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@「 ッ法典を再考するーフランス民法典制定二百周年を契機として﹂

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(1)

ジャック・コマイユ   

@「 ッ法典を再考するーフランス民法典制定二百周年を契機として﹂

高村学人訳

 民法典序説において︑ボルタリスは︑フランスが決して抜け出ることができないでいた大革命以後の混乱・動揺に

対する精神史的な洞察を行った上で︑﹁持続的な諸施設︵‖諸コード︶を監督する賢慮﹂の時代が遂に到来したとい

う考えを示した○

 ﹁法的なるもの﹂︑﹁政治的なるもの﹂の社会学者として︑民法典制定二百周年のシンポジウムに招待され︑㊨民法典

への﹁現代的な考察﹂を行うことが求められた私は︑次のような問いをこの場で立ててみることにした︒

 それは︑﹁ボルタリスが熱望した時代は︑過ぎ去ったのではないか︒﹂というものである︒

   ﹁民法典を再考する﹂      ︵都法四十五−二︶ 四三九

(2)

四四〇

 すなわち︑フランス社会がそれ以降︑経験した社会的︑政治的な変化の大きさは︑もはや﹁持続的な諸施設﹂とい

うものの存立を許すものではないのではないか︑という問いである︒

 ジャン・ルイ・アルペランの言葉を借りれば︑フランス民法典は︑﹁法的遺産﹂︑﹁︿私法を国家化しようとする﹀意

思の担い手﹂︑﹁法源としての立法の優位﹂︑﹁法の合理化﹂として形容されるが︑この法典が発した麗しい配置命令

は︑いかなる変化を被ることとなったのだろうか︒

 これこそが︑以下で︑私が探求を試みるところの問題である︒

 第一に︑個人化の新しい諸形態について検討する︒

 第二に︑社会的諸関係の契約化について検討する︒

 第三に︑法的調整システム及び政治的調整システムの変貌︵メタモルフォーズ︶について検討する︒

一 ﹁個人化の新しい諸形態﹂

 導入として︑ドイツの社会学者ノルベルト・エリアスがその著書﹃諸個人の社会﹄で述べた言葉を︑﹁社会﹂の変

化︑すなわち﹁個人化の新しい諸形態﹂というものを説明するものとして︑次に引用したい︒

 ﹁社会と個人の関係の変容は︑疑いなく︑部分的諸社会そのもの︑諸個人そのものの変容を反映している︒その変

容は︑部分的諸社会を構成する諸個人の個人的な経験の変容のみならず︑﹃社会﹄という言葉で理解されるものその

ものの変容でもある︒すなわち︑諸個人の社会的な経験や態度が変容するということである︒﹂︵Zo白旦団富゜・り忘句や

(3)

 ロへ芯合ご這ミ§句︶

   ﹁社会﹂をその後︑構成することとなったものを理解し︑エリアスが建てた根本的な問いに答えるためには︑﹁個

 人化の新しい諸形態﹂というものを考慮していくことがまさに必要となってくる︒

・  この﹁新しい諸形態﹂は︑家族の領域において最も顕著に観察され得る︒       ︑

  すなわち︑そこでは︑全体論的な旧い考え方が︑自己実現的な新しい考え方に取って代わられている︒旧い考え方

 とは︑全体は︑それを構成する諸部分よりも優位にあり︑構成員は︑家族的な﹁制度﹂の部分としてのみ存在すると

 いうものであり︑新しい考え方とは︑個人に固有の諸欲求︑自己実現のための個人的な期待の優位ということである︒

  諸個人の私的世界の捉え方︑組織化︑機能性は︑益々︑﹁従属からの解放含き暑昌8﹂という一つの意思に服す

 るものになってきている︒﹁その意思は︑︿リベラルな理念型﹀というものに感化されている︒そこでは︑社会的諸関

 ︑係は︑諸個人の間における行為に存するとされる︒そこで言う行為とは︑自己決定に基づく特異的な運命を背負おう

 とする諸個人の間での自由な討議による︑形式的ないしは黙示的な合意から発生するものである︒﹂       ︑

  ここでの私の社会学者としての役割は︑このような進化のネガティブな諸相︑ポジティブな諸相についての道徳的

 な考察を胸中告白的に行うことに存するのではない︒なぜなら︑このような進化それ自体は︑すでに一八〇四年の民

 法典に霊感を与えており︑社会哲学者や社会学の創設者とされる主要人物の関心事であったから︒

  社会学者の視点からして︑問いを立てるに値するのは︑現代家族の個人主義的なモデルは︑社会的諸関係の個人主    ︑

 義的な新しいモデルにどの程度︑相似しているものであるのか︑またそれは︑民法典の現在の精神と﹁政治的なるも

 の﹂そのものを修正するにまで至っている社会的諸関係の新しいエコノミーと呼ばれるものをどの程度︑的確に証言

 するものであるのか︑﹁ということである︒

     ﹁民法典を再考する﹂      ︵都法四十五−二︶ 四四一

(4)

四四二

 具体的に言えば︑私的圏域における諸個人の﹁従属からの解放﹂は︑国際化に伴って自律化の傾向を強め︑かつ戦

略を絶えず再構築せざるを得ない経済の運営者の﹁従属からの解放﹂︑我々の﹁社会﹂が多文化的で複数民族的な社

会へと変遷するために社会・文化的な諸集団が遠心分離的な作用を伴いながら︑﹁従属からの解放﹂がなされている

ことと関連づけて理解されなければならない︒

 このような点に関して︑興味深いのは︑社会的諸関係の自己調整システム︵オートレギュラシオン︶の仕組が援用

されることが増大しているということである︒それは︑様々な形態での討議︑交渉︑調停︑調整の発展という現象に

よって明瞭に示されている︒そこにおいては︑私法的なものとしての市民間の関係︑市民と公権力との関係︑全国的

規模ないしは国際的規模の交換システムにおいて展開する経済の運営者間の関係︑文化的・宗教的な諸特徴に基礎を

おき︑特殊的な権利と身分の承認を求める社会的な共同体・集団間の関係︑行動目的を達成するために規範を動員し

ていく社会運動体間の関係といった全ての社会的諸関係が扱われるようになっている︒

 これら全ての進化は︑私的な調整システムという新しい制度の到来へと連なるものである︒

 ある角度から分析すれば︑①経済的交換のグローバリゼーション︑②主観的諸権利の深化1それは︑法の主観的諸

権利への細分化とも呼ばれるがーによって表現される個人主義的な哲学︑③より多くの正義を求める社会運動や諸権

利の平等︵あるいは特殊性の承認︶のために闘うマイノリティの成長といった三つの現象が同時に起こり︑それら

が︑土台からの法的景観の再構成というものをもたらし︑結果として︑社会的調整システムの分離・分割化︑特殊主

義的な法制度の深化として表現されるところの﹁法的なるもの﹂の分裂崩壊作用を導いていくのである︒

(5)

二 社会的諸関係の契約化   ︐

 次に私の報告の第二の論点に入ることにしたい︒それは︑社会的諸関係の契約化という現象である︒

 契約こそが︑﹁調整システム︵レギュラシオン︶﹂という新しい制度の記号ないし象徴としての道具になっていると

主張できる︒

 確かに︑契約を援用する場合︑より一般的な諸規定︑法の一般的諸原則︑民法典の精神といったものとは︑無関係    

ではあり得ない︒

 とはいえ︑我々の同僚であるブルッセルの法理論家︑フランソワ・オストやミシェル・ヴァン・ドゥ・ケルコープ

が述べているように︑﹁今日︑契約の帝国は︑未だかつてない拡大を示している﹂のであり︑それは︑これまでの契

約に関する法的定義を超え出るような射程の広がりを有している︒

︑我々の同僚であるジャック・カイロッスは︑﹁契約のメタファーは︑公共圏をも支配している﹂と述べている︒全

くその通り︑これまでの法的な諸カテゴリーは︑電波妨害を被っていたのである︒ −

 このメタファーは︑実際のところ︑法的︑道徳的︑政治的な様々な屈折を伴いつつ︑至るところで現れる︒例えば︑

私的圏域における諸個人の関係のマネージメント︑各種の社会政策や住民統治の方策︑行政とそのサービス受給者と

の関係︑﹁公共のための協働①否己oロ言呂昔①﹂といった場面で︒

 ﹁公共のための協働﹂とは︑中央集権的国家のアクターと地方レベルのアクターとの間で︑あるいは︑国家的公共

のレベルのアクター︑地方の領域的団体︑私的アグターとの三者の間で行われる行為であるが︑それらは︑全て﹁契

﹁民法典を再考する﹂      ︵都法四十五ー二︶ 四四三

(6)

︑         四四四

約的な手法﹂によって行われ︑その傾向には︑拍車がとどまることはない︒

 ﹁契約的なるもの﹂の上昇は︑間個人的なレベルにおいて︑既に組立てられた法のモンタージュに対しての各アク

ターの自律化を示す徴証となる︒この自律化は︑政治的調整システムの新たな枠組みにおける﹁規律∂︒︒庁日︒己から

契約8呂陪へ﹂という様式の変化を正当化するものとなる︒

 契約は︑様々な行為者間における多種多様な利益の調整の道具となるのであり︑それがあって初めて︑市民が一つ

の政治的共同体Ω禄に属しているという幻想が構築されるのである︒

 人間関係の意思主義的な真のイデオロギーの表現を契約というものの意義として認めた上で︑それを引き合いに出

していくということは︑より一般的に言って︑社会的諸関係の再構成を示すものである︒あらゆる権限は︑権威や後

見的監督に基礎づけられるのではなく︑同意というものにこそ︑その根拠が探し求められる傾向になっていく︒

 ある論者にとっては︑このような﹁神話﹂︑﹁再生した契約主義﹂あるいは﹁契約主義のインフレ﹂は︑アングロサ

クソン的な考え方にフランスも近づいているということを証明するものとして受けとめられている︒

 アングロサクソンでは︑﹁契約は︑まず何よりも︑個人の意思が尊重されるために国家の主権というものを縮減す

る手段﹂として理解されている︒

 これと同様の精神で︑スペンサーやメーンは︑﹁契約的な関係は︑政治的制度の影響力を減少させ︑自発的秩序を

強固なものとする記号であり︑かつアクセルである﹂と考えていた︒

 もちろん︑このような﹁私的な規範性﹂︑市民の自己調整システム︑強力な経済の運営者の到来という現象は︑一

八〇四年の民法典に嵌め込まれていた﹁意思自治の原則﹂というものの射程を大きく超え出たところにこの﹁私的な

規範性﹂というものを位置づけることになった︒

(7)

 このようなコンテクストは︑°コ般性﹂という観念 ーそれは︑法や法典という観念と不可分のものだがーが衰退

し︑﹁特異性﹂をより考慮に入れよ︑とする要求が高まっているものとして理解されるだろうが︑そこでは︑いかな

るものであっても法典化︵コード化︶という企てが不都合なものになってくる︒

 このような﹁法なるもの﹂の新しい変容は︑より一般的には︑以下の四点によって特徴づけることができる︒

 第一に︑契約上での﹁誠実さ﹂を尊重させるために個別化され︑ルールとして一般化されない裁判の増大︒

 第二に︑人と財産の調整システムを普遍主義的に考えることのより一層の困難さ︒

 第三に︑抽象的︑普遍主義的な類の裁判を確立することの不可能性︒

 第四に︑差異というものを考慮にいれ︑司法の新しい原則によりマッチするように特定個人化された司法運営を行

わなければならないという義務︒

 これら四つの変容を絶えず︑考慮しなければならない︒

 さて︑報告の第三点の論点に入っていくことにしたい︒そこでは︑政治的調整システムの変貌︵メタモルフォーズ︶

が扱われる︒

 なぜならば︑民法典の新しい社会的土台そのものにっいて想いをめぐらせるということは︑政治的調整システムお

よびそれと密接に関連した法的調整システムと呼ばれるものと切り離しては行えないと思えるから︒

﹁民法典を再考する﹂      ︑    ︵都法四十五ー二︶ 四四五

(8)

四四六

三 政治的調整システムの変貌︵メタモルフォーズ︶

 長きに渡って︑政治的調整システムは︑﹁公共政策﹂と呼ばれる︑中央によって決定される政策︑中央的権威によっ

て作成され︑詳細に規定がなされた政策として特徴づけられてきた︒

 そこでの権力行使は︑﹁上からの操作﹂というシェーマモデルにおさまるものである︒超越した国家によって練ら

れ︑施行される改革の諸規定は︑国家の権力行使を実現するために︑社会の諸集団へと押しつけられる︒それは︑後

見的な方法に基づく統治原則に忠実なものであった︒

 ところが︑人間の統治方法は︑このような考え方からは︑段々と距離をおくようになってきている︒

 権威的︑階層的︑垂直的な権力の諸形態から︑交渉的︑ネットワーク的︑水平的︑コンセンサス志向的な諸形態へ

の移行というものが我々の時代にあった︒それにより︑権力は︑より文明化され︑複雑化された︒       冶

 このようなことこそが︑﹁公共政策﹂というこれまでの概念が︑﹁公共のための協働﹂という新しい概念へと転換し

たということによって説明されるのである︒

 この新しい概念こそが︑国家の地位の変更︑すなわち国家は︑煽動者的ではなくなって︑多元主義的な政治的諸集

団の枠内において一緒に構築される﹁公共のための協働﹂での単なる一パートナーになったという変化のプロセスを

特徴づけるのである︒

 ﹁ガバナンス︵協治︶﹂という用法が︑これまでの﹁ガバメント︵統治︶﹂という言葉に取って代わったということ

は︑まず何よりも︑次のことを指し示すものであると思える︒

(9)

 それは︑国家的主権というものに結びつけられた諸問題への指揮命令︑中央集権的な公の権威による行為の諸原則

の強制として定義された﹁ガバメント︵統治︶﹂という理念に︑必ずしも国家的であったり︑公的であるわけではな

い諸アクター︑社会的諸集団の協調的プロセスといっだものが代置されるということである︒そこでは︑断片化さ        ノ れ︑不安定な環境においてではあるが︑集団的に議論されて︑定義された固有の目的を達成することが目指される︒

 国家の地位の変更は︑幾つかの重要な諸帰結をもたらしたと言える︒

 第一の帰結は︑政治的調整システムとしての役割の多くが︑社会的アクター︑経済の運営者︑社会運動といったも

のに委ねられるということである︒

コ第二の帰結については︑諸個人の私的生活のマネージメントというものを例として︑描いてみることにしたい︒

 実際︑私的生活の領域においては︑パースペクティブの転換が生じている︒諸個人の私的圏域の運行に関する原則

を定義し︑強制するのは︑立法者の権限に帰属するという状況から︑諸個人が︑自らの欲求に基づきながら︑私的空

間の制御者となることを要求しうるという状況への変化があった︒

 このような個人化の要求は︑社会運動の文脈において位置づけられ︑民主政の根本的な諸価値の適用を正当化する

ために引き合いに出されるが故に︑より一層︑有用なものとなる︒

 女性の地位に関する大変動こそ︑このような状況の変化をよりよく描きだすものはない︒

 女性は︑実際︑私的世界︑家族︑社会に関する変動の主たるアクターとなり︑新しいネイチャーの政治的表現の枠

組となる︒

 事実︑女性によって要求された家族における変化は︑似たようなタイプの議論を伴いながら︑私的圏域︑職業的圏

域︑社会的圏域︑政治的圏域における﹁従属からの解放﹂の意思と結びついている︒

゜﹁民法典を再考する﹂      ︵都法四十五ー二︶ 四四七

(10)

四四八

 このことは︑特に︑アングロサクソンのフェミニストの運動のスローガン︑すなわち﹁私的なるものは︑政治的で

ある﹂という言葉によって説明される︒

 このように︑より一般的に言って︑新しい論理が主張されているのである︒

 ﹁フランス人の民法典︵一八〇四年︶﹂は︑公益として定められたモデルに私的世界の組織化の様式を適合させて

いくことを諸個人に︑あたかも﹁課税﹂のごとく︑義務づけていくような観念に感化されていた︒

 しかし︑それ以降︑諸個人こそが︑基本的諸権利に依拠し︑また民主政の一般的諸原則を引き合いに出しながら︑

自らの私的世界の自己決定者たることを主張するようになっていった︒そこで引き合いに出されるのは︑﹁平等﹂と

﹁自由﹂という価値である︒

 この文脈においてこそ︑法が表象するものの位置変化というものが︑政治的調整システムの真っ直中で︑起こって

いるとみなすことができるのである︒

 国家に関係づけられる﹁法﹂という表象は︑市民社会に関連づけられる﹁法﹂という表象へと移行しているのであ

る︒

 市民社会の多様な要求によって影響を被った法は︑国家法よりも上位にやがて立つようになろう︒

 このような運動は︑それぞれの国民国家の権力︑国内レベルでの立法というものの権力を相対化させる可能性の動

員といったものを引き起こしうる﹁一つの世界的な市民社会﹂というものの出現によって︑より加速されることにな

る︒

 以上のような地滑り的な変動は︑次のような事実から説明されうるものである︒

 すなわち︑﹁政治的なるもの﹂は︑規則を課すことによって︑私的世界に存在する諸個人に対して︑命令を押しつ

(11)

けていくという権能を︑より一層︑小さくさせていくということから︒

 また︑このような変更を︑西欧社会の家族法の比較を研究テーマとしているアメリカの比較法学者であるマリー・

アン・グレンドンは︑・私的生活の組織化のための諸原則に関する法的諸規定の集中というものが︑諸個人の私的な態

度がもたらすところの社会的効果に関してのより拡大する配慮へと移行としたのであると︑長年来︑主張している︒

 あらゆる立法︑政策︑﹁公共のための協働﹂は︑その後︑指導者による諸原則の言表の中にその正当性を見出すこ

とはできなくなり︑その結果︑それらが産出した効果のみによって評価されるようになったと考えられるようにな

る︒

 ﹁結果による事後の修正・操縦というものが︑諸原則による事前の指揮命令を押しのける傾向にある︒﹂と言えよ

・つ︒

 政治的調整システムの新しい仕組は︑法的調整システムそのものにいくつもの反射的作用を及ぼさざるを得ない︒ −︑

 例えば︑一方では︑公共政策の領域では︑次のようなことが進展している︒    ︑      〜

 すなわち︑現代国家の再編における最大の課題は︑中央のアクターが社会的現実に関する自らの解釈を押しつけて

いく能力が低下しているということにあり︑その結果として︑決定を行う審級の分離・分割が生じているのである︒

 それは︑立法者というものの政治的多元主義化とみなすこともできる︒

 このような立法制定の審級の多元性は︑妥協不可能な政治的な諸論理の対立というものに対応したものでもある︒

 また他方で︑より根源的には︑法的調整システムの観点からすれば︑このような多元性は︑様々な諸目標への同意

ということから成り立っているとも言える︒すなわち︑﹁社会的市民権90ぎ§o鼠゜・o︒巨o﹂の確立ということを飛び

越えて︑規範の象徴的マネ﹈ジメントという意図が﹁公序への配慮゜・09﹂ユ巳.oa8言ぴま﹂という意図へと移り変わっ

﹁民法典を再考する﹂  ・       ︵都法四十五ー二︶ 四四九

(12)

O

四五〇

ていくという可能性が︑多元性の一つとして承認されることを意味するのである︒

 これら多様な含意は︑立法のプロセスを次のようなものへと変更する︒法律の定式化︑公布の瞬間とその適用法律

の発効とその受容という二面的な関係︑直線的な関係は︑循環性が重視される﹁連続体︒自旨巨∋﹂というものに取っ

て代わられる︒

 公共政策の領域においては︑﹁規範は︑再解釈され︑その普遍性は︑特殊ケースに応じて︑調整され︑施行される

ローカルな場面に応じて︑分化を繰り返していき﹂︑﹁妥当性ある地域のしきたり﹂という形態を取りながら︑﹁一般

性︒q合ひ己富﹂よりも﹁特異性゜・言σQ巳鼠﹇巴をより上位におく様式がより相応しいものとなっていく︒

 この﹁連続体﹂というものは︑全く同じように︑立法のプロセスにおいて︑政治学が次のように定式化しているも

のを確認させる︒

 ﹁仮に決定を行うのが︑人間であるとすれば︑社会的交換こそが︑より一層︑その結果を示すパラメーターとなる︒﹂

 これは︑民法の﹁社会化﹂として論ずることができるものである︒この﹁社会化﹂は︑諸個人の態度の社会的影響

が法の構築において主たる懸案事項となるという意味において︑解釈されるべきである︒

 さらに言えば︑このような法の﹁社会化﹂は︑専ら︑﹁ブルジョワ的小家族﹂というモデルを民法典の土台そのも

のとして進化論的に措定することについての再定位をもたらすものである︒

 この﹁ブルジョワ的小家族﹂は︑財産の管理と譲渡という問題に対応するものであり︑優越的な位置を与えられて

いたが︑その後︑家族やその各構成員の経済的従属性によって特徴づけられ︑社会法の動員を正当化していく﹁次の

家族モデル﹂によって.疑問視されるようになる︒

 このプロセスは︑民法の地位と役割を相対化させ︑そのような文脈において︑教育︑健康管理︑社会的保護といっ

(13)

た︑かつては︑家族によって専ら担われていたと推定される諸機能の国家化が強化されていくということが行った︒

 家族を﹁制度菖︷ぎ︷8昌﹂として捉える第一の準拠枠︑﹁個人主義﹂に依拠しながら家族を定義する第二の準拠枠と

の間の緊張関係は︑急速に家族とその構成員が晒されるリスクの公的マネージメントの要請という第三の準拠枠に

よって境界を定められた緊張関係というものにその場を明け渡すことになる︒

 しかし︑これまで論じてきた民法の﹁社会化﹂は︑別の意味も有している︒それは︑すなわち法というものは︑そ

れが社会で適用される際に︑さまざまな社会的︑文化的︑︐政治的な諸力が立法

上の諸規定を︑﹁領有︵‖我田引水︶巷層o苫豊8﹂するということによって実

現されるようになってきているということである︒これも﹁社会化﹂の一つで

ある︒  すなわち︑そこでは︑﹁合法性の社会的構築﹂ということが問題となる︒社

会的相互作用︑社会的交換︑力関係の事実︑妥協の模索が行われる中で︑合法

性は︑確立されるのである︒

 また以下の点を記憶に留めて頂ければ︑幸いである︒

 それは︑法的調整システムの新たな仕組みというものは︑立法プロセスの諸

アクター間の相互行為における資源として︑国境を越えたレベルで︑より頻繁

に援用されるということである︒

これからは・立法による全ての改革プ︒セスが・国際的な文砦中にタイト 請晶轍仲肛聾撮影

﹁民法典を再考する﹂      ︵都法四十五ー二︶ 四五一

(14)

四五二

に埋め込まれる︒このことは︑諸国民国家の﹁管轄領域・権限の解体●瓜8日8旨法呂8﹂という現象︑より世界化さ

れた市民社会というものの誕生に対応するものである︒

 このような進化は︑ω相互的な社会化にさらされる法的︑行政的︑政治的なエリートアクターの存在︵とりわけヨー

ロッパレベルで︶︑②国際的な﹁学者﹂の市場に懇願することによって成り立つ﹁専門的鑑定﹂という資源の援用︑

㈲国境を越えた法的︑司法的な諸規定がより一層︑頻繁に押し付けられ︑強制されるという現象から素描することが

できる︒ 四 結  論

 以上︑急ぎ足であったが︑フランス社会が経験した社会的︑政治的︑法的な変遷について辿ってきた︒

 その結果として︑次のことを引き出せるのではなかろうか︒

 すなわち︑社会学的な観点から見た場合︑﹁民法典の地位そのものを再考すべき時が来ているのではないか﹂︑とい

う問いを立てうるということである︒

 自分の分析によれば︑次のような考察を導くことになる︒それは︑ω民法典を社会的アクターや経済の運営者の特

殊利益のための資源の塊としてしか眺めない功利主義的な傾向と︑②民法典をその歴史の中に再挿入し︑その担い手

の一つとされるフランス大革命の諸理念と近代性に依拠しながら︑法典を永続化七︑政治的な参照枠として復元する

こと︑すなわち︑ジャン・ルイ・アルペランが書いているように︑﹁フランス民法の法典化の政治的性質﹂を再発見

(15)

    していく傾向の二つの間での緊張という図式そのものを問うていくという考察である︒

    単純な考え方に陥り︑伝統や権威や制度への復古を賞賛し︑ノスタルジーをかもし出させる後見的権力を発生させ

    ることに満足してはならない︒

    また﹁市民社会﹂というものを︑民主政をもたらしてくれるだろう約束として万能薬化︑神話化してもな︑らない︒ ︑    分化︑解放化への不可抗力的にも見えるプロセスは︑﹁絶対的な自由主義﹂の勝利を︑決して意味するものではな

    い︒

    もちろん︑また︑今︑見たところの変遷は︑民主化という現象に寄与しうる可能性もある︒

    民法典は.この民主化を進める道具ともなりうるし︑そのような進展そのものの表現でもあるという両義的な性格

   を持つ︒

    社会学者であるフランソワ・デュベが︑その著書︑﹃制度の衰退﹄で考察したように︑立法者は︑次のことを自覚

   しているのである︒

    それは︑﹁各個人が︑大いなる全体に直結させられる全体的な秩序︑あるいは各人の自由が︑多数派に屈せざるを    〜

   得ないという悲劇的な秩序を構築することは︑もはや重要ではなく︑制約がありながらも︑より自律的で︑扱われる

   問題の性質に対応しうる秩序の構築こそが重要となるということである︒制度というものが再構築されるのは︑この

   ようなメゾレベルにおいてである︒そこでは︑神が描いた楽譜は存在せず︑また楽譜を解釈する指揮者もいないのだ

   から︑偉大なオーケストラは出現しない︒﹂

    結論として︑次のように考えるのが適切ではなかろうか︒

    民法典は︑偽りの政治的な構成原理︵‖OO目ロ乃江︷⊂江O口︶となることは︑もはや無理である︒

﹁民法典を再考する﹂      ︐      ︵都法四十五−二︶ 四五三

(16)

四五四

 政治的︑社会的な意味で投資され︑解釈され︑神話化される歴史物語の中で︑民法典は︑多様な現われを取るにと    ︑

どまらない︒それは︑神秘化され︑普遍的な表象となるような物象化を超えたものである︒

 これからの民法典は︑民主政の理想の実現の試みのための特権化された道具の一つとなることによってこそ︑再び

制度化されることが可能なのではなかろうか︒

﹇翻訳についての解説﹈

 本稿は︑二〇〇四年三月十一日にソルボンヌ大学の大講堂で司られた﹁フランス民法典生誕二百周年記念のシンポジウム﹂にお

いて︑エコール・ノルマル・シュペリウール・ドゥ・カシャンで法社会学を教授し︑かつ国立科学研究センターの主任研究員とし

て数々の研究グループを組織しているジャック・コマイユ氏が行った口頭報告原稿の翻訳である︒

 本シンポジウム開催日にあわせて︑民法典二百周年の記念論文集が刊行された︵富ひ︒合6ミこ゜︒ミーN8丈占ミ代§鯉9ミ§ミ︑︑︑

】) bδN︶°氏が寄稿された正式な論文は︑そちらに掲載されている︵旨︒口宕゜・Ooヨ目ρ≡P︑.∩o合巳く匡巾;oc<︒巨×︒o江9°︒o巳巨×..三ミ合

唱゜いOLひ︶︒      ・      ・  この翻訳の元となった原稿は︑シンポジウム終了直後に︑ぜひ翻訳を行いたいという私の個人的な申出に対して︑氏が特別に許

可を与えてくれたものである︒

 氏のより精密な議論の展開や依拠している文献等については︑同記念論文集の原稿を参照していただきたい︒

 報告原稿の原文タイトルも︑正式な原稿と同様に︑・.∩o合巳≦9ロo己く6巨×︒︒エ9°・︒巳窪×..であったが︑この翻訳では︑﹁民法典を

再考する..閃呂Φ自9庁∩oα︒︒︷<=.︒﹂とした︒

 このタイトル変更については︑二〇〇四年九月六日にリュクサンブール公園の∩崇ピoカo°・口5ユにおいて︑氏に対して行ったイ

ンタビューにおいて︑翻訳者が提案し︑氏の快諾を得ることができたものである︒

 氏が描いたようなヨーロッパにおける多元的で循環的な法秩序論との比較を通じて︑現代日本社会において志向されている法秩

序論の位置を浮かび上がらせることができるのではないか︑と考えた次第である︒

 ジャック・コマイユ氏の研究史︑とりわけ﹁家族の法社会学﹂に関する研究ついては︑︵丸山茂﹃家族のレギュラシオン﹄︵御茶

(17)

ノ水書房︶二〇〇〇年︶によって︑網羅的な紹介・検討がなされている︒  また丸山氏と筆者による翻訳︵ジャック・コマイユ﹃家族の政治社会学ーヨーロッパの個人化と社会﹄丸山茂・高村学人訳︵御

茶の水書房 二〇〇二年︶もあり︑それにより︑氏の理論的なエッセンスを知ることができる︒

 氏の最近の研究動向をも含めて︑現在のフランスの法社会学の状況を参与観察者的に描いたものとして︑︵高村学人﹁フランス

法社会学観察ノートー社会学会︵AFS︶の統一と法社会学研究の動向﹂法社会学六一号一九六頁−二〇七頁 二〇〇四年︶があ

る︒

 なお︑当翻訳が︑東京都立大学法学会雑誌の最終号の一つを飾ることになったのは︑筆者にとっては︑まったく予期しないこと

であった︒       .      

 この歴史的偶然は︑民法典︵壮持続的な施設︶の再神話化ではなく︑﹁民主政の理想の実現﹂を目的とする﹁合法性の社会的構

築﹂のためにあったのではないか︑と筆者は︑受け止めたことを最後に記しておきたい︵二〇〇四年十月五日︶︒

ー▽

﹁民法典を再考する﹂      ︵都法四十五−二︶ 四五五

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