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正 義 論 と 専 業 の 原 則

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(1)

長崎大学教養部紀要(人文科学篇) 第25巻 第1号 一‑二十五(一九八四年七月)

正 義 論 と 専 業 の 原 則

T h

e   T h e o r y   o f   J u s t i c e   a n d   T h e   P r i n c i p l e   o f   S p e c i a l i s a t i o n M a s a a k i   Y O S H I D A

この論考は﹃国家﹄第二巻〜第四巻の議論において決定的な役割を果たしている﹁専業の原則﹂を検討することによっ

て︑第二巻〜第四巻の﹁正義﹂論をめぐる議論の根底をなすプラトンの思考の'真の意味を見定めてい‑ために︑その基

礎固めを図ることを主眼としている︒﹁専業の原則﹂と呼ばれる︑国家建設のための原則は︑最終的に或る仕方で﹁正義﹂

の定義(1)とも看徹されるものであるにもかかわらず︑この原則のもつ根本的な意味とこの原則が動‑基本的な問題領域に

ついてはへ既に明確な理解が与えられているとは言い難いのが現状である︒

以下の論述において︑私の中心的課題となるのは︑国家建設の原則として確定された﹁専業﹂が︑‑.体国家の建設にとっ

(2)

て︑真実のところどのようを原則となり得ているのか︑この原則の最も初歩的な段階から明らかにすると同時に︑この原

則に従って国家を建設してい‑という方法によって︑問われた問題場面が如何なるものであったかを出来るだけ精確に読 み解くことである︒この課題に答えていくために︑私がテキストに則して検討を加えようとするのは︑第二巻〜第四巻の

うちでもご‑限られた︑国家建設の最初の部分(369B5‑376El)である︒改めて言うまでもないことであるが︑この個

所は魂における﹁正義﹂をまずは国家という大きな文字のうちに探究するという︑ソクラテスの提案した方法がその展開

を見せる最初の部分である(2)︒我々は最終的には︑このソクラテスの方法が﹁正義﹂考察の方途として︑如何なる方途で

あるのかを見極めることが必要であるが︑しかしそのためには我々は︑国家における正義の探究というこの方法が具体的 にどのように展開され︑そして定着させられてい‑のか︑そのひとつひとつをこの国家建設の最初の部分で確認しなけれ

ばならない︒そのことは言い換えれば︑﹁正義﹂をそこに見るという﹁国家﹂がソクラテス(プラ‑ン)にとって︑何処で

どのように捉えられてい‑のかを︑各自の﹁国家﹂に対する思い入れを捨てて'問うことが必要だということである︒そ

してその時︑﹁専業の原則﹂とは︑国家を如何に捉えるか︑というまさにその方法に関わるものとしてまず登場して‑るも

のだと思われるのである︒

.

﹁専業の原則﹂という言葉で一括して呼ぶこの原則は︑議論の様々を局面と文脈に応じて様々な表現を持つが︑今はこ

れを﹁ピユシス(自然本性)に従ってへひとりがひとつのことを為すこと﹂と言い表しておく︒さてこの﹁専業の原則﹂

を検討しようとする時︑注目すべきい‑らかの論点がある︒私は以後それらを順次考察していくが︑そのうちまず最初に︑

この原則の重要な要素を成しているピユシスの概念の検討から始めたいと思う︒

このピユシスという概念が︑国家の建設に当り最初に導入される個所は通常︑﹁第一に︑われわれひとりひとりの生まれ

つきは︑けっしてお互いに相似たものではな‑︑自然本来の素質の点で異なっていて︑それぞれが別々の仕事に向いてい

(3)

るのだ﹂(370A8‑B2)と訳され(3)︑ピユシスという言葉は一般に︑﹁われわれの生まれつき持ち合わせた素質・能力﹂︑

﹁或る仕事に対する生まれつきの適性﹂等を意味するものと理解されている︒しかし私はこのような理解は徹底して即け

らるべきであると考える︒このピユシスという言葉乃至はこれと同族の言葉(例えば︑動詞≠uouaこは︑以後に語られ

るプラトンの国家のモデルともいうべきものが﹁自然本性に従って建てられた国家﹂(428E9)であるといわれるところに

端的に示されているように︑﹃国家﹄を読み解‑基本的な鍵概念のひとつである︒従ってこのピユシスという概念が何を意

味し︑どのようなことを明らかにしてい‑ために導入されているかを精確に捉えることは︑﹃国家﹄の基本的な理解に関わ

る重大な問題であることは言うまでもない︒﹁われわれの生まれつき持ち合わせた素質・能力﹂︑﹁或る仕事に対する生まれ

つきの適性﹂という理解は︑﹁専業の原則﹂の意味をめぐって錯誤を生じ︑﹁正義﹂論の理解に重大な陥舞を作り出してい

るのではなかろうか︒少な‑とも我々は︑そのような理解(そして訳)によって︑この言葉を不透明なままに﹁正義﹂論 の背後に押しやったり︑或いはそれ以上問われることのない事実としてそのまま認容し︑そうしたいわば外から︑この

﹃国家﹄の﹁正義﹂諭を解こうとしてはならないと思う︒ではこのピユシスという概念は︑差し当たりこの個所において︑

どのような意味で︑また何に関わって導入されたと理解すべきなのか?

この問題に答えてい‑ためには︑我々はこの﹁専業の原則﹂が確立されることになる︑この個所の構成(4)を顧みる必要

がある︒この原則の確定は農夫︑大工へ機織等の生産者の﹁仕事振り・仕事のやり方﹂を二者択一的に問うところから始 まるが︑これは我々が漠然と﹁われわれのひとりひとり﹂とその﹁集まり﹂を考えて︑われわれのひとりひとりがどうい う仕方で仕事を行うが︑と問うこととは基本的に異なる︒というのはここでは漠然と考えられた﹁われわれのひとりひと

り﹂ではな‑ ︑最初から﹁われわれの必要﹂に応じる仕方で農夫︑大工︑機織等の生産者が国家の中へ設定された(369D6

‑9)のである︒﹁或る人を或る必要のために共同者として集める﹂(369Cl‑3)に呼応したこの個所で︑この﹁或る人﹂

とは︑われわれのうちの誰か或る人(Individual)ではな‑︑或る必要を満たすための誰か或る人︑即ち農夫︑大工︑機

織等である︑というように展開されているのである︒つまりわれわれの必要のために︑例えば食糧のためにそれを作り出 す︑ということによって規定されたひと︑即ち農夫が要求されている︒ではこのような規定の下に要求された︑農夫︑大

(4)

工︑機械等の﹁仕事振り﹂を改めて問うことは何を意味するか︒それはこれらの人々が共同者︑(fcocvcovour,369C3)と

して集められ︑この人々の棲まう棲み処が共同の棲み処auvoLKta,369C4)であるといわれ受﹂との意味を見定めるこ

と︑言い換えれば︑このような仕方で形成されていく国家において﹁共同・共有﹂Koiviovia)の生起している場をはっき

りと確認する作業に他ならない︒

ではこの﹁共同・共有﹂とはどのような場に見出すことが出来るのだろうか︒一般にここでは﹁分けてもらったり︑分

(cf.369C67,371B46)(5)

とを考えれば︑農夫以外の人々は農夫の作り出す成果(食糧)に与かり︑この成果を農夫は他の人々と共有し'共同のも のとする︒他の場合も同様である︒だがその仕事∴富みについて考えると︑それぞれはそれぞれに異なった仕事∴富みを

行うわけだから︑﹁共同で﹂ひとつの同じ仕事をしたり︑ひとつの仕事を﹁共有したり﹂はしないと考えられるであろう︒

しかし農夫は︑自らの食糧作りという営みから食糧という成果を生み出す時︑自分に不必要な剰余が生じたら︑それを他

の人々にも分かち与える(6)というのではなく︑農夫は最初から︑その仕事の成果を他に分け与えるべきものとしてその仕

事∴富みを行うのであるから︑単に成果が﹁共同・共有﹂のものなのではなく︑その仕事∴富みそのものがすべて他の人

人に﹁共同・共有の営み﹂として立てられている(369E2‑5)(^と考えられる︒大切なことは︑何かといえば︑それぞれ

のものの営む仕事そのもののうちに︑それぞれは他者の﹁生きてあるための﹂という生存の条件を握っているということ である︒このような意味で︑それぞれの営みそのもののうちに︑既に他者への連関が含まれており︑単に仕事の成果を分 与し︑分取するところに始めて﹁共同・共有﹂という場が生起するのではなく︑それらの成果を作り出す仕事それ自身の

うちに︑成果の分与・分取を可能にするものとして︑﹁共同・共有﹂という地平が予め既に含まれ︑それが仕事そのものを

規定している︑ということに注目すべきである︒これらの人々のあり方が相互依存的reciprOcal)であるといわれるの

は︑まさにこのような意味においてであって︑これらの人々の営みの成果の相互交換という意味においてではないのであ

る︒

さてこのように見て‑ると︑ピユシスという概念が最初に導入される370A8‑B2の﹁まず第一におのおののひとは︑お

(5)

のおのとは全く相似ざるものであって︑その自然本性において(T†≠uotv)異なっておりへそれぞれ別のひとがそれぞ

れ別の仕事の遂行へと生まれついている(≠uezac)﹂(‑)という言葉が如何なる意味で語られているのか︑ということについ

てひとつの明確な答を与えることが出来るのではないだろうか︒

我々はまず﹁おのおののひと﹂という言葉の身分を確認することができるだろう︒この個所で﹁おのおののひと﹂とい う言葉は農夫︑大工︑機織等の生産者を指す言葉なのであって︑決して﹁われわれのひとりひとり﹂を意味するものでは ない︒とすればこの個所の意味は︑一般によ‑そのように理解される﹁ひとにはそれぞれ生まれつきの素質がある﹂とい

う日常の経験的事実(9)の1L般的な法則化(?)ではない︑ということになろう︒もし仮にそうした経験的事実が述べられ

ているのだとすれば︑先に指摘したように︑この﹃国家﹄籍は'﹁正義とは何か﹂そして﹁人間の自然本性とは何か﹂とい

う問いに対して︑最初から最早問われることのない事実を暗黙のうちに前提することによって︑不透明なものを残してし まうことになる︒人間の或る経験的事実をそのまま﹁人間の自然本性﹂として認容するのは︑‑ラシュマコスと彼を敷衛

したブラウコン二!デイマントスの言説ではなかったか︒

さらにそのような意味での﹁おのおののひと﹂の︑国家における﹁仕事のやり方﹂に目を向ける時︑この個所の述べる ところは極めてシンプルなことであるということに気づかざるを得ない︒則ち︑農夫と大工と機織とはそれぞれ全‑相似

ざるものである︒農夫の﹁農夫であること﹂(2)は'大工の﹁大工であること﹂とはその自然本性において異なっており︑決

して同じではない︒この時﹁その自然本性(ピユシス)﹂とは︑農夫の﹁農夫であること﹂を語るもの︑農夫を農夫たらし

めているものである︒では農夫のピユシス︑農夫の﹁農夫であること﹂を語るものは何か︒﹁食糧を作り出すこと﹂である︒

それこそ農夫の農夫たる所以であり︑﹁食糧を作り出す﹂という営みに関わっているが故に︑農夫と呼ばれるのである︒

後の428B12‑E5に使われている表現をここで借りれば︑﹁大地から生み出される実りのための知識を持つが故に︑農夫と

呼ばれる﹂のである︒従って我々はこの﹁自然本性﹂という言葉は最も基本的に︑﹁食糧を作り出すという営み・仕事﹂が

その行いの自然本性において︑﹁家を作り出すという営み・仕事﹂から異なり︑区別されるものであって︑それぞれの営み

はそれぞれの営みの持つ自然本性においてそれぞれひとつの営みなのだ︑ということを意味していると確認することにな

(6)

ろう︒我々がそれぞれの営みをまさにそれぞれひとつの営みであるとするのは︑それぞれがそのそれぞれの営みの持つ自

然本性において︑まさに異なっているが故なのである︒人は﹁食糧を作り出す﹂ような仕方で﹁家を作り出す﹂ことは出

来ないし︑﹁家を作り出す﹂ようなやり方で﹁布を織る﹂ことは出来ない︒それぞれの営み・仕事はそのうちに様々を営み

や仕事を含みながらも︑ひとつの営み・仕事として他から区別され︑それぞれがそれぞれに固有の営みであるのは︑まさ

にそれぞれの有する自然本性によるのである︒

この意味においてこそ︑農夫が食糧作りに従事することは︑自然本性に従っていること・適っていること(Kara≠uaiv)

であり'大工が家を建てるのはKara6uacてであるが︑しかし農夫が家を建てること︑大工が食糧作りをすることは︑自

然本性に反すること・はずれることizapa≠uacv)である︑といわれうるOとすれば今や我々はこの個所における≠um<r.

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iuojuacとはこの人々の国家における﹁生まれ﹂を意味する言葉に他乍らない︒則ちこの言葉は︑この人々がどのような存

在として国家のうちに設定される(=生まれ来る)か︑﹁如何なる営み・仕事﹂を果たすものとして生まれ出︑その存在を

得ているかを語る言葉である︒

以上のように﹁営み・仕事﹂そのものの成立に力点をおいて﹁専業の原則﹂を理解してい‑時︑もうひとつ注意を払わ なければならないのは︑この﹁専業の原則﹂に従えば︑それぞれの営み・仕事がまた﹁立派に・よ‑﹂成し遂げられるこ とになる︑という点である︒より厳密に言えば︑それぞれの仕事が立派に成し遂げられる︑ということに目を向けて﹁専 業の原則﹂は確定されたというべきであろう︒この点について少な‑とも今この個所で指摘しておかなければならないこ とは︑この﹁立派に・よく﹂というのがただ単に或る営み・仕事を修飾するものではな‑︑その営み・仕事の存在をそれ 自身が規定しているものであるtということである︒則ち︑まず最初に或る営み・仕事がいわばニュートラルにそれ自身

(7)

として存在すると語られ得︑次いでその営み・仕事について﹁立派に・よ‑﹂及び﹁悪し‑・まず‑﹂ということがその 仕事の遂行のあり方として付加されるのではなく︑或る営み・仕事がそれとしてある︑ということは︑その営み・仕事が

﹁立派に為される﹂という︑まさにそのことにおいてのみ語られる︑ということである︒そうだとすれば︑この﹁立派に

・よ‑﹂ということが語られる場面は︑それぞれの仕事のビユシスというのが語られるその場において︑ということにな るのではないだろうか︒つまり或る営みはその営みのピユシスに従ってこそ﹁立派に﹂為され︑またそういう営みはまさ にひとつの営みとしてあるへ存在する)といわれるだろうからである︒そうしてこのそれぞれの営みの持つピユシスに従 いうるものこそがまた︑それぞれにひとりのひと(即ち︑ここでは農夫︑大工︑機織等)といわれるのである︒ここで﹁ひ

とりのひとが︑ひとつの仕事(或いは技術)を遂行する時︑その仕事は立派に成し遂げられる﹂(370B4‑6)といわれる

場合の﹁ひとりのひと﹂とは︑われわれのひとりひとりを指すのではなく︑それぞれの営みの持つ﹁一件﹂(この一件はそ れぞれの営みのビユシスによって支えられている)によって規定された﹁ひとり﹂なのである︒

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今述べられたことが決して根拠のないことではないということは︑引続き﹁或る仕事の好機﹂(Ta㌣epyou/catpo<r.

370B8)ということが語られる場合にも︑充分に証左されることである︒我々はこの個所の持つ意味を正確に確認してお

かなければならない︒そこでは﹁ひとが或る仕事の好機を逸すれば︑ひとはその仕事をすっかり駄目にする﹂(370B7‑8)

そしてまた﹁為されることは︑為すひとの暇をまとうとはしない︑為すひとは為守れることに従わなければきらない﹂

(370All‑Cl)と︑こう語られている︒これらの言葉は﹁専業の原則﹂というのが︑それぞれの仕事∴官みの持つピユ

とは為されることの持つピユシスに従わなければならない︒或る仕事の遂行において︑それをまさにひとつの仕事∴富み として決定づけている原理は為すひとにではなく︑為されることにある︒この為されることのピユシスに従わないかぎり︑

その仕事∴富みを遂行することは出来ない(H)︒その仕事はひとつの仕事として成立しない︒従って﹁立派に・よく﹂とい

ぅことが語られる場面は︑まさにこの仕事∴営みそのものの持つビユシスという場であり︑このピユシスに従う時︑その 仕事∴富みはまさにそれとして成立するのであり︑立派に為されるのである︒

正義論と専業の原則

(8)

以上に見てきたような理解︑拝に﹁営み・仕事﹂乃至は﹁行い﹂に垂心をお‑理解は︑国家建設のための基本的原則と

しての﹁専業の原則﹂の確定を如何なることとして把握させることになるのか︒

最も基本的なことはまず︑﹁われわれの必要﹂ということが国家形成のアルケIとして立てられる時︑これをしつらえて

い‑営み・仕事をこの﹁われわれの必要﹂に正確に対応させて︑そのかぎりでの営み・仕事のみを国家のうちに認容する

ということである︒しかもこの﹁われわれの必要﹂を作り出し︑しつらえる営み・仕事は'国家(ポリス)という共同体 をまさに形成するような仕方で定立されなければならない︒こうした仕方での営み・仕事の定立がはっきりと﹁専業の原

則﹂を確定することになる︒これらの営み・仕事を担う担い手はへこのそれぞれに異なる︑それぞれひとつの仕事によっ

て規定され︑それぞれ異なるひとりの者として定立されることとなるのである︒﹁最も必要なものだけの国家﹂に登場して

くる人々は︑このような意味においてそれぞれ﹁われわれの必要﹂をしつらえる営み・仕事に規定された﹁役割﹂(role)の

みを担う︑﹁役割人間﹂であるということになる︒

さてこの﹁役割人間﹂のみをまずは国家のうちに認容する̀こと︑換言すればわれわれの必要に正確に呼応して︑まさに

共同体を形成するような仕方で定立される︑そのかぎりでの営み・仕事のみを認容するということは大切である︒とい‑

のは︑もしそれ以外のものを認めれば︑それは﹁国家(ポリス)という共同体のためにあるのではない︑国家の形成にと

って不透明なもの﹂を国家のうちに残すことになるのである︒我々はここで国家の建設とは︑また国家の分析でもあるこ

とを認めなければならない︒それは﹁われわれの必要﹂を国家建設のアルケIとする時に︑それに応じて果たしてどれだ

けのものを析出してくることができるか︑という問題なのである︒この点については我々は何よりもまずへ先に触れた﹁仕

事振り・仕事のやり方﹂をめぐる二者択一の選択肢の対比に目を向ける必要があろう(S)︒

(イ)﹁これらの人々のおのおのひとりは︑自分自身の仕事をすべての者に共同・共有のものとして定立し︑‑‑‑

︹自分自身のことを行って︺そして他と共同しなければならないのか﹂(369E2‑5)︒

(ロ)﹁他には配慮することなく︑‑‑‑他と共同して面倒を引き受けることなくへ自分は自分自身のために自分自

身のことを行うべきか﹂(369E6‑370.A4)︒

(9)

これまで﹁専業の原則﹂をめぐって検討してきたことがらを基礎にして︑私は今この二つの選択肢に用いられている︑

同じ﹁自分自身の﹂auTou)という言葉の対膜的な用法に注目しなければ乍らないと思う︒この﹁自分自身のこと(仕

事)を為す﹂とは︑言うまでもな‑後に﹁専業の原則﹂として定式化されるものでもある︒前者において﹁自分自身の仕 事﹂といわれる時の﹁自分自身﹂とは︑続‑﹁専業の原則﹂の照明のうちにおかれる時︑国家(共同体)形成の何処に位

置するものなのかがはっきり見通せる︑透明を言葉になるのに対し'後者における﹁自分自身﹂とは国家形成にとって︑

そうした言葉が如何なる関連を持つのか︑そして国家のうちに如何なる位置を占めるのかは全‑不明であり︑不透明であ る︒というのも前者の﹁自分自身﹂は﹁専業の原則﹂に根拠づけられることによって︑その再帰するところを正確に指示

することになるにもかかわらず︑後者のそれにおいては不可能である︒何故なら︑それはe/caoTO?(aur午)の再帰には

ならないからである︒そのような仕方で﹁自分自身﹂を語ることが︑不透明なものとしてこの国家から除去されねばなら

なかったのだと言えよう︒

以上の考察を基にして︑次に国家建設の議論が﹁最も必要なものだけの国家﹂から﹁賛沢国家﹂へ移行した時︑どのよ うな問題があったのかを検討したい︒そしてこの問題こそ第二巻〜第四巻の議論の全体を決定づける重要な問題となって

国家を捉え︑分析していくに際し︑差し当たり﹁われわれの生きてあるための必要﹂(13)︑即ち﹁生きてあるためにな‑てほ

ならぬもの﹂に目を向け︑これをしつらえる営み・仕事を﹁専業の原則﹂に従って別出して‑る時︑このような国家につ

いては完全reAea,371EIO)ということが語られうる︒則ち﹁生きてあるためになくてほならぬもの﹂がすべてしつら

えられ︑欠けているものは何ひとつないという国家がそれである︒ところでしかしこの国家はいわば﹁役割人間﹂の国家

であり︑この国家に入ってきて'国家を構成する人々はすべて﹁必要﹂(な‑ては専らぬもの)とそれをしつらえる営みに

(10)

よって規定された役割を担う者である︒そこには末だ︑いわば端的な意味での﹁ひと﹂は登場して来ていない︒この国家

はそれだけであれば︑末だなお﹁ひと﹂の国家ではないのである︒グラウコンはこの国家を﹁豚の国家﹂(cf.372D4‑5)

だと評しなければならなかった︒一体この端的な意味での﹁ひと﹂は如何にしてこの国家のなかに登場することになるのか︒

たしかに農夫︑大工︑機織等は︑この﹁最も必要なものだけの国家﹂において︑それぞれ或る正の規定された役割を 担‑限りで国家のうちに存在することが認められた︒しかし例えば大工はこの国家において︑ただ大工として居るのでは

ない場面を持っている︒﹁賛沢国家﹂への移行に当たり︑﹁満足できない﹂︑﹁みじめである﹂とは︑・大工がまさに大工として

言うのではな‑︑﹁ひと﹂として言うのである︒

﹁最も必要なものだけの国家﹂から﹁賛沢国家﹂への移行は︑この﹁満足できない﹂︑﹁みじめである﹂というただこの一

点に懸かっている︒しかし﹁満足できない﹂という言葉は奇妙を言葉である︒それは﹁最も必要なものだけの国家﹂のな かから出て‑る言葉ではない︒その国家のうちにはない言葉︑あってはならない言葉である︒なぜなら﹁最も必要なもの だけの国家﹂については︑完全・完成ということが語られ得るのであって︑そこでは我々の︑生きてあるための必要はす べて満たされておりへ欠けているものはひとつもないからである︒それは少な‑とも国家建設のアルケ‑となった﹁われ

われの生きてあるための必要﹂というところとは別のところから出てくるのでなければならぬ︒

ではそれは何処から出て‑るのか︑と言えば︑﹁そのようにしつらえられた人々(なくてはならぬものをすべて満たされ

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暮し振りに起因する︒則ち﹁その暮し振りは或る人々にとって満足できるものではない﹂zauvartatu,⁝⁝二㌢

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だがこの﹁誰か或る人にとって﹂とは一体誰にとってなのか︒勿論農夫のうちの或る者達や︑農夫︑大工︑機織︑指物

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か或る人﹂が職人・生産者による限定をもたず︑まさに不定的に(不定代名詞のみで)述べられているということが極め

(11)

て大切なのだと思われる︒則ちそれは︑ここで末だ限定して述べられていない﹁ひと﹂︑つまり端的な意味の﹁ひと﹂を指 していると考えられる︒それはただ﹁満足できない﹂と語る︑その一点において登場して‑る﹁ひと﹂なのである︒注釈

家たちはこのTCOtVにグラウコンへのallusionをみているが(‑)︑それは間違いではないにせよ︑しかし問題はむしろそ

の先にある︒則ち﹁君みたいなことを言う奴が出てくるだろう︑その人々にとって﹂というこの表現は︑グラウコンの﹁そ

のような国家は豚の国家だ﹂という発言による︑全く新たで異質なものの導入を受け︑その発言の意味を︑その発言が如 何なる問題に関わり︑如何なる問題を喚起するかを正確に示している︑ということである︒そして実のところ︑グラウコ ンのこの発言も﹁暮し振り﹂を問題にするという︑密かに仕掛けられたソクラテスの企てによって引き出されたものであ

さてこの時﹁満足できない﹂とは誰が言うのかといえば︑既に述べたように︑大工が大工として︑農夫が農夫として言

うのではな‑︑﹁ひと﹂が言うのである︒端的な意味での﹁ひと﹂が言うのでなければならぬ︒しかしこの端的な意味での

﹁ひと﹂とは︑国家のなかに何時,どのようにして登場して来たのかが少なくとも﹁最も必要なものだけの国家﹂のうち

には登場して来てはいない︒この﹁最も必要なものだけの国家﹂に入国を許されたのは役割という規定の資格審査を経た

人であった︒それ以外のひとの入国は許さないのが﹁専業の原則﹂なのである︒従って端的な意味での﹁ひと﹂は'いわば

密入国しているということになる︒だがその人々の暮し振りが描かれてい‑時︑まさにそこでこの端的な意味での﹁ひと﹂

の密入国が発覚することになる︒﹁最も必要なものだけの国家﹂は生産者(農夫︑大工︑機織等)の生産者としての仕事振

りに即して描かれてきた︒しかしその人々の暮し振りが描かれる時︑そこに潜んでいた﹁ひと﹂の密入国が発覚する︒と いうのは暮し振りとは︑生産者の生産者としての暮し振りなのではな‑︑まさに﹁ひと﹂の暮し振りでなければならない

私は以上のことをより一層明らかにするために︑﹁仕事振り﹂から﹁暮し振り﹂へという論点の移行の発端となった︑一

連の問いと答を吟味する必要があると思う(I)︒国家は﹁完成したかどうか﹂(371E9‑10)という問いに対するアデイマン

トスの肯定的な答を受けて︑ソクラテスは次のように問う︒

正坐拭払.Pと専業乃百小判

(12)

﹁では(正義)と(不正)はこの国家のいったい何処にあり回︑しかもそれは我々が考察してきた人々のうちの誰と

ともに生じ来て㈲︑のことか﹂(371E12‑13) ところでこれに対するアデイマントスの示唆的な返答︑﹁まさにその人々のお互いに対するなんらかの関係のうちに﹂と

はソクラテスの問いに何を答えたものなのであろうかC2)cこのアデイマントスの答に対し︑ソクラテスはさらに&AA∴aax;

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デイマントスの答には︑ソクラテスの問いに対して適切なものが含まれていたと理解すべきなのか︒そもそもアデイマン トスはその答によって何を答えたことになるのか︒ソクラテスは﹁何処に﹂廟と同時に﹁その人々のうちの誰とともに﹂

㈲という'国家の構成員のうちの或る特定の人を問うたにもかかわらず︑アデイマントスは﹁まさにその人々の相互の﹂

というように︑特定の人に限らず︑すべての人について﹁正義と不正﹂のありかを示唆したのである︒このことの持つ意 味は極めて重要なのではないか︒このソクラテスとアデイマントスの問いと答のすれ違いにこそ︑以後の展開の発端はあ ると思われる︒アデイマントスは﹁それらの人々の相互の関係に﹂正義と不正のありかを示唆したが︑そこには正義と不

正のありかはないのである(5)︒なぜならこの﹁最も必要なものだけの国家﹂においては︑末だ﹁正義と不正﹂を問う地平

は何処にも現われていないからである︒ソクラテスの﹁何処に︑しかも誰とともに﹂という一見奇怪な問いは︑﹁最も必要 なものだけの国家﹂のうちには正義と不正を問う地平の現われていないことを'則ち﹁正義と不正﹂が問わるべき人々の 不在を的確に指し示し︑そこへこそ問いが向けらるべきことを明らかにしている︒この地平は続いてソクラテスが︑これ らの人々の暮し振りを考察する時へ﹁或る人々にとって満足できない﹂という仕方で登場する﹁或る人々﹂に求められなけ

ればならない︒

では﹁正義と不正﹂を末だ問うことが出来ないところで︑ソクラテスは何故そのありかを問うたのか︒ソクラテスは国 家の完成について︑これを疑問形で語り︑これに対してアデイマントスは﹁恐らく﹂と肯定的に答えることによって︑ソ クラテスは先の問いを問うこととなった︒則ち国家は完成したという︑アデイマントスの承認を受けて︑国家が完成した 以上はその国家の﹁何処に︑誰とともに﹂正義と不正は生じ釆たかを問うことになるのである︒このことはソクラテスの

(13)

﹁正義﹂探究の方法論(cf.369A5‑10)に提示された方法であった︒だがアデイマントスは肯定的な答をしたにもかか わらず︑既に述べたように︑ソクラテスはそこに﹁正義と不正﹂の問いを問うための︑決定的な場面の欠如を見通してい たのである︒では国家の完成について︑アデイマントスの﹁恐らく﹂という肯定の答は間違っていたのか︒国家は完成し たと言うべきではなかったのか︒たしかに﹁最も必要なものだけの国家﹂は完成したということができるだろう︒則ち国

家のアルケ‑(成立原理・始源)として定立された︑﹁われわれの生きてあるための必要﹂に基づ‑国家については︑完成

・完了を語ることが出来る︒だが問題はその﹁最も必要なものだけの国家﹂︑の完成が果たしてそのまま﹁われわれにとっ

ての国家﹂の完成と言えるが︑というところにある︒そこには我々が見てきたように︑重大な一点が欠落しているのであ

る︒この重大な欠落こそ︑完成を肯定するアデイマントスへ向けて問いかけられたソクラテスの問いによって︑﹁正義と不

正﹂が問わるべき人々の不在として逆に浮かび上がらせらわたものなのである︒

このよ‑にして考察は﹁蟹沢国家﹂考察へと移行するが︑このような仕方で語られる国家には︑その国家を何処で捉え

るかという把握の方途がない︒というのもこの﹁賛沢国家﹂とは︑﹁なくてはならぬということのためにあるのでは最早な

い︑I h切のものによって満たされることになる国家﹂(373B3‑4)だからである︒このことは熱で膨れ上がってい‑国家

(XtyfiaivouaavkoXk;,372E9)

膨張してい‑ことを意味する︒何故ならここには﹁満足できない﹂︑﹁〜が欲しい﹂という時︑或るものは欲求してよいが︑

或るものは駄Hだということを語りうるための原理は何処にもな‑︑そして﹁欲望﹂というのが︑つねに﹁現にあるもの では足りない﹂という意識である以上︑欲望とは本来的に無際限なものであるから︑この欲望を満たすための人々もまた

際限を‑国家のうちに入ってくることになるからである︒

プラトンはこの﹁欲望﹂の本来的なすがたを︑次のような表現のうちに正確に描写している︒

﹁もしかの人々もな‑ては孝Jrぬものの限度を越え︑財貨の獲得に無際限に自らを解き放つadwGtてabr0㌢㌻2

^prjfxatwvkt甘ivaneipov)をbば﹂(373D9‑10)︒

我々は﹁賛沢国家﹂にそのすがたを現わすひとを端的皇愚昧での﹁ひと﹂と呼んだが︑それは正確皇l一口い方ではないこ

(14)

とをここで認めなければならない︒プラ‑ンはただ一点﹁満足できない﹂へ﹁〜が欲しい﹂と語るひとを﹁賛沢国家﹂成立の

起源として確認した︒それは則ち'﹁ひと﹂はまず﹁欲望﹂というすがたでのみ認められたということである︒今引用した

言葉はこのことをはっきり物語っている︒﹁賛沢国家﹂に登場してくるかの﹁ひと﹂は︑﹁自ら﹂(自己)をともか‑も無際

限を財貨の獲得のうちにしか認め得ないのである︒そのようなものとしてのみ︑﹁自己﹂は語られる︒だがその時︑﹁自ら﹂

へ自己)という言葉は全‑その本来の意味を失ってしまっているのであり︑欲望のうちに拡散し︑欲望のうちに埋没して

しまっているのである︒我々は先に﹁専業の原則﹂がこの﹁自己﹂(自分自身)を確保する場で働いていることを見たが︑

この両者の対膜的なあり方を看過してはならない︒というのは﹁守る﹂という仕事︑そして﹁守り手﹂という問題はまさ

にここから始まるからである︒それは﹁ひと﹂を﹁欲望﹂として認めることによって︑一旦失われてしまった﹁自分自身﹂

(自己)を語る場をこの国家の何処で︑そして如何にして発見してい‑か︑という問題なのである︒それは言い換えれば︑

このような﹁欲望﹂としての﹁ひと﹂に起因する国家を捉える場を問うことでもある︒

守るという仕事︑或いは守り手は︑人々の﹁欲望﹂肘﹁無際限を財貨の獲得﹂にその起源を有する︒﹁欲望﹂‑﹁無際限

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373E6)でもあった︒従って﹁賛沢国家﹂においては︑戟さはいわば必然的なものである︒﹁賛沢国家﹂にとって必然的な︑

7]この戟さ‑守りという仕事の必要が守り手を要求することになる︒守り手の仕事(TOTO ′てduXa/covepyov)は最大のも

のであれば︑それだけ他の仕事からの暇と最大の技術と配慮を必要とする(374D8‑E2)し︑戟さに関することが(うま

‑)成し遂げられることは大切なことである(374C2‑3)といわれる︒これによって戟さ=守りに関わる営み・仕事は先

に確立された﹁専業の原則﹂に従わなければならないし︑そしてこの﹁専業の原則﹂に従えば︑この営みはこれまでの国 家の構成員の片手間の仕事として行われるのではな‑︑それを専ら行う人を要求する︒戦士はこれを専らに行う守り手と

(15)

して要求される︒

とまれ︑守り手は何を守るのか︒﹁守る﹂という仕事は何のために︑何をめざして行われるのか︒差し当たっては︑﹁全

財産とその国家の人々﹂のために戦い︑これを守る(374Al‑2)ということが出来よう︒だがしかし﹁全財産とその国家

の人々﹂はひとの欲望によって︑数においても量においても無際限に膨張してい‑ものなのである︒一体守り手とは︑無

際限に膨張していくもの︑かぎりの無いものを﹁守る﹂というのか︒﹁守る﹂という場合には︑何であれ何かを守るのであ

り︑﹁何か﹂とは無論限られた︑ひとつの﹁かたち﹂を持つものでなければならない(S)c

この問題をもう少し別の観点から考えてみる︒ソクラテスは戟さの起源について次のように述べている︒

﹁戟さが何か悪しきものを作り出すのか︑それとも善きものを作り出すのかについては未だ何も言うまい︒いやただ

これだけのことを語っておこう︒我々は今度は戟さの起源を発見した︒すなわち国々にとって'私的にも公的にも︑

生じる時にはいつもそこ(=欲望)からこそ何にもまして悪しきものが生じる︑まさにそれこそ戦さの起源である︑

﹂ ( 3 7 3 E 4

‑ 7 )

戟さがそこに起源を有する欲望は悪の起源と看倣されている︒しかし他方では︑その欲望から生じる戟さが善きものを

作り出すが︑悪しきものを作り出すかについては保留されているのである︒何故この点については保留されたのが︒そし

てこの保留の意味は何なのであろうか︒

守るという仕事は︑上記の如‑︑﹁賓沢国家﹂にとっては最大のものである︒この﹁賓沢国家﹂が存立するためには'

﹁Iが欲しい﹂という欲望に応じて︑この欲望の充足が不可避であるし︑この確保のためには戟さ=守りが必然的となる︒

しかし欲望とその充足には際限がない以上︑﹁守る﹂という仕事も何か際限のない︑ひとつのまとまりを持つ営みとしては

成立し得な‑なるのではないか︒﹁守る﹂という仕事がある︑成立すると語り得るためには'そもそも﹁何を﹂守るのかが

明確にされなければならないと考えられるであろう︒﹁何を﹂守るかということは︑どのように語り得ることなのか︒‑

しかし﹁何を﹂守るかはただちに語り得ることではない︒むしろそれに先立って︑﹁守る﹂という営み・仕事がどのような

仕事なのかが明らかにされねばならない︒ここから﹁専業の原則﹂に従って﹁守る﹂という仕事︑守り手の成立をそのピユ

(16)

.

 

( シスとの関わりのなかから決めていく︑という方法が採られることになるのである︒則ち﹁何を﹂守るのか︑という問い

は一旦保留して︑まず何を守るにせよ︑その﹁守る﹂という仕事・営みは如何なるものとして成立するのかへそして守り

手とは一体﹁何者である﹂から︑守り手であるのかへを問い定めてい‑ことによって︑﹁何を﹂守るのかを却って明らかに

していくことになる︒

以上のことは︑プラ‑ンの国家のモデル(それは自然本性に従った国家︑最もすぐれた国家︑最も正しい国家と呼ばれ

る)が︑他専らぬこの欲望に起源を持つ﹁賛沢国家﹂から︑これを浄化し整理してい‑(399E5‑8)ことによって建設さ

れていく︑ということとパラレルな問題である︒則ちこの整理・浄化ということは如何にして行われるかといえば︑戟さ

‑守りという営みの持つ事実的な起源(即ち︑欲望とその充足の確保)を差し当たりは保留してへその営みが如何にして 成立するのか︑を問うことによって遂行されてい‑のである︒ここに先の戟さが何を作り出すかについて保留されたこと の意味は存在する︒問題は守る‑戦うという営みのあることを事実として認容し︑それが何を生み出すかを問うのではな

く︑全く逆に﹁守る=戦う﹂という仕事∴富みが如何にLtl 'ひとつの営みとして成立し︑それとしてあるかを問うことに

よって︑それが何を守ることになるのかを明らかにしてい‑ということなのである︒いってみればそれはこの営みそのも ののうちから︑それが如何なる営み・仕事であるかを拓き示してい‑ことだと言えよう︒そしてまさにこの点でこの仕事

∴富みのどユシス︑或いはその仕事の担い手のピユシ.スということは重大な意味を帯びて‑ることになる︒何故なら.r守

る﹂という営みがある︑それとしてあると認めうるのは︑それが﹁よ‑・立派に﹂成し遂げられる場合であり︑そして﹁よ

く・立派に﹂成し遂げられるのは︑守るという営みがまさにそれ自身のピユシスに従って成し遂げられる︑というそのこ とによるのであるから︒ここから﹁国家の守りという営み﹂そのものに相応しい自然本性が必要であるとされ︑そしてそ

の自然本性が何であり︑どのようなものであるかを選び出すことが︑我々(対話者達)の仕事(374E4‑8)とされねばな

らなかった︒

さてではその﹁自然本性﹂の探究(ピユシスの選び出し)はどのようにして行われるのか︒まず最初にここにおける﹁自

然本性﹂探究の基本的な論点が何処にあるかを見定めておかなければならない︒もしここでの探究というのが︑人間の数

(17)

ある︑様々な﹁生まれつき﹂や﹁自然的素質﹂のなかで︑l体どのようなものがこの﹁守る﹂という仕事に適しているか 否かを問い︑適しているものを選び出すこと︑そしてそうした自然的素質を持つ人々を将来﹁守り手になるべき候補者﹂

とするということだと受け取るならば︑それによって問題は基本的に暖味にされてしまうであろう︒既に先の一・二節に おいて︑農夫や大工について述べたように︑おのおののひとのピユシスというのはそれぞれの﹁まさにそれぞれであるこ と﹂というところでその意味を有しており︑そのことは常にその営みそのものとの関係で語られるものであれば'我々は この﹁守り手﹂のピユシスということが問題となる場合にも︑守り手の﹁まさに守り手であること﹂が︑その守るという 営みそのものとの関わりのうちで問われるという︑基本的な理解を外れることは出来ない︒だが何故﹁守る﹂という営み の自然本性は探究されなければならないのか︒当然のことながら︑それは我々にとってただちに明らかなものとして示す ことの出来るものではないからである︒このことは守り手の存在に関わるアポリアとして︑則ち﹁守り手﹂のピユシスが

矛盾を含んでいること(375B9‑D5)として語られている︒﹁守り手﹂の自然本性はこのアポリアを克服して︑その成立

の可能性が示されなければならなかった︒

この﹁守る﹂という営みを(よ‑)成し遂げるには︑守り手は如何なるものでなければならをいかと言えば︑勇敢であ

らねばならぬ(375A9)ということが語られる︒よ‑戦う=よ‑守るという仕事を遂行するもの︑即ちその担い手は善き

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ことの担い手は善き守り手を措いて他にない︒﹁撃つ﹂という仕事がまさにそれとしてあるのはへその仕事が﹁立派に・よ

く﹂果たされる場合であり︑﹁よく・立派に﹂戦うという営みの実現は善き守り手による︒勇敢である(㌢<5)oe?oc)‑勇

戟(㌢dpeia)はこの時︑善き守り手をまさに善き守り手たらしめているところのアレデー(よさ・卓越性)であり︑

﹁よ‑二且派に﹂戦う=守ることを可能ならしめているアレデーとして考えられているのである︒

このアレテIを営みの担い手が有するには︑言い換えれば善き守り手=勇敢であるためには︑担い手は如何なるピユシ ス(自然本性)が要求されるのか︒即ち守り手は﹁どのような者﹂であれば︑まさに﹁守り手である﹂と言われるのか︒

これにはdujuoEtdyc(気概ある)が指定される︒その魂に関して︑du/uoecSv^でなければ肇らない︒しかしながら︑

(18)

このdv/uoec怠りを守り手の.ピユシスとして指定する時︑守り手の﹁守り手であること﹂に関して重大なアポリアが生

じることになる︒則ちこのアポリアは何であるかと言えば︑善き守り手たらんとする者は︑﹁穏和である﹂と同時に﹁気概 ある﹂という性格(エートス︑つまりそのような振舞のあり方)の者でなければならないが︑そうしたそれぞれの振舞を

提供する(2)'それぞれのピユシス︑﹁穏和である﹂自然本性と﹁気概ある﹂自然本性とは正反対の︑互いに相容れない矛盾

するピユシスである(375C6‑8)ということである︒これらのどちらかのピユシスを欠いても︑善き守り手は成立し得な

い(375C10‑ll)しかしこれら二つのピユシスは矛盾するものでありながら︑それぞれ守り手の﹁守り手であること﹂

をまさに構成し︑決定づけるものでなければならぬ︒この矛盾する二つのピユシスが何らかの仕方でひとつのかたちを得 て'守り手のピユシスが成立する時︑善き守り手ということが語りうることになり︑守り手のアレデーが語られ得ること になる︒このことは﹁守り手﹂というものは語りうるが︑﹁薫き守り手﹂は語りえないtということではない︒﹁他人の手

を侯たすとも︑自らが其先に自分自身を滅ぼしてしまう﹂(375C3‑4)︑﹁善き守り手が生じる可能性はない(&8㌢(XTOV)﹂

(375DIE)ということは︑そもそも﹁守る﹂という営み・仕事そのものが成立し得ないことを意味するのである︒

このアポリアの解決のためには︑守り手のピユシス探究の当初と同様に︑犬とのパラレルな考察(a)を保持する(375El)

方向がさらに採られる︒

﹁そうした犬たちの振舞のあり方(エートス)は︑自然本性においてこれである︑すなわちよ‑慣れて見知っている

人たちにはこのうえな‑穏和であるが︑見知らぬ人たちにはそれと正反対の態度をとる﹂(375E2‑4)︒

犬にあっては﹁穏和である︑と同時に気概のある﹂という性格がまさに二つの矛盾するピユシスを含みつつ︑このよう

な仕方で成立している︒こうした性格・振舞のありよう(7Tp㌢eivata,tc0㌢Belvai/?)が成立するところは︑犬の

﹁知を愛し求める﹂(iiXoao≠oc)という点に帰される︒則ち﹁守り手﹂はその自然本性において︑﹁気概のある﹂という

ことに加えて︑﹁知を愛し求める﹂ということが求められる(375E9‑ll)ことになる︒

このようにして解かれる﹁守り手﹂のピユシスに関するアポリアについては︑留意すべき問題がある︒ここに選び出さ れた﹁気概のある﹂と﹁知を愛し求める﹂とが﹁守り手﹂の二つのピユシスであり︑しかもそれらが足し合わされたもの

参照

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GMS:Kant, I., Grundlegung zur Metaphysik der Sitten, 1785.. 義務にかなって conformement au devoir ということと, 義務に基づいて par

本文のように推測することの根拠の一つとして、 Eickmann, a.a.O..

より一段高いことになる.

保険法

存的適用が支持 されている。ベ ッ ドケ /コ マ ン ドイア (J.Baetge/DoCommandeur)も 、商法典 第 264条 2項 の資本会社 に対す る一般規範 は資本会社 にのみ適用

 もう一つの可能性は,この演説をトラシュマコス自身のおこなった政治演説