『詩経』[ハイ]風北門篇における「門」の意味につ いて
著者名(日) 増野 弘幸
雑誌名 大妻国文
巻 22
ページ 153‑167
発行年 1991‑03
URL http://id.nii.ac.jp/1114/00001503/
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﹁詩経﹄都風北門篇における﹁門﹂
の意味につ
い て
増 野
弘
幸
はじめに
﹃詩経﹄には多く門が詠じられている︑が︑そのほどんどが︑当時の人々が生活していた都市・集落を守るために設けら
れていた城壁の﹁城門﹂の意味で用いられている︒
その中で︑都風北門篇における門は次の様なものである︒
出自北門 北門より出づるに
憂心段段 憂心段段たり
︵ 第
一 章
冒 頭
︶
ここでは︑城門を出てゆく事と︑自らの憂苦の気持ちが︑何らかの関連を持っている表現がなされている︒
本稿では︑この北門の詩における﹁門を出る﹂表現が︑当時の人々にとってどの様な意味を持っていたのか︑という事
について考察してゆきたい︒
﹃詩経﹄における門の表現
﹃ 詩
経 ﹄
郡 風
北 門
篇 に
お け
る ﹁
門 ﹂
の 意
味 に
つ い
て
五
一 五 四
﹃詩経﹄において門がどの様に用いられているかについて見てみたい︒
門の語の見られる詩は︑国風に八篇︑小雅に一篇︑大雅に二篇の計十一篇である︒
この中で小雅何人斯篇における門は﹁不入我門︵我が門に入らざるとと自分に好意を寄せない者に対して怨みを述べ
る時の好意の有無の象徴として用いられている︒大雅・麟篇では︑周王朝の祖たる古公一亘矢が宮殿を作るに際して︑どの
様な門を作ったのかという事が述べられている︒大雅・韓突篇における門は︑韓侯が婚礼において親迎の礼を行った際︑
ま ず
初 め
に ︑
新婦につき従う婦人がその家の門に多く集まっている事を述べたものである︒
以上の事から︑大雅・小雅における門は︑単に門そのものを言うだけのものや︑
も︑その事柄が解り易いものになっていることが分かる︒ 門がある事柄を象徴的に言っていて
国風の八篇については︑﹁東門﹂を言うものが五篇︑﹁衡門﹂が一篇︑﹁墓門﹂が一篇︑﹁北門﹂が一篇である︒
﹁東門﹂を言うものは︑鄭風に東門之堵篇と出其東門篇がある︒東門之増篇では︑鄭の域東門の広場の事を言った後︑
思う相手が自分から遠い存在であると言う︒出其東門篇では︑域東門を出た所に女子が多くいるが︑自分の思う相手は他
に あ
る と
言 う
︒
陳風には︑東門之扮篇︑東門之池篇︑東門之楊篇がある︒東門之粉篇では︑子仲氏の娘が城東門の白検の下で舞い︑作
者に対して山叡を贈り好意を示してくれると言い︑東門之池篇では︑城東門にある池の事を言った後︑美しい娘と一緒に
歌いたいと述べている︒東門之楊篇では︑城東門にある楊を言った後︑逢引の約束をしたが相手がなかなか来ない事を述
べ て
い る
︒
目加田誠氏は︑出其東門篇にもある様に民人の多く集まった所とされ︑出其東門篇に
ついて︑白川静氏は︑城東門の広場で歌垣が行なわれていた事を言ったものであるとされている︒また︑陳風東門之扮篇 鄭風東門之増篇の東門について︑
について︑宋の蘇轍は︑東門は乱れた者の逢引の場所であり︑そこで淫らな行いをして恥を知る事がないのであると説明
していあ︒東門之楊篇の東門について宋の朱裏は男女の逢引の地とい︑白川氏は歌垣の場とされ出︒また︑これら鄭風・
陳風八篇では︑東門の後に必ず恋愛の情が歌われており︑この事について中島みどり氏は︑﹁あたかも東門といえばただ
ちに恋が連想されるかのようである﹂と述べておられる︒東門は恋愛と深い関わりのある場所であると当時の人々は考え
て い た と 言 え よ う ︒
の 簡 素 な 狭 い 門 の 家 で も ︑ ﹁衡門﹂については︑陳風衡門篇に︑﹁衡門之下︑可以棲遅︵衡門の下︑以て棲遅すべしととあり︑横木を渡しただけ
のどかに暮らす事ができる︑と賢者がそこに隠棲している様子を言うと解するものが多い︒衡
門は城門ではなく︑家の門を言うのであるが︑簡素な暮らしぶりをその門が象徴していると言えよう︒
き よ く お の さ
﹁墓門﹂については︑陳風墓門篇に見え︑第一章では﹁墓門有嫉︑斧以斯之︵墓門に競有り︑斧以て之を斯く︶﹂
き ょ う あ っ
り︑第一一章では﹁墓門有梅︑有同効率止︵墓門に梅有り︑鵠有りて翠まるごとある︒このように︑墓門にいばらが生えて
いて斧で伐る事や︑墓門にゆずりはの木があり︑そこにフクロウがとまっている事を言った後に︑或る人物が良ろしくな
い︑と述べている︒墓門は清の馬瑞辰の如く陳の城門と解する説もあるが︑墓道の門とするものが多い︒賦は清の惇恒等
の撰になる﹃欽定詩義折中﹄巻八に﹁牒は︑悪木なり﹂とある如く︑悪意を持つものを喰えるのに使われており︑鵠もま
た漢の毛公の﹃伝﹄をはじめ悪声の鳥とする説が多い︒臓や鵠の不気味な鳴き声と︑墓門の持つ暗いイメージが︑その後
と あ
に述べられている或る人物の険悪さを象徴的に表現していると言えよう︒
﹁北門﹂は︑都風北門篇に見えている︒全部を三章あるが︑第二章と第三章はほとんど同じ繰り返しなので︑第一章と
第二章のみを掲げる︒
出自北門 北門より出づるに
憂心段段 終
審 畳
且 貧
終
3憂
に
1l,¥妻く股 に 股 し た て り 且 ペ
コ 貧
な り
﹃ 詩
経 ﹄
榔 風
北 門
篇 に
お け
る ﹁
門 ﹂
の 意
味 に
つ い
て
一 五
五
莫知我難 己鷲哉
天実為之
謂之何哉 王事適我
政 事
一 一
坪 益
我
我入自外 室人交備調我
巳鷲哉
天実為之
謂之何哉
一 五
六
我 が
閥 献
を 知
る 莫
し
己んぬるかな
天実に之を為せり
之を何とか謂はんや
︵ 第
一 章
︶ 政 王
事 事 一 我
f こ I こ
我 適 ゅ
坤 に き ひ
益 す
室 我 人 外
交
Zよ
ご り も 入
備室れ くねば
我
誼せ を
む
己んぬるかな
天実に之を為せり
之を何とか謂はんや
︵ 第
二 章
︶ 第二早は︑﹁城市の北門を出て憂いに沈み︑生活は苦しく自分の悩みを誰も解ってはくれない︒もうどうしょうもない︒
天がこの様にしたのだ︒私には何とも言い様がない﹂とその苦しみを天に訴えかけ︑第二章も︑﹁王からの仕事や政治の仕 事は自分に集中し︑外から帰って来れば家族中の者が私を責める︒こうなったのも天の為す所である﹂と嘆いている︒
この詩における北門が城市の北円である事は諸注一致しているが︑
憂苦の情を天に訴える様な事をするのであろうか︒
で は
何 故
︑
わざわざ城の北門を出て行って︑自らの
これまで見て来た他の詩における門の例に比べて︑この北門の詩は︑
その意味する所が判然としない様に思われる︒そ
こで以下に︑門を出てゆく事︑が如何なる意味を持っているのかについて考察してゆきたい︒
北門篇における﹁門を出る﹂
の解釈について
従来︑北門篇における門を出て行く表現がどの様に解釈されて来たかを見ると︑
興也︒北門︑背明郷陰︒
む
︵ 輿
な り
︒ 北
門 は
︑ 明
に 背
き 陰
に 郷
か ふ
︒ ︶
とし︑後漢の鄭玄の
ま ず
︑
﹃ 毛
伝 ﹄
で は
︑
﹃ 筆
﹄ で
は ︑
興者︑喰己仕於闇君︑猶行而出北門︒心為之憂段段然︒
︵興は︑己の闇君に仕ふること︑猶ほ行きて北門を出づるがごときに喰ふ︒心之が為に憂ふること段段然たり︒︶
と 説
明 さ
れ て
い る
︒
﹃毛伝﹄では北門を明に背を向けて陰に向かう所にあるものとし︑
﹃ 鄭
連 ﹄
はそれを補って︑作者が暗君に仕えるのは
北門を出るが如くに心憂うる事である︑と解する︒唐の孔頴達の﹃疏﹄もこの解釈を承けて︑去るに忍びない故にこの様
Aリ
な貧困の状態に留まっているのだ︑としている︒
後世の解釈もこの﹃毛伝・鄭築﹄の説に従うものが多く︑宋代では朱裏も﹃詩集伝﹄巻二で︑
衛之賢者︑処乱世︑事暗君︑ 不得其志︒故因出北門而賦以白比︒
︵衛の賢者︑乱世に処り︑暗君に事へて︑其の志を得ず︑故に北門を出づるに困りて賦して以て自ら比す︒︶
と言い︑衛国の賢者が暗君に仕えて志を得ないので︑北門を出て行く時にこの詩を作って自らをなぞらえた︑とする︒
目祖謙は﹃目氏家塾読詩記﹄巻四の中で張氏の説を引き︑
張氏目︑出自北門︑是瀧息偶出北門︒因有此言︒
﹃ 詩
経 ﹄
都 風
北 門
篇 に
お け
る ﹁
門 ﹂
の 意
味 に
つ い
て
一 五
七
一 五 八
たま
︵張氏自く︑北門より出づとは︑是れ遊息して偶たま北門を出づるなり︒因りて此の言有り︑と︒︶
と言い︑この詩の作者が休みの時にたまたま北門から出た事からこの様に言ったのであるとする︒
一方︑厳祭は﹃詩輯﹄巻四の中で次の様に言っている︒
此忠臣行役︑出自北門︑呈一口我心之憂段段然衆多︑我仕不得志︑貧而又貧︑誰知我遠役之難苦者︒
︵此れ忠臣行役して︑北門より出で︑我が心の憂ふること段段然として衆多にして︑我仕へて志を得ず︑貧にして又 会︑誰か我が遠役の賑苦を知る者ならんと言ふ︒︶
忠臣が行役するために北門を通り︑自らの不遇を嘆いたものであるとするのである︒
明代では︑何棺が﹃詩経世本士口義﹄巻十五の中で次の様に言っている︒
以下章我入自外証之︑則不過因征役出北門︑遂賦之︑以自歎耳︒
︵下章の我外より入るを以て之を証すれば︑則ち征役に困りて北門を出で︑遂に之を賦し︑以て自ら歎くに過ぎざるの
み ︒ ︶
北門の詩の第二章以下に﹁我入自外﹂とある事から︑征役して北門より出て行く事を嘆くに過ぎない︑と﹃毛伝・鄭婆﹄
の 解 釈 を 否 定 し て い る ︒
清代では︑陳失は﹃詩毛氏伝疏﹄巻三で次の様に言っている︒
輿者︑北門喰闇君︒出北門輪仕闇君︒
︵興は︑北門は闇君を喰ふ︒北門を出づるは闇君に仕ふるを喰ふ︒︶
北門は暗君を比除したものであり︑その北門を出る事で︑暗君に仕える事を喰えたとする︒これは﹃毛伝・鄭築﹄の説
をさらに一歩深めた解釈と言える︒
方玉潤は﹃詩経原始﹄巻三で次の様に言っている︒
必日出自北門者︑抑又何故︒都在衛北︑此或抑制士所為︑亦未可知︒
そ も そ っ く
︵必ず北門より出づと日ふは︑抑も又何故ぞ︒却は衛の北に在り︑此れ或いは郡士の為りし所ならんか︑亦未だ知るべ
か ら
ず ︒
︶
北門より出るとわざわざ言うのは︑却の人の作だからかも知れない︑ として従来の衛人の作とする見方に疑問を呈して
い る
王先謙は﹃詩三家義集疏﹄巻三上で次の様に言っている︒ ︒
出北門者︑適然之詞︒或所居近之︒
︵北門より出づとは︑適然の詞なり︒或いは居之に近からん︒︶
近くに住んでいたと言う理由等でたまたま北門から出たに過ぎないとする︒
ω ω
現代の注釈では例えば陳子展氏︑楊任之氏は従来の説を紹介しているのみであり︑
川 判 的
田氏︑白川氏は北門という言葉の持つ陰欝なイメージを指摘しておられるが︑ 日本においても︑松本雅明氏︑日加
﹂れは基本的には﹃毛伝・鄭婆﹄の解釈と
同系のものと言えよう︒
北と言う方角に関しては︑宋の壬質が﹃詩総聞﹄巻二の中で次の様に言っている︒
各随所方之門為所適之道︒不必言背明向陰︑偶爾向北︒若東門之埠・東門之粉︑皆向明之方而其詩反皆暗昧淫濁之事︒
恐 難
以 方
論 也
︒
む
︵各と方かふ所の門に随ひて︑適く所の道と為し︑必ずしも背明向陰とは言はず︑偶爾として北に向かふ︒東門之埠・
東門之粉の若きは︑皆明に向かふの方にして其の詩は反って皆暗味淫濁の事なり︒恐らくは方を以て論ずること難し︒︶
北 門
よ り
出 る
の は
︑
たまたま北に向ったためで︑必ずしも︑﹁背明向陰﹂とは言えず︑東門之埼・東門之粉の両篇では︑
東と言う明に向いているはずなのに内容は暗く淫らなので︑恐らく方角で論ずるのは無理であろう︑とする︒
﹃ 詩
経 ﹄
郡 風
北 門
篇 に
お け
る ﹁
門 ﹂
の 意
味 に
つ い
て
一 五
九
一 六
Oさらに︑先述の何楢の説を敷街して考えるならば︑﹁出自北門﹂と述べた後︑
ら︑北に向かう事を強調していると言うよりも︑むしろ門の出入に力点が置かれていると考えられる︒
この様な事から︑北門の詩における北の方角の持つ意味についての確定的な言表は困難ではなかろうか︒ 次章で﹁我入白外﹂ とわざわざ言う点か
しかし︑この詩の作者が実際に門を出入し︑その﹁門を出る﹂行為と﹁自らの憂苦を天に訴える﹂行為の聞に何らかの
関係が伏在する事は明らかである︒
城門の持つ意味について
次に︑当時の人々にとって城門がどの様な意味を持つものであったかを考えてみたい︒
﹃詩経﹄の詩が作られていた時代︑人々は集落の周りに壁を築き︑その中で生活をする事が一般的であった︒仰詔文化
の遺跡にも環濠集落の跡が見られるが︑中国の集落に城壁が出現したのは︑紀元前二千一二百年頃より始まる龍山文化の頃
であり︑それ以降︑集落の四方を城壁で囲む事が行なわれて来たのである︒それは外敵の侵入から身を守る手段であった
が︑同時に︑その中で暮らす人々の意識の中に︑集落の内と外に分けて考える事をはっきりと植え付けたであろう︒すな
わち︑城壁の内側は日常的な安定した世界であり︑外側は危険の多い不安定な世界である︑と︒そしてその二つの両極世
界を繋ぐものが門なのである︒
例えば﹃列女伝﹄巻四貞順伝の衛寡夫人の条に︑
嫁於衛︑至城門而衛君死︒保母目︑可以還失︒女不聴︑遂入︑持三年之喪事︒
︵衛に嫁して︑城門に至るに衛君死す︒保母日く︑以て還るべしと︒女聴かずして︑遂に入り︑ゴ一年の喪事を持す︒︶
とあり︑斉侯の娘が衡に嫁入りに来て︑衛の城門の所まで来ると婿の衛君が亡くなってしまい︑守役が帰国を促すが聴か
ずに門の中に入って三年の喪に服した事が述べられている︒
この場合︑城門に入らなければ婚礼は成立せず︑入れぽ成立するわけであるが︑城門に入るか入らぬかでその共同体に
所属するか︑しないかを明確に区別するという当時の人々の意識が明示されている︒
この様に︑城門の出入は物理的な行為を超えた重大な意味を持っていた訳であるが︑この事は︑婚礼のような場合に限
った事ではなく︑人聞の生死にも関わりがあると考えられていた︒
﹃漢書﹄武五子伝の広陵属王背伝では︑皇帝への呪誼が発覚し︑死を覚悟した劉菅が辞世の賦を作るのだが︑その賦の
中に次の様な個所がある︒
富里召今郭門問︑死不得取代席︑身白逝︒
︵ 高
里 は
召 し
て 郭
門 に
閉 す
︑ 死
は 代
市 川
止 を
取 る
を 得
ず ︑
身 自
ら 逝
か ん
︒ ︶
死者の山である高里から迎えが来て城門の所で本人かどうか調べる以上︑代理を立てる事はできず︑私自身が行くしか
ないのだ︑と言うのである︒
この賦は漢代のものであるが︑後述する如く︑後漢に至るまで門に対して周代と同様の祭︼杷が行なわれていた点から
も.門に対する意識には周の時代と共通するものがあったと考えられるが︑内容から見れば︑城門を出てゆく事が死を意
味し︑城門の外側がすぐに死の世界に繋がっていると考えている意識を反映したものであろう︒
以上の如く︑当時は門の外側と言えば︑現実的な意味でも︑また︑宗教的な意味でも異界と考えられていたのである︒
その異界と現実の世界との接点が城門と言う事になるが︑異界から災いをもたらすものが侵入して来ない様に城門にお
いて祭明か行われた︒例えば︑﹃礼記﹄月令には次の様に述べられている︒
季春之月︑八中略﹀命国難九門︑楳撰以皐春気︒
だ た く じ ゃ う を
︵季春の月︑八中略﹀国に命じて九門に難し楳撰して以て春気を皐ふ︒︶
季冬之月︑八中略﹀命有司大難芳棟︑出土牛︑以送寒気︒
﹃ 詩
経 ﹄
郡 風
北 門
篇 に
お け
る ﹁
門 ﹂
の 意
味 に
つ い
て
一 六
六
だ あ ま ね は
AY︿
︵ 季
冬 の
月 ︑
1 八中略 V
有司に命じて大いに難して穿く疎り︑土牛を出りて︑以て寒気を送る︒︶
春と冬の終わりには︑都城の九門で追健を行ない︑犠牲を門に礁にして邪気を防ごうとしているのである︒
﹃春秋左氏伝﹄荘公二十五年の経文には次の様に述べられている︒
秋︑大水︒鼓用牲子社︑千円︒
おい
︵ 秋
︑ 大
水 あ
り ︑
鼓 し
て 牲
を 用
ふ る
こ と
社 に
子 て
し ︑
門 に
て 子
す ︒
︶
ω
秋に洪水があり︑社と域門とで鼓を打って犠牲を捧げたとあり︑伝ではこれを非礼としているが︑災害が城門内に及ば ない様に願うあまりの行動と言える︒
﹃ 史
記 ﹄
封 禅
書 に
は 次
の 様
に あ
る ︒
疎 狗
包 囲
門 ︑
以 禦
轟 富
︒
い ふ と し ふ せ
︵ 狗
を 芭
の 四
門 に
疎 し
︑ 以
て 鐙
菖 を
禦 ぐ
︒ ︶
秦の徳公が都誠の四方の門に犬を犠牲として疎にし悪霊の侵入を防いだのである︒
後漢の﹃風俗通義﹄杷典には次の様にある︒
俗説︑狗別賓主︑善守禦︒故著四門︑以酔盗賊也︒
︵俗説に︑狗は賓主を別かち︑普く守禦す︑と︒故に四門に著け︑以て盗賊を砕くるなり︒︶
狗が家をよく守る事から︑その霊力を利用して四方の城門を犠牲として礁にし︑盗賊の侵入を防ぐのである︒
以上の様に︑門に犠牲を掛けて外の異界より悪霊や盗賊等が侵入して来ない様にする儀礼が周から後漢にかけて行われ
ω
ていたのであり︑当時の人々にとって門の存在が如何に重大なものであったかが窺われるのである︒
この様な門の内と外の区別は中国に限った事ではなく︑他の国々にも︑例が見られるのである︒
例 え
ば ︑
村 武
一 精
氏 に
よ れ
ば ︑
フィリピンのルソン島では村民が死ぬと集落の入口に木製の簡単な鳥居を立て︑鶏や豚
同仰
の犠牲を捧げ︑悪霊の侵入を防いでおり︑ 日本でも︑福田アジオ氏によれば︑琵琶湖北岸の菅浦では村に西門・東門があ
ωり死者は西門から出され︑葬礼から帰って来た村民は身を清めねば門に入れない事になっている︒井本英一氏は︑﹃旧約
聖書﹄ヨシュア記でヨシュアがアイの町の王を殺し︑その死体を町の門の所に埋葬したのは︑主の威力を復活させて町の
同州
守護神にしようとしたためとされる︒
この様な例からも門外からの災厄の侵入を防ぐため︑門の所で儀礼を行う事は人聞にとって極めて自然な発想であると
言 え
よ う
︒
ローマでは新年に死の門をくぐり︑あの世である郊外に出て︑新しい魂を身
ωにつけて生の門を通り町に入る儀礼がある事を指摘しておられるが︑中国においても﹃後漢書﹄志・祭組下には次の様に
述 べ ら れ て い る ︒ さらに井本氏は イランや古代ギリシア︑
立春之目︑皆青幡憤︑ 迎春子東郭外︒令一童男官青巾︑衣青衣︑先在東郭外野中︒迎春至者︑自野中出.則迎者拝之而
還 ︒
はんさく
︵立春の目︑皆青幡憤し︑春を東郭の外に迎ふ︒一童男をして青巾を冒り︑青衣を衣︑先づ東郭外野の中に在らしむ︒
春を迎へて至る者あらば︑野中より出で︑則ち迎ふる者之を拝して還る︒︶
あらかじめ春の神の役の未婚の男子を郊外に待機させておき︑春を迎える者達が来れば出てゆき︑迎えに来た者達は拝
礼して帰って来るのである︒
これは春を野に迎えにゆく儀礼であるが︑門外において春の再生を促す意味を持つものであろ旬︒
この様に︑域門の外は悪霊などの股麗する危険な場所であると同時に︑人々に再生をもたらす場所でもあったのであ
る
。それ故に︑天子が天を祭る時には︑都城の中ではなく︑城壁の外である郊外に祭壇を設けて︑ いわゆる郊租を行ったの
﹃ 封
筒 経
﹄ 抑
風 北
門 篇
に お
け る
﹁ 門
﹂ の
意 味
に つ
い て
一 六
一 ム ハ 四
で あ
る ︒
﹃尚書﹄金牒には次の様に述べられている︒
秋大執未穫︑天大雷電以風︒禾尽健︑大木斯抜︒︿中略﹀王出郊︒天乃雨反風︒禾則尽起︒
く わ ふ
︵秋大いに執し未だ覆せざるに︑天大いに雷電して以て風す︒禾尽く優し.大木斯に抜く︒︿中略﹀王出でて郊す︒天
乃ち雨ふり風を返す︒禾則ち尽く起つ︒︶
刈り入れ前の稲が大風に倒され.周公に疑惑を持った事が原因と考えた周の成主が郊杷を行ったところ︑天は風向きを
変 え
て 稲
を 起
こ し
た ︑
と
仁3
う
。﹃礼記﹄郊特性には次の様に述べられている︒
郊之祭也︑迎長日之至也︒大報天而主日也︒兆於南郊︒就陽位也︒︿中略﹀於郊︒故謂之郊︒
︵郊の祭は︑長日の至るを迎ふるなり︒大いに天に報いて日を主とするなり︒南郊に兆するは︑陽位に就くなり︒︿中
略﹀郊に於てす︒故に之を郊と調ふ︒︶
郊祭は日が長くなる事を願ったもので︑天を祭り太陽を尊重する︒南の郊外に祭壇を設けて祭柁を行うのは︑南が陽の
方角だからである︒郊外で祭租を行うためにこの祭杷を郊と言うのである︑と言う︒
この様に﹃尚書﹄の例では災害を止めるため︑﹃礼記﹄
場所は郊外の地であり︑祭柁の目的は現状の好転を図り︑秩序の再生を願うものである︒その祈りの意志を伝えるため
に︑敢えて悪霊さえも住むと考えられていた異界の地である城門の外へと︑王自らが出向いて祭把を行うのである︒ の例では日照時聞を長くするために天を祭るのであるが︑
そ の
さらに﹃儀礼﹄観礼には次の様に述べられている︒
出拝日於東門之外︑反杷方明︑礼日於南門外︑礼月与四漬於北門外︑礼山川丘陵於西門外︒
ハ出でて日を東門の外に拝 L
︑ 日
以 り
て 方
明 を
記 り
︑
日を南門の外に礼し︑月と四演とを北門の外に礼し︑山川丘陵を西
門 の
外 に
礼 す
︒ ︶
王が︑諸侯と会同する際に︑
季節毎に杷るのである︒ 太陽を東門と南門の外で︑月と星を北門の外で︑ 山川丘陵を西門の外で︑春夏冬秋の順で
凶
この様に門の外では︑天︑天に従記される祖霊︑自然と様々なものに対する祭杷が行われていた︒これは︑当時の人々
がこれらのものに接触するためには︑異界である門外に出るのが最も確実な方法であると認識していたからに他ならな
し、
。
まとめ
当時の人々にとって︑城門の外は︑実際に野獣・盗賊の被害を受け易い等危険な場所であったが︑ 心理的にも︑霊的な
ものと現実のものが入り混った混沌とした世界であり︑天への意志の伝達も可能であれば︑また︑悪霊の被害も受け易
い︑期待と危険が共存する世界なのであった︒
そこで再び北門の詩を見てみると︑第一章の回目頭で﹁北門より出づるに︑憂心股股たり﹂と︑強い憂いの心を抱きなが
ら城北門よりの外へ出て行き︑﹁天実に之を為せり﹂と︑ ﹂の様な苦しい状況に追い込まれたのは天のためであると︑
自
らの憂苦の情を天に対して訴えかけているのである︒
この︑天に対して自らの憂苦の情を訴えかける行動についても︑当時の人々が城門の外の世界に対して持っていた認
識︑すなわち︑死後の世界の入り口ともなり︑悪霊が肱雇してはいるが︑天に対しての接触も取り易い所であるという認
識から考えれば︑止むを得ざる行動でもあり︑極めて当然な行動とも考える事ができる︒
﹂の詩の作者は︑憂苦の情に耐え難くなり︑
終 に
︑
天に対して接触の取り易い城門の外に出て行き︑﹁もうだめです︒
これも全て天のなされた事なのです︒私にはもう何とも言い様がありません﹂とその苦しみを天に対して訴えかけ︑現状
﹃ 詩
経 ﹄
都 風
北 門
篇 に
お け
る ﹁
門 ﹂
の 意
味 に
つ い
て
一 六
五
一 六 六 の好転を天に願ったのである︒
部風北門篇における﹁門を出る﹂という表現は︑その様な︑如何ともし難いまでに追い込まれた者が︑最終的な救いを
闘
天に求めるため︑敢えて城門を出て異界に行くという決意の下の行動を表わしたものなのである︒
注 ω 目 加 田 誠 著 ﹃ 定 本 詩 経 訳 注 ﹄ ︵ 昭 和 五 十 七 年 ︑ 寵 渓 書 舎 ︶ 一 九 O
頁 ︒
ω
白 川
静 著
﹃ 詩
経 国
風 ﹄
︵ 一
九 九
O
年
︑ 平
凡 社
︶ 二
八 四
頁 ︒
ω
東 門
・ 宛
丘 為
乱 者
之 所
斯 会
也 ︒
八 中
略 ﹀
為 淫
蕩 而
英 知
恥 也
︒ ︵
﹃ 詩
集 伝
﹄ 巻
七 ︶
ω
﹁ 東
門 ︑
相 期
之 地
也 ︒
﹂ ︵
﹃ 詩
集 伝
﹄ 巻
七 ︶
例 白 川 氏 前 掲 書
四 O
七 頁
︒ 帥中島みどり著﹃詩経﹄︵昭和五十八年︑筑摩書房︶六二頁︒
的 ﹁ 天 間 王 逸 注 目 ︑ 晋 大 夫 解 居 父 璃 呉 ︑ 過 陳 之 墓 門 ︒ 墓 門 葦 陳 之 城 門 ︒ ﹂ ︵ ﹃ 毛 詩 伝 婆 通 釈 ﹄ 帥 ﹁ 練 ︑ 悪 木 也 ︒ ﹂
帥 ﹁
噛 明
︑ 悪
声 之
鳥 也
︒ ﹂
︵ ﹃
毛 詩
鄭 婆
﹄ 巻
第 七
︶
同 ﹁
君 於
己 錐
禄 薄
︑ 己
不 又
忍 去
之 ︑
止 得
守 此
貧 困
︒ ﹂
︵ ﹃
毛 詩
正 義
﹄ 巻
二 第
︶ 帥陳子展著﹃国風選訳﹄︵一九八三年︑上海古籍出版社︶八六頁︒
個 楊
任 之
﹃ 著
詩 経
今 訳
今 注
﹄ ︵
一 九
八 六
年 ︑
天 津
士 口
籍 出
社 版
︶ 五
八 頁
︒ 制松本雅明著﹃詩経諸篇の成立に関する研究﹄︵上︶松本雅明著作集第一巻ご九八
O
年︑開明書院︶六八 l
六 九
︑
凶目加田氏前掲書一 O 頁 ︒
八 頁
︒
佃白川氏前掲書二二頁︒
制中国社会科学院考古研究所編︑中村慎一訳﹃中国考古学の新発見﹄︿一九九
O
年
雄 ︑
山 間
︶ 一
四 ︑
間張光直著﹃中国青銅時代﹄︵一九八三年︑生活・読書・新知三聯書店︶一
O
八
1一 一
O
頁
参 照
︒ 巻
十 三
︶
一 七
01一 七
一 一 一 一
o l
一 一
二 頁
︒
同﹁秋大水︑鼓用牲子社︑亦非常也︒凡天災有幣無牲︑非日月之管不鼓︒﹂︵﹃春秋左氏伝﹄荘公二十五年・伝︶ 帥この他に︑白川静氏は︑﹃春秋左氏伝﹄文公十一年の伝に︑北方の異民族たる長秋の首領長秋喬如を魯の国人が捕えて︑その首を 魯の城門に埋め︑宋・斉も同様の事をしたとある事について︑呉族の首を城門に埋めて悪霊の侵入を防ぐ況禁としたのである︑と説
明 さ
れ て
い る
︒ 門
白 川
静 著
﹃ 漢
字 ﹄
︵ 一
九 七
六 年
︑ 岩
波 書
店 ︶
四 四
頁 ︒
︺
制村武精一著﹃祭施空間の構造﹄︵一九八七年︑東京大学出版会︶一四三頁︒
制福田アジオ著﹃時間の民俗学・空間の民俗学﹄︵一九八九年︑木耳社︶一
O二 J 一
O五 頁
︒
帥井本英一著﹃境界・祭記空間﹄︵一九八五年︑平河出版社︶九九頁︒ 帥井本氏前掲書一二五頁︒
MW
この例は後漢の頃のものであるが︑先述の後漢の﹃風俗通義﹄において︑門での儀礼が残っていた点︑また︑赤塚忠氏によれば︑ この﹃後漢書﹄の記述と﹃詩経﹄鄭風子衿篇の記述とは︑同じ儀礼についてきロったものであるとされる点︹赤塚忠著﹁中国古代にお
け る 風 の 信 仰 と 五 行 説 ﹂ ﹃ 中 国 古 代 史 ﹄ 赤 塚 忠 著 作 集 第 一 巻 ︵ 昭 和 六 十 三 年 ︑ 研 文 社 ︶ 所 収 ︒ 四 一 一 一 J
四 一
一 一
一 頁
︒ ︺
か ら
︑ 同
様 の
儀 礼
が﹃詩経﹄の頃にも行われていたと考えられよう︒
MW