「学制改革問題」と中等教育改革
一明治後期・大正期の中等教育の一考察一一一一
教育学研究室谷口琢男
(1969年11月12日受理)
はじめに
§1森,井上の教育制度改革と「学制改革問題」
§2 久保田の低度大学論と高等普通教育
§3菊池の大学予備門案と専門学校令
§4 小松原の高等中学校案と「中堅国民」の育成
§5 臨時教育会議の答申と中学校教育問題
おわりに一臨時教育会議にいたる学制改革問題の推移とその帰結
はじめに
レ
本稿は明治後半期に登場した「学制改革問題」との関連において,中等教育,なかんず く中学校教育の改革の意義を明らかにしようとするものである。
明治後半期以降大正期にかけての学制改革問題は高等教育の拡張の問題を中心テーマと していた。その点,昭和前期の学制改革問題が中等教育の拡張の問題を中心テーマとして いたのと対照的であるといえる。
明治後半期の「学制改革問題」は,わが国の急速な資本主義化とかかわって,指導的人材 をその年令段階の早期に,しかも多量に育成し,供給するための教育制度の機構を造出す ることを課題としていた。森の学校令によって樹立されたわが国の近代教育制度の基本方 式とかかわって,学制改革問題は,修業年限短縮論,低度大学論,高等普通教育論をその
うちにふくむものであった。高等普通教育をいかに分担するかという問題とかかわって,
中学校教育は学制改革問題と不可分の領域に位置づけられていたのである。
したがって,この時期の中学校教育観や中学校教育改革の意義を解明するためには,学 制改革問題との関連を問うことが必要であると考える。従来,大学制度や高等学校制度を 中心として学制改革問題の推移と意義を考察する研究はあったが,中学校制度との関連で それをとりあげたものは少ない。
こうした点を意識して,この時期の中等教育,とくに中学校教育の改革を中心として学
制改革問題をとりあげ,冒頭の意図を果そうとした。
§1森,井上の教育制度改革と「学制改革問題」
イ.森の学校令と修業年限問題
明治後半期の「学制改革問題」は,明治32年11月の帝国教育会において行われた久保田 譲の講演,「教育制度改革論」によって口火がきられたといわれている。しかし海後宗臣 D
氏らが指摘されたように,明治19年の森文相の学校令によって,「近代教育制度の基本方 式を定め得たと同時に,わが国教育界には学制改革問題が課せられた」とみてよいであろ
う。
2)
森は明治10年代をとおして推進されて来た学校制度上の諸施策をふまえて,その独自の 国家主義的見地からそれらを全体的に統括し,帝国大学を頂点とする普通教育を中心とす
る学校体系を構築したのであった。
森は帝国大学の目的を,「国家ノ須要二応スル」学問の研究と教授の機能をあわせ持つ べきものと規定し,研究と教授の二機能という点でわが国の大学の理念的伝統の形成の基 礎をつくった。また,「国家ノ須要二応スル」という点で,国家主義的立場を強調すること によって,「国家有用の人材ことに国家の将来を担うべき官僚ないしは準官僚の養成を期 待した。」かくして,帝国大学は一方で,その学問水準をたかめ,高等中学校もこれに追 3)
随し尋常中学校の間にはなはだしい水準差を結果せしめた。他方,帝国大学の「官僚およ び準官僚の養成機関」としての特権的役割は全国の青年子弟をして一般に帝国大学卒業の 3)
ためには修業年限の長期化もあえて辞さないという風潮をつくり出した。高等中学校と尋 3)
常中学校のこの水準差は,高等中学校に本科のほか,予科さらに補充科を現出せしめ,あ たかも学制を二分させることとなった(表1)。
4)
表1 高等中学校本科,予科,補充科生徒数
明i9 i2・2122232・25262728
1本 科 1予 科
i補充科
413 925 247
361142・i465
1,1851,41。11,5。3
112 フ84 i 645
5971729 1・53
1,728 1,812 1,884 749 567 1 433
、 1
lll l[予 回
,9911旧予944
361
174 61 0 :
このような高等教育のあり方と修業年限の長期化は,資本主義社会における指導的人材 の需要が高まるにつれて,学制改革問題に対する関心と批判を惹起してくる。
5)
口.井上の高等学校令とその帰結
井上文相は資本制産業社会の予見される要請にこたえて「多種類かつ多くのレベルの工
1
業的知識,技能の教育」の振興を教育改革の重点とした。井上は高等中学校の制度を改め 6)
て,高等学校令(明治26年7月)を公布した。すなわち,
高等学校ハ専門学科ヲ教授スル所トス但帝国大学二入学スル者ノ為メ予科ヲ設クルコトヲ得(第
2条)として,高等学校を専門学部を主体とする高等専門教育機関として位置づけた。井上は
「中学ヲ以テ普通教育終極ノ所トス」という構想を以て,実用的専門教育機関を学校体系 ア)
の主流とし「将来二進メテ大学トスルノ地ヲ為シ」,帝国大学を学術研究機関としてこの主 8)
流からはずすという意見を持していた。このような低度大学を地方に多くつくり,「世ノ需 要ト少年ノ志望ヲ順達シ」修業年限の長期化の弊を除去しようとした。すなわち,産業社 8)
会の指導的人材を多量に早期に供給しうる機構を教育制度の改革によってつくり出そうと した。かくして,尋常中学校が普通教育の最終機関とされ,これは既に同年3月の尋常中 学校学科及其程度の改正による学科課程の整理按配によって普通教育の実があがるよう実 施されていた。なお同年6月に尋常中学校実科規程によって,上級学校進学を予想しない 地方の青年子弟に対する等中教育機会の普及と「適切な教育」を配慮しようとした。
9)
井上の実業教育の振興の成果は大きいが,学制改革の点では不徹底と失敗に帰している。
すなわち,高等学校専門学部は不振をきわめ,例外的措置であった高等学校大学予科の みが入学希望者を殺到せしめた。この点尋常中学校段階についても同様で,実科および実 科中学校の意図は成功しなかった。井上の学制改革の失敗の原因は,帝国大学の問題を不 問にしたためであったといわれている(表2)。
表2 高等学校大学予科専門学部生徒数
1明治・・12812gl3。31132i333435{36
大学予科 専門学部
1,909 1,588
2,275 1,653
2,580
1,651
2,675
1,761
2,898 1,766
3,171 1,919
3,602 2,082
4191,
170 4,609 172
4,8901 1
1841
§2 久保田の低度大学論と高等普通教育
イ.久保田の学制改革案
学制改革論議が行われる中で文部省内に教育関係の審議会が設置された。高等教育会議 がこれで,明治29年12月に発足した。
高等教育会議では,実業学校令,中学校令改正,高等女学校令案の諮問をうけ,これら
を通過せしめた。それらは,井上文政期以降発達して来た中等段階の諸学校を制度的に明
確化し整備しようとするものであった。中学校令改正(明治32年1月)では,中学校教育
の目的,性格を「男子二須要ナル高等普通教育」と表現した。この段階では中学校が高等 普通教育の最終段階とされた。
中学校数および生徒数は年々増加し,上級学校ことに高等学校入学志願者も増加し,明 治30年代では入学者率は4割を下るようになった(表3)。 一方,専門学校を中心とする 上級学校も若干増加し収容力も大きくなったが,年々進学の停滞者が増勢を示すようにな
った(表4)。
表3 高等学校入学志願者および入学者数
陣治33
34 35 36 37入学志願者
入 学 者
入学 者率
3,832 1,426 37.21
4,967
1,643 32.81
4, 456
1,589 35,66
4,214 1,612 38.25
4,076 1,480 36.31
表4
中学校卒業生卒業後の状況
種
別陣31
32 33 34 35 36 37高等学校 専門学校
士官学校兵役
学校教員
官 公 吏
其他業務
未就職未詳
死 亡
計
482 284 265 125
44
158 374 5 2,097
919 461 356 166
53
157 664
13
2, 789
1,1481 666 413 239
57
311
914
113,756
1,053 1,285 481 397
52
369
1, 756
21
5414,848 1,720 4ア6 569 143 600 2,172
28
6,556
751 2,377 411 520 121 891 2,371
38
7,480
794
2, 833
678 424 229 807
2, 731
42
8,538
註未就職未詳の中に浪人が相当程度ふくまれている。なお,表3と対照することにより高等
学校入学者のうち過年度卒業者がかなり含まれていることがわかる。日清戦争後の資本主義の発達と人材需要の増大と,高等教育機関の不足と青年子弟の進 学の停滞の問題を背景に久保田は全面的な学制改革構想を「教育制度改革論」において展 開した。そこにおいて久保田は井上の改革の不徹底と失敗を衝き,産業社会の発展にとも なう新たな指導的人材の需要の増大に教育部門が応じうるためには,高等教育機関の増設
も必要だが,学制の根本的な検討が必要だとして,D学校の系統をととのえること 2)
大学卒業までの修業年限の短縮をはかること 3)小学校から大学にいたるまでの各学校 段階ごとの具体的改革案 を提唱した。 3)の学校段階ごとの具体的改革案は,次のよう なものであった。
D大学は大学予科を経ないで中学校から進学させる3〜4年の課程とする 大学は専ら国家の必需 に応ずる人材を供給することを以て目的とし応用の才を養うことを主眼とし,最も必要な学科を
,
選んで教授する あわせて人物を高尚にすることに留意する
帝国大学は専ら学術技芸の葱奥の研究を主眼として,学校体系の正系以外に置く
2)現在の中学校は不完全なので修業年限8年の完全な中学とし,初等5年,高等3年の2期に区
分する 大都市には完全中学校を,地方では高等中学と初等中学を別個につくって連絡関係をよ く保たせる中学校は一国の中心となって健全なる与論を作るところの人物を養成する所とする したがって 生徒は高尚な気品と常識をそなえ,国士としての一国の紳士たる資格をそなえさせる 同時に大 学の予備としての学問の素要をつけさせる 文学,数学,外国語を重視し他の科目はできるだけ 省減して学生の負担過重をさける
中学校を予備中学と普通中学に別ける説には反対である 中学校は一種類がよい
3)小学校の修業年限ならびに義務年限は当分現行のままでよい
小学校のみで終るもの,低い程度の実業学校等に入る下層の人民の公立小学校は教科を簡単にし
て実用を主とし,国民たるに必要なことのみを教える中等以上の子弟で高等教育を受けようとするものは予備学校に入り中学の予備教育を受ける。
10)
いうまでもなく,この改革案はヨーロッパ,特にドイツの教育制度をモデルとしたもの であり,複線型学校体系の導入を意図するものであった。しかし,高等教育段階での専門 教育への集中,中等教育段階でのその基礎としての人物養成の重点化を中心に,修業年限
を2年短縮し,「国家ノ必需二応スル人材」を早期に多量に供給するという課題に応ずる 学制改革を構想した点で,多くの反響を引き起すものであった。久保田の学制案を図示す れば次のようになる(表5)。
表5 久保田の学制改革案
改革案
予備学校(4) 中学校初等(5) 高等(3) 3hr(4)
尋常小学校(4)高等小学校(2)中学校(5)
高等学校
大馴3演(4)
liiiF])ii (大学予科)(3)
久保田の所論は,修業年限短縮,高等学校大学予科制度の廃止と関連して,中等教育の あり方について問題を投じるものであった。中等教育===高等普通教育の役割は,人物養成
=エリート的資質の育成と高等教育の基礎教育であり,この両面が果されねばならない。
現制の中学校はよくその任に応じ得ないとする見解は,当時の識者に共通するものがあっ
た。
口.久保田案の反響
久保田の講演を契機に,学制改革同志会が組織され同月,学制改革要綱を発表した。そ 1D れは大筋において久保田の主張を支持するものであったといえる。すなわち,
1)小学校より大学卒業までの修業年限は国情に適しないため短縮すること
2)諸学校の学科課程は複雑加重で精神身体の健全発達を妨げるおそれがあるためこれを軽減し
統一すること3) 中学校の教育を完全にして,中学校より直に大学校に進学させることができるようにすること 4)高等学校制度を改めて大学校とし,高等の専門学科を増設し,専ら国家須要の人材を養成する 所とすること
5)帝国大学は主として学術技芸の纏奥を攻究する所とすること 12)
というものであった。現行の学制の,小学校(普通教育)中学校(高等普通教育)高等学 校(大学予科)・帝国大学の4段階構成を,普通教育高等普通教育大学教育(実用的専門教 育)の3段階構成にし,年限短縮をはかろうとするものであった。その場合,実用大学に 接続する「中学校の教育を完全に」することについては具体的な提言がなかった。この点
をめぐって以後学制改革問題についての諸見解は動揺していたといってよい。
以上の久保田案,学制改革同志会案は,修業年限短縮論,低度大学(実用大学)論,完 全高等普通教育論によって構成されていたが,これに反対したのが菊池大麓,外山正一等 の帝国大学関係者であった。とくに低度大学構想に対して強く反対した。
菊池は低度大学論に対して,研究と教育の二機能を発揮しない大学は大学とは言えない こと,大学で養成する学力は専攻分野に関して調査研究を遂行しうる能力であり,またそ の能力こそが「国家ノ須要に応ズル」学力であると主張した。低度大学論の主張する実際 13)
家的人材の供給に関しては,
成ル程低イ程度ノ即チ唯今ノ高等学校専門部位ノ卒業ノ人モ必要デアル,沢山必要デアル,沢山出 ナケレバナラヌ,ソレ故二高等学校専門部ヲ沢山設立サレテ多クノ学生ヲ入レテ卒業サセルト云ウ コトハ最モ今日必要ナコトデアリマスガ,併シナガラソレデハ大学ノ卒業ノカトハ本員ハ言ハレナ
イト考ヘル
14)
と述べ,それは大学とは区別された専門学校の増設によって行われるべきだと主張した。
完全高等普通教育論に対しては,
…今日不完全ナル中学校ヲ卒シテ来タナラバ高等学校ノ程度ト言フモノハ自然下ラナケレバナラ
ヌ,サウシタナラバ大学へ来ル所ノ入学生ノカモ下ルデアラウト云フコトヲ心配シテ居ルノデアリ マス。今日ノ中学校ノ有様デハ不都合デアル学科ノ課程二於テ総テノ設備二於テモ改良ヲ加へ之ヲ 改正シナケレバナラヌコトハ事実デアリマス。併シナガラ是ハ学制変更デハナクテ学科課程二於テ ノ変更デアルト本員ハ考ヘルノデアリマス。14)
明
と述べ,学制改革の問題でなく学科課程の改変の問題であると論駁した。そして,最後に 学制改革の提唱者は実は,学科課程の改正,学校増設,低度大学創設を論じており,前二 者は学制問題と関係のないことである。低度大学論は大学の本質にかかわる点で反対せざ るを得ないと主張した。
ハ.高等普通教育の整備
以上のような学制改革的問題状況の中で,中学校=高等普通教育整備の諸施策が推進さ れた。中学校令改正,中学校編制及設備規則,中学校及高等女学校設置廃止規則,師範学 校中学校及高等女学校建築準則,中学校生徒入退学及表簿二関スル規則(以上明治32年),
教員免許令(33年),中学校令施行規則(34年3月),中学校令施行規則中改正,中学校教 授要目(以上35年2月)等が制定された。とくに後二者は菊池文相就任後になるもので注
目させられる。
中学校令は,府県に「一個以上ノ中学校ヲ設置スヘシ」と中学校設置を義務づけ,さら に文部大臣が必要と認めた場合,府県に中学校の増設を命じることができるとした(第2 条)。しかし,他方では,1学校の生徒数を400名以下(特別の事情ある場合は600名迄)
とし,1学級の生徒数は35名以下(特別の事情ある場合50名迄)とした。その他教職員定数 施設設備基準を詳細に示した(中学校編成及設備規則)ほか,前掲の諸規則を制定した。
これらは中学校令施行規則に整理吸収されることとなったが,いずれも高等普通教育の水 準確保に関する事項であった。したがって,中学校教育の機会の拡大普及をはかる一方,
高等普通教育の内容水準の確保ないしは発展のための諸施策が講ぜられたとみることがで きる。高等普通教育は「中等以上ノ社会二於ケル男子二必要なる品性ヲ具ヘシメンコトヲ 期シ」(中学校令施行規則第2条)人物養成にあたると同時に高等教育の基礎教育にあたる ものとされ,学科課程は修身,
…表6 毎週教授時…数(明34) ()内は明35.改正
[第1学年121341・計
漢 地 化経 及国
・ 及及 史 理制
語 1
7
7(6)
3(4)
3 2
1 1
3 28・28
1
7 75(4)
3 2
1 1
3 30⑳1
6 75(4)
3
(2)
4(3)
1
3 30
1
66(7)
4
3(4)
4
3(2)
3 30
5 (5)
33 ㈱ 34 ⑬ 20 ⑳ 15 ⑯
6 (8)
8 (7)
3 (2)
4 (4)
3 (3)
15 ⑮ 146(145)
国語及漢文,外国語,歴史,
地理,教学,博物,物理及化 学,法制経済,図画,唱歌,
体操の学科目によって構成さ
れるものとした。普通教科の
うち,外国語,数学,国語及
漢文の占めている比重は大き
い。このことは,高等教育の
予備課程としての高等普通教
育の性質とかかわっていた。
学科目に法制及経済科が加えられたことは注目に価する。この種の学科目は,明治19年以 15)
来学科課程から除外されていたからである。しかし,法制及経済科は「之ヲ欠クコトヲ得」
(第1条)とされたため,必ずしも実施成績はよかったとは言えない(表6)。また,翌 年2月,中学校教授要目が制定されて,教育内容上の一一定水準の確保が図られた。
これらは,完全普通教育論に対する中学校施策レベルでの一定程度の解答であつたとみ
ることができる。§3 菊池の大学予備門案と専門学校令
イ.修業年限短縮と大学予備門案
明治35年1月,学制研究会は「中学校及大学校改正法案」を作成して,議会に提出しよ うとした。同法案は,「改正の目的」を,
16)
…目下其の設備最も不完全にして年々数千の学生をして入学の途を失はしめ容易ならざる弊害を 生じつつある所の高等教育問題を解決し国民の財力と体力とに相当せる制度に率由せしめんとす
るに在り…17)
として,前述の学制改革同志会案をより具体化した案を提示していた。その要旨は,
1) 中学校を中学(5年)及び高等中学(3年)とし,中学は予科(2年以内)を置くことができる 中学は尋常小学校(4年)卒業者を入学させ,高等中学は中学卒業者を入学させる
2)大学校を大学及び帝国大学とする 大学(3〜4年)は高等中学校卒業者を入学させる 帝国大 学(4個以上の大学及び大学院をもって構成)は当分大学予科を置くことができる。
3) 中学及び高等中学は地方費を以て設立維持し,高等中学は各府県原則として1校とする
大学及び帝国大学は国費を以て設立維持する私人は中学校及び大学を設立することができる 17)
というものである。修業年限短縮,低度(実用)大学,完全高等普通教育論を体制化し,
より現実的基盤にのせようとするものであった。帝国大学を学制の主流からはずという見 解をとっていない点も注目される。
このような動きに対して,菊池文相(明治34年6月就任)は同年11月高等教育会議にIO件 にわたる諮問案を提出してこれに応じた。「学制改革問題」にかかわるものとしては,諮 問案第3〜6号の「中学校二関スル事項」「高等学校二関スル事項」「専門学校二関スル事項」
「実業学校令二関スル事項」等であった。これらの諮問案の骨子となるものは,1)帝国
大学は従来通りとしてこれを存置する2)高等学校はこれを改廃する イ)高等学校専門
学部はこれを専門学校とする ロ)高等学校大学予科はこれを大学予備門とする 3)当分
の間中学校に補習科を設けて大学予備門に進学させる とするものであった。そのねらい
は高等学校制度の廃止と大学予備門(2年)化による修業年限短縮の要望にこたえ,専門
学校制度の確立による低度実用大学提唱者への解答をなそうとするものであった。さらに
完全高等普通教育論に対しては,菊池の持論であった学科課程等の改変による中学校の質 的な充実をはかることを基本とし,「当分の間」中学校補習科によって不足を補うとする 見解に立つものであった。それは久保田案に対する貴族院での論駁に基礎をおくものであ
ったといえる。
高等教育会議においては,大学予備門案に対して主として帝国大学関係者側委員から,
帝国大学進学者の学力低下が不可避であると強い反対をうけて否決されるにいたった。し たがって,中学校補習科案も否決された。専門学校制度の確立案については多数の賛成を 得て可決された。
ロ.低度大学論と専門学校制度
かくして明治36年3月専門学校令が公布された。専門学校令は,「高等ノ学術技芸ヲ教 19)
授スル学校ハ専門学校トス」(第1条)と専門学校の目的,性格を規定し,中学校卒業者
(もしくはこれと同等の学力を有する者)を入学させる,官公私立による,修業年限3年 以上の学校とする。専門学校は予科,研究科及び別科を置くことができるとした。
以後専門学校は,高等普通教育の基礎の上に高等の学術技芸を教授する学校として制度 的な位置づけを与えられ,「国家有用ノ人材」 の需要に応じて急速に発展をとげていく
(表7)。
かくして,低度実用大学論の論拠の相当部分は専門学校制度の確立によってこれに吸収
されたといえる。表4 専門学校数及び生徒数(予科をふくむ)
1明治3・
39 42 45大正列 ・
校徒 教教
学生 47
22445
,
62 30,819
74 33,471
85 33,944
88 38,666
96
49・ 348 i
帝国大学とこれに連絡する高等学校大学予科の体制は存置させられたため,専門学校制 度の発足は高等教育における二重制を前堤としており,以後の両系統の教育機関の増設拡 大は高等教育にける格差構造を深めていくこととなった。
ハ.中学校補習科案と高等普通教育
さて,ここで否決された大学予備門案に関連づけられていた中学校補習科改革案なるも のをみておきたい。菊池は完全高等普通教育論に対しては中学校教育の質的充実論を主張 し,それは学科課程等の改変によって可能だと主張していた。案では補習科の修業年限を
1年とし,さらに6ケ月以内延長できることとし,その学科課程を次のごとくにしていた
(表8)。
すなわち,大学予備門進学予定 者には,外国語,数学,国語及漢 文を重点的にとりあげ,特に外国 語を重視した。進学を予定しない 者には外国語と実業科を重点的に 学習させ,実業要項によって「幾 分の専門的教育を授くる様」配慮 した。両者に外国語の学習を強調 した点,また後者に実業要項を学 習させようとした点注目される。
中学校教育の弱点を外国語の教育 に見出しているものであり,進学 を予定しないものへの実業科の学
表8 中学校補習科改正案(明35)
実業要項ヲ課セ 実業要項ヲ課ス サル生徒 ル生徒 修 身
外 国 語 国語及漢文 数 学 物理及化学 歴史及地理 博 物 図 画
実業要項
体 操 計
1
、。,1
X3°「
iii隣
三
1
10 3 3 28以下
8 30 実業要項(経済,簿記,商事要項or農事要項)
実業要項は之を欠くことができる。
修業年限を延長した場合学科目のいくつかを随意科目と することができる。
科目の復活を必要とみた措置であるからである。
菊池は,高等普通教育の充実方策の一環としての学科課程の改変を主張したが,改変の 具体的方針に関しては必ずしも明確な見解を持していたとはみられなかった。以下に記す るものは第6回高等教育会議(明治34年11月)での発言であるが,中学校教育の改革上の 諸問題を列挙して,学科課程問題も含めていたが,明治35年2月の施行規則中改正(表6 参照),教授要目制定とともに,補習科案もこの発言に対する一応の結着とみることがで
きよう。
…中学校は一種を可とするか二種を可とするか。中学校の修学年限は適当であるものであるか。
中学校に於ては英語以外の外国語をも奨励するがいいかわるいか。中学校の上に補習科(又は高等 科と申して宜しいか)さう云ふものを置いて更に現今の中学校より高等の普通教育又は幾分の専門 的教育を授くる様な制を設くるの可否。夫から高等学校に移りまして高等学校を今の様になし置く か,或は又只今申した中学校補習科又は高等科と云ふ様なものが出来ておらば,之を以て高等学校 に代用が出来るものであらうか。
20)
く
§4 小松原の高等中学校案と「中堅国民」の育成
イ.小松原の高等中学校案
日露戦争のため中断されていた学制改革問題は明治40年代に入って再燃した。
21)
この時点での中学校卒業生の進路状況と高等学校(大学予科)入学比率をべっ見してお
こう(表9,10)。進学状況については,一応専門学校への進学者が増加しているが,高等
学校入学者率は3〜2割の問を上下し,その入学者の大半が過年度卒業者であり,総じて 毎年進学が停滞し浪人を発生せしめていた(「未就職及未詳」の部分に相当程度含まれて
いた)。就職状況については年次を終るにつれてその絶対数が増大して来ている。
表9 各年度中学校卒業生の進路状況
1
明治38 39 40 41 42 43 44高 等 学 校
専 門 学 校
陸海軍学校及兵役学官其
校 教
公 他 業
員史務
未就職及未詳
死 計
亡
726 3,346 928 605 204 go1 3,164
53
9,927
684
3,299
570 676 271
1,572 3,958
47
11,077
832
3, 325
709 751 356
1,647 4,987 51 11,713
812
3,141
566 936
3ア3 1,193 3,987 7311, 781
827
3,249
491
1,111
235
1,743 4,057 56 11,769
1,198 3,957
779
1,835
335
1,962 5,641 89 15,790
1,279
4, 251
750
1,939
403
2, 235
5,82779
16, 763
表10 各年度高等学校入学比率
明治38 39 40 41 42 43 44
願学
者者率志入比 4,909
1,470 31.22
5,151 1,475 28.64
6, 004
1,847 30,769,807 2,009 20.49
8,0ア7
2,111 23.529, 27S 18,082 2,147 2,199
23.14 27.21
学制改革問題はどのように展開したか。たとえば,明治43年3月,外山他1名が衆議院 において帝国学制案を発議している。その要旨は次のようなものであった。
D大学校は大学院大学及び単科大学とし高等中学校卒業者を入学させる 大学校は国費により設置する 法人は単科大学を設置することができる 2)専門学校(30r4年)は尋常中学校卒業者を入学させる
3)中学校を尋常中学校(4年)及び高等中学校(3年)とし,府県は1個以上の尋常中学校を設 置し,高等中学校はこれを設置しないことができる
22)
この案が特に注目されるところは専門学校制度の確立以後の状況をうけて,新たに単科 大学昇格問題を登場させている点であった。その意味で学制改革問題に新たな要素が加え
られるに至った。しかしこの案は殆んど問題にされなかった。
また同月に「学制改革二関スル建議案」が衆議院を通過している。この建議案は,修業 23)
年限の長期にわたること,高等教育機関の不足,学科課程の不備等の点を指摘し,「現今 ノ学制ハ欠点頗ル多ク之力改革ノ必要ハ焦眉ノ急二迫レリ依テ政府ハ速二如上ノ積弊ヲ匡 正シ国家社会ノ実情二適切ナル制度ヲ定ムルコトヲ望ム」としめくった。
24)
・1・松原文相は,明治43年4月諮問案第1〜8号を高等教育会議iに提出した。そのうち第
2,3号が「中学校二関スル事項」 「高等中学校二関スル事項」であり,両者は密接に関 連しあったもので,「高等中学校案」と呼ばれるものであった。案の要旨は次のようなも
のであった。
1)高等中学校は高い程度の高等普通教育を為すことを目的とすること
2)高等中学校は公立,官立となすこと
3)高等中学校は修業年限を7年とし,中学科(4年),高等中学科(3年)に分けること
官立高等中学校は高等中学科のみを置くことができること4)高等中学校高等中学科は学科を分けて文科,理科をおくこと
5)高等中学校高等中学科に入学できる者は中学校第4学年修了者であること 6)中学校制度はそのまsとし,学科課程に実業科(第5学年)を加えること
小松原は高等教育における制度的二重構造を前提とし,帝国大学卒業までの修業年限の 短縮をはかること,予科制度としての高等学校を改組することをねらいとして,完全な高 等普通教育機関としての高等中学校制度の創設を意図した。すなわち,かっての低度実用 大学論は専門学校制度の確立によって達成されたとみて,残された「多年の懸案」であっ た高等学校(大学予科)制度の問題の解決に当たろうとした。しかし,それは低度大学論 と結びついたかつての完全高等普通教育論とは様相の異ったものであった。
さらに,中学校の現制を認めた上で7年制高等中学校案を提出したことは,中等教育な いしは高等普通教育の中に格差構造を持ち込むことであり,中学校制度に大きな影響を惹 き起こすものであった。
事実,小松原は高等中学校に「其卒業者に大学に入るの資格を有せしむると同時に地方
紳士の子弟等にして専門の学問を為すまでの必要なきも中学校の課程のみにて不満足なれ ば今一層高き程度の教育を修め且多少法律経済の知識を得て将来地方の紳士として社会に 立たんと欲する者も亦此処に入学して其志を成すを得しむる」とのべたように,新しい役 25)
割を付与しようとした。すなわち,帝国大学の基礎教育にあたると同時に「地方紳士」の 育成の役割を与えようとした。このことによって,高等中学校の理念を明確にし,増設の 根拠としょうとした。7年制高等中学校を本体とし,「地方紳士」の育成のためにも,「中 学二入ルノ初ヨリ高等中学校ヲ終ル迄,一貫シタ教育ヲ受ケルコトノ出来ル」ことが望ま 27)
しいとした。これは一面では,地方的エリート養成機能を,中学校教育がますます普及し ている状況の中で,新構想の高等中学校へ移譲しょうとするものであったといえる。
公立によるものを本体とし,将来は私立によるものを加えて,高等中学校を地方に多数 分散設置していく意図があった。地方に設置することは,青年子弟の地方での就学機会を 保障することになり,「健全な」「中堅国民」の育成には望ましいと考えていた。
28)
7年制高等中学校は,高等中学科(3年), 中学科(4年)に区分し,中学校から高等 中学校に連絡するのは中学校第4学年修了を以てなした。かくすることによって1力年の 年限短縮を実現することができるとした。連絡上の関係から,中学校第4学年までの学科 課程と高等中学校中学科の学科課程を共通のものとした。なお高等中学科のみの高等中学 校を認めるので,高等中学科の修業年限は3年としたという。何故なら,人物の養成は訓 育を重視しなければならない。訓育を可能ならしむるには最低3学年の学年集団の存在を 条件とするからであると主張していた。
ロ.高等教育会議における修正と高等中学校令
さて,高等教育会議における「高等中学校案」の審議は難i行し,再度にわたる特別委員会 の設置を経て,修正案を可決するにいたった。その修正案の大要は以下のようであった。
D高等中学校の設置は公立に限定せず,私立によるものも認めること 2)高等中学校の中学科の修業年限を5年とし,高等中学科を2年半とすること
3)高等中学校に高等中学科のみをおくことができる場合を官立のみに限定せず公私立にも及ぼす
こと4)高等学校入学資格者は中学校卒業者とすること 5)中学校の学科目の実科は必修科とせず随意科とすること
29)
すなわち,修正案は現行制度,なかでも中学校制度と調和させること(高等中学校と中 学校の連絡関係), したがって「7年制高等中学校ヲ本体トスル」 原則をとらないこと
(高等中学科のみの高等中学校と併存), 高等中学科を2.5年に短縮したこと(中学校卒 業期=3月,高等学校始業期=9月の半年の開きを利用)高等中学校設置を私立によるも のにまで及ぼすこと,等の見解と方策をのべたものであった。
修正答申に基づく勅令案はその後枢密院との関係でさらに修正される場面もあって,よ うやく明治44年7月,高等学校令として公布された。高等学校令は,原案と高等教育会議 の答申とかなりの距りのあるものとなっていた。
第1条 高等中学校ハ中学校ヲ修了セル者二対シ更二精深ナル程度二於テ高等普通教育ヲ為スヲ
以テ目的トス第2条高等中学校ハ官立トシ其ノ数ハ全国ヲ通シテ20校以内トシ1校ノ生徒定員ハ480人以内ト
ス第3条 高等中学校ノ修業年限ハ2年5月乃至2年6月トス 第4条 高等中学校ノ学科ヲ分ケテ文科及理科トス
第5条高等中学校二入学スルコトヲ得ル者ハ中学校ヲ卒業シタル者又ハ年齢16年以上ニシテ之
ト同等ノ学力アリト検定セラレタル者タルヘシ高等中学校令は現行制度と抵触しない枠内において,修業年限の1年短縮と,大学予科
制度の廃止と高等普通教育機関としての高等中学校の創設を可能にするものであった。高 等中学校数を十数校増設し各地方に分散設置するが,これらは,あくまで官立とし,帝国 大学の入学予定者の養成に関することを当局の管掌下におこうとした点が指摘できる。
「地方紳士」育成論は必ずしも受け入れられたとはいえない。
原案と特に異なる点は,公立7年制高等中学校を本体とする原則を採らなかったこと,
中学校第4学年と連絡することを採らなかった点であり,修正案と異なる点は公私立を認 めないとしたことであった。
ハ.中学校教育の改革(一)
高等中学校令は結局実施されるにいたらなかったが,高等中学校令,高等中学校規定の 30)
制定,公布をみた同日,中学校令施行規則の改正,中学校教授要目の改正が行われた。こ れは,中学校教育改革の問題が学制改革問題,とくに高等学校制度改革のそれと密接に関 連するものであると把握されていた事情による。この時点における中学校教育の改革は学 31)
科課程の改変であったが,高等中学校令と関連していたSめ,原案段階の学科課程改正案 と比較しながら考察し,改革の意義をとらえたい。
高等教育会議への諮問第2号で示された中学校学科課程改正案は以下のようなものであ
った(表11)。
表11 中学校学科課程案(諮問案第2号)
隣年12 3 ・li・
明35との
計比較増減
修 身
国語及漢文
外数
国語学
歴史及地理
博 物
物理及化学 法制及経済
実 科 図 画 唱 歌 体 操
計
この学科課程案の特色は,明治35年の学科課程と比して,国語及漢文,外国語,数学が
重視され,毎週教授時数が各2時あて増加していること,他方,実科(6時),法制及経
済科(1時増)のような実用的教科が重視されている点である。そして,国語及漢文,外
国語,数学をはじめとして普通教科が一般に第4学年以下で多くの時数があてられており
第5学年では前述の普通教科にあてられている時数が格段に少なくなっており,代って実 科,法制及経済科の実用的教科が多くの時数をとっている。このことは,高等中学校中学 科の学科課程案が中学校第4学年以下のそれに準拠するとされていた(諮問案第3号)こ
と,高等中学校(高等中学科)と中学校の連絡を第4学年修了を以てするとされていたこ とからも首肯されるところである。第4学年までは基礎教育の段階(あるいは上級学校進 学の予備教育),第5学年は「完成」教育の段階(あるいは就職のための実際的教育)と いう学年段階による学科課程編成方針がみられた。修正案の段階で,高等中学校中学科の 修業年限は5年とする,高等中学校(高等中学校)との連絡は中学校卒業を以てする,実 科は随意科とするときまった。この場合,学科課程改正案はつくられなかったけれど,学 科課程編成の上で原案が示したような,高等中学校中学科は同等学年段階までの中学校学 科課程に準拠させるというような明確な方針(きれいごと)では対処しきれなくなってい る。どうしても2本建ての学科課程が必要となって来るし,中学校の学科課程編成自体が 高等中学校との関連で複雑な要素をかSえることになったろうと考えられる。
高等中学校令によって,2.5年制の高等学校のみを設置することになったsめに,中学 校の学科課程の改変の作業はより単純になったものと考えられる。
中学校施行規則の改正による学科課程は次のようなものであった(表12)。
表12
明治44年中学校学科課程
陣1学年12 3 4 5 計 明35との 比較減増 修 身
国語及漢文
外 国 語 数 学
地理歴史
博 物
物理及化学 法制及経済
実 業 図 画 唱 歌 体 操
計
31⑬1 i 5
6 } 34
7 34 4 21 3 15 − 8
2 i 2418
(2) 1 (4)
1 1 5
− 3 3 1 15 31㈱115°(154)
O
十1 十1 十10 0
十10
十(4)
十1
0 0
原案のような第4学年以下と第5学年の明白な性格区別はとくに見られない。国語及漢
文,外国語,数学が各1時増となっており,これらの学科目の強調の方針は再度貫かれて
いる。随意科とすることができる実業科が第4,5学年で各2時数あて導入されたことが
特に指摘できよう,明治32年の中学校令改正以来,一時姿を消していた実業科がかくして
学科課程にくりこまれるにいたった。
3D 二.中学校教育の改革(二)
以上,学制改革,高等学校制度の改革と関連する側面から,学科課程改変にともなう一 学科目の時間配分等の枠組みの問題に注目してきたが,さらに中学校教育の目的,性格づ けの改変とそれに関連する学科課程を構成する学科目内容の改革等について若干の考察を
しておきたい。
中学校令施行規則改正の趣旨説明において,中学校教育の目的性格づけを次のように行
っている。中学校ハ男子二須要ナル高等普通教育ヲ施シ将来国民ノ中堅タルヘキ国民ヲ養成スル所ナルヲ以 テ品位ノ陶治人格ノ修養二重キヲ置クヘキハ勿論各学科目ノ教授二就キテモ益々其ノ進歩改善ヲ
図リ以テ中学教育ノ完成ヲ期セサルヘカラス
32)
高等普通教育を敷えんして「中堅タルヘキ国民」育成の役割を荷うべきものとされ,そ のため特に訓育的側面が強調されている。もう一つは中学校教育の完成が強調された点が 注目される。訓育的側面の強調,完成教育的配慮が学科課程改変の方針とされた。
33) ・ ● ● ● . . ● ● ● ● ● ●
「方今ノ情勢二鑑ミ中等以上ノ国民タルヘキ性格ヲ酒養シ其ノ生活ノ実際二適切ナル普通 ノ知能ヲ確得シ身体ヲ強健ナラシムル」ことに留意し,「中学教育ノ本旨ヲ貫徹」し,「完 32) 32)
成」の実をあげることが強調されたのである。
完成教育がこXでは生活の実際に適切な教育の側面でとらえられていると言ってよいで あろう。これは一面では,エリー一一 F教育の機能が高等中学校に移譲され,下段階の高等普
通教育がより大衆的な実際的教育に移行される過程であるとみることができる。
具体的には,「勤労ヲ重ンスルノ美習ヲ養成セシムル」実業科の設置,「生徒身心ノ鍛練 32)
上」有用な体操科における「撃剣及柔術」の採用,「規律アル生活二馴レ秩序アル修養ヲ
32)
為シ風紀ヲ厳粛ニシテ善良ナル校風ヲ作ラシメンカ為」の寄宿舎設置の強制,ならびに,
32)
「国家,社会及家族二対スル責務」を知らしめ,「特二我国道徳ノ特質ヲ悟ラシム」修身,
32) 32)
r国体ノ特異ナル所以ヲ明ニシ兼テ国民性格ノ養成二資スル」歴史,国語等を中心として 32)
「国民的精神の洒養に重きを置」ぎ,「努めて教育を実際的ならしめんが為に」行われたと 34) 34)
いわれる中学校教授要目の改正,の諸点があげられる。また教授要目の改正にさいして,
「間tt新奇の学説を喜び,前後を顧みずして直ちに之を学生に伝ふるの傾ありて,徒らに 青年の思想を混乱せしむる場合も亦少から」ぬ,「学者教育家」をしりぞけ,文部省視学 官をしてその調査にあたらしめたということも注目される。
34)
ところで,明治40年代はわが国の天皇制政治構造の動揺と危機を迎え,第1回目の体制
的再編の時期であったといわれる。日露戦争後の急激な資本主義の発展と成熟は,社会構
35)
造に変化をもたらし,都市の発達と農村に対する資本主義の浸透にともなう農民の階層分 化の進行,農村青年の離村等をもたらし,共同体的秩序(原理)に深刻な亀裂と動揺をも
たらした。一方では,共同体的秩序を否定し,人間の内的解放と体制の変革を主張する自 然主義,社会主義思想が拾頭している。戊申詔書や家族国家論の強調は,こうした事態に 対応する体制的再編のイデオロギー的次元での補強工作であったとみられるが,教育内容 施策もこのような背景と意図のもとでなされたとみてよい。
義務年限の延長が実現され,国民教育の体制をとSのえ,高等教育機関の拡張もある程 度達成し・帝国主義段階の国際競争に対応する教育制度をとsのえつxある段階で,高等 学校制度にメスを入れることによって,高等教育へのルートとしてまた中堅国民 (「地方 紳士」から「中等国民」と呼ばれて多層的に把握されていた)の育成による共同体的秩序 再編の地方的にない手の造出をねらった学制改革と教育内容施策であったとみることがで きる。高等中学校令の運命にみたように「地方紳士」育成の制度化には必ずしも成功して いないが・中学校令施行規則改正同教授要目の改正は,高等普通教育の下位段階の「健全 な中等国民」の育成の体制化の施策であったと意義づけることができよう。
36)
§5臨時教育会議の答申と中学校教育問題
イ.教育調査会と中学校制度
高等中学校令の実施を無期延期に付した奥田文相は,大正2年6月高等教育会議を廃止
して教育調査会を設置した。同6年9月臨時教育会議の設置によってとつて代られた短命 37)
の機関であり,学制改革案を審議したが,決定するにいたらなかった。
この時期の学制改革問題は新たな様相を呈していた。すなわち,公私立大学及び(官 立)単科大学昇格問題であり,他は一般教養を中心とする新大学設置要求であった。こX では,これらの問題をふくむ学制改革案における中学校の位置づけの問題に関心を払って みたい。一木文相は大正3年6月,大学校令案を諮聞している。この案は,帝国大学,高 等学校制度の問題にはふれずに,
1)高等の学術技芸を教授する学校は全て大学校とする 官立の単科大学を認める 公私立の綜合 制単科制大学を認める
2)大学校に予科を設け,その修業年限,入学資格は高等学校に準ずる 38)
とした,専門学校の大学昇格問題に関するものであった。この案は新大学校は高等学校に 準ずる予科に接続するものとしていたので中学校のあり方に直接変更をもたらすものでは なかった。この案が諮問に付されると菊池委員は全く別個の案を提出して審議を求めた。
案の要旨は,
1)高等学校を廃止して,修業年限4年の学芸大学校(高等普通教育を行なう)とする 2)専門学校は専門大学校あるいは学芸大学校とする
3)帝国大学は下部に学芸大学部を設け,その上に専門学部を設ける 専門学部には学芸部あるい は学芸大学校2年修了者を入学させる
4)中学校補習科(当分の間とし,中学校教育の完備をまつて廃止)より進学する学校をすべて大 学校と称する
39)
以上のようなものであった。かって,「大学予備門案」を提出した菊池が,この時点 で一転して,一般教養を中心とする大学の設置を要求する「学芸大学案」を提出したので ある。わが国の大学の理念,職分に新たな視角を投じるものであり,また中学校を大学の 基礎課程として,これに接続するものとしての位置づけを与えようとするものであった。
一木案や菊池案等をふくめて審議を付託された特別委員会が,また個別の案を作成した。
「特別委員会案」の要旨は次のようであった。
1)公私立大学,単科大学は認めるが,大学の目的は帝国大学令の規定に準拠すること
2)帝国大学も新設大学も高等普通教育機関としての高等学校(公私立制もみとめる)より進学す
るものとすること40)
この案は新大学は帝国大学の目的性格をモデルとして高水準を保持すべきものとされ,
新大学との接続も高水準を裏付けるため高等学校(高等普通教育機関)によるべきことと して,中学校との接続を斥けていた。
40)
この案の審議に入る以前に,菊池と高田等が,教育調査会の総会に,
中学校卒業者ヲ収容シテ之二4箇年以上ノ教育ヲ授ケル学校ヲ大学トス 41)
という提案を行い,可決させるにいたった。すなわち,新大学はすべて中学校に接続する 低水準の大学であるべきだとしていた。
大正4年8月高田文相に就任し,翌月大学令案を教育調査会に諮問した。この案は大学 の目的を次のように規定していた。
第1条 大学ハ高等ノ学識及品格ヲ備へ社会ノ指導者タルヘキ須要ノ人材ヲ養成シ及学術ノ藻奥
ヲ攻究スルヲ以テ目的トスその他については,次のような事項を規定している。
1)公私立の大学を認め修業年限は4年以上とすること
2)すべての大学は研究科を設け,その他学術研究に必要な設備を設けること
3)中学校もしくは修業年限5年以上の高等女学校卒業者を大学入学資格者とすること 42)
この案は教育調査会特別委員会を通過し,総会での可決通過の見通しはついたものS,
貴族院側の少数委員に強い反対があり,枢密院の態度が不測という事情のもとで,審議延
期が申し合わされた。教育調査会における学制改革案はいずれも可決にいたらず,膠着状
態におかれた。
以上みて来たように,この調査会では大学昇格問題が中心となり,その間に大学の理念 や職分の問題が問われ,大陸的大学観から英米的大学観への重点移動がみられている。そ のことS関連して,高等学校(高等普通教育)と中学校のいずれを大学教育の基礎課程と
して位置づけるかS 問題となり,中学校をしてその位置づけを与えようとする見解がかな り有力であったことは注目に価するというべきであろう。
口.臨時教育会議と高等中学校案の復活
臨時教育会議は内閣に置かれた強力な審議会であって,その答申事項は殆んど間断を置 かずに実施された。第1次大戦後にそなえて,「中外ノ情勢二照シ国家ノ将来二稽へ一…
教育二関スル制度ヲ審議シ其ノ振興ヲ図ラシムルノ必要ヲ認メ」主として教育内容の改革 43)
と懸案の学制改革問題を解決することに努めた。教育制度全般にわたる9つの諮問事項の
答申と2つの建議がなされたが,特にごxで関係のあるものは諮問第2,3号の「高等普通教育」「大学教育及専門教育」に関する件であった。
これらの答申は順次なされた。「男子ノ高等普通教育二関シ改善ヲ施スヘキモノナキカ 若シ之アリトセハ其ノ要点及方法如何」という諮問第2号に関し,答申は2回にわたって なされた。第1回は制度改革に関する事項であり,第2回は教育内容方法その他に関する 事項であった。ng 1回の答申(大正7年1月)は小松原の「高等中学校令案」の復活と言 いうるもので,次の点で若干異なっていたにすぎない。
1)高等中学校の名称を高等学校としたこと
2)高等学校の設置を官立,公立に限らず私立によるものを認めたこと
3)高等学校の上に修業年限1年の課程(専攻科)を置くことができること
4)ア年制高等学校尋常科ならびに中学校には予科を置くことができること専攻科を設置することができるとしたのは,「之二依リテ最高等ノ普通教育ヲ受ケタル 紳士ヲ養成」するためだと説明されている。予科については,初等教育から一貫教育の途 44)
を開くためとしている。
45)
答申(=)(大正7年5月)においては,教育内容方法等の改善の諸点をあげたものである が,次の事項がこSでは注目されよう。 ・
1)高等普通教育においては,国体観念の酒養に努め,真に国家の中堅たるべき人物を陶冶するこ
とに重点をおくこと2)高等普通教育においては,学科の連絡統一を図って,理解力と独創力の啓発につとめ,準備教 育の弊害を除去すること
3)中学校の学科課程を改正し,上級学年の選択範囲を広くし或は「分科ノ制」を設け,実際生活
に一層適切な教育を施すことf