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「大衆民主主義」再考

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Academic year: 2021

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(1)

著者 趙 星銀

雑誌名 明治学院大学国際学部付属研究所研究所年報 =

Annual report of the Institute for International Studies

巻 22

ページ 45‑51

発行年 2019‑10‑01

その他のタイトル Re‑thinking  Mass Democracy

URL http://hdl.handle.net/10723/00003772

(2)

「大衆民主主義」再考

趙 星 銀

1

.はじめに1

私の研究関心は、人間が政治という営みとどのような関係を持つか、そしてその関係が時代と 場所によってどのように変わってきたかという問題を解明することにあります。人間を、たとえ ば動物やロボットとは違う存在として人間たらしめるものは何か。そして政治を、たとえば道徳 や経済とは違う営みとして政治たらしめるものは何か。そういった問いを探求してきた人々がか つて考えたことについて考える学問が政治思想史だと思います。

深みのある政治思想は、東西古今を問わず、まず人間性の解明から始まります。色々な人々が 様々な歴史の文脈の中で、人間はこういう存在だ、だからそのような人間たちが共同生活を維持 するために開発した技術、すなわち政治はこういうものだ、という見解を述べ、それに基づいて 制度を設計したり、正当化したり、改革したりしてきました。

つまり人間性の把握と「政治的なもの」の規定は密接に関わっています。そしてそれは政治の 形態を問わずに言えることです。たとえば一人の支配である君主政においても、少数の支配であ る寡頭政においても、そして多数の支配である民主政においても、政治の担い手である人間の性 質の把握は政治思想の根幹をなすものであります。

そのような問題関心から、本日はとりわけ

20

世紀以降顕著になった支配の形態である民主政

(=多数の支配)における人間と政治の関係についてご報告したいと思います。分析の主眼は、

支配する多数を「大衆」と名付けた人々の問題意識や考え方に置かれています。そしてこの言葉 が歴史の文脈の中で上書きされていく過程についても少しご紹介したいと思います。対象となる 時代は大雑把にいって

20

世紀、場所は日本です。

2

.「大衆」の登場

日本における「大衆」の発見、そしてその政治的意義に関する言語化が行われたのは

1920

代のことです。元来仏教語で多勢の僧侶を意味する漢語「大衆だいしゅ」を、英語の

The Masses

に該当 する翻訳語として意識的に使い始めた人は、国家社会主義者として知られている高畠素之

1886-1928

)です。

1920

年、高畠は「大衆社」を設立し同年

11

月に初の刊行物『社会主義的

諸研究』を出版しますが、この書物の結論部にあたる「組合、議会、大衆運動」の中に「大衆」

という言葉が、仏教語ではなく政治・経済的な概念として初めて登場します。そこで高畠は次の ように述べます。

私の見る所に依れば、国家社会主義実現のための闘争は先ず第一に政治的でなければならぬ。

×××[ 伏 字 ]更に具体的に云うならば、日本国民×××[ 伏 字 ]の意思を代表する政府の成立を主眼とするも

(3)

のでなくてはならぬ。其目的の為に、私は先ず普通選挙獲得のための×××[ 伏 字 ]運動を急務と信ず る。

私は次に経済的方面に於て、消費者としてのプロレターリャの大衆運動を主張する。労働組 合は有り難くない。労働組合の欠点はプロレターリャを一括的に網羅することの出来ぬ点にあ る。生産者としての組織的運動は、何うしても職業に縛られる傾がある。[中略]労働組合が 如何に発達しても、資本主義のもとに於て組合に包括されるプロレターリャの数は知れたもの である。[中略]プロレターリャは国民の大多数であると云う以上、プロレターリャの運動は 国民の大多数を網羅するものでなくてはならぬ。[中略]されば労働組合の努力を、斯くの如く 無益有害に了らしめない為にも、一面に於て絶えず消費本位の×××[ 伏 字 ]を激発する必要がある2

この高畠は日本における『資本論』

1919-1925

)の最初の完訳者として名を知られた人物です。

その高畠が、「生産者」としての無産者の階級意識の形成については懐疑的だったのです。むし ろ彼は、国民の大多数を網羅する運動として、生産者ではなく「消費者としてのプロレターリャ の大衆運動」を考えていました。

この『社会主義的諸研究』出版の翌年、高畠は週間新聞「大衆運動」の刊行に着手します。そ してその創刊号に寄せた「消費者本位の大衆運動――国家社会主義の一側面」において、「消費 者」としての「大衆」の内容をより詳しく説明します。

高畠によると、生産者としての人間は職種によって生じる相互に衝突する利害に拘束されざる を得ません。異なる職種は、いわば利益団体のような利害衝突の関係にあり、それが統一した一 つの階級意識の形成を阻害します。彼らに共通しているのは、生産者=労働者としての階級意識 ではなく、むしろ誰もが「消費」をしたがるという、否定することのできない欲望です。高畠は こう述べます。

然らば、労働者をば階級それ自体として結合せしむるには、如何にすれば宜しいか。我々は 消費者本位の運動以外に血路はないと信ずる。勿論消費するものは、労働階級のみではない。

資本家も消費する。地主も、坊主も、総理大臣も、女郎も、藝者も、猫も、杓子もみな消費す る。随って消費者たることは、労働階級に特殊の性質ではない。

所が茲に問題となることは消費するには金が要る。誰れも消費するが、然し誰れもが銭を持 っているとは限らぬ。而して労働階級の最も著しい特徴は無産者、無資力者、無銭者たる点に 存する。換言すれば、労働階級は一の消費階級ではあるが、実は消費不能階級だと云うことに なる。労働者階級を斯く消費不能的消費者として見る時、始めて其階級的利害は直接総合的に 一致するを得るのである3

「消費したい」という欲望を抱えているにもかかわらず、「消費不能的消費者」でしかないと いう欲求不満こそ、労働者たちに共通の階級意識をもたらせると高畠は言っているのです。彼の

「国家社会主義」は、このように細分化した利害が相互に衝突する爛熟した資本主義を前提とし ながら、そこから生じる歪みを国家の強力な統制を通じて修正しようという要求を含むものであ

(4)

りました4

このような考え方の根底には、人間の「性悪説」に基づいた社会観があります。例えば

1925

年の論考「性悪観」の中で高畠は次のように述べます。「人性が悪であればこそ、制度といふも のが必要になつて来るのだ。制度の目的は悪と悪との調節を計るにある。人の性は変へられない。

ただ制度の力で調節するだけのことだ5」、と。このように高畠の「国家」は観念的・情緒的な要 素が排除された、統制機能と権力的基盤との複合物として想定されています6

以上のような人間観・制度観とともに高畠が目撃したのは、大量の人間が動かされ、お互いぶ つかりあっていた、1920 年代初頭の人間群像です。「消費者本位の大衆運動」の中で彼はこう述 べます。「わたしは過般の電車罷業の際、早暁割引で仕事に通ふ人足連が停留場に寄り集まつた 車掌運転手等の『不埒』を、口汚く罵っている光景を目撃して、なるほど之では『市民の敵』も 無理からぬ次第、とうなづかれた。朝早く割引で千住から品川へ通はねばならぬ労働者に取つて、

罷業が如何ばかり憎々しく感ぜられるかは、我々の充分に想像し得る所である7」、と。ここで高 畠が描写しているのは、大量生産と大量伝達が可能になり始めた「大量時代」がもたらすストレ スと、その中で衝突する人々の激しい情念です。

そして週間新聞「大衆運動」の出版の翌年である

1922

年、「大衆」が前面に登場する重要な政 治文献が発表されます。戦前の日本共産党の理論家であった山川均(

1880-1958

)の「無産階級 運動の方向転換」がそれです。そこで山川は、純化した思想と明確な目標意識を持つ「前衛」が、

それを持っていない「大衆」の中に戻って彼らを動かさなければならないと主張します。少し引 用します。

日本の無産階級運動――社会主義運動と労働組合運動――の第一歩は、まず無産階級の前衛 たる少数者が、進むべき目標を、はっきりと見ることであった。われわれはたしかにこの目標 を見た。そこで次の第二歩においては、われわれはこの目標にむかって、無産階級の大衆を動 かすことを学ばねばならぬ。[中略]そこで無産階級運動の第二歩は、これらの前衛たる少数 者が、徹底し、純化した思想をたずさえて、はるかの後方にのこされている大衆の中に、ふた たび、ひきかえしてくることでなければならぬ。[中略]『大衆の中へ!』は、日本の無産階級 運動の新しい標語でなければならぬ8

このように「大衆」を発見することによって、逆に「前衛」の概念と役割も鮮明に浮上してき ます。それ以前の、特に革命は自然発生的に起こることと考えていた社会主義運動においては、

大衆の要求と前衛の理念との食い違いが明確に認識されていませんでした。実際の大衆のあり方 が、社会主義理論の想定するそれと異なっているという認識は、

1923

年の関東大震災の経験、

特にその中で行われた大衆による自警団の暴力的な行動を目撃したことによって強まっていきま 9

こうして

1923

年の関東大震災、1925年の(成人男子の)普通選挙法の制定、そして

1928

の最初の(男子)普通選挙の実施を経て、新しい造語「大衆」は速やかに日本社会に定着したよ うに見えます。そして最初の普選が行われた時、「普通大衆」という表現が有権者を指す言葉と

(5)

して使われました10。いってみれば、大量生産と大量消費の主役、さらには大量化した選挙権の 持ち主を指す言葉が「大衆」であったわけです。

そして最初の普選実施から約一ヶ月半後に出版された『中央公論』1928

4

月号は「大衆観」

の特集を組みます。高畠はそこに「大衆主義と資本主義」という論考を書いています。その冒頭 で、高畠は「大衆」の語がここまで普及すると知っていたならば、「逸早く『大衆』の特許権で も」出願しておけばよかったと冗談をいいます。それほど「大衆」が「時代の寵児」となる状況 になっていたのです。

まだまだ「大衆」の意味内容における混沌が続いていた

1920

年代後半において、高畠は「大 衆」を次のように説明します。つまり「今の世は資本主義の世」であり、それは大資本による大 経営の時代=大量生産の時代を意味する。それは薄利多売が商売原則として通用する時代であり、

その薄利多売の商売の顧客となるのが「大衆」である。普選の実現は政治における「大衆顧客」

の登場を意味し、従って政治家は大衆の味方であることを誇示する必要がある。だがその裏面に は「先ず大衆を持ち上げ、その機嫌を取り結ぶことに依って利益する『小衆』」があり、彼らは

「斯くすることに依って彼等自身が利益し得るから」そう見せかけているにすぎない。「要する に、大衆主義と資本主義とは楯の両面である」というのが、高畠の結論であります11

この『中央公論』の「大衆観」特集の中で、高畠と対照的な大衆観を示したのが、長谷川如是 閑の論文「政治的概念としての大衆」です。如是閑によると、「今日の意味の大衆」は古来にお いては「奴隷としての生産労働者」にあたるものです。往々にして古代や近代の政治における

「公衆」や「輿論」を大衆的な現象として解釈するような考え方が見えるが、それは誤りであり、

「公衆」や「輿論」は大衆と対比される、支配階級としての「市民」のものであるというのが如 是閑の理解です。彼によると、かつての大衆は「公衆」や「輿論」とは程遠い存在、むしろ「家 畜」のような存在でした。しかしその大衆が、「産業組織に於ける生産者の地位が、産業支配者 の地位を経済的に左右する機構の発達」に基づいて政治的な存在として生まれ変わっているのが 今日の現状であり、それは「資本主義組織の崩壊といふ根本的事実」を要求するものであると如 是閑は主張します12

両者の議論を簡略に整理してみましょう。如是閑の「大衆」はつまり「生産労働者」を指しま す。彼らは経済領域における重要性の伸張を原動力として政治的支配者の地位に上昇してきた存 在であり、やがていつかは資本主義の崩壊をもたらし、資本主義の外に立つはずの存在です。高 畠は逆に、資本主義の枠組みの中における「薄利多売」の顧客として、いわば政治的・経済的な

「消費者」としての大衆を描いています。生産者であると同時に消費者であるというこうした

「大衆」の両面性は、その後、戦後の議論にも受け継がれることになります。

3.「戦後民主主義」とマス・デモクラシー

1954

年に出版された平凡社の『政治学事典』の「大衆」項目において、その両面性は「ピー プル」と「マス」という言葉で表現されています。政治学者升味準之輔(1926-2010)はこの項 目の中で、大衆、特に「マス」としてのそれが、自然発生的に出現したものではなく、意図的に

「生産される」ものであることを強調します。ここでは「マス」の内容や性質の側面より、「マ

(6)

ス」の生産過程そのものが受動的に行われるということが問題視されているのです。焦点は、い わば「大衆」を「マス化」しようとする体制への批判に移られています。

こうした「ピープル」としての大衆(=生産者、体制への批判者、能動性)と「マス」として の大衆(=消費者、体制への順応者、受動性)の両面性は、

1950

年代半ばの思想状況の中で決 定的な意味分化を遂げることになります。一方では「大衆社会論者」と呼ばれる論者たちが問題 的な概念(「マス」)として大衆を論じ、他方では社会主義者たちを中心に規範的な概念(「ピー プル」)としての大衆が語られます。この両者が衝突したのが、いわゆる「大衆社会論争」です。

論争のきっかけとなったのは、岩波書店の雑誌『思想』1956

11

月号の小特集「大衆社会論」

です。そこで特に注目されたのは、政治学者松下圭一(

1929-2015

)が執筆した論文「大衆国家 の成立とその問題性」です。

松下によると、

19

世紀と

20

世紀の間に根本的な転換が行われたため、

19

世紀型の政治思想は もはや現代においては通用しなくなっています。自由・平等・独立な個人による<市民社会>を 理想とした

19

世紀の政治思想は、多数の小規模の生産者たちの自由競争を基礎とする当時の経 済構造によって支えられていました。しかしこのような経済構造は産業革命以降著しく変化し、

産業資本はさらなる資本の集中と銀行資本との癒着を通じて独占資本の段階へと移行しています。

それに伴って労働者の量的な増大と質的な同質化が進み、彼らは労働組合と労働政党の回路を利 用して政治的な要求を貫徹し、やがて普通選挙を実現させます。こうなると、労働者をはじめと する多数者を非存在として扱ってきたかつての政治思想は崩壊せざるを得ません。そしてここか らさらに進んで、少数者が独占している生産機構を社会化し、経済的な解放を成し遂げようとす るのが社会主義の目標です。

しかし問題は今日の「大衆」が社会主義的な意味での解放を望んでいないという点にあります。

松下が強調するのは、選挙権を獲得した労働者が国家の解体や転覆ではなく、むしろ国家の主導 する福祉政策の拡充を求める点です。つまり「大衆」は自発的に「国家」に依存し、積極的にそ の恩恵を被ろうとする存在です。国家に対する自発的な受動性こそが松下のいう「大衆」の特質 なのです。そうした彼らに向けて福祉国家の理念と結合したナショナリズムがイデオロギーとし て利用されるとき、そこには実質的な自由の空洞化と民主主義の形式を借りた独裁が出現してし まいます。

要するに、古典的な<市民>政治理論は、大量の労働者の誕生によって転換を要求されたので すが、そこから誕生した古典的な社会主義の理想も、<大衆>国家の登場によって転換を要求さ れているというのが松下の診断です。そこで問題は、いかにして国民意識を健全に保ちながら<

大衆>の国家への受動性を克服していくか、になります。

その一つの答えを、松下は新憲法に求めます。『中央公論』

1958

11

月号に発表した「忘れ られた抵抗権」の中で松下は、「レジスタンス」思想の再認識を通じてナショナリズムとデモク ラシーを結合する道を模索します。

松下によると、日本ではファシズムに対して自由を守った歴史経験がなく、また戦後の民主主 義は「外から」与えられたものとして認識されているため、結局民主主義とレジスタンスは別の 言葉になっています。厳しい抵抗は自分が持っている何かを「守る」ことから始まるしかないが、

(7)

日本においてはそもそも人々が保守すべき政治的自由を持ったことがないというのが、抵抗権思 想の欠如の根本的な原因であると彼は述べます。

しかし戦後になって状況が変わりました。人民主権を始めとする具体的な諸権利を規定した新 憲法の普及が、日本国民に保守すべき何ものかをもたらしたからです。新憲法によって獲得され た具体的な諸権利を国民が守ることを通じて、憲法を中心とする健全な国民意識が形成されうる のではないか。またその権利が侵害される時、それに厳しく抵抗する形で民主主義が定着してい くのではないか。安保闘争の高揚を見る前の

1958

年の時点から、松下はその可能性と必要性を 唱えました。

さらに抵抗権の思想は、外部からのあらゆる干渉に対して個人の自由を優先することを原理と しています。だからこそ、抵抗権の思想はたとえば「人民の名において」主張されるナチズムや マッカーシズムといった多数の支配としての民主主義の問題点に対する防壁ともなります。つま り松下は抵抗権が「戦後民主主義の確保、、

と民主主義自体の自己中毒(マス・デモクラシー化)に 対する保障

、、

という機能13」を果たすと説いているのです。

この箇所は、「戦後民主主義」という言葉が使われたきわめて初期の事例であります。ここで

「戦後民主主義」の言語化が「民主主義自体の自己中毒(マス・デモクラシー化)」への警戒と ともに行われた点に注目する必要があります。ただし、最近の研究(清水靖久「戦後民主主義と 丸山眞男」『思想』

2018

6

月号)によって、松下よりも一年以上前に、谷川雁が

1957

12

2

日付の『日本読書新聞』に寄せた論考「民衆の無党派的エネルギー」の中で「戦後民主主義」

という言葉を使ったことが明らかになりました。

1950

年代後半、「戦後民主主義」という言葉が どのような文脈の中でどのような意味合いを持って使われたかについては、今後もさらなる研究 が必要だと思います。

4.むすび

20

世紀日本において、民主化は大衆化を同伴した形で行われました。大正時代と戦後は、民 主化の時代であると同時に大衆化の時代でもあるという点において共通しています。だが、それ ぞれの時代における大衆論の意味には違いがあります。

1920

年代の日本における「大衆」の語の誕生と定着は、民本主義の限界に対する批判、特に 貧困問題の解決を要求する社会改造のエネルギーを背景にして行われました。その中で「大衆」

の語が特定の思想的潮流を独占していたとは言い難いでしょう。むしろ普通選挙が実現されてい く過程の中で、新しく登場した大量の有権者を「大衆」と呼びながら、彼らの性格規定と支持獲 得をめぐる競争が行われたと見た方が妥当だと思います。

それとは対照的に戦後の

1950

年代における大衆論の背景には、新憲法を中心とした民主主義 の体制化がありました。そうした政治的な安定化と経済的な豊かさの中で台頭する新しい可能性 と問題性が、「大衆」を中心に語られたのです。

それは結局、民主主義を構成する人間の問題に帰結します。高畠において、人性は変えられな いものでありました。人々の間の利己心と欲望の衝突を超歴史的なものとして想定する限り、そ こで考えられる有力な秩序の作り方は、国家の強力な統制であります。だが松下は、新しい生産

(8)

様式と生活様式が実現すると、人間の質も変わり、新しい人間が誕生するという可能性をあきら めていません。こうして大衆の「ための」国家社会主義を語る高畠と、大衆の変化に「よる」大 衆民主主義の克服を語る松下の思想の中に、大正デモクラシーと戦後民主主義における異なる人 民像の反映を確認することができるかもしれません。

<注>

1 本稿は201859日に行われた明治学院大学国際学部付属研究所主催フォーラムで報告した内容に修正・加筆を施 したものである。

2 高畠素之『社会主義的諸研究』(大衆社、1920年)311-316頁。

3 高畠素之「消費者本位の大衆運動――国家社会主義の一側面」(『大衆運動』1921521日付) 4 田中真人『高畠素之――日本の国家社会主義』(現代評論社、1978年)192頁。

5 高畠素之「性悪観」(『急進』19251月)。

6 有馬学「高畠素之における第二の旋回」(『社会思想』19743-3・4 号)610頁。有馬はここで高畠の国家論における

「徹底して機能主義的な立場」を指摘する。

7 高畠前掲「消費者本位の大衆運動――国家社会主義の一側面」。

8 『山川均全集第四巻』(勁草書房、1967年)342頁。

9 有馬学『「国際化」の中の帝国日本』(中公文庫、2013年)281頁参照。

10 「一票の行使のために政治戦線は力ある動を見せ、かくしてその帰着する所は即ち普通大衆の『断』の一字を下し、我 国民政治の動き行く大道は打開される」(『東京朝日新聞』1928220日付)。成田龍一『大正デモクラシー』(岩波 新書、2007年)218頁。

11 高畠素之「大衆主義と資本主義」(『中央公論』19284月号)73頁。

12 長谷川如是閑「政治的概念としての大衆」(『中央公論』19284月号)68頁。

13 松下圭一「忘れられた抵抗権」(『中央公論』195811月号)44頁。

参照

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