道 教 上 清 派 の 経 典 目 録 考
﹁上清経三十一巻﹂について
石井昌子
はじめに
道教上清派の経典 目録考
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仏教の経目は﹃出三蔵記集﹄をはじめとして歴代のものが残っていて︑大蔵経の中におさめられているのに︑道蔵の中には古道経の経目は残っていない︒このことが道教の経典を研究する上で第一の暗礁となっている︒陳国符氏の﹃道蔵源
(1)(2)流孜﹄や吉岡義豊博士の﹃道教経典史論﹄が公刊されるにおよんで︑わずかに斯学の指針を得たといえる︒最近では﹃道
教経典史論﹄に附載された﹁古道教目録﹂をさらに望ましい目録として発刊した︑大淵忍爾博士と筆者による﹃六朝唐宋
(3)の古文献所引道教典籍目録・索引﹄がある︒しかし︑これらの書の性質上︑道教の各教派の細部にわたる経目にまで言
及しているわけではない︒経目の研究だけに関しても︑道教経典の整理は漸くその緒についたという段階である︒ここで
道教教理成立史上︑その中心的役割をはたした六朝期道教上清派の経典目録の整理を企図し︑作業を進めているのが︑筆
者の現況である︒
(4)筆者は︑現在までに︑教理研究のための基礎資料の一部として︑﹃三洞奉道科誠儀範﹄の中の﹁上清大洞真経目﹂を基
(5)に予備的な考察をおこなった︒それは︑六朝末に存在した道教経典を知る上での決定的資料ともいえる北周武帝のときに
(6)(7)撰述せられた﹃無上秘要﹄と︑上清派の本源を記録した経典といわれている﹃真詰﹄の二資料との関係の上から論じたも
のである︒それは︑上清派の祖典としてもっとも重要な位置を占め︑古くから﹁上清経三十一巻﹂といわれている経典を
究明することに論旨の重点をおいたものである︒その結果︑﹁上清大洞真経目﹂の中の﹁以上三十四巻玉清紫清大清大洞
経限是王君授南真﹂とある三十種三十四巻の経典は︑上清派においては︑重要な中心経典であることは確かとなった︒し
かし︑三十四巻といわれる経典が︑そのまま︑上清派の根本経典としていわれている三十一巻に相当するものであるか︑
明らかにすることはできず︑次の課題として残した︒
現在︑六朝期道教上清派の経典目録の整理作成の方法として以下のように進めてきた︒第一に﹁上清経三十一巻﹂なる
経典の究明︒第二に﹁上清大洞真経目﹂を﹃無上秘要﹄﹃真詰﹄の関係を基に古道経との関係を考察する︒第三には﹃茅
山志﹄巻之九所牧の﹁道山冊﹂の﹁上清大洞宝経篇目﹂と﹁上清大洞真経目﹂の関係を考察する︒以上の作業はほぼ完了
している︒
本稿では紙数の都合上︑﹁上清経三十一巻﹂なる経典の究明についてのみ公表する次第である︒
上清経三十一巻とは
﹁上清経三十一巻﹂なる語は︑数種の経典にみえるが︑この語の意を明らかにしていると考えられるものは︑﹃雲笈七籔﹄
(8)(以下略称﹃七籔﹄)巻四所牧の﹁上清源統経目註序﹂(以下略称﹃註序﹄)である︒
(9)﹁註序﹂は﹃道蔵閾経目録﹄の所載するところであるが︑全くの閾経ではなく︑その序文が﹃七籔﹄巻四に牧められてい
る︒﹃七籔﹄では︑この﹁註序﹂の次に︑陸修静の﹁霊宝経目序﹂を所載する︒﹁註序﹂は経目が失われてはいるが︑その
道教上清派の経典 目録考
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(10)内容から考えて︑衆経を尋校して上清経目を作成したのは陸修静であると思われる︒﹁註序﹂が陸修静の時代の資料とするならば︑﹁上清経三十一巻﹂なる語は︑陸修静が上清経の古伝承を明らかにする中で語られたということになる︒
次に﹁註序﹂の記すところによって︑その伝承を示すと以下の如くである︒(理解しやすくするために︑必要な部分を箇条
に別け︑書き下し文︑或は意訳した箇条もあることをおことわりしておく︒また︑世紀年は筆者が加えたものである)︒
○上清宮に丹青金書玉字上皇宝経有り︒皆玄古の道︑自然の章︒
○中皇元年(紀元前一四九)九月一日︑九玄道君︑玉天環房金閾上宮に於いて︑東華青宮に命じ︑傭仰の格を尋ね︑古文
を掠校して霊篇を撰定し︑集めて宝経と為す︒
○伝えて漢武帝時に至る︒経を得て栢梁台を起こし以て之を貯う︒帝は既に神真の所降と為し︑自ら得道せりと云い︑
放情怠慨し︑王母の至言に従わず︒
○明年︑天火栢梁台を焼き︑経飛び太空に還り︑菰に跡を絶つ︒
○太元真人茅君諦盈︑西城王君を師とし︑上清玉侃金瑞二景熔機の道を受け︑漢宣帝地節四年(紀元前四九)三月昇天す︒
○玄洲上卿蘇君諌林も清子を師とし︑上清三一の法を受け︑漢神爵二年(六〇)三月六日に登天す︒
○周君︑李君の衆仙も各得る所有り︑経業を相承するも多く世に伝わらず︒
○漢孝平皇帝元始二年(二)九月戊午に西城真人︑上清経三十一巻を陽洛の山に於て︑清虚真人小有天王王褒に授く︒
○褒は晋成帝の時(成和元‑三二六〜八ー三三三)に汲郡修武県に於いて︑紫虚元君南嶽夫人魏華存に授く︒
○華存は成和九年甲午歳(三三四)に麗輪に乗って昇天す︒世を去るの日︑経をその子道脱に付す︒又︑楊先生詳義に
も伝う︒義の生殊分有り︑通霊接神す︒晋簡文帝の師なり︒
○楊君︑南嶽魏夫人に師事し︑上清大洞真経三十一巻を受け︑晋孝武皇帝太元十一年丙戌歳(三八六)に昇仙す︒
○許先生名映︑丹陽句容の人︑七世の祖許子阿︑生陰徳有り︑福潤流瀧して後嗣に鍾まる︒
○子阿六世の孫︑名副仕えて剣県令と為る︒副に八子有り︒其の第一子名遙︑字叔玄︑小名映︑名を遠遊と改む︒少く
して仙道を好み︑耽心冥騨︑吐納和気︑矯志雲漢︑超跡絶世なり︒晋建興元年癸酉歳(一一=三)江を渡り︑赤城山中
に入り還らず︒南海太守飽胡︑太元真人茅君を師とす︒
○遠遊の第五弟︑名説︑仕えて護軍長史散騎常侍と為る︒太元真人を師とし上清衆経を受け︑寧康元年(三七三)隠景
去世す︒
○謹に三子有り︑其の第三子名玉斧︑長じて翻と名つく︑字道翻︒道徳淳螢︑絶世倫無し︒楊先生を師とし︑上清三天
正法曲素鳳文三十一巻を授かり︑遜跡潜化す︒
○玉斧の子黄民︑黄民の子名豫之︑元嘉十二年(四三五)剣の白山に終る︒去世の時︑上清宝経︑三洞妙文を玄台に封
じ︑印するに白銀を以てし︑剣県馬度生家に留寄す︒これに語って日う︑今しばらく行く︑久しからずして還る︑こ
の経を開くなかれ︑と︒
○馬氏崇奉すること累世安康︒道士婁化なる者有り︑常に馬氏の舎に憩む︒経源を究悉するに苦りに開看するを求む︒
馬氏固執するも︑寛に命に従わず︑結臨無方︒
○この︑宋明皇帝︑大法を崇敬し︑道士を招集し︑後堂で供養す︒婁化は後堂の道士隻季真に因りて密かに之を啓んと
す︒帝即ち命じて逼取させ︑京に至り拝礼してこれを開く︒忽ち五色紫光有り︑眼前に洞換す︒帝驚いて曰く︑神真
これに触れるなかれ︑と︒其の年愈えずして崩る︒
○元徽元年(四七三)︑馬氏即ち出訴し︑其の経を啓請せんとす︑詔勅聴還す︒ここに於て天蔵真書︑馬氏に復帰す︒
○これ乃ち上真注筆朱簡紫書なり︒後の凡庶摸して伝え︑奉号して真跡と日う︒今記す神王所撰宝経巻三十一︑首篇目
第並指事して名と為す︒
○然るに天真の言︑理奥く尋ね難し︒或は名同にして事異︑或は理合にして字乖︑霊秘妙隠︑世と合せず︒幸にしてこ
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れを見るも卒に詳弁すること難し︒○余は宿植の縁により︑法源に遊渉し︑性幽旨を好み︑耽霊味玄︑鐙研彌齢︑始覚髪髭︒謹んで鄙思を以て衆経を尋校
し︑上清目義と為す︒敢えて大乗を稗する有るに非ず︑聯か自記するのみ︒
以上が﹁註序﹂の内容である︒これらの記述によると︑﹁上清経三十一巻﹂は︑漢の元始二年(二)九月に西城真人が︑
陽洛の山に於て清虚真人小有天王王褒に授けたことにはじまる︒王褒は南嶽魏夫人に授け︑魏夫人は子の道脱に付し︑楊
君にも伝えた︒楊君は魏夫人を師として﹁上清大洞真経三十一巻﹂を受けた︑と記す︒魏夫人が王褒から授かった﹁上清
経三十一巻﹂と︑夫人が楊君に授けた﹁上清大洞真経三十一巻﹂とは同じ経典をさすものと思われる︒
(11)﹃上清大洞真経﹄という経典は︑現行道蔵に牧められているが︑種々の呼称があり︑上清派の重要経典の一つであること
はたしかである︒しかし︑三十一巻であることは現資料からは推しはかることはできない︒﹁註序﹂の末尾の部分で︑﹁神
王所撰宝経巻三十一︑首篇目第並指事して名と為す﹂という︒この意は︑神王が撰んだ宝経三十一巻は︑首の篇目を名と
しているということになろう︒とすると︑楊君が授かった﹁上清大洞真経三十一巻﹂というのは︑宝経三十一巻の冒頭の
経典が﹃上清大洞真経﹄ということになる︒この経典は﹁上清大洞真経目﹂の冒頭に﹁上清大洞真経三十九章一巻﹂と著
録されている︒しかし︑楊君が︑許説の第三子翻の師であり︑﹁上清三天正法曲素鳳文三十一巻﹂を授けた︑という記述
を同様に解釈すると︑楊君が授かったものと︑授けたものとその名称が相違することになる︒﹁上清大洞真経目﹂によっ
てみると︑﹁上清除六天文三天正法一巻﹂﹁上清曲素訣詞五行秘符一巻﹂の名称を省略しているとも考えられる︒ここで︑
王褒が魏夫人に︑魏夫人が楊君に︑楊君が許翻にそれぞれ授けた経典の名称をまとめてみると次の様になる︒
王褒←魏夫人⁝⁝上清経三十一巻
魏夫人←楊君⁝⁝上清大洞真経三十一巻
楊君←許翻⁝⁝上清三天正法曲素鳳文三十一巻
共通しているのは三十一巻ということである︒また︑この三十一巻は一つの経典ではなく︑神王の撰した宝経であるこ
とは確かである︒そして︑上清派が代々伝えてきた経典が三十一巻で︑それが﹁上清経﹂﹁上清大洞真経﹂と呼ばれたこ
と︑それら経典の中には︑﹁上清三天正法﹂﹁曲素鳳文﹂等の経典が含まれていることは明らかになった︒
二経典引用の三十一巻について
前項において考察した結果︑上清派が代々伝えてきた重要経典が﹁三十一巻﹂であることは明確となった︒本項におい
ては︑他の経典において︑この﹁三十一巻﹂がいかに引用され︑いかなる説明がなされているかを考察する︒﹁三十一巻﹂
(12)にかかわる語が引用されているのは︑﹃道教義枢﹄﹃無上秘要﹄﹃雲笈七籔﹄﹃太平御覧﹄の四経典である︒
1道教義枢
(13)孟安排の﹃道教義枢﹄(以下略称﹃義枢﹄)巻二の﹁三洞義第五﹂の中に︑﹁玉緯引正一経云﹂として︑﹁註序﹂と同内容の
記述がある︒﹁註序﹂との相違個所は冒頭の部分であるから︑その個所を記し︑相違点から﹁三十一巻﹂について考察し
ていく︒
其洞真是天宝君所出︑玉緯引正一経云︑元始高上玉帝稟承自然玄古之道︑撰出上清宝経三百巻︑玉訣九千篇︑符図七
千章︑秘在九天之上大有之宮︑相伝玉文以付上相青童君︑封於玉華青宮︒元景元年又撰一通︑以封西城山中︒又太帝
君命扶桑大帝賜谷神王撰出三十一巻︒独立之訣︑上経三百首︑今独立亦行於世也︒昔裏城小童︑以上清飛歩天綱顕行
七元六紀之法︑降授黄帝︑寛元所伝︒元封元年七月七日︑西王母上元夫人同下降︑漢武於成陽宮授五帝霊飛六甲上清