テューダー及びステュアート朝における金融業
著者 荒井 政治
雑誌名 關西大學經済論集
巻 3
号 特
ページ 101‑124
発行年 1953‑12‑20
URL http://hdl.handle.net/10112/15815
テ ユ ー ダ ー 及 び ス テ ュ ア ー ト 朝 に お け る 金 琺 業
( 1 )
イ ギ リ ス 人 が 近 代 的 銀 行 を も つ の は 周 知 の 如 く 十 七 批 紀 末 の こ と で あ る が
︑ そ れ に 先 だ っ テ ュ ー ダ ー 及 び ス テ ュ
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二︑テューダー朝の"ンドン及び地方における金緻業の性格 一︑商業宍本の登展と徽利に開する法律の愛化 i し
が
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テューダー及びス
三︑金融業の先駆者
繊維隔係の商人
荒
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政
テュアート朝における金融業
治
ァート朝において︑イギリス人自身の間からどのようた金融家が生まれ︑どのようた人達に資金を供給ないし媒介
したか︒本稿はこれらの問暉を当時のイギリス社会との関連において追跡してみよう︒.
註
( 1 )
英 閾 銀 行 の 創 立 は 一 六 九 四 年 で あ る ︒ 同 行 の 創 立 と 初 期 の 歴 史 に つ い て は 拙 稿 ﹁ ク ラ ッ . ︵ ム ・ 英 閾 銀 行 史 に 就 い て ﹂ (隔西大學饂済論集一の三•四合併競)参照。
羊毛が古くからイギリス輸出貿易の大宗をなしていたのであるが十五批紀には毛織物がこれに代る
0 続くテュー
グー及び︳^テュアート朝には毛緑物工業の飛躍的発展とその製品の輸出を担当したマーチャント・アドヴェソチャ
ラーズの簗栄をみた時代であったといえる︒新大陸からの封金属の流入は一面において貨幣経済を大いに促進させ
るが︑他百ヘソリ 1
八批の代幣悪鋳とあいまつて貨幣価値の変勤を招く︒かようなこの時代の経済的変革にたいし 十分な適応性を具えない封建的諦勢力は漸次窮地に追い込まれてゆく︒これに反し既に十五世紀の頃より次第にそ の社会的地位を向上せしめつつあった商人隅はテューダー朝の恵まれた経済的変化の流れに乗って富を畜秘し確固 たる地位を築き上げることに成功した︒この拾頭しつつあった社会層にとつて蚊も大きた関心の一つは豊かな資金 の調逹ということであった︒紋維工業部門に典型的に見られる如く︑この時代に信用取引は大いに増大し︑生産の
商業資本の登展と徴利に闊する法律の差化
102
テ ユ ー ダ ー 及 び ス テ ュ ア ー ト 朝 に お け る 金 隈 業
末端から製品諭出に至る迄かなり複維な信用授受の関係が成り立つていたのである°信用取引が頻繁となるにつれ ぎンネス・メンの批界においては取引の円滑を図るため専門的な信用機関の出現が釜まれた︒かくて一五七一年に
( 1 )
はこの国では最初の銀行設立計画が公にされた︒尤もこのようた計画が実を結ぶには尚一世紀以上早かったのであ る︒しかし看過してならないことは信用取引従つて利子に関心を寄せていた他のよ
b
大きな社会層ー独立小生産者 周ーの存在である︒即ちこの時代には資本制企業は徐々に浸透しつつあったが︑ロンドン以外ではプロレタリアは
( 2
)
末だ少数で︑独立小生産者が大多数を占めていた︒市民革命迄はいわば^
D i s t r i b u t i v e たのだ°経済 State'~0
( 3 )
的に独立を維持せんとする小生産者にとつて焦眉の問題は賃銀ではなくて小作権と信用従つて利子に関しヂ
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ではこれら独立小生産者を貨幣階級の圧力から保誰すべき立場にあった絶対王政は微利ないし裔利
の問願に対してどのようた態度を示したであろうか︑
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)
一言にして云えば貨幣階級との妥協と云えよう°何故か︒国
王もまた多くの封魏地︑主閑 a .俗︶と同じく前述のような新しい経済事情に即応する能力をもたない以上この道を
選ぶ外なかったものと考えられる°保守的伝統的な聖職者や神学者は金.の貸手が富裕者であり︑借手が貧民であっ
た時代に適合した中世的微利禁止論を以て徒らな抗争を続けた事は一云う迄も無いことで︑未だ教会と国家とが明白
( 4 )
な分離をなしていなぃ当時にあってはかなり強力な影轡をもたったと一云はねばならない︒そこで微利に関するテュ
ー・クー朝の立法の変遷を通して新・旧両勢力の抗争の過程を跡づけてみよう︒
一五四五年の法律
( 3 7 H
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9 ) l ; ; ! よつて一割以下の利子が許可された︒しかるにこの法律は商人・金融家の如 き貨幣階級に対し因習的不信を主張するよ
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︑宗教家の反掌に遇い︑僅々七年を出でず
して再び微利禁止に復帰した︒すなわち一五五二年の法律 ( 5 妥 6
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で は 微 利 は
﹁ 神 の 御 言 葉 に よ
た ︒
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﹁貨幣は貨幣を生まぬ﹂
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という中批的命題を覆えして新しい商業社会の生活に即した
茎厳に禁ぜらるぺきものであり﹂また﹁最も忌はしく且つ憎むべき悪稼﹂であるとの考えの下に︑
法律を廃止し如何なる利子の微牧も禁止し︑違反者は元本と利子を淡牧した上投獄または罰金刑を課することを規 定した︒しかし近代的個人主義を指向する歴史の歩みが︑かかる一片の法律によって阻止し得たかったことは囲い
( 6 )
込み抑圧の立法と痘を一にしている°明らかに種々の脱法行為によって法規は巧に回避された︒国際金融市場︑外
儀なくせしめられた︒ 一五四五年の
国貿易︑対政府金融︑資本制企業等の大口信用取引に従事する優勢た貨幣階級の発展につれ庶統的政策は修正を余
( 7 )
一 五 六
0 年トーマ︳^・グ.レシャムもかかる法律の撤廃を主張している︒それに次ぐ一五七一
年の法律
(13E l i z
. ,
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8 )
は激しい議論の帰着点とみられよう︒このエリザベスの法律の内容は一五五二年の法律を
廃 止 し て ︑ 一五四五年の法律を復活せしめるとともに新たに規定を設けて法の適用上一 0 ︒ ^1 セント以上の利子と︑
それ以下の利子を明瞭に区別する︒前者には厳罰を以て臨み︑そのような契約は事実上無効となし︑後者の場合に は処罰されないが若し俵謗者から利子返道の.請求があったならぱ債権者はそれを返却する義謗を負うとし︑積極
( 8 )
的に何等の法的保証を与えない︒しかしこれは単に形式的規定にすぎたかったであろう︒というのは利子を奪回せ んとするような債謗者は極めて稀なことであったろうから︒ともかくもエリザペスの政策の現実的結果は︑それが
適当である限りは徴利の合法性を認めんとすることにあったと考えられる︒これに関連して一言加えたいことは︑
教理を説いたカルヴィソの思想が︑ピークー・ベロ
P e t e r B a r
o 等によってイギリー︿全土に弘められ︑それが立法
の変化に軍大な影響を及ぼしたことである︒︳^テュアート朝の金融業は︑このように一応の整備を終えた土譲の上
に濫室的成長を遂げるのである︒
l o l l ‑
紺 c~) R. D. Richards, The Early History of Banking in England, 1929. p. 93 報凝.俎
昇出聡ムート e4
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(c‑l) R. H. Tawney, Wilson's Discourse upon Usury, Introduction 、 1925. p.19:
do, Religion and the Rise of Capitafism, Pelican book. p.155
(Cl?) "usury" ..¥.I !,, 吋廷 ‑e‑ai i..i. 昇た心』匡器 t‑1< 羊誕足昇:,, \-1.,s,'~?~l..i. 蔽ト心 if~ 屯足達ぶ ~tf,~ 把 +-:t-'~~Q :e 斗お
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R. H. Tawney, ・The Agrarian
Problem in ,the Sixteenth Century, p.147 note
("1') R. H: Tawney, "Sixteenth‑ Century Riligious Thought "p.650‑ the Journal of Political Economy. vol. XXXI No.5 1923
(in) "A Byll against Usurie" ‑ R. H. Tawney and E. Power, Tudor Economic・Documents (T.E.D.) vol. H
142‑3 pp.
(10) R. H. Tawney, Introduction, p. 133
(t‑‑) Ibid., p. 158
('°)'R. H. Tawney and E. Power, T. E. D. vol. [ pp ・ 160‑163
R. H. ‑Tawney, Introduction, pp.160‑161
13 Eliz. c. 8§4. +~(・十ギ羊誕 Q Usury Laws 足 ¥I :, \J~W. S. Holdsworth, A History of EnglsJ1 Law, vol. V Ill pp. 103 ー 113
(a,) W. Cunningham, T he Growth, of English Industry and Commerce, 6th ed. modern times P. I pp. 153 ー 154
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た逆に金融業の発展が更に信用取引を助長する︒両者は益々相互媒介的進歩を遂げる︒従つて金融業は︑種々の取 引が輻綾するロソドンの場合と︑そうでない地方の場合とでは全く趣を異にする︒先づ地方の朕態から述べてゆき 全人口の四分の三以上を占めていたのは小自営農民・小親方であるが︑彼等の生活に対しては一部では社会的緊
張を生みつつあったとはいえ鑑済革命の浸透は漸次的であった︒そして農民について一Hえば不作・家畜の死亡・播
種から牧猿迄の逍繰等︑聴人については材料の仕入から商品売却迄の間臨時的に少額の信用供与を必要とした︒通 常この必要を満たしたのは専門の金貸業者ではなく近隣のやや暮し向の良い人々
G 農村ではヨーマン︶であり︑
モールトスクー
の主なものは穀物・家畜・衣料品・家具などの物品であった︒尤も麦芽製造人或は穀物仲買人が未だ牧獲の終つて
︵
1
︶いない穀物を担保に融追することも凪々あった°農村の商人が本業と関連していわぱ副業的に営む金貸のかかる形
( 2 )
態は︑後に十八世紀中葉以降に特徴な地方銀行家
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s ーその性格は兼営銀行家
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1 時代の先駆者と考えられよう°要するに地方では一面においては十六世紀末期から金融家と認められるよう
な人々が現はれ始めるのであるが︑より一般的に存在した金貸とは一時的不規則的に隣人と信用取引を行うという
性格のものであった︒
次に大都市とくにロソドソの欣態をみよう︒貿易菜者の本拠であり︑貨物の最大の集散地ー貿易品の四分の三は
ここを通るーとしてのロンドンはエリザベス・時代には国際金融への進出も著しく︑アントワープ︑リヨン︑フラソ
際金融市場の一環を形成していた︒当時のロソドン金融市場は羊毛︑ クフルト︑ヴェ=ースなどには遠く及ばないが︑それでもルーアン︑パリ‑^}ラスプール︑セヴィールに互して国
︵ ウ ー ル
・ ス テ イ プ ラ ー ズ
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毛織物貿易業者
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テ ユ ー ダ ー 及 び ス テ ュ ア ― } 朝 に お け る 金 敵 業
S 織維関係の商人
金 融 業 の 先 謳 者
ーチャント・アドヴニンチャラーズ︶の輸出に金磁し︑船主の間の保険業謗を拡大させ︑政府には巨額を貸上げ︑池主
廿族に担保金澤を行い︑織元に長期信用を提供し︑
にも資金を躁通していた︒かようにロンドン金磁市場は多方面にその機能を果しているだけに︑その機構もまた極
めて複雑であった︒即ちその頂点には外国金照業者はじめ大資本を擁して外国為替業謗に従事する少数の大金融貴
そしてこの中間には多種多様の金融 族が発立し︑最下部には庶民を対象とした多数の質屋pownorokersがいる︒
家ないし金磁兼営業者が存した°機能に視点を置けばこの中間部から固有の意味の銀行業務の発展に寄与した若千
以上においてエリザベー︿末期に至るまでの信用取引ー微利に関する態度の変化並びに当時の金融の性格について
の輪廊を示したのであるが以下においてはテューグ 1 及びステュアート朝において︑その営みが金融業者ないしは
それに接近していると考えられる若千のものを取上げ︑それらを胃頭に提示したような視点から考察しよう︒
註 (1)R•
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25 ‑ , 26
(2)J•
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(3)R•
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1
毛織物はエドワード四批の頃から羊毛に代つて輸出品の王座に就いていたが︑このテューグ 1 時代には毛織物工 の業者を析出することができる b n ーンウォールの錫鉱山・ノーサンベランドやグラムの炭坑業
107
業は更に著しい躍進を遂げる︒この産業では原料たる羊毛の生産から︑これを製品に仕上げて大陸市場に輸出する
迄の全過租を支配していたのが商業資本であったことは既に明らかであな°︑ここでは羊毛たいしは毛織物に関連す
る商業資本家の中︑
困難な程類似した
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等種々の羊毛買付商人があり︑
れ耳つていた︒
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) 或は羊毛輸出業者
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) 格を吊上げて投機的利潤を牧めていた︒他方では資力の乏しい小牧羊家とか農村の織布工ないし小織元の銀行家と しての機能を営んできた︒即ち将来における羊毛の提供を担保に牧羊家に融姿し︑織布工ないし小織元に対しては
( 2 )
羊毛を掛売した︒ヒートソによれば一遥一反のカージイを織つているような小織元は六ヶ月も後になる代金の受入 を待っわけにはゆかない︒というのは製品は現金で売却して直ちに翌遇の羊毛と食糧を買込まねばならなかったか らである︒従つて小霰元は代金受入までの間の信用を供与し︑原料を提供してくれる商人に製品を売渡すのは当然
( 3 )
であったという︒同様のことは の趨努である︒
﹁羊毛商﹂及び﹁毛織物輸出商人﹂について述べる︒前者には明白に差別づけることが殆んど
これら羊毛商の中でも
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は最も専門的であった︒
の代理商人ないしは仲買人として羊毛の買占を行い︑価
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g e
r も行ったであろう︒要するにこのようた﹁羊毛商﹂は単にプローカーである許りでなく︑小牧羊家ことに 農村の織布エ・小様元に対する銀行家としての機能を営んでいたといえる︒
彼は大規模の羊毛買付商人
( w o o
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さて視野を外国貿易に臨ずれば︑この面では既に中世から信川取引はかなりの発展を示していたようである︒十 五批紀にはイギリス羊毛諭出を掌掘していたステイプラーズは為替手形の売買によって取引を決済していたことは 明らかである︒ステイプラーズは国内で羊毛を買付け︑これをカレーに綸出する︒海外で獲得した貨幣の一部は政
かようた小織元の要求を満たした商人が
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彼等は十六・七批紀には廣く知
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テ ユ ー ダ ー 及 び ス テ ュ ア ー ト 朝 に お け る 金 融 業
以
府の統制によつて地金の形で造幣所え送り込むことを要請されたが必ずしも遵守されなかったようである
0
輸 入 商 はこのステイプラーズの売上代金を借りて海外において輸入品の仕入に投じ︑イギリスにおけるその売上代金の中
( 5 ) から債権者たるステイプラーズに返済する︒かような取引は現実には為替手形の売買を通じて行はれたのである︒
テユーグーに入れば目党しい毛織物工業の発展とともにマーチャントアドヴェンチャラーズの勢力が著しく拡大し︑
エリザベ︳^治下には繁栄の頂点に逹する︒これら毛織物貿易の資本家は金融界で卓越 9
た地位を占め︑当時のロン
ドン金融ず場の発展に指導的役割を演じたのもけだし当然の事であった。•ヘンリ l 八批の即位よりエリザベスの死
去に至る間の九七人のロンドン市長の中七二人迄が毛織物に関連しており︑また一五六一年八月エリザベスの政府 がロンドン金躁市場で起俄した際︑これに応募した
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二人の投資家の中七人迄が毛織物貿易に関連する商人であっ
(
‑ o )
た︒三代の国王の下に
' R o y a l m e r c h a n t ' としてアソトワープ金融市場で国債の募集に敏腕を揮ったかのサー・
(7)
トーマス・グレシャムも元来マーチャント・アドヴェンチャラーズに属する人物であった︒最近見出されたグレシャ
ムのメモラングムは当時の国際金融を理解する上の貴重な斑料であって︑これを紹介した
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1 9 4 , 9
は従来の経済史家が殆んど見捨ててきた初期国際金融史の面に新しい光を投ずる注目すぺき研究である︒
下しばらく彼によって説述しよう︒当時のイギリスの経済は低地諸邦とドイツの二大市場における毛織物の商況如 何に左右されたと云つても過百でない︒若し金際市場が逼迫すれば︑その事は直ちにイギリス毛織物の売行に影轡 し︑更にヨークシャーはじめ各機業地帯の織布エ・紡毛工に迄波及したのである︒十六世紀後半から十七世紀二
0
( 8 )
年代に至る間に週期的に襲った不況時現象が︑この関連を明らかにしている
0
次に輸出品の決済であるがマーチャ
そト・ア F
ヴェンチャラーズは海外の代理商宛に為替手形を振出し︑これをロンベート・ストリートで売却して現
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金を得︑プラックゥ=ル・ホールで織元に対する支払いを行うのが普通であっ写`手形は
P ンドン金匠が初めて内
国 手 形 ‑ ^i
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の割引を開始したのが大内乱 g
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の前夜であって︑十六批紀では手形とい r
( 1 0 )
えぱ総べて外国手形
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を意味した︒かかる外国手形はまた総べて後払手形 s
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で
あった︒というのは一覧払
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の場合であっても通信の末発達のため実質的には前者と等しくなるからであ
る︒例えばロンドソーアントワープ間の手形は送逹経路の如何に係りなく一ヶ月後払
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c e で あ り ︑
ソー^ンプルグ間はニヶ月後払
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を原則とした︒しかも当時の為替取組はの隔地間の取組 4
定 ︒
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であ i
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②貨幣の両替
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注 a e
であることを本質的特徴とする︒
( 1 2 )
=リザベスの初期から^寸
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︑ と い う 語 は
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を意味していたのであるが︑この
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は二様の意味があった︒ーは或る種の貨幣を他の稲の貨幣と交換すること即ち両替業謗
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這 i m ̀ t m m
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e の場合であり︑他は為替手形による隔地者間の資金移転即ち為替業謗
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唸 n r
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l s である︒従つて当時の銀行家とは両替業務とか外国為替業謗の専門家を指称したわけである︒と ころが大陸では当局の公認を得た両替商が厳重な統制の下に両替業を営んでいたがイギリスでは︑両替は国家の役
( 1 3 )
人たる
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が独占的にこれを行い︑事実上はともかく法律上民間両替商は認められていなかった︒
従つて合法的に外貨と引換えるには為替手形の手段によったわけである︒では為替手形の売買業者ー当時の用語で は銀行家ーの利得が何故に教会法学者の攻撃の的とされなかったのかが一応問顆となろう︒これは
u s
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の本質
に関連する︒即ち確定的利得︱
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が
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と考えられていたのであるが十六世紀に謂うところの銀行業 y
は為替レートの変動によつて銀行家の損得は常に測
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難く︑いわぱ一顔の投機業とされたからである
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紺(→水口袖科芸
「樅怜州器担甘~Q踪架」嫁 l 燎 II 装
(c‑‑i) R. B. Westerfield, Middlemen in English Business, 1660 ‑ 1760, 1915, pp. 265 ‑ 266
H. Heaton, the Yorkshire Woollen and worsted Industries, 1920. pp. 119 ‑ 120
R. H. Tawney, lntroduetion, p. 49
(CQ) H. Heaton, op. cit., pp. 204 ‑ 205 ビ) M. Postan, "Medieval Credit in Trade" ...:.... Ee. H. R. vol. I
(in) H. L. Gray, "English Foreign Trade 1446‑1482," ‑Power & Postan ed. English Trade in Fifteenth
Century.
(co) R. H. Tawney, Introduction, p. 96
(t‑‑) R. Ehrenberg, Capital and Finance in the Age of the Renaissance. (Eng. translation by ̲H.Lucas
of Das Zeit~lter der Fugger, 1896) pp. 252 ‑ 255
(co) de Roover, Gresham, pp. 202‑203; Tawney & Power, T.E.D. vol. I p.218
(o‑,) de Roover, op. cit., p. 110
(~) (;:1) Ibid., p. 99
(~) R. D. Richards, op.cit., p. 2
ば) de Roover, op. cit., pp. V 4‑ 95
(;:!:) Ibid., p. 101 ; R. H. Tawney, Introductiun, p. 珈
農村と都市を問はず最も廣範囲に一且って存在したのは質屋pownshops ̀
pawnbrokers~5,.
しこれに類するもので
あり︑同時にテューグ及び︳^テュアートを通じて民衆の間に最も酷しい悪評を残した金貸の多くがこれに属した︒
彼等は
" r e t a y l i n g
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b r o k e r s r ¥ 1 ‑
; t ; i 呼ばれ
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"
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或は
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b r o k e r s
から区別されており︑
その悪徳行為については放挙に辿がない︒
S t u b b e s
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の記述によれば︑質屋が受取る﹁質種﹂
は多くの不正物件が含まれており︑盗品の大口引取人の観があったといわれ︑従つて質屋の存在が窃盗を助長する こととなって社会の福祉を阻害する結果となった︒また
M 巴
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は著名な
L e x M e r c a t o r i a (
1 6 2 2 )
の中で︑質
屋は金融仲介業者であったことを強調する︒即ち質屋は金持から遊姿を借りて途方も無い高利率ー例えば二八日一
( 1 )
ヶ月の計算で二 0 シリングに付き六︒ヘンスを徴したーで転貸を行ったという︒しかし以上の如き幣害を伴つてはい
たが生産・分配の何れの部門においても未だ小規模営業が支配的であった時代においては︑この種の零細資金の需
要を満たす質屋の機能は重要であったといわねばならなぃ°微利禁止法Usury
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w が取締の直接の対象としたのも
(2)
社会的混乱を惹起する恐れのあるかかる些細な信用取引に即してであった︒ェリザベス末期の一五九八年
B e r w
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T
w e e d では悪徳質屋の搾取から民衆を保謡するため公設質屋を設置して︑
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i l s o n は 為 替 業 務 の 利 得 は 不 確 定 的 で あ る が
︑ 事 宜 損 失 の 機 會 は 百 邊 に 一 度 も 無 い 位 少 い も の で あ る 以 上 こ
れ は 朋 ら か に 徴 利 行 為 で あ る と 躊 躇 な く 攻 華 す る ︒
I b i d . , p .
3 0 6
一般に質屋営業を禁止する の中に
1 1 2
テユーダー及びステュアート朝における金融業
命令を発した︒そこでは当局の監督の下に二人の信用あり旦誠実な質屋が営業を免許され︑彼等以外の総ての質営業
( 3 )
を厳禁した︒しかしかかる公設質屋の設置は十六批紀では例外的であり.また尭民金笠機関としてどれ程の効果を挙
げえたかは疑問である︒というのは当局の真摯な努力にも拘はらず一六
0
三年私営の質屋が親はれて治安判事の処 罰を受けている︒ほぽ同じ目的をもった努力は初期ステュアート朝にも見られる︒それはMon
窃
d e
P i
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e ( B a n k
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Charity)を設置せんとする提案がなされたことである︒ H 日
1 i
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M a
l y
n e
s ,
J o l
; l n
Cooke啄がその唱導者で
( 4 )
貧民救済のため抵当物件を保証として低利資金を供給せんとするものであった︒
註
( 1 )
M a
l y
n e
s ,
e L x M e r c a t o r i a , p .
3 3 7
ーR i c h a r d s
̀ o p
c i t . . , p .
12
C2)R•
H .
T a w
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I r t t r o d u c t o
n ,
p .
30
( 3
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1 2 6
ー1 2 7 : .
E . L i p s o n E ,
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c H i s t o r y o f E n g l a n d , v o l .
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2 4 8
(4)R•
D . R i c h a r d s , o p . eit••
p p .
12
ー13
エリザベー︿及びジェイムス治下のロソドッ金瞼市場で注目されたのは代害人であった︒リチャーー・ツもトーニー
( 1 )
も︑ともに代害人をイギリー︿銀行史上の最も早い先駆者とみなす点において一致している°殊にリチャー・ツはイギ
( 2 )
リス最初の﹁預金銀行﹂と迄極言している︒元来代書人は堪能な筆記者ないしは公証人amanuenses
o r
n o u t a r i e s
( 3 )
であり︑取引上の契約・遺言欣・譲渡証書・抵当証文等の公式書類の作製を専業とするものであった︒かようた業 謗の性質上彼は事業界の動向や土地市場に関する情報を入手する機会に恵まれていた︒しかしエリザベス朝には公
. 代書人啓rivener へ
ん >︑
1 1 3
証人としての本来の性格から進んで一種の金融媒介者となり更に十七世紀の初期に至れば単に金融の媒介をなすに 止らず自ら金貸となり預金の保管者
d e
p o
s i
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k e
e p
e r
となる 0 代害人がこのように早℃発展を示しえたのは︑如何
たる事情によるのか°貸借︑売買の当事者間に介入して常に事業界︑土地市場の助向を熟知しうるという公証人と
しての持殊の地位の然らしむるところであるとも考えられよう︒だが彼をして早期にロソドソ金磁界に重きをなさ しめた更に宜大た外的要因が求められる︒それはこの時代に土地売買及び土地を担保とする金融が著しく増加した ことである︒このような現象は十六世紀における新興の商人階紋︵
b i
s i
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s )
A i
守旧的地主階級
( o
l d
g e
n t
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)
の間に生じた経済的地位の相対的変化とまさに表裏の関係にあると考えられる
0 農村に廣大な地所を有し︑ロソド
ンでは努沢な滞在生活を送る守旧的大地主にとつては︑物価の勝費にも拘はらず土地からの牧入は固定されており
増牧は容易たことではなかった︒彼等は数千ニーカーに及ぶ所有地を抵当に入れてロソドンの貨幣階級から負位を 負うか或は一部を手離した
0 時には連よく婚姻関係を通じて危機を打開することもあったろう︒大地主層の巨額の
で ︶ 負債吠況は十六世紀最後の二
0
年の間にパーレー卿
C e
c i
l s l
宛てられた害簡の中にその一端を賦うことができる︒
これとは全く対聴的な勤きを商人階級の側に見出す︒修迫院の解散から一六四
0 年の大内乱に至る百年間において︑
イギリス社会史上の一つの特徴は︑商人階級の勢力が州の騎士囮に侵入してゆくことであった︒所領の経営が拙劣
で︑物価騰封が生んだ新しい経済条件に適応性をもたない守旧的地︑
Hi
の土地を買取ったのは主としてロンドンの有
( 5 )
力な商人屈であった︒十六泄紀及び十七世紀初期には成功した商人逹は︑土地を購入することによって︑農村にお
いてもロンドンにおけると同様の社会的威信をそえ得た外︑要子には安定した地代牧入を得しめることができたか
らであった︒しかし最も強い契品は︑貿品独占政策などによって商業投資の機会が枯渇しがちな際︑過剌資本にと
1 1 4
テ ユ ー ダ ー 及 び ス テ ュ ア ー ト 朝 に お け る 金 敲 業
( 4 )
I b i d . , p . 3 2
( 6 )
つて土地は有利た投疫対象であったからだ︒要するにテューダ 1
時代の軽済的変化が不断に土地抵当を生み︑地主 と商人間の信用取引を盛んならしめ︑そのことが代害人のその後の発展を必然たらしめる朕史的条件となったので
ある︒彼らの業務が大いに瑚加したことがその存在を不可欠にし日蓋裕ならしめ︑磯迎に乗じて成功した若千のもの
6 7 )
は更に新分野の開拓者となる︒その第一段階は単にプロー●ーとしての仕叩の外に自身が金狂を営むようになった
( 8 )
ことである︒廣大な地所を担保に金を借りんとしてロンドンを訪れる地方のヂェントルマン逹はすべて彼に依存し
( 9 )
ていた︒一六二三年の法律で︑破産に関する規定をなした部分に代野人が既に預金の保管者であったことを立証す
( 1 0 ) ( 1 1 )
る文言がある︒われわれはここに発展の第二の段階を見出す︒当時迄に金匠・プローカー︑或は商人にして預金の
( 1 2 )
保管者たる機能を果したことを示す史料は見当らないようである︒
代書人は十七祉紀の論者によって金融代書人
^ '
m o
n e
y
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A l 呼ばれるようになり投資先を求める商人・ヂェントルマン・未亡人から利子を附して預金を 吸牧し︑これを更に高い利子を微して貸出した︒従つてこれを預金鋲行の一種の先駆者と考えることは誤りではな
( 1 3 )
かろう︒ほぼ大内乱の頃から金匠がロンドン金融界に圧倒的直要性を占めるに及んで金融代害人は相対的に地位の
合 ︶ 後退を余譲なくされるのであるが︑叛かに下つて十八批紀に至つてもなお明らかに金融業務を継続している︒
註
→ 1 )
R .
D .
R i
c h a r d s , o p . c i t . , p .
15 :
R .
H .
T a
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, I n t r o d u c t i o n , p .
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(2)R•
D .
R i c h a r d s
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p . c i t . , p .
2 3
3
( 3 )
R . H . T a
w n
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, I n t r o d u c t i o n , p p
96 .
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( 5 )
H
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‑p.2
ーーH .
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1 1 5
( 6 )
I b i d . , p . 1 1
( 7
)
E . L i p s o n ,
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2 2
8 (8)R•
H .
T a w
n e
y ,
Introduction•
p .
9 8
( 9 )
Ibid••
p .
9 9
( 1 0 ) 2 1 J
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疇c .
1 9
§ 2
1 w.s•
H o
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1 8
5 n
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D . R i c h a r d s
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p .
1 6
1 4
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t o f 1 6
2 1 とあるのは
1 6 2 3
の誤りであるう︒
(11)
+七世紀後期の人
H o
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h t
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はプローカーを六種に分つ
̲
̲ .穀物・染物・雨替・雑貨・麻・絹•また同時代の
tton は次の三種に分つ、ー R•
D .
Richards•
o p
c i t . , p
・ 2 S り一種の代理業者たるプローカーであって殆んどすべての商取引に介在する︒
回 雨 替 プ ロ ー カ ー り 証 券 プ ロ ー カ ー retailin~,
b r
o k
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または
p a w n
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と冨別される
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或は^
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は十七世紀末
期には資金厖商となったり或は割符や大蔵省証券︑銀行券を賣只する証券業者
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, k jobber~
なるのであるが
J u
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も示す如く︑プローカーに賜する艇れた研究は認められない現朕にある・ーー
A .
V . J u d g e s ,
" t h e O r i g i n f o E n g l i s h Banking,'•
p .
1 4
0
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H i s t o r y , n e w s . v o l .
XV
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D .
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(13)J•
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T a w n e y ̀ I n t r o d u c t i o n , p .
9 9
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R i
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̀ o p . c i t . ,
p p .
1 6
1
1 8
m o n e y s c r i v e n e r
のそれ以上の凌展についてクラッパムは﹁代寄人の店舗﹂が成長して﹁銀行店舗﹂
b a
n k
i n
g
h o
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になった例は無いという︒
( 1 4 )
E ,
L i p s o n , o p . c i t . , p , 2 2
" 8 J• H
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l a
p h
a m
̀ ・ o p . c i t , p .
7 H a ︑
l i b
テユーダー及びステュアート朝における金磁業
金匠は前項の代甚人とともにイギリ︳^銀行業の最も有力た先駆者であることには先ず異論がなかろう︒ょ b 有利
な条件で他人に貸す目的をもつて預金を吸牧するという点では﹁代書人﹂が金匠に一歩先んじていたことは既に一
言した通りであるが︑金匠は後述する如く信用技術の面でイギリ︳^銀行業の癸逹に大いに貢献した︒
本来︑金銀器共の製造販売業者ないしは宝石商人である金匠はエリザベスの時代には半批紀後に見るような新し
い信用抜術の先恋者としての重要な役割は未だ全く見られない︒だが開花に至るまでの準備が着々進行しつつあっ
た事実は明らかに看取することができる 0 即ち彼等の中のある者は更に早い時期から金貸業を営んでいたことは事
実である︒我軍品の預託に対じて融沢し︑外国貿易に経塀する商人や雛渋しているヂェントルマンにも金を貸し︑仲
( 1 )
間の商人から大金を借りた商人のための保証人ともなった︒しかし金匠を富裕ならしめる上に重要視すべき業謗は
一は費軍品のプローカーとしてのそれであ b ︑他は両替である 0 大規模に営まれる外国為替取引と区別されるこの
両替業移が何故それ程有利な取引であったか︒それは 0 当時ョーロッパには多数の造幣所が存し②標準鋳貨が欠如
レ③鋳造抜術が拙劣であり囚貶質が行はれ従つて⑲鋳質の名目価値と市場価値が常に相違しているといったようた
事情が両替業務を役雑たらしめ︑不法利得の機会を提供する結果とたった︒また抜け目のたい金匠は法の禁止にも
( 2 )
拘らず霊い貨幣を選別
" C
u l l
o u t 疇・して熔解し︑地金として輸出した︒かかる両替の専門家は当時﹁銀行家﹂と呼
( 5 )
ぱれたようである︒
以上のように金銀細工職人としての旧来の金匠の中から︑金融業者としての新しい新しい類型の金匠が分出して
く る
0 披等こそ通俗史家の筆によって恰もイギリ K 金融史上の英雄であるかの如く画かれてきたあのステュアート
⇔ 金 匠
1 1 1
託者
b a i l e e
から伍務者
d e b t
o r への礎移と考えられる︒︶ ニ四年の賓料において明らかに看取し得る︒それはロソドソの旧来の金匠 型金匠の直接の先駆者に外たらない︒この一^テュアート型金匠の分出し来る事情は次のジェームー^一世治下の一六
"
m a n u a l w b r k i o g g o l d s m i t h s "
六九名が
連著し︑金匠組合
G o l d s m i t h s ' g m p a n y
の理事者に対して提出した歎願書であって︑その目的は職人としての旧来
の 金 匠 ` ' w o r k i n g
"
g o l d s m i t h s k !
対して議会の法律によって独自の組合を設立されたいこと︑及び
G o l d s m i t h s ' H a l l
の中に弊害除去のための機関を設置することであった 0 然らば何が金匠をして︑かかる歎願書を出さしめたのか︒
金匠はエドワード三世の治下(‑三二七年︶に金銀細工人のギルドとして法人格が与えられ W 閂
d e n s a n d C o m m o
・ n a l t o y f t J . i e M y s t e r y f o G o l d S m i t h s ,
f o t h e C i t y o f L o n d o n ,
が設立されていた︒ところが近時この組合員の
( 4 )
中から「金銀の両替人、地金銀・宝石•その他の金銀細工品の行商人及び販売業者」が出現してきた°殊に一六二八
年の一史料が示すように
C i t 1 : i e E x c h a n g e s
の周辺に店舗を構えていた極く少数の金匠は手形や貴金属の有力た
( 5 )
プローカーであったことも明らかである°職人金匠がこれら新興のいわば︳^テュアート型金匠に対抗して自らの利
益拗護のため戟極的に勁き出したのも蓋し当然のことであった︒
金融業を襦むこれらの金匠は︑更に信用に吐平いて預金を受け入れ貨幣の保管者となる 0 尤も預り金は箱または袋
︵さらに進んで金匠から銀行家への紐済的地位の登展は法的には受 に納めて封印し︑預託者の要求に応じて払い戻されたので金匠はそれを利用し得ない欣態におかれていた︒従つて 両者の関係を法的に表衷すれば、これば一稲の寄託契約であり金匠と顧客は夫々受託者•寄託者の関係に立つと考
( 6
)
えられ︑また金匠発行の受領証は倉庫証券に年●しい︒
金匠の中 2 有力なものが︑金銀・装飾品・外国貨幣などの半なる受託者であり︑しかも自己の姿金を箕付けて利
1 1 8
テ ユ ー ダ ー 及 び ス テ ュ ア ー ト 朝 に お け る 金 融 業
子を牧むる金貸業者としての雄位から他人の資金を安全に保管するに留まらずこれる信用創造の某として利用し︑
牧益を牧めるところの近代的銀行の主要素を︑具体的に経験するようになるのは何時頃か︑また如何なる契機が存
したかが当然問はれねばならな唸金匠がそのようた質的発展を遂げるには先づ前述したような単たる預託者とし
ての一定の筵験を必要とレたであろう︒受託者ないしは安全な預金保管者としての営業の中に︑要求払の条件で預
つているのではあるが︑その全部が一時に引出されることが稀なことを発見し︑更に終験は平均引出率︑従つて支
払準備金
t i l l
1
m
o n
e y
の拭を教えるであろう︒
( 7 )
る︒ーでは金匠が r てのような経験を深め質的転換を顕著ならしめるのは何時頃か︑加何なる契機によるか︒ロソド そこで始めて金匠は預金の中の或る一定謙を有利に利用し得るに至
ン金匠は大内乱以前から貨幣や金銀の預託を受けてはいたが︑その点では寧ろロンドソ塔内の造幣所が最も安全な
保管所としてより多く利用されていた︒ところが一六四 0 年財政窮乏のためチャールスー世はロンドソ商人の所有
にかかる金銀二 0 万︒ホンドを浚牧した︒この事件が造幣所の名声を失墜せしめ︑それに代るべき安全な保管所として
( 3 )
多くの有力な金匠が預金保管者として認められ始めた︒続く大内乱︑クロムウニルの時代には国家が対内及び対外
︵例えば第一次オラソダ戦争︶諦問願と関連して巨額の軍事的政治的資金を必要とした︒このことが最も有力な若千の
金匠の業謗を国家財政と結びつけたことは注目すべきである︒クロムウェルの時代の
G o l d
目 S i : の重要性
i庄 H 巴
1︒
( 9 )
••
はそのことを示す︒この外軍商主泰政策の掩誰の下に海外市場へ進出したこと︑並びに貿易の発展に関連して合本
(10)
制企業が発達したこともまた大資本の需要を生みそれが銀行業の発展を促進したことは一ぞう迄も無い︒ともかく
も一六四 0 年のチャール︳^一批の暴挙を契機として金匠の預金保管業語は頻繁となり︑その後の諸惰勢によって資
金の大口供絵源としての地位を確立したといえよう︒
1 1 9
た 事 件 は ︑ かくて金匠は十七世紀中葉までには一 00 ポソドに付き四︒ヘソス ︵ 約 年 六 分 ︶
こ
の利子を附して全国各地からロン
( 1 1 )
ドンえ貨幣を吸牧しており︑この傾向は後に地方銀行が勃興する迄続いたといわれる°尤も経験の未熟さと社会状 態の不安定のため腿々不幸を生じたようである︒とりわけ多めのは金匠が利用を許された預金を流勤性乏しい財産
(12)
に投資し支払準備金に不測の支膵を生ずることであった︒
さて︑かように発展した金匠ー金匠銀行家
g o l d
s m i t
h
b a n k
e r s A l
呼ばれたーのその後の変化に関連する最も軍大
一六七二年のチャールスニ世による詣はゆる﹁国庫支払停止﹂
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S t o p
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で あ る ︒
の事件が新しいステュアート型金匠にどの様な影蓉を及ぽしたかを考祭するに当つては彼等を二群に分つことが必
要である。その一群はクラッ゜ハムが「銀行家の銀行」 '•bankers'bankers"
. . ¥ I 呼んだ
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( 1 3 )
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をはじめ
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C 後
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Whitehall~
どの巨大金匠銀行家であり︑他の一群
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の如き小型金匠銀行家である︒前者はチャールスニ批の濫発した 割符や指図害が謀利率であったために︑
これらに巨額を投貸していた︒従つて﹁支払停止﹂によって最も大きた打 撃 を 被 っ た の が 懇 各 あ っ た の も 当 然 で あ る
︒ し か し 一 六 七
0 年に遊金の預託を受けていた金匠が約︱︱
1 0
人いたが
一六七七年に四 C
人以上いたという事から推祭し得る如く︑この事件は従来衿えられた報直大ではなかった︒とい うのも﹁支払停止﹂は﹁支払担絶﹂ではなく単に利子支払が一定期間遅延したに過ぎず︑車実その後も
V y
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は
( E
)
︱ 二 年 ︑
B a
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l l
は 一
0
年間営業を組続している︒次に後者に属する一群は国庫と余り交渉をもたず主として商 業金珈に従事していただけに﹁支払停止﹂による損害は殆んど蒙らなかった︒しかもその中の若千は蝶実に近代イ
l2Q
テユーダー及びステュアート朝における金融業
p a m i s s o r y n o ,
( 1 5 )
ギリー︿銀行に連なるものも見出されるという︒
では十七世紀中葉以降において金匠銀行の信用技術はどの程度の水準に到達していたかー短言すれば金匠銀行は
イソグラソド銀行創設の約三 0 年前に既に発券業謗を営み︑顧客に対し小切手を利用せしめていたと云えよう 0 金
匠銀行は二種の手形︵金匠手形︶を発行していたといわれる︒ーは^^
R u n n i n g C a s h N o t e s "
で今日その雛形は残
( 1 6 )
つていたいが彼等の帳簿には服々見出される︒これは一 K はば預金受領証であって︑預金者がこれを呈示して預金を
引出せぱ券面にはその額が記入される︒そして預金総額が払戻済になると同時にその効力を失う︒かかる機能から
( 0 1 7 )
してこの種の金匠手形は寧ろ近代の﹁通帳﹂
"
p a
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b o o k
"
の先駆者と見なされるこれとは性質を異にする他の
種類の金匠手形は︑後の銀行券の先躯者となったところの4^
p r o m i s s o r y n o t e s
"
(約束手形︶である︒これは王政
復古期の初期には金による現実の裏付けなしに用いられていたことは確かで︑巨大金匠の一人である
B a c k w e l l
の
食 ︶
最も古と帳簿︵一六六三年︶がこれを証明する︒この種の雛形で現存する最も古いものは一六八四年︱一月二八日附
の
C h i l
d &
C o .
発行のもので︑本人又は持参人払になっている 0
P r o m i s s o r y n o t e
は金匠の顧客に対する借 s
款の形式をとつており︑このことは前述した如く単に受寄物の保管者たる﹁受託者﹂の池位から︑それの利用を許
された﹁債粒者﹂えと金匠の法的性格が移行したことと照応する・ 0 尤も
p r o m i s s o n o r y t e s
そのものは形式上は借
入金証書
b i
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o f
d e
b t
の一積として極めて古くから存在した︒ これは以前には振宛人阻り有効で移転性をもたな
かったのが︑引渡し或は裏奢によって第三者に譲渡しうるところの所持人払或は指図人払形式の
t 器を発行するに至るのであるが︑この発逹は為替手形の発逹と密接に関連している
0
既に鮫れた如く十六世紀の
イギリスでは為替手形といえば総ぺて外国為替手形であったが一 6 六三 0 年代には内国為替手形が用いられていた︒
f ; z l
る際に︑預金者は^
' d r a w n n o t e "
これの譲渡については一六二二年に公にされた
M a l y n e s
の
︱ ︱ 1
年間に普及を見たことはイギリー︿最初の裏書譲渡を説いた公証人] 0
o h n M a r i u s
の一六五一年発行の小論文に
( 2 0 )
よって明らかである︒指図人払の
p r o m
器 i
o r y n o t e s
はこの為替手形の事書譲渡形式を継承発展させたものであ る︒持参人或は指図人に支払はれる金匠手形は︑もはや金匠自身が保有する現実の鋳貨や貴金属を代表せず︑引渡 し叉は襄書によって餌々流通する流通証券となり︑親代の銀行券の役割を果したのである︒ただ金額が不定である 点後者と著しく異る︒ここで注意すぺきことは︑この形式の金匠手形が実際に普及するに至ったのは主として金匠
に負うということである︒
p r o m i s s o r y n o t e s
の上述の如き発展に伴つて︑預金者が預金を引出すか︑または金匠をして他人に支払はしめ
︵出切手>即ち小切手を使用するようになった°金匠の顧客が振出した小切手で
現存する最も古いものは一六七
0 年代のものであるが一六六五年迄には用いられていたことは確かである︒これよ
り先き国庫に餌権を有する政府役人や年金受領権者は国庫から債券によって支払はれていたが︑彼等は国庫に対し て小切手類似のものを振出していた︒これら政府債権の保有者が振出す手形も近代小切手の先駆者であったことは
事実である︒叉これより更に古いものが無かったわけではない︒例えば=リザベー︿の末期にロンドンの商人
T h
, o
m a s F a r r i n g t o n
は顧客の要求あり次第︵﹁共翰の指岡に従い﹂︶
( 2 1 )
形式の原初的な小切手とみなしている︒ 支払をしていたようで︑ クラッ︒^ムはこれを害翰
以上要するに︑有力な若千のロンドン金匠銀行は王政復古期には殆んど凡ゆる種類の銀行業語を行う迄に成長し
ていた︒即ち預金・錠付は勿論︑為替手形・割符・各種国庫証券の割引︑約束手形
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テユーダー及びステュアート朝における金敵業
券︶の努行︑小切手の使用︑封金属売買︑外国貨幣の両替等を営んでいた︒
最後にこれら金障業者として成功した金匠の社会的側面を瞥見しておきたい︒中世後期以降において︑イギ
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‑ ︿ 社会史のどの断面を見ても︑われわれは必ずそこにロソドソで成功した者がその官を以て地所を購い或は田湖の邸
宅に引退して埴方の地主屈︵ヂェントルマン扇︶に溶け込んでゆく姿を見出すであろう 0 叉イギリー︿が持ち続けてきた
ところのユニークな調和ある政治構造は︑かようなロンドンを中心とする貨幣階級と︑地方の伝統をもつ地︑主階級
とのスム 1 一︿た交流の反映と見られないであろうか︒ノーサソプトンシャとベドフォードシャーの二州について︑
地︑主厨の交替の様相を実証的に研究した︿ベクゥクは大内乱以降一批紀の間に︑それらの地方に何代も引読いて定
住してきた旧い広統をもつ地︑主屈・
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( 2 2 )
れにこの金匠簿によって代醤されたという︒同時に金匠がイギリス社会安定の錦をたすスクワイヤー図え浸透して
ゆくことは︑当時の金匠の繁栄を歳はしめるものである︒
註 (1)R•
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