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フンーベルの形而上学的発達観 プロティノスの発出・還帰を基調にして

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Academic year: 2021

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フンーベルの形而上学的発達観

プロティノスの発出・還帰を基調にして

甲 斐 規 雄

はじめに

 1.プロティノスの世界観とフレーベルの発達観  2.フレーベルの発達観の系譜

 2−1フレーベルのペスタロッチ教授法理解  2−2フレーベルの発達観の変遷

 3.形而上学的発達観

 3−1形而上学的発達観の要素

 3−2発達段階における形而上学的発達観 おわりに

はじめに

 以前にプロティノスの発出・還帰の考え方がフレーベルの「神と人間の合一的生命」「連 続的創造,活動」に影響を与えているのではないかという仮説を立てておいた。ω

 そこで,本論文ではプロティノスの発出・還帰の考え方を基調にして,フレーベルの発 達観のうち,形而上学的発達観について整理してみたい。

1.プロティノスの世界観とフレーベルの発達観

 フレーベルの「全てのものは神的なものから,神から生じ,神的なものによってのみ,

神によってのみ制約される。神の中にこそ全てのものの唯一の根源がある。全てのものの 中に,神的なものが,神が宿り,働き,支配している。全てのものは,神的なもの,神の 中に宿り,生き,存続している。全てのものは,神的なものがその中に働いていることに よってのみ始めて存在する。このそれぞれのものの中に働いている神的なものこそそれぞ れのものの本質である。」②という文章の解釈は難解である。しかしプロティノスの一者,

知性,魂(純粋魂世界魂,個別魂)そして知性的世界,感性的世界にそのままフレーベ ルの用語を当てはめることはできないが,説明の手段としては可能のように思う。

 全てのものは一者(統一者,神)から発出し,知性(神性)の思惟により純粋魂が,感 性的世界に万物を創造する。その感性的世界には万物を支配する一者,知性,純粋魂の中 にあって,一者,知性,純粋魂によってある世界魂(法則)が働き,支配している。「自然 と人間の中には,一つの源から発し,同一の法則に従って働く諸々の力が働いている。」(3)

唯一の根源は一者(統一者,神)の中にある。そして「神的なものの作用は,妨害されな い状態においては必ず善であるし,また善でなければならない,全く善以外の何ものでも ありえないからである」( )のは当然である。知性をプロティノスは,父親ごときもので,息

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子が不完全であるから養育するのであるが,それは火と熱のように分割可能でありながら 不可分であると言う。

 一方,全てのものの中には,一者,知性,純粋魂の中にあって,一者,知性,純粋魂に よってある個別魂が宿り,働き,支配している。ところがこの個別魂は,「自己が神的なも のから,神から生じてきたものであることを朧気な予感としてではあるが,すでに早くか ら意識している。」(5}これは,一者(神)との完全な結合を求める最初の萌芽であり発端で ある。そしてそれは,「知覚された独自の精神的自己が,ないし人間の精神が,もともとは 神と一つのものであったという予感を明確な意識に高めようとする努力,及びこの意識に 基づいて神と合一しようとする努力」⑥をすることになる。従って教育の目的は「職分に忠 実な,純粋な,無傷の,従って神聖な生命を表現することであり」「汝まず神の国を求めよ」

ということになる。これは,一者への向き変え,還帰と見ることができる。

 このことは,プロティノスの発出,還帰を機能させる知性的世界,感性的世界の説明に なる。発出,還帰により,流れが合流し,源泉を想起し,「生命の覚醒者であり,保護者で ある太陽の影響を受けて始めて,完全な形成を成し遂げるものである。〈中略〉あらゆる地 上の形態は,太陽の光線を渇望して,それに向かい,太陽の光りを吸い込み,太陽の光り

と太陽の光線により鎚っている。」(7)そこには,「知覚された独自の精神的自己が,ないし人 間の精神が,もともとは神と一つのものであったという予感を明確な意識に高めようとす る努力,及びこの意識に基づいて神と合一しようとする努力,更にこの神との合一の中で 生活のそれぞれの状況や関係を清くかつ強く生き抜いて行こうとする努力,〈略〉精神的な

自己すなわち魂や精神や心情は,神の中に安らうものであり,神の制約を受けるものであ り,神から生じてくるものであるという自覚を刺激し,確立し,啓発すること,魂や精神 や心情の特性や本質は,神の中で,神によって制約されていることを認識すること,〈中略〉

神との真の合一を保ちながら生きようとする努力や,或いはもしこの合一が妨げられれば いちはやくこれを回復しようとする努力」(8)なくしては,その者では有t)得ないことになる。

 フレーベルの順進的,漸進的,進化論的考え方が,自然科学,社会科学の研究から来る のか,キリスト教的なものから来るのか定かではないが,プロティノスの世界には,魂が

「知性的世界」の魂(純粋魂)から流出して,動くことにより必然的に時間が生ずる。逆 の言い方をすると,魂(世界魂,個別魂)の中に時間があり,魂(世界魂,個別魂)と共 に時間が存在するため,そこにはあらゆるものを作り出し,生み出していくという論理性 が存在する。つまり,「在る」のではなく「成る」のである。従ってその作り出された一つ

つのものにも個別魂が,従って神が宿っていることになる。そしてそれは,一つの世界 魂に,そして「知性的世界」にある「純粋魂」に,「知性」に,そして最上位にある「一者」

に有機的に繋がっている。

 従って,あらゆるものは,個別魂の中にあって個別魂によってあり,つまり神の中にあ って神によってあり,世界魂の中にあって世界魂によってあり,純粋魂の中にあって純粋 魂によってあり,「知性」の中にあって「知性」によってあり,そして「一者」の中にあっ て「一者」によってあるということになる。

 そして同時に,あらゆるものの中に魂が宿り,つまり神が宿り,そして「知性」が,「一 者」が宿っていることになる。そしてそれが,何らの矛盾もなく有機的に繋がっていると いう世界であるのが,この「感覚的世界」ということができる。

 この一者の流出,溢出,発出,人間の一者への憧憬,憧求,還帰による世界観を借用す

(3)

るならば,連続的創造,活動に基づくフレーベル独自の発達観の考察が可能になる。

2.フレーベルの発達観の系譜

2−1フレーベルのペスタロッチ教授法理解

 フレーベルは,1805年10月から14日間,イフェルテンのペスタロッチ学園を訪問,1808 年には再度訪問,翌年の4月には故国Schwarzburg=Rudolstadtの侯妃Calonineに,故 郷の学校教育にペスタロッチ教授法導入の建議という意図のもとに報告している。その報 告の冒頭「ペスタロッチの教育と教授の原則や,それを実行に移すための指示と方法は,

神の被造物としての人間の発達の仕方に完全に基礎を置いている。〈略〉人間がその性向 Anlagenの全体性を通して(均衡のとれた形成)その使命に従って,その存在する仕方か

ら出発する。」(9)そして「肉体的,心情的,精神的本質k6rperlich,gemUthlich ・・ geistiges

Wesenとしての人間の性向の全体性に即して人間を見て,その性向の全体性を生かしつつ,

その性向を調和的に育成し形成するために人間に働きかける」㈹と述べ,「人間をその発達 に応じ発達の中で,自然の法則Gesezen der Naturに基づいて人間の感覚に基礎付けられ た法則に基づいて取り扱おうとしている。」(11)と報告する。その上で,その教授法を幼児期 の人間,学齢期の人間と段階を追って,その教授法を紹介している。特に幼児期では,当 時話題になっていた『母の本,或いは子供に観察したり話したりすることを教える母親た

ちのための入門書』Das Buch die Mutter,oder Anleitung fUr Mutter ihre Kinder bemer・

ken und reden zu lehren,1803の弁護をしながら説明している。

 そこには,神の被造物としての「人間にとって,認識の,精神と心情に溢れた直観の最 高の対象は人間性にある」(12)ことを強調している。そしてペスタロッチの根本的な努力は,

「子供や人間の最初の認識や発達を子供そのものに結び付けた」(13)と,当時27歳のフレー ベルは言い切っている。そして巻末にはペスタロッチの基礎教授と高次の学問的教授との 関連Ueber den Zusammenhang des Pestalozzischen Elementar=Unterrichts mit dem h6heren wissenschaftlichen Unterrichtにまで触れ,人間教育の全体を視野に置いている。

そこには,ペスタロッチの人間の発達についての考え方が,子供そのものから出発し,そ の性向の全体性が常に核に据えられている。このペスタロッチの教授法の報告が,17年後 1826年フレーベルの主著『人間教育』,或いはその他諸論文の土台になっており,フレーベ ルの発達観の原点にもなっていることは間違いない。

2−2 フレーベルの発達観の変遷

 フレーベルが教育に従事し,子供の成長,発達に直接関心を示し,考察することを余儀 なくされた事実関係を整理してみる。

 第一に,彼は1805年23歳の時,ペスタロッチ学徒グルーナーの模範学校の教師となり,

同時にイフェルテンのペスタロッチ学園を訪問している事が挙げられる。次いで1808年26 歳ホルツハウゼン家の3人の子供の家庭教師とペスタロッチ学園を再度訪問教鞭を取り,

そしてSchwarzburg=Rudolstadtの侯妃Calonine宛てペスタロッチ教授法導入の報告を

している。

 第二に,彼は1816年34歳のグリースハイム,後カイルハウに移転した一般ドイツ学園,

1821年39歳からの3年間の膨大な実践記録と小論文の発表,1826年44歳で『人間教育』die

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Menschenerziehungを世に問うている。

 第三に,彼は1840年58歳の一般ドイツ幼稚園の創設,1844年62歳の『母の歌と愛撫の歌』

Mutter;und Koselieder,1849年67歳の『リナはどのようにして読み書きを覚えるか』Wie Lina schreiben und lesen lernt,『「リナが読み方を覚えた」やり方に示されている発達に

即して教育する人間陶冶の精神』Geist der entwickelnd ;: erziehenden Menschenbildung,

darge]egt an der Art und VX「eise wie Lina lesen lernte を発表していることである。

 このように整理して見ると,第一の30歳の半ば位までは前述したようにペスタロッチの 教育実践の吸収とその批判となっており,第二の50歳の半ばまでは教育実践を踏まえ,そ の教育原理を機能的,形而上学的に整理しており,第三の死去まではその教育原理の実践,

体験と応用,そして普及に尽力している。

 そこで,本論文では,第二の教育実践を踏まえた形而上学的発達観について1826年44歳 の時の『人間教育』を手掛かりに考察し,第三の形而上学的発達観の体験を通しての発達 観については「「リナが読み方を覚えた」やり方に示されている発達に即して教育する人間 陶冶の精神』を手掛かりに次回考察する。

3.形而上学的発達観

3−1形而上学的発達観の要素

 (1)統一者からの出発

 プロティノスの一者からの発出は,「自然と人間の中には,一つの源から発し,同一の法 則に従って働く諸々の力が働いている。」(14)から始まる。そして「神の子としてどんな人間 にも,それぞれ人間性の全体が内在しているが,それは全く固有な,独特な,個人的な,

それ自身における唯一の仕方で,各人の中に表現され,刻印付けられているのであって,

人間性及び神の本質が,その無限性や永遠性において,しかもあらゆる多様を自己の中に 含むものとして予感される為には,いや益々深く認識され,益々生き生きとかつ明確に予 感される為には,人間性の全体がそれぞれの個人の中に全く独特な唯一の仕方で表現され」㈹

ていなければならない。

 その現実の存在としての人間に現れた神的なものは,「自己が,神的なものから,神から 生じてきたものであることを,朧気な予感dunkele Ahnungとしてではあるが,既に早く から意識しているものであり,しかも,この朧気な予感こそ,灰白色よりもなお朧気なこ の意識こそ,早くから人間の中に育まれ,強められ,培われ,後には意識にまで高められ,

純化されなければならないもの」㈹である。従って,子供には「人間として,つまり地上 的にも天上的にも,充分に良く整えられた寝床が,あてがわれることになる。祈りが寝床 を用意するのである。人間は神によって,あらゆる現象の最初の視点であると共に究極の 関係点である神の中に,安らうもの」(17)だからである。

 (2)内在する人間性の全体

 上述の被造物である人間に対しての「規定的,要求的,命令的人間教育の方法は,本来 明確な自己意識の覚醒を待って,神と人間の合一的生命Geeinlebenの開始を待って」(18)始 められなければならない。何故なら,子供は,一つの源から発しておリ,両親は「子供の 教育を人間性及び人類発展の現在,過去及び未来の要求に結び付けると共に,この要求と 子供の教育との一致や調和を計るべきである。それは人間が,神的な,地上的な及び人間

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的な素質を持ち,神と自然と人類に属するものとして,従って統一性と個別性と多様性と を同時に自己の中に含むものとして,従って現在,過去及び未来を同時に自己の中に担う ものとして考察され,配慮され,かつ取扱われるべきものだからである。」(19)

 従って先ず幼い人間つまり子供は,「自分の全ての力や身体各部の重心Schwerpunkt,っ まりそれら全ての関係点Beziehungspunktを,自分の中に見い出す事や,その点に身体を 支えること,更に,その点に身体を支えながら動くこと,しかも自由に運動し,活動的で あること,及び自分の手で掴み,しっかり持つこと,自分の足で立ち,歩くこと,自分の 目で見付け,見詰めること,身体各部を全て同程度に,同様の力で使用する」(2°)ことを早 くから習得しなければならない。

 (3)衝動と刺激

 「万物の使命,職分は,そのものの本質,神的なものそれ自体を発展させながら表現す ること,神を外的な物の中に,過ぎ行く物を通して告げ,表わすことである」(21}と述べる。

この中には,統一者から発出した現実存在が包含する本質,神的なものが,その性向に基 づいて発展し,やがてその本質,神的なものを現すという統一者への還帰と説明できる。

これが,万物の職分であり,使命である。そうならば,人間には自己の本質をその性向に 従い表現する衝動Triebを持って誕生していなければならない。この衝動があるからこそ,

人類の純粋な継続的発展,確実な不断の前進,つまり人間の中の神的なものを自由と自己 決定を持って,しかも人間の生命を通して表現することができる。

 一方では,意識し,思惟し,認識する存在としての人間の内的な法則,神的なものを意 識的に,又自己決定を持って,純粋,完全に表現させようとする刺激Anregenが必要であ

る。(22)

 この衝動と刺激を持って誕生したことが,「幼年や少年,一般に人間はそれぞれの発達段 階において,全くその段階が要求するところのものであろうと努力すること以外の,いか

なる努力もなすべきではない。」(23)「子供達は彼等の中に働いている形成衝動Gestaltungstrieb

や活動衝動Ttitigkeitstriebに,子供らしく頼りきって進んで身を委ねる」(2 )ことを保障し

てくれる。

 (4)継続的発展,漸進的発達

 先行研究では,この継続的発展,漸進的発達という発達の要素はフレーベルをフレーベ ルたらしめる卓見である(25)と言われている。しかし,その淵源を尋ねることは困難を極め るが,プロティノスの発出・還帰という世界観を基調としたのはここに理由がある。

 「人類の純粋な継続的発展Fortentwicklung,確実な不断の前進Fortschreitung,っま り人間の中の神的なものを自由と自己決定とを持って,しかも人間の生命を通して表現す る」(26)ことは,上述してきたとおり形而上学的には必然性がある。従って「人間及び人間 に内在する人間性は,外的現象としては,既に表れ尽くしたもの,完全に生成しきったも のとか,既に固定した者,不動なものとしてではなく,先へ先へと絶えず生成し続けるも の,発展し続けるもの,永遠に生きるものとして,無限と永遠の中に安らう目標を目指し ながら,発展や形成のある段階から他の段階へと,常に一層前進し続け」(27),「人間の発達 が一点から連続的に進展stetig fortschreiteしていくものとすれば,しかも連続的に進展す るものとして認識され,常にかかるものとして顧慮されるものとすれば,それは,単に人 間の中の神的なものや宗教的なもの自体の形成に関して,極めて重要であるだけでなく,

人間全体的な形成にとっても,極めて重要」(28)になる。フレーベルに言わせれば,「宗教と

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は,既に成立してしまっているものではなく,永遠に進展し続ける努力であり,まさにこ の努力を通してこそ,永遠に存続し続ける」㈹という宗教教育と符号が一致する。

 「人間の発達段階,つまり乳児一幼年一少年一青年一成年一老人一は実際に区分されて いるのであって,生命が示すように,割れ目luckenlosをその中に含まず,相互に浸透し合 いながら,連続的に発展」㈹し,「それぞれの段階の活気に満ちた完全な発達や形成は,そ れに先行する個々の生命の段階が,全て,及びそれぞれ,活気に満ちた,完全なしかも独 自な発達を遂げて」(31)おり,「少年が少年となり,青年が青年となるのは,その年齢に達し たからでなく,彼が,そこで,幼年期を更に少年期を彼の精神や信条や身体の諸要求に忠 実に従って,生き抜いて来たからである。同様に,成人が成人になるのは,成人の年齢に 達したからではなく,偏に,彼の幼年期や少年期や青年期の諸要求が,彼によって,忠実 に適えられて来たからに外ならない。」(32}という普遍性を持った発達観の論述には極めて論

理性がある。

3−2発達段階における形而上学的発達観

 (1)乳児期Sauglingszeit

 この段階の子供は「「乳飲み子」saugringと呼ばれるが,これは言葉の完全な意味におい てもそうである。と言うのは,「飲み込む」Einsaugenということだけが,子供がかろうじ てできるほとんど唯一の活動であり〈略〉この段階の人間の営みは,外部の多様性を受け

とりそれを自己の中に取込むことに尽きる。この段階の人間は,「飲み込む」」㈹からであ る。そして只ひたすら吸収する乳児には,「子供を取り巻く人々のまなざしや表情は,純真 かつ確固たるものであって,子供の信頼を呼び起こし,それを育むに足るものでなければ ならない。いや,更に子供の環境そのものが,それぞれ純粋,透明でなければならない。

澄んだ空気や明るい光や清潔な部屋一例えその部屋が,その他の点で貧しいものであるに せよ一が,是非必要である。何故なら,人間は残念ながら,大体においては幼少の頃吸収 したものや,青少年時代の印象を生涯を通じて,ほとんど克服し得ないものだから」㈹無 条件の環境造りが必要になる。

 そしてその無条件の愛情,環境が「共同のものや共同という事のこの最初の感情,これ がまず子供を,母親に,次いで父親及び兄弟姉妹に結び付け,そしてその根底にはより高 い精神的結合があるのであるが一更に後には,この高次の精神的結合に,父も,母,兄弟 姉妹も他の人々も,より高いものすなわち人類や神と共同に,又それと一体になって」統 者へと向きを変えることになる。この「共同感情GemeingefUhlこそ,あらゆる真の宗教 心Religiosittitの,すなわち永遠なもの,神との完全な結合を求める全ての真の努力の最初 の萌芽であり,最初の発端である。」(35)つまり発出・還帰は,最終の段階ではなく,不断の 発展それぞれの中でこの双方向の流れは要請されている。

 (2)幼児期Zeit der Kindheit

 幼児にとって「外界は,無の中から,しかも始めは言わば霧の立ち込めた,もののかた ちも定かでない暗黒の状態で,混沌とした混乱の状態で,子供と外界が相互に相手の中に 融け込み,消え去ってしまう主客の区別のない状態で現れてくる。」㈹そしてその幼児自身

も,肉体K6rper,心情Seeleそして精神Geistとが一つの塊になって現れてくる。そして

「身体の特に四肢の使用が,幼児の中に発達してくる。」(37)その為,幼児の性向に基づいて

「幼い時から常にこの生命や,他の人の,ないし他のものの生命を神の法則に従って発展

(7)

する連続的な全体entwickelnds Ganzesとして認識し,顧慮しなければならない。」(38)

 子供は,乳児期とは逆に「内的なものを外部に自発的に表現し始めるようになる〈略〉

自己を外部に知らせる。ないし告げ知らせる」㈹ようになる。

 「この時期の子供達の遊戯や遊戯活動が,特にこの自発的に表現することをよく示して いる。幼児は,遊戯しながら進んで,しかも可能な限り多くのことを話す。遊ぶというこ とと話しをするということとは,子供が現にそこに生きている」ことの証しとなる。㈹身 体的,言語的表現を孕むこの時期の遊戯は,「幼児の発達つまりこの時期の人間の発達の最 高の段階である。というのは遊戯とは,既にその言葉自身も示していることだが,内なる

ものの自由な表現である。」(41)

 フレーベルにとって「さあ子供達のところに行こうではないか。Lassen wir uns, unsern Kindern.彼等を通して我々の言葉に内容を,我々を取})巻く事物に生命を与えよう。それ

ゆえ彼等と共に生きよう。彼等を我々と共に生きよう。lassen wir sie mit uns leben.」(42),

「子供に生きようではないか。Lasst uns unseren Kindern leben」(43)は,この幼児期の珠 玉となる。

 (3)少年期Knabenzeit

 「更に言葉を身体的なものと見なすようになってくると,人間は幼児の段階から抜け出 して,少年の段階に上っていく。幼児という語が,前の段階を明確に表現していたのと同 様に,少年という語がこの段階を正確に表現している。これこそ人間が自分自身の力によ

って外的なものを自己に近づけ,それを自己のものにする段階である。」(44)幼児の段階は,

「主として唯生きる為というだけの生命の段階ないし生命それ自体の段階であり,内的な ものを外に現すことを主とする段階であった」が,乳児期とは次元のことなる自分自身の 力で「少年の段階は,主として外的なものを内面化する段階,つま})学習の段階die Stufe des Lernensである。〈略〉乳児期は,主として保育の時期die Zeit der Pflegeであった。

又それに続く時期,主として統一としての及び統一の為の人間を要求する幼児期は,教育 を主とする時期である。〈略〉個別的な関係における及び個別的なもののための人間を要求 する段階である。〈略〉従って少年期Knabenzeitは,教授を主とする時期」(45)である。

 その意味で少年期の子供には,「言葉の最も広い意味において,学校Schuleと呼ばれる もの」が必要となる。この段階で「母親は今や子供を家庭における教師としての準備を整 えた父親に,或いは父の代理人たる学校の教師に」㈹任せることになる。学校は,「人間が 自己の外にある事物やその本質,それらに内在している特殊な法則や普遍的な法則に従っ て認識するように導かれる所である。〈略〉同時に学校の人SchUlerになる」(47}からである。

おわりに

 フレーベルの発達観は,ギリシャ哲学,それも新プラトン主義のプロティノスの世界観 を基調にした形而上学的な発達観と言える。フレーベルは,『人間教育』では更に生徒に対 する主要教科である宗教教育,自然,数学そして言語等について,この形而上学的発達観

を基調にして説明を試みているが,本論文では,紙数の都合で割愛した。

 フレーベルの発達観の考察は,正に緒についたばかりであることを実感している。

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拙著「フレーベルにおけるプロティノス的なもの」(『明星大学教育学研究紀要』第10号)1995 年

F.Fr6bel,Die Menschenerziehung(gesammelte ptidagogische Schriften),hrsg.v.Dr。 Wichar−

dLange. Verlag von Th. Chr. Fr.Enslin,1863.S.1 ebd.S.6

ebd.S.5 ebd.S.18 ebd.S.98 ebd.S.149 ebd.S.98

F.Frbbel,Friedrich Fr6bel iber Heinrich Pestalozzi.(gesammelte p註dagogische Schriften),

hrsg.v.Dr.Wichard Lange. Verlag von Th. Chr。 FrEnslin,1863.S.154

(10)ibd.

(11)ebd.S.155

(12)ibd.

(13)ebd.S.156

(14)F.Fr6bel,Die Menschenerziehung.ebd.S.6

(15)ebd.S.13

(16)ibd.

(17)ebd.S.19

(18)ibd.

(19)ebd.S.12

(20)ebd.S.15

(21)ebd.S.2

(22)ibd.

(23)ebd.S.22       ・

(24)ebd.S.23

(25)J.Dewey,School and Society,1898.,E.R.Murray,Froebel as a Pioneer in Modern Psycho−

   logy,1914.等

(26)F.Fr6bel,Die Menschenerziehung,ebd. S.7

(27)ebd.S.12

(28)ebd.S.19

(29)ebd.S.98

(30)ebd.S.20

(31)ebd.S.21

(32)ibd.

(33)ebd.Sユ7

(34)ibd.

(35)ebd.S.18

(36)ebd.S.27       (42)ebd.S.60

(37)ebdS.28       (43)ibd.

(38)ebd.S.29       (44)ebd.S.63

(39)ebd.S.31       (45)ebd.S.64

(40)ebd.S.33       (46)Friedrich Fr6bel Uber Heinrich Pestalozzi.ebd.S.154

(41)ibd.       (47)F。Frbbel,Die Menschenerziehung,ebd.S.65

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