本三十六人歌仙伝(新藤)

③旧の﹁本云寿永二年三月十四日記之﹂︵奥書︶の年号﹁寿永﹂を︑間は﹁永寿﹂とすること︒

①︑②については本来八V内の語句が備わっていたと考えるべきであり︑各々側︑凶の誤脱と思われ︑③について

は﹁永寿﹂の年号は存在しないので︑側の誤謬と認められる︒この外︑側︑佃間で文字一︑二字程度の異文になる箇

所も数多くあるが︑逐一掲出することは省略する︒

以上の如く︑流布本系諸本内での対立箇所は︑相互に補い合うことで誤謬︑欠陥を訂し得るので︑これらの点を加

味した上で︑最も流布している類従本を以て松野本と比較することにする︒ ②側の ︾︶︐ン﹂︒ 以上の間類従本系統︑佃非類従本系統を区分する基準となるのは︑次の三つの顕著な異同箇所である︒ ①伽の﹁︵元慶︶四年正月兼八備前権介十一月補蔵人寛平四年正月七日叙正五位下五年六月兼同介V六年二月任権中 将﹂︵敏行︶の記載の八V内の語句を⑧は欠くこと︒ ②側の﹁価亜相撰出貫之秀歌十首八中書王撰出人丸秀歌十首V合之﹂︵奥書︶の記載の八V内の語句を側は欠く

流布本に対する松野本の特徴の第一点として先ず指摘されるのは︑流布本よりも概して記事量が多く︑詳細で文意

の通りやすい本文であり︑かつ︑各歌人の伝記の前に必ず一首以上の歌を併記することである︒この点で特に顕著な

のは﹁人麿﹂の記事であって︑類従本の全文が︑

古万葉集云︒大宝元年幸二紀伊国一時作し謡︒従二車駕一云々︒今案︒件行幸日従レ駕者定二叙爵一歎︒如二古今倭謡集序一

︵ママ︶ 者︒注二先師柿下夫夫︒可レ謂二五位一歎︒古今金玉集序云︒及二奈良御宇毛和歌大興︒彼天皇知.食和歌趣一歎︒同御

(28)

時有二正三位柿下人丸者↓和歌儒也︒依二件文一廻二私案↓頗可レ謂二相違や以二大同之年一号二奈良之帝↓然而万葉集尋二人

丸在世之時屯天智天皇御宇以後︒文武天皇御在位之間人也︒何以称二奈良之御時人丸一哉︒正三位之條以不審︒

と比較的簡潔な記載であるのに対して︑松野本は︑このあと更に長い記事が続き︑およそ類従本の五倍強の記事量を

有するのである︒しかも︑右に掲げた類従本の全文の部分においても︑冒頭の﹁古万葉集云⁝⁝従車駕云々﹂の次に︑

松野本は﹁国史云⁝⁝賜衣衾﹂として﹃続日本紀﹄からの引用を載せるといった如く︑委曲を尽くした記載になって

○○ ○ いる︒また︑類従本の﹁以大同之年⁝⁝尋人丸在世之時﹂の部分が松野本では﹁間巷以二大同之主一号二奈良帝一然而就二

万葉集一尋二人丸在世之時一﹂とあり︑文意の通りやすい文言となっている点をも指摘し得る︒

松野本が類従本にない記事を有するという点については︑他に﹁躬恒﹂︑﹁伊勢﹂︑﹁家持﹂︑﹁友則﹂︑﹁高光﹂︑﹁頼基﹂

らの伝記にも指摘し得るし︑また︑﹁赤人﹂の伝記のように︑記事内容は同じでもより詳細になっているものもある︒

これらのことから推測されるのは︑現存流布本系本文は︑松野本系本文の記事を要約︑簡略化した所謂﹁略本﹂であ

ろうということである︒この推測を裏付ける根拠として︑両本の﹁小町﹂の記載の違いに注目したい︒類従本では︑

承和比人歎︒在中将伊勢物語云︒文屋康秀贈答︒又遍照僧正集云︒出家之後参二長谷寺屯而小野小町有二贈答和歌毛

と極めて簡潔な記載となっている部分が︑松野本では︑﹁翻刻﹂に示した如く︑康秀に対する答歌︑ならびに遍昭との

贈答歌をもそのまま載せている︒松野本は︑歌を付載することにも示されるように︑漢文体の文章に所々和文脈の詞

章が混入し︑全体として文体の統一性に欠けるが︑類従本は︑松野本の和文脈の部分を除去し︑﹁小町﹂の伝記全てを

漢文体で記すべく︑末尾もそれに承応する記述となっている︒

この事実を勘案すると︑流布本系本文は︑松野本系本文から和文脈の記載を除き︑全体を漢文体に統一すべく記事

の簡略化︑要約化を企図して改編された﹁略本﹂形態を示すもの︑言い換えると︑松野本系本文こそが原型︑もしく

(29)

異本三十六人歌仙伝

天慶二年十月七日任二祭王や同四年正月叙二従五位下や祭主労︒

とあって︑類従本は松野本の傍線部分︑即ち﹁二年十月七日任祭主同﹂と割注﹁祭主労﹂の﹁労﹂字とを脱している

ために︑祭主に任じた年時が不明となり︑末尾の一文を付載する意味がわかりにくくなってしまっているのである︒

柵松野本は︑更にこのあと﹁年暦名帳﹂を検して︑天暦二年時に従五位上﹁大中臣完行﹂なる人物の存在したことをも

伝記して︑﹁御舩宿禰傳説勘文﹂の説の正しいことを確認している︒

仙 歌先述の﹁人麿﹂︑﹁小町﹂にこの﹁頼基﹂に関する両本の相違点をも加味すると︑やはり︑松野本系l←流布本系の 人

今︑

づ本文派生経路を想定せざるを得ないのである︒ 神官人一以二六位官人一補二祭主毛

とあり︑傍線を施した末尾の一文が何を説明するために付されたものか︑ややわかりにくいのであるが︑松野本本文

によればその点の理解がつくのである︒全文の掲出は省略して必要な部分だけを抜き出すと︑ の︑し ある︒ はそれに近い形態のもの︑と推測されるのである︒逆に︑流布本の形態が原型で︑松野本はそれに記事を増補したも の︑との想定も可能であろうが︑次に述べる両本の﹁頼基﹂の記載の違いは︑その蓋然性が薄いことを証するもので

延喜元年六月任二神祇少祐毛五年正月任二権大祐毛承平三年正月任二権少副↓天慶四年正月七﹇

天暦五年正月七日叙二従四位下や天徳二年卒︒天暦十年五月十一日大外記御船宿祢伝説勘文云︒ 類従本の﹁頼基﹂の記載は︑

天慶四年正月七日叙二従五位下↓祭主︒

(30)

本文に多少の不備もあろうが︑﹃尊卑分脈﹄等を参照してこの奥書の記すところを辿れば︑概ね次のようになろう︒即

ち︑承保二年二○七茎に左大臣師実の仰せで﹁盛方﹂なる人物が三十六歌仙の伝記を注出し︑それを基に藤原行盛 一方︑松野本にはこ 正した本文で記す︶︒ 尾に次の奥書を持つ︒

承保二年依二左府仰一盛方注.出之や

以二行盛朝臣自筆本一贈左大臣時信被レ害し之︒

又以二贈左府自筆一信国書.写之↓

嘉応二年六月廿八日以二前兵部少輔信国本一書写旱︒

吏部員外郎藤敦綱

文和二五こ比害し之︒ 匡房卿記日︒三十六人歌合事起者︒公任大納言語二後中書王一云︒古今歌仙之中︒貫之為二第二・中書王云︒不し如二人 麿一云云︒価亜相撰.出貫之秀歌十首↓中書王撰.出人丸秀歌十首一合し之︒七首人丸勝︒三首者貫之勝云云︒ 本云寿永二年三月十四日記し之︒ 暦応四年九月六日 流布本に対する松野本の特徴の第二点は︑流布本とは全く別の奥書を有することである︒周知の如く︑流布本は末

一一一

松野本にはこの奥書はなく︑﹁翻刻﹂にも示した如く注目すべき別の奥書がある︵傍注を省略し︑見セ消チは訂

泰直筆也

(31)

従来﹃三十六人歌仙伝﹄については︑流布本の奥書による転写年時の﹁寿永二年﹂︵二八三︶しか知られていなかっ

たのが︑この奥書を信ずる限り︑成立年時と作者までも明確になり︑しかも︑院政期直前から南北朝期に至る書承︑

伝流経路をも知り得るので︑極めて貴重である︒但し︑この奥書に信腫性を認めるには︑最初の一文に記す﹁盛方﹂な

る人物が承保二年時に存在したことを確認する必要があろう︒﹃尊卑分脈﹄には同姓同名の﹁藤原盛方﹂を三人見出す︒

①定方流︑為宣男の資隆改盛方︵e六三頁︶

②顕隆流︑顕時男の千載歌人盛方︵e二四頁︶

柵③兼輔流︑盛信男の盛方︵e三一頁︶

伝しかしながら︑この①I③の﹁盛方﹂はいずれも該当するとは思われない︒①は傍注に﹁母常陸介菅是綱女﹂とある

仙 歌ので菅原是網︵一○三○二○七︶の外孫にあたるが︑是綱の生年から妥当せず︑②は傍注の﹁治承二十一十二卒四十 人 愉二﹂から︑保延三年l治承二年︵一二一七二七八︶の生存となり︑明らかに別人とわかり︑③は祖父盛仲の兄弟盛重

紀の傍注﹁白河院御籠童兀服之後近習﹂に従えば︑これも年代的に合致するとは見徹し難い︒

異 結局︑以上の三人は松野本奥書の﹁盛方﹂に該当するとは認め難いが︑それらとは別に︑﹃金葉集﹄初奏本︵静嘉堂 か︵書写者不叩 ︵注6︶ 直か︶が転写︑ が考えられる︒ ︵行家男︑文章博士︑金葉歌人︶が書写した本を以て︑贈左大臣平時信︵高棟王流︑清盛室従二位時子の父︶が転写 し︑次いで時信書写本を以て︑兵部少輔平信国︵信範男︑時信の甥︶が転写し︑更に嘉応二年︵二七○︶六月二十八 日に信国本を以て︑式部少輔藤原敦綱︵字合流︑明衡曽孫︶が転写し︑敦綱筆本を暦応二年︵一三四二九月六日に誰 か︵書写者不明︶が転写し︑また︑暦応二年書写本を文和二年︵二一宝三五月に泰直なる人物︵宇多源氏の行直男泰 ︵注6︶ 直か︶が転写したというのである︒松野本自体は︑文和二年書写本を基に︑更に幾度かの転写を経たものであること

(32)

文庫蔵伝為相筆本I巻五までの零本︶の巻三︑秋部にある︑

大和守資成法師になりて普門寺にこもりぬときってまかりたりけるにこのはちるをみてよめる

藤原盛方 承るたひにあはれさまさるすみか畠なよを秋風のこのはちりつ世

の歌の作者﹁盛方﹂は︑松野本奥書と合致する可能性が高い︒詞書中の﹁大和守資成﹂は︑﹃尊卑分脈﹄によれば︑橘

義通男︑為仲弟で︑傍注に﹁大和守従五上後拾作者﹂とあり︑﹃勅撰作者部類﹄にも﹁五位︒美濃守橘義通男︒至応徳

三年出家﹂とあるので︑この歌が資成出家の応徳三年︵一○八六︶直後に詠まれたものと推定されるからである︒応徳

三年は承保二年の十一年後であり︑﹃金葉集﹄初奏本の﹁藤原盛方﹂は松野本奥書の﹁盛方﹂と同一人物である蓋然性

ところで︑﹃金葉集﹄初奏本のこの歌は﹃後葉集﹄︵群書類従本︶にも載るが︑それには︑

橘資成法師になりて︑普門寺に篭りぬと聞きてまかりたりけるに︑木葉の落つるを見て

藤原盛房

見るま樫に哀れさまさるすゑか哉世をあき風に木のは散りつ世

とあり︑作者名が異なる︒﹃後葉集﹄に記す﹁盛房﹂は︑清輔の﹃袋草子﹄や顕昭の﹃柿本朝臣人麻呂勘文﹄︑﹃古今集

序注﹄等が﹃三十六人歌仙伝﹄の作者とする人物であり︑松野本奥書に示す作者と︑清輔︑顕昭らの著作に言う作者

との異なりが︑一首の作者をめぐる﹃金葉集﹄と﹃後葉集﹄との異同に対応することになる︒この符合現象は︑﹁盛

方﹂と﹁盛房﹂とが混同視されるような特殊な事情によるものか︑あるいは︑害承上の誤写等による単なる偶合か︑

目下のところ合理的な解釈に至り得ない︒因承に︑この歌は﹃金葉集﹄では初奏本にのみある歌で︑しかも︑現存初 が強まるのである︒

ところで︑﹃金葉

(33)

異本三十六人歌仙伝(新藤)

奏本は静嘉堂文庫蔵本が唯一の伝本であるため︑﹃金葉集﹄諸本内での作者名の異同を検することが不可能である︒初

奏本﹃金葉集﹄と松野本系﹃三十六人歌仙伝﹄の新たなる伝本の出現が待望される所以である︒

以上︑﹃金葉集﹂の作者名が﹃後葉集﹄で異なることはなお不審も残るが︑松野本奥書の﹁盛方﹂と同一人物の蓋然

性の高い﹁盛方﹂を﹃金葉集﹄初奏本に見出すことにより︑松野本奥書に対する一応の信瀝性が認められると思うの

である︒ 字は歌の通し番号︶︑ 流布本に対する松野本の特徴としては︑この外にも︑各歌人の伝記に先立って必ず一首乃至三首の歌を掲出する︑ という点があげられる︒それらは﹁遍昭﹂の項に補入された一首を含めて全六九首あるが︑その六九首を︑﹁三十六人 家集﹂の成立と深いかかわりがあるとされる﹃冊六人撰﹄︑﹃冊人撰﹄︑﹃十五番歌合﹄の三つの秀歌撰と照合してみる と︑そのうちの六四首までがそれら秀歌撰のいずれかに採られた歌であり︑そのいずれにも見られぬ歌は︵歌頭の数

蛆まきもくのひはらもいまたくもられは小松か原にあわ雪そふる︵家持︶

は 略月やあらぬ春やむかしの春ならぬわが身ひとつのもとの身にして︵業平︶

ミ 弱有明のつれなくみえしわかれよりあかつぎはかりうきものはなし︵忠岑︶

如住よりのきしによる浪よるさへや夢の通路人めよくらん︵敏行︶

別契きな形見に袖をしぼりつふ末のまつ山波こざしとは︵元輔︶

の五首のみである︒しかも︑この五人の歌人は︑別の歌一首乃至二首が松野本に記載されていて︑それらが以上の三

(34)

秀歌撰のいずれかには採られているので︑それらの秀歌撰のいずれにも載らぬ歌のみを掲げられた歌人は皆無となる︒

この事実は︑松野本の掲げる歌がこれらの秀歌撰と密接にかかわることを示すのであろうが︑更に臆測をめぐらすな

ら︑﹃三十六人歌仙伝﹄は︑﹁三十六人家集﹂の成立後それに付随して発生したものではなく︑こうした秀歌撰︑特に

﹃冊六人撰﹄などに付された作者略伝の形に︑その発生の淵源があることを示唆するものと言えよう︒但し︑この点

についてはあくまで推測であって︑具体的な論拠を持たないので︑詳しくは後考に委ねることにしたい︒なお︑松野

本のこれらの歌のうち三二首には墨で合点が施されているが︑それらは必ずしも各歌人の歌に平等に付されているわ

けではなく︑その意味についても現在のところ理解し得ない︒併せて今後の課題としたい︒

ともあれ︑綾々説明した如く︑松野本は︑明らかに流布本よりも前形態を保有するものであり︑それ故︑﹃三十六人

歌仙伝﹄の作者︑成立年時︑更にはその発生についても︑新たな手がかりを示唆する資料であることが認められるで

︵注8︶ あろう︒この外︑﹃三十六人歌仙伝﹄とほぼ同時代の成立とされる﹃古今和歌集目録﹄との先後関係についても︑松野

本は別の視点からの究明を可能にすると考えられるが︑本稿は︑松野本の資料的価値に鑑みて︑専らその全貌を翻刻︑

紹介することを旨としたので︑今回は触れないでおいた︒この問題についてはいずれ別稿を期したいと思う︒

注1版本︒全十一冊のうち第一冊第十冊が﹁肘六人集﹂で︑該本は第十一冊目︒﹁汁六人集﹂が群書類従から抜粋したものである

ので︑該本も群書類従からの抜粋と考えられる︒但し︑類従本と全く一致するわけではなく︑四箇所異同がある︒

注2﹁中古歌仙三十六人伝﹂との合綴本︒貞亨三年︵一六八六︶に黒川梅林︵道祐︶が自筆校訂した旨の賊文を持ち︑随所に朱の書入れが

注3国文学研究資料館マイクロ写真︵C︲一○七三︶による︒

ある︒

(35)

異本三十六人歌仙伝(新藤)

注4国文学研究資料館マイクロ写真︵Cl四八五八︶による︒﹁中古歌仙三十六人伝﹂との合綴本︒

注5﹁中古歌仙三十六人伝﹂との合綴本︒

注6﹁尊卑分脈﹂には三人の﹁泰直﹂を見出すが︑そのうち生存年代の推定できるのは宇多源氏の泰直︵e四○五頁︶で︑父行直の卒年

が康永元年︵二西三とあるので︑文和二年時に生存と考えられる︒

注7久曽神昇氏﹁西本願寺本三十六人集精成﹂︵昭和四十一年︑風間書房刊︶による︒

注8この間題については︑迫徹朗氏の御論考︵﹃古今和歌集目録﹂と﹃三十六人歌仙伝﹂の先後l忠岑の伝記をめぐってl﹁中

古文学﹂第十九号︑昭和五十二年五月︶があり︑迫氏は︑﹁古今和歌集目録﹂は﹁三十六人歌仙伝﹂の影響を受けて成立した︑と 結論づけておられる︒

︵付記︶ 本稿を成すにあたり︑貴重な資料の借覧︑翻刻を許可してくださった松野陽一氏︑東北大学蔵本の閲覧に種々の御便宜を賜わった片

野達郎氏に対して深く感謝申し上げる次第である︒なお︑本稿の一部は和歌文学会例会︵邪.u・皿於・昭和女子大学︶で口頭発表した

ものである︒席上助言を賜わった方左にも併せてお礼申し上げたい︒

参照

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文室秋津 従四位下 天長 102.30 藤原貞守 従五位上 天長

壱人むすこはち壱人女房 商拾八石八斗四升二合壱勺六才

︵三六︶

明治三十六年(一九○三) ⋯⋯ 娼妓(五、一九三人)    芸妓(三、○六○人)大正二年(一九一三)…⋯…⋯ 同 (六、一○四人)    同  (五、三三九人). 同十年(一九二一) ⋯