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「自己」についての神学的考察(1)

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(1)「自己」についての神学的考察(1) 小 Eine. theologische. 林. 一. Betrachtung臼ber. Keni'chi. das Selbst. (1). KoBAYASHI. 入. I.導 1.. 謙. I.自己とは何か. 私は何であるか。. 「自分」ないし「自己」とは何か。この間題をいくつかの側面から考A. てみたい。. ふつうの考え方では,ある「人の『内部』に人格のようなものを促志して,その人格の 主体を『自我』ないし『自己』と呼ぶことにしている」1)ということであろう。. 「常識的日. 常世界」の原理は,自分は一つきりであり,自分は刻々変化しはするが,しかも同一であ り,このことがまた同時に世界の単一性を保証している,ということであろう2)0 我々が思い描く「自分」というもののイメージは,まず,単なる物体ではない,生きて 動く身体であろう。しかしそれだけではない。何よりも心の動きないし働きが「自分」で あろう。自分の,自分だけの,思い,感情,気分。多くの場合忘れられているが,しかし たえず存在していて,意識されれば,常に動いて(時には大きく揺れ動き,時にはかすか な震えとして)いると感じられる心的生命。それは一定の形をもたず,物体の世界からと られた比喰で言えば,常に形を変えているように見える。さらに比倫を続ければ,. 「自分」. は濃度,硬度,速度,などをその都度変えている。古代ギリシア人のイメージでは,死者 の世界での魂(心)は影の蝶のようなもの(ホメロス)であった。自己はこのように一種 の存在物であるので,ある種の精神病者は「自己が盗まれる,または失われる」という表 現をする3)0 免疫学の観点から興味深い示唆を与えてくれるのは多田富雄である4)。そもそも「認識の 起源は何か。それは『自己』を知ることである」 子レベルの免疫現象においても問われ,. (T,. 66).このソクラテス的間壇が遣佳. 「『自己』というのは「自己」の免疫学的行為その. ものであって, 『自己』という固定した旦空ではないことになる」 (T, 220。強調は原著者) と定義される。しかも, プリオリには存在しない」. 「ペプチドにまで分解された情報には, (T,. 〔先験的?〕には区別されない」. 『自己』と『非自己』はア. 230)のであり,すなわち「『自己』と『非自己』は先見的 (T,. 231)。たしかに,我々が自分(の内面)をかえりみ. るとき,そこにあると思われる「自己」は,はっきりした輪郭をもつ実体ではなく,たえ ず(活発に,時には停滞的に)生きて動いているプロセスであるように感じられ え,自己と他者(世界を含む)の境界も定かではない。. それゆ.

(2) 小. 2. 多くの人は,. 林. 謙. 一. 「自我とは当人がこれが自分であると思っている自分で」5)あると考えるで. あろう。しかし他方,. 「ただの坊やとは,まさに,子供に関する専門家の多くが3歳の人間. はかくあると考えるところのものである」6)。自己を理解するのは自分であるか,それとも 他人であるのか. 自分のことは自分が一番よくわかっている,という信念があるが,自己欺暗もこれに劣 らず普及している。他人からみて,あきれるほど自分をわかっていない,という場合・が多 い。この点に関して,前掲のレインの著書に典型的な例が見られる(L2,. 104)。自分が悪. 者だと確信し〔思い込み〕,それに従って行動し,事実,悪者になる著者。彼はいわば自分 で自分についての物語を作り,それに合わせて行動するのであり,あまりに巧妙に空想の 下部構造〔いわば深みにある自己〕を隠していたため,自分でも気づかなくなってしまっ ていたのである。 それとも逆に,他人の理解する自分が其の自分であるのか。これについてもレインに具 体的な例が挙げられている(L2,. 130f.)。自己アイデンティティと,他者に対してのアイ. デンティティとが食い違い,お互いが相手に対してもつイメージが複雑に行き交い,二人 しかいないのに六つの幻の・仮象像が生じ,訳が分からなくなってしまう。 恋愛の場合が分かりやすいであろう。相手に自分がどう思われているか,つまり他者に 映る自己の像がわからず,不安でならない。自分でも自分の姿がわからない。相手から神 のようと思われたり,天使や悪魔にされたりする。 1.. 2.自己のAt性 以下, 「自己」の特性をいくつか,短く考察したい。. 1.. 2.. 1.利己主義,自己愛,自書心,夜郎自大. 「自分を決して愛さず,自分を許せない。そのようなものが自尊心(自己愛)である。 それは敢然と非難に立ち向かう。それは言う。. 『人が私のことをどう考えているか,私はよ. く知っている』と。賞賛がそれを満足させることは決してない。それは不幸な愛であ る」7)。. 自己を考える場合,まず現れる問題がこの一連の現象であろう。自尊心なしには人間は 生きられない.とりわけ社食生.LI古(人間と人間の交通)の場では,他人に自慢できる自分 の特殊能力(スポーツ,語学,芸術などの分野で)こそが自分であるとさえ思える。つま り,自分のアイデンティティ・がかかっている能力,より一般的には,自分の価値,が自分 であると自分で思い,また他人に思われる。平たくいえば,. 「自信」がアイデンティティで. ある。このような「アイデンティティ」を保証するものは,多くは,職業・身分(00大 学学生),卒業校,家柄,容貌,また国籍,民族,. (宗教・政党・思想集団などの)集団帰. 属,などであろう。しかし言うまでもなく,それは自己の属性であって,本質ではない。 極端な例と′して, 「露出症者は‥.彼のいわゆる『其』の自己を,自分のペニスに置こうと する」 (L2, 160f.)。しかしそれは自分の一部分にすぎず,すべてではない。 「人間は--確かなもの--にすがりたがる。. ・--. 『身分証明』『自分らしさ』があって. こそ,私たちは--存在感をもつことができる」8).デカルトの,またオイディプスの問題 である。シェイクスピアの『まちがいの喜劇』と『夏の夜の夢』も同じ問題をめぐってい.

(3) 3. 「自己」についての神学的考察(1). る9)。. 自己愛については「自分を愛するように汝の隣人を愛せよ」とのイエスの命令が核心的 問題になるが,これについては後述する。 利己主義に隣接する問題に「自己中心性」があるが,人間の思考と行動は,自己中心的 でしかあり得ない。自分の眼で見,自分の耳で聞き,自分の手で感じる。そうしてこそ, 見たこと,触れたことの確かさを実感するのであり,そのさい同時に,自分を確実に実感 (言. しているのである。つまり,現実を認識する遠近法の中心が自己だということである。. 「其の」. うまでもなく,その認親には限界と偏りが不可避である。)しかし,その場合も, 中心はこの私たる自分であるのか.この問題については以前に論じた10)。 なお免疫学的には,胸腺の「T細胞の『非自己』の認識は,もともとは『自己』の認識 の副産物である。 (T,. ・--. 『非自己』は常に『自己』というコンテキストの上で認識される」. 40)。遺伝子レベルでも自己中心性は明らかである。. 自己中心性の問題は言語論へも展開できるであろう。「言語はすでにいつでも人間を尺度 ll)o. (擬人的)である」 -・・・言語は根本的にanthropomorph 人間の言葉で神を語らなければならない神学の根本的なアポリアである。どこかある地点 として前提している。. これほ. で逆転ないしは転換が起こらなければ解決しないのであるが,それは神学的解釈学の課題 である。 I.. 2.. 2.自己嫌悪. 自己愛の反対は自己嫌悪である。どちらの場合も,. (正常人の場合),自分というものは. 確固としてあると前提される。その自己が嫌でたまらない,こんな自分を去りたい,とい. うのが自己嫌悪であり,誰しもよく知っている感情であろう。それは自分-の否定的な評 価であるが,しかし,誰が評価するのか.もう一人の自分か,他大の眠か,それとも自分 が想像する他人,または自分とは独立した実体として感じとられる良心,さらには神の眼 であろうか。 自己嫌悪が病的になると,自己であることへの恐怖が生じる。分裂病質者の異常な自己 吟味という「悪魔の目」. 12)や「破壊本能(モルチド)」. (Ll, 150)が自己を脅かす。特徴的. なのは罪責感である。それは分裂病質者を自己喪失の危険にさら、し, 112,. 投じ」させるにいたる(Ll, うことだけで罪を感じ」る(Ll, 望」. 122ff.,. 「非存在の渦中-身を. 142ff.)。彼は「そ・もそも世界内に存在するとい. 177)o別のある分裂病者は「死への願望,非存在への願. (Ll, 246)にとらわれる。彼女は「両親は彼女に男の子であれと望んだのであったか. ら,無でしかありえなかったのである」. (Ll, 247)0 「自律性と分離を獲得するという単純. な行為〔健康な自分になること〕も,分裂病者にとっては,---プロメテウスのHybris(倣 悼)」 (Ll, 243)である。 I.. 2.. 3.自. 意識. 「自意識ということばは,一般的に用いられる場合,二つの意味を持っている。つまり, 自分自身による自分自身についての意識性とほかの誰かの観察の対象としての自分自身に ついての意識性である」. (Ll, 141。強調は原著者)。重要なポイントは,. 「自分が生きてい. ると--確信するために,自分を現実の生きた人間と認めてくれる他人を必要とする」.

(4) 4. 小. 林. 謙. 一. (Ll, 146), 「アイデンティティの感覚というものは自分を知っている第三者の実在を必要. 皇室旦」 (Ll, 187。強調は原著者)ということである。. 「自己の存在が,他者によって承認. され確認され,. ・′--自己の全存在を認識されたいという欲求,つまり愛されたいという全 般的欲求に達する」 (Ll, 160)。この欲求が満たされてはじめて,自分の存在(自分が実在 することおよび自分が何者であるか)の確かきを得る(Ll, 見られることによって,子供の自己は存在する(Ll, と(esse-percipi.. Ll,. 160f.)。他人,特に母親から 154ff.)。存在するとは知覚されるこ. 159)。この等式は論理実証主義のモットーであるが,レインにお. いてはある発達段階の幼児に当てはまり,神学的には,創造されて存在するということの 遠い類比,さらに,人間の本質規定にGemeinschaftがある(K. 2など参照). Bartb,教会教義学KD. III/. 13)ことの反映ないしこだまと解釈されよう。. しかし反面,他人に意識されることは危険ともなり(敵または獲物として認知される生 物学的危険),自己を防衛しようという反応も生じる,つまり自分を目立たせないように し,不可視的になろうとする(Ll,. 152f.)。アイデンティティを保証してくれる他者によ. る自意識が,かえって自己を喪失させ,消失させるのである(Ll, 的アイデンティティ」. 14紙,. 154ff.)0 「自閉. (Ll, 188)。すなわち自己は他者との交わりを求めるが,同時に恐れ. もする(Ll, 152).神学的に見れば,交わりを拒絶する能力-不可能な可能性-が,罪 の結果として,人間界にはいりこみ,アイデンティティと共同人間性の破れを招来した, ということである。 1.. 2.. 4.. <Jレソナとしてのアイデンティティ. 利己主義の項で述べたことを別の角度から見れば,アイデンティティとはその人の「役 割」のことであり,言い換えれば仮面(ペルソナ)である。人間は自己を演じる。 レインは,傷つきやすい自己を守るために自己を隠蔽し輯曝し,にせ自己を演じる精神 柄(質)者の婆を描いている(Ll,. 92ff.)。ある三歳児童が「『ありのままの』自分自身で. あることを装うのに成功したら,仮面は彼の顔になってしまうであろう」. (L2, 50)12)。岸. 田秀によれば,人間は(自分に割り振られた役をではなく),第一の自己自身を演じるもの である14)。 これは哲学における「非本来的」自己の問題につながる。古代のグノーシス主義から近 代のキルケゴール,. -イデソガ-,サルトルまで.我々自身をかえりみても,日常生活で は大部分,にせ自己,または仮面を演じていることに気づく。しかし,深夜ひとりきりに なって自室の気に入りの椅子に安らっているとき,人は「本来の」自分に戻っているので あろうか? もう一人の自分(alterego,. DoppelgAnger,多重人格)という病的現象についての報告. も我々には親しいものである。レインが接したジュリーという若い女性患者の例(Ll, 249-292)が興味深い。ジュリーは「自分のことを一人称で語ったり,二人称で語ったり, 三人称で語ったりする」,つまり「同時に--ことなった〔複数の〕パーソナリティーを機 能させている」. (Ll, 276)。雨,椅子,壁,などが私だ,と知覚する(Ll,. 人格の大部分が--彼女の『外部』にある」から, (Ll, 280)。彼女の内部でA体系とB体系の声が混信する(Ll,. 280)0 「彼女の. 「自己と非一自己の混乱」が生じる 281ff.)という現象は福音.

(5) 5. 「自己」についての神学的考察(1). 書のゲラサの豚の物語(Mk5,. 1-20Parr.)とよく似ている。そこではある人に悪い霊. が住みついていて,彼は「名は軍団(レギオン)です,大勢だからです」とイエスに答え る。ジュリーも「私は数千人です」. (Ll, 289)と言うのである。. ジュリーの「良心」が彼女の母親と混同されることもあり,. 「だから,愛するということ. は非常に危険なことになってしまう。好むということが, ら(Ll,. ・「-・同一ということになる」か 「彼女が人形と遊んでいるとき,人形は彼女自身であり,彼女はそ. 280)である。. の母親であった」. (Ll, 274)。彼女の愛の純粋さと強さは愛の形式を典型的に示している。. しかしその内容は空虚であり,自己同一化の対象を間違えている。 1.. 2.. 5.現実の自己. にせの,井本来的な,空想上の自己と対立する概念が,サルトルの言う「現実的自己」 (Ll, 110f.)であろう。つまり本当の自己,さらには,. (自分には知られない)真の,赤裸々. な自己が考えられる。ヘーゲルによれば,可能性(能力・意図)ではなく,仕事・行為・ 実行が自己である(Ll,. 115)。そしてこの自己は,分裂しない,統合された一つの自己で. なければならない。たしかに我々が自分をかえりみても,強い感情あるいは行動のただ中 で,これこそが自分だ,と確実に実感するとき,それは純一に単数である。前に引用した ジュネの劇には次のような科白がある。「あんた方は未だかつて一つの行為をそのもののた めに行ったことはない,いつでも必ず,その行為が他の行為にひっかかっていて, (L2, 142)。分裂病者は「自分のすペてを賭けることができないのです」. --」. (Ll, 231)。つま. り,愛する,憎む,本当に心配する,怒る,殺す,など,自分の全部を投入するというこ とができない。 「何か大きな価値あるものが自分の内部に深くうずめられ,失われてしまっ (Ll, 292)。この「輝. ていて,彼女自身にも,また,他の何人にも,まだ発見されていない」 く黄金」 「海底の真珠」. (Ll, 292)が「本来の自己」であろう。. の本来の『自己』と接触をつくりあげることにある」 と共謀は終わ」り,. 「治療の仕事はだから個人. (Ll, 218)ということになる。. 「幻想. 「ありのままの存在〔自分〕に」′戻る(Ll, 138)0. しかし,この「本来の自己」は,日常的な,健康な自己という意味であって,まだ神学 的な意味での「其の自己」ではないであろう。健康か病気かというレベルでは,想像ない し空想する自分と「現実の」自分とはひとまず明瞭に区別できようが,. 「現実の」自己の現. 実または確実性をいっそう掘り下げて追究すると,問題はそう簡単ではないように思われ る15)0 1.. 2.. 6.自己の範囲(外延)一望聞性. 1.. 2.. 6.. 1.身. 体. 自己の空間的範囲はまず身体であろうo. しかし身体は動く。空間的移動の場合は問題が. か-が,変化(成長・老衰)という意味(アリストテレス的な意味での運動)では問題が 生じる。自己が確定しか-o. さらに食物の消化(同化)の問題がある。摂取された食べ物. はどこから自分の体になったと言えるのか。これは透明人間にとって重大問題である。つ いでに言えば,着ている衣服は半ば自分,ということであろう。ファッションが着る人の 趣味判断や思想の表現であるとすれば,それはさらに,自分(らしさ)を主張するという 精神的・文化的意味をもつ。串の運転者は車幅感覚を身につけなければならない。運転中.

(6) 6. 小. 林. 謙. 一. は自分の身体,少なくとも身体の運動感覚が相当部分,車体の大きさにまで拡大している のである。 これと逆に,身体(だけでなく,自己の全体であろうが)がその中にある場所も自己と 密接に係わっている。自分がいちばん自分でいちれる場所,ほっと自分を取り戻す場所, というものがある。そこへ帰りつくまでは半ば自分を失っていた,足がちゃんと地につい ていなかっ.た,というような場所である。これが極端になると,ある分裂病者の場合,彼 の自己はここではなく,どこか別の場所にある。ここという場所の現実感が失われている 232)o 「自己はといえば,それは真空の中に存在する,ようなものである」. のである(Ll, (Ll, 233)0. 離人症患者の特赦的な体験に,. 「身体の自己所属感の喪失」. 己喪失感」,さらに「時間・空間の喪失感」がある(Kl,r43f.). 「外界の非実在感」,つまり「自 16)o. このようなマイナスの. 事実から,自己と外界(時間・空間)の密接不離の関係に,身体も本質的に含まれている ことが明らかである。. (木村敏が主張する「こと」としてのあり方。)レインもグノーシス. 主義的な「身体化されない自己」あるいは「内的自己」と化してしまった青年の症例を報 告している(Ll,. 88ff.)。彼は「空想の中で」. 「万能であり完全に自由」な自己である. (Ll, 109)。彼は明らかにグノーシス主義的あるいは新プラトン主義的な神になっている。 1.. 2.. 6.. 2.心(柵神)・知7B. 心は延長的実体(デカルト)ではないが,空間性の用語で考えられ,表象され,表現さ れることが多い.これには必然的理由がある・と思われる.以下の考察も,空間的表象なし には成り立たない。 心(精神,. psyche)はたしかにある(一種空間的な)広がり・範囲をもつ。それが自己. であろうか。しかし,思いはどこまでも広がるように見える。そうだとすれば自己は拡散 し,希薄になり,無限遠点で消えてしまうであろう。しかしまた,ほんとうにどこまでも 広がるのであろうか。逆に,そこには限度があるようである。つまり自分の(精神能力の) 限界が確固としてある。誰しもこの限界を幾度と.なく,いやというほどはっきりと感じて いるであろう.だとすれば,むしろ澗題収容易になる。その限界までが精神的な意味での 「自己」だ,ということになる。 すなわち,自分が知っていることの全体(範囲)が自己で ある.たしかに,新しい知識を獲得して自分の知の世界が広がると,自分が一回り大きく なったように感じるものである。 前に紹介した患者ジュリーは,医者(レイントが彼女の脳(つまり物質的にとらえられ た心)を盗んだ,と非難し,逆に彼女が医者の考えを盗んだと信じて,、レインからの復讐 を待っていた(Ll,.. 「盗むという′ことは,自己と非一自己の間の ,281)0.ここで重要なのは, 境界が存在することを前提としている」 (Ll, 281)ということである.こうして,心とし ての自己について,身体の場合と同じく,その範囲を確定できるように見える。 しかし,なお問題は残る。どこまでが本当に自分の考え・思いで,どこからが他者(特 に時代風潮,常識,流行)の考えか,ということである。身体の場合の食物の同化とパラ レルな問題である。古今東西の誰も知らない知識,他の誰も考えたことのない思想だけが, 厳密な意味で(精神的)自己なのであろうか。.だとすれば,世の中にはほとんど「自己」.

(7) 7. 「自己」についての神学的考察(1). はない,ということになる。それとも,他者が言ったことの引用であれ,無意識に世論を おうむ返しする場合であれ,とにかく自分の知識の中にあることが自己なのであろうか。 そうすると,自己の中には無数の他者が推然と同居していることになり,自己の純一性が 損なわれる。今の段階ではいくらか漠然と,ほんとうに自分で経験し,自分でよく考えぬ いて「自分のものになった」思想ないし知識が(精神的)自己である,とトートロジカル に言うしかない。いずれにせよ,自己にとって他者が厄介な,しかし切っても切れない問 題であり続ける。 1.. 2、.. 6.. 3.主体としての精神. それよりも,角度を変えて,客体たる知識ではなく,考え,知り,感じる主体をこそ自 己とすべきではなかろうか。. 「主体性が真理である。主体性が現実である」17)。哲学者とし. てのキルケゴールあるいはその一分身たるヨ-ネス・クリマクスはヘーゲルに反対して, 客観的知識にではなく,考える主体を自己と見た,と言ってよかろう。そして冷たい知識 ではなく,主体の情熱が肝要であった。 たしかに,知識や思考よりも感情,特に激情の方が,生々しく自分であると感じられる。 とりわけ喜びがそうであろう。喜びは,紛うかたなく,自分の喜びである。悲しみも同様 である。感じ,考え,さらに意志し,行動する主体が自己である,と言えそうである。意 志は,明確な意志である限り,疑いようなく存在すると感じられる。そこから,はっきり した行動が直接に続く18)。生き生きと行動しているとき,自分は実在すると確実に感じる。 この運動感,力動感,つまりは生の感覚が自己であるようだ。 楽しむ。生来,生は生と踊るのだ」. 「いきいきした赤ん坊は生を. (L2, 171)。だから逆に「本当に生きているという感じ. をもっとはっきり体験するために,自分自身を非常な苦痛や恐怖にさらす方法がある」 (Ll, 197f.)0 自己の実在感は自己実現・自己充足と結びついている。いっそう具体的には,意味の充 溢感,目的充足感あるいはそれが間近いという感覚である。人生がむなしく,無意味・無 目的だと感じられるときは,同時に,自己がむなしい,自分というものが希薄になってい ると自覚される。自己感の強度あるいは探さに量的な差があるようである。. 「自己表出に. よって,つまり潜在的自己を明らかにすることによって,主体の存在性を増強することが, ニーチェの『権力への意志』の意味するところである」 化,充実,拡大,またその道,といったことは,. 1.. (L2, 155)。自己の増大ないし強 1.で述べた自己の硬度・濃度・形. などと結びついて,確かにあるようである。このことは,心が(比噴的表現たるにとどま らず),本質的に身体的であることを示唆するように思われる。あるいはむしろ,自己が精 神と身体の一体となったところにあることを示しているのであろう。 1.. 2.. 6.. 4.脂. 知り,感じ,意志し,行動の指令を発するのは,物質としては,脳である。脳が病めば, 自己は不確かになり,あるいは失われる。しかし器質的でない原因によって起こる精神障 害も多い。脳の研究,また心身の相関に関する科学が発達すれば,ここで考察している問 題の多くまたは一部が解明されるのかもしれないが,それを論じることは筆者の能力を超 える19)0.

(8) 8. 小. 1.. 2.. 6.. 林. 謙. 一. 5.共同的自己. 自己の範囲を考えると,他者との自己の共有ないし共同的自己の問題が出てくる。特に 自分と親の関係が大きな問題となる。遺伝や家庭環境を考えただけでち,自分の一部ない し大部分が親と共有のものであることは明らかである。夫婦の場合も同じ問題が考えられ る.一心同体と言われるくらいで,二人の自己が区別しがたいことがある.いわば二つの 自己が融け合うのである。 共同的自己とはどういうものであろうか。まず,心や思いを同じく(一つに)する,複 数の人間の一体感といったことが考えられるo(これは自分一人の自己の拡大または重なり または深化であろうか。)さらに,前述したように,自己の内部に他者が多数住みついてい るという事態がある。世間が自分に内在している。そこで自己の内部で社会的自己と私的 自己との対立・葛藤が生じ,そうでないまでも両者のバランスが難問となる20)。ある集団と の自己一体化も起こる。. 「会社人間」。. 「うちの会社」という言い方。これは日本人,民族主. 義,愛国心,さらに人類または宇宙全体,コスモポリタニズムといった一連の大問題に発 展するであろう。 「日常の事態とは,ある連鎖的集団の空想体系のなかで,安住しうる境地にとどまって いるということである.このことは,一般に町アイデンティティ』もしくは『パーソナリ ティ』を持っていると称される」. (L2, 43)。 「すべての人間存在は,. --・墨墜,すなわち,. 他人の世界のなかでの場所を必要としている--。少なくともひとりの他者の世界のなか で,場所を占めたいというのは,普遍的な人間的欲求である--・。おそらく宗教における 最大のなぐさめは,自分はひとりの大いなる他者の前に生きているという実感であろう」 (L2, 167。強調は原著者)0. ●ここで明らかになることは二つあるように思われる。第一,こ. の「他人の世界」は「自意識」の確立に必要不可欠である(既述)と同時に,他方,共同 的自己への可能性をもっているということである。第二,この間題はつきつめると絶対他 者に行きつくであろう,ということである。これについては後述する。 集団的自己,特に民族的自己というものも共同的自己の一形態であろう。アイデンティ ティは人格的同一性という意味のほかに,. 「歴史的連続性」 「文化的共同体への帰属の感情」. という意味をももっている21)。これらはたしかに個人の人格の重要な要素をなしているが, 民族自身のアイデンティティというものも考えられる.せいぜい130年の間に二度の国家 統一と二度の敗戦を経験し,ナチズムと東独の社会主義体制という二つの清算されざる過. 去を抱え,外国人襲撃事件の絶えないドイツでは,近年,歴史学界や思想界でドイツ人の アイデンティティの問題に関する議論が続いている。二つだった国民は一体の民族的自己 になれるのか。根底には各市民とドイツ民族全体との存在意義(価値)の問題があり,そ の自信(回復)がかかっているので,答えは簡単には出ないようである。旧ユーゴスラゲイ ア,南アフリカ,イスラエルとパレスティナなどの戦闘にも,それぞれ様相は違っている が,この民族的アイデンティティの問題が共通して伏在しているように見える。また例え ば日本人のアイデンティティーは何であるか。天皇か,日本語か,広く「日本文化」と言 われるものか。そもそもそのようなものがあるのか,あるとしても,日本の歴史を通じて 一貫するものか,それともごく最近になってこと新しく言い立てられるようになったもの.

(9) 9. 「自己」についての神学的考察(1). にすぎないのか?22) 「禽獣草木も同態」. (王陽明)という考えは,自己を存在全体,宇宙大にまで広げるもの. 『自愛』ということ. であるo 「宇宙的生命が,私という一個の生命体に分有されている・-ばは,おそらくこの『分有』の直接的表現なのであろう」. (Kl, 62f.強調は原著者)。これ. と似ていくらか違うのが新プラトン主義である。そこではSeele. (魂・心)は個人性の担い Individuation. 手ではない。人間の魂は,世界霊魂と同一であって,分割・分有されない。. (個体化・個人化)は堕罪であり原罪である23)。霊魂だけが不死であって,肉体性・個体性 はまさに反価値的とされた24).ニコラウス・クザ-ヌスでは経験的自己に代わる普遍的自己 はすなわちキリストである25)0. C.G.ユングの言う「集合的無意識」. 「元型的自己」は,つ. まり人類全体の共通の記憶のようなものであろうが,実体としてあるものかどうか,疑わ しい。そこまで行かなくても,前にふれたように,時代精神と同一化し,それを代表する, ということはありうる。 宇宙全体ではないが,旧約聖書における犠牲の祭儀では「動物の頭に手を置いて,自己 と動物との同一化をはかる.これは自分の罪を犠牲の動物に負わせる象徴的な行為ではな く,存在論的にいっそう深い"Subjekttibertragtlng't. (主体の委譲)の行為である」26)0. 「自. 己」を自分という一人の人間に限定するのは,近代(西洋)に起こった,新しい考え方な のかもしれない。古代へブル人の思考法では,個人と共同体(イスラエル)は同一であっ た。アブラハム,イサク,ヤコブ(後にイスラエル改名する),ユダ等の名は,個人名であ ると同時に,民族ないし部族の名であった27)0 1.. 2.丁.部分的自己同一化 自分の大事な持ち物や記念の品は,自分の(大事な)一部分である。さらに,わが子は. 自分の分身である。自分以上によく自分のことを理解してくれる愛する人は,いわばもう left. heart. in Sam. Francisco・-・・My. love. there--". my waits 一人の自分である。また"I と歌われているように,自己が分裂して,もう一人の自分が別の場所にいるように感じる。. 愛する人のいる場所に自分も半分(全部?)いるように思える。故郷にはたしかに自分の 一部(過去の自分?)が残っている。このように,あるものや場所を自己と同一化すると いうことがしばしばある。 死後も生きつづける自分として,子供,また作品,名声を後世に残す。せめて他者の記 憶の中に生きていたいと騎う。 他者のために,どこまで自分の部分を(全部となれば大変である)捨てられるか。これ は(自己)犠牲の問題であり,その基礎となるのが「代理」の問題であるが,これについ ては前号に論じた28)。 「ポヴアリー夫人は私だ」. (フロベール),また「姉は私だったから」. 29)というように,. 文学においてこのような自己同一化のモティー7はよく取り扱われる0 問題は,何と自己を同一化するか,また,どこまでできるか,ということである。 1.. 2.. 8.自己の時間. 「存在論的に不安定な人間」の「因子として,時間的自己の断絶がある」 144f.)。つまり,時間的自己意識の連続性が自己統合を保持する(Ll,. (Ll, 145)。ひらたく言.

(10) 10. 小. 林. 謙. 一. えば,過去の記憶,現在の意識,未来の(予想される)変化(成長?)が一つながりの持 続と感じられるとき,統一ある自分であることができる。このような「過去,現在,未来 という時間の中での出来事を区別するある種の感覚,つまり,ミンコ7スキーの意味での 『生きられた』時間を区別する力」. (Ll, 208)が自己を支えている。. 「時間のなかでの持続. 体としての,内的統一,実体性,真実性,そして価値をもつものとして」. (Ll, 51)人間は. 自己を体験する。 「われわれの素朴な日常的理解によると,時間とは過去から現在を通過して未来に向う, 連続的な一本の流れのようなものである」30)。しかし,いっそうよく考察してみると,まず 現在が確実にとらえられる。. (離人症では現在がばらばらの瞬間でしかなく,連続性が失わ. れている。)つまり現在中心であり,その意味で自己中心的である。確立した現在から次 に,過去がそのつど新たにとらえ直される。そして将来がそのつど,確かに描かれる。こ れが,時間の中に,というより,時間とともにある自己である31)o 周知のように,生まれてしばらくの間の幼児は「自他の区別もつかず,母親を一個の別 人格と認識していない」. 32)。まだ自己は発生していない。. その後の乳児期から思春期にいたる自己の確立の経過(要件)の的確な記述は木村敏 (K3, 168-187)その他について見られたい。 昔の日記を読み返してみて,自分はこんなことを考えていたのかと驚く,ということが ある。過去の自分がまるで他人のように見える。また,少し前の(特に,嫌な)自分をこ ろっと忘れることも多い。人間は「過去を脚色」. (L2, 56)する。つまり記憶を変容させ. る。事実そのままの確実な記憶-過去は物自体であって,絶対に手に入れられない(プルー ストの問題)。確実なのは,この項の始めに述べた,過去からの連続性の感覚と,現在の現 実感だけである。過去の自己は永久に失われてしまって,現在の自分にも,他の誰によっ ても,知られないのであろうか。 しかしまた,現在の自分も絶対的に確実なものではない。そもそも生きて,たえず動き, 姿を変えているのが自己であった。. (自己認識の問題については後述。)その上,. 「人が変わ. る」ということがある。他人から見られた自分がそうであることもあり,自分から見てあ る他人が一夜にして別人のようになる,ということもある。ここに,時間を超えて(ある いは貫いて)持続するアイデンティティという問題が生じる。「生まれ変わったようになる」 ということも言われる。敬慶主義者はこれを厳密に受けとって,信仰による「再生」 (Wiedergeburt)という中心的教義を立てた。 の参与」. (Partizipation. am. Neuen. P.ティリッヒの言い方では,. 「新しい存在へ. Sein)となるであろう。. それでは未来にこそ真の自己があるのであろうか。キリスト教は,終末論的自己,パウ ロの言う「復活のからだ」. 「霊のからだ」. (第一コリント15章)に希望をおく。今はこの難. 問を詳述する余裕はないが,少なくとも,過去および現在の自己にとらわれない新しい自 己が,しかも現在の自己との全き連続性をもって,与えられるということだ,とは言えよ う33)0 「自己自身に克行する精神〔Geist,霊〕」34)0 しかし,いまは自己について現象論的にそのさまざまな問題を考察している段階で,そ の視点から自己の未来を見ると,事態は決して明るくない。. 「すべて有限なるものは初めか.

(11) ll. 「自己」についての神学的考察(1). ら,自分の実質(Substanz)が失われるかもしれないという不安に満ちている。 ゆる変化は,変化するものの相対的非存在を啓示する。 験は,自己との同一性の完全な喪失の先取りである」. --あら. --死の不可避性という人間の経 35)。自己の実質が次第に減少してい. き,ついには消滅するであろうという存在論的不安,無の脅威に,有限なる実存はさらさ れている。身体の面で,これは明らかである。身体は不断に変化し,ある年齢を過ぎると 衰える一方である。自己の分量が減っていくのであろうか.遺伝子レベルでも同様の経過 が起こるようである。. 『自己』に適応し, 『自己』に言及(リファー)しな. 「免疫系は・--. がら,新たな『自己』というシステムを作り出す。この『自己』は,成立の過程で次々に 変容する」 I.. 2.. (T, 104)。しかし,いつまでも変容を続けるわけではない。 9.自己の所有者. 自己の主体(所有者)は自分自身であるか,それとも他者(世間,上役,家族,配偶者, 恋人など,また寺*)であるかoたしかに自分の心がすっかりある他人または組織に捕らえ られて,自分の主体性が消えてしまう,ということがある。自分の心の中に他者が入りこ む,他人の思想に支配される,前にふれたが,時代の文化(制度・意味の体系)に動かき れる,など。. 精神病者の場合には典型的な形をとる。自己は「ほとんど非現実となり,死んでいる。 --他者が現実性と生命を所有している」. (Ll, 196。強調は原著者)。しかし,自分「自身. であるために他人を必要としたならば,それは自律性に到達することに完全に失敗したこ 「自我本能 とを前提としている」 (Ll, 261)。そのような人は「自己行動の欠如」を示し, の満足を達成すること」に失敗する(Ll, 断もくださない」 は,. 259)。 「自発性を示さ」ず,. 「いかなる種類の決 「問題. (Ll, 264)。つまり,生き生きと自分であるということがか-0. -・-自今が,自分自身の行動の起源であるという観念--を発達させているかどうか. である」. (Ll, 262)0. 次に,自己責任ということが問題となる。自分はどこまで自分の行動の責任を問われる のか.刑法でも,心身こう弓削こより責任が問われない,もしくは軽減される場合がある. 「い. 「自分がない」と非難される人がいる。自分の考えがなく,他人に全く従うのである。 い子」も多い。子供は初めはたいていこれであるようだ(Ll,. 130参照)。そういう子は,. 「お前は何々であるという他人の定義にしたがって行動する」(Ll,. 131)。前に紹介したジュ. リーは「自分のことをテイラー夫人と呼んだo ド)の人間だ』という意味である。 た」. ・・-・それは『仕立屋作り(テイラー・メイ 『私は・--作られ,やしなわれ,着せられ,仕立てられ. (Ll, 271)o彼女は,いわば袖に創られ,しかし生命の息を吹き込まれか-状態にある. と言えよう。つまり,死んでいる。. 「にせ自己には,盲従の対象となる人か?しは人びとの性格をしだい しだいに身につけ ていく傾向がある。 ある(Ll,. -=-他者のほとんど完全な真似(impersonation)にまで達することが 「真似という機能の一つは,他者とのもっと広範. 133.強調は原著者)oただし,. な同化(したがって自己のアイデンティティのさらに完全な喪失)が起こるのを防ぐこと である」. (Ll, 134)。この段階ではまだ救いがあるが,いっそう深刻になると,. も自分自身になることができず,つねに彼女の母親でしかありえない」. 「どうして (Ll, 78)という事.

(12) 12. 小. 林. 謙. 一. 態にいたる。. 自己を「一部分しか現実化」できないと, 「しだいしだいに魔術的世界の中にとりこまれ」 る(Ll,. 190)。 「このような『自己』にとっては,それこそすべてのことが可能で制限のな. いものとなる」. (Ll, 191)。空想の世界での万能感である。しかしそれは「『自己』自身の. 貧困化をもたらす。その全能性は無能性の上に築かれている。その自由は真空の中で働く」 (Ll, 191)。真の自己になるためには限定が必要である。その根拠は,キリスト教の神は, 多くの宗教の神々とは違い,限定をも受け入れる神である,ということにある36)。精神医学 的にも,. 「堕星空ことをする・-・・特定の場所や時に,特定の人と特定のことを」する(Ll,. 214f。強調は筆者)こと, 在するということ」. 「自分自身の可能性でもって,世界内で現実に騒々しい仕方で存. (Ll, 272)が自己を維持するに必要である。. 自分がある他人の「あやつり人形」,他人の「現実の象徴」でしかない(Ll,. 130)とい. うケースがある。これは,もっと大きなスケールで,宇宙,また特に人間は,誰かある知 性体のシナリオ通りに動いている,という現代の宇宙論の一部にある考え方37)に通じる. 人間はお釈迦様の掌の上の孫悟空なのか。キリスト教の神がこの「知性体」であるのか。 しかし,神学の考えは,これと似ているようでいて,決定的に違う。パウロの「キリスト が私の内に生きている」 から自分を換作している」. (ガラテヤ2,. 20)は,他人が「自分の存在の内部に巣食ってそこ. (Ll, 130)という事態とは異なる。また,妄想が体験というよ. り深く,自己の核心部において,自己そのものになりきっている,内界に「突如として無 媒介浮かび上がってくる『他者性山という「現実が愚者にとって余りにも近すぎる」とい う「絶対無媒介的事実」が報告されている(K3,. 194.)。これは,パウロの言う事態の裏返. しに近いと思われる。しかし,人間の真の自己実現と自由について,後にまとめて考察す る予定である。 I.. 2.川.自分らしさ これも「自己」についての重要な一様相であるが,次号の2.の「自己肯定」の項で改. めて取り扱うことにする。限定された自己の肯定の具体的あらわれが各個人の性格(自分 らしさ)であると思われるからである。なお,個性はすでに免疫的レベルでも発現してい るようである(T,. 226ff.)o 自己の歴史性にも注意が払われなければなるまい(K3,. 64ff.)0 I.. 2.. ll.自己の超寛. 自己限定と逆の動きが自己の超克ないし超越である。限界をもつ,嫌悪すべき自分を脱 却したいという願望はだれしもがもつであろう。. (別の自分になりか-,あるいは別の他人. になりたい,というのとは方向を異にする。これについては前にふれた。)心頭を滅却し, あるいは仕事に没入し,また性愛に濁れて,自分を忘れる。自然や芸術の美に接したとき にも,我を忘れるということがある。 れ美的自由の中にある--. 「美を享受する人は,自然的・道徳的束縛から解放さ. 〔これは〕根源的なEntbemmung(抑圧の解除)」であり,. 己忘却の喜びである」38).このような傾向はむしろ仏教,中でもチベット仏教に特徴的なも のかもしれない。そこでは浬磐(寂滅)にいたるための方法が非常に発達しているようで ある。キリスト教思想の伝統にもこのような指向は見出される。特に神秘主義的傾向の息. 「自.

(13) 13. 「自己」についての神学的考察(1). 「Ekstase. 想において。. (脱我,快惚)とは,理性が自己自身のかなた,すなわち理性の主. 体・客体構造のかなたにある,という意識状態である」. 39)0. 「身体化されないことによっ. 「自己が身体から--解離」し,. 分裂病質状態の人の場合,. (Ll, 104). 102ff.)。しかし,それは「空虚への超越」. て世界を超克し」ようとする(Ll,. でしかない。非存在・無-の超越であり,転落であって,仏教的に静諾な没我ではなく, まして充実した自己忘却ではない。分裂病質者が望んで与えられなかったものは近よりが たい自由」. (Ll, 151), 「くつろぎ」. (Ll, 172), 「落ちつき」. (Ll, 173), 「のびのぴ」. (Ll, 173)であった。 I.. 2.. 12.関係としての自己 1.)行動の. これまでに,自己は実体ではなく,生きて動いているプロセスであり(1. 2.. 主体である(1.. 6.. 3.),等と,仮に規定してきた。ここでもうーつの重要なポイ. ントをつけ加えなければならないoそれは「関係」ということであるo筆者は先に人間の (imagodeiの)本質を人間の我一汝関係,ことに男と女の向かい合いの関係に見た42)。イマ ゴ・デイはanalogia. relationis. (関係の類比)であって,神と人間の関係に根拠をもつ。. さらにその最深の根拠は神自身の内部の関係性(三位一体)にあることをも論じた40)。関係 性を論じようとすると,関係という語を何度も,いわば自己言及的に,使わなければなら なくなるが,キルケゴールないしその最後の分身アンテイ・クリマタスも『死に至る病』 本論の冒頭,. 「人間は精神である。しかし,精神とは何であるか。精神とは自己である。し. かし,自己とは何であるか。自己とは,ひとつの関係,その関係それ自身に関係する関係 であり,あるいは,その関係がそれ自身に関係するという関係にあるということである。 42)以下の記述で,. 自己とは関係ではなく,関係がそれ自身に関係するということである」 ほぼ同様の趣旨を言おうとしているのだと思われる。つまり一種のanalogia. relationis. 杏,神学的用語を使わずに叙述しているのだと思われる43)。 1.. 3.他. 者. 自己の反対語は言うまでもなく「他者」である。自己と他者の関係については,これま でしばしば述べてきたが,ここで「他者」の側に重点をおいて短くまとめておきたい。 「創造的関係と呼ばれるものは,つまりそこにおいて自. 他者との(ふつうの)長い関係,. 己と他者の相互的豊儀化が生じる『良循環』のような関係」であり,つまり愛の関係であ 「不毛の関係」に陥り,そこでは愛に「恐怖. るが,分裂質の人はこれを実現できず,悪い, が取って代わる」. (Ll, 107。強調は原著者)。別の言い方をすれば,. わち人間としての自己のありか」を見出せない(K3,. 「人と人との間」,すな. 183)。つまり,自己の自立・確立が. なされか-。自己となるためには他者が,すなわち他者との「補完的〔相補的〕アイデン テイ(L2, 92ff.)が必要なのである。. 「分裂病者は,自分を理解してくれると感じる人に合っ. た場合,分裂病着ではなくなる,というユングの言明」 のに重要な役を演じるのは医師の愛である」 う絶望することはありません」. (Ll, 226)0 「患者を統合--する. (Ll, 227)0 「ひとは孤独でさえなければ,ち. (Ll, 227)。免疫学的には「『自己』の中にひとつのひな型. としての『非自己』を持っている必要がある」,たとえば「消化管という内なる外」である (T,. 178)。.

(14) 14. 小. 林. 謙. 一. 「補完」がうまく機能しないという問題は,もちろん常に生じうる。愛が歪んで相手に 盲従してしまい,自己を失ってしまったり,相互理解に艶髄を来したりするが,これにつ 「私は, 〔他人が〕私はこうである. いては詳しく論じる必要はか-であろう。重要なのは,. というところの着でもないし,自分はこうであると私がいうところの着でもない」 115)ということである。たしかに,. (L2,. 「人間は他人がこうであるとみなしているところのも. ので必ずしもないということを悟るのは,一大偉業と言うべきである」. (L2, 189)。社会つ. まり他者の群れの中にいると,ついつい自分を見失い,他人の判断に動揺して自信を失い がちであるが,自分は悪くないんだ,間違っていか-んだ,と思いなおして自分を取り戻 すことがアイデンティティ保持のために大切である。神仏よ照覧あれ。しかし,自己が何 であるかを決定するのは自分であろうか。マルティン・ルターは「我ここに立つ。わたし はこうするよりほかか-.神よ私を助けたまえ。アーメン」と祈る44). この点に関連して,木村敏の論が興味深い。 は,. 「われわれ日本人の体験構造の中において. △はつねに△興としての畢生,旦桓堕において見られてきた.ここが西洋の個人主義. 的,独在論的な自我意識と日本人の自己親との決定的な相違なのである」 は原著者) 45).っまり「自他未分離の深い体験層」. (K3,. (K3, 153。強調. 156)が根源的であって,ここか. ら自己と他者が次いで析出されてくる。西欧的「個人主義」はその後にはじめて可能とな るoマルティン・ブ-バーの「我と汝」やカール・レ-ヴイツトの「共同人間性」. 46)の主. 張が出てくるのは,さらにその次の段階だ,ということになろう. 1.. 3.. 1.他者の艶詑. 次の間題は,自分以外の人間(それ以外の存在者は今は考えない)の自己ということで ある。そもそもそれは存在するのか。これはフィヒテ,大森荘蔵,大庭健等の問題,つま り他者の自己を認識ないし理解できるか,という問題である。 「他者が空想の体現物として関係されるときには,他者の自己は,黙殺される。 者を体現された幻影として取り扱っているのである」 おいて非常にしばしば起こる(L2,. --他 (L2, 54)。このことは,性的空想に. 55f.)0. 我々の日常生活において,自分の生を生きると同時に,ある他人の生をも生きたいと願 うことがある。あるいは,少なくともそのÅのすべてを知りたい,と思う。しかしそれは, 部分的にはありえても,全体的には不可能であろう。 また,自分から見て,ある人と別のある人とが,重なる,つまり同じ人としか思えない, ということを時に経験する。双子の場合は当然のようであるが,赤の他人二人のアイデン ティティが区別できない,ということも起こる。平易に言えば二人がよく似ている(外見 が,声が,あるいは考えや性格が)ということにすぎないのであろうが,ここにはもう少 し深い問題が隠れているようにも思える。. (集合的自己?)逆に,自分から見た他人のアイ. デンティティが分裂することもある。つまり同一人が場合によってまるで別人に見える。. (権藤な例がジキルと-イドであろう。)二つの場合とも,こちら側の空想つまり認識にだ け問題があるのではないように思える。 柄谷行人は「他者」また「外部」ということを強調する47)。いくらか感覚的に言えば,汰 して内部に入らない,決して自己にならか-,さらに平易に言えば,決して理解できか-,.

(15) 15. 「自己」についての神学的考察(1). 手の届かない存在が他者だ,ということであろう。独我論の彼方のこの「他者」を此噴を 使って表せば,ドストエフスキーの「無限遠点」 1.. 3.. 48),現代数学の「無限」. 49)となる。. 2.絶対他者. 柄谷行人の言う「他者」は絶対性を帯びている。だから彼は木村敏との対談において(キ ルケゴールに関して). 「神-他者」と等置している50).. ・Lかしキルケゴールからカール・バ 「絶対他者」は厳密に聖書,とりわけパウロの「神」. ルト(『ロマ書』の時期の)にとって,. 「質的隔絶」,. であって,いかに手が届かない存在とはいえ,他の人間ではない.. 「神は天. に,人は地に」。しかもなお,その絶対他者が世界の内に,さらに人間の自己の内に入りこ む,というのがキリスト教の逆説である.それは主体(rB己)の消滅と交替であるのか, 二つの自己の融合あるいは共存であるのか,それとも自己(魂)とキリストとの神秘的合 一であろうか。この間題は次号で考察したい。 牲 1)木村故『自分ということ』第三文明札1983,. 46頁。以下,′本書からの引用は本文中に(Kl,. 46)のように示す。 1973,. 2)木村敏『異常の構造』講談社現代新書, (K2, 3). 109頁以下。以下,本書からの引用は本文中に. 109ff.)のように示す. 1971,. 良.D.レイン『ひき裂かれた自己』阪本・志貴・笠原訳,みすず,. 本書からの引用は本文中に(Ll,. 281)のように示す。 1993。以下,本書からの引用は本文中に(T,. 4)多田富雄『免疫の意味論』青土社, に真数を示す。. 1993,. 5)岸田秀『ものぐさ筈やすめ』文拳春秋, 6) 7 ). Alain,. 123)のよう. 166真。 1975,. 良.D.レイン『自己と他者』志貴・笠原訳,みすず,. 文中に(L2,. 281裏地多数o以下,. 51京。以下,本書からの引用は本. 51)のように示す。 Definitions,. Gallimard,. in: Les Arts. ``amour-propre",. et les Dieux,. Bibliotheque. de la Pleiade,. 1958, p. 1032.. 『図書』岩波書店,. 8)高橋康也「笑うシェイクスピア」. 1993年5月号,. 20真。. 9)同20-25真。 1990, 54真。 10)拙論「神学的現実」本紀要第36輯, ll) Eberhard Jtingel, "Anthr9P?mOrphismus als Grundproblem in: Wertlose. Wahrheit,. Chr.. Kaiser,. (「殺人光線」. 12)同書に何度か揖嫡される「視線」 (RGG),. 3. Aufl., Bd.. Ⅰ Art. ,. Blick. 「悪魔の目」)の意義は興味深い。視線は魔術的 Vgl.. な力をもち,宗教学に例が多数報告されている. wart. neuzeitlicher■ Herlneneutik",. 1990, S. 129.. von. Die. Religion in Geschichte. und. Gegen-. K. Deichgr且ber.. 13)これについては拙論「カール・バルトにおける神の像の問題」本紀要第24輯,1978,で論じ た。. 14) 「僕も人間が生きていること自体,演劇だと思うんです。別に俳優じゃなくてもみんなある役 1988, 293頁,白石加代子 を演じているわけですよ。」岸田秀『さらにまた幻想を語る』青土社, との対談。 (「健康な」)人間の自己は現象ないし可能 15)前掲拙論「神学的現実」参照。要点をくりかえせば, 性であって, 「現実の」人間は神との関係なしにはあり得ず,神の眠から見られた人間が「現実の」 人間だ,ということである。. 16)離人症については,木村敏『自覚の構神病理』紀伊国屋, 時間』弘文堂,. 1981,. ⅠⅤ章,がいっそう詳しい。. 1978,第一章,同『自己・あいだ・.

(16) 16. 小. 17). S. Kierkegaard,. Brocken,. AbschlieBende. 2. Teil, iibersetzt. 謙. 一. Nachschrift. unwissenschaftliche H. M.. von. 林. Ges. Werke. Junghans,. zu. 16. Abt.,. den philosophischen. Ddsseldorf/K81n,. 1958,. S.47.. 18)本当に意志があれば,それはすでに行動に移行している,というのがアランの基本思想の一つ であった。 19)養老孟司『唯脳論』青土社,. 1959,等の著書参腰。. 20)大庭健『他者とは誰のことか』勤草書房,. 理を綿密にあとづけている。 21)中村雄二郎『術語集』岩波新書,. 1989,は個人から社食がいかにして成立するかの論. 1984,. 1京,. 3頁.. 1994,がくりかえしそのように主張している。. 22)柄谷行人『「戦前」の思考』文峯春秋, 23). RGG,. Bd. ⅠⅤ,Art.. Neuplatonismus. H.. 24). AaO.. Sp. 1430.. 25). E.カッシーラー『個と宇宙-ルネサンス精神史』薗田担訳,名古屋大学出版会,. von. D8rrie,. Sp. 1428.. 1991,. 50. 京。 26). E. Jungel, "Das. heit, S.. Opfer. Jesu Christi als. sacramentum. et. in: Wertlose. exemplum",. Wahr-. 271.なお「犠牲」については本紀要第39輯(1993)所載の拙論「代理観念の神学的考. 察」で論じた。 27). Ⅲ.. W.ロビンソン『旧約聖書における集団と個』船水衛司訳,教文館,. 1972,所載の「ヘア. また,ト-レイ7・ポーマン ルの集合人格概念」 「イスラエルにおける集団と個」の2論文参月鮎 『ヘブライ人とギリシャ人の思惟』新教出版社植田重雄訳, 1957,第一部第五章「集合概念と理 念(イデア)」参照。. 28)前掲拙論「代理観念の神学的考察」。 1988,. 29)於村栄子『至高聖所(アバトーン)』福武書店,. 30)木村敏r自覚の精神病理』 festum,. 40京o以下,本書からの引用は本文中に(K3,. IV,. 31)同『自己・あいだ・時間』. 108頁. 40)のように示す。. Ⅴ, VI章による.なお同『時間と自己』中公新書,. 1982,はante. festumという二種類の時間意識を分裂病と轡病に対比させて分析していて,示唆. post. に富む。 32)岸田秀『ものぐさ箸やすめ』 33). Vgl.. Paul. 144真。. Tillich, Systematische. Theologie,. Bd.. Ill,Evangelisches. Verlagswerk,. 2. Aufl.. 1978, S. 467f.. 34). P.リクール/E.エンゲル『陪喰論一宗教的言語の解釈学』麻生/三浦訳,ヨルダン社,. 1987,. 147頁,エンゲルの所論。 35). Tillicb,. 36). Karl. 13-15. Syst. Theol.,. Barth,. Die. Bd. Ⅰ 6. Aufl., 1980, S. 231. ,. KirchlicheDogmatik. II/1,. 6.. 37)ジャン・ギトン+ポグダノ7兄弟『神と科学--一超実在論に向かって』新評論, エピローグ」参月鮎 38) E. Jtingel, "`Auch Wertlose. 39). Tillicb,. Wahrheit, a.. a.. das. S. Kierkegaard,. Abt., D臼sseldorf,. Sch6ne. muB. imLicht. sterben'-Sch6nheit. 1992,特に「12 der. Wahrheit'',. in:. Die. 4真。. 49-50頁。 Krankheit. zum. Tode,臼bersetzt. von. E. Hirsch,. Ges. Werke. 24.. u.. 25.. 1957, S. 8.. 43)これの精神医学的解釈を前掲木村敏『自己・あいだ・時間』. 160京以下,が与えている。. R.ペイントン『我ここに立つ-マルティン・ルターの生涯』青山・岸訳,聖文社,. 234真o. 隻. 0. S. 135.. 41)前掲拙論「神学的現実」. 44). Rap.. S. 384.. 40)前掲拙論「カール・バルトにおける神の像の問題」 42). 2.. Rap.神の属性諭,またⅠ/2,. 「言葉の受肉」の節,参月鮎. 1954,.

(17) 17. 「自己」についての神学的考察(1). 『時間と自己』 『自分ということ』等にも同趣旨の見解が述べら. 45)木村敏『自己・あいだ・時間』. れている。また佐古純一郎『新しい人間像を求めて』新教出版社,. 1963,も「人間(じんかん). 性」を論じている。 46). Karl. L8with,. Das. Individuum. in der. Rolle. des Mitmenschen,. ケゴールのGemeinschaftの問題を筆者は学士論文で扱った。 1986, 『探究ⅠⅠ』 1989,講談社,等。. 47)柄各行人『探究Ⅰ』 48). 『探究Ⅰ』176真.. 49)同180真。 50)柄谷行人『ダイアローグ』. ⅠⅠⅠ,第三文明社,1987,. 32頁。. Tiibingen,. 1928.なお,キル.

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参照

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