学部長時代の思い出
著者 野村 昭
雑誌名 関西大学社会学部紀要
巻 19
号 1
ページ A1‑A2
発行年 1987‑11‑30
URL http://hdl.handle.net/10112/00022697
社会学部設立二十周年記念特輯
十 周 年 以 降 の あ ゆ み ―
学 部 長 時 代 の 思 い 出
野 村 昭
ついこの間に社会学部1
0
周年を期して,紀要の記念号を出版したり,創設当時の学部長の臼井二尚先生を はじめとして加藤三之雄先生などをお招きして,ささやかなパーティをもったりしたとおもっている(わた しの学部長時代)のに,早や創設20
周年,さらにまた10
年の歳月を閲したことになる。思えば,昭和5
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年10
月,足立先生のあとを継いで,わたしは社会学部長に就任した。足立学部長時代の学 部長代理に引き続いての大役であった。新しい執行部として,学部長代理に岡田,一部学生主任に徳岡,ニ 部学生主任に大石,学部相談主事に太城,小谷,の諸先生をお願いした。強力なスタッフを得て,まずは順 調な船出をしたのである。ところでわたしの任期中,最大の出来事で,だからこそ最も想い出深いのは,何といっても大学の「地名 総鑑購入」事件であった。
1 0
年ほども昔の出来事であるので,正確な日時などは明らかではないが(詳細は 年表によってほしい), 昭和52
年3
月末か4
月はじめではなかったかとおもう。社会学部の為春会が奈良の 高円山で開かれたが,その会にむかう(あるいは,かえりであったかもしれない)電車のなかで,岡田学部 長代理が,関西大学が部落地名総鑑を購入したことを大阪法務局に指摘された旨新聞にでていた, と話して くれたのが,わたしがこの問題を知る第一歩であった。教学ではなく法人が購入したこと,その購入もその ときではなくずっと以前になされたこと,などの理由で,このことがわたしの学部長時代を通じて最大の出 来事になろうとは,その当時はおもってもみなかったのである。事態は進展した。教員のがわからも,学生のがわからも,なぜ地名総鑑を購入したのかという疑問がださ れた。ことに学生からの追求ははげしかった。法人の説明では,当時の日本共産党の躍進の秘密を知るため であるとのことであった。それでは納得されず,説明集会(学生のがわからいえば,大衆団交ということに なろう)をもつように要求された。もちろん,法人がわに購入事情の説明をもとめるだけではなく,教学が わにも日ごろの部落問題への取り組みが十分でないのでこうした事態を招くのだとのことで,各学部に対し て部落問題に関する講義を設置するように要請があった。教授会がひんぱんに開かれた。あるときなどは朝 早く学部長会議が開かれ,その議題を教授会にもちかえり,審議をかさねて:夕方にまたその結論をもちょ って,再び学部長会議を開き,議論が夜更におよぶこともあった。
説明集会はつごう4回開かれたとおもう。一部2回,二部2回である。したがって,わたしは学生の前へ 4度出たことになる。そのとき,講義設置に関しては,われわれ社会学部は, 目下カリキュラム委員会で検 討中ということで,説明集会時には具体的な案は提示できなかったが,現在は「差別と社会」という講義に それは結実している。
部落問題との関係でいえば,
K
先生の問題もわたしにとって忘れ難いものがある。総合コースの部落解放 論の講義で,先生が「接触によって差別を解消する」という論を述べられた。それに対して,学生がその論 は誤っていると問題視したのである。私見では,たしかに,無限定・無条件で接触の効果を云々するわけに はいかぬとは思うが,それにしてもことは講義の問題である。先生にも自説を述べる自由はある。教授会で 学説の可否を論じるわけにはいかない。しかし,なにが問題となっているのかを他の先生方に伝えないわけ‑ 1 ‑
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号にもいかない。そこで,教授会を懇談会に切り替えてその間の事情をお伝えしたこともあった。温厚篤実な 先生だけにお悩みも多かったこととおもうが,先生は終始誠意をもって学生に対応された。
さて,上に記してきたことからも察せられるように,当時の学生運動はたいへん活発で,社会学部の学生 自治会はそのなかでもとりわけ活動が盛んであったとおもう(もっとも経済学部を除く他の学部には学生自 治会がなかった)。それだけに学生主任の配慮とご苦労はたいへんなものがあったと思う。わたしにとって 幸いだったのは,当時の自治会委員長がわたしのゼミからでていたということであった。単により身近で親 しいというだけではなく,かれはルールを守ってくれた。あるとき,わたしは自治会役員の学生たちにかこ まれたことがあった。教授会が学生自治会の承認を取り消す告示をだしたからだった(その原因は,なにか 政治的な議題だったと思うが,学生大会で一般学生の承認を得ないで,直接にスト実行委員会の名のもとに ストライキを行ったためである)。告示のはり紙はたちまち破られ, そのことに関する抗議のビラが配られ た。そして,わたしはゼミの授業が終わると同時に,その部屋へはいってきた自治会役員の学生たちにかこ まれたのである。かれらは口々に,あれはどういう意味なのか,なぜ不承認にするのか,とはげしくわたし に迫った。わたしは言った,学部長としてなら君達と話し合うわけにはいかぬ,まず学生主任を通じて君達 の意見をもちこんでほしい,それがルールだ,ただし,委員長はわたしのゼミの学生だから,ゼミの教師が ゼミの学生と私的にいろいろと意見を述べ合うことはよくあることだから,その立場で2人だけで話すのな らば話し合ってよい,ほかのひとはそれを聞くだけにしてほしい,それでもよいか,と。かれらはそれで納 得してくれた。そこで,わたしは委員長だけを相手として,私的会話のていで話し続けた。自治会を教授会 が承認しているのは学生の総意を代表しているからであること,その総意を問う手続きを無視しては代表性 を失うこと,代表性を失ったものの要求や意見をいちいちとりあげることはできないこと,不承認とはそう いう意味であり自治会活動にまでくちばしをいれてそれを妨害したり崩壊させたりする意図はもっていない こと,活動は自由だけれども教授会との関係は断ち切られたこと,などを説いた。スト実行委員会が学生大 会を乗り越えたと考えてほしいと,かれらは不満そうだったが,そのまま引き下がってくれた。ーカ月ほど 後に,自治会新執行委員長が,学生の総意に基づく活動を心がけたい旨の決意を表明したことから,自治会 は再び承認され教授会との以前の関係が復活したのである。
すこし大げさでおこがましい言い分になるかもしれないが,わたしの人生観や学問観は,全国を席捲した 大学紛争時や,この学部長時代に培われたものが多い。紛争時,そこに学生への共鳴や同情があったとして も,あまりにも多くの大学教師が, 最終的にはリップ・サービスに終ってしまうような言葉や観念によっ て,現実を糊塗したりその場かぎりの言い逃れをしたりするのを,自戒をもって見てきた。知識人の常とし て,わたしにも多分に観念的傾向があった。が,紛争以降,わたしはリアリストに徹しようとおもった。で きないことはたとえ言いにくくともできないと言おうとおもった。学部長時代はこの態度でおし通そうと考 えた。これも学生運動の経験者のひとりの学生が(委員長とは別の),先生, 敵ながらあっぱれということ もあるのですよ,と言ってくれたのが支えになった。理念や考え方は違っても,たやすくその場かぎりの応 諾をしない姿勢の大切さを教えてくれたとおもう。あっぱれであったかどうかはわからぬが,その態度をも ち続けようとの努力だけはしたつもりである。もちろん自分ひとりの努力などたかがしれている。学部執行 部,学部事務室のひとたちをはじめ,多くのひとたちのご協力によって,なんとか無事に大役を終えること ができたのである。感謝のほかはない。
いまは静かな学園の日々が続いている。学生気質も大きく変わってきた。そこに1