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こぺる No.117(2002)

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25日(毎月1回25日尭行)ISSN 0919-4843

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.

117

部落のいまを考える⑬ 特別措置法終結後の課題 住田一郎 ひろば⑪ こべる刊行会

り取られたペ

H

くんの死を悼む 平野広朗

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部落のいまを考え る ⑬

特別措置法終結後の課題

住田一郎︵西成労働福祉センター職員︶ 三 一 一 一 年 間 の 同 和 対 策 事 業 に よ っ て 被 差 別 部 落 の 劣 悪 な 生活実態は大きく改善されてきた。それにともない、被 差別部落にたいする人々の差別的な意識も確実に薄らい できたといえる。少なくとも差別意識の持ち主が多数派 を占める状況にはない。このように考える私の主張はこ れまでのさまざまな調査による膨大なデ

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タだけではな く、私自身の被差別地域を中心とした実体験に裏打ちさ れたものでもある。特に、大都市部の被差別部落の変容 は劇的とすらいえる。 だが、この点をふまえて部落差別問題が解決したのか、 と問われるなら、私は臨時なく︿否﹀と答えざるをえな い。戦後の部落解放運動は、結果的であるとしても、同 和対策事業 H 同和行政に依拠したものであった。むろん、 私もこの同和対策事業そのものを否定されるべきだとい っているわけではない。部落差別問題の解決が同和対策 事業 H 同和行政に依存するだけで可能なのかという疑問 を投げかけているのである。結論を先にいうなら、私は 可能ではないと考える。ほんらい、行政施策は一般的に も人々の生活全般にわたる条件保障を担うべきものであ り、人々の意志や信条決定にまで責任を負うものではな く、負えるものでもない。人々が主体的に意志決定しう る条件を保障する役割を行政は担っているにすぎない。 この後者の課題は部落・非部落住民相互が担わねばなら ないものなのである。しかし、この間、両者を分かつ ︿溝﹀はどのように埋められてきたのか。両者による自 由で対等なコミュニケーションはどこまで深められてき た の か 。 これこそが今日、私たちに問われている課題ではない か。少なくとも、運動を推し進めてきた部落解放同盟は 現状での到達点を明らかにし、今後の課題を大胆に提起 すべきなのである。特に、被差別部落住民が運動に参/加 するなかで、同和対策事業の成果を享受しながら部落差 こベる 1

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別問題についての認識をいかに深めてきたか、が明らか にされねばならない。現在もなお、差別・被差別、加害 者・被害者との単純な二項対立思考に依拠した︿被害者 意識﹀のまま、被差別部落住民が行政に寄りかかりなが ら︿告発者﹀で居つづけるなら、部落差別問題の解決は あまりにも遠いといえるだろう。 今年三月末の同和対策事業の終結は部落差別問題を解 決するうえでの条件保障が大きく前進したととらえるこ とができる。にもかかわらず、四月以降、部落解放同盟 組織と少なくない自治体はあたかも法律の終結がなかっ たかのように、従来と少しは装いを変えながらも同様な 対応がなされている。長野県の田中知事も議会質問に対 し﹁五年をめどに継続された同和事業を毎年厳密に精査 し、その上で必要のないものは打ち切っていく﹂と答え ている。だが、経過措置は九七年以降五年間もうけられ てきた。その上で、今年三月末をもっての法律の終結で あったはずである。確かに、各地で部落問題・同和対策 関係部署が人権対策部署に名称が変えられ、一般人権施 策のなかに部落差別問題も吸収されてきた。特別措置と しての同和行政はその成果にもと守ついて政府・運動側双 方の合意によって終結を見たのである。 ところが、部落解放同盟は﹁部落差別が存続する限り、 同和行政は実施されねばならない﹂との同和対策審議会 答申︵三七年も以前︶の指摘を根拠に、一般行政内での ﹁同和施策﹂として福祉事業を重点にした要求行動を各 地で展開している。もちろん、この分野が被差別部落で 深刻化する高齢者問題に対応する重点課題であることに 相違ない。しかし、この時点でなお、﹁答申﹂に刻まれ た字句を根拠に、同じレベルで、同和行政の継続を迫る ことには無理がある。もともと行政施策に特別な同和行 政があるわけではない。時限立法として、当時にあって 一般行政施策では、特に、国の予算措置がない地方自治 体では、抜本的な改善は困難であるとの認識から同和対 策事業特別措置法が制定された経緯があった。この法律 の終結は曲がりなりにも、﹁格差﹂の是正といった所期 の目的が達成されたことを意味していたはずである。 しかし、私の危倶は四月以降の運動も従来の行政闘争 スタイル、いうならば、要求の実現という︿実利を積み 重ねる﹀スタイルとどのように違っているのかというと ころにある。また、被差別部落内にはなが年の部落差別 による傷痕が同和対策事業の終結︵成果︶とともに浮上 してきたともいえる。この︿傷痕﹀を克服するにはより 主体的な運動への被差別部落住民の参加が不可欠である。 被差別部落民自身が︿自己責任を担いつつ、自己実現を

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図る﹀、そのような課題と向き合う姿勢がないかぎり克 服は不可能である。同和対策事業で獲得された生活上の 成果を基に、自らの課題をもえぐりだし、部落外の人々 との自由で対等な交流を一歩一歩深めることが求められ ている。この取り組みが今日の部落解放運動にとって、 もっとも緊急な課題であると私は捉えているのである。 新しい革袋には新しい酒が注がれる必要がある。四月 以降の状況を中央・地方の﹃解放新聞﹄の紙面で見るか ぎり、﹁新しい草袋﹂と認識していない組織も数多い。 各地で取り組まれる行政交渉も依然として﹁同和行政の 継続﹂に主眼が置かれているように見える。確かに、現 在の被差別部落において、なお緊急に、きめ細やかな行 政施策を必要とする高齢者・若年労働者層の存在を無視 することはできない。がしかし、この課題だけが現時点 における部落差別問題のすべてでないことも明らかであ る 。 事態は確実に変化している。まずはこの変化の実態が 明らかにされねばならないだろう。 全国交流会で話し合われたこと 今年の部落問題全国交流会は﹁部落のいま|転換か終 罵か﹂という意味深長なテ

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マで開催された。基調には 同和対策事業による変化の実態を明らかにするなら、今 後、部落解放運動は終需を迎えるのか、それとも、転換 を求められているのかが、自ずと明らかになるとの認識 が置かれていた。それは部落解放運動と部落差別問題の 今後の有り様を根底から問いかけるものでもあった。 交流会ではのべ九時間、今日の部落差別問題について 多岐にわたる視点から活発に話し合いが交わされた。こ の内容すべてを小論でフォローすることは無理である。 ここでは特措法後における被差別部落の現状把握と私自 身の問題意識の範囲内でしか紹介できないことをあらか じ め お 断 り し て お く 。 最初に、三三年間におよぶ同和対策事業による被差別 部落の変容を裏付ける詳しい現状報告が山本尚友、石元 清英の二人からなされた。報告はともに二

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年に実 施された京都・大阪での同和地区実態調査報告書に基づ く も の で あ っ た 。 一つは住環境の整備についてであり、特に、同和向け 住宅の建設がほぼ完了した事実。がしかし、今日、地区 内に建設された平均世帯を基準とする画一的な公営鉄筋 住宅は、同和対策事業の成果でもある被差別部落住民の 多 様 な ニ

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ズに応えきれていない。当初の計画でも今日 こベる 3

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の事態を予想することはできず、ある意味で想像するこ ともできなかった現象が生まれていた。それ故、地区内 の中堅層︵四

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歳前後︶、相対的に安定した生活基盤を 持つ住民の流出があとを絶たない。結果として、公営住 宅に多くの空き家が目につく。七二年以来部落解放総合

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ヶ年計画に沿って、永住する街を基本に斬新な手法 で進められてきた私の地区においても、流出が少なくな い。また、ある地区のように、建設された同和向け住宅 が全く手っかずのまま数百戸放置されるといった矛盾も 生 じ て い る 。 この流出現象は京都市内の被差別部落人口の著しい減 少をもたらし、相対的に生活基盤の低位な高齢者、生活 保護受給者の対人口比率を極端に高めることになってい る。大阪でも基本的に同じ状況がみられるが、京都と大 きく違っている点は、流入人口の増加である。この違い は京都・大阪における同和対策事業における対象者基準 の相違によって生じている。京都の場合は同和事業の対 象者は事業開始当初から﹁属地・属人︵被差別部落に住 みかつ被差別部落民であること︶﹂主義をとってきたた め、部落民でない人々が同和対策事業の対象になること はなかった。象徴的な事象は改良住宅が建設され始めた ころ、被差別部落内に居住していた在日朝鮮・韓国人が 住宅入居対象にはならなかったことであろう。それに対 し、大阪ではもともと高度経済成長政策の影響をもろに 受けとめ、被差別部落であると行政的に線引きされた同 和地区内にすでに多くの部落出身者でない住民が居住し ていた。﹁属地・属人﹂主義を基本としながらも厳密に は実施できず、﹁属地﹂主義をとらざるをえなかった経 緯がある。もちろん、被差別部落外に住んでいる部落民 でない住民が直接地区内の同和向け住宅に入居を申し込 むことはできなかった。いったんは線引きされた同和地 区︵﹁属地﹂︶内の手狭な文化住宅やアパートに居住して いることが入居条件とされていた。結果として、流出流 入を繰り返してきた大阪では、すでに被差別部落住民の 過半数が被差別部落出身者以外によって占められている。 もちろん、相対的に安定した層が流出し、生活の厳しい 人々が流入するのであるから、被差別部落総体として改 善された成果も鈍化し、経済状況や進学状況に逆戻り現 象すらみられることはいうまでもない。 同和対策事業における﹁属地・属人﹂主義への対応の 相違は京都、大阪における今日の部落解放運動の有り様、 スタイルにも少なくない影響を与えたと私は考えている。 解放運動をリードする大阪における今日の状況は施策に たいする﹁オープンな﹂対応によっているに違いないの

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で あ る 。 次に、流出者の増加による被差別部落内の実情が明ら かにされる。前述のように、地区内の生活レベルを年収 別グラフに表せば、二

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万円以下のグループと七

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万以上のグループに明確に分かれる、二こぶラクダ状況 は変わらない。ただ、この様相も近年の七

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万円前後 グループ層の流出によって、このグループのこぶの幅も 狭くなり、全体としてグラフは左寄り︵年収の低い方︶ に移動する。進路・学歴状況も同様の傾向を示す。さら に、就労状況も厳しく、特に、若年労働者の失業率は二

O%

にも達しており、そのうちの少なくない青年は驚く べきことに﹁就労希望なし﹂と答えている。このような 状況は京都・大阪に共通した現象として指摘される。さ らに、京都市内の被差別部落での家賃長期滞納者状況が 示される。公営住宅入居者のうち生活保護世帯や高齢世 帯それに生活困窮者等の家賃減免措置者は全入居者の約 三一分の一、それ以外に長期滞納者が三分の一弱に達する といわれている。彼らは家賃が払えないのではなく、同 和対策事業で建設された住宅家賃は支払う必要がないと でも考えているようだ。山本は報告のなかでこの長期滞 納者の異常な数字と先の﹁就労希望なし﹂と答えた若者 の状況に、京都市内の被差別部落が今日抱える課題の大 きさを知ることができるだろうと指摘する。 ま た 、 石 元 は 一

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年前の実態調査報告とのデ

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タ比較 を基に大阪における被差別部落の現状を﹁就労の安定化 傾向の鈍化﹂と捉える。﹁鈍化﹂傾向は、決して就労に 限ったわけではない。相対的に安定した階層の流出を考 え合わせれば、至極当然な結果でもある。また、被差別 部落人口のほぼ過半数が部落出身者ではなくなった、と 流出流入現象の激しさを数字によって示す。両親とも出 身者でない家庭が四分の一強、両親の内どちらか一方が 出身者でない家庭が二分の一弱である。もう一世代上の 地区居住者の出身を考慮すれば、被差別部落の﹁起源﹂ とされた旧工夕、非人等いわゆる前近代の賎民の末商と の血縁関係はすでに破綻しているのである。 さらに、大阪南部の被差別部落の青年たちへのインタ ビューを通じて得た興味深い事実が報告される。地区内 で運営されてきた部落解放子ども会に参加した青年たち と参/加しなかった青年たちに﹁結婚時に、差別を受ける と思うか﹂と質問する。前者の多くは﹁差別を受ける﹂ と答え、後者の方は﹁受けないだろう﹂と答えた、とい 、 つ ノ 。 こベる 二人からの詳しい報告によって、これまでの部落解放 運動と同和対策事業が被差別部落の実態の何を改善し、 5

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何が改善されなかったかを知ることができる。確かに、 各地の被差別部落の住環境は確実に改善されてきた。経 済的な安定も就労保障︵公務労働への優先採用︶によっ てなされてきた。当然、進学率も学歴構成も向上した。 部落差別解決の大きな壁とされた結婚についても年齢層 が若くなるにつれ克服されており、二

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、 三

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歳層では 部落外の人との通婚がすでに七

O%

を越える数字を示し ている。結婚時に差別を受けることが当たり前ではなく なっている︵もちろん、完全に克服されたわけではない が︶。少なくとも、大都市部の被差別部落は同和対策事 業による改善によってその様相を一変した。この事実を 踏まえたうえでの二人の報告であり、厳しい課題の提起 なのである。安定層が地区から流出する現象は同和対策 事業の確実な成果に違いない。しかし、流出したあとの 部落共同体の実態は数値で見るかぎり、高齢者の増加、 平均年収の減少、失業率の増加、進学率の停滞から後退 等、全体として一

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年近い後戻り現象を示している。に もかかわらず、特別措置法による同和対策事業の終結を 迎えた。﹁終結﹂は正しかったのだろうか、との疑問が 起 こ る の も 領 け る 。 だが、私は次に示す二つの点で﹁終結﹂を積極的に受 け と め て い る 。 一つは、流出後の被差別部落において、相対的に低位 な生活水準の人々の流入によって生じた課題を部落差別 問題に起因するものといえるのか、という問題である。 私は起因すると明確に指摘することはできない。もちろ ん、残された課題を部落住民の﹁自己責任﹂として放置 されることを認めるのではなく、一般行政施策の水準を きめ細かく高めた対応がなされなければならない、この 施策はこれからも必要である。しかしながら、被差別部 落だけを﹁固い込む﹂対策 H 特別な同和対策事業はもは や受け入れることはできないのである。 一一つめは、同和対策事業をなが年受給してきた被差別 部落住民自身にマイナスの影響があらわれだしたからで ある。対策事業への依存を当然のように受け入れる。差 別・被差別、加害者・被害者との二項対立思考を固定化 し、あたかも﹁差別の代償﹂として同和事業を受け入れ る。しかし、これをつづけるかぎり、被差別部落民は自 らをつねに客体︵受け身︶の位置に留め置くことになっ てしまう。決して、部落差別問題を自分自身の課題とし て受けとめる主体者にはなれない。ぬるま湯にどっぷり と浸かったままでは﹁自己責任を担い、自己実現をめざ す﹂自己との厳しい対峠は不可能なのである。

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今後の課題は何か では、私たち被差別部落民は特別な同和対策事業の ﹁終結﹂を受容するとして、いま何が求められているの だろうか。交流会ではこの点について、藤田敬一は強制 収容所アウシユピッツからの生還者フランクルの著書 ﹃意味への意志﹄︵春秋杜回・ 7 ︶から﹁人間は、たと え集団から制約や影響を受けたとしても、何らかの自由 の余地をつねに存しているのです。もちろん人聞はそれ らのものから影響を受けますが、その影響のままになる というのではありません。人間はつねにそれとは別のも のになりうるのです。そして、たとえその人がそんなこ とは不可能だと信じたり主張したりしたとしても、ある いはその人がもはや自由をもっていないように見える場 合であっても、彼は自分の自由を|まさに自由意志によ ってみずから放棄しているのです。﹂を引きながら問 題提起をした。もちろん、この指摘は八七年に刊行され た藤田自身による﹃同和はこわい考﹂での大胆な問題提 起を受けたものであった。その後の一五年におよぶ部落 解放運動をつぶさにフォローするなかで気づかされた、 もっとも軽視されてきた﹁人間の問題﹂であり、これま で脇に追いやられてきた被差別部落民個々人の﹁主体的 な有り様・責任﹂についての再提起であったのだ。 どんなに厳しい状況に在ろうとも自らの自由意志を他 の人々に完全に委ねることから一線を画することはでき る。すべてについて責任転嫁することは許されないので あ る 。 藤田の指摘した課題は決して新しい問題提起ではない。 二

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年前に刊行された著書﹃共に在ること﹂︵日本基督 教団出版局沼・ 4 ︶のなかで小笠原亮一は同じくフラ ンクルから学んだこととして次のように提起していた。 ﹁それぞれのグループのなかで、彼が善き人間になるか 悪しき人間になるかは、それがいかなる状況においてで あれ、なんらかの外からの力によって決定されるのでは なく、あくまでも彼自身の自由と責任による、他のなに ものにも責任転嫁できない﹂、さらに﹁被差別の側は、 単に差別の側に対して否定的に迫る、ばかりでなく、自己 自身に対しでも批判的にかかわり、自己否定の原理を確 立しない限り真の解放はあり得ないのではないか。被差 別の側が自己に批判的にかかわることは、差別側の想像 を絶するきびしさを要求されるのであるが、そのきびし さのなかからのみ新しい世界の人間性と倫理性がきたえ あげられるのではないか﹂と。 こぺる 7

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残念ながら、この小笠原や藤田の重要な指摘は解放運 動を進める被差別部落住民だけではなく、運動の周辺に いた同伴者によってもほとんど顧みられることがなかっ た。すでに運動内部には﹁部落差別の結果﹂という印龍 を振りかざし、被差別部落住民の主体的な関わりゃ自ら の責任を、問うことをやめてしまう弊害が見られていた に も か か わ ら ず 無 視 さ れ つ 守 つ け て き た の で あ る 。 被差別部落住民にとってなが年にわたり部落差別を受 け続けてきた弊害︵傷痕︶とはいったいどのようなこと なのか。同和対策審議会答申で概括的に捉えられた﹁実 態的差別﹂と﹁心理的差別﹂との部落問題把握も、被差 別部落住民を主体者として捉えるものではなく、客体 ︵あくまでも被害者︶としてしか描かれていなかった。 それ故、のちの同和対策事業特別措置法による対策事業 の進展においても、小笠原や藤田の︿被差別者が自らの 課題と向き合う﹀視点が生かされることはほとんどなか った。それだけではなく、その視点は利敵行為として葬 り去られてきたともいえよう。 小笠原や藤田の視点を欠いた部落解放運動と対策事業 のなかでは、流出した相対的安定層といえども部落差別 問題の当事者としての自覚や課題を引き受けているとは いえないだろう。ましてや、不安定層を中心とする流入 者を交えた今日の被差別部落住民がこの視点と最も遠い ところに位置付いていることも領けるのである。 藤田らの問題提起はこの状況への根元的な警鐘であっ た。私はこの警鐘をどのように受けとめるかに、今後の 部落差別問題解決の鍵があると考えている。また、他の 出席者からも全閏水平社の創立宣言や綱領に示された ﹁積多であることを誇り得るときがきた﹂、﹁人間性の覚 醒に目覚める﹂等の文面から導かれる自らに厳しく迫る イメージとは大きく異なる解放同盟の運動への疑問も指 摘 さ れ て い た 。 同時に、これまでの部落解放運動が声だかに叫んでき た﹁一切の差別をなくす﹂とのスローガンの非現実性に ついても発言があった。もちろん、理想は理想であると 割り切れるなら、差別や不合理のない社会をめざす運動 もあり得るだろう。しかし、このスローガンを原理主義 的に大上段から振りかざせばかざすほど、現実との大き な語離が生ずることも事実なのである。 もう一つの重要な課題として、人権教育のなかで部落 問題をどのように位置づけるのかとの提起がなされた。 同和︵解放︶教育実践で、部落差別について教師生徒を 含めた﹁間違いを許されない﹂足かせがまとわりついて いる限り、自由で躍動感のある学びの場を創造すること

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は不可能である。また、被差別部落の存在を悲惨な歴史 的事実として強調し、その不当性を訴えたとしても、今 日ほとんど部落との接点を持たず、実感のない生徒たち は﹁被差別部落をどこか遠くの人里離れた集落﹂と受け とめてしまっているとも報告されていた。どちらの実践 においても部落問題は特別な教育課題とするところから くる弊害である。特別な教育課題にならざるを得ない要 因として、現実に被差別部落が地域社会のなかに存在し ているにもかかわらず、その存在を客観的事実として明 らかにできないという現実・矛盾がある。ある中学生が 教師に問、った次のような事実をどのように受けとめれば いいのか。第一の聞い、﹁先生今でも部落差別はあるの ですか﹂、先生﹁あります﹂と答える。第二の聞い、﹁先 生部落はどこにあるのですか﹂、先生﹁︵部落解放同盟を 含めて部落の存在が地域社会で顕在化されているので︶ あの鉄筋住宅がそうです﹂と答えられる。第三の問い、 ﹁では先生、部落民って誰ですか﹂、先生﹁具体的には答 えられず。生徒は納得できないままである﹂。部落差別 があって、部落があるなら、部落民がいるのが当然であ る。しかし、学校現場において、教師は﹁部落民を指名 すること﹂はできず、教師はジレンマに陥らざるを得な い。生徒の問いに、ストレートに答えることはできない としても、まったく無視することもできないだろう。た だ、生徒にとって部落の存在を知らされているのである から、︿部落民﹀を特定することは不可能ではない。し かしながら、この課題の解決は学校現場のみでは不可能 であり、地域社会ぐるみの対応が求められているに違い ない。その際、部落・非部落双方による自由で対等なコ ミュニケーションが日頃から成立していることが不可欠 で あ ろ う 。 顕在化にとっての足かせは﹁部落地名総鑑﹂への差別 れ ∼ ル ﹄ 糾弾闘争を通じて、﹁産湯と一緒に赤子まで流した﹂鵬首 えによって、生み出されたともいえないだろうか。被差 別部落の存在は少なくとも周辺地区の人々にとっては自 明の事実である。水平杜宣言に記された﹁穣多であるこ とを誇りうるときがきたのだ﹂との字匂を積極的に読み とり、引き受ける必要がある。顕在化することで足かせ の少ない自由な学習の場を組織することこそが、今日求 められているといえよう。部落解放同盟

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支部 と刑冠旗に記す愚を考えてみれば判ることではないだろ う か 。 最後に、被差別部落住民がかかえる課題について、二、 三記すことで私の責任を果たしたい。 こベる 9

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一つは、被差別部落住民の意識に、二項対立思考がね づよく張り付いている課題である。なが年人々から忌避 されてきた体験による被害者意識を克服することは容易 ではない。だが、克服されねばならない課題でもある。 つい最近の研究集会でも部落出身の若い女性活動家が発 言していた。部落問題について語り合う町主催の一泊研 修会で責任者でもあった彼女は﹁皆さんには部落民の母 お の の 親の苦しみ、我が子が差別されるとの恐れや戦き、こ の切ない気持ちを部落民でないあなたたちには分からな いだろう﹂と詰問した。その場が冷え冷えとした静寂に 包まれ、対話がとぎれたことは容易に想像できることで あ る 。 二つめは、被差別部落共同体の成員が抱えねばならな かった﹁文化的低位性﹂についてである。部落内でのコ ミュニケーションや議論の欠如は部落外の人々との対話 を跨踏させてきた。かつて部落内﹁ボス﹂におもねてき た多くの部落住民はそのくびきから解放運動による︿実 利の獲得︵物取り︶﹀によって解かれてきた。しかし、 ︿実利の獲得﹀がそのまま部落住民の﹁文化的低位性﹂ を解消させるものではない。﹁文化的低位性﹂の克服に はまず、その事態を自らの課題として認めることから始 めねばならない。そのうえで課題との身をえぐるような 厳しい対決が求められる。部落解放運動への主体的な参 加は全国水平社綱領をあげるまでもなく自己実現をめ、ざ すものであった。これまで費やされてきた対策事業費が 利権や否定的な社会的現象を生み出してきたことも事実 である。それだけに、同和対策事業に依存し、ぬるま湯 につかってきたと指摘される部落住民の状況は引き受け るべき自らの課題との対決を避けてきたといえよう︵い や、課題に気づかなかったのかもしれない︶。 三つめは、同和対策事業における成果への評価の問題 である。この間の取り組みで部落差別問題の解決をねが う人々は確実に増加してきた。この事実にたいする確信 の有無についてである。しかし、この確信も対話を求め る具体的な行動に踏み出すことでしかとらえることはで きない。私が︿カムアウト H 部 落 てきたのも、多くの人々にまじめに受けとめてもらえる との確信に裏打ちされていたからである。 三三年間の同和対策事業と部落解放運動によって、部 落差別問題を解決できる条件は大きく前進してきた。こ の条件を部落・非部落双方の住民がいかに生かせるかに 今後の部落問題の解決はかかっている。その方策の根底 に双方による自由で対等なコミュニケーションの実現が あ る と い え る だ ろ う 。

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ひろば⑫ ユ ニ テ ィ l メ ン バ ー ︶

切り取られたペ

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H

くんの死を悼む 平野広朗︵高校教員、ゲイ・コミ 五月の末に友人の H くんが自ら命を絶った日から、三 ヶ月近くが経つ。三一日の午前一時半か二時ごろ、彼は ぼくに電話をかけてきた。おそらくは、﹁最後の電話﹂ だ っ た の だ ろ 、 っ 。 ﹁ も う 死 に た い : ・ ﹂ ﹁ え え ? 電話でそんなこと言われ て も 、 ど う し ょ う も な い や ん ﹂ ﹁ 薬 も 効 か へ ん し ・ : ﹂ ﹁ ど ないしたん?﹂||いつになく短い電話だった。いま思 えば、少し膿臨とした声であったような気がする。その 一了三時間前には別の友人に、自殺をほのめかす電話を か け て き た と い う 。 残された者が自殺にいたる理由についてとやかく穿撃 することは、慎もうと思う。ただ、彼のひとことを聞い たぼくが﹁あれから事態が急変したんだろうか?それ とも、︵別の︶あれのことだろうか?﹂と少し動揺して、 とっさに受け答えが出来かねたことは事実だ。前日の二 九日から三

O

日にかけての日付が変ったころ、ぼくたち は二時間ばかりも、ああでもない、こうでもないと、途 方に暮れつつも反撃のための作戦を練っていた。その事 件がさらに悪化したのだろうかと、まず、ぼくは考えた。 そして、彼にここまで言わせるほどの事態に至ったのだ としたら、詳しく聞こうとすれば彼を傷付けてしまうの ではないか、そもそも、こちらから聞き出して良いもの だろうかなどと戸惑ったのだった。そのまま電話は切ら れて、彼が最後に言いたかったことは結局わからずじま い に な っ て し ま っ た 。 だから、﹁理由﹂はわからない。わからないが、残さ れた者として、せめて、彼が死の直前まで絶望的に闘っ ていたことについて伝え続けていきたいと、ぼくは思う。 それは正月明けからずっと後を引いていた﹁事件﹂だ った。長年一緒に障害者解放運動を闘ってきた︵年上 の︶仲間が亡くなって、その追悼文集に自分も文章を寄 せたのだが、出来上がったものを見たら、掲載ベ

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ジ に ﹁顔写真﹂が載せられていたというのである。彼は原稿 こペる 11

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の 中 で 、 ゲイであること、﹁

H

﹂というペンネームでゲ イ・リブの活動をしていることを書いていた。﹁仲間が 作る丈集、だからと信頼して、いつものようなゲラチェッ クを要求しなかったボクも悪いんだけど﹂とためらいが ち に 憤 る 彼 に 、 ぼくは﹁そんな問題とちゃうやろ。いま どき本人の了解もなしに顔写真を載せるなんて、神経疑 うわ﹂などと返した。彼の書いたことを読んでいたのな ら、顔写真を載せることに慎重になるのが、編集者とし ての当然の判断であろう。ゲラチェックを要求する・し ない以前の問題だ。 彼は脳性麻庫の障害をもったゲイとして、 前にリブの運動を始めた。障害者差別とゲイ差別をとも に受ける身として、その両者が交わる部分を問題として 提起したいというのが、彼の言動の根っこには常にあっ

O

年ほど た 。 ﹁カムアウト﹂していたとは言え、﹁

H

﹂というペン ネームを使っていたことからも明らかなように、本名や 顔を無条件で不特定多数に晒すようなことは避けていた

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く' 'a にも判然としないところはあったが、家族・親族・隣近 所を始めとして、障害者運動の関係者の中にも知られた くない人たちがいたようだつた︵母親には今年の正月に カムアウトした。﹁お父さんには黙ってて﹂と言われた という。母親にカムアウトするまでの心の葛藤を語りな がら、彼は電話の向こうで声を挙げて号泣した︶。 そんな H くんが、無断で写真を使われたことに対して 編集委員に抗議したのは当然のことであろう。しかし、 彼は編集委員から謝罪を受けるどころか、逆に手酷い暴 言を吐かれることになった。日く|| これくらいのことで﹁人権侵害﹂なんて言葉を使う な。言葉が軽くなってしまう。 一々写真の許可を取れと言うなら、 ンタヴューなどの背景を通り過ぎる通行人にも許可 をもらわなければいけないことになる。 私だって顔を晒して活動している。君はどうしても っと堂々と胸を張ることが出来ないのか。 ﹁ゲイ差別﹂と言、つが、どんな差別を受けているの か説明してくれ。元々結婚してない︵から﹁結婚差 別﹂を受けることもない︶んだし、ゲイだからと言

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って仕事を辞めさせられるわけでもないだろう。 ︵我々のように︶一日で障害をもっているとわかる わけでもなく、隠すことが出来るのだから︵まだ、 ま し だ ろ う ︶ 。 せっかくみんなで協力して完成までこぎつけて喜ん でいるのに、水を指すのか。 ||聞いた口がふさがらないとは、このことだ。人権の なんたるか、差別のなんたるかが、まったくわかってい ない。こんなことがぬけぬけと言える人聞が﹁人権運 動﹂を担ったつもりで大きな顔をしていられる社会だか ら、人権侵害・差別はなくならないのだ。﹁人権活動家﹂ だからといって信頼してカムアウトなんかしたら、ひど い 目 に あ う の だ 。 本人の承諾なしに写真を掲載することが人権侵害・肖 像権の侵害に当たることなど、イロハのイではないか。 街頭インタヴュ

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の ケ

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スとゴチャ混ぜにして自分たち の過失を糊塗しようとするなんて、 ノラリクラリと言い 逃れをしようとする政治屋・官僚顔負けの厚顔無恥であ ろ う 。

H

くんが例外的に顔を出していた雑誌が一つだけ あったが、それは編集者との信頼関係の中で本人が納得 して出していたのだ。今回のケ

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スと同列に論じること は、もちろん、出来ない。活動をするに際して顔を晒す かどうかは、本人が決めることであって、他人がお節介 を焼いて勝手に公開してしまうことは許されないし、あ ろうことか、加害者の側が被害者に向かって﹁君ももっ と堂々としたらどうか﹂などと説教を垂れるなんて、破 廉 恥 の 極 み で あ る 。 暴言を吐いた編集委員の一人には、ぼくも一度会った ことがある。確かに一目で、障害をもっていることは知 れ た 。 H くんも、脳性麻痔に関しては誰の目にも明らか な状態だった。だが、一日でわかる障害をもっているこ とが、﹁エライ﹂のか? それ以外に耳や膝にも障害があったし ︵手術を受けたが、完治したわけではないて不眠や欝の 症状に苦しめられていたのだし、日によって性自認が男

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く ん に は 、 ゐ−−女の間でぶれるという﹁障宝己ももっていた。それ らは本人から言われなければ、他人からはうかがい知れ ない。編集委員たちが、こうした事情をどこまで知って いたのか、知らなかったのか、ぼくにはわからないが、 こベる 13

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彼らの言い分は人としての最低線を遥かに下回っている。 外から見てわからなければ、﹁まし﹂なのか? こ と が 、 ﹁ 幸 せ ﹂ な の か ? 隠せる ﹁ゲイだから﹂と言って社員をクピにするような無邪 気な会社はないが、言わなくてもクピにする、もしくは J 辞めざるを得ないようにもっていく会社は、ある。ゲイ だとばれたとたんにベアを組んでくれる同僚がいなくな ったという嘆きの電話をもらったこともある。自に見え な い と こ ろ 、 口には出さないところで横行する差別を見 抜けないような者が、差別の軽重を云々するなど、笑止 千万な話であろう。第一、差別の軽重を論じること自体、 とんでもないことだ。こんなことだから、これまでの障 害者運動は精神障害の問題をなおざりにしてきたなどと、 批 判 さ れ る の で あ る 。 確 か に 、

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くんは結婚していなかった。縁談話を持ち かけられたこともなかった。だがそれは、彼がゲイだか ら、ではない。つい最近まで、彼の親は彼がゲイだと知 らなかった。彼は目の前で、親がお姉さんに向かって ﹁ お 前 は 障 害 者 を 産 む な ﹂ と 言 、 つ の を 聞 か さ れ た と い う 。 なぜ彼に縁談話がなかったのかは、明らかだ。 そんな彼に対する編集委員の言葉は、あまりに酷い。 問題はこれだけではない。﹁結婚問題﹂は同性愛者差 別と障害者差別︵と、その他のマイノリティに対する差 別︶との架け橋となり得るテ

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マだというのに、何年も 障害者運動をしてきた編集委員たちが、このことに気付 いていないらしいことがぼくには理解できないのだ。彼 いままで何をしてきたのか? ︵重度︶障害者は多くの場合、本人が結婚を望んでも 周囲から阻まれ自己実現を阻まれて、﹁ひと﹂として認 ら は い っ た い 、 知されないことを思い知らされてきた。この場合の﹁障 害﹂﹁差別﹂は何かと言えば、世間の価値観である。世 間の価値観を体現した親である。 一方、圧倒的大多数の同性愛者は望まぬ結婚を押し付 けられてきた。親のため、世間体のため、出世のため :::さまざまな理由によって結婚に追い込まれて、ゲイ であることを隠しながらの不本意な人生を余儀なくされ てきた。﹁同性愛者は結婚しない﹂などというのは、世 間知らずの言う台調だ。﹁結婚してこそ一人前﹂﹁男と女 はくっ付くもの﹂という﹁結婚規範﹂が強固だった時代

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みんな結婚させられて、それでも結婚しようとし ない者は世間から爪はじかれた。 表面に表れた現象は一見逆に見えるが、ともに根底に あるものは結婚制度・結婚社会の呪縛である。障害者は 望んでも排除され、同性愛者は望まないのに押し付けら であるための条件が﹁結婚﹂であるよう ’ ﹂ + J

l l れ る 。 ﹁ ヒ ト ﹂ な社会は、こうして逆のベクトルで人びとの幸福を奪っ ていくのだ。本人の意思より周囲の思惑が優先されて、 犠牲者を生んでいく構図である。憲法に誼われている ﹁両性の合意﹂などではなくして、世間の認知によって 成立するのが﹁結婚﹂の本性である以上、それは避けら れ な い 。 結婚差別がなくならないのは、こういうわけである。 ﹁人並みに結婚したい/しなければ﹂と思っている人が いる限り、結婚差別は再生産される。﹁結婚差別されま した﹂と訴えていけば、﹁結婚社会﹂に加担することに なってしまう。﹁結婚差別﹂との正しい闘い方は、結婚 なんかしないで、自分の人生を自分で選んで生きていく ことである。結婚しないで幸せに生きていくライフスタ イルが確立すれば、﹁結婚差別﹂も偽装結婚も死語とな る だ ろ う 。 そ ん な こ ん な の こ と ど も を 、 ぼくが話し合いの場に入 って伝えていれば、事態は好転した、だろうか。言語障 害のある

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くんが一人で立ち向かうには、確かに限界が あったとは思う。だが、ぼくがしゃしゃり出でいって、 彼の言わんとするところをスラスラと代弁してしまうこ とには、最後までためらいが残った。彼が言っている以 上のことまで、ぼくが﹁代弁﹂してしまうのではないか という、懸念もあった。彼は自ら﹁マ l ジナルマン﹂と 称して障害者差別と同性愛者差別の狭間で発言をしよう としてきたが、ぼくの目から見たら食い足らないところ がなかったわけではない。﹁障害者にとっての性﹂を語 るときに﹁同性愛の問題を忘れるな﹂、というメッセー ジだけでは、異性愛者たちは自分たちの問題として取り 組めない。同性愛者を抑圧しているものが異性愛者も苦 しめているのだという事実︵異性愛を前提とした結婚規 範、など︶を示さなければ、双方が共に歩むことは難し こぺる しミ

、 v ’ − 、 、 、 品 、 え カ ぼくはこれらのことを編集委員に直接伝えるこ 15

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とをしなかった。ぼくがズボラをかました面もあったが、 彼もそれを頼んでは来なかった。何度も電話をかけてき て、相談をもちかけてくるだけだった。そうこうするう ちの五月二九

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一 一 一

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臼にかかってきた電話は、先方との 話し合いも成果なく、五月始めに突きつけた抗議文も無 視されて、二九日朝刊に追悼文集を大々的に広報する記 事が載ったという、追い詰められた絶望の岬きだった。 彼は﹁ボクをなめてる﹂と激しく憤りながらも、こう なったら裁判を起こすしかないかという段になると﹁本 当はそこまでのことはしたくない﹂と肱き続けた。闘い の相手は、長年の運動仲間であり、元職場の同僚・自立 ホ

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ムの同居人であり、今も毎日顔を合わす﹁身近な 人﹂たちなのだ。﹁完成してみんな喜んでいるのに、水 をさすのか﹂という殺し文句は、彼をとことん追い込ん だことだろう。彼はあの夜、何度、深い溜息をついたこと か 一日の聞にどんな変化があったのか、 ぼくは知らない。だが、取り寄せてみた 丈集に彼の文章はなかった。件のペ

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ジ は 切 り 取 ら れ て 、 一片の断り書きが挟まっているだけだ。そして、﹁わし こ の 電 話 の あ と 、 な か っ た の か 、 らは顔を晒して活動している﹂と豪語していたはずの編 集員たちの写真は、見当たらない。

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くんの発言には物足らないところもあったけれど、 何 と 言 っ て も 彼 は ぼ く よ り 一 一 一 一 歳 と同年で、彼より前から活動していた友人と について朝まで語り合ったとき、彼が﹁ぼくだって、障 害者仲間の中でカムアウトするのは怖いよ。ゲイだと言 みんな去っていく﹂と肱くのを聞いた。 っ た と た ん に 、 彼でさえそんなことを感じていたのかと、胸を衝かれる 想いがした。ましでもっと若い

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死の決意が彼を衝き動かしていたのだろう。 動を始めたのは二十代前半、亡くなったのは三四になる 前だった。彼はこれからの人だった。

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鴨水記 マ ﹁ い ま か ら 一 O 年前、京都部務史研究 所の機関誌﹃こぺる﹄︵月刊︶が、ある 事情で廃刊されることになりました。 ﹃こぺる﹄はわずか一六頁の小冊子なが ら、部落史研究の成果をわかりやすく伝 えるだけではなく、部落問題の現状と課 題について率直に議論できる場として大 きな役割を来たしていましたので、その 廃刊を惜しむ声が自然とおこり、﹁なら ばこの際、力を合わせて自主発行しよう ではないか﹂ということになって﹁こぺ る刊行会﹂を発足させたのです。一口五 千円の基金の呼びかけには、予想をはる かにこえる人びとが応じてくださり、復 刊一号が発行されたのが九三年四月。現 在、発行部数は千部あまりで、雑誌名は、 京都部落史研究所の所長であった師同佑 行さんの命名によるもの。吉野源三郎 ﹁君たちはどう生きるか﹄の主人公コペ ル か ら き て い ま す 。 復刊にあたって、﹁使いなれた発想、 理論、思想の枠組みを問い直﹂し、 ﹁個々人の思索と実践の中から生み出さ れる問題意識をふまえ、部落差別を核心 にすえつつ、﹃人間と差別﹄をテ 1 マ に 、 現代の文化状況にも踏み込んだ誌面づく り﹂をかかげました。少なくとも部落問 題をめぐる息苦しい情況に風穴をあける という試みはある程度実現できたと考え ています。﹃こぺる﹄は、紋切り型の現 状把握への異論や部落解放運動への批判 的視点を提示する一方、差別・被差別の 二項対立的発想からの脱却︵資格・立場 の相対化、差別・被差別関係の対象化︶ という課題を提起してきましたが、今後 も こ の 方 針 を 堅 持 し ま す 。 こ と し 三 一 月 、 部 落 問 題 解 決 の た め に 三 一 三年間つづいてきた特別措置が基本的に 終了しましたが、部落問題はまだ残って います。どこに問題があったのかを問わ ぬまま従来の手法の継続・拡大をもとめ るかぎり、事態はよりいっそう錯綜する しかない。その意味では、自由で院かれ た議論の場としての﹃こぺる﹄の存在価 値 は 高 ま る も の と 確 信 し て い ま す 。 ﹂ これは、市民活動サポートセンター− アンティ多摩発行﹃市民活動のひろば・ 市 民 版 ﹄ ︵ 恥 5 、回・日︶に寄せたわた しの﹁こぺる﹄紹介文です。編集担当者 か ら の お 便 り に ﹁ 一 一 ひ じ 張 ら な い 、 現 実 に即して、立ち止まりながら、確かめな が ら : ・ と い う 感 じ ・ 印 象 が ど こ か ら 来 る のか、納得しました﹂とあり。復刊を発 起して十年、あらためて初心、初志をか み し め て お り ま す 。 マ前号本欄で引用した﹁朝日﹂の文章は ﹁天声人語﹂ではなく﹁社説﹂からでし た 。 お 詫 び し て 訂 正 い た し ま す 。 ︵ 藤 田 敬 こ ﹁ 人 間 と 差 別 ﹂ 研 究 会 の お 知 ら せ ロ月刊日︵土︶午後 2 時より 畑中敏之さん ﹁ 歴 史 ・ 教 育 ・ ア イ デ ン テ ィ テ ィ ー台湾で見たこと考えたこと﹂ 於京都府部落解放センター ー第二会議室 mO 七五四一五|一 O 二 六

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﹃ こ ぺ る ﹄ 忘 年 会 の お 知 ら せ 研究会のあと左記のとおり、忘年会 を開きます。ぜひご出席ください。 ロ月刊日︵土︶午後 5 時半より 於鳳一扇︵地下鉄鞍馬口駅より、烏丸 鞍 馬 口 交 差 点 を 東 へ 二 O O m 南 側 ︶ mO 七 五 二 三 二 二 五 五 三 会 費 五 000 円 ※ご出席の方は、ロ月 6 日︵金︶ま でに事務局あてにお申込みください。 こ ぺ る 刊 行 会 事 務 局 ︵ 阿 件 社 気 付 ︶ 肌 O 七五|四一四 l 八 九 五 一 編集・発行者 こぺる刊行会(編集責任藤田敬一) 発行所京都市上京区衣棚通上御霊前下ル上木ノ下町73-9阿件社 Tel. 075 414 8951 Fax. 075 414 8952 E-mail: [email protected] 定価300円(税込)・年間4000円郵便娠替 01010-7-6141 第117号 2002年12月25日発行

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忘れられた日本人

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1 序炭焼き小五郎のように 経歴の空白 学校教育と父祖の教え 向学心をもやして大阪へ 民俗 学 へ の歩み 二 つの教育運動 民間伝承の会の設立 戦時下の日本民俗学運動 同志向行派とともに ア チ ッ ク ミ ュ

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ゼアム 2 3

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ゆきたか

5 6 7 8 9 叩 篤 農 協 会 と新自治協会 日

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年安保と底辺派 ロ全共闘運動の渦中で 日 海 か ら 見 た 日 本 年譜

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定 価 ︵

阿吟社

京 都 市 上 京 区 衣 銅 遇 上 御 霊 曾 ︵ O 七 五 ︶ 四 一 四 | 八 九五一糊 一一七号 二 OO 二 年 十 二 月 二 十 五 日 発 行 ︵ 毎 月 一 回 二 十 五 日 発 行 ︶ 一 九 九 三 年五月二十七日第 三 種 郵 便

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