ドー
ケ ア の 倫 理
一 一 相 互 依 存 と 責 任 一
奈 良 県 立 医 科 大 学 看 護 短 期 大 学 部 池 辺 寧
An Ethic of Care
Interdependence and Responsibility
Yasushi IKEBE
NaraMedic,α1 Univers砂Collegeof Nursing
1.はじめに
ケ ア と は ど の よ う な 概 念 を 指 す の だ ろ う か 。 私 は 昭 和 五 十 三 年 に 『 死 に ゆ く 人 々へのケア~ ( 医 学 書 院 ) と い う 本 を 書 い た 。 こ の 時 に 書 名 を ど う す る か 、 ず い ぶ ん 迷 っ た 。 死 に ゆ く 人 々 の 「 看 護 」 、
f援 助J、「配慮jな ど の 言 葉 が 浮 か ん だ が 、 ど れ も ケ ア と い う 概 念 と ぴ っ た り
しない。……結局、日本語に訳さないで、
ケ ア と い う 言 葉 を そ の ま ま 使 う こ と に し た 。 衰 弱 が ひ ど く て 、 自 分 の 力 で ベ ッ ド の 上 に 座 る こ と が で き な い 患 者 さ ん の 背 中に、手をあてて起こしてあげるのは、
た し か に ケ ア で あ る 。 手 足 が ま ひ し て い る 患 者 さ ん を 車 い す に 乗 せ て 、 日 光 浴 を させてあげるのもケアである。しかし、
ケアにはもっと深い意味がある。それは、
人 格 的 な ふ れ あ い 、 す な わ ち ケ ア を 通 し て お 互 い が 人 間 と し て 成 長 す る と い う 側 面 で あ る 。 ケ ア は 決 し て 医 療 ス タ ッ フ が 患 者 に 一 方 的 に 与 え る も の で は な く 、 与 え 、 か つ 与 え ら れ る も の な の で あ る 。 山
冒 頭 に 引 用 し た の は 、 日 本 で 早 く か ら タ ー ミ ナ ル ケ ア に 取 り 組 ん で き た 、 柏 木 哲 夫 の 著 書 の 一 節 で あ る 。 柏 木 は 、 ケ ア に は 人 格 的 な ふ れ あ い が あ り 、 ケ ア す る 人 も ケ ア さ れ る 人 も お 互 い が 人 間 と し て 成 長 す る と い う 側 面 が あ り 、 ケ ア は 一 方 的 に 与 え る も の で は な く 、
与え、かっ与えられるものであると述べる。
本稿では、ケアのこのような特質について、
医 療 や 看 護 な ど の 臨 床 の 現 場 に 限 定 す る こ と なく広い観点から考えていきたい。
ま ず 、 ケ ア と い う カ タ カ ナ 語 の 問 題 点 に つ い て 若 干 言 及 し て お く 。 先 駆 者 の 柏 木 は あ れ こ れ 考 え あ ぐ ね た 結 果 、 日 本 語 に 訳 さ ず に ケ ア と い う 語 を そ の ま ま 用 い る こ と に し た よ う だ が 、 今 日 の わ れ わ れ は そ う し た 模 索 の 過 程 を経ずに、ケアというカタカナ語に馴染み、
こ の 語 を 頻 繁 に 用 い て い るo しかし、実は意 味 が よ く わ か ら な い ま ま 、 ケ ア と い う 語 に は な ん だ か 素 晴 ら し い こ と が 含 ま れ て い る よ う に思い、なんとなくわかったつもりになって、
「ケアが必要だ」とか「ケアが大事」などと 語 っ て い る だ け で は な い か 。 そ の 結 果 、 「 ケ ア と は 何 か J が よ く わ か ら な い か ら 、 か え っ て 乱 用 さ れ 、 ま す ま す わ か り に く く な っ て い るのではないか。
ケアという語は、柏木が言うように、看護、
援 助 、 配 慮 、 あ る い は 世 話 や 介 護 な ど と 訳 し てみてもどうもぴったりと当てはまらない。
ケ ア と い う 語 は 一 つ の 日 本 語 に 置 き 換 え る こ と の で き な い 拡 が り を 持 っ た 言 葉 で あ る 。 し か し 、 日 本 語 に 訳 せ な い か ら と い っ て 、 カ タ カ ナ の ま ま で 押 し 通 す の は や は り 安 易 で あ る 。 か つ て 柳 父 章 は 『 翻 訳 語 成 立 事 情 』 の な か で 、 明 治 期 に 作 ら れ た 翻 訳 語 に は 中 身 は よ くわからないが、{可か重要な意味があるのだ
‑8ー
と思い込んでしまう効果があると分析し、そ れ を 「 カ セ ッ ト ( 小 さ な 宝 石 箱 ) 効 果JG:名 づけた (2)0 カセット効果」という弊害は、
今 日 氾 濫 し て い る カ タ カ ナ 語 に さ ら に 甚 だ し い。本稿でもケアというカタカナ語を用いる ことにするが、せめて、カタカナ語を用いる ことの弊害だけは常に肝に銘じておきたい。
2.ケアの語義
ケアとは何か、またケアという語が適切な 日本語に訳せない理由はどこにあるのかを考 えるため、 careという英単語が英和辞典では 何と訳されているのか、最初に確認しておく。
ある英和辞典にはこう説明されているc
1 .心配、心配事、煩労、心労、気苦労、
気がかり、悩みの穣
2.関JL}、配慮、注意、世話、保護、介護、
ケア、関心事、責任、用事(3)
careという英単語は使われる文脈に応じて 様々な日本語に訳される語であり、一つの日 本語に置き換えることが難しいことが、この 英和辞典の記述から読み取ることができる。
それだけでなく、この辞書の記述から、さら に次の二つのことを指摘することができる。
まず第一に指摘したいことは、ケアという 語 に は 、 先 の 英 和 辞 典 の 項 目 の1で挙げられ ているように、心配や煩労、つまり、あれこ れと思い煩うこと、気がかりなどの意味があ るとともに、項目の2で挙げられているよう に、配慮や注意、世話、保護などの意味があ ることである。このニとについて、以下のよ うに解釈することができる。すなわち、ケア という語は第一義的には、心配や気がかり、
悩みなどを意味しているo 自分が抱えている 様々な心配や不安などと向き合うことが、ケ アの出発点であるo そして、自らが抱える心 配や不安などに対して自分なりに対処してい くことを通じて、われわれは同じような心配 や不安などを抱えた他者に対しでも、相手の 苦悩や要求に応えながら、世話や配慮を行っ
奈医看短紀要VOL8.2004
ていくことができるようになる。ケアのこの こつの意味に示されているように、人間とは 絶えず何かを考えて思い煩っている存在であ るとともに、自らと同じように苦しんでいる 人や悩んでいる人へと配慮の手を差し伸べて いる存在である。そのかぎり、ケアとは、人 間存在の根本的なありょうを言い表している
とみなすことができる。
ところで、上述のようなケアの語義に着目 したとき、ケアは人聞が持つ優しさを言い表 していると解釈することもできる。「優Jと いう漢字は「にんべん」に「憂えるうれ Jと書く。
人が自分のことをあれこれと憂えること、そ して同じように苦しみ悩んでいる他の人を憂 えること、これが優しさの本来の意味であろ う。ケアという語と優しさという語は表面的 にもなんとなく結びつくような印象を受ける が、それぞれの言葉本来の意味に遡っても結 びつけることができるかと思う。こうした解 釈はいささか強引かもしれないが、あながち 間違いでもないだろう。ちなみに、白川静は
「優」という漢字を次のように説明している。
「憂は喪に服し愁いをもっ人。その憂愁にう ちしずむ姿を優といい、またその姿をまねす るものを優というjは)。
要約すると、ケアという語は日本語では、
他者に対する配慮や世話などの意味で使われ がちだが、その根底には自己に対する思い煩 いがなければならない。というのも、自己自 身をケアすることができない人聞には、他者 をケアすることもできないからである。なお、
このことは、古代ギリシャの持代からすでに 言われてきたことでもある。フーコーはある イ ン タ ビ ュ ー の な か で 次 の よ う に 語 っ て い
る。
ギ リ シ ャ 人 や ロ ー マ 人 一 と く に ギ リ シャ人一ーは、正しく身を処し、自由を 立派に実践するためには、みずからに気 を配り、自己に配慮、しなければならなか った。……自己に気を配るギリシャ人が、
まず第一に他者のことに気を配らなけれ
‑9‑
ば な ら な か っ た 、 と 言 え る と は 思 え ま せ ん 。 倫 理 的 に は 自 己 へ の 配 慮 が 第 ー な の で す 。 自 己 と の 関 係 が 存 在 論 的 に 第 ー な のですから。 (5)
それぞれの人はそれぞれの人生を歩んで、い る の で あ っ て 、 他 の い か な る 人 と も 人 生 を 交 換 す る こ と が で き な い 。 フ ー コ ー が 述 べ て い る よ う に 、 自 己 と の 関 係 が 存 在 論 的 に は 第 一 の 関 係 に あ る 。 そ れ ゆ え 、 他 者 を い か に ケ ア す る か を 問 題 に す る と き 、 ま ず 間 わ れ な け れ ばならないのはケアする主体であるこの私と はいかなる存在なのか、ということである。
古 代 ギ リ シ ャ 人 が ま ず 第 一 に 自 己 を ケ ア し な け れ ば な ら な い と 考 え た の は 、 自 己 を 知 る こ とがなによりもまず重要だと考えたからであ る。「汝白身を知れj と い う 古 代 ギ リ シ ャ の 簸 言 は 、 そ の こ と を よ く 言 い 表 し て い るo
フーコーが言うところに従えば、古代ギリ シ ャ 人 は 、 自 己 自 身 を よ く 知 る こ と が で き た ならば、自らの欲望を抑制することができ、
他 者 と の 関 係 に お い て も 他 者 の た め に 振 る 舞 う と と が で き る 、 と 考 え て い た 。 言 い 換 え れ ば 、 自 己 を ケ ア す る こ と は 同 時 に 、 他 者 を も ケ ア す る こ と に な る 、 と 考 え て い た 。 も ち ろ ん、自己をケアするといっても、自己のこと ば か り を 気 に し て 、 他 者iこは関心を示さない ようなエゴイズムとは異なるo 自分のことば か り を 考 え て い る エ ゴ イ ス テ ィ ッ ク な 人 聞 は 結局のところ、自分にまつわる名誉や地位、
あ る い は 財 産 、 他 者 か ら の 評 判 な ど に と ら わ れ て い る だ け で あ っ て 、 自 己 自 身 の あ り 方 に 関 心 を 持 ち 、 自 己 自 身 に 向 き 合 っ て い る と は いえない。
ところで、周知のように、 f汝自身を知れj と い う 簸 言 を 自 ら の 標 語 に し て 、 哲 学 を 説 い た の は ソ ク ラ テ ス で あ る 。 彼 は 「 魂 の 気 づ か い」を提唱するo 彼はこう言う。
た だ 金 銭 を で き る だ け 多 く 自 分 の も の に し た い と い う よ う な こ と に ば か り 気 を つかっていて、恥ずかしくはないのか。
評 判 や 地 位 の こ と は 気 に し て も 思 慮 や 真 実のことは気にかけず、魂(いのち)を できるだけすぐれたものにするというこ と に 気 も つ か わ ず 心 配 も し て い な い と f'Io (6)
金銭や評判j、地位は自己に付随しているも のであり、これらにとらわれてしまうことは エ ゴ イ ズ ム に ほ か な ら な い 。 ソ ク ラ テ ス は 金 銭や評判、地位にとらわれることを批判し、
自己の内的な働きである魂をすぐれたものに することを説いたわけだが、自己をすぐれた ものにすることは当然ながら、他者とのかか わりもすぐれたものにすることにつながって し、く。
先に、ある英和辞典の記述から、ケアとい う語について二つのことを読み取ることがで きると述べたが、以上がその一点、めである。
繰 り 返 し 述 べ る と 、 ケ ア と い う 語 に は 、 自 己 へのケアと他者へのケアの二つの意味が含ま れており、まず第ーに語られるべきなのは自 己へのケアである。
もう一つ読み取れることについてだが、手 がかりとしてソクラテスの「魂の気づかいJ を 再 度 取 り 上 げ よ う 。 彼 は 金 銭 や 評 判 、 地 位 のことに気をつかうことをいましめ、魂をす ぐれたものにすることに気をつかうよう、わ れわれに勧めていた。ここで注意しておかな ければならないのは、魂だけでなく、金銭や 評判、地位のことに気をつかうことも「気を つ か う 」 と い う 点 に お い て は 、 ケ ア と い う 言 葉 で も っ て 言 い 表 す こ と が で き る と い う 点 で ある。ケアという語は、何かに関わっている こと、また、その関わり方を言い表している だけであって、この言葉自体が何に関わるの か、自らの対象を限定することはない。
したがって、何について気づかうのか、ま た、いかに気づかうべきかを明確にしておか ないと、あえて極端な例を挙げるが、ある人 をいじめることに情熱を燃やしている人もま た、その人をいかに悲惨な仕方でいじめょう かと配慮、している人、つまり、ケアしている
‑10‑
人と言えることになってしまう。もちろん私 も、いじめることもケアの一種だ、などと主 張しようとは思わない。ここで注意を促して おきたいのは、ケアという言葉自体が優れた 価値を持っているのではなく、われわれがケ アという言葉に優れた価値を与えているのだ ということである。このことはたとえば、愛 という言葉を例にしてみて考えてみれば、わ かりやすいだろう。多くの人は愛という語に 高い価値を置く。しかし、この言葉自体は自 らが関わる対象を限定することはない。「お 金を愛する」とか「暴力を愛する」と述べて も、愛という日本語の使用法として決して間 違いではない。
以 上 の こ と が 、 先 の 英 和 辞 典 の 説 明 か ら 読 み取ることができる二点めである。なお、以 上のことに関連して、ハイデガーが言う「気 づかい (Sorge)Jに つ い て 簡 単 に 言 及 し て お きたい。というのも、ケアを論じた書物のな かに、ハイデガーは「ケアの哲学」を説いて いる哲学者だと記述している本を見かけるこ とがあるが、その説明は彼の真意を伝えてい ない場合が多いからである。ハイデガーは人 間存在のあり方を気づかいに見出し、次のよ
うに述べている。
生きることは、関わるという点におい てその意味を考えるならば、気づかうこ と (Sorgen) と し て 解 釈 す る こ と が で き るo 生きることとは、何かのために気づ かい、イ可かのことで気づかい、そして何 かを気づかいつつ生きることにほかなら ないo(7}
ここでハイデガーが言おうとしていること は 、 わ れ わ れ は ど ん な 場 合 で あ れ 、 何 か 何かは人であれ物であれ、何でもよいのだが
ーーに関わっているということである。われ われは何かと関わることがなければ、生きて いくことができない。たとえば、講演者とし ての私は、自の前の聴講者と関わっているわ けだが、それだけでなく、マイク、ノート、
奈医看短紀要 VOL8.2004
チョーク、等々、様々なものと関わっている。
ハイデガーはそうした事態を踏まえて、生き ることとは何かに関わること、つまり、何か を気づかうことであると主張する。
ドイツ語の Sorgenを 先 の 引 用 文 で は 「 気 づかうことJと訳したが、英訳すると caring
となる。そのため、ケアを論じている書物の なかには、ハイデガーはケアすることを人間 の本質であると捉えた、という趣旨のことを 述べているものがあるは)。だが、こう解し てしまうと、間違いとは言い切れないが、ハ イデガーの真意を見誤ってしまうおそれがあ る。というのも、彼は人間存在の様態を表す 語として[気づかしリを用いたが、この語に 倫理的に高い価値を与えているわけではない からである。
3. rケ ア の 倫 理jの発端ーーギリガン『も うひとつの声』
以下、本稿の主題である「ケアの倫理」に 立ち入っていくことにするが、その前にケア という語が今日いかなる意味で使われている のかを簡単に整理しておこう。ケアという語 は特に生命倫理学の分野では、おおよそ次の 四つの意味で用いられている。
① 「医療j という言葉と同じ意味
② 「キュア(治療)Jと対になり、「キ ュアJと似て非なるもの、という意味
③ 「看護j とほぼ同じ意味。
@ r配慮、して世話をすること」という一 般的な意味(9)
①の意味でのケアは、「へ/レス・ケアJの
「ケアjを指している。疾病を診断し、治療 を行うキュアに対比して、患者の個別性や精 神面を支援していくことを重視し、それをケ アと捉えたのが②の意味でのケアである。ま た、そうしたケアを看護の本質と捉えようと したのが③の意味でのケアである。こうした 動 き は 1970年代から見られるものである。
それに対して、本稿の主題である「ケアの倫
官E ‑‑
唱E ‑
直
理jは 、 こ こ で 紹 介 し た 分 類 に 従 え ば 、 ④ の 意味での一般的なケア概念、つまり「配慮、し て 世 話 を す る こ と J に 該 当 す る 。 た だ し 、 以 上 の よ う に 四 つ に 分 類 し て み た と こ ろ で 、 こ れ ら は 相 互 に 関 連 し て お り 、 実 際 に は 厳 密 に 区 別 で き る も の で は な い 。 以 上 の 分 類 は あ く ま で 、 ケ ア を 論 じ る 角 度 、 な い し は 視 点 の 相 違を表しているにすぎない。
「配慮して世話をすること」という一般的 な意味でのケアを重視した倫理を、ふつう「ケ ア の 倫 理 」 と 呼 ぶ 。 「 ケ ア の 倫 理Jという言 葉 は 、 医 療 や 看 護 の 分 野 で ケ ア と い う 語 が 使 わ れ る よ う に な っ た の よ り も 少 し 遅 れ 、 ギ リ ガンが 1982年に出版した『もうひとつの声』
の な か で こ の 言 葉 を 使 っ た の が 契 機 と な っ て 用いられるようになった。
ギ リ ガ ン に よ れ ば 、 道 徳 意 識 の 発 達 を 研 究 す る に あ た っ て 、 従 来 、 主 に 男 性 か ら 見 た 発 達 が 一 般 的 な 理 論 と し て 用 い ら れ た た め 、 女 性 は 男 性 に 比 べ て 道 徳 性 の 発 達 が 低 い と 見 な さ れ て き た 。 他 者 を 思 い や っ た り 、 他 者 の 世 話 を す る 責 任 を 引 き 受 け た り す る こ と に よ っ て 、 女 性 は 他 者 の 声 に 注 意 を 向 け 、 自 分 の 判 断に他者の視点を取り入れてきた。ところが、
男 性 は 世 話 を 受 け る こ と を 当 然 の こ と と し て 受け止め、その値打ちを低く見積もってきた。
ギ リ ガ ン は こ の よ う に 批 判 し 、 従 来 の 発 達 モ デ、ルで、は捉えきれない「もうひとつの声」、
女性特有で、はないにしても、女性に顕著にみ られる「もうひとつの声jを、「ケアの倫理j と名づけた(なお、こうした捉え方に対して、
男 女 の 性 差 を 固 定 し て し ま う こ と に な る と い う 批 判 が あ る が 、 こ こ で は 「 男 性 的Jr女 性 的j と い う 語 は あ く ま で 象 徴 的 な 意 味 で 使 わ れていると理解しておく)。
ギ リ ガ ン は 「 ケ ア の 倫 理 」 を 提 示 す る に あ た っ て 、 「 ハ イ ン ツ の ジ レ ン マ 」 に 対 す る 男 の 子 と 女 の 子 の 反 応 の 違 い を 比 べ る 。 「 ハ イ ン ツ の ジ レ ン マ 」 と は 、 ギ リ ガ ン の 恩 師 で も あ る コ ー ル パ ー グ が 子 ど も の 道 徳 性 の 発 達 を 調べるために考案したものである。まず、「ハ イ ン ツ の ジ レ ン マJの概要を見ておとう。
ハ イ ン ツ の 妻 は 死 に そ う だ っ た 。 唯 一 の望みはある薬屋が発見した薬だ、った。
薬 屋 は 400ド ル の お 金 を か け て 薬 を 作 り、それを 4000ド ル で 売 っ て い た 。 ハ インツは知人たちからお金を借りたが、
2000ド ル し か 用 意 で き な か っ た 。 そ こ で 彼 は 薬 屋 に 、 妻 が 死 に そ う だ か ら 、 薬 を安く売ってくれるか、後払いにしてく れるように頼んだ。しかし、「だめです。
私 は お 金 を も う け る た め に 、 こ の 薬 を 作 ったのですJと薬屋は断った。そこで、
ハ イ ン ツ は 薬 を 盗 み 出 そ う と 考 え た 。 ハ イ ン ツ は 薬 を 盗 む べ き か 。 ま た 、 そ れ は なぜか。(川
「ハインツのジレンマ」に対して、 11歳 の 男 の 子 ジ ェ イ ク は 「 ハ イ ン ツ は 薬 を 盗 む べ き だ 。 な ぜ な ら 、 人 間 の 命 は お 金 よ り も 尊 い か ら 」 と 主 張 す る 。 ジ ェ イ ク は 「 人 の 命 は 尊 いj と い う 倫 理 原 則 と 「 物 を 盗 ん で は な ら な い」という倫理原則を比べ、「人の命は尊い」
という原則を優位に置いた。ジョイクのよう に 、 二 つ の 原 則 を 比 べ て 結 論 を 導 き 出 す こ と ができるかどうかを調べることが、コーノレバ ー グ が 「 ハ イ ン ツ の ジ レ ン マ 」 を 考 案 し た 意 図 で も あ っ た 。 そ れ に 対 し て 、 同 じ く 11歳 の女の子エイミーは「盗むことはいけない。
し か し 、 奥 さ ん を 死 な せ て も い け な い 。 薬 屋 に事情をもっとよく話すべきだ」と述べ、「ハ イ ン ツ は 薬 を 盗 む べ き かj という問いには十 分に答えていない。
コ ー ル パ ー グ の 意 図 か ら す れ ば 、 エ イ ミ ー は ジ ェ イ ク よ り も 道 徳 性 が 低 く 見 ら れ る こ と に な る 。 し か し 、 ギ リ ガ ン は そ こ に 、 道 徳 意 識についての従来の発達モデ、ルでは捉えきれ な い 側 面 、 つ ま り 「 も う ひ と つ の 声 」 を 見 出 した。ギリガンはこう述べている。
エ イ ミ ー の 世 界 は 、 人 間 関 係 と 心 理 的 な 真 実 か ら な る 世 界 で あ っ て 、 そ の 世 界 で は 、 人 々 は 他 の 人 々 と の つ な が り に 気
‑12ー
づ く こ と に よ っ て 、 お 互 い に 対 す る 責 任 (responsibility )を認識し、応答 (response) の 必 要 を 理 解 し て い る 。 … … 非 暴 力 的 に 葛 藤 を 解 決 し て い く と い う 基 本 信 条 、 ケ ア が 人 間 関 係 を 修 復 さ せ る 原 動 力 と な る という信念を持つことによって、彼女は、
ジ レ ン マ の 話 に 登 場 す る 人 物 を 権 利 争 い に お け る 敵 対 者 と し て で は な く 、 依 存 し 合 っ て い る 人 間 関 係 の ネ ッ ト ワ ー ク の メ ンバーとして見るようになっている。{日)
エ イ ミ ー に と っ て は 誰 も が 依 存 し 合 う て 生 き て い る 人 間 関 係 の 一 員 で あ る こ と 、 お 互 い に 責 任 を 認 識 し 、 お 互 い に 応 答 し 合 う 必 要 が あ る こ と 、 こ う い っ た こ と を こ の 引 用 文 か ら 読 み 取 る こ と が で き る 。 ギ リ ガ ン の 主 張 が よ
く表れている箇所をもう一つ挙げておく。
人 間 関 係 の 真 実 は 、 人 と の つ な が り を 再 発 見 す る こ と に 存 し て い る 。 言 い 換 え れ ば 、 自 己 も 他 者 も 相 互 依 存 の 関 係 に あ る こ と 、 お よ び 、 人 生 は た と え そ れ 自 体 に ど ん な 価 値 が あ る に せ よ 、 人 間 関 係 の な か で の ケ ア に よ っ て の み 維 持 さ れ る こ と 、 こ れ ら の こ と を 再 認 識 す る こ と に 存 しているoI凶
「ケアの倫理」という言葉はギリガンの「も う ひ と つ の 声 』 が き っ か け と な っ て 使 わ れ る よ う に な っ た が 、 「 ケ ア の 倫 理 」 の 内 容 自 体 は そ れ 以 前 か ら 言 わ れ て い た こ と で も あ るo
そ の た め 、 以 下 で は も っ と 広 い 観 点 か ら 「 ケ ア の 倫 理jについて論じていくことにしたい。
そ の 際 、 特 に 取 り 上 げ た い の は 、 ギ リ ガ ン も 挙 げ て い た 相 互 依 存 (interdependence) と責 任である。
4.相 互 依 存 一 一 支 え あ い は 支 え ら れ あ い ま ず 、 ミ ッ チ ・ ア ル ボ ム の 『 モ リ ー 先 生 と の火曜日Jを 手 が か り に し て 、 他 者 に 依 存 す る こ と 、 他 者 の 世 話 に な る こ と に つ い て 考 え ていくことにしよう。
奈医看短紀要VOL8.2004
ス ポ ー ツ ・ コ ラ ム ニ ス ト と し て 活 躍 す る 著 者ミッチ・アノレボムは、テレピで偶然、大学 時代の,恩師モリー先生を見かけた。恩師は、
難 病A L S (筋萎縮性側索硬化症)に侵され ていた。ミッチはこのとき、 37歳 。 大 学 卒 業 後 、 プ ロ の ミ ュ ー ジ シ ャ ン を め ざ し た も の の 、 挫 折 。 そ の 後 、 ス ポ ー ツ ・ ジ ャ ー ナ リ ズ ム の 世 界 に 進 み 、 鋭 い 洞 察 と 軽 妙 な タ ッ チ の コラムは高い評価を受けていた。
ミ ッ チ は こ う 言 う 。 「 毎 日 毎 日 、 時 間 は ふ さがっている。しかし、その多くに満ち足り た 気 持 ち は な いJ0 お そ ら く 、 ス ポ ー ツ ・ コ ラ ム ニ ス ト と し て が む し ゃ ら に 働 き 続 け 、 そ れ な り に 成 功 し 、 社 会 的 に も 一 定 の 評 価 は 得 たものの、 40歳 を 前 に し て 自 ら の 人 生 に 何 か満たされないものがあったのであろうo そ ん な と き 、 大 学 卒 業 後 、 会 う こ と も な か っ た 恩師の姿をテレピで見て、ふとJ恩師に会いた く な っ た 気 持 ち も わ か ら な く も な い 。 夢 と 希 望 に 満 ち あ ふ れ て い た 大 学 時 代 に 、 人 生 に つ い て 多 く の こ と を 教 わ っ た 思 師 に 今 一 度 、 会 い た く な っ た の で あ ろ う 。 ミ ッ チ は 忙 し い 時 間の合聞を縫って、恩師モリー先生を訪ねる。
そ う し て 、 ミ ッ チ 一 人 が 受 講 者 と な る 週 一 回 の 講 義 が 始 ま っ た 。 そ の 講 義 を 著 作 に し た の が『モリー先生との火曜日』である。
モ リ ー 先 生 は 体 が だ ん だ ん と 動 か な く な り 、 生 活 し て い く う え で 最 も 個 人 的 、 最 も 基 本 的 な こ と 、 つ ま り 、 ト イ レ へ 行 く こ と 、 鼻 を か む こ と 、 陰 部 を 洗 う こ と 、 こ う い っ た こ と が も は や 自 分 で は で き な く な っ た 。 モ リ ー 先 生 も 最 初 は 他 者 の 世 話 に な る こ と を な か な か受け入れることができなかったようだが、
ど う あ が い て も ダ メ だ と 諦 め 、 つ い に 受 け 入 れ ざ る を え な い と き が き た 。 そ の と き の 気 持 ちをモリー先生は次のように述べている。
へ ン な も ん で ね 、 ミ ッ チ 。 私 は 独 立 独 歩の人間だから、本来の傾向としては、
こ う い っ た こ と す べ て と 闘 い た い わ け だ 。 車 か ら 出 し て も ら う と か 、 誰 か に 服 を 着 せ て も ら う と か 、 そ ん な の ご め ん だ
‑13‑
ドーーー‑ー
よ。ちょっと恥ずかしい。恥ずかしいっ て い う の は 、 わ れ わ れ の 文 化 で は 、 自 分 で 尻 が 拭 け な い の は 恥 ず か し い こ と と 教 え ら れ る か ら だ 。 し か し ね 、 そ こ で 私 は 考 え た 。 文 化 が な ん と い お う と 知 っ ち ゃ い な い 。 自 分 は 生 き て い る 間 だ い た い こ ん な 文 化 な ん て 無 視 し て き た 。 恥 ず か し がるのはやめよう。(日)
われわれはたいてい、「自分でできること は自分でしろJr人に迷惑だけはかけるなん と い っ た 考 え 方 を 教 え 込 ま れ 、 い つ の 間 に か 身につけているo そしてまた、自分も親にな れば子どもに同じように教えている。だが、
そ う い っ た 考 え 方 に 縛 ら れ て し ま う と 、 人 に 何 か を 世 話 し て も ら う の は と て も 申 し 訳 な い ことだと感じ、肩身が狭い思いをしてしまう。
「からだがもはや動けなくなったからといっ て 、 自 分 の お 尻 を 自 分 で は 拭 け ず 、 他 人 に 拭 い て も ら う な ん て 。 考 え た だ け で も 耐 え ら れ ないJ。こう,思ってしまうo
しかし、そう思ってしまうのは、そのよう に 思 う 文 化 の な か で わ れ わ れ が 育 っ て き た か らだ。とのことに気づいたモリー先生は、「文 化 が な ん と い お う と 知 っ ち ゃ い な い 。 … … 恥 ずかしがるのはやめようj と言って、他者の 世 話 に な る こ と を 受 け 入 れ て い く ロ そ の と き の 心 境 を 彼 は 「 依 存 す る こ と を 楽 し み 始 め た (1 began ω eザザ mydependency.) Jと顧みて い る ( 邦 訳 で は 、 「 他 人 頼 り を 楽 し む こ と に し た の さ 」 と 訳 さ れ て い る ) 。 モ リ ー 先 生 は 他 者 の 世 話 に な る こ と を 受 け 入 れ た だ け で な く、楽しむことにした。彼は依存すること、
世 話 に な る こ と 、 助 け て も ら う こ と 、 等 々 に 高 い 価 値 を 置 い て 、 そ こ に 喜 び ゃ 楽 し み を 見 出 し 始 め た 。 こ れ は 、 こ れ か ら の 社 会 に 求 め ら れ る で あ ろ う 、 人 生 観 や 価 値 観 の 根 本 的 な 転換と言ってよい。
われわれの多くは、他者に依存すること、
他 者 の 世 話 に な る こ と に 屈 辱 を 感 じ て し ま う 。 そ れ は 「 独 立 を 尊 ぶ 、 わ れ わ れ の 個 人 主 義 的 な 文 化 の た めjだ 、 と そ リ ー 先 生 は 述 べ
る。彼は別の本のなかでこう語っている。
世間の人々が他者の助けを断るのは、
「独立の能力」がないと、自尊心もなく なると思っているからである。われわれ は他者の助けを求めたり、欲したり、強 く 望 ん だ り し た と き 、 自 分 が 劣 等 な 人 聞になってしまうとなんとなく恐れてい るo それは、独立を尊ぶ、われわれの個 人主義的な文化のためである。 (14)
「独立を尊ぶ個人主義的な文化」について 考 え た と き 、 思 い 浮 か ぶ の は 少 し 話 が 飛 躍 す るが、オランダにおける安楽死の問題である。
オランダでは安楽死は以前から事実上容認さ れ て い た が 、 つ い に 2002年4月 よ り 安 楽 死 を完全に合法とする法律が施行された。ここ で安楽死の問題について詳しく触れる余裕は ないが、オランダでは人々はなぜ安楽死を望 むのか、二人のオランダ人の声を紹介してお きたい。
自 分 で 何 も で き な く な っ て し ま っ た ら、もう生きているとはいえない。自立 して生きているという実感がなくなった とき、私は安楽死するんだ。ー・ーもしも 私が八Oを超えていたら、人の世話にな っていいと思ったかもしれないわ。でも、
私はまだ六六よc頭もはっきりしている。
自分の思いどおりに生きられないなんて とても耐えられないわ(安楽死を望んで い る 、 あ る オ ラ ン ダ 人 女 性 の 言 葉LI叫
自立心の強い妻にとって、他人に、お しめの交換や飲食などをすべて依存する 生活は「人間としての尊厳が守れない」
状態だったのです。彼女は自分を恥じて い た 。 私 も 、 彼 女 の 気 持 ち が 分 か っ た か ら、希望をかなえてやりたかった(安楽 死 を 望 ん だ 、 別 の オ ラ ン ダ 人 女 性 の 夫 の 言葉)0 (同
‑14‑
』圃‑←
←
これらの資料を読んでいて気になるのは、
「自分で何もできなくなってしまったら、も う生きているとはいえない」のか、「おしめ の 交 換 や 飲 食 な ど を す べ て 依 存 す る 生 活 は
『人間としての尊厳が守れない』状態Jなの か、ということであるo たしかに私自身も、
排 世 や 飲 食 、 そ の 他 、 日 常 生 活 の す べ て を 他 者 に 依 存 す る 生 活 は 耐 え 難 く 感 じ る 。 そ ん な 状 態 に な る く ら い な ら 、 ぽ っ く り と 死 に た い と思ってしまう。しかし、そう思ってしまう の は 「 自 分 で で き る こ と 」 を 当 た り 前 の よ う に 感 じ 、 無 自 覚 的 に で あ れ 、 そ こ に 高 い 価 値 を 置 い て い る か ら で は な い か 。 だ が 、 「 自 分 でできることj に 高 い 価 値 を 置 く こ と は 同 時 に 、 「 自 分 で は 何 も で き な い 人 」 を 低 く 見 て しまうことにつながりかねない。さらには、
人 間 と し て の 尊 厳 が 守 れ な い 状 態 と み な し て しまうことにつながりかねない。
「自分では何もできない人jは人間として 低 い 価 値 し か 持 っ て い な い 人 、 人 間 と し て の 尊 厳 が 守 れ な い 状 態 の 人 な の だ ろ う か 。 む ろ ん、そんなことはない。何もできなくても、
人 間 は 誰 し も 存 在 し て い る こ と だ け で 生 き る 意味があるo 人 間 の 尊 厳 と は 、 何 が で き る か ( doing)にではなく、存在そのもの Cbeing) に こ そ あ る は ず だ 。 問 題 は 「 自 分 で は で き な いことj を 快 く 引 き 受 け て く れ る 人 間 関 係 が あ る か ど う か 、 あ る い は 受 け 皿 と な る 社 会 が あ る か ど う か 、 で あ る 自 分 で は で き な い こ と 」 を 伏 く 引 き 受 け て く れ る 人 間 関 係 や 社 会 を 築 い て い く こ と 、 こ の こ と を 考 え る う え で 着 目 し た い 人 間 関 係 の 様 相 が 相 互 依 存 、 も しくは支えあいである。
ただし、「支えあいJという言葉を用いる に あ た っ て 注 意 し て お か な け れ ば な ら な い こ とがある。それは、この言葉を用いるとき、
「人を支える」という側面にどうしても関心 が 向 か つ て し ま う こ と だ 。 た し か に 、 「 支 え あいJと い う 言 葉 は 、 響 き が よ く 気 持 ち の い い言葉である。しかし、「支えあい」という 言 葉 に 何 か 惹 か れ る も の を 感 じ 、 こ の 言 葉 を 使 う と き 、 た い て い の 人 は 自 ら を 支 え る 側 に
奈医着短紀要 VOL8.2004
置いている。だが、言うまでもなく、支えあ い ・ 助 け あ い と い う 言 葉 は 、 自 分 も 支 え ら れ ること・助けられることを含んでいる。その 点を踏まえて私自身は、「支えあうこと」よ りも、むしろ「支えられあうこと」、つまり、
相互依存を重視していきたい。
たとえば、「困ったときはお互い様だJと いう常套句があるo この常套句は通常、困っ ている人を助ける側の人間が使う言い回しで あり、助けられる側が「困ったときはお互い 様だ。だから助けてくれ」とは言わない。も し、そう言って助けを求める人がいたら、わ れ わ れ は ふ つ う 「 何 と 厚 か ま し い 奴 だJと非 難 す る だ ろ う 。 だ が 、 助 け を 求 め る こ と は 厚 かましいことなのだろうか。私は否と答えた い。そして、「困ったときはお互い様だJと いう常套句を、「困ったときは他人の世話に なるのは当然のことだj と読み替えて理解し たい。もちろん、当然といっても、時と場合 による。また、世話を受ける側にも一定の節 度が要求されるo しかし、他者の世話になる ことを「申し訳ない」、「恥ずかしいJと卑 屈に思う必要は決してない。
どんな人間であれ、人聞は他者との関わり のなかで生活をしている。誰にも全く依存せ ずに生きていくことなど、到底できない。自 立した生活といっても、それは誰にも依存し な い こ と を 指 し て い る の で は な い 。 他 者 の 世 話になり、他者からも必要とされながら、自 分 な り に 生 き る こ と の 意 味 を 見 出 し 、 生 活 し ている姿こそが自立した生活である。どんな に 優 れ た 才 能 の 持 ち 主 で あ っ て も 、 そ の 才 能 を発揮させようと思えば、他者の協力や助カ が必要だ。人に何かを頼むこと、さらにはモ リー先生のように頼むことを楽しむこともま た積極的な生き方である。モリー先生は、「助 けが必要なときは、できるだけ多くの助けを 受けなさい」というメッセージを残している が川、味読すべき言葉だ。
ところで、私がこういったととを教えられ た本に、他に安積遊歩の著作がある。安積は 骨 形 成 不 全 症 と い う 障 害 の た め 、 車 イ ス に 乗
‑15ー
って生活をされている方である。彼女はある とき障害者の仲間から、「障害をもっ人もも たない人も、みんないっしょに生きるんだ、
助けあうのがあたりまえなんだ。迷惑かどう かなんて、まったく問題じゃないんだ」と言 われたのがきっかけとなって、自分でできな い こ と は 「 人 に 頼 め ば い い ん だJという発想 の転換をしたという(ただし、発想の転換が できたのは、仲間からの一言だけでなく、彼 女のそれまでの様々な経緯も関わっているよ うである)0 r人 に 頼 め ば い い ん だ 」 と 発 想 の 転 換 を し た 安 積 は 、 さ ら に 次 の よ う に 述 べ ている。
いまは、頼むということの幅をもうす こし広く考えている。できないことだけ じゃなくて、たとえ自分でできることで も、人に頼みたいなと思ったり、頼まざ るをえないような状況のときは頼んでい いんだと。頼みあえることが、つまり、
自己決定権と選択権を行使できることが
「自立j なんだと思う。そして、頼まれ た人だって、頼まれでもできないときや、
したくないときには、はっきり断ればい い。障害をもっててかわいそうといった 思いこみに引きずられず、断らなきゃい けないときは断るのが、対等な人間関係 の第一歩だ。(削
人 に は そ れ ぞ れ 能 力 の 違 い が あ る 。 あ る 人 にはたやすくできることなのに、他の人には かなりの時聞がかかる、もしくは、いくら時 間をかけてもできない、といった例はいくら でもあるだろう。しかし、能力の違い、すな わち、できる、できないといった違いに、人 間としての価値の高低があるわけではない。
安積が言うように、自分ですることにこだわ らずに、人に何かを頼むことを当然のことと 捉 え 、 必 要 に 応 じ て ど ん ど ん 頼 め ば い い 。 頼 まれた側も断らなければいけないときは、断 わればいい。頼むことも断ることもお互いに 遠慮なしにできるような、相互依存の関係こ
そが成熟した人間関係であり、成熟した社会 のあり方だ。そして、成熟した人間関係や社 会を築いていくうえでのキーワードが、ケア である。このことについて、たとえばノデイ ングズは、「成熟した人間関係は棺互性によ って性格づけられる。つまり、成熟した人間 関係とは、お互いに立場を交換し合える一連 の出会いから成り立っている。機会が生じる と、お互いがケアする人となり、ケアされる 人となる」と主張している(則。また、ベナ ーとノレーベルも、「ケアリングと相互依存こ そが成人の発達の究極的な目標であると考え たいjと捉えている制。
さて、次節では責任について述べていくこ とにするが、その前に、本節で述べてきたこ と に 対 し て 一 つ 確 認 し て お き た い こ と が あ る。本節での主張は、人々の間での相互信頼 など、人々が持つ善い面を前提している。し かし一方で、人聞は「他人の不幸は蜜の味」
と感じたり、他人を蹴落としても自分の都合 ばかりを優先して行動したりもするo 人間に はそういったドロドロとした汚い面があるこ とは否定できない。そうである以上、ケアを 論 じ る 際 、 「 思 い や り の 心 を 育 て るJ、等々 の こ と を 語 る こ と も も ち ろ ん 重 要 で あ ろ う が、それに先立って、自己自身と向き合い、
自己自身の内面を深く見つめていくことを強 調していく必要があろう。すでに述べたよう
に、倫理的には自己へのケアが第ーであり、
自己自身をケアできない人間には、他者をケ アすることはできない。一言で言えば、ケア は自己自身を知ることから始まるO
5.他者への応答可能性としての責任 責任について述べていくことにしよう。こ こで言う責任とは、自らが為した過失に対し て負わなければならない責めといったことを 意味するものではない。手がかりとして、フ ロムの説明を最初に引いておく。
責 任 (responsibiIi守)とは、他の人間 が表に出すにせよ出さないにせよ、何か
p o
旬E ‑‑
~ι
を求めてきたときの、私の応答([1告sponse) である。「責任がある」ということは、
他 者 の 要 求 に 応 じ る こ と が で き る 、 ま た は 応 じ る 用 意 が あ る 、 と い う こ と を 意 味
しているo(211
英 語 で 責 任 を 意 味 す る responsibili勿は、
response (応答)と ability(能力)という語か ら 作 ら れ て い る 。 応 答 と は 、 他 者 か ら の 呼 び か け や 要 求 に 応 答 す る こ と で あ る 。 他 者 が 何 か を 私 に 要 求 し て き た と き 、 た と え ば 私 に 苦 し み を 訴 え て き た と き 、 私 は そ の 要 求 に 応 答 で き る の で あ り 、 し た が っ て 応 答 し て い か な け れ ば な ら な い 。 そ れ が 私 に 課 せ ら れ た 責 任 なのである。
奏任概念、をより鮮明にするために、一つ例 を 挙 げ て み よ う 。 誰 か が 今 こ こ で 、 お な か を 押 さ え て 「 痛 い 、 痛 い 」 と 叫 ん で 非 常 に 苦 し が っ た と す る 。 た い て い の 場 合 、 周 囲 の 者 は そ れ を 見 て 、 あ る い は 聞 い て 、 駆 け 寄 り 「 ど うしましたかjと尋ねるのではないだろうか。
周 囲 の 者 が そ の 人 の お な か を 殴 っ た わ け で も 、 ま た 、 何 か 毒 を 盛 っ た 食 べ 物 や 飲 み 物 を そ の 人 に 与 え た わ け で も な い か ぎ り 、 そ の 人 が お な か を 押 さ え て 「 痛 い 、 痛 い 」 と 叫 ぶ こ と と 、 周 囲 の 者 と の 聞 に は 何 の 因 果 関 係 も な い 。 だ が 、 駆 け 寄 っ て 「 ど う し ま し た か 」 と 尋 ね 、 場 合 に よ れ ば 救 急 車 を 呼 ぶ な り の し か るべき処置をするだろう。「そんなこと、自 分の知ったことじゃない。自分には関係ない」
と は ふ つ う 言 わ な い だ ろ う 。 駆 け 寄 り 、 し か る べ き 処 置 を す る 、 そ う い っ た 対 応 を 取 る こ とが、ここで言う責任である。
他 者 を ケ ア す る と い う 営 み も 、 他 者 と の 関 わ り に あ っ て 、 他 者 の 苦 し み や 困 窮 か ら 発 せ られる呼びかけに応えていくことにほかなら な い 。 他 者 を ケ ア す る こ と は 、 他 者 の 要 求 に 応 答 で き る こ と と い う 、 言 葉 本 来 の 意 味 に お け る 「 責 任 (responsibility)Jを 全 う す る 営 み である。
責任とは、他者が何かを私に要求したとき、
私 は そ の 要 求 に 応 え て い か な け れ ば な ら な い
奈医看短紀要VOL8.2004
ことを指しているわけだが、このことがなぜ 私 の 責 任 な の だ ろ う か 。 そ れ は 、 存 在 す る か ぎり、私は絶えず他者との関わりのなかで存 在 し て い る か ら で あ る 。 人 間 と は 人 と 人 の 問 に生まれ、人と人の間に生きる存在であるo
人間は、それぞれが唯一無二の個別的な存在 で あ る が 、 同 時 に 他 者 と の 関 わ り か ら 切 り 離 され孤立しては生きていくことができない共 存 的 な 存 在 で あ る 。 他 者 か ら の 呼 び か け に 応 じないことは、他者が存在しないところで生 きるように私を導くが、むろん、そのような ことは不可能であり、自らの生を否定する行 為でしかない。一
他者に対する責任について、さらに二つの 資 料 を 挙 げ て 考 え て い く こ と に す る 。 ま ず 取 り上げたいのは、サン=テグジュベリの『星 の王子さま』である。星の王子さまと別れる ことになったキツネは、王子さまに次のよう に語りかける。
君 が 君 の パ ラ の 花 の た め に 費 や し た 時 間こそが、パラの花をとても大切なもの にしてくれた。人間はこの真理を忘れて しまっている。けれども、君はそれを忘 れ て は い け な い 。 面 倒 み た 相 手 に は 、 い つまでも責任があるんだ。君は、君のパ ラの花に対して責任があるんだ…… (Tu es responsable de ta rose...) (担)
内藤濯の訳では、最後の一文は「まもらな けりゃならないんだよ、パラの花との約束を ね……」となっている。責任があるといiって も、何に対する責任かわかりづらいため、翻 訳者は責任の内容を、約束を守らなければな らないことと意訳したのであろう。しかし、
星の王子さまはパラの花と何か約束したわけ ではない。との箇所は、責任という語には応 答できることという意味があることを踏まえ ないと理解できない。おそらくキツネは星の 王子さまに、「一緒に時を過ごした人一一こ の場合は人ではなく、パラの詑であるが一ー とはたとえ別れることになっても、その人が
‑17‑