奈良教育大学学術リポジトリNEAR
歌謡としての短歌の唱謡法 ―五七調、七五調の問 題に関連して―
著者 土橋 寛
雑誌名 奈良学芸大学紀要
巻 4
号 3
ページ 33‑46
発行年 1955‑03‑19
URL http://hdl.handle.net/10105/5015
歌論としての短歌の唱諸法
五七調、七五調の開巻に関連して一一一一一
土 橋 寛
(一) 、短歌のリズムの考え方
日本の詩のリズムは短音節と長音節との組合せから成る晋群を単位として、57、57、・
とか、75、75……とか、77、77・=‥・…という風に、この単杜を繰返すことに.よって構成 される。それは、文字で省き表す場合には、単位音群を一行として書き表し、即読する場合には 音群の終りにポーズを置いたり、息をついだりすることによって、表現される。ところが詩は言 葉の音だけでなく、意味によって形作られるから、リズムも言葉の音声と意味との両方が参与す るわけで、青群の規則的な繰返しによる此按的単調なリズムに、意味のアクセントやポーズがい ろいろ形で交錯するにとによって、複雑な変化に富んだリズムの魅力が形成される。
土居光知博士は行の終りに停音を置き、或は息を吸い、或は、律動を−瞬間休止する傾向を「抑 卸」と名づけ、行末に文法上の句切がなく、律動が攻の行へ流れ込む傾向を「流動」と呼んで居 られる。「抑制」とは音声のリズムと意味の意味が一致する傾向であり、「流動」とは音声のリ ズムと意味のそれとが−・費しない傾向の一つの場合r外ならぬが、詩のリズムは古代でも明治で も始めは抑制だけで流動がないが、攻華行の中で意味が切れた り、行から行への意味が流れ込む 流動調喧変って、抑制と流動とが均衡を保つに至り、最後に流動だけで抑制のないものや、音数
庄)
上の形式を破った自由詩になることを、実例甘よって詳細に誼かれている。
短歌のリズムを、音声と意味の両面から考察した学者に、早く五十嵐統好があり、古代の歌の 五七は、「詞」の調(意味のリズム)で、七五の「声」の調(音のリズム)は、古も今も.不易だ
(ヰ)
と云っている。古代の歌を一般的にこう規定することが無理であることはいうまでもないが、
「詞」と「声Uの両面を考慮している点が注目されるばかりでなく、詞の句切が五七調であつて
も、芦の年切牲七五調だというような歌も絶対になかったとは言えない。「詞」の七五調が少数
ながら記紀の中にあるという事寒が、「声」の七五調の布衣を裏濱きしているからである。土居
博士も言われているように音声のリズムと意味のリズムは、本来は一一糞していたととすれば、古
代の短歌が意味の句切に於いて五七調であるということさま、芦の句切も五七調であったことを意
味するものと考え一Cよい、と同時に七五調の歌詞が記紐の中にあることは、七五調力芦の句一切も
既に成立していたことを物語るものと考えねばならぬ。そして短歌のリズムが蹄者から後者に変
化して行ったということも、五十嵐力博士ほか諸先学が説かれた通りであると怪、う。
五十嵐博士や士官博士の研究に於いて、五七調から七五調への変化の跡づけは、きわめて帯細 的確で、教えられ.る所が大きい。しかしそれは、今日の朗読される市と同様な、詩賓=「ズムの問 題として取扱われているのである。古代の短歌が朗読される詩というよりむしろ歌われた歌論で
あること、そしでそうした古代歌論としての記紀の歌の中で既で七五調の歌詞が現れていること を考えると、五七調から七五調への邁程揉、詩的リズムの問轟としてより軋、歌詩的リズムの問 題として、考えられねばならぬだろう。それは詩的リズムとしての句切、叉は抑制としででなく、
歌論の唱詩法や曲形に敬ける終止の問題として考えられ、説明されねばならぬだろうと里、う。
初期の素朴な諸こ於で、歌詞(意味)の句朝が行又は音声の有功と一致することは、肝に言わ れている通りであるが、それ姓蹄官が接者によって規定されるからであって、その道ではなレ、。
そこでは作者の思考や情緒は、詩の形式的なリズム灯支えられ、またげ締られて表現される。形 式が内容を規定するのである。そのことは訝戒の詩を貯読する場合に於いてすら認められるので あって、多くの学生性万葉の五七調の短歌は勿論、長歌ですら七五調でよむ。注意されて尊歌詞 の通りに五七調に読むことは骨が折れるらしく、いっの問にかまた七五調になってしまう。これ は七五調が「人間自然の声」であるとか「たよりよき調べ」(玉隙間)であるからというより、
彼らが七五調に慣れ、それが肉体化するまでに身についているからであろう。音声のリズムはそ れほどの強いカを持っているのであって、歌詞の句切はこれに背きえない。たゞ既成の詩のリズ ムの規制力に縛られぬほどの個性的な、強烈な思想や情熱だけが、これに抵抗して、形式との闘
●
いの中に複雑なユニークなリズムを生み出し、或はこれをつき崩して、新しいリズムル形式を生 み出すことができる。現代ですら、歌人や俳人の多くが既成のリズム形式に榊原であることは、
周知のとおりである。
歌論の形式の力且、詩の場合より一層償い。歩上倉で歌う場合は甲の歌う部分と、乙の歌う部分 とが定まっており、胡合でなくても、楽曲の構成と終止の位置はきまっているのであるから、そ ういう曲に,のせて歌われる歌詞が、それと矛屑するような歌詞になる事は普通はない。都々逸は 必す34、43、34、5であり、クドキは34、43を息雫に反復する。古代の歌論灯於いて はなおさらで、五十嵐・土居両博士たちが言われるよう灯、短歌が始め57、57、7又は57、
577と歌われていたのであるならば(我もこの詮′こ詮に.賛成である)、それが575、77と
歌われるようになったということは、詩的リズムの必然性という内的原因よりも、歌い方の句切
の変化という外的囁関によるものと考えなければならぬであろう。そういう意味で、短歌の唱論
法ないし曲形の方から、五七調と七五調の問題を考えてみようというのが小稿の目的である。
(二)、古代短歌の唱話法
ます短歌形式は元寒57577という全体的な統一一体であったか、それとせ 57と577又に 575と77、何れにしてを蹄半と後半とに相当する二つの句の合体したものであったかが問題 であるが、私の考えでは短歌も旋頭歌と同様に、前.後句の合体したものが統一→体としての短歌を 作り上げたものではないかと思う。それほ古代短歌の歌詞の様式が、現秦の尺講と同様、問答的
ないしノ掛合的な対立様式を基本としていることから 推測され,ることであるが、他方短歌の唱詩 法や曲形から見てもそう考えられるのであって、こ1では主として短歌の唱詩法について考えて みたい。
歌論としての古代短歌の唱詩法を知るべき資料は、平安朝の神楽歌と催馬楽であるが、神楽に ついてみると、これは菅本末を以てする揖計である。これに採物の様に十首ずつの撰合と、刻蹄 張や雑歌の七部分の櫛にこ上旬及び下旬を胡合うせ、のとがある ̄が、売乗だ・採物も上旬下旬の梯合 であったことは、第−に歌詞そのものがこれを示している。探物の歌は榊、解、枚、篠、弓、叙、
梓、杓、葛の九頓で(韓神はやや性質が遣うから暫く除外しておく)、その著しい共通点は、問 答休で探物の出所・本線を讃めることである。
こ の篠は いづこ の捷ぞ
天に坐す 豊岡姫の 宮の御篠ぞ 宮の御′篠ぞ
これは「篠」の本歌であるが、「杖」「梓」の本歌も全く同一一、「幣」け上旬の方が「微はわ がにはあらず」とやや変形しCいるに過ぎない。現在の花祭や島根広島両県の田栖歌でも、採物 や祭器を一つ一つ問答形式で讃めて行くのであるが、それは菅、短歌の上旬と下旬の拭含、少く とも胡合を原則としているのを見ても分るように、問答体の歌は元来は実際て問答的掛合で歌っ たのであって、自問自答は後の変化である。それは本来掛合で歌った問答歌をそのまま、叉はそ の形式を踏撃したものであるが、独・帝唱歌では問答形式は無意味であるから、当然歌詞の上に 変化が起って来る。「幣」の歌詞が下旬は同じでありながら、上旬が間句でなくなっているのは、
そうした変化のきわめて自然な過程を示している。垂仁妃に清日の歌と伝える「この御酒はわが 御酒ならす日本成す大物主の確みし御酒、戌久茂久」(紀15)なども、やはり同じ形式の歌である。
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だから唱論法としでは、抹物よりも却て大帝張や雑歌で、上旬下旬を本末で胡合に歌うのが短
歌本来の姿を伝えているわけであるが、大館張の「宮人」の如きは鍋島本戎本、楽章類語抄一本
では木方が一首重体を歌い、末方で下旬を歌う様になっている。これは天蹄張の喝論法としては
例外であるが、本来上下句を本末で胡合う方法から、採物のような歌い方に変って叩く漸度的形
式を示すものと考えられるのである。
そこで尊、うー一一度採物を麒みると、採物の贋札に固有の款掬とノ巨、われる蘭無体のほめ歌は墳本歌 であって、末歌の方は讃め歌ではあっても本歌とド無関係なもの(杖、梓)、採物の能軌と無関 係な恋歌や神への恋歌という趣のもの(篠、懲)が含まれている。後者の如きは単に「篠」の語 が歌詞の中にあるというだけで、探物の歌に取上げられているに過ぎない。これは恐らく、本来 は本末の械合で歌っていた餌乱の歌を本方だけで歌う様になったために、末歌の方には新たな歌 詞を作り、叉は他の歌詞を借りて来て歌う様になったものであろう。
催馬楽は神楽の蹄張などのように掛合で焦なく、町式灯は斉唱だったとゼわれるが、しかしそ の構成は拷合のヰ方で歌う上旬の部分をh叫段、末方が歌う下旬の部分を二段としているし、しか せ、・仁智要録・二五要録によれば、∵段と二段監同曲を原則とする点からみると、本来掛合で歌っ たものを一段、二段という形で歌うというだけの変化である。
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今の民活でも同じ歌が場所によって、あるいは時によって、胡合で歌われたり、独唱叉は帝唱 で歌われたりしているが、元塞性掛合で歌われていたということのはっきりしているものがある。
叉三河の花祭の歌ぐらに関する早川孝太郎氏の攻のような報昔も、この間の事情を知るよい手が かわになるであろう。
うたぐちは発声上の形式から凡そ二種の区制がある。その一つは或一一方が前半を出し、後半を別 の者が更けて附けるもの、今一つは大体之と同じであるが、後半を更に前の者が受歌って結ぶの であるコ之を行部こよって区別すると、第一は神下し、揚立等すべて儀式と考えている場合であ る。然し之は、築襟には両者対立して行わぬ場合もあって、発声から結びまで同一人によって続 けられるが.形式としてほどこまでも対立的である。
(前) アキスギテ アユ′シキトパ ケフカトヨ
(後) ケフカ1−ヨ カゼモノドカヂ ヤへニハナサク (神下しの歌)
第二の場合は一般に舞を夫、】照とした場合である云々 (「花祭」前編.銅べ)
このように短歌は元来上下二旬む掛合で歌ふものであったと推測されるのであるが、、しかしこ のような掛合を神人の問答から始まったという風に考えるのは誤りで、後でのぺる様に早く掛合 歌の歌い方を示している記紀歌講の「一つ玲」や「神風の伊勢の海」なども、神祭とは無関係な 一般的な民話叉は久米部発団内の艮講であり、今の民活にもあらゆる種類の喝に朝倉が見られ、
民話の歌詞の様式が掛合的な対立様式を中核としていることなどから考えると、捌合姓集団的な
民話の社会的機能に密接な関係を持つ尊、のと考えざるを得ない。歌垣でも天千六年二月の朱雀門
のそれは、都会的な風流芸と化してはいるが、やは拍己末の堵合で歌はれている点は歌薗国有
の風を守っているのであろうし、常在の神楽歌の掛合形式の如きも、一 元乗民話の形式の儀式化
されたものであって、上下二句の拭合が探物の歌よりも却て大輪礎や雑歌のような民請系枕の歌
の方に見られるとレ、う事実は、単なる偶然とは言えないであろう。
短歌の上旬下旬を二人で作る澤歌というような詩形式の発生も、短歌の右のような性格から始 めて理解される。連歌の壕も古い例骨万葉集の義持と尼の唱和であるが、それを偶人的な創作詩 としての短歌を二つに割って、その半分ずつで問答したり、合作するという方法を考え出したも のという風に考えるのは、正しくない。そのような苛按な思いつきの可能性を信するのは、余り に室想的で、連歌は胡合で歌われる歌論としての短歌を、文字を以て試みたものに外ならぬであ ろう。土田香柑氏も強調したように、短歌は車乗前後二句から成る詩形であった。というよりも、
掛合で歌われた二つの詞形が独唱されるようになって合体したのが短歌だという方が正確で、そ の点片歌が合休した旋頭歌とその性格を同じくする。だから連歌の起源を家持と尼の唱和とする の軋、片歌問答とするのも、本質的には大した租津はないと云ってよい。
(三)、五七調の唱讃法
短歌が本釆上下句に二分して歌われたものだとすると、それは「57−577」か「575−
77」か、ということが攻の問題になる。前者は五七調の唱詩法であり、後者は七五調の唱萬法 である。平安朝の御神楽の歌や催馬楽の唱詭汝を見ると、歌詞の句切の如何にか1わらす常、木 方叉は一段で上三句を歌う三句切即ち七五調の歌い方に先立ており、それは睨寮も島根、広島県 の田植歌、関東、東北地方の親歌や仕事歌にもそのまま守られている。これは三句タ1の歌詞の唱 話法としては適当であるが、二句切の歌詞の歌い方としては意味を無硯した歌い方と言わねばな
らぬ。
(本) 環に 衣は染めむ 雨ふれど
(未) 雨ふれど 移ろひがた し 深 く 染めてば (神楽歌、前張)
このように歌詞の七五調的イーj切と唱諸法の七五調的打切との不一一致は、古い五七調の唱話法で歌 われていた歌詞を、新しい七五調唱詩法で歌ってHハるためで、本米は唱蘇汝と歌詞の句嚢接ト■致 していた筈であり、記紀歌謡重五七調の歌詞が多いのは、竺時担二二旬切の歌い方をしていたため であろうと推則される。
それではそういう推測を裏ブける五七調唱謡汝の具体的な例があるかというと、幸いにして承 徳本古論集の北御門の神楽歌の中に、それと患われるものがあるのである。この北御門の神楽歌 は杢部で九首が再留められている中、八首は御神楽の採物と同様一首ずつの掛合であるが、貴後 の一首が左往にも「作歌九首之中経歌一首分=二唱_」とあるように、前後二旬に分けて胡合レ、に 歌うものであり、しかもその分け方が御神楽などとは凍って、
(37)
(本) 河社 梓に祈 り かけ 雀に折り かけ
(宋) 干す衣 いかに干せばか もロ干す といふ
という風に第二句を繰返した、確かに五七調の唱涌形式である。この歌詞は貫之集に「貰ほらへ」
と題して出ており、苗今六帖にも「神楽」の題で貫之作と記し、新古今にも「延首の倒時昇風に 貰神楽の心をよみ伝りける」と詞毒して、やほ 貫之となっているから、貫之の歌であることは 疑いない。奥義抄には掃い川瀬で行われる宴神楽の「に.は火」に歌う歌であったことが、多息方 の詮として記されているのを見ると、貫之の歌が貰神楽に用いられたものと考えられるのである。
こういうことは外にも、藤野敏行のi「ちH:やぶる加茂の社の柵小松」が永子の款に歌われて1ハる 例がある。 ④
ところで「河社」の歌詞の意味については、平安朝胡乗異説が多いが、何れにしても三句切で あることには疑いがなく、との歌こそ御 神楽などのように「(本1575−(末)577」と歌う 唱涌法に適合した七五調の歌詞であるに拘らず、木方で57だけを歌っているのは、御神楽の場 合と丁蜜反対に、古い唱論法で新しい歌詞を歌っているためである。これによって御神楽の七五 調唱詩法とは撞った古い五七調の唱論法が、当時なお北御門に保存されていたことが分るのであ るが、それではこの「北御門」とは一体何処であろうか。藤田徳太郎氏は「伊勢皇大神宮の数多い
6)
末社の一つで、大富の西にまします」と云って居られるが、神宮文庫蔵の「伊勢両神官末社記」
(延宝八年刊本、充祓十年写本)によれば、「外宮四十七社」の中に「北御門社一廣、著貰神、
番二宮北御門_」とあって、皇大神宮ではなく、外宮の末社であろうと思われる0が、何れに・して も伊勢であること!′ま確かで、こ」では宮廷とは遣った神楽歌の歌払方を伝えていて、それに貫之 の新作歌を庸いたものと思われるのである。
五七調の唱論法の確かな例として私が探し得たのは右の一画だけであるが、これに関連して注 意しておきたいのは、北御門の神楽歌の他の八首の中に、河社の歌と同様に第二句を繰返すもの があるということである。
(本) 三島木綿 かたに取 り かけ たかに取 り かけ 誰が代にか 北の御門と 視ひそめけむ
これにン二八ハて、佐々木信綱博士は「初の歌の『たかにとりかけ』の旬は待人であろう(或はたか
(り
に、たが代を重ねたのであろうか)」と云って居られるけれども、北御門の神楽歌が筍二句を返 すことは、信義本神楽歌にも証奴があるのである。
北 御 門
莞者宵巳加 於己名不也万乃 於己弄不也万乃 之比加毒し「:於介也 韓 神 北御門時異例唐坤曹操 大定日叉同
(38)
冥土万由不 加太爾[上里加介 加太Llヒ利加介 大加与爾加 於介也 (信蓑本)
この本では三島木綿の歌は「肩にとりかけ肩にとりかけ」と明かに繰返しになっていて、承徳本 の「たか」が誤りであることを示ているが、.擾婆塞の歌もやはり第二f】沌繰返している。承後車 には後者も.里ているが、この方は第二句の繰返しは記されていない。してみると承徳本に等二旬 の繰返しの記してない歌でも、寒際の演唱では繰返して歌われたのではないかという事も考へら れるも同じ北御内の神楽歌で歌詞によって括った歌い方をするということは、ます考えられぬか
らである。ただそれでは何故一一首だけ繰返しを記しているかという疑問が生するが、範写してゆ く間に繰返しの部分が省かれたということも考えられ、三島木綿だけは「かた」と「たか」が遭 っていた為に省かれなかったというような事情せ推測できるかも知れない。
さて、承正本によれば北御門の神楽歌にも、内侍研の御神楽と同様本末で短歌の上下句を胡合 に歌うものと、一首宛を掛合う里のと二通わの歌い方があったわけだが、これも上下旬のj卦合い が本来のものであることは、信義本に上三句だけが記されていることから推測できる。信義本で はこの外にも「宮人」と「木綿Lで」が上三句だけ記してあるが、これは楽章輝語抄その他の本 によっ「二明かなように本歌だけを書いて、末歌を省略したのである。短歌形式以外でも「薦枕」、
「蕃」、「千歳」などはやはり本歌だけで、末歌は省かれている。これは神楽歌は本末同じ曲節、
同じ拍子で歌われたものであるから(催馬楽にもこの棟のものが少くない)、歌詞を問題にする 人には不脛、議に見えるが、曲節を童にして考えていた当時の楽人にとっては、不自然な省略では たかったのである。それは注記なども
萬 枕 用狭居襲撃 帯電=司音 素
末以同数明.但ねたさうれたき上ウ昭、此歌清二誼
というように、歌詞よりも歌い方や苦楽的な方面に関心が向けらていることから了解l判乗る。
そうした傾向は神養本町限ったことで具ないので、たゞ信義本は略筆の傾向が強いというだけの ことである。えそういう神楽歌を音楽として考える傾向から、本末合わせて二1首の短歌になって いるものを、本歌だけ歌って本歌は歌わぬというような場合も起って承る。現轟の宮中の神楽で
(∋
「廣僚」、「求子」の下旬が歌われないのも、上下句が同音だからであらう。
北御門の神楽歌の唱論法で、「河社」が二句切であるのに対し、「三島木綿」や「優旦塞」の 方は三句切で、御神楽風の新しい歌い方に変っているわけであるが、第二句を繰返して「57
(7)5」となってレ、る点は、やはり「河社」との密接な関係を思わせる。この筍二旬を繰返す 歌い方は北御門の神楽歌の外にせ、催馬楽の「竹河」や「河口」に見川されるところで、しかも
それらが伊勢碓方出身の歌と考へられることは、注目に脆する。
(一段 竹河の 稀の語なノこjや 橋の語なるや 花博に ほれ
(二段) 花園に 我をば放てや 我をば放てや 少女伴へて
「竹河」は伊勢国多気郡斎宮村の西にありと言い、「河口の関」も伊勢国意志郡にあるというの を見ると、これらは本来伊撃棚方の民講で、これによって「57(7)5」の唱請形式が伊勢方面 の歌論では−一般化していたことが分かるのであるが、この事寒は、「河社」の「57(7うー57 7」の唱論決がそれ以前にあったことを基づける茸利にもなりうること、後述のごとくでキる0
(四)、七五調唱話法の成立過程
承徳本古諦集と信義本神楽歌とによって、伊勢の北御門の神楽歌には二つの唱詩趣があったこ とを知ることができた。
丁・(本) 5 7(7)
(末) 5 7 7 (河 社)
葺.(本)5 7(7)5
(末) 5 7‡(優姿塞、三島木綿)
・蹄者且五七調の唱諸法であり、後者は七五調の唱詩法であるが、後者は同じ七五鋼でも宮廷の御 神楽の
}・(本) 5 7 5
(末)(5)7 7 (大前張、雑歌の讃歌)
とやや遣っていて、1との密接な関係が認められる。催馬楽も大部分は1の形式であるが、伊勢 国出自の「竹河」「河口」の二曲は壬の形式であり、現泰の民論も天体はIに属している。こう した情勢を通観すると、平安朝以東工の七五調論法が京都を始めとして杢国的な主流であったと 想像されるが、伊勢地方には古い五七調の唱詩法である1の形式を伝えると共に、1からの変化
と思われるIの唱詩法が行われていたということが推測されるのである。
1と壬を比べると、1の方が古く、Iがその変化であることは、五七調から七五調という常識 からも想像もれたところであるが、第二句の繰返しの性質を考えてみると、それは一一層はつきわ する。掛合歌や二段構成に於ける末方や第二投の受取りとしての繰返しは別として、繰返しは天 体終末の句を繰返すのが原則で、本方ならば第三句、末方ならば第五句が繰返されるのは、神楽 催馬楽を通じて見られる原則である。これほ短歌一首を歌う場合にも終末句の筍五句か繰返され るのを見ても甥、かるように、意味の面からも楽曲の面からも、終止部として繰返されるのである が、組合ンこ於ける出ル歌の終末繰返しは、つけ歌をつけるための時間的余裕を与えるという意味
もあるらしく、碍島県の「玄如節」、「オオ黒節」のような歌合戦の款では、画し歌の終末句を棟
(40)
返すことになっていて、土地の人も「歌問答に際して相手に些少なりとも歌詞を考えるだけの
㊥
時間を与へるため」と考えているし、町田嘉章氏もこれを肯定して屠られる。そうした方法が掛 款でない「相馬二遍返し」に温埼いられるし、宮中の御神楽で旦終末繰返しがなされるが、御神 楽の方はむしろ楽曲禍成上の終1上旋律部としての意味を持っていると、芝繭奉氏は説明して啓ら
◎
れる。だから繰返してと云ってい1ろいろの機能があり、終末繰返しでも機能は必すLもト一つで はないが、Tの様に途中の第二旬を繰返すのは、繰返しの機能のはっきりしない共繭のもので、
何か特珍な事情によるものと考えざるを得ない。
私はこのlの形式が1と同じ伊勢の北御門の神楽歌や、伊勢出身の催庸楽に見られる形式であ ることから見て、本来「57(7〉−577」と歌っていた五七調の唱詩法が、ヰ方叉は−一段で、
つけ歌が歌うべき筍三旬を先取りして歌うことから生じた、新しい唱講形式ではなかったかと考
°●
える。つまり五七調唱議決で終末繰返しとして第二旬を繰返した後に、第三句を見取りして廿の
「57(7)5−(5)77」という形式が生じたのであり、これに対して第二旬の終末繰返しの部
●°°
分で、繰返しの代りに葦三句を克二取りしたのがtの「575−(5)77」であると′誓う。
このような兼敏現象は、新しく歌を作って歌う場合には起こる筈はないが、訝存の歌を歌う場 介には、起こりがちのことであることをわれわれは知つ−こいる。花祭の歌ぐらでも本東胡合で歌
うべき歌を「出し」が全部歌ったり、定まった投の君が歌うべき歌を見物人が奪って歌ったりす
Hコに
る。こうレ、うことは厳粛な寒気の中で行われる固定した併式の中では起こりにくいが、神祭りで一 も民衆賠な場の興奮した才気の中では壊々起こるのであって、目下の問題たる短歌の勘合に於け る先取現象の例も、そうした厨講の中に見出すことができるのである。
島根県の田植歌では、計ゲと早乙女が田の神の誕生と年長に関するほめ歌を、胡合で問答的に 歌い披けでゆくが、その形式は平安朝の御神楽などと同様七五調のⅠの形式であり、ハヤシ詞の
「ヤーハレ」「ヤーレ」も(関東の田植唄では「 ヤーハノ」となる)記紀歌誅や催馬楽に見られ る「アハレ」の理布と思われ、そしてその置かれる佗達も同じである。
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(サ ゲ) 田の神∩ヤ←レ 生れし月は 幾月かヤpレ 幾月かヤrレ
(早少女) 確月かヤ←レ 十月に足いて 生れ或る (能美部)
つまりサゲは田の神の生れる月を575で問い、これに対して早乙女が答歌を歌うわけで、この ような歌い方が掛合か本寒の姿であるべきだが、この歌詞を他の所では
° °°
(サ ゲ) 田の神のヤrハレ 生れL月は 幾月かヤ←ハレ 九の月ヤーハレ
.°°
(早少女) 九の月ヤトハレ 十月になれは 生れ来る (大原郡)
と歌っているのである。つまり「援月か援月か」と歌う終末繰返しの代りに、ツケが歌うべき
「十月になれば」の文句を少し変えて、「九の月」と歌っているのであって、能義郡の「575
(5)−(5)75」が、こtでは先取りによって「5755−(5)75」となっている。同じ大原 郡の
°°●°
(サ ゲ) お田の神ヤ←ハし 育つの同は 何処の固ヤ【ハし 陸奥の国ヤrハレ
(早少女) 陸奥の回ヤrハレ せんだら菅の 笹陳よ
も、本裾は「何勉の国 何処の国」であったのを、「何句の国 陸奥の国」と、答えの史句を先 取りして歌っているのである。これが更に進むと間の文句は捨ててしまって
° ° ° ° ° °
(サ ゲ) 田の神の 生れを間へは 陸奥の田 陸奥の国
(少 女) 陸奥の国 せんさら山の 笹育ち
° .° ° °
(サ ゲ) さんばいの 生れし月は 九の月 九の月
(少 女) 九の月 十月となれば生れくる
(能莱郡)
(邑智郡J となってしまう。
これは七五調唱詩法に於ける先取現象の例であるが、北御門の神楽歌のような五七調唱法に於 いて、この先取現象が起る場合を考えてみると、
(本) 河社 篠に折 り かけ 篠に折 り かけ 干す衣
(末) 干す衣 いかに干せはか と日干ず といふ‥…‥‥・…‥…‥‥‥(イ)
(本) 河社 梓に折 り かけ 干す衣
(未) 干す衣 いかに干せばか 七日干すといふ=…‥・‥・‥…‥‥・(ロ)
となる。その場合、箱二句の繰返しの七晋句の代りに五苦を先取りするととは、字足らずになる ということがあるが、それはハヤシを入れて補うことも出釆るし、芦を伸ばして七晋の長さ、にす ることもできる。平安朝の神楽歌や催馬楽の第三句の下にアハレやハレの躯子があるのは、恐ら くそういう必要:こ応ずる意味のものであったらしく、仁智要録や三五要.鎌を見ても「575−
(5)77」の曲形は多くAAであるが、第三句の5音にアハレを加えて、第五旬7音と同じ長さ 同じ曲節にしているのは、これを物語るものと云えよう。叉本から末への受渡しの現象は七五調
◆唱法に伴って発生したものらしいが、これは み諸の 厳歴がも と
匿が も と 点々 しきか も 檻原嬢子
大路に そひてのはれる 青柳が花 青柳が しなひを見れば 今盛 り な り
(言巳囲)
(催馬楽、プこ路)
のような所謂見取式繰返しの性質も持っているが、歌詞の意味に無関係に、そして五音がそのま
1繰返される点がやや趣にしているのであって、そういう点から見ると、これも先取現象の飴果
として生じたものであるかもしれない。
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河社の例に於いてみるように、五七調の第二句の繰返しの後に先取りノ和を酔う(イ)の場合が
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七五調Tの成立の契機であるのに対して、筍二子りの繰返しの代狛こ先取りする(p)の場合が場 の成立契機となる。
そうした先取り現象が現寮の民講にも見られることは既に述べた通りであるが、ただそれは繰 返しの代りに先取りする例ばかりで、繰返しの後に先取する例は見出せない。これは、今の民話 は七五調唱論法で、第三句の繰返し.の後に先取りすると「575(い5−(5)75」となって
L出し」歌の長さが「つけ」歌に比してあまりにも長くなり、これでは前後句を同じ曲節で歌う
1.
という約束が守れなくなるからではないかと患われる。そこで一つの注目すべき例をあげておこ う。
十七が 柳の∵下で 芹をつむ
芹け な し 柳は よれて か ら みつ く (香取神宮御臣栢唄)
十七が ′J、ざ,るを芋に持ち 柳の下で 芹をつむ 日 は暮れる 芹はたま らす 柳はおれて よ り かかる
卯どの ゆる して下さい お前も幸ある 花だもの (千葉県∴「七郎)
前者甘普遍的な甘形式であるが、後者は腰の筍二旬七晋の繰返しが有意味の語で埋められた「5 7751の形式で、これを三回反復している。レ、わぼIの前句を反復するもので、この形式は広 島県安佐郡の田栢唄の中にも見出されるが、むしろ関東地方に多く、埼玉県北高田郡の田植唄や 初卯調、神奈川県のこれさま、千葉県の事金節、など釈唄に多くの例が見出される。平安朝の神
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楽や催馬楽に於いて見られる、五七調唱法に於ける前句の終末繰返しの代りに、叉はその後に後 句の初旬を先取りすることによっで七五調の二つの形式が生する過程は、このように硯寮の民話 の中にも、ある程変は辿ることができるのである。
(五)、七五調発生の時期
それでは日本歌論史の中で七五調の唱詩法ないし詞形が発生したのはいつ頃であろうカ。短野 に於ける七五調の発生は、長歌よりも邁かに早く、記紀の短歌の中には多くの七五調が見畏れる のである。歌詞の意味上の句切の判定は、完杢終止の場合は明かであるが、中止の場合は必ずし
1
も明瞭ではない。が、私が自分で適当と思う痩準で、一一貴した葛準で分輝してみた繹典をいうと、
古事記 二句切 29首。 三句切 8 胃。
諺 妃 二旬切 37首。 三句切 23首。
(43)
となり、期先の相達による数字の薄いを考慮しても、七五調の歌詞は既に相当の数を示している のである。
のみならず、七五調の唱論法を示している例さえも、中にはいくつか見出される。例えば 尾張に 直に向へる 一つ桧 あはれ
一つ松 人にありせば 衣着せせ Lを 大切楓けま Lを 促27)
神風の 伊勢の海の 大石にや い延ひもとはる 細螺の 細螺の 君子よ 吉子よ 細螺の 延ひもと捜 撃ちてLやまむ 撃ちてLや青む (紀8)
前者は短歌、第五句の繰返しが少し詞が変化している点から云えば彿足石歌体と云ってもよいが、
一応短歌の紡束繰返しと見て差支えない。後者は短歌より二句多いが、「一つ松」の歌と同一一一の 唱論決を見せているので、合わせて考えて見る必要がある。これらは歌詞が七五調であるばかり でなく、唱論法も平安朝の神楽歌や催馬楽歌の七五調の壇論法と同じであることは、ハヤシ詞の 位置、つけ歌に於ける第三句の受取り方を比べてみれば明瞭である。
r本)伊勢鳥の 海人の刀称らが 焚く火の気 おけおけ
(未)焚く火の気 弛良が鴫に 薫り合ひたり おけおけ (神某歌 弓立)
(→段) この鞍は むべも むべも富みけり 三板の あほ事し 三三校の はれ
(二段) 三枝の 三瑳 四糞の中に 殿作りせりや 殿作りせりや (催鳥楽 此殴)
即ち「→つ松 あはれ」、「細螺の 君子よ」は神楽歌の「木方」催馬楽の「一段」の終末に相当 する部分であり、攻の「一つ松」、「柵螺の」は末方又は二段で、前句の末句を受取る尻淑式繰 返しに外な・らぬ。神楽は本末の耕倉であり、催馬楽は帝唱叉は独唱であるが、催馬楽の−一段二段
は神楽の本末と重く同じで、本末を同一人で歌うというだけの違いであるが、右の記紀の歌が曲 節の如何に拘らず、神楽叉は催馬楽と同じ歌い方をしていたことは、右の比按によって明らかで あるっそしてこのような歌い方は、右の二首だけであったとは考えられないのであっ字、記載さ れた形式は繰返しやハヤシを省いた為に普通の短歌と同じになっていても、実際に諭はれも際に
は右のような歌い方をしていたものが、外にもあったと腰、われる。現に右の久米歌は、古事記の 方では繰返しや「吾子よ」のハヤシを省いて
神風の 伊勢の海の 大石に 延ひもとほろふ 細螺の
い延ひもと近 撃ちてLやすむ (記14)
というような書き方をしているのは、これを物語っている。
これによって記紀歌帯にも七五調雷の唱諸法が存凄していたことは明かであるが、Iの形式も
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やはり存轟していた。「一つ松」の款は、岳事由では先の轟紀の形式と示し憩ってレ・ゼ 尾張に 櫨に向へる:臣浮の囁なる 一つ松・あせを
一つ松 人にありせば 太刀僻けまLを 衣着せずLを 一つ枚 あせを (記30)
この方は明かに北御門の神楽歌や伊勢出身の催虜挙と同じIの形式で、唯第二句の繰返しが有意 味の語で埋められて「57(7)5」が「5775」となっているだけである。同じ「一つ松」の 歌の亭紀と古事記に撒けるこうした関係は、現在の民請灯於ける香敢神官御田楷唄と十′ヒ節との 関係に比することのできるもので、平安朝の御神楽や催馬楽と伊勢国の神葬や民話との比較によ
r
って知られる五七調かち七五調への変化の二つの過程が、共叱記紀歌論の時代に成立していたこ とを物語っている。それは詩歌的なリズの必然性から起ったものではなく、歌詩法の変化から起
こったものであった。
七五調のIと1とこつ形式が、平安朝歌詩では官是ないし京都と伊勢という地域的な相連に於 いて見られ融亡、これは伊勢地方には平安朝までも古hlの形式が残っていたことを示すに過ぎ ないのであって、発生期に澱では両者は並存的に発生したものであろう。「一一つ松」の歌が記紀
bで両様にに伝えられていることは、Tと種が始めから地域的な相逮ではなかったことを示すもの と考えてよいと思う。この歌は歌詞内容から云っても、民講の木ぼめの歌と思われるが、「尾津 の崎」は伊勢であるから、この歌も1と伊勢との駆係を示す一例ではあるが、。これをあまりに軍 硯しすぎることは危険であろう。
(六)、歌詞に於ける五七調と七五諏
唱詩法に於ける五七調から七五調への琴化が歌詞に於ける五七調から七五調への賓化の根本的 な原関だあった。第二句で句切って歌う場合には、歌詞も二旬で賂止する筈であり、第三句まで 続けて歌う唱論法が成立すると、新しく作られる歌詞は三句切になる。
妹が門 行き過ぎかねつ
ひぢかさの 雨 も降ちなむ 雨がく れせむ (万糞集 巻十一)
のような二句切の歌詞すら、三句切の唱詩法で歌う場合は、
妹が門 夫が門 行きすぎかねてや わが行かは ひぢか さ の ひぢか さ の 雨 もや降らむ しでたを さ
雨宿り 笠宿 り 宿り て書からん Lでたを さ (催馬楽 妹之門)
という風に第二句が第三句に接続するような歌詞になる。
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