北朝時代の多佛名石刻
北朝時代
の
多佛名石刻
―
懺悔
・
稱名信仰
と
關連
して
―
倉本尚德
はじめに
中國 において 、 佛名 を 唱 え 禮拜 することで 懺悔滅罪 する 儀禮 が 南北朝時代頃 から 盛 んに 行 われ 始 めた 。 日本 におい ても 中國 からの 影響 を 受 け 、 古代 から 現代 に 至 るまで 佛名會 が 執 り 行 われてきた 。 佛名會 の 所依經典 の 一 つであった ﹃ 佛 名 經 ﹄ に つ い て は 井 ノ 口 泰 淳 氏 や 鹽 入 良 道 氏 の 詳 細 な 論 考 が あ り 、 日 本 の 七 寺 で 發 見 さ れ た 十 六 卷 ﹃ 佛 名 經 ﹄ に ついても 研究成果 がまとめられている ︵ 1︶ 。 ﹃ 佛 名 經 ﹄ 以 外 に も 多 佛 名 を 唱 え る こ と に よ る 懺 悔 の 功 德 を 説 く 經 典 は 少 な か ら ず 存 在 す る 。 特 に 南 北 朝 時 代 に は 佛名 を 列記 する 形式 の 經典 が 盛 んに 翻譯 、 または 他 の 經 から 抄出 され 、 作成 された 。 鹽入氏作成 の 表 ︵ 2︶ を 參考 にしつつ 、 現存 する 經録 で 古 いもの 二部 、 すなわち 梁 の 僧祐 ﹃ 出三藏記集 ﹄ と 隋 の 法經等 ﹃ 衆經目録 ﹄ から 佛名經典 と 推測 され るも ︵ 3︶ のを 抽出 したものが 表一 である 。 氏 が 指摘 されているように 、 南北朝時代 の 佛名經 は 、 異譯 や 諸經 の 拔粹 が 多 く 、東洋硏究紀 第百五十四册 表一 『僧祐録』、『法經録』の佛名經典類(七佛關係經典除く) 譯者 經名 (大正藏該當箇所)經録名 大正藏經典番号 竺法護 賢劫經七卷 僧祐録7b 425 竺法護 滅十方冥經一卷 僧祐録8a 435 竺法護 諸方佛名經一卷 僧祐録9a 缺 竺法護 十方佛名一卷 僧祐録9a 缺 竺法護 百佛名一卷 僧祐録9a 缺 竺法護 決定毘尼經一卷 僧祐録12a 325 曇無蘭 賢劫千佛名經一卷 僧祐録10b 缺 鳩摩羅什 新賢劫經七卷 僧祐録10b 缺 鳩摩羅什 稱揚諸佛功德經三卷 僧祐録11a 缺 鳩摩羅什 十住(毘婆沙)論十卷 易行品 僧祐録11a 1521 曇無讖 悲華經十卷 僧祐録11b 157 求那跋陀羅 現在佛名經三卷(麗本なし) 僧祐録13a 缺 失譯(涼土異經) 賢劫五百佛(名經)一卷 僧祐録19a 缺 失譯(抄出?) 諸經佛名二卷 僧祐録21c 缺 良耶舎 觀藥王藥上二菩薩經一卷 僧祐録22b 1161 抄出 有稱十方佛名得多福經一卷(抄) 僧祐録22b 缺 失譯 三千佛名經一卷 僧祐録22b 缺 失譯 千佛因縁經一卷 僧祐録22b 426 抄出 稱揚諸佛功德經一卷(抄三卷稱揚佛功德經) 僧祐録22b 缺 抄出 過去五十三佛名(經)一卷(出藥王藥上觀、 亦出如來藏經) 僧祐録22b 缺 失譯 五十三佛名經一卷 僧祐録22b 缺 抄出 三十五佛名經一卷(出決定毘尼經) 僧祐録22b 缺 失譯 八部佛名經一卷 僧祐録22b 缺 失譯 十方佛名經一卷 僧祐録22b 缺 失譯 賢劫千佛名經一卷(唯有佛名、與曇無蘭所 出四諦經千佛名異) 僧祐録22b 缺 失譯 稱揚百七十佛名經一卷 僧祐録22b 缺 抄出 德內豐嚴王佛名經一卷(抄) 僧祐録22b 缺 失譯 南方佛名經一卷 僧祐録22b 缺 失譯 滅罪得福佛名經一卷 僧祐録22b 缺 抄出 觀世音求十方佛各爲受記經一卷(抄悲華經) 僧祐録22b 缺 失譯 賢劫五百佛名(經)一卷 僧祐録32b 缺 失譯 現在十方佛名經一卷 僧祐録32b 缺 失譯 過去諸佛名(經)一卷 僧祐録32b 缺 失譯 千五百佛名(經)一卷 僧祐録32c 缺 失譯 三千佛名經一卷 僧祐録32c 缺 失譯 五千七百佛名經一卷 僧祐録32c 缺 菩提流支 佛名經十二卷 法經録115a 440 失譯 十吉祥經一卷 法經録121a 432 抄出 佛名經一卷(出華嚴經) 法經録123b 缺 諸經所出 受持佛名不堕惡趣經一卷 法經録125a 缺 諸經所出 佛名經十卷 法經録125a 缺 諸經所出 佛名經一部三卷 法經録125a 缺 諸經所出 十方佛名經一部二卷 法經録125b 缺 諸經所出 三世三千佛名一卷 法經録125b 缺 諸經所出 十方佛名功德經一卷 法經録125b 缺 諸經所出 五百七十佛名一卷 法經録125b 缺 諸經所出 千佛名一卷 法經録125b 缺 諸經所出 現在千佛名一卷 法經録125b 447? 諸經所出 過去千佛名一卷 法經録125b 446? 諸經所出 當來星宿劫千佛名一卷 法經録125b 448? 諸經所出 同號佛名一卷 法經録125b 缺 諸經所出 十方佛神呪經一卷 法經録125c 缺 僞撰 大通方廣經三卷 法經録126b 2871 僞撰 十方佛決狐疑經一卷 法經録126c 缺
北朝時代の多佛名石刻 殆 んどが 極 く 短 い 一卷本 であるという 特徴 を 有 し 、 これらが 實際 の 讀誦 に 適 したものとして 流布 したことを 裏付 ける だろう 。 これだけ 多 くの 佛名經典 が 南北朝時代 に 翻譯 、 撰述 、 あるいは 經典 から 抄出 された 背景 としては 、 當時 における 稱 名信仰 の 盛行 が 豫想 できる 。 その 流行状況 を 明 らかにする 一 つの 手段 として 、 造像碑 や 石窟 に 刻 まれた 佛名 に 着目 す るという 方法 が 考 えられる 。 これらの 石刻資料 は 紀年 や 像 の 供養者名 を 有 するものが 多 く 、 制作地 についてもある 程 度特定 できるという 長所 があり 、 傳世文獻史料 からだけでは 明 らかにできない 、 より 具體的 な 使用状況 に 迫 ることが 可能 であろう 。 石刻佛名 の 研究状況 について 、 敦煌 などの 比較的有名 な 石窟 に 關 しては 近年研究 が 進 められ 着實 に 成果 があげられ ている ︵ 4︶ 。 しかし 、 あまり 知 られていない 石窟 や 、 單立 の 造像碑 に 刻 まれた 佛名 については 看過 されており 、 未紹介 の 貴重 な 資料 も 少 なからずある 。 そこで 本稿 では 、 多 くの 佛 ・ 菩薩名 の 刻 まれた 摩崖 ・ 石窟 や 單立造像碑 ︵ 本稿 では 多 佛名石刻 と 便宜的 に 稱 する ︶ のうち 特 に 注目 すべき 諸事例 を 紹介 し 、 その 佛名 の 典據 となる 經典 を 解明 しつつ 、 北朝 時代 の 佛名信仰 の 特色 を 明 らかにすることを 第一 の 目的 とする 。 特 に 、 釋迦 ・ 彌勒 ・ 觀音 などの 有名 なものではなく 、 あまり 知 られていない 佛名 の 方 に 重点 を 置 いて 考察 する 。 また 、 その 檢討 の 結果 を 踏 まえつつ 、 隋代 の 佛名信仰 への 展開 についても 少 し 言及 してみたい 。
東洋硏究紀 第百五十四册
第一節
主
な
多佛名
とその
信仰
まず 、經典中 に 説 かれる 多佛名 について 行論 に 關 わる 範圍 で 概觀 しておきたい 。多佛 には 大 きく 分 けて 過去 ・ 現在 ・ 未來 の 三世 の 時閒的 な 廣 がりを 表 すものと 、 四方四維上下 の 十方 の 空閒的 な 廣 がりを 表 すものとがある 。 代表的 なも のに 關 しては 鹽入氏 が 諸 テクスト 閒 の 佛名 の 異同 などに 着目 され 詳論 されているが ︵ 5︶ 、 筆者 は 佛名 の 禮拜 や 造像 など 實 踐面 に 重 きを 置 いて 解説 してみたい 。 ①過去七佛 ・ ・ ・ 過去七佛 は 、 釋迦以前 に 成道 した 六佛 に 釋迦 を 加 えた 七佛 である 。 これには 、 大 きく 分 けて 、﹃ 長 阿含經 ﹄ や ﹃ 觀佛三昧海經 ﹄ 念七佛品 などの ﹁ 毘婆尸佛 ﹂、 ﹁ 尸棄佛 ﹂、 ﹁ 毘舍婆佛 ﹂、 ﹁ 拘樓孫佛 ﹂、 ﹁ 拘那含佛 ﹂、 ﹁ 迦葉 佛 ﹂、 ﹁ 釋迦牟尼佛 ﹂ という 系統 と 、﹃ 七佛八菩薩陀羅尼神呪經 ﹄ などの ﹁ 維衞佛 ﹂、 ﹁ 式佛 ﹂、 ﹁ 隨葉佛 ﹂、 ﹁ 拘留秦佛 ﹂、 ﹁ 拘 那 含 牟 尼 佛 ﹂、 ﹁ 迦 葉 佛 ﹂、 ﹁ 釋 迦 牟 尼 佛 ﹂ と の 二 系 統 あ る こ と が 知 ら れ て い る 。 造 像 銘 に お い て も こ の 七 佛 名 を 刻 んでいるものは 數多 い 。 ただし 造像銘 では 、 北涼石塔 をはじめとして 初期密敎的色彩 を 有 する 經典 にもとづく 後者 の 系統 が 多 く 採用 されているのは 留意 すべきで 、 これは 、 過去七佛名 が 單 に 過去 から 現在 そして 未來 へという 三世 にわ たる 法燈 の 繼承 を 表 すというだけではなく 、 七佛 の 稱名 が 病氣 や 災難 の 除去 に 效果 があるという 現世利益的信仰 が 流 布 し て い た こ と と 關 係 が あ る だ ろ う 。 六 朝 隋 唐 期 成 立 の 複 數 の 僞 經 に こ の 信 仰 が み ら れ る 。 例 え ば 、﹃ 普 賢 菩 薩 説 證 明經 ﹄ には 、 六方 の 九佛 の 名號 を 唱 えることで 、 橫死 や 八難 を 免 れることを 述 べるのに 續 き 、 七佛 の 名號 を 誦 すこと で 病氣 や 樣々 や 困難 が 消滅 するといっている ︵ 6︶ 。 また 僞經 ﹃ 護身命經 ﹄ にも 、 苦厄 や 病痛 があるなら 七佛 の 名號 を 唱 え北朝時代の多佛名石刻 るように 述 べている ︵ 7︶ 。 同 じく 僞經 ﹃ 救疾經 ﹄ にも 、 法師 を 請 い 百日 の 齋 を 行 い 、 その 閒 、 七佛 の 名號 や 金剛蜜迹 、 無 量壽佛 を 禮拜 し 、 行道懺悔 し 、 この 經 を 寫 すことで 病氣 が 治癒 するとしている ︵ 8︶ 。 沮渠京聲譯 ﹃ 治禪病祕要法 ﹄ におい ても 、 坐禪 に 際 し 、 鬼神 によって 惑亂 された 時 、 七佛 ・ 彌勒菩薩 の 名 を 唱 え 、 數息觀 を 行 じ 波羅提木叉 を 誦 すことで 惡 鬼 を 調 伏 で き る と し て い る ︵ 9︶ 。 七 佛 は 諸 々 の 懺 法 に も と り こ ま れ 、﹃ 國 淸 百 錄 ﹄ 卷 一 ﹁ 請 觀 世 音 懺 法 ﹂ に は ﹁ 一 心 頂 禮 本 師 釋 迦 牟 尼 世 尊 。 一 心 頂 禮 西 方 無 量 壽 世 尊 。 一 心 頂 禮 七 佛 世 尊 。﹂ [ T 46 :795 b ] と あ る 。﹃ 大 方 等 陀 羅 尼 經 ﹄ で は 過 去 七 佛 に 無 量 壽 佛 、 過 去 雷 音 王 佛 、 祕 法 藏 佛 を 加 え た 十 佛 の 前 で 至 心 に 懺 悔 す れ ば 九 十 二 億 生 死 の 罪 が 滅 す る と いう ︵ 10︶ 。 以上 のように 七佛 の 名號 を 唱 え 禮拜 することで 病氣 や 災難 から 逃 れ 滅罪 することができるという 信仰 が 六朝時 代 に 廣範 に 流布 していたことが 推察 される 。 ②三十五佛 ・・・ 三十五佛 の 名 は 竺法護譯 ﹃ 決定毘尼經 ﹄ にみえ 、 五無閒罪 などを 犯 した 時 、 三十五佛 の 前 で 至心 に 懺 悔 す る よ う に 述 べ て い る ︵ 11︶ 。﹃ 觀 虚 空 藏 菩 薩 經 ﹄ に も 滅 罪 す る に は 十 方 佛 を 禮 拜 し 三 十 五 佛 ・ 虚 空 藏 菩 薩 の 名 を と な え よ と あ る ︵ 12︶ 。﹃ 治 禪 病 祕 要 法 ﹄ に も 、 犯 戒 に よ る 禪 病 の 治 癒 に 、 釋 迦 佛 ↓ 七 佛 ↓ 三 十 五 佛 と 順 に 念 ず べ し と あ る ︵ 13︶ 。 三十五佛 が 懺悔 と 非常 に 關 わりの 深 い 佛 であったことがわかる 。 ③五十三佛 ・・・ 五十三佛 は ﹃ 觀藥王藥上二菩薩經 ﹄ にみえる 過去佛 であり 、 その 名 を 聞 けば 萬億阿僧祇劫 も 惡道 に 墮 ちず 、 唱 えれば 生 まれかわった 先 で 常 に 十方諸佛 にあうことができ 、 至心 に 敬禮 すれば 、 四重 ・ 五逆 ・ 大乘 を 謗 るなどの 重罪 を 除滅 できるという ︵ 14︶ 。 釋迦 も 遠 い 過去世 において 、 妙光佛 のもと 、 この 佛名 を 聞 き 、 人 に 敎 え 、 その 人 がまた 他人 に 敎 え 最後 には 三千人 になり 、 皆 ともにこの 佛名 を 誦 し 敬禮 した 。 その 功德 によって 無數億劫 の 生死 の 罪 を 超越 し 、 初 めの 千人 は 過去千佛 となり 、 次 の 千人 は 賢劫千佛 となり 、 最後 の 千人 は 未來 の 千佛 となるという 。 十方
東洋硏究紀 第百五十四册 現在諸佛 も 過去世 にこの 佛名 を 聞 いた 故 に 成佛 した ︵ 15︶ 。 また 四重 ・ 五逆 ・ 十惡 や 謗法 の 重罪 を 除滅 するには 、 藥王藥上 二菩薩呪 を 誦 し 、 十方佛 、 過去七佛 、 五十三佛 、 賢劫千佛 、 三十五佛 を 敬禮 し 、 その 後 、 十方無量一切諸佛 を 遍禮 す べしという ︵ 16︶ 。 慧重 は 隋 の 仁壽年閒 、 舍利 を 州禪寂寺 に 送 り 、 齋 を 設 けたところ 、 樣々 な 靈瑞 があったが 、 再 び 都 に 歸 って 後 、 禪定 と 懺悔 を 專 ら 修 すようになり 、 晝夜十二時五十三佛 を 禮 し 、 それ 以外 の 時 は 跏坐正念 し 、 生涯 を 終 え たという ︵ 17︶ 。 また 、 五十三佛 と 三十五佛 はセットにされることが 多 い 。 隋 の 開皇年閒 、 僧倫 は 武陽 の 理律師 のもと 聽法 し 、 半夏 にして 五色 の 光 が 車輪 の 如 く 僧倫 の 心 を 照 らすのを 衆 とともに 見 た 。 その 光 の 中 にて 五十三佛 を 禮 したが 、 光 は 消 え ず 、 更 に 三十五佛 を 禮 すると 光 は 收 まったという ︵ 18︶ 。 次節 でみる 東魏 の 嵩陽寺碑碑陰 においても 兩者 がともにみえる 。 また 北魏普泰元年 ︵ 五三一 ︶ 朱法曜造像碑 ︵ 19︶ には ﹁ 比丘僧振 、 爲父母造卅五佛 ﹂ とあり 、 同 じ 頃 に 造 られたと 推測 され る 朱黑奴造像碑 ︵ 20︶ には ﹁ 比丘僧振造五十三佛 、 爲曠劫諸師現在諸師但越施主 ・・・﹂ とあり 、 おそらく 同一人物 が 三十 五佛 と 五十三佛 を 異 なる 碑 に 造 っている 。 五十三佛 の 北朝時代 の 紀年造像記 としては 、 他 に 、 龍門石窟古陽洞 の 北魏 永平四年 ︵ 五一一 ︶ 黃元德造像記 ︵ 21︶ 、 フリア 美術館所藏 の 正光二年 ︵ 五二一 ︶ 比丘劉法藏造像記 ︵ 22︶ がある 。 ④十方 ︵ 諸 ︶ 佛 ・・・ 四方四維上下 の 佛 であり 、 各方角 に 一佛 ずつであれば 、 十方十佛 となる 。 東西南北 の 四方 、 東 西 南 北 上 下 の 六 方 、 四 方 四 維 の 八 方 佛 と し て 表 さ れ る 場 合 も 多 い 。 有 名 で あ る の は 、﹃ 金 光 明 經 ﹄ の 東 方 阿 閦 、 南 方寶相 、 西方無量壽 、 北方微妙聲佛 という 四方佛 、 また 、 次 に 述 べる ﹃ 法華經 ﹄ の 八方 の 十六王子 、 そして ﹃ 十住毘 婆沙論 ﹄ あるいは ﹃ 觀佛三昧海經 ﹄ にみえる 十方佛名 などである 。 しかし 、 これら 以外 にも 他 の 經 には 多 くの 十方佛 名 が あ る の は 注 意 し て お き た い 。 十 方 佛 で も 千 を 超 え る も の と し て ﹃ 現 在 十 方 千 五 百 佛 名 幷 雜 佛 同 號 ﹄︵ 大 正 藏 八 五
北朝時代の多佛名石刻 卷所收 ︶ がある ︵ 23︶ 。 具體的數 を 言 わなくなると 、 十方一切諸佛 となり 、 諸佛名 の 禮拜 による 懺悔儀禮 においても 、 さき ほ ど 例示 した ﹃ 觀藥王藥上二菩薩經 ﹄ のように 、 個々 の 佛名 を 禮 した 後 に 、 十方諸佛 を 禮拜 するという 形式 をとるも のも 多 い 。 十方諸佛信仰 は 北魏 のかなり 早 い 段階 からあったことが 、 興安三年 ︵ 四五四 ︶ 五月十日 の 紀年題記 を 有 す る ﹃ 大慈如來告疏 ﹄ に 、 十方諸佛 を 一心 に 敬禮 するという 語 がみえる ︵ 24︶ ことからもわかる 。 また 、﹃ 出三藏記集 ﹄ 卷四 ﹁ 新 集 續 撰 失 譯 雜 經 錄 ﹂ に ﹁ 有 稱 十 方 佛 名 得 多 福 經 一 卷 ︵ 抄 ︶﹂ と い う 經 名 が み え る よ う に 、 十 方 佛 も そ の 稱 名 に よ る 功 德 が 期待 されていた 。 十 方 佛 に か か わ る 造 像 に つ い て 、 梁 の 武 帝 は 同 泰 寺 に て 十 方 銀 像 や 十 方 金 銅 像 を 造 り 、 無 遮 大 會 を 執 り 行 っ て い る ︵ 25︶ 。 造像銘 においても 北周保定二年 ︵ 五六二 ︶﹁ 十方四面石像 ︵ 26︶ ﹂ や 北齊天保十年 ︵ 五五九 ︶﹁ 十方釋迦像十軀 ︵ 27︶ ﹂ を 造 っ たという 事例 、 さらに 邑義 ︵ 28︶ 道俗 が 十方諸佛一切賢聖 に 敬白 するという 武定七年 ︵ 五四九 ︶ の 事例 ︵ 29︶ もみられる 。 ⑤十六王子 ・・・ 十六王子 は ﹃ 法華經 ﹄ 化城喩品 にみえ 、 大通智勝佛 の 十六人 の 王子 が 沙彌 となり 、 その 佛 の 説法 を 聽 き 、 敎 えを 廣 めた 因縁 により 、 後 に 成佛 して 四方四維 の 八方 の 佛 となったものである 。 第一番目 の 佛 が 東方 の 阿 閦 、 第九 が 西方 の 阿彌陀 であり 、 最後 の 第十六 の 佛 が 娑婆國土 の 釋迦 である 。 なお 、﹃ 法華三昧懺儀 ﹄ 卷一 に 、﹁ 一心 敬 禮 法 華 經 中 過 去 二 萬 億 日 月 燈 明 佛 、 大 通 智 勝 佛 、 十 六 王 子 佛 等 一 切 過 去 諸 佛 。﹂ [ T 46 :951 c ] と あ る よ う に 、 十 六 王 子佛名 は 懺悔儀禮 にも 導入 されている 。 十六王子 を 石刻造像 にとりいれることについてはかなり 流行 していたようで あり 、 その 事例 は 少 なからずある 。 詳 しくは 、 張總 ・ 賴文英氏 の 論考 ︵ 30︶ を 參照 いただきたいが 、 筆者 も 新 たに 發見 した 事例 を 次節 でいくつか 紹介 している 。 ⑥ 千 佛 ・・・ 千 佛 と い え ば 現 在 賢 劫 に 出 現 す る と さ れ る 千 佛 を さ し て い う 場 合 が 多 い ︵ 31︶ 。﹃ 維 摩 詰 所 説 經 ﹄ 法 供 養 品
東洋硏究紀 第百五十四册 には 、 過去無量阿僧祇劫 に 藥王如來 あり 、 寶蓋 という 名 の 轉輪聖王 が 月蓋 をはじめとする 王子千人 とともに 佛 を 供養 したが 、 その 時 の 月蓋 が 釋迦 であり 、 王子千人 は 迦羅鳩孫駄佛 から 樓至佛 までの 現在賢劫 の 千佛 であるという ︵ 32︶ 。 千佛 の 因縁 には 異説 が 多 く 經 により 異 なるが 、 この 例 のように 、 ともに 佛 の 説法 を 聽 いた 千人 が 後 に 千佛 となるという 枠 組 みをとるものが 多 い 。 先程五十三佛 のところで 言及 した ﹃ 觀藥王藥上二菩薩經 ﹄ では 、 千人 ではなく 、 三千人 が 過 去 ・ 賢劫 ・ 未來 の 三千佛 となるとしている 。 個々 の 千佛 の 具體名 がみえるのは 、 現存 するものでは 、 竺法護譯 ﹃ 賢劫 經 ﹄、 失 譯 の ﹃ 過 去 莊 嚴 劫 千 佛 名 經 ﹄、 ﹃ 現 在 賢 劫 千 佛 名 經 ﹄、 ﹃ 未 來 星 宿 劫 千 佛 名 經 ﹄ な ど で あ る 。 大 正 藏 所 收 の ﹃ 現 在賢劫千佛名經 ﹄︵ No. 447 a ︶ では 、 第一 から 順 に ﹁ 拘那提佛 ﹂、﹁ 拘那含牟尼佛 ﹂、﹁ 迦葉佛 ﹂、﹁ 釋迦牟尼佛 ﹂、﹁ 彌勒佛 ﹂、 ﹁ 師子佛 ﹂、 ﹁ 明焰佛 ﹂ となっており 過去七佛 の 後三佛 が 組 み 入 れられている 。 千佛 の 禮拜 は 實踐 を 重 んずる 僧 たちによって 修 されていた 。 例 えば 、 南齊 の 永明十年 ︵ 四九二 ︶ に 七十三歳 で 遷化 し た 超 辯 は 、 定 林 上 寺 に 止 住 す る こ と 三 十 餘 年 、﹃ 法 華 經 ﹄ を 日 ご と に 一 遍 誦 し 、 さ ら に 千 佛 を 禮 拜 す る こ と 百 五 十 餘萬拜 に 達 したという ︵ 33︶ 。 また 、 北齊天保六年 ︵ 五五五 ︶、 八十歳 で 入寂 した 僧範 は 、﹁ 華嚴 に 意 を 留 むるを 來報 の 業 と 爲 し 、 夜 に 千 佛 を 禮 す る を 一 世 の 常 資 と 爲 し ︵ 34︶ ﹂ た と い う 。﹃ 佛 祖 統 紀 ﹄ 卷 三 九 開 皇 三 年 の 條 に は 、 海 陵 の 沙 門 惠 盈 が 晝夜六時 に 三千佛 を 禮 し 、 民 の 饑苦 を 救 おうとしていたが 、 ある 日 ﹃ 法華經 ﹄ を 講 じたところ 、 五道大神 と 稱 する 神 が 授戒法 を 請 うたとある 。 千佛 の 造像 について 、 早 くも 東晉時代 に 竺道壹 が 嘉祥寺 にて ﹁ 金牒千像 ﹂ を 造 っている ︵ 35︶ 。 また 、 次節 で 示 すように 炳靈寺石窟 の 五世紀初 め 頃 の 西秦時代 の 題記 にも 千佛 を 造 ったという 題記 が 殘 されている 。 龍門石窟蓮華洞 には 方等 懺法 に 基 づく 行道 を 修 し 、 賢劫千佛 を 造 り 、 皇帝以下衆生 までが 生々世々賢劫千佛 に 侍 するのを 願 ったことを 記 した
北朝時代の多佛名石刻 表二 北朝時代千佛造像銘目録 年 月日 王朝 造像名稱 主な収録書 銘文抜粋 關係地・所藏 508 0000 北魏 正始五年造千 佛塔記 文物 1996.5.61 「正始五年造千佛 塔。」 青州市黄樓 遲 家荘北興國寺遺 址出土 520 0223 北魏 晏僧定邑子六 十七人等造像 碑 考古與文物 1999.6.59 「造千佛石像一傴、 四面細好銘一傴、 精 舎 一 傴、 □ 雜 果七十餘□。」 陝西永壽縣永太 車 村 發 見。 永 壽縣文化館所藏 525 0813 北魏 中明寺比丘尼 道暢等造像記 彙 録1133、 拓 5003、 魏 目 185 「依方等行道、願 造玄(賢)劫千佛」 「生〃世〃侍玄劫 千佛。」 龍 門 第0712窟 蓮 華洞 N8 536 0927 東魏 七寶山靈光寺 道人慧顏、慧 端等造像記 『定襄金石攷』 1 「千像大唯那」「造 七佛、彌勒下生、 當 來 千 佛。」「 咸 願 四 海 羣 賢 英 ? 等迭相率化入邑 崇千佛。」 山西七寶山靈光 寺。 七 巖 山 千 佛 殿 541 0625 東魏 前趙郡太守嘉 殷州刺史河閒 邢生等造像碑 山 右1、『 道 端 良秀著作集』 5.151;238 「千像主」 山西盂縣興道村 摩崖 541 1122 東魏 豊樂寺比丘員 光等造像碑 拓6081、 大 村 259 「剖刊朝□、零象 一千。」 山西 546 0227 西魏 權旱郎等造像 碑 張寶璽『甘肅 佛 教 石 刻 造 像』213 「造一?劫石象千 佛。」 出 土 地 不 明。 甘 肅省 物館所藏 552 0715 北齊 討寇將軍長子 縣令魏蠻等造 像記 松原376 「造石像一軀、幷 千像。」 傳 山 西 省 將 來。 東京國立 物館 所藏 558 0208 北齊 魯思明等合邑 千人造像 拓7071、 百 品 1 6 5、 京 NAN0535X、 魯一六979 「 合 邑 千 人 共・・・ 八 繡 像 一區、合有千佛、 人中石像兩區。」 (原在新 市)河 南 物院所藏 559 0715 北齊 比丘法悅邑子 等 千 人( 禪 慧 寺佛幢) 拓7085、 山 右 2 「願造千像成就」 「千像主」 原在山西介休縣 史 村。 太 原 文 廟 所藏
東洋硏究紀 第百五十四册 造像銘文 が 殘 されている 。 この 事例 も 含 めて 、 北朝時代 の 紀年造像銘文 にみえる 千佛 については 表二 にまとめた 。 こ の 表 を 參照 すると 、 像 の 供養者 は 集團 であるものが 多 く 、 とりわけ 五五八年 、 五五九年 の 造像 は 、 邑義千人 で 千佛 を つくるという 、 名目上 は 一人一佛 の 對應 になっており 興味深 い 。 また 、 千佛 という 銘 を 有 する 造像 は 各地 でみられる もののとりわけ 東西魏分裂以後 の 山西地方 に 多 く 分布 していることがわかる 。 千佛以上 の 數 では 、 時代 はやや 下 るが 、 おそらく 十二卷 ﹃ 佛名經 ﹄ による 一萬五千佛 を 禮拜 したという 記事 が 僧傳 にみえる 。 德美 は 隋 の 開皇 の 末 に 禮懺 を 業 とし 、 太白山 に 行 き 佛名經一十二卷 を 誦 し 、 懺 を 行 ずる 時 にはいつも 誦 し か つ 禮 拜 し た 。 每 年 の 禮 懺 に お い て 道 場 が 散 じ て も 、 期 閒 が 過 ぎ る こ と 七 日 閒 、 一 萬 五 千 佛 を 日 ご と に 一 遍 し た と い う ︵ 36︶ 。 慧 聰 は 、﹃ 法 華 經 ﹄ の 常 不 輕 菩 薩 は 專 ら 經 典 を 讀 誦 す る よ う な こ と は せ ず 、 た だ 四 衆 を 禮 拜 す る 行 を 修 し て い ただけであるのに 六根淸淨 を 得 たのであるから 、 私 はどうして 諸佛世尊 を 禮拜 しないであろうか 、 と 言 い 、 別院 にて 門 を 閉 じ 常 に 一 萬 五 千 佛 を 禮 し 、 經 ︵ お そ ら く 十 二 卷 ﹃ 佛 名 經 ﹄︶ に よ っ て 自 ら 佛 名 を 唱 え 、 一 々 の 佛 を 禮 拜 し た 。 ある 寺僧 がその 所作 を 怪 しんでのぞき 見 すると 、 慧聰 が 頭 を 下 げ 禮拜 すれば 天龍八部等 も 頭 を 下 げるのを 見 た 。 唐 の 貞觀年閒 には 、 その 院 には 人 の 往來 が 絶 えたが 、 毎夜常 に 彈指 ・ 禮拜 ・ 行道 などの 音 を 聞 いたという ︵ 37︶ 。 以上 で 論 じてきた 諸佛 は 、 たとえ 遠 い 過去 の 世界 の 佛 であったとしても 現在 この 世界 に 關 わりがないのではなく 、 その 名號 の 禮拜 ・ 稱名 によって 現實 に 功德 がもたらされると 經典 に 説 かれている 。 僧傳 にも 多佛名 の 稱名 ・ 禮拜 が 懺 悔滅罪 の 行 として 實踐 されていたという 記載 があり 、 造像 もなされていたことがわかる 。 次節 では 、 個々 の 造像 に 殘 された 佛名 についてより 詳 しく 檢討 してみたい 。
北朝時代の多佛名石刻
第二節
北朝時代
の
多佛名石刻諸事例
北朝時代 の 造像 においては 、 實 に 多樣 な 佛名 が 刻 まれ 、 あるいは 墨書 されている 。 以下 、 年代順 に 注目 すべき 事例 をとりあげ 紹介 してみたい 。 なおここでとりあげる 諸 事例 の 著録 などについては 、 篇末 の 別表 を 参照 いただきたい 。 ①大禪師曇摩 毗 等造像記 炳靈寺石窟第 一六九窟 建弘元年 ︵ 四二 〇 ︶ 圖一 ・ 二 石刻 ではないが 、 多佛名 を 記 した 最 も 早 期 の 事例 は 、 五胡十六國時代 までさかのぼる 。 それは 炳靈寺石窟第一六九窟 に 墨書 された 諸佛名 である 。 この 窟 には 西秦 の 頃造 られた 佛像 が 多 くあるが 、 その 中 でも 、 北壁 の 西秦建弘元年 ︵ 四二 〇 ︶ の 紀年 を 持 つ 發願文 を 有 する 一區 畫 の 佛塑像 や 壁畫佛 の 傍 には 、 像 と 對應 する 佛名 が 多 く 墨書 されている 。 これについては 、 張寶璽氏 や 賴鵬擧氏 によっ て 旣 に 明 らかにされてお ︵ 38︶ り 、 新 たに 述 べるべきことも 特 にはないが 、 早期 の 重要 な 事例 であるので 、 兩氏 の 報告 によ 圖一 大禪師曇摩毗等造像東洋硏究紀 第百五十四册 りつつ 紹介 しておきたい 。 圖一 の 中央 の 本尊 である 塑像 の 傍 に ﹁ 無量壽 佛 ﹂、 左 脇 侍 ︵ 本 尊 の 向 か っ て 右 側 ︶ に ﹁ 得 大 勢 志 ︵ 39︶ 菩 薩 ﹂、 右 脇 侍 に ﹁ 觀 世 音 菩 薩 ﹂ の 榜 題 が 付 され 、 無量壽三尊像 であることがわかる 。 そ の ﹁ 得大勢志菩薩 ﹂ を 向 かって 左下端 にあらわ したのが 圖二 である 。﹁ 得大勢志菩薩 ﹂ の 向 かっ て 右隣 に ﹁ 彌勒菩薩 ﹂ の 題記 をもつ 菩薩 の 畫像 があり 、 さらに 隣 に ﹁ 釋迦牟尼佛 ﹂ の 榜題 を 持 つ 立佛畫像 が 描 かれる 。 その 向 かって 右上 には ﹁ 藥王佛 ﹂と 題 される 小坐佛 が 描 かれている 。﹁ 藥 王 佛 ﹂ は 、﹃ 維 摩 經 ﹄ に み え 、 釋 迦 の 前 世 で あ る 月蓋比丘 に 授記 を 與 えた 佛 である 。 その 釋迦 の 隣 に 彌勒菩薩 が 描 かれるので 、 過去 ↓ 現在 ↓ 未來 の 三世 にわたる 法燈 の 繼承 を 表 していると 考 えられる 。 張寶璽氏 の 報告 によれば 、 さらに そ の 右 に ﹁ □ □ 志 菩 薩 ﹂、 さ ら に ﹁ 接 引 佛 ﹂ と 圖二 大禪師曇摩毗等造像描き起こし
北朝時代の多佛名石刻 い う 題 記 が あ り 、﹁ 接 引 佛 ﹂ は 阿 彌 陀 佛 の こ と で あ る と い う 。 そ う で あ る と す る と ﹁ □ □ 志 菩 薩 ﹂ は ﹁ 大 勢 志 ︵ 至 ︶ 菩薩 ﹂ であると 想定 される 。 願文 の 下 には 供養者 の 畫像 とともにその 名 を 記 した 題記 が 上下二列 にある 。 上列 には ﹁ □ 國大禪師曇摩 毗 之像 ﹂﹁ 比 丘 道 融 之 像 ﹂ の 題 記 が あ り 以 降 は 磨 滅 し て い る 。 下 列 に は 、﹁ 比 丘 慧 普 之 像 ﹂、 以 下 、﹁ 士 ﹂ や ﹁ 侍 生 ﹂、 ﹁ 淸 信 女 ﹂ な ど の 肩 書 を 持 つ 在 俗 供 養 者 が つ づ く 。 特 に 注 目 さ れ る の が 供 養 者 行 列 を 先 導 す る 曇 摩 毗 で あ り 、 こ の 人 物 は 、﹃ 高 僧傳 ﹄ 卷十一玄高傳 にみえる ﹁ 外國禪師曇無毘 ﹂ であることが 明 らかにされている 。 曇無毘 は ﹃ 高僧傳 ﹄ に ﹁ 領徒立 衆 訓 以 禪 道 。 然 三 昧 正 受 旣 深 且 妙 。﹂ と あ る よ う に 禪 定 に 秀 で た 人 物 で あ っ た 。 ま た 、 北 魏 の 太 子 拓 跋 晃 が 師 事 し た ことでも 有名 な 玄高 が 彼 のもとをたずね 法 を 授 かったとされる 。 さて 、 これら 一群 の 題記 において 最 も 注目 すべきは 、 旣 に 指摘 されているように ︵ 40︶ 、﹁ 東 □□□□ ﹂、 ﹁ 北方行智佛 ﹂、 ﹁ 西 方 習 智 佛 ﹂、 ﹁ 南 方 智 火 佛 ﹂、 ﹁ 東 北 方 明 智 佛 ﹂、 ﹁ 東 南 方 □ □ □ □ ﹂、 ﹁ 上 方 伏 怨 智 佛 ﹂、 ﹁ 下 方 梵 智 佛 ﹂、 ﹁ 西 北 方 自 在 智佛 ﹂、 ﹁ 西南方上智佛 ﹂ とある 十方佛 の 題記 である 。 この 十方佛 は 一般的 な ﹃ 十住毘婆沙論 ﹄・ ﹃ 觀佛三昧海經 ﹄ にみ え る も の で は な く 、﹃ 六 十 華 嚴 ﹄ 如 來 名 號 品 に よ っ て い る 。 筆 者 の 收 集 し た 資 料 に お い て も 類 例 は 見 當 た ら ず 、 大 禪 師曇無毘 の 高度 な 禪觀實踐 に 裏付 けられた 佛敎思想 が 反映 されたやや 特殊 な 事例 と 考 えるべきものであろう 。 これら の 諸佛名 がすべて 統一 したテーマのもとに 願文 と 同時期 に 書 かれたものかどうか 斷定 はできない 。 ただし 、 發願文 に は 、﹁ 遂請妙匠 、 容茲尊像 、 神姿琦茂 、 □□□□ 、 □ 二 / □ 薩 、 畫作慈氏 。﹂ とあり 、 賴鵬擧氏 の 述 べるとおり 、 二菩 薩 を 脇侍 に 持 つ 塑像 の 無量壽佛 を 、 曇無毘 によって 先導 される 供養者 たちが 本尊 とみなしていたと 考 えるのが 自然 で あり 、 十方佛 も 曇無毘 の 無量壽佛 を 中心 とした 淨土 の 觀想 のテーマに 組 み 込 まれたものであると 考 えてよいだろう ︵ 41︶ 。
東洋硏究紀 第百五十四册 また 、 第一六九窟 には 別 の 場所 に ﹁ 比丘慧眇 、 道弘 、 法 □ 、 曇幽 、 曇 □ 、 曇要 、 鸞化 、 道融 、 慧勇 、 僧林 、 道 元 、 道雙 、 道明 、 道新 、 曇普 、 法炬 、 慧 □ 等 、 共造此千佛像 。 願生之處常 値諸佛 、・ ・ ・ 供事千佛 、 成衆正覺 。﹂ という 發願文 があり 、 千佛 を 造 り 、 千佛 に 供事 し 正覺 を 成 ずることが 願 われ 、 千佛信仰 が 表 されている 。 道 融 は 前述 の 造像 の 供養者行列 におい て 、 曇無毘 のすぐ 後 にみられ 、 この 造像記 より 序列 があがっているので 、 上述 の 造像群 よりも 時期 がやや 遡 るとされている 。 ②邑義信士女等五十四人造像記 雲岡石窟第一一窟東壁上部 北魏太和七年 ︵ 四八三 ︶ 圖三 雲岡石窟 には 壁一面 に 小佛龕 で 埋 め 盡 くされた 窟 もあり 、 長廣敏雄氏 が 雲岡石窟 の 多佛龕 について 詳論 されている ので 、 氏 の 説 によりながら 紹介 しよう 。 雲岡石窟第一一窟東壁上部 には 太和七年 ︵ 四八三 ︶ の 紀年銘文 を 有 する 區畫 がある ︵ 圖三 ︶。 願文 には ﹁ 太和七年歳在癸戌八月卅日邑義信士女等五十四人自惟往因不積 、 生在末代 、・・・ 是以共 圖三 雲岡石窟邑義信士女五十四人造像
北朝時代の多佛名石刻 相 勸 合 、 爲 國 興 福 、 敬 造 石 廟 形 像 九 十 五 區 及 諸 菩 薩 。﹂ と あ り 、 邑 義 の 造 像 の 最 も 早 い 紀 年 を 持 つ も の と し て も 注 目 される 事例 である 。 造像 は 中央 を 五段 に 分 け 、 上 から 彌勒菩薩像龕 、 二區 の 坐佛像龕 、 二佛竝坐像龕 、 さらに ﹁ 觀世 音菩薩 ﹂、 ﹁ 大勢至菩薩 ﹂、 ﹁ 文殊師利菩薩 ﹂ という 題記 を 持 つ 三菩薩竝坐像 である 。 その 兩側 に 、 合計八十八佛龕 が 整 然 とならぶ 。 二佛竝坐像龕 を 一區 として 數 えると 中央部分 は 七區 になり 、 三十五 + 五十三 の 八十八 を 加 えると 九十五 になるというのが 長廣氏 の 説 である 。 三十五佛 や 五十三佛 の 具體名 が 刻 まれたわけではないが 邑義造像 においてこれ ら 多佛 に 對 する 信仰 が 表現 されていることは 留意 すべきである 。 ③ a 比丘曇覆摩崖造像碑 ・ b 比丘尼仙造像記 水泉石窟 北魏 b 圖四 水泉石窟 は 龍門石窟 の 東方 に 位置 する 北魏時代 に 開 かれた 比較的小規模 な 石窟 である 。 この 石窟 の 開窟者 は 比丘曇 覆 であり 、 窟外 に 北魏太和十三年 ︵ 四八九 ︶ の 紀年 を 持 つ ︵ 42︶ 題記 が 殘存 している 。 ただこの 年 がこの 碑 の 作成年 ではな いようである 。 その 銘文 には 以下 のようにある 。 洛 州 阿 育 王 寺 造 銅 像 三 區 、・・・ 長 三 尺 金 度 色 幷 佛 □ 輿 造 石 窟 一 區 、 中 置 一 萬 佛 。 造 一 千 五 百 龍 華 像 一 區 。 / □ 州鉢 □ 山西北大狂水南 ・・・ □ 三里造五千佛堂一區 。 當皆城東北四里造一千五百龍華像一區 。/ □□□□ 東北三里造萬佛三 ・・・ □ 浮圖一區 。 延 □ 堆上千佛天宮一區 。/ □□□ 狂水西小水南等二里 ・・・ □ 千佛天宮一 區 。 小水北二里在黑山中造五 □ 華勝佛一區 。/ □□□ 西 □ 頭 ? 三里田溪谷中 ・・・ □ 一千五百龍華像 。 陸渾川 萇城西小水北各一里造千佛天宮一區 。/ 造一千五百龍華像一區 。 □ ・・・ □□ 造一千五百龍華像一區 。 造十六 王子行像十六區 。 五縣内 / 合大小像三萬六千一十六區 ︵ 43︶ 、・ ・ ・ 經一千卷 。/ 大魏太和拾參年比丘曇覆爲 ・ ・ ・
東洋硏究紀 第百五十四册 □□ 幷 □□□ 三界五道受苦者 、 因此之福 、 願令普同受樂 。 / ︵ 以 下略 ︶ この 題記 において 注目 すべき は 、萬佛天宮 、千五百龍華 といっ た 多 佛 信 仰 が う か が え 、﹃ 法 華 經 ﹄ にみえる 十六王子 の 行像 も 造 っている 點 である 。 千五百 と い う 數 は 、﹃ 出 三 藏 記 集 ﹄ 卷 四 の ﹁ 千 五 百 佛 名 ︵ 經 ︶﹂ に 基 づ くとも 考 えられる 。 また 、 この 水泉石窟内 には 北 魏永熙三年 ︵ 五三四 ︶ の 紀年銘 文 を 持 つ 屋殿形 の 造像區畫 があ る ︵ 圖 四 ︶。 筆 者 に よ る 造 像 願 文 の 抄録 を 以下 に 示 させていた だ く ︵[] 内 の 字 は 次 の 字 の 右 圖四 水泉石窟比丘尼仙造像
北朝時代の多佛名石刻 上 に 小字 で 刻 まれている ︶。 大魏永熙三 / 年二月十三 / 日比丘尼仙 / 仰爲累劫師 / 僧皇帝陛下 、/ 敬造七佛七 / 區 、 釋迦多寶 / 佛 、 定光佛 、 大 / 慈大悲佛 、 日 / 月光明佛 、 彌 / 勒 [ 佛 ] 像一區 、 虚 / 空藏菩薩 、 十 /[ 方 ] 大地菩薩 。/・・・/ 復願七世 父 / 母所生父母 / 兄弟卷蜀鄕 / 火邑儀 □ 南家卷 □□□ / 爲王皇 □ 子 / 元開 □ 僧護 、/ 縁此 □ 得 、 願 / 使衆 □ 願 □ / 萬善普會 □ / 爲一切受苦 / 衆生離苦得 / 樂 、 所願 □□ 。 これは 比丘尼 の 發願 による 造像 であるが 、 願文 の 中 に ﹁ 鄕 ︵ 香 に 通 ず ︶ 火邑儀 ﹂ とあるので 、 邑義 がこの 造像事業 にかかわったとみてよいだろう 。 先述 したとおり 、 これら 諸佛龕 は 全體 で 屋殿形 の 一區畫 を 形成 しており 、 本尊 は 交 脚彌勒菩薩 である 。 その 本尊 の 兩側 に 各七龕 、 合計十四 の 小坐佛龕 が 存在 する 。 これらの 佛名 の 典據 となる 文獻 はい まだ 明 らかにされていないが 、 筆者 の 考察 によれば 、 梁 の ﹃ 慈悲道場懺法 ﹄ との 關係 が 考 えられる 。 彌勒 を 本尊 とす るのがまず ﹃ 慈悲道場懺法 ﹄ と 合致 し 、﹁ 日月光明佛 ﹂ も 卷三 にみえる 。﹁ 大慈大悲佛 ﹂ はみえないが 、 例 えば 卷三 に ﹁ 大 慈 大 悲 、 唯 願 救 拔 一 切 苦 惱 、 令 諸 衆 生 即 得 解 脫 、 改 往 修 來 不 復 爲 惡 。﹂ [ T 45 :933 c-934 a ] と ﹁ 大 慈 大 悲 ﹂ と い う 語 が 使 われ 、 さらに ﹁ 十方大地菩薩 ﹂ という 表現 はこの ﹃ 慈悲道場懺法 ﹄ 卷一 〇 にしか 見 えない 。﹃ 慈悲道場懺法 ﹄ は 、 梁武帝 の 時 に 主要部分 が 編纂 されたと 現在 のところ 考 えられている ︵ 44︶ 。 ただし 、 この 造像銘文中 の 佛名 が 完全 にみられ るわけではないので 、 直接 この 文獻 を 參照 したのではないと 考 えた 方 がよいかもしれない 。 ④嵩陽寺碑 東魏天平二年 ︵ 五三五 ︶ 圖五 この 碑 は 高 さが 三米 を 超 える 大型 の 有名 な 碑 で 、 河南省 の 嵩陽書院 に 現存 する 。 碑文 は ﹃ 金石萃編 ﹄ などの 歴代 の
東洋硏究紀 第百五十四册 金石書 に 著録 されており 、 嵩陽寺 の 創建者 である 禪師法生 とその 檀越裴 衍 とのかかわりや 、 嵩陽寺 の 創建 の 經緯 をうかがうことができ 、 史料的 にも 貴重 である 。長文 の 銘文 には ﹁ 天 平 二 秊 四 月 八 曰 倫 豔 二 統 乃 刊 石 樹 碑 、 雕餝尊像 、 贊貽嘉福 、 顯彰聖儀 。 高足大沙門統遵法師 ・・ ︵ 中略 ︶・・ 接 引 群 生 、 舟 航 巨 海 、 率 諸 邑 義 、 繕 立 天 宮 、 整 修 嚴 麗 、 兼 造 白 玉 像 一 龕 。﹂ と あ る 。 天 平 二 年 は 東 魏 王 朝 が 成 立 し て まもない 時期 である 。 銘文 によると 、 法生 の 弟子 の 倫 ・ 豔 という 名 の 僧 が 碑 を 建 て 、 尊像 を 彫刻 し 、 さらに 高弟 であ る 遵法師 が 諸邑義 を 率 いて ﹁ 天宮 ︵ 45︶ ﹂ を 修造 し 、 白玉像一龕 を 造 ったという 。 銘文 には 他 に ﹁ 虔禮禪寂 、 六時靡輟 、 方 爲 衆 聖 萬 劫 之 靈 場 、 八 輩 十 方 三 世 之 菀 囿 也 。﹂ と あ り 、 晝 夜 六 時 缺 か さ ず 禮 拜 禪 定 す る こ と に よ っ て こ そ 、 こ の 地 が 萬劫十方三世 にわたる 賢聖 の 靈場苑囿 となると 實踐行 を 強調 している 。 碑陽 には 、 本尊 である 坐佛龕 の 下 に 供養者像 が 十體 、 さらにその 下 に 過去七佛龕 がならび 、 榜題 が 向 かって 右 から 順 に ﹁ 唯衞佛 ﹂、 ﹁ 式佛 ﹂、 ﹁ 隨葉佛 ﹂、 ﹁ 拘樓秦佛 ﹂、 ﹁ 拘那 唅 牟尼佛 ﹂、 ﹁ 迦葉佛 ﹂、 ﹁ 釋迦牟尼佛 ﹂ と 付 されている 。 さて 、 この 碑 は 碑陽 の 銘文 の 内容 に 關 してはしばしば 論及 されてきたが 、 本尊 の 龕以外 に 多 くの 佛龕 があり 、 特 に 碑陰 に 多 くの 小佛龕 とともにその 佛名 が 刻 まれていることについては 看過 されている 。 管見 の 限 り 、 魯迅 だけがこの 圖五 嵩陽寺碑碑陰
北朝時代の多佛名石刻 佛 名 を 移 録 し て い る ︵ 46︶ 。 幸 い 京 都 大 學 人 文 科 學 研 究 所 に は 碑 陰 の 拓 本 が 所 藏 さ れ て い る の で ︵ 圖 五 ︶、 そ の 佛 名 を ︻ 録 文一 ︼ に 表 した 。 碑身 の 小佛龕 の 數 は 、 縱十一列 × 橫八行 と 最下列 が 橫六行 で 、 合計九十四龕 である 。 最下列 を 除 く 佛 名 は 、﹃ 觀 藥 王 藥 上 二 菩 薩 經 ﹄ の 五 十 三 佛 と ﹃ 決 定 毘 尼 經 ﹄ の 三 十 五 佛 で あ り 蛇 腹 狀 に 配 さ れ る 。 た だ し 、 三 十 五 佛 の 第一番目 の 釋迦牟尼佛 が 除外 され 、 代 わりに ﹁ 龍自在王佛 ﹂ が 33と 34番 の 閒 に 插入 されている 。 龍自在王佛 は 傳 北魏吉迦夜譯 ﹃ 稱揚諸佛功德經 ﹄ 卷上 において 、 東方 の 正覺世界 の 佛 とされ 、 その 名 を 唱 えれば 、 雷 、 雹 、 霜 などの 災難 から 逃 れることができるという ︵ 47︶ 。 問題 は 、 最下列 の 六方佛名 であり 、 向 かって 右側 の 佛 から 順 に 列記 すると 、﹁ 西方殊勝正覺佛 ﹂、﹁ 北方寶願神 金 ? 佛 ﹂、 ﹁ 下方師子尊敎佛 ﹂、﹁ 上方 □□ 如來佛 ﹂、﹁ 南方 □□ 佛 刈 ? 佛 ﹂、﹁ 東方寶海佛 ﹂ となる 。 東方 の 寶海佛 は ﹃ 稱揚諸佛功德經 ﹄ において 東方 の 第一番目 の 佛 であり 、 西方 の 殊勝佛 は 同經 の 西方佛 において 阿彌陀佛 に 次 いで 第二番目 に 登場 する 佛 で あ る 。﹁ 殊 勝 ﹂ の あ と に ﹁ 正 覺 ﹂ が つ い て い る の は 、 經 文 の ﹁ 號 曰 殊 勝 如 來 、 至 眞 、 等 正 覺 、 明 行 成 爲 、 善 逝 、 世 閒 解 、 無 上 士 、 道 法 御 、 天 人 師 。﹂ [ T 14 :99 b ] と い う ﹁ 等 正 覺 ﹂ か ら と っ た の で あ ろ う か 。 南 方 と 北 方 の 佛 に つ い て はその 典據 が 不明 である 。 上方 の ﹁ □□ 如來佛 ﹂ という 佛名 は ﹁ 如來 ﹂ と ﹁ 佛 ﹂ が 意味的 に 重 なり 、 翻譯經典 ではあ りえない 奇妙 な 表現 であるが 、 僞經 ﹃ 普賢菩薩説證明經 ﹄ には ﹁ 上方香積如來佛 ﹂、 ﹁ 下方師子億像佛 ﹂ とあり 、 これ を 參照 した 可能性 も 考 えられる ︵ 48︶ 。 あるいは 、 現在亡佚 した 經典 を 參照 したとも 想定 できる 。 このように 、 異 なる 經 の 佛名 を 參照 して 組 み 合 わせ 、 それが 必 ずしも 經 そのままの 形 ではないという 事實 は 注目 される 。 最後 に 、 碑陰全體 の 佛 の 構成 をみると 、 最上 の 位置 である 碑首 の 龕 に 彌勒 を 配置 し 、 碑身 には 過去佛 の 五十三佛 、 さらに 釋迦 を 除 いた 三十五佛 を 經 とは 逆 の 順序 に 上 から 蛇腹狀 に 配列 し 、 最下段 に 六方佛 を 配置 するという 、 三世六
東洋硏究紀 第百五十四册 ︻ 録文一 ︼ 嵩陽寺碑碑陰 上部 ︵ 數字 は 筆者 が 付加 。 五十三佛 の 順番 を 表 す 。︶ 53一切法常滿王佛 38妙音勝佛 37師子吼自在力王佛 22寶蓋照空自在王佛 21金華光佛 6摩尼幢佛 5栴檀光佛 52大通光佛 39常光 幢佛 36慧 □ 勝王佛 23虛空 □ 華光佛 20廣莊嚴王佛 7歡喜藏摩尼寶積佛 4多摩羅跋栴檀香佛 彌勒 龕主 比丘 僧馳 51海慧自在通王佛 40觀世燈佛 35日月朱光佛 24瑠 □ 莊嚴王佛 19善意佛 8一切世閒樂見上大精進佛 3普佛 50金海光佛 41慧威燈王佛 34日月光佛 25普現色身光佛 18賢善尊佛 9摩尼幢燈光佛 2普明佛 49才光佛 42法勝王佛 33龍種上尊王佛 26不動智光佛 17栴檀窟莊嚴勝佛 10慧炬 炤 佛 1普光佛 48无量音聲王佛 43須彌光佛 32善寂月音妙尊智王佛 27降伏諸魔王佛 16慈藏佛 11海德光明佛 35寶蓮華善住娑羅樹王佛 47阿閦 毗 歡喜光佛 44須曼那華光佛 31世靜光佛 28才光明佛 15慈力王佛 12金剛牢強普散金光佛 34寶華遊歩佛 46大慧力王佛 45優曇鉢羅華殊勝王佛 30彌勒先光佛 29智慧勝佛 14大悲光佛 13大強精進勇猛佛 龍自在王佛
北朝時代の多佛名石刻 嵩陽寺碑碑陰 下部 26財功德佛 25蓮華光遊戲神通佛 10寶月佛 9現无愚佛 西方殊勝正覺佛 27德念佛 24功德華佛 11无垢佛 8寶月 □ 佛 北方寶願神 金 ? 佛 28善名稱功德佛 23那羅延佛 12離垢佛 7寶火 □ 佛 下方師子尊敎佛 29紅炎幢王佛 22无憂德佛 13勇施佛 6精 □ 喜佛 上方 □□ 如來佛 32善遊歩佛 21光德佛 14清淨佛 5精進軍 □ 30善遊歩功德佛 20无量菊光佛 15清淨施佛 4龍尊王佛 南方 □□ 佛 刈 ? 佛 31鬪戰勝佛 19栴檀功德佛 16娑留那佛 3寶光佛 東方寶海佛 33周匝莊嚴功德佛 18堅德佛 17水天佛 2金剛不壞佛
東洋硏究紀 第百五十四册 方佛 の 形態 をとり 、 諸佛 が 時閒的空閒的 に 普遍的 に 存在 することを 表現 している 。 懺悔儀禮 と 關 わりの 深 い 三十五佛 と 五十三佛名 を 刻 んでいることから 、 これら 佛名 を 唱 え 禮拜 することによる 懺悔 が 實踐 さ れていたと 考 えられる 。 ⑤務聖寺碑 東魏天平二年 ︵ 五三五 ︶ 圖七 ・ 圖八 この 碑 は 嵩陽寺碑 と 同年 の 紀年 を 有 し 、 關野貞 ・ 常盤大定兩氏 が 調査 した 當時 、 少林寺 の 緊那羅殿 に 存在 した ︵ 49︶ 。 碑陽 ︵ 圖六 ︶ の 本尊 は 、 後述 する 銘文 に よると 釋迦佛 であり 、 觀音 、 文殊 が 脇侍菩薩 である 。 本尊龕 の 上部 には 、 七佛龕 が 橫一列 に 竝 んでいる 。 對應 する 刻 まれた 佛名 は 、 供養者名 を 省略 して 示 す と ﹁ □ 波尸佛 ﹂、 ﹁ 尸棄利佛 ﹂、 ﹁ □□ 佛 ﹂、 ﹁ □□ 牟尼 佛 ﹂﹁ 句 樓 秦 佛 ﹂、 ﹁ 仇 那 含 佛 ﹂、 ﹁ 迦 葉 佛 ﹂ と な り 、 第一節 で 言及 した 七佛 の 二系列 のうち 、﹃ 長阿含經 ﹄ の 系統 を 採用 しているのは 珍 しい 。 一方 、 碑陰 には 圖六 務聖寺造像碑碑陽 圖七 務聖寺造像碑碑陰
北朝時代の多佛名石刻 縱七 × 橫六 、 うち 上 から 三段目 の 中央 の 二龕 が 釋迦多寶竝坐像 の 一 龕 になり 、 合計四十一 の 佛龕 がな らぶ 。 その 佛龕 の 傍 には 、 佛名 と 供養者名 が 刻 まれている ︵ 圖七 ︶。 碑側 ︵ 圖八 ︶ には 佛立像 が 線刻 さ れ 願文 より 無量壽佛 とわかる 。 その 立像 の 下 に 願文 が 刻 まれる 。 願文 の 全文 を 掲 げると 以下 の 通 りである 。 夫靈眞玄廓 、 妙絶難測 。 非言莫能宣其旨 、 非像無以表其狀 。 言宣二六 / 之敎 、 像跡四八之璃 。 豈不淵玄冲漠 、 巍 巍惟極者哉 。 是以務聖寺檀主 / 張法壽能於五蓋重羅之下 、 契斷恩愛塵勞之繒網 、 熙平二年捨宅 / 造寺 、 宿願 磛 像 。 福不止己 、 規度法界 、 尋其羅絡 、 情苞聖境 。 自非藉因積 / 劫 、 英貴累世者 、 熟能發茲宏闊願行者焉 。 息榮遷 、 脩 和 、 行慈仁孝 、 世習 / 精懿 、 志慕幽寂 、 妙眞遐願 、 刊石建像 、 釋迦文佛 、 觀音 、 文殊 、 仰述亡考平 / 康舊願 、 復 於像側 、 隱出无量壽佛 。 福洽法界 、 考妣等神 、 捨茲質形 、 悉 / 稟淨境 、 同曉薩雲 、 覺道成佛 。/ 大魏天平二年歲次乙卯四月十一日比丘洪寶銘 。 文 によると 、 務聖寺 の 檀越主 であった 張法壽 が 熙平二年 に 捨宅 して 寺 を 建立 した 。 父 の 亡後 、 息子 の 榮遷 と 修和 が 亡父 の 宿願 であった 佛像 ︵ この 造像碑 ︶ を 造 った 。 さらに 碑側 に 無量壽像 を 刻出 し 、 亡父母 の 淨土 への 往生 を 願 った という 。 無量壽佛 の 造像 と 淨土往生信仰 との 結 びつきがみられる 貴重 な 資料 であるが 、 碑陰 に 刻 まれた 諸佛名 もそれ に 劣 らず 重要 である 。 碑陰 の 佛名 については 管見 の 限 りいまだその 全容 について 考察 されていない 。 碑陰 の 佛名 を 移 圖八 務聖寺造像碑 碑側
東洋硏究紀 第百五十四册 ︻ 録文二 ︼ 務聖寺碑碑陰 ︵ 供養者名略 、 數字 は 筆者 が 付加 。︶ 6金山寶蓋如來 12南方寶相如來 17文殊師利佛 23普光佛 29大通智勝佛 35帝相佛 41寶華功德海琉璃金山光明如來 5金炎光明如來 11東方阿閦如來 16阿彌陀佛 22日月燈明佛 28須彌頂佛 34梵相佛 40光明如來 4光明王相如來 10寶勝如來 21藥師琉璃光佛 27師子音佛 33多摩羅跋栴檀香神通佛 39名相如來二佛 3无垢熾寶如來 9寶相如來 15釋迦多寶二佛 20難勝佛 26虚空住佛 32須彌相佛 38閻浮那提金光如來 2難勝如來 8大炬如來 14北微妙聲佛 19觀世音佛 25常滅佛 31雲自在佛 37多摩羅跋栴檀香佛 1・・・ 來 7金華炎光相如來 13西无量壽 ・・ 18・・ 那佛 24華光佛 30雲自在王 ・・ 36寶藏佛
北朝時代の多佛名石刻 表三 務聖寺碑陰佛名の典據 務聖寺碑陰佛名 主な典據 務聖寺碑陰佛名 主な典據 1□□如來 2難勝如來 『維摩經』菩薩品 3无垢熾寶如來 『金光明經』功德天品「無垢熾寶光明王相如來」 4光明王如來 『金光明經』功德天品「無垢熾寶光明王相如來」 5金炎光明如來 『金光明經』功德天品「金焰光明如來」 6金山寶蓋如來 『金光明經』功德天品 7金華炎光相如來 『金光明經』功德天品「金華焰光相如來」 8大炬如來 『金光明經』功德天品 9寶相如來 『金光明經』功德天品 10寶勝如來 『金光明經』功德天品 11東方阿閦如來 『金光明經』功德天品 12南方寶相如來 『金光明經』功德天品 13西无量壽□ 『金光明經』功德天品「西方無量壽佛」 14北微妙聲佛 『金光明經』功德天品「北方微妙聲佛」 15釋迦多寶二佛 『法華經』見寶塔品 16阿彌陀佛 『法華經』化城喩品十六王子 西 17文殊師利佛 18・・那佛 19觀世音佛 十二巻『佛名經』 20難勝佛 『維摩經』菩薩品「難勝如來」 21藥師琉璃光佛 『灌頂經』巻12 22日月燈明佛 『法華經』序品 23普光佛 『觀藥王藥上經』過去五十三佛の第一、『過去現在因果經』 24華光佛 『觀藥王藥上經』過去千佛の第一「花光佛」、または『法 華經』譬喩品 舎利弗 25常滅佛 『法華經』化城喩品十六王子 南 26虚空住佛 『法華經』化城喩品十六王子 南 27師子音佛 『法華經』化城喩品十六王子 東南 28須彌頂佛 『法華經』化城喩品十六王子 東 29大通智勝佛 『法華經』化城喩品 30雲自在王□ 『法華經』化城喩品十六王子 北 31雲自在佛 『法華經』化城喩品十六王子 北 32須彌相佛 『法華經』化城喩品十六王子 西北 33多摩羅跋栴檀香神通佛 『法華經』化城喩品十六王子 西北 34梵相佛 『法華經』化城喩品十六王子 西南 35帝相佛 『法華經』化城喩品十六王子 西南 36寶藏佛 『悲華經』 37多摩羅跋栴檀香佛 『法華經』授記品 大目犍連 38閻浮那提金光如來 『法華經』授記品 大迦旃延 39名相如來 『法華經』授記品 須菩提 40光明如來 『法華經』授記品 摩訶迦葉 41寶華功德海琉璃金山光明如來 『金光明經』功德天品
東洋硏究紀 第百五十四册 録 したのが ︻ 録文二 ︼ であり 、 その 佛名 の 典據 となる 經典 を 示 すと 表三 のようになる 。 中央 やや 上 よりの 釋迦多寶竝 坐佛龕 が 碑陰 の 諸佛 の 中心 であり 、 これは 周知 のとおり ﹃ 法華經 ﹄ 見寶塔品 に 基 づいている 。 その 隣 には 阿彌陀佛 、 その 下 には 藥師瑠璃光佛 と 有名 な 佛 が 配置 されている 。 他 の 諸佛名 の 主 な 典據 は ﹃ 金光明經 ﹄ 功德天品 と ﹃ 法華經 ﹄ 化城喩品 の 十六王子 と 授記品 である 。 注意 すべきは 經 の ﹁ 無垢熾寶光明王相如來 ﹂ を ﹁ 無垢熾寶如來 ﹂ と ﹁ 光明王如 來 ﹂ に 分割 していることであり 、 これは 經 に 忠實 であろうとする 態度 とは 異 なると 言 え 、 例 えば ﹃ 大通方廣經 ﹄ の 諸 經 からの 佛名 の 借用 の 仕方 にも 相通 ずる ︵ 50︶ 。 佛名 の 順序 としては 、 表 の 番號 の 通 り 、 向 かって 左上端 より 始 まり 右上端 へとならび 、 次 に 二列目 の 向 かって 左 より 右 へとならぶ 。 以下同樣 に 最下列 までならんでいると 考 えられる 。 次 に 、 あまり 見慣 れない 佛名 について 解説 しておきたい 。 まず ﹁ 觀世音佛 ﹂ と ﹁ 文殊師利佛 ﹂ というように 、 經 で は 通常菩薩 とされるのに 對 してこの 造像銘 では 佛 とされていることが 注目 される 。﹁ 觀世音佛 ﹂ については 十二卷 ﹃ 佛 名經 ﹄ にみえるが 、 これに 基 づくというより 、 ともに 代表的 な 菩薩 であるため 、 佛 として 示 したのであろう 。 他 の 石 刻 に も ﹁ 觀 世 音 佛 ﹂ と い う 名 が し ば し ば み ら れ る ︵ 51︶ 。 最 上 列 の 2 に ﹁ 難 勝 如 來 ﹂、 上 か ら 第 四 列 の 20に は ﹁ 難 勝 佛 ﹂ が 刻 まれている 。 難勝如來 は ﹃ 維摩詰所説經 ﹄ の 菩薩品 の 末 に 登場 し 、 長者子善德 が 維摩 に 獻上 した 瓔珞 を 二分 し 、 一 分 を 最下 の 乞人 に 、 もう 一分 を 難勝如來 に 施 したという 。 前後 の 經 の 文意 は 財施 より 法施 の 功德 を 強調 し 、 最下 の 乞 人 に 施 すことあたかも 如來福田 のように 考 えて 分別心無 く 施 すことが 法施 であるとする 。 36﹁ 寶藏佛 ﹂ は ﹃ 悲華經 ﹄ にみえ 、 五百 の 願 をたて 娑婆世界 に 生 まれかわることを 願 った 寶海 に 對 して 將來釋迦如來 になるとの 授記 を 與 えた 佛 である 。 22﹁ 日月燈明佛 ﹂ は ﹃ 法華經 ﹄ 序品 にみえ 、 過去世 に 二萬日月燈明佛 がいまし 、 相繼 いで 世 に 出 で ﹃ 法華經 ﹄ を 説 い た と い う 。 24の ﹁ 華 光 佛 ﹂ に つ い て は ﹃ 觀 藥 王 藥 上 經 ﹄ 過 去 千 佛 の 第 一 、 ま た は 、﹃ 法 華 經 ﹄ の 舍 利 弗 の 將 來
北朝時代の多佛名石刻 成佛 の 名 の 二通 り 考 えられる 。 37∼ 40の 佛 はそれぞれ 順 に 大目犍連 、 大迦旃延 、 須菩提 、 摩訶迦葉 の 將來成佛 の 名 で ある 。 總 じて 見 ると 、﹃ 金光明經 ﹄ の 四方佛 、﹃ 法華經 ﹄ 十六王子 の 八方佛 と 、 釋迦 に 對 して 授記 した 過去佛 、 釋迦 が 授記 した 未來佛 という 構成 であり 、 嵩陽寺碑 と 同様 に 過去現在未來 の 三世佛 という 時閒 ・ 空閒的廣 がりが 意識 されている といえる 。 さらに 、﹃ 金光明經 ﹄ 功德天品 から 採用 されている 佛 はみなその 名 を 唱 えることの 功德 が 説 かれており 、﹃ 國 淸百録 ﹄ 所收 ﹁ 金光明懺法 ﹂ においてもこれら 功德天品 の 諸佛 を 奉請 することがその 儀式次第 に 組 み 込 まれているよ うに 、 やはりこれら 多佛名 を 刻 むことと 稱名 による 懺悔儀禮 との 關係 を 示唆 するものである 。 ⑥巨始光造像碑 西魏大統六年 ︵ 五四 〇 ︶ 圖九 この 造像碑 の 歴史的背景 については 、 周錚氏 によって 詳 しく 紹介 されている ︵ 52︶ 。 碑陽 に 刻 まれた 願文 の 最後 に ﹁ 巨始 光 合 縣 文 武 邑 義 等 、 仰 爲 皇 帝 陛 下 、 大 丞 相 、 七 世 所 生 父 母 、 存 亡 眷 屬 、 爲 一 切 衆 生 、 敬 造 。﹂ と あ る よ う に 、 巨 始 光 を 發 願 主 と す る 、 縣 を 擧 げ て の 大 規 模 な 邑 義 に よ る も の で あ る 。﹁ 建 義 都 督 巢 山 監 軍 鎭 遠 將 軍 前 平 陽 令 高 涼 令 安 平 縣 開國侯 ﹂ の 巨始光 が ﹁ 像主 ﹂ で 、 現職 の 高涼縣令尹虎子 も ﹁ 維那 ﹂ として 名 を 連 ね 、 高涼縣 の 僧官 のトップと 考 えら れる ﹁ 高涼三藏比丘辯賢 ︵ 53︶ ﹂ が 邑義 の 宗敎的指導者 である ﹁ 邑師 ﹂ となっている 。 縣 の 屬僚 である 功曹 、 主簿 、 録事 、 西曹掾 、 兵曹掾 、 金曹掾 、 租曹掾 などが ﹁ 邑子 ﹂ として 多數名 を 連 ね 、 さらに ﹁ 邑子族正 ﹂ という 肩書 の 多樣 な 姓 の 者達 も 多數參加 している 。 注目 すべきは ﹁ 使持節通直散 騎 □ 侍驃騎大將軍建州刺史正平太守當郡大都督華陰縣開國 侯楊 㯹 ﹂ と 碑陽 の 願文 の 下部 にみえる 楊 㯹 で 、 この 人物 は ﹃ 周書 ﹄ 卷三四 に 立傳 される 楊 であることが 明 らかにさ
東洋硏究紀 第百五十四册 れている 。 傳 によると 、 楊 は 正 平高涼 の 人 で 、 祖父 の 貴 ・ 父 の 猛 は 、 ともに 縣令 であった 。 楊 は 權謀述數 に 長 けており 、 東魏 との 戰 いにおいて 大 いに 軍功 を 擧 げ 威 名 をとどろかせた 。 建州刺史 を 授 かり 正平郡太守 になったことも 傳 に 記 されている 。 つまり 楊氏 はこ の 高涼縣 においてかなり 大 きな 力 を 持 っていたと 考 えられる 。 碑陰 には ﹁ 光父被旨板授建興太守巨天祖 ﹂ とあり 、 巨始光 の 父 は 建興太守 を 板授 される のみで 他 には 官位 についていなかったようである 。 板授 ︵ 板官 ︶ とは 、 詔 などによって 人民 の 慰撫 ・ 奬勵 などの 目的 のため 、 一定以上 の 年齡 の 多 くの 老人 に 與 えられる 實質 のない 名譽職 であり 、 造像銘 にもしばしば 見 える ︵ 54︶ 。 巨氏 は 代々 官僚 を 輩出 するような 家柄 ではなく 土着 の 豪族 であったと 推測 される 。 高涼縣 は 現在 の 山西省西南部 に 位置 し 、 當時 、 西魏 と 東魏 の 抗爭 の 最前線 にあった 地域 である ︵ 55︶ 。 六百字 を 超 える 造像願文中 には 以下 のようにある 。 ・ ・ ・ 巨始光 、 自惟 □ 因浮淺 、 樹業彫微 、 生於季葉 、/ 長逢兵亂 、 王道時屯 、 群飛未接 、 妖熒充 / 斥 、 忠良異路 。 値龍變虎爭之秋 、 列士立功之會 、 常 / 思納肝之誠 、 又慕孫賓之節 、 契闊戎行 、 夷嶮 / 備經 。 艱危之中 、 恆發私願 。 遂心存至道 、 追慕 / 玄津 、 福祐無違 、 精誠剋立 。 莅宰向周 、 缺期月 / 之化 、 綏民撫政 、 乏童雉之惠 。 慶福嘉祉 、 圖九 巨始光造像碑碑陽
北朝時代の多佛名石刻 寔由 / 靈蔭 、 託根挺拔 、 因助獲善 。 仰惟三寶恩重 、 思 / 著聚沙之功 。 尋優塡養正而遺風 、 想育王叔 / 世而繼範 、 故葉公好龍 、 感至義而見眞 、 目連 / 慕德 、 刻圖像而尊奉 。 乃藉本宿心 、 兼規古則 。/ 輒率文武鄕豪長秀 、 竝竭丹 誠 、 敬造石像一 / 區 。・・・ 願文 には 、 巨始光 が 動亂 の 世 において 忠節 を 盡 くして 從軍 し 、 艱難 を 經 てきた 中 にも 佛敎 を 信奉 し 、 縣令 となって 三寶 の 恩 に 報 ずるため 造像 したことが 語 られている 。 龍 を 好 きになり 至 る 所 に 龍 の 像 を 描 き 、 ついに 本物 の 龍 を 見 て しまったという 葉公 の 逸話 ︵ 56︶ や 、 佛 が 母 に 説法 するため 忉利天 にのぼってしまったので 、 優填王 が 佛 を 思慕 して 目連 の 神通力 によって 工匠 たちに 佛 の 姿 を 見 させ 、 佛 の 眞容 を 彫刻 させたところ 、 佛 が 天 から 降 りてくるに 際 し 像 が 佛 を 出 迎 えたという 逸話 ︵ 57︶ に 言及 している 。 これは 、 誠心 をつくして 造像 すれば 、 佛 の 眞容 に 見 えることができるということ を 表現 していると 考 えられる 。 この 碑 が 建立 された 背景 には 、 軍事的緊張 に 際 し 、 土着 の 豪族 も 取 り 込 んだ 邑義 によ る 造像 という 集團的宗敎行爲 の 機會 に 際 し 、 皆 が 誠心 に 祈 りを 捧 げることで 、 全縣 の 結束 を 強 めるという 意圖 があっ たと 考 えられる 。 造像 の 功德 による 佛 の 加護 を 願 い 、 さらには 、 眞 の 佛 に 見 えることをも 期待 したのであろう 。 以上 の 碑 の 性格 から 、 そこに 表現 された 佛敎思想 も 縣 を 代表 するような 性質 のものであったと 考 えられる 。 この 碑 に は 、 碑 陽 の 碑 首 の 龕 に 、﹁ 左 相 多 保 佛 塔 證 有 法 華 經 ﹂ と ﹁ 右 相 釋 迦 佛 説 法 華 經 ﹂ と あ り 釋 迦 多 寶 二 佛 竝 坐 像 が 彫 ら れている 。 碑 の 中央 の 大龕 は 五尊像 で 本尊 は 坐佛 である 。 傍 には ﹁ 發心起像主 ﹂ と ﹁ 當陽大佛主 ﹂ の 題記 がある 。 碑 の 一 側 面 に は 縱 二 列 に 七 龕 が な ら び 、 そ の 傍 に 過 去 七 佛 名 が 順 に 刻 ま れ る 。 第 一 は 缺 損 し て お り 、 以 下 、﹁ 二 名 □□□ 佛 ﹂﹁ □□□ 葉佛主 ﹂﹁ 四名拘樓 □ 佛 ﹂﹁ 五名拘那含牟尼佛 ﹂﹁ 六名加葉佛主 □□□ 侍佛 ﹂、 ﹁ 七名釋迦牟尼佛主 □ 雲 ﹂ と 供養者名 とともに 刻 まれる 。
東洋硏究紀 第百五十四册 碑陰 の 碑首 の 龕 には 、 維摩文殊像 がそれぞれ 脇侍菩薩 を 從 えて 彫刻 され 、 榜題 に ﹁ 文殊師利説法時 ﹂、 ﹁ 維摩詰居士 示疾時 ﹂ と 刻 まれている 。 その 龕 の 下 には 半跏思惟菩薩像 が 線刻 される 。 その 下 の 大龕 には 、 立佛 が 三童子 とともに 彫 られている 。 榜題 に ﹁ 此是定光佛敎化三小兒補 ︵ 58︶ 施皆得須陀 洹 道 ﹂ とあり 、 定光佛 が 三童子 を 敎化 し 、 布施 させて 三 小兒 はみな 須陀 洹 果 を 得 たといっている 。 これは 定光佛授記 と ﹃ 賢愚經 ﹄ 阿輸迦施土品 による 阿育王施土説話 が 融合 したものであることが 旣 に 指摘 されている ︵ 59︶ 。 この 定光佛授記 の 説話 は 授記 による 法 の 繼承 を 表現 したのであろう 。 こ の 大龕 の 兩側 にそれぞれ 縱二列 で 佛龕 が 一列四龕 ずつならんでいる 。 榜題 には ﹁ 一名阿閦佛 □□ ﹂ から ﹁ 十六名釋迦 牟尼佛 ﹂ まで ﹃ 法華經 ﹄ の 十六王子 の 名 が 刻 まれている 。 總 じて 見 ると 、 多寶佛 や 十六王子 など ﹃ 法華經 ﹄ の 影響 が 強 くあらわれていると 言 えよう 。 ⑦董黃頭造像碑 北齊天保九年 ︵ 五五八 ︶ 圖一 〇 この 造像碑 は 高 さ 一七六厘米 の 圓首碑 であり 、 四面 に 佛像 や 供養者像 が 刻 まれている 。 現在 は 山西省高平市文館 に 所藏 されているが 、 もとは 市南部 の 鞏村 の 大廟 にあったという 。 造像銘中 の 供養者中 に 鞏氏 は 董氏 とともに 多 くみ えるので 建立當時 からこの 鞏村 にあったと 考 えてよいだろう 。 碑陽 の 下部 に 以下 に 掲 げる 願文 が 刻 まれている 。 法性無言 、 寄言以詮理 、 眞容妙 / 極 、 假像以表應 。 佛有如是十力 / 雄猛 、 大悲爲勿 、 化縁旣周 、 雙林 / 取寂 、 佛 雖去世 、 遺留經像訓世 。/ 是以千載之末 、 有佛弟子董黃 / 頭七十人等正信無邪 、 生不値 / 佛 、 故 □□□□ 契崇邑 義 □ 造 / 釋迦碑像一區 、 彌勒慈氏 、 及无 / 量壽佛 、 藥師 、 定光 、 思惟 、 多寶 、 阿 / 難 、 迦葉 、 幷 諸菩薩 。 以此微 善 、 願 / 皇 帝 陛下延祚無窮 、 四方 / 慕化 、 又願邑義諸人生生之處 、/ 恆値諸佛 、 聞法悟解 、 法界衆生 / 發菩
北朝時代の多佛名石刻 提心 、 速致作佛 。/ 大齊天保九年 歳 次 戊 寅 七 月 壬 辰 朔 廿 七 日 戊 午 造 。 以上 の 銘文 により 董黃頭 をはじ めとする 七十人 の 邑義 によって 造 像 されたこと 、 また 多 くの 佛像 を つくったことがわかる 。 銘文中 の 佛名 を 實際 の 碑 の 佛像 に 比定 して みよう 。 碑陽 の 龕 は 、 坐像 を 中心 に 二菩薩二羅漢 の 五尊形式 である 。 この 本尊 が 釋迦 であろう 。 この 五尊像 の 佛龕 は 尖栱 であり 尖栱 の 上 に 坐佛 が 彫 ら れている 。 おそらくこの 坐佛 が 彌勒佛 で 銘文中 では ﹁ 慈氏 ﹂ に 相當 するであろう 。 本尊 の 兩側 には 蹲踞 の 獅子 を 配 し 、 それと 同 じ 高 さの 栱柱 の 向 かって 左側 には 、 半跏思惟菩薩像 があり 、 その 傍 に ﹁ 思唯主 ﹂ の 供養者肩書 がある 。 向 かっ て 右側 には 定光佛授記 の 説話 である 儒童布髮 の 場面 を 表 した 像 があり 、 傍 に ﹁ 定光像主 ﹂ の 供養者肩書 がある 。 碑西 面 には ﹁ 无量壽像主 ﹂ の 供養者肩書 があり 、 無量壽佛 は 西方淨土 の 佛 であるので 、 西面 の 佛像 が 無量壽佛 である 。 で あるとすると 、 東面 の 佛像 は 東方淨瑠璃世界 の 佛 である 藥師佛 であると 考 えられる 。 碑陰 には 二佛竝坐像 があり 、 碑 陰 の 供 養 者 肩 書 に も ﹁ 釋 迦 像 主 ﹂﹁ 多 寶 像 主 ﹂ と あ る の で 、 こ れ が 釋 迦 多 寶 佛 で あ る こ と は 閒 違 い な い 。 阿 難 迦 葉 は 釋迦佛 の 脇侍 の 羅漢 であると 考 えられるので 、 これで 願文中 の 佛 はすべて 尊像 に 比定 できた 。 以上 の 願文中 にみえる 圖一〇 董黄頭造像碑碑陰
東洋硏究紀 第百五十四册 諸佛以外 に 、 供養者肩書 に ﹁ 東方像主 ﹂、 ﹁ 南方像主 ﹂、 ﹁ 北方像主 ﹂、 ﹁ 西方像主 ﹂、 ﹁ 下方像主 ﹂、 ﹁ 上方像主 ﹂、 ﹁ 六佛都 主 ﹂ とある 。 碑陰 の 佛龕 の 下 には 六佛龕 が 橫一列 に 竝列 されているので 、 この 六佛 が 四方上下 の 六方佛 を 表 している と 考 え ら れ る 。﹁ 六 佛 都 主 ﹂ と い う の は こ の 六 方 佛 像 す べ て に 出 資 し た 供 養 者 の 肩 書 で あ ろ う 。 董 黃 頭 造 像 碑 は 、 屬 する 王朝 は 異 なるものの 、 彌勒 、 釋迦多寶 、 思惟 、 定光 など 、 巨始光造像碑 と 題材 が 類似 しており 、 當時 よく 知 られ ていた 佛名 を 多 く 用 いたという 共通點 を 有 する 。 ⑧陳海龍造像碑 北周保定二年 ︵ 五六二 ︶ 圖一一 この 碑 については 別稿 において 詳述 したので ︵ 60︶ ここでは 概要 のみを 紹介 しておきたい 。 現在太原 の 山西物院 に 所藏 されているが 、 もとは 山西省南西部 にあった 。 碑 に 刻 まれた 供養者 は 、 像主 である 比丘尼法藏 を 始 めとする 比丘尼 ・ 沙彌尼約四十人 、 檀越主陳胤天 を 始 めとする 陳姓 の 者約七十人 、 その 他雜多 な 姓 の 者各姓一 ∼ 三人 で 構成 されている 。 碑 の 四面 には 、 合計一百足 らずの 佛 ・ 菩薩名 が 供養者名 とともに 刻 まれているが 、 その 佛菩薩名 のうち 、 三佛 を 除 い た 全 て が ﹃ 大 通 方 廣 經 ﹄ よ り 採 用 さ れ て い る 。﹃ 大 通 方 廣 經 ﹄ は 南 朝 の 梁 に お い て 諸 大 乘 經 典 よ り 抄 撮 し て 作 成 さ れ た 三寶 の 禮拜 ・ 稱名 による 懺悔 の 功德 を 説 く 、 當時相當 の 影響力 を 有 した 僞經 であり 、 この 經 に 基 づいた 懺悔行法 が 比丘尼法藏 の 主導 のもと 行 われていたことを 物語 っている 。 ⑨陽阿故縣村合邑造像記 北齊河淸二年 ︵ 五六三 ︶ こ の 造 像 記 に つ い て は 管 見 の 限 り 拓 本 は 見 當 た ら ず 、﹃ 山 右 石 刻 叢 編 ﹄ に の み 銘 文 が 著 録 さ れ る が 、 そ の 録 文 も 缺
北朝時代の多佛名石刻 落部分 が 多 い 。﹃ 鳳臺縣志 ﹄藝文 によれば 、 碑 はもと 陽阿故縣 ︵ 現在 の 山西省澤州縣 ︶ 大陽鎭南河庵 にあり 、 高 さ 一丈 ほ どあっ たという 。 この 時代 の 邑義造像 によくみ られる ﹁ 像主 ﹂、 ﹁ 邑子 ﹂ の 他 、 都邑主 や 都唯那 にさらに ﹁ 大 ﹂ を 冠 した ﹁ 大都邑 主 ﹂、 ﹁ 大都唯那 ﹂、 ﹁ 大齋主 ﹂ といった 肩 書 を 持 つ 供養者 の 名 も 刻 まれる 。 中 でも ﹁ 高 都 太 守 王 法 □ 妻 張 ﹂ や ﹁ 高 平 令 許 僧 賁 妻 周 ︵ 下 闕 ︶﹂ と い っ た 題 記 、 さ ら に 郡 功 曹 、 郡 中 正 が 數 名 そ の 名 を 列 ね て い る こ と か ら 、 郡 レ ベ ル の 大 規 模 な 邑 義造像 であったことがわかる 。﹁・・ 妻 ・・﹂ という 記銘 も 多 く 、 女性 の 比率 が 高 いのも 見逃 せない 。 この 造像記 で 注目 すべきは 、 十信 ・ 十住 ・ 十行 ・ 十廻向 ・ 十地 の 菩薩 の 階梯 の 名 を 冠 した 菩薩名 がみえることであ る 。 顏娟英氏 は ﹃ 六十華嚴 ﹄ と 對照 し 、 十地經等 の 思想 に 基 づくと 指摘 されている ︵ 61︶ 。 顏氏 は 指摘 されなかったが 、 こ の 石刻 には 、﹁ 水精王 ﹂、﹁ 金輪王 ﹂、﹁ 銀輪王 ﹂、﹁ 銅輪王 ﹂ という 題記 もある 。﹃ 菩薩瓔珞本業經 ﹄ によれば 、﹁ 水精瓔珞 ﹂ は 妙 覺 、﹁ 金 寶 瓔 珞 ﹂ は 十 廻 向 、﹁ 銀 寶 瓔 珞 ﹂ は 十 行 、﹁ 銅 寶 瓔 珞 ﹂ は 十 住 に 對 應 す る 。 ゆ え に 、 造 像 記 全 體 の 内 容 と しては 、 さきに 擧 げた 五十位 に 等覺 ・ 妙覺 を 加 えた 五十二位 を 一系列 の 菩薩 の 修行階梯 として 初 めて 體系化 した ﹃ 菩 薩瓔珞本業經 ﹄ に 基 づくものであると 考 えられる 。 この 經 は 、﹃ 華嚴經 ﹄ をもとにしながらも 、 僞經 である ﹃ 梵網經 ﹄ 圖一一 陳海龍造像碑碑陽