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授業の中の教育評価

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(1)

授業の中の教育評価

Educational evaluation in lesson.

小 林 敬 一

Kellchi KoBAYASHI

(平

成12年

10月 10日

受理

)

要約 :授 業場面 における教育評価 には、 授業のや りとりか ら切 り離 され外在化 している評価 と、

授業のや りとりの中にあ くまで も内在化 している「評価」 とがある。本論文では、両者 を区別 し、後者の独 自性や意義 を前者 と対比 させ ることによって浮かび上が らせ ること を試みた。 まず、外在化 している評価の場合、評価 と教授学習が基本的に分離 している ため、両者 をどうつなげていけるかが常 に問われ るのに対 して、内在化 している 「評価」

の場合、 まさに内在化 しているとい う事実 により、その こと自体 を問題 にする必要がな い。むしろ、内在化 している「評価」では、授業のあ り方 との緊密な関係 こそが問題 に なる。例 えば、「評価」のあ り方 を変 えてい こうとする試みは授業のあ り方その ものを見 直 してい く試みを必然的に伴 う、な ど。 また、教授者が「評価」を担 う授業 においては、

教授者 に、学習者の発言やふ るまいが有する可能性 をそのつ ど見抜 き対応で きる力量が 要求 され る。内在化 している「評価」へのアプローチは、外在化 している評価へのアプ ローチ とは基本的に異なる原理・ 前提 を必要 とするのである。本論文の後半部分では、

以上の議論 をさらに、学習者 による自己評価 。 「評価」の問題、近年そのあ り方に変化 し つつある授業 における「評価」の問題 に広げ、検討 を加 えた。

1。

授業の中の「評価」

これ まで、授業場面 における教育評価 に関 して少なか らぬ議論や実証的・ 実践的研究がお こ なわれてきた。ところが、そうした中で奇妙なほど議論や研究の対象にされて こなかったのが、

授業の中にあって、その教授学習の相互作用の一部 をなす「評価」である

1。

それは、同 じ授業 場面でお こなうといって も、形成的テス トによる評価や自己評価 カー ドによる評価 な ど、授業 の合間や直後 に教授学習その もの と分 けてお こなう評価 とは区別 されるものであることに注意

してほしい (以 下、 このような評価 を「評価」 と表記す る

)。

授業の中の「評価」が もっ とも目に とまりやすいのは、授業のや りとりが「開始

(Initiation:

I)一 応答 (Reply:R)一 評価 (Evaluation:E)」 というパ ター ンをなす ときであろう

2。

I̲R― E

とは、次のエピソー ド

1、

2の ような教授学習のや りとりのパ ターンを指す (e.g"Lemke,1990;

Mchan,1979;Sinclair& Coulthard,1975)。

(2)

【 エピソード

1】 3

  

:

2

こ ど も 1:

4子

ど も 2:

子 ど もた ち :

6教   

:

7

8

【 エピソード

2】

  

:

子 どもたち

:

3教   

:

子 どもたち

:

5教   

:

え― と (机 の中か らカー ドを 1枚 とり出す )こ れは ?

(カ

ー ドを掲げる

)

鳥 鳥

(口 々に )鳥

うん、 うん鳥 (カ ー ドを黒板 に貼 る )ね

(机 の中か ら別のカー ドをとり出して )そ した ら―

(カ ー ドを掲 げて )こ れは ?

(黒 板 の「鳩」 を指 さ して )あ れなんて読 むの これ は ?

(口 々 に )は と

(「

鳩」の「鳥」 を手で隠 して )う ううん こっちだけ

(―

一斉 に )き ゅう

他になんて読む ?

(I) (I) (R) (R) (R) (E) (I) (I)

(I) (R)

(E,I) (R) (E,I)

どちらのエ ピソー ドにも、教授者の発問や指示

(I)、

それに対する学習者の言語的・非言語的応 答 (R)、 (自 分がお こなった発間や指示 に照 らした上 での

)学

習者 の応答 に対 す る教授者 の

フィー ドバ ック(E)か らなるや りとりのパターンが認められる

(ま

た、

Fig。

1参 照

)。

開始 (!)

[教 師 :発 間の前ふ り

]

教師の発問 (!) [教 師 :挙 手の要求

]

[生 徒 :応 答機会の要求

]

[教 師 :指 名

]

生徒の応答 (R)

教師の評価 (E) [教 師 :精緻化

]

b.Lemke(1990)に よる定式化

([]は オプション

)

評価 (E)

a.Mehan(1979)に よる定式化

日g.1卜

R―Eの

構造

フィー ドバ ックとしての「 E」 には大 まかに、その直前の「 R」 を肯定するか否定するかの

どち らかの機能が付与 される

4。

肯定の「 E」 であれば、「

I」

の中で教授者が意図 した教授内容

をめ ぐるや りとりはいちお う終結 し、 (た いていは教授者が主導権 をとって)次 の教授内容 をめ

ぐるや りとりに移行する。例 えば、上のエ ピソー ド 1を 見てほしい。 「鳥」の甲骨文 を描いたカー

ドをめ ぐる教師の発問「 これは ?」 に対 して (1、 2行 日

)、

子 どもたちか ら「鳥」という答 え

(3)

を得 (3〜 5行 日

)、

教師がそれを肯定的に「評価」すると (6行 日

)、

教師 と子 どもたちのや りとりは「木」の甲骨文 を描いたカー ドをめ ぐるや りとりに移行 している (7、 8行 日

)。

一方、

否定の「 E」 が来 ると、指示や発間をわか りやす く言い換 えた り、 ヒン トを与 えた り、指示や 発間の相手 を変 えるな ど、適切で正 しい「 R」 が得 られるまでや りとりが続 く (Mehan,1979)。

例 えば、エピソー ド 2が そうである。本論文では省略 したが、エピソー ド 2に 続 くや りとりか ら、教師が

1、

3行 日の発間で期待 していた「 R」 は「 く」であった ことが分かる。 ところが、

その発間に対す る子 どもたちの「 R」 は、教師が期待 していた「 R」 とは違 っていた (2、 4 行 日

)。

そのため、教師は、子 どもたちの「 R」 を「 うううん」と否定 し、発問意図を明確 にし

て もう 1度 、同 じ発間を繰 り返 した り (3行 日

)、

子 どもたちの「 R」 を正答 と認 めない ことに よって暗 にそれを否定 し、同時にヒン トを加 えた発間を繰 り返 している (5行 日

)。

「評価」 を踏 まえて、教授者が次の教授行動 を組 み立てる、同時に学習者が自分の理解や考 え方、知識 を確認 した りするな ど、教授学習過程 を調整す る機能 をもつ (Edwards,1993;Poole, 1990)と い う意味で、授業の中の「評価」はまちがいな く教育評価の 1つ である。本論文では、

授業の中の「評価」 を教育評価 としてあらためて とらえ直 した ときに何が見 えて くるのか、教 育評価研究の現状や これか らの課題 を考 えてい く上でそれが どのような意義 を有するのか、に ついて検討 したいし

2.外 在化 している評価 0内 在化 している「評価」

教育評価 をめ ぐる議論や研究ではこれ まで、評価 を教授学習 に活か してい くことの必要性、

あるいはその方法 について さかんに論 じられて きた

(e.g。

,Bloom, Hastings, &Madaus, 1971:鹿 毛 ,1996,2000;梶 田 ,1992;菅 井

,1996)。

例 えば、鹿毛 (1996)は 、教育評価 に関 して次のように書いている。 「教師に とっての教育評価 とは、自らの教育活動 を振 り返 り、より よ くするための ものである。 このプロセスは『理解→意味づけ→働 きかけ』 と記述することが で きるであろう。 まず、学習者の学習の状態 を『理解』 (把 握 )す る。…次の『意味づけ』 (解 釈

)が

重要 である。把握 した情報 をもとに、その情報の意味づけを教師の『ねがい』や『ね ら

い』 に照 らして解釈 しなければならない。

"・

(そ して )そ の『意味づけ』の結果 を次の『働 き かけ』 (実 践 )に 生かすべ きだろう (同 上 ,p.87)」 。 こうした ことをことさらに主張 しなければ な らない背景 には、教育評価が ともすると評価のための評価 にとどまり、教授者が意識的に努 力 し変 えようとしなければ、 よりよい教育活動 を実現す るための手段 になっていかない とい う 実状があると考 えられる。なぜ、評価活動 と教育活動 とが分離 して しまうのか ?鹿 毛 によると、

教育評価 に対す る一般的な誤解の 1つ として、「結果主義」があるとい う。結果主義 とは、一定 の教育活動の後 においてはじめて評価が問題 になるとする考 え方を指す。 こうした誤解が教育 現場やそれを取 り巻 く社会の中に根強 くあるために、評価活動 と教育活動が分離 されて しまう

というわけである。

しか し、 もっ と根本的な理由は、教育評価 をめ ぐる議論や研究で想定 されている評価がそも そ も、教育活動 (教 授学習 )の や りとりか ら切 り離 され外在化 している評価だか らであろう。

例 えば、 B100mら (1971)の 提唱する形成的評価 について考 えてみよう。形成的評価 をお こな

うにあたっては、教科書の 1つ の章で扱われる内容や 1〜 2週 間の指導で扱われる教材 をひ と

まとめにして学習単位 とし、そこで教 えられ るべ き内容 を、用語の知識、事実の知識、法則性

(4)

と原理の知識、プロセスや手続 きを利用する技能、変換す る能力、応用す る能力の 6つ のカテ ゴリーごとに個別 目標化 し体系化する (目 標細 目表

)。

そして、その目標細 目表 をもとに作成 さ れた形成的テス トを、ひ とまとまりの教材 を学び終 えた後、あるいは毎回の授業の後な どに実 施 し、テス ト結果 を踏 まえて次の教授学習活動が組 み立て られる。 このように見てい くと、確 かに、形成的評価では、評価 と教授学習が分かちがた く結びついているように見 える。ただ し、

その結びつ きが保証 されているのはあ くまで も、形成的評価理論の中での ことにすぎない。実 践の中では、両者 は容易に分離 され得 ることに注意 してほしい。梶田 (1992)に よると、評価 結果 をもとにして様々な教育的決定がなされるなら、期末テス トや学年末の成績表 など、一般 に総括的評価 と見なされるものであって も、形成的評価 としての機能 を果たす という。 この こ とは、逆 に言 えば、形成的テス トを実施 して も、 (実 施するだけで次の教授学習活動 に活かそう としないな ど

)扱

い方 しだいでは、形成的評価 にな り得ない ということで もある。形成的テス トの中にあらか じめ、形成的評価の機能が備 えつけられているわけではない。形成的評価の機 能 は、教授者が、 (教 授学習の場か ら分離 している)評価の場で学習者 を評価 した結果 を、教授 学習の場 に持 ち込み、教授学習 に活かす よう意識的 に努力す ることではじめて生 まれて くる

(Fig。

2a参 照

)。

教授者

│↑

教授学習

(「

評価」

)

学習者

教授学習の場

       

評価の場 a.外在化 している評価

教授学習の場・ 「評価」の場

b.内

在化 している「評価」

日 g.2教 授者による学習者の評価・ 隔判面」

それに対 して、授業の中の「評価」の場合、「評価」は教授学習のや りとりの一部 として授業 の中に内在化 している

(Fig。

2b参 照

)。

例 えば、

I―

R― Eが 大 きな割合 を占める教授者主導の一斉 授業 を考 えてみよう。第 1節 で も述べた ように、そうした授業では、今 ここにおける学習者の

R」 が適切か どうか、正 しいか どうかについて、教授者がそのつ ど判断 しそれをもとに行動 した り発言 した りしなければ (す なわち、「 E」 がなければ

)、

教授学習のや りとりが先 に進ん でいかない。教授者の「

I」

と学習者の「 R」 が交互 に繰 り返 されるだけのや りとりは、口頭 試間であって、教授学習のや りとりとはいえないだろう。少な くとも教師主導の一斉授業 にお いて、「 E」 は、教授者 と学習者のや りとりを教授学習のや りとりに仕立ててい く上で欠かす こ とので きないコンポーネン トなのである。当然、そこでは、「評価」をいかにして教授学習の場 に持ち込み、教授学習べ とつなげてい くか とい うことが原理的に問題 にな り得ない。

教授者

│ 

教授学習

 │

学習者

教授者 評価

学習者

(5)

ただ しその一方で、内在化 している「評価」には、教授学習のや りとりと一体化 しているが ゆえの問題がある。何 よりも、「評価」は授業のあ り方により敏感 に反応 し作用す る

(Farrar,

1988)。 例 えば、授業の中で、教授者があ らか じめ一定の答 えを期待 して学習者 に発間 をした と きに、その期待 にあ くまで も固執 して学習者の「 R」 を「評価」す る場合 もあれば、学習者の

「 R」 が期待 とは違 っていて も、そこに授業 をより面白 く深い ものにしていける可能性 を見出 し、その「 R」 を積極的に「評価」する場合 もあろう (Cazden,1988;Lemke,1990)。 前者の ような「評価」が中心の授業では、教授者が自らの既有知識・ 理解 を学習者 に一方的に伝達す るや りとりが多 く見 られ るか もしれない。一方、後者のような「評価」 を多分 に含んだ授業で は、教授者 自身の既有知識 0理 解 もゆさぶ られ、教授者 と学習者が一緒 になって新たな知識や 理解 を創 りあげてい く方向にや りとりが進んでい く様子が多 く見 られ るか もしれない。内在化 している「評価」の場合、そのあ り方を考 えてい くということはそのまま、授業のあ り方を考 えてい くとい うことを意味する (こ の問題 についてはさらに、第

3、

4節 で とりあげる

)。

また、内在化 している「評価」では、学習者の発言やふ るまいに対 して即座 に「評価」 を返 さなければな らない (あ るいは、返す ことを控 えなければならない )た め、教授者 には、学習 者の発言やふ るまいがその ときの授業の展開にどのような意味 を持 っているのかを瞬時に見抜 き対応する力量が要求 される。次のエ ピソー ド 3な どは、そうした力量が現れた 1つ の例であ ろう。

【 エピソー ド

3】

   

師 :(カ ー ドを掲げて

)読

めるかな ?

2[子 どもたち :は と

   

師 :あ ―わかったね―、 う―ん、 これは、鳩、ね ?

子 ど も 1:鳥 が 9匹 や

   

師 :じ ゃあ、 ううん今なんていった ?

子 ど も

1:鳥

が 9匹 や

   

師 :そ ういう意味で鳩 になったんで しょうか ?

子 どもたち :違

   

師 :ど うして鳩 ってい う字が こんな字 になったんかな ?

教師が「鳩」 とい う漢字の読みを子 どもたちに確認 した (1〜 3行 日

)直

後 に、子 どもの

1

人が「鳥が 9匹 や」とい う発言 をした (4行 日

)。

この発言 は、教師の発問や指名 を待たずにな

された という意味で、教師があらか じめ期待 していた

I―

R― Eの や りとりか ら逸脱 していること に注意 してほしい (ま た、 3行 日の教師の発言「 これは、鳩、ね ?」 とい う確認の問いにも呼 応 していない

)。

実際、その発言 を耳 にした教師は、「 じゃあ」と言いかけた発言 を途中でやめ、

「 ううん今なんていった ?」 ともう一度、子 ども 1に 発言 を繰 り返 させている (5行 日

)。

教師 に とって、子 ども 1の 発言 はいきな り耳 に飛び込んできた予想外の発言であったわけである。

このような ときには、子 どもの発言をあ くまで も逸脱 として とらえて、それを無視 した り、発 言 した こと自体 を否定す るような教師の対応が見 られて も不思議ではない (Mehan,1979)。 と

ころが、エ ピソー ド 3の 場合、教師は、子 ども 1の 発言 を無視・ 否定せず、むしろそれが次の

展開に生かせ ることをその場で見抜 き、積極的に とりあげている (7、 9行 日 )5。

(6)

エ ピソー ド 3の ような例 は、 1つ 1つ を見れば、 けっして大 げさな ものではないが、授業の 要所要所でそうした例が コンスタン トに見出されるようになるためには、教授者の側 に、佐藤・

岩川・秋田 (1990)の い う「即興的思考」「文脈化 された思考」に裏打ちされた一定の力量が備 わっていなければな らない。即興的思考 とは、授業の流れの中でその都度、考 えてい く思考の し方であ り、文脈化 された思考 とは、授業の中の発話・ ふるまいをそれ単独で とらえるのでは な く、前後の発話・ ふ るまい、その場の状況、授業全体 との関連の中で とらえてい く思考の し 方である。佐藤 らの研究では、初任教師 と (創 造的な授業実践 をお こなっている

)熟

練教師 を 比較 し、後者の方が 2つ の思考 に優れていることを見出 している。つ まり、 2つ の思考 は、教 授者 にあらか じめ十全 な形で備わっているものではな く、授業の実践的経験の中で、獲得 し成 長 させてい くものなのである。 この とき、 2つ の思考 に裏打ちされた力量 は、授業の前 に目標 細 目表 を作 った り、テス トの結果か ら各学習者の状態 を分析・ 解釈 した りで きる力量 とかな ら ず しも同 じではないことに注意 してほしい。

現実の教育実践では、内在化 している「評価」 と外在化 している評価が個々ばらばらに機能 するわけではな く、両者が有機的に結びつ くことでそれぞれの教育評価 としての機能が うま く 発揮 され ると考 えられる (金 子 ,1999ab)。 しか し、だか らといって、後者の前提・原理 をその

まま前者 にあてはめることはで きない。少な くとも教育評価の研究 においては、両者 を明確 に 区別 し、異なる前提・ 原理 にもとづ く教育評価 として授業の中の「評価」 にアプローチ してい

く必要がある。

3.自

己「評価」

前節 までの議論 はもっばら、教授者 による学習者の評価・「評価」に対するものであるが、同 じ議論 は、教授学習面 における学習者の自己評価・「評価」について も成 り立つ。本節では、 こ の学習者の自己評価・「評価」 をとりあげ、検討することにしよう。

教育評価研究の中には、教育場面 における評価の重心 を教授者 による学習者の評価 (教 授者 評価 )か ら学習者 自身 による自己評価へ と移 していかなければならない ことを謳 った議論や、

それを試みた実践研究が数多 く見 られ る (e.g"梶 田 ,1992:北 尾 ,1996;安 彦 ,1987:全 国教 育研究所連盟

,1989)。

こうした自己評価 に関する議論・研究 は一般 に、次の 3つ の見方 を共有

している

6。

(1)学 習者の自己評価 はいつで も適切であるわけでな く、そこには改善の余地があるとされ る。

そして、学習者の自己評価が適切でない という場合、その直接的な原因は学習者の自己評価 能力・ スキルにおかれる。学習者の自己評価能力・ スキルが未熟 なために、適切 な自己評価 がで きない というわ けである。

(2)学 習者の自己評価が適切 にお こなわれ るよう、教授者 は、学習者 に直接的に働 きかけ、その 自己評価活動 を支援することがで きる。 この とき、教授者の支援 をうけた自己評価活動 は、

学習者の未熟な自己評価能力・ スキルを発達 させ るための手段 として位置づけられる。

(3)教 授者評価か ら、教授者の支援 をうけた学習者の自己評価 をへて、学習者 による自律的な自

己評価へ と進 んでい くことが、理想的な発達過程 とされ る。教授者が学習者 に対 してお こなっ

ていた評価や学習者の自己評価活動 に対する支援 を徐々にフェイ ド・ アウ トしていき、最終

(7)

教授者

支援 自己評価

│↓

学習者 教授者

│ 

教授学習

 │

学習者

的には学習者が自分一人で適切 に自己評価で きるようになることを目指すわけである。

教授者

│↑

教授学習

学習者

↓↑

自己「評価」

教授学習の場 自己評価の場 教授学習の場・ 自己「評価」の場

a.外在化 して いる 自己評価

      b.内

在化 している 自己「評価」

Fig.3自

己評価・ 旧町西」

この とき、 (1)〜 (3)の 見方で「 自己評価」 とい う場合ほ とん ど、教授学習活動のや りとりか ら 切 り離 され外在化 している評価がイメージされていることに注意 してほしい(Fig.3a参 照

)。

えば、小学

2、 4、

6年 生、中学 2年 生 に国語・ 算数 (数 学 )の 一学期の成績 を自己評価 させ た結果 を踏 まえ、 「自己評価 は、学年が進むにつれて、現象面 としては肯定的評価か ら否定的評 価へ と移行 してきてお り、 自己評価の傾向 として甘 さと厳 しさの差があることが伺 える (全 国 教育研究所連盟 ,1989,p.115)」 と報告する調査がある。そこでは、子 どもたちが、授業 をは じめ とする教授学習活動か らいったん身 を引いて、一学期 における自らの学習を振 り返 り、自 分の成績 を予想することを「 自己評価」 と呼んでいる。 あるいは、学習者の自己評価活動 に対 する教授者の支援の典型例 として、北鹿渡 (1996)の 次のような実践が挙 げられる。 まず、教 師が 自己評価項 目を選定 し、さらにそれを子 どもたちにとってわか りやすい ことばで表現す る

(意 欲・ 行動力 を「や る気」、発想力・ 思考力 を「考 える力」 にするなど

)。

その項 目に先週の 結果、今週のめあて、 自由記述欄 な どの項 目を含めて自己評価 カー ドを作成 し、毎 日の帰 りの 会の時に子 どもたちにカー ドに記入 して もらう (A〜 Dの 4段 階のいずれかに○ をつける

)。

週 の終わ りには、一番○の多い段階 どうしを線で結ぶ ことで自分の学習の様子 を視覚的にとらえ られ るようにし、子 どもたちに、それを見なが ら感想 を書いて もらう。教師は、その後で、子 どもの自己評価 カー ドを集めて各子 どもの自己評価 に赤ペ ンを入れ、返す。 この実践例 におい て も、 自己評価活動 は、子 どもが「や る気」や「考 える力」 を発揮 した り、教師がそれ らを育 てるために子 どもたちに働 きかけてい く教授学習活動その ものの外 に位置づけられている。

確かに、現在の学校教育では、外在化 している教育評価 に占める教授者評価の比重が大 きい。

学習者 を自律的な学習者 に育ててい くためには、そうした教授者評価の一部で も学習者 自身に

よる自己評価へ と移 し替 えてい くことが必要か もしれない。 また、自己評価 を外在化 した もの

として想定 している以上、それを適切 な ものに変 えてい くためには、あ くまで も外在化 した形

の自己評価がお こなわれ るところで、教授者が直接、学習者の自己評価のし方に働 きかけた り

学習者が意識的に自らの学習活動 を反省する機会 を設 けることも必要であろう。

(8)

ただ し、第 2節 までで明 らかにした ように、教育場面 における評価 はなにも外在化 している ものばか りではない。 そこには内在化 している「評価」 もあるのであ り、内在化 した形での自 己「評価」 もあ り得 る。学習者の自己「評価」 は、教授者「評価」ほど意図的・ 意識的なもの ではないか もしれないが、教授者の「評価」 に先だって学習者が自分の考 えを自ら「評価」 し ている様子か ら、それ とわかることもある。例 えば、次のエ ピソー ド 4を 見てほしい。

【 エ ピソー ド

4】

教師

:う

ん、あ民枝 さん

民枝 :え っと甲骨文がかん、違 うか もわか らないんだけど甲骨文 を、関係なし

3    

にして

教師 :う

民枝 :な んか、やっば り、あの一、梅谷君のいった ように、あの伝書鳩 ってい

6    

う意味で、昔の人 はそういうふ うに使 っていたんじゃないかなあ と思 う

教師 :学

このエ ピソー ドでは、「鳩」という漢字 はどうして「九」と「鳥」を組合わせ るのか という問 い (エ ピソー ド 3の 9行 目参照 )を め ぐって、教師 と民枝の間でや りとりがなされている。注 目してほしいのは、 2行 日の民枝の発言である。民枝 は、 「鳩」の成 り立ちに関す る自分の考 え をいいかけて

(「

えっ と甲骨文がかん」

)、

前置 き的に自らその考 えが「違 うか もわか らないんだ けど」 と「評価」 し、それか ら自分の考 えを発表 している

(「

甲骨文 を、関係なしにして…」

)。

エ ピソー ド 4の ように学習者の自己「評価」が顕在化する場合 というのは、それほど多 くない か もしれない。む しろ、学習者が、 自分の考 えが「正 しいに違いない」「間違 っているか もしれ ない」 とい う「評価」 を心の中でお こない、それにもとづいて発言 した りしなかった りする場 合の方が多いだろう (板 倉 ,1989;松

,1996)。

しか し、顕在的な ものであれ潜在的なもので あれ、学習者の自己「評価」 はあ くまで も、教授学習のや りとりに リアルタイムで呼応 し、学 習者がそのつ ど自らの行為 を調整 してい くプロセスの一部 として授業 の中に内在化 してい る

(Fig。

3b参 照

)。

こうした自己「評価」のあ り方を問題 にするとき、私たちはそれにどのように関わ り、その あ り方 を変 えていけるのだろうか ?板 倉 (1989)は 、仮説実験授業の実践 を振 り返 り、その授 業実践が生徒の自己「評価」 を大 きく変 えた ことを報告 している。仮説実験授業では、 まず、

教師が実験で検証可能 な問題 を生徒 に提示 し、生徒が実験結果 についての予想 をそれぞれ立て る。そして、生徒 らは自分たちの予想 をもとに議論 しあい、お互いの予想の根拠 とその もっ と もらしさを明 らかにしてい く。最後 に、実際の実験結果 を見て、 どの予想が正 しかったのかを 確認する。板倉 によると、 こうした授業 を体験する過程で、予想の単なるあた りはずれ よりも どのように考 えて どう予想 した結果あたったのかはずれたのかを重視す るようになるな ど、生 徒 らの「評価」の し方や基準が変化 した という。仮説実験授業の中では、生徒の自己「評価」

をことさらにとりだ し、そのあ り方 を変 えようとす る意図的な働 きかけがなされたわけではな

い。そうではな く、生徒 ら自身がお互いの「評価」の担い手 となってお互いの考 えを認めあっ

た り批判 しあった りす る中で、 どのように考 えて予想 したか ということこそが大切であること

に気づ き、 自分の予想や考 え方に対する「評価」の し方 も自然 に変 えていったのである。

(9)

先の (1)〜 (3)の 見方では、以上のような自己「評価」の変化 をうまく説明で きない ことに注意 してほしい。第 1に 、授業の中で生徒が より適切 な自己「評価」 をお こなえるようになった と して も、 自己「評価」が他者「評価」 に置 き換わっているわけではない。両者 は授業過程の中 で対 をなして併存す る。第 2に 、 自己「評価」の変化 を引 き起 こし方向づけたのは、 自己「評 価」 に対す る他者か らの明示的な教育的働 きかけ (自 己「評価」訓練、 自己「評価」活動 に対 す る支援、な ど

)で

はない。むしろ、仮説実験授業 とい う授業のあ り方にこそ、 自己「評価」

の変化 を引 き起 こし方向づける力があった と考 えられ る。そして第 3に 、 自己「評価」のあ り 方が授業のあ り方 と密接 に連関 しているとすると、 自己「 評価」が適切でない というとき、そ の原因を生徒側の問題 (自 己「評価」能力・ スキルの未熟 さ、など

)だ

けに帰属 させ ることは で きない。 この場合、授業の中に内在化 している自己「評価」のあ り方は、学習者同士あるい は学習者 ―教授者間の相互作用の産物 と見なすべ きである。

もちろん、板倉の報告 はあ くまで もインフォーマルな観察 と回顧 によるものであ り、それだ けをもとにして、授業の中での他者「評価」 と自己「評価」の関係、授業のあ り方や学習者の 能力・ スキル と自己「評価」の変化の関係 について一般的な判断を下すのは、危険か もしれな い。 しか し、た とえそうだ として も、外在化 している自己評価 を前提 にした (1)〜 (3)の 見方 を内 在化 している自己「評価」 に無批判 に当てはめてい くことの問題 は十分 に明 らか といえる。

(1)

〜 (3)の 見方か ら自己「評価」 に関す る研究や実践 を始める前 に、それ らの見方 を批判的に見直 し、それ らが本当に妥当なのか、 どの点が どのように妥当なのかを検討す る作業が必要であろ う。

4.変 わ りつつある授業の中での「評価」

:ま

とめに代 えて

志水 (1999)は 、ある小学校 におけるフィール ドワークの経験 を踏 まえて、近年の小学校教 育 において授業のあ り方が変化 しつつあるとする。何 よりも、教師主導の一斉授業が驚 くほど 少な くなってきている。その代わ り、グループや個人でテーマを決めてそれについて自分たち で調べ、調べた内容 を整理 し、その結果 を他の人たちの前で発表 し、みんなで討論する形の授 業が増 えてきているとい う。 「例 えば、『学校内の樹木』や『○○川のゴ ミ』といった身近 なテー マを設定 し、調査活動 をお こなったのち、成果 を報告 しあう『国語』の授業。歴史上の人物 を 一人 とり上 げ、その人物 について多面的 に調べた うえで、地域の公会堂で発表する『社会』の 授業。あるいは、家 にある素材 を自由に持 って きて、『自分だけの夢の世界』 をつ くる『図工』

の授業 (同 上

,p.6)」

。今の ところこうした変化の進み具合 には地域や学校、校種 によって差が

あるだろうが、近年の教育改革やそれにまつわ る動 きか ら考 えると、一般的な傾向 として、そ の方向での変化 は今後 ます ますカロ 速 してい く可能性がある。

本論文の中で くり返 し述べてきた ように、授業の中に内在化 している (自 己・ 他者

)「

評価」

はその授業のあ り方 と密接 に連関 している。当然、近年における授業のあ り方の変化 は、内在 化 している「評価」の変化 を伴 うことになるだろう。ある側面では、内在化 している「評価」

をいかに変化 させ ることがで きるかが、変化 させ ようとす る授業の正否 を左右するということ もあるか もしれない。教育改革の流れの中にある教育評価研究の課題 はなにも、学習者の「関 心・ 意欲・ 態度」 をどう評価するか、総合的学習の時間に子 どもたちがなしとげた こと、学ん だ ことをどう評価するか といった、外在化 している評価の中にだけあるのではない。課題 は、

(10)

内在化 している「評価」の中にもある。例 えば、志水の報告にあるように、学習者がそれぞれ に調べ学んで きた ことをもとにして討論する形の授業が増 えているとしよう。そうした授業で は、教授者 はどのように授業 に参加 しどのような役割 をとることができるのか ?そ の結果 とし て、内在化 している「評価」 は誰が どのようにして担 うことになるのか ?そ れはどのような形 態 と機能 を有するのか ?

学習者相互の討論 を主体 とした授業の一例 として、第 3節 で もとりあげた板倉の仮説実験授 業が挙 げられ る。板倉 によると、仮説実験授業の正否 に直接的に関わ りがあるのは学習者たち の「評価」であ り、 したがって、「評価」を担 うのはもっぱら他の学習者や学習者 自身であると い う。そして、その場合、「 この授業での子 どもたちの評価 (=「 評価」 )の 基準、それは実験 の結果 と、他の友だちの考 えと、 自分の考 えとにしかあ りません。 自分の予想やその底 にある 考 えがあっているか どうかは、実験の結果が教 えて く

,れ

ます。それが 自分 にとって満足すべ き ものであったか どうかは、 自分 自身の気持 ちが教 えて くれ ます。 自分のだ した考 えが どれほど 説得的であったか ということは、友だちが判断 して くれ ます。なにも教師が口だ しする必要 は ないし、口だ ししないか らこそ、子 どもは各 自かってに評価活動 をするのです (板 倉 ,1989,p.

54)」

。評価者 としての教授者の役割 は、内在化 している「評価」の中にはないわけである。む しろ、教授者 は、外在化 した形での評価 において次のような積極的な役割 をとりうる。 a.授

業の後 にテス トをすることによって、 どのような問題 をどの くらい解 けるようになったのか と いうことを学習者に実感 させる (こ の ときのテス トはあ くまで も、各学習者が 自分個人の中で の進歩 を確認す るための ものであ り、他の学習者 と比較するための ものではない

)。

b.授 業の 中では表面 に出なかった学習者の「評価」 を、授業後 に書いて もらう感想文 な どを通 して外化 させ、それを他の学習者 に示す ことで、お互いの「評価」 を事後的に交流 させ る。

もちろん、教授者が評価者 として討論の中で もっ と積極的な役割 をとる授業があって もよい。

0'Connor&Michaels(1996)は 、教授者が各学習者の発言 を相互 にうまくつなぎ合わせてい くことにより授業の中に討論的や りとりを産み出す実践例 をとりあげ、その ときの教授者の発 言に認 められるリヴォイシング

(revoicing)の

形態 と機能 を焦点化 し分析 している。リヴォイシ

ング とは、討論の参加者が討論のためにお こなった (口 頭・ 書字の

)発

言 を、別の参加者があ るし方で言語的に繰 り返す ことをい う (エ ピソー ド 5の

3、

4行 日の教師の発言 を参照

)。

【 エ ピソー ド 5(0'ConnOr&Michaels,1996,p.71)】

学生 :え ― と、僕 は、ス ミスの仕事 は全 くここでは関係 しない と思います、 どう

2    

してか というと、彼女 は大人だけを見ていたか らです

教師 :そ う、それな ら君 は トムに賛成 というわけだね、ス ミスは幼い子 どもたち

4    

の言語獲得 には無関係 というわけだね

学生 :は い

エ ピソー ド中にある教師の リヴォイシングが、

a。

学生の発言 (1、 2行 日 )の 単なるオウ

ム返 しではな く、他の学生

(ト

ム )の 発言 と結びつけるように、言い換 えた り、一定の方向に

強調 した ものであること、 b.教 師 自身の考 えとしてではな く、あ くまで も学生の考 えとして

発言 した ものであること

(「

君 は…ね」

)、

C.教 師の言い換 えや強調の し方が どの くらい妥当か

とい う判断を学生 に委ねた ものであること、 に注意 してほしい。 リヴォイシングを介在 させ る

(11)

ことで、教師は、黒子役 に徹 しなが ら、学生同士の発言が討論 とい う形 をとって相互交流する ことを手助 けで きるわけである。 このような リヴォイシング もまた、内在化 している「評価」

の一種 といえる。ただ し、そのあ りようは

I―

R― Eに おける 「評価」のあ りようとは大 き く違 う。

後者の「評価」の機能 は、学習者の「応答」の適否・ 正誤 を判断 しフィー ドバ ックす ることに あ り、ひ とまとまりのや りとりは教授者の「評価」で締 め くくられる。それに対 して、前者の

「評価」の機能 は、学習者 らが討論 にうまく参加 し討論 を適切 に展開させてい くことがで きる ようその発言 を手助 けすることにあ り、なおかつその機能 は、 リヴォイシングに続 く学習者の 同意 (エ ピソー ド 5で あれば、 5行 日の学生の発言「はい」 )を 得てはじめて発揮 され ることに なる (学 習者の同意が、ひ とまとまりのや りとりを締 め くくる

)。

以上 は、授業のあ り方 とそこに内在化 している「評価」 との関係のほんの一端 にす ぎない。

授業の中に内在化 している「評価」 を教育評価 として とらえることか ら派生 して くる課題の多 くは、潜在化 した ままであると考 えられる。それ らを顕在化 し解決 してい くためには、内在化 している「評価」 に関す る実証的研究や理論的研究 をさらに積み重ねてい く必要がある。本論 論文 をきっかけにして、授業の中に内在化 している「評価」 に正面か らとりくむ教育評価研究 が数多 く産み出されることを期待 したい。

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(13)

【 脚注】

1も ちろん、教授学習 における「評価」 は、授業分析 に関する議論や研究 という文脈の中で盛 んにとりあげられて きた。 しか し、教育評価研究 という文脈の中で とりあげられ ることはほ

とん どな く、授業場面 におけるそれ以外の教育評価 とどのような関係 にあ り、教育評価研究 において どのような意義 を有す るのかについては、十分 に検討 されていない。

2第 三項部分の「 E」 は 「 F(Follow‐ up)」 と表記 される場合 もある (e.g.,Lemke,1990;Sinclair

&Coulthard,1975;Wells,1993)。 しか し、第二項部分が「評価」であるということの直観 的なわか りやすさか ら、本論文では「

E」

とい う表現 を用いることにす る。

3本 論文で示すエ ピソー ドのうち、エ ピソー ド 1〜 4は 、小学 5年 生の国語の授業 (漢 字の字 源を探 る )を 記録 した ビデオ (授 業 シリーズ「授業」編集委員会 ,1991)を 筆者 自身が書 き起

こした ものをもとにしている。

4当 事者たちには、相手が どのような意図で発言 したのか、 自分の発言 を相手が どう認識 した のかを直接、知 ることがで きない以上、 (相 互作用における

)発

言の機能・位置づ けは、各発 言 と前後の発言・行動 (シ ークエ ンス

)と

の関係か ら、そのつ ど決定・更新 されてい く (Griffin

&Mchan,1981)。 例 えば、ある学習者の発言 に対する教授者の発言 は、それだけをとりだす なら、肯定の「 E」 にも否定の「 E」 にも見 えないか もしれない。 しか し、その教授者の発 言 に続 く同 じ学習者の発言か ら、少な くともその学習者が教授者の発言 を自分の発言 に対す る否定の「 E」 と受 けとめた ことがわかる場合がある。ただ し、それによって、教授者の発 言が否定の「 E」 であることが確定 されるとはかぎらない。教授者 は、 さらに発言 をつなげ ることで、学習者 に対す る自分の発言 はその発言 を否定的に「評価」 しようと意図 した もの ではない と主張することもで きる。ある発言が「 E」 か どうか、 どのような「 E」 かの決定

は、後続す る当事者たちのや りとりに絶 えず開かれているのである。

5こ の授業の後、教師 は自ら授業の記録 を作 リコメン トを加 えているが、その中で も、 「子 ども の方か ら造字の意味 を考 え出 した」 と、子 ども 1の 発言が積極的 に評価 されている (石

,

1991)。

6こ れ らの見方の背後 には、 (全 ての研究者がはつきりそれ と意識 しているわけではないにして も )Matusov(1998)の いう「内化モデル」がある。内化モデル とは、いわゆる「精神間機 能か ら精神内機能へ」 とい う Vygotskyの 発達のテーゼをベースにし、両機能やその関係 を 次のように とらえる考 え方をいう。(a)精神間機能 と精神内機能 は、前者が後者 よりも発生的 に先行す るとい う関係 にあ り、相互 に分離 し得 る。

(b)個

人が他者 と共同でお こなう活動 と自 分一人でお こなう活動 とは別の活動であ り、後者の方が前者 よりも発達・進歩 している。

(c)

個人 はある活動の中で獲得 した能力 0ス キルを別の活動 に転用で きるとい う意味で、能力・

スキル (つ まりはそれを体現 した個人 )を 活動の文脈か ら切 り離す ことがで きる。 (d)発達の

方向性 を、その社会文化 に応 じてではあるが、客観的に定義することがで きる。

(e)発

達 は、

(14)

個人のパ フォーマンスを (最 近接発達領域 をつ くり出 し内化 を促進する

)社

会的相互作用の 前・中・後で比較 し、その変化 を見 ることによって明 らかにできる。 これ らのうち、「精神間 機能」を「教授者 による学習者の評価」に、「精神内機能」を「 (適 切 な )自 己評価」に、「他 者 と共同でお こなう活動」を「教授者の支援 をうけた学習者の自己評価活動」に、「個人一人 でお こなう活動」 を「学習者 による自律的な自己評価活動」に、賄旨力・スキル」を「自己評 価能力・ スキル」 に置 き換 えてみれば、 (1)〜 (3)の 見方の背後 に内化モデルがあることが より わか りやす くなるだろう。なお、 Matusov(1998)や Rogoff(1995)で は内化モデルをどう 乗 り越 えることがで きるのかについて も議論 されてお り、その議論の一部 は本節の後の議論

とも重なる。

参照

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