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巻頭言 「低さ」からの出発

著者 村松 晋

雑誌名 聖学院大学総合研究所Newsletter

Vol.26

No.2

ページ 3‑3

発行年 2017‑02

URL http://doi.org/10.15052/00002949

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巻頭言

「低さ」からの出発

 昨年は何かと「知事」が話題になった。だからというわけではないが、本欄でも一人の埼玉県知事を紹 介したい。川西実三(1889 〜 1978)のことである。彼は今から81年前の1936年、33人目の埼玉県知事に 就任した。周知の通り当時の知事は、住民の投票で決まるものでなく、川西も「中央」からの赴任であった。

在職期間も長くなく、1938年には長崎県知事に転任となった。しかし川西は知事としての 2 年を通し、本 県にいくつかの足跡を遺した。たとえば戸田のボートコースである。三峰山にはロープウェイも設置した。

1937年、ヘレン・ケラーの埼玉訪問を実現させたのも彼である。

 ただしこれらは時節柄、別の誰かが知事であっても成し遂げられたことだろう。川西が埼玉県に遺した 最大の〈贈物〉は、その「低き」まなざしと言ってよい。たとえば彼は歴代知事と同様に、県内視察を行っ た。しかし川西が最初に赴いたのは、交通不便でこれまでどの知事も足を踏み入れなかった秩父地方の山 村だった。長崎県知事就任の折も、川西は離島から県内視察を始めている。

 そんな川西の人柄を、当時の新聞はこう評価した。いわく、「川西知事は『話せば分る』の熱烈な信者で、

凡そ対立抗争などとは縁遠い而もこの『話せば分る』は人の話もよく聴くし自分でも諄々と説いて倦まぬ」

と(『東京朝日新聞』埼玉版、1936年11月10日)。このように川西は、「知事」としての「高み」から職員 ひいては県民を見下ろすのではなく、みずから職員・県民のいる「低き」処に降りていき、彼らと共にあ ることを志向した。

 その川西の原点として注目されるのが、学生時代における新渡戸稲造(1862 〜 1933)との出会いである。

新渡戸は川西が第一高等学校学生の頃、その校長を務めていたが、雑誌『実業之日本』等、当時の「通俗」

的読み物への執筆を続けた人物でもあった。

 新渡戸のそうしたあり方は、天下に名高い「エリート校」の校長にふさわしくないとして、「識者」に 批判されもした。しかし川西ら新渡戸に師事した学生たちは、その真意に触れて心動かされていた。とい うのも『実業之日本』には、上級学校への進学など到底望み得ず、早くから額に汗して働かねばならなかっ た若者たちが、人生の指針を仰ぐ手紙を必死に寄せており、新渡戸はそれらに返答すべく真摯に向き合い 続けたからである。

 社会的に「高い」地位にあぐらをかくことなく、「時代の陰影」に置かれた人々に寄り添おうとする新 渡戸の「低さ」は、日露戦争後に自己形成した川西ら「明治の青年」に深い影響を及ぼした。そこで培わ れた志こそが、33人目の知事として埼玉県に赴任した川西の礎だった。以来81年、川西の「低き」まなざ しは、私たちが明日の世界を思い描く上で、今なお立ち返るべき起点たり得ているのではないだろうか。

※拙稿「ある埼玉県知事のこと」(『埼玉新聞』「経世済民」2016年11月15日)を改題、加筆した。

聖学院大学 人文学部 日本文化学科長・教授 村松 晋

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