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龍谷大学学位請求論文2011.09.16 藤田, 真証「西吟教学の研究 : 近世初期教学の課題」

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西吟教学の研究

第一章

ー近世初期教学の課題

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相伝教学の研究

第一項相伝教学の再発見

相伝教学の教学的特色・:

第一項相伝教学の相伝形態 利雄論︿二門判釈) 仏性論 ﹃ し ハ 要 紗 ﹄ 批 判 第二項 第三項 第四項

第二節

第二項 第三項 第凶項 相伝教学の歴史(親驚から近世まで) 相伝教学の歴史(近世以降) 門主以外への相伝と廃絶 頁 一 七 頁 一 七 頁 一 九 頁 二 一 ‘ 頁 二七頁 三 一 一 頁 三二頁 三三頁 問一頁 四五頁

(3)

第三節

第一項 第二項 第三項 第四項

相伝教学の信態性

等閑視の要因 相伝教学の相伝記録と本願寺の相承記録との関係 相伝教学の﹃六要紗﹄批判と蓮知との関係 小結(相伝教学の位置づけを含めて) 相伝教学に関する教学展開の可能性

第二章

第一節

学寮創設と能化の意義

学寮の創設とその日的・

学寮の創設とその推移 第一項 第 ・ 一 項 第三項

第二節

学問奨励の機運 学寮における学問の意識

能化の選定とその意義

第 一 項 能 化 の 選 定 方 法 第二項 能化による学制の制定 五二頁 五 一 一 頁 五五頁 六二頁 六七頁 七

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頁 九七頁 九七頁 九八頁 一

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一 頁

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五貞

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五頁

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七頁

(4)

第三節 結

第三章

第 一 節 第 二 節 第 一 項 第 二 項

学寮と御堂衆との関係・・

j i -: : j i -: : : j i -御堂衆の歴史 御堂衆と学寮 との関係

西吟教学の検討

西吟の生涯と雪窓宗雀との交渉

第 項 第二項 第 三 項 第 一 項 第 二 項 第 三 項 西 吟の生涯 雪窓宗 濯の生涯(浄土教批判 を含めて) 西吟と雪窓宗 雀との 交渉 ︿ 付 録 年 表 ﹀

先行研究の概観

如来論 信願 論 - 7 一 ﹃ 一 回 周 ZZ 唱 . , , q -4 3 -4; -4;

-O

九 頁

O

一一一頁 一 一 五 頁 .二三頁 頁 三六 頁 凹 五頁 一 四七頁 一 五 三 頁 一 五 三 頁 一 五六頁 一 五 七 頁

(5)

第四章

第四項 第五項 第六項

第三節

第一項 第二項 最古

第一節

第一項 第二項 第 三 項 証果論 生活論(肉食妻帯・真俗二諦) 先行研究における西吟教学の評価︿研究史) 教 学 史 研 s、. 7t. 思 怨 史 研 究

西吟教学の検討

西吟の基本姿勢{論争過稗を通して) 関踏以前の西吟所説との比較(﹃普門品紗﹄の検討を過して)

の内容と酉吟

の資料的価値

承応の閲踏における﹃私観子﹄の位置づけ 東西本願寺における﹃私観子﹄の扱い 本論文における﹃私観子﹄の扱い -六一頁 一六三頁 ⋮六七頁 六七頁 日七.頁 一七五頁 一七五貰 .九二頁 二

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ハ 頁 二 三

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頁 二 一 ニ

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貞 -一 三 九 頁 二四一頁

(6)

第三節

れ い 土 ロ / 司 ψ 市 第一項 第二項 第二項 第一項 第二項 第三項

の構成と思想的特色

﹃私観子﹄の構成 ﹃私観子﹄の構成(﹃論註﹄との比絞を中心に) 二﹃私観子﹄飲用の﹃論註﹄刊本と治義方法 ﹃私観子﹄の引用典籍 ﹃私観子﹄における他宗教学の影響 天 台 寄 与 の 仏 教 国 惣 の 影 響 二、鎮西系統の議録依用の傾向 浄土教に対する批判への対応 回、口伝・切紙の問題

の著者に関する検討

本願寺の見解に対する疑問 西吟思想と﹃私観子﹄の内容との比較 西吟と﹃私観子﹄の切紙・口伝との問題 一 一 四 三 頁 一 . 四 三 貰 二四三頁 二五回頁 二五七頁 二六一頁 二六一頁 -一 六 六 頁 二六九頁 二七一頁 二七四頁 二七四頁 二 七 八 一 員 二 八 一 ニ 貞 二八九頁

(7)

第五章

第一節

西吟教学と出版の隆盛

日本における出版の発達と大蔵経

第一項 円本における出版の動向 大蔵経の出版と日本への影響 第 . 一 項

第一一節本願寺における出版の発達と大蔵経の収蔵

第一ニ節西吟教学と出版の隆盛

第二項阿吟の引用典籍と出版との関係 第三項 西吟の教学姿勢と出版との関係

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六頁 ニ

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六 一 良 コ二五頁 三二三頁 三 三

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頁 三 三 一

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頁 コ -四 五 頁 コ . 五 九 頁 三七四頁

(8)

頁 nHU

論註私観子

四五頁

①引用文は現行の通行体に改めて翻刻した。 ②引用文が漢文(白文)の場合、その後に筆者による書き下しを掲載した。 ③引用する典籍の略称は以下のように統一した。 ﹃ 古 典 宗 聖 教 金 書 ﹄ ﹃ 浄 十 ・ 真 宗 聖 典 ︹ 原 典 阪 に ー ﹃ 真 聖 全 ﹄ ﹃ 真 ・ 山 市 相 伝 義 香 ﹄ ー ﹃ 相 伝 務 審 ﹄ -﹃ 原 崎 問 販 ﹄ ﹃ 浄 土 宗 金 豊 富 ﹄ ー ﹃ 浄 金 ﹄ ﹃ 浄 土 真 宗 聖 典 ( 七 回 飽 篇 ) ﹄ ﹃ 浄 土 真 宗 聖 典 ( 註 釈 版 ) ﹄ i ﹃ 原 典 版 ( 七 祖 ﹀ ﹄ ﹃ 続 浄 土 宗 金 書 ﹄ -﹃ 続 浄 金 ﹄ ー ﹃ 注 釈 飯 ﹄ ﹃ 史 料 研 究 雪 窓 { 永 盗 │ 俸 と 国 家 と キ リ シ タ ン ﹄ 可 申 書 用 史 削 円 集 成 ﹄ ﹃ 市 長 宗 全 書 ﹄ ﹃ 新 編 真 宗 全 書 ﹄ ー ﹃ 真 金 ﹄ ﹃総谷大学仏教文化研究叢書却 ー ﹃ 雪 窓 ﹄ 彦 綬 務 伊 井 山 本 文 書 浄 土 ー ﹃ 史 料 集 成 ﹄ ← ﹃ 新 編 英 会 ﹄ 真宗異議相諭﹁承応の阿麟﹄を発端とする本願寺・興 正 寺 . 件 史 料 ﹄ ← ﹃ 異 議 絹 紬 宮 ﹃ 真 宗 大 系 ﹄ ﹃ 真 宗 相 伝 緩 書 ﹄ ← ﹃ 大 系 ﹄ ー ﹃ 相 伝 筆 書 ﹄

(9)

近年、日本仏教史研究は大きく塗り替えられようとしている。それはこれまで定説とされてきた、鎌倉新仏教 中心史観や近世仏教堕落論が見直されていることに顕著である。鎌倉新仏教中心史観と近世仏教堕落論とは、明 治以降に形成されたが、それらは時代と無関係に提唱された学説ではないことが指摘されている。 つまり、これ らは共に、近代化を達成しなければならない、明治という時代的要請の中で成立した歴史観であるとされるので ある。鎌倉新仏教中心史観は、その合理的な解釈や神祇不搾が近代的宗教観として評価され、近世仏教堕落論は、 前代の江戸時代を否定することで新たな近代化を目指したものとして受け入れられて、定説化したものとされて 、 a ' 、 a ' F

LVM ﹄ C 日本仏教史研究には、右のような二つの大きな歴史観があったが、それらは次第に見直されるようになり、現 代では、さらに大きな視点から各時代の仏教史を捉え直す作業が行われている。近代思想を追い求める必要がな くなった今、新たな歴史観が形成されようとしていると見ることができる。 ここでは特に、近世仏教堕落論についてだけ述べておこう。近陛仏教堕落論は、辻善之助氏(一八七七

5

一 九 五五)によって大きく印象付けられた.官その影響は現代仏教を、江戸時代以来の寺檀制度の上にあぐらをかい て、葬式仏教としてしか機能していないとする批判にも見られる。しかし、辻氏が提唱した近世仏教堕落論は、

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研究が進むにつれて検討の対象となっていった。近年では、地域の民衆における仏教受容を研究対象とする、児 玉識氏 . y や 奈 倉 哲 一 一 一

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有元正雄

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揮博勝

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引野享輔 4 などの各氏による研究成果が報告され、近世仏教堕結論 は大きく見直されている。彼らの研究は、近世真宗が庶民の中に生きた仏教であったことを証明するものであり. その成果によって、近世仏教を単に堕落したものと捉えることが誤りであることが認識された。以上のように、 辻氏の近世仏教堕落論は.近年の研究によって見直されるようになり.学界の方向性も近世における仏教の意義 を見いだすものへと変化している。 ところで、真宗学の分野の一つに真宗教学史というものがある。それは親鷲以後の思想・教学の展開を歴史的 に追求するものであり、前回慧雲氏ご八五七 t p 一 九 三

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や普賢大国氏(一九

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一九七五)などによって -2・ 大成され、今日でも常に参照される輝かしい研究成果である。彼らによって、近世真宗教学は体系的にまとめら れ、その雁史的展開も明らかにされた。近世仏教教学史の中では、最も研究の進んでいる分野と言えるだろう。 し か し 、 その成果が偉大すぎることもあってか、真宗学内では、それらの研究を再構築して新たな真宗教学史 を描くことができていない現状がありはしないだろうか。そのような真宗教学史研究の現状とは対照的に、歴史 学の分野では、近世真宗教学史への新たなアプローチとそれによる新たな見解が報告され、活発な議論が行われ ている・=しかし.それらの歴史学者による近世真宗教学史の成果に対しても、真宗学からの反応は見られない

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つまり、辻氏の近世仏教堕落論以米、歴史学の分野では辻氏の説を克服すベく、近世真宗教学史の研究が進めら れたにも関わらず、真宗教学史研究は、それら歴史学者の研究を生かすことなく停滞している現状があるのでは

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な い だ ろ う か 。 筆者は、真宗教学史の研究と歴史学の研究成果とを関連付けることで、新たな真宗教学史を錨ぐことはできな いか、そのような視点で研究に臨んでいる。本論文はその展望の一つである。 本論文では、右のような視点から近世初期の真宗教学に注目した。その際、題材として用いたのが本願寺派能 化 で あ る 西 吟 ご 六

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五 4 3 一六六三﹀の教学である。西吟は本願寺の教学を担う能化でありながら、狙自の教学 を形成したことで知られ、 その独自性ゆえに‘ 兄弟子の月感(一六

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一六七四)から批判を受け、承応の閲 鮪と呼ばれる論争を引き起こした人物として有名である。 凶吟教学に関する研究は、真宗教学史の分野とは別に、歴史学者による研究も進み.近世仏教思想史の中で注 -3・ 目されている(詳しくは第三章で述べる﹀。思想史研究の指摘は、西吟が独自の教学を構築した理由を追及する ものであり、近世の中に彼の思想を位置づける作業が行われている。筆者もそれらの方法論、 つまり、彼の独自 性を時代の中に位置づけることを目的としている。それによって、先に述べた新たな近世真宗教学史を描く端緒 としたいのである。 さて、西吟教学の背畏には様々な指摘が見られるが、本論文の視点を述べておく。西吟教学の研究では、承応 の閲摘で議論された内容のうち、﹁自性﹂や﹁理﹂を真宗内に混入したことが問題にされる。 ここに言う﹁自性﹂や﹁理﹂とは、 自性ノ名義ヲカタラハ、 コレ人人具足スル心体ナルガユへニ、是ヲ自性トイフ。自性ハ他ニ依テ求ズ。本有

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牛得ノモノナレハ、 コレヲ自性トナヅケタリ。 凡夫ニ在テモ、仏ニ在テモ不増不滅・不去不来ノモノナリ。 コノ自性ヲ仏性トモ、真如トモ、法性トモ、実相トモ‘平等性トモ、-小康妄性トモ、不変性トモ、減度トモ、 浬鰻トモ、義二随テ釈迦、種種ノ名字ヲ説リ。我宗ノ証果モコノ名義ヲイデサルナリ・ 5 と、西吟が﹃客照問答集﹄に示しているように、仏にも衆生にもあるとする真実性(悟り)そのものを言う・=。 ではなぜ真宗において、右のようなソ自性﹂や叶理﹂を混入する教学が問題とされるのか、少し説明しておこ う。そもそも、﹁自性﹂や﹁理﹂が意味している真如︿悟り)そのものは、人間の認識を越えたものとされ、﹁法 身はいろもなし、 かたちもましまさず、しかればこ﹄ろもおよばれずことばもたへたり・ 5 ﹂と表現される。その ような真如は、煩悩を具足した凡夫の認識対象にはなりえない。 七高僧の一人である善導は、﹃観経﹄の﹁像観﹂について、 ノ ハ シ ク シ ヲ テ 一 、 ヲ セ シ メ テ ヲ ラ シ ム ヲ -一 ア サ ヲ ニ 目 、 シ メ / ノ ヲ テ 文今此観門、等唯指レ忘立レ相、住レ心而取レ境。総不レ明一無相離念一也。如来懸知ニ末代罪濁凡夫一、立レ ヲ セ シ メ テ ヲ ト ハ ル a ユ ヤ レ テ ヲ メ ン ハ ヲ キ キ ノ テ ニ -テ 一 ン ガ ヲ 相住ル心、尚不レ能 L 得。何況離 b相而求レ事者、知下似無一術通一人、居レ空立 e 舎 也 。 . z -4・ と述べている。ここでは、﹁無桐離念﹂として真如を直接的に観察することが不可能な凡夫のために、阿弥陀仏 が西方に浄土を建立し、衆生を悟らせようとしたとしている。 つまり、仏教としては真如を見つめることが前提 だと主張してみても、 その修行能力がない凡夫にとってみれば、一説果も得られない無意味なことだと言うのであ 9 -フ E ヨ ガ ヲ る。そのことは、善導が﹁善自思=量己能一三﹂と述べ、続鷲もそれを﹃教行信証﹄に引用しょ T 自らの言葉とし ても述べていることとも通じているよ雪

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親鷲は自性について、﹃顕浄土真実教行証文類(以下、 ノ ﹃ パ ン ノ h r ヅ ミ テ ・ -ヘ ン ス ノ ヲ 末代道俗、近世宗師、沈一一自性唯心一庇﹂浄土真証¥ 教行信-証とする)﹄の中で以下のように述べている。 マ ド イ テ ノ エ ク ラ シ ノ ニ 迷 ニ 定 散 自 心 一 昏 一 金 剛 真 信 ・ 。 ・ = ﹁自性唯心﹂とは、自分の本性が阿弥陀仏・浄土であり、 それ以外に仏や浄土はなく、 西五の浄土も仮に説かれ ただけのものとする理解である。親鷲は右の文で、その自性唯心に沈むことは、浄上門の証果を毘めることにな ると再定しているのである。ここで注意すべきことは、何も親驚は、自性唯心そのものを否定しているのではな く、それに沈むこと つまり、聖道門の法である自性唯心にこだわって、真宗の安心を取り違えることを否定し ているのである。その意味において、真宗の安心では自性唯心が否定されるのである。 親鷺のこれらの思想内容から、 西吟の主張するような﹁自性﹂や 1 理﹂を議論・探求することは否定され、た 5 -だ阿弥陀仏の本願力をたのむ信心によって往生することが宗意安心とされる。よって、承応の閲踏では西吟の安 心が厳しく問われ、月感によって真宗の安心を取り違えた異義と批判されたのである。 承応の閥腕では、様々な問題が取り上げられて論争が繰り広げられた。それは右に述べたような、 西吟による 自性などの理の面に関わる問題が中心であった。しかし、それ以外にも注目すべき様々な議論が展開されている。 例えば、西吟と禅僧である雪窓宗寵との関連や、老荘思想と西吟との関連などが指摘できるが、本論文では﹁師 伝 口 業 ﹂ の問題を中心にして、西吟教学の背景を考察していきたい。 ﹁ 師 伝 口 業 ﹂ と は 、 口伝えによる法義の相承を意味するが、承応の閲臆では、 同吟が﹁師伝口業﹂を否定した として批判された。このことからも、 丙吟当時には口伝えによる相承が行われていたことが知られる。

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そもそも真宗において、法義の相承がどのように行われていたかと言えば、聖教の伝授が大きな意味を持って 展開してきた。以ド、 それらを広義の聖教伝授と狭義の聖教伝授とに分けて定義しておこうよ雪 広義の聖教伝授とは、法然から親鷲に﹃選択集﹄の相承が行われたように、聖教を書写して下附することで法 義を相示することをいう。この形式については、親驚も行っていた形跡が見られるが.寺後の真宗教聞において も、聖教の伝授は歴代宗主によって行われてきた。その際、下附された聖教は秘伝化され、他見を許さないとす る文言が付加されることもしばしばであった。本論文では、このような聖教の書写をもって、法義を伝達するト刀 法を広義の聖教伝授と定義しておく。 次に狭義の聖教伝授とは、聖教の下附だけでなく、各聖教の訓読や内容を伝授されることをいう。古くは覚如 ( 一 二 七

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一三五こ・存覚(一二九

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一三七二 の時代に見られ、応長元(二一二一)年、越前大町の如 -6・ 道に対して﹃教行信託﹄の講談が行われたことに見られる.苦そのことは、時代が下った蓮如(一四一五

1

一 四 九九)の時代にも頻繁に見られるようになる。例えば、司蓮如上人仰条々﹄には、鹿間房龍玄が蓮如から﹃教行 信託﹄を伝授され、宗主の子弟に相承したことが記録されている・

2

また、近世初期に至っても行われていたこ とが、祐俊の﹃法流故実条々秘録﹄に記されている・

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ただ、この際に語られた内容は、聖教の訓読であるのか、 法義の内容であったのかは判然としない。ただ、如信から口伝を受けた覚如が、﹁弘安十年春秋十八といふ十一 月なかの九日の夜、東山の知信上人と申し賢哲にあひて釈迦・弥陀の教行を画授し、他力摂生の信託を口伝す . M M ﹂ と述べていることからも、何らかの法義に関することが語られた可能性も否定できない。本論文では、以上のよ

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うな訓読であれ法義であれ、何らかの口伝えによる相思が行われることを狭義の聖教伝授と定義しておく。 以上のように、広義・狭義の聖教伝授は、親鷺以後の本願寺において行われ、 それらは特定の人物に相率され る形式をとっていた.この中、特に狭義の聖教伝授には、 その内容が訓読であれ法義であれ、何らかの U 伝えに よる相承が行われたのであり、ある意味、免許皆伝の窓味を持って権威化していった。承・似の閥摘で議論された ﹁ 師 伝 U 業 ﹂ と は 、 その論争の内容から狭義の聖教伝授のことと考えられる。そして、 その﹁師伝口業﹂を否定 したと批判されたのが西吟だったのである。 ﹃古今和歌集﹄の研究では、その内容を口伝えで相承することを古今伝授と呼び、﹁中位における知の所行・ E ﹂ と位置づけられている。そして、 その古今伝授は.近世を迎えてからその形態を変えていったことが指摘されて ー7・ い る 。 その変化の原因について、小高道子氏は、 これらの変化の背景には、出版の発達もあげることができよう。後水尾院から後西院への相伝の一二年前の寛 文元一六六.)年には﹃耳底記﹄が刊行されている。堂 L L 歌 ・ 坦 の み な ら ず 、 地 下 歌 壇 に お い て も 松 永 貞 飽 ( 一 五 七 一

1

一 六 五 一 三 ) や そ の 門 弟 等 の 注 釈 書 が 板 行 さ れ る に 及 、 び 、 秘 伝 の あ り ト 刀 も 変 化 せ ざ る を 得 な か っ た 。 講釈と講釈問書の整理を中心にした秘伝の継承方法は、ここで大きく変化したといえよう・

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内は筆者主 と述べ、近世に隆盛した書籍の刊行が、﹁中併における知の所行﹂を変化させたと指摘している。また、横田冬 彦氏は、書籍の刊行が江戸時代の学問観に与えた影響について、以下の三点を指摘している。 第一に、知識や学問が、特定の家や身分に閉鎖された、 それまでの中世的な﹁古今伝授﹂、 一子相伝の口伝

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や写本伝授という形で秘されるのではなく、﹁群集のなかにて﹂公開されたこと。さらにそれらが講義録(﹁抄 物﹂)などとして、誰もが読むことのできる書物として出版されたこと.第二に、﹃新註の四番﹄に見られ るように、その内容そのものが権威や伝統にとらわれず.新しい知識を取り入れて革新されていくものにな ったこと。そして第三に、 そうした知識や学問のにない手も、従来の家学から﹁若き人々﹂へと解放された こと。こうした点において、この公開講義(慶長八︹一六

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三︺年の松永貞徳と林羅山の古典公開講義﹀は、 まさに中世の﹁秘伝﹂から近慌の﹁書物﹂ と な っ た の で あ る ・ 5 へという、知識と学問をめぐる文化的環境の転換を象徴する事件 ︹{﹀内は筆者註︺ このように、近世に隆盛した書籍の刊行は、中世的な知とされる U 伝を否定して新たな体系を構築する刺激剤と 国 8-なったことが指摘されている。ならば、承応の閲踏で議論された﹁師伝口業﹂の問題は、中世的な知の体系であ る口伝を再定し、新たな教学体系を構築しようとする西吟の諜題を明らかにするものではなかったかと考えられ る。以上のことから、本論文では、 前吟教学と当時の出版状況とを重ね合わせ、そこから見えてくる西吟を代表 とする近世初期教学の課題を明らかにしていこうと思う。本論文の題名を、﹁西吟教学の研究﹂とし、副題に﹁近 世初期教学の課題﹂とした由縁である。 以上のように、本論文では承応の閲踏で議論された﹁師伝口業﹂の問題を契機に西吟の教学を取りあげ、近世 初期教学の課題を明らかにしていく。以下、各章の内容を概説しておこう。

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第一章では.狭義の聖教伝授である口伝を相伝していると主張する相伝教学を取り上げた.相伝教学を取り上 げた理由は、本論文の主題である近世初期教学の課題を明らかにするためには、それ以前の教学内容と比較する 必要があるからである。教学史研究においては、蓮如から戦国期以前の教学内容は不明とされているが、その間 には狭義の聖教伝授が行われていたことが史料に記されている。その内容を相伝していると主張する相伝教学は、 本論文にとって非常に興味深いものである。本草では、第一節で相伝教学の由来を紹介し、第二節でその教学的 特徴を論じ、第=.節でその信悪性を検討した。なお、本章においては、引用した典籍以外では、相伝教学の主張 する教義の相承を﹁相伝﹂とし、 それ以外を﹁相承﹂として区別することにする。 うかは本論に譲るが、 第二章では、学寮創設と能化との意義を論じた。前章で紹介する相伝教学が狭義の聖教伝授の内容であるかど そのような U 伝が重視される伝統が権威化されていた本願寺教団において、公の場で法義 -9・ を伝える学寮を創設し、能化を崖く意義は何だったのか、 そのことを問題にしていぐ。本章の第一節では学寮創 設の意義を論じ、第二節では能化の選定方法とその意義を、第三一節では本願寺御堂衆と学寮との関係を論じた。 第三章では、具体的に西吟の教学内容を論じた。第一節では、 問吟教学の背景として指摘される禅僧の雪窓宗 雀との関連を彼らの伝記を紹介しながら検討した。次に第二節では、西吟教学を全体的に見るために、先行研究 で指摘されている行信論などの各論を概説した。また、本節では丙吟研究の成果についても、真宗学者による教 学史研究と歴史学者による思想史研究とに分けて論じた。次に第三節では、西吟教学の背景を探る上で重要な、 西吟の教学姿勢を中心に論じた。先に述べたように、西吟は﹁師伝口業﹂を否定して、﹁自性﹂や﹁理﹂に言及

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する教学を確立した。その教学姿勢はどのような意図によって確立したのか、 西吟の主張を明らかにしてい く 。 第 四 章で は 、 承応の閲婚で月感が 商吟批判の根拠 にした﹃私 観 子 ﹄ について 検 討した。﹃ 私観 子﹄は 、こ れま で未発見の資料であったが、筆者 はたまたま手にする機 会に恵まれた 。 第一節では . 本書 の資料的価値を論じ 、 第 二節ではその構成と思想的な 特徴を、第三節では承応の関脇 で 問題 にされた﹃私 観子﹄の著者について検討し た。なお 、 本書は 当時の 学寮所化の聞に流布していた講義聞書 であるこ と か ら 、 承応の閲踏における資料として 価値を持 つだけでなく 、当時の所化の学問観を知る上でも貴重 な 資 料 で あ る 。 第五章で は、第 三章・第四章で述べてきた、西吟教学や﹃私観 子 ﹄ と 当 時 の 刊行物との関連を検討した。第一 節 で は 、 日 本における出版 の歴史と大蔵経の編集・収蔵とを論 じ、第 一 一 節 で は 本願寺における出版と聖教の刊行 ー10・ とを論 じ、第三節では西吟の 著作に引用される典籍と当時 の刊行物との関 係 を検討 し た 。 以上、本論文では五章に亙って 西吟教学の背景に ﹁ 師 伝口業﹂と当時の刊行物とを 想 定 し、近世教学の萌芽 で ある近惟初期教学の課題を明らかに したいと思 う 。 ヱ末木文奨 士﹃ 鎌倉 仏教展 開論 ﹄ ( 二 O 頁 ) 。 情 M 辻器開之助﹃何本仏教史 ﹄ ( 近 世 第 之 四 ) 参 照 ・ よ児玉議﹃近依実家 の 展開過程 l 凶 日 本 を 中 心 と し て l h ﹃ 近 世 実 家と 地 域社会勺

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よ奈倉笛三﹃真宗信仰の思想史的研究│越後務原門徒の行動と足跡 l L ﹃幕末民衆文化異聞│貞宗門徒の四季 l ﹄ ・ ぷト伺元正雄﹃近世日本の宗教社会史﹄吋宗教社会史の構想 l 真宗門徒の信仰と生活│﹄﹃東京の宗教社会史九 4降 0-t華 fi; 勝 ‘骨 近 世 の 司て 教 組 織 と 地 域 主t .c..

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教 屈 仰 と 民 間 { 言 仰 近 世 河言

.o. z言 論 c6 3 引野手翰﹃近世宗教世界における普遍と特殊 l 真宗信仰を素材として l ﹄ 。 品例えば、本論文に関連する丙吟に関して言えば、大桑斉氏の見解に対して、児玉識氏が反論していることなどに見られる。これらの議論 に闘して、真宗学側からの反論や言及は、管見の限り見られない.両者の主張内容については、第三・挙で述べる・ 占 担 陣 捕 阿 勝 氏 は 、 ﹁ 近 世 民 衆 の 仏 教 知 と 信 心 ! 真 宗 門 徒 の ( 知 } j ﹂において、へそれはまた、近世の仏教知に関する研究が、 一 部 の 学 僧 倒 人 の研究を除くと、ほぼ真宗研究の狼周期であるという研究状況をふまえたものでもある。しかし、これらの先行研究では.(知﹀の源泉とな る一.教え﹂(広義の教畿)を創造・認定・発信する教団の例究と、それを受容する民衆側の研究が.うまくリンクできておらず.むしろお互 いの議論にはほとんど注意がはらわれていないという課題を残している﹂と指摘している・ ー1 1-二 。 ﹃ 客 照 問 答 集 ﹄ 巻 上 、 -一 六 丁 。 ニ-﹃伺右﹄では、後に﹁聖道門ノ人ハ、ワレト一心自性ノ製ヲ州市得テ、成仏セントテ修行工夫ヲナスコトナリ@浄土門ノ行者ハ、ワレトコ ノ・心自性ヲ倍ラザレドモ、弥陀ノ願ヲタノミ、山門方往生ノ願ヲタテ、 -心ニ念仏スレハ 一心自性ガ他力仏智ノ-心ト成テ、彼国ニ往生 シテ、法性心ヲアラハス。然ラハ、山富山道モ浄土モ、所詮ハて心自性ノ型ヲアラハサン為ナリ﹂{巻 k 、二七 T ) とあ

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、﹃理﹂を悟りそのも の、﹁自性﹂を山県生の本位という滋味に分けることもできるが、ほぽ同義に般っている・ 二 N ﹃ 唯 信 紗 文 滋 ( 異 本 ) 札 { ﹃ 真 堅 金 札 巻 一 -、 六 四 八 -良 ・ ﹃ 原 典 版 ﹄ 八 O 三 頁 ) 。 ニ 凶 ﹃ 観 経 凶 帖 疏 ﹄ ( ﹃ 真 聖 一 会 ﹄ 巻 二 五 一 九 頁 ・ ﹃ 原 典 版 ( 七 組 篇 ) ﹄ 四 八 九 質 ) ・

(20)

ニ h p ﹃ 往 生 礼 讃 ﹄ ( 吋 真 m u 全 ﹄ 巻 て 六 五 一 一 頁 ・ ﹃ 原 典 版 ( 七 組 篤 ) 札 七 四 三 質 ) 。 ニ M ﹃ 教 行 信 託 ﹄ ( ﹃ 真 型 金 ﹄ 巻 ・ 一 、 七 四 回 目 ・ ﹃ 原 典 版 ﹄ 一 二 一 一 一 頁 ) 。 ニ 品 ﹃ 阿 布 ﹄ ( ﹃ 真 刑 事 全 h 巻 二 例 七 貞 ・ 可 原 典 版 ﹄ 四 八 一 -良 ) 。 ニ 寸 ﹃ 同 布 ﹄ ( ﹃ 真 塑 全 ﹄ 巻 二 、 四 七 頁 ・ ﹃ 原 典 版 ﹄ 二 七 ハ 一 頁 ) 。 ニ国広義と狭義に分ける方法は、浅井 f 宗﹁本願寺派に於ける m u 殺出版の問題﹂を参考にした・ ニ唱宮崎円遵氏は﹃真宗の歴史と文化 h の中で、﹁規制轟聖人が、法然上人から選択集といういちばん大切なお聖教を写すこと許された時に、 御影をも与すことを許され・製人が専信に数行信・ 4 を写すことを許すと、やはり御影をも写さしめているわけであります﹂(七五頁)と述べ ており、﹃選択集﹄の相伝と吋教行信託 h の相伝とが同じ方法で行われてたことを指摘している・ d o なお.その際には﹁脇棋の御形﹂も携行されたようで、法然から綬樹脂への吋教行信託﹄の相承を紛徐とさせる・(﹃憎補改訂 本 願 寺 史 幅 【 1 2-巻 -七 五 頁 ) d H ﹃ 蓮 如 上 人 仰 条 々 ﹄ ( ﹃ 史 料 集 成 ﹄ 巻 ・ ; 四 八 七 頁 ) 。 d N ﹃ 法 流 政 実 条 々 泌 録 ﹄ ( ﹃ 新 編 真 金 ﹄ 史 伝 篇 一 O 、 二 百 五 頁 } ・ d u ﹃ 首 都 保 絵 詞 札 巻 三 ︿ ﹃ 真 由 治 全 ﹄ 巻 三 、 七 七 九 百 貝 ) a 発 N 晶叫日本歴史大事典﹄の﹁古今伝同氏﹂の項に﹁中世における歌道伝授の一町形式。師匠が﹃古今和歌集﹄を講釈し.肝要な部分(秘説)を切 紙に書き記して弟子に伝幽閉する・伝国際の形態が形式化するのは室町後期. 一四七.年(文明三)商用待縁から京極への伝綬以後で、このよう な飲道伝綬の端緒は、 一一世紀後半 S 一三世紀前半の貴族歌人間での歌学の盛行にさかのぼる・ -一 . 世 紀 後 半 ず に な る と ・ 六 条 家 、 御 子 左 中 森 などの﹁歌の家﹂が登場し、家の説を弟子に伝侵するようになる・ 一三世紀以降は.二条家が歌道の宗匠家としての地位を確立し、その欽

(21)

晶 子 が 相 承 さ れ て ゆ く ・ 4 宵 今 和 歌 集 ﹄ l 世劇叫 J 中世叫和紀﹂や州組説などと痴くかかわり.中世における知の所何というべきもの対ある。﹂ ︿ 渡 辺 匡 日 ﹀ と あ る ・ -N M 小高進子﹃御所伝受の成立と股閲﹂. d a 横田冬彦編﹃知識と学問をになう人びと﹄、 頁 13

(22)
(23)
(24)

-第一章

(25)

第一章

相伝教学の研究

第一節

相伝教学の由来

第一項 相伝教学の再発見 浄上真宗の教学を、体系的に理解するいわゆる宗学・ F は、親鷲の著作を基礎としながら、長い歴史のなかで形 それ以後大きく発展することはなかった。しかし、聖教の伝授については、﹃蓮如上人仰条々﹄や﹃私心記﹄な -17・ 成されてきた。宗学の萌芽は.存、覚(一二九

03

二二七三一)の﹃六要紗﹄や﹃選択註解抄﹄などに見られるが、 どに記録が残されている。そのことは、慶間房寵玄が蓮如から﹃教行信託﹄を伝授され、宗主のチ弟に相承した ことなどから知られている・

z

ただし、その具体的内容を記した史料は現存せず、先行研究においても﹁宗学の 研鏑とはいえないにしても、学問的精神を酪成せしめる基盤として否定すべ︿もないであろうよ﹂と言われる程 度のものとされている。 つまり、先行研究おける宗学の形成は、存覚にその萌芽を見たとしても、蓮如以後が空 白期とされるのである。 ここに宗学空白期に相伝されたとされる教学がある。相伝教学である。相伝教学は、蓮畑がそれまで相伝され

(26)

てきた教学が絶えないようにと伝播を広げて残 した教学 とされている 。 そのことから、存覚以後の京学空白期を 埋める教学として注目する学者もあるよ。 相伝教 学の 内 容は﹃真宗相伝義書﹄﹃真宗相伝叢書﹄( 以 下 、 それぞれ ﹃相伝義書﹄﹃相伝叢書﹄とする)から 知ることができ る が 、 一部の研究者以外には注目さ れ て お ら ず ・ T 広瀬南 雄氏 が、相伝家である暗慶

(

1

一 七-八)の教学内容を紹介す る程度にしか触れられて い な い . 宮 相伝教学 は、真宗大谷派の 足利演正氏︿一九一

0

3

.

九八凶) によって発掘 され、足利氏を中心とした相承学 園によって 研究されて きた 。 相承学園は足利氏のカリフォルニ ア大学出講など で 一 時 中 断 し た が 、 昭和五二 九七七 )年に足利氏が帰国し て、高原覚止・近松挙一-嶺藤亮・高島 洗陽 ・ 藤元正樹・柴 田秀昭・広瀬埋らの各 氏が加 わって﹃相伝義書﹄学習の 場として再開されたという 4 。その成 果 が﹃相伝義書﹄で あ る 。 ﹃ 相 伝 義 書 ﹄ は 、 -18 -足利氏 と当時の宗務総長であった嶺 藤亮氏とが旧知の仲で あったことから、大谷派本願寺に おいて出版されるこ ととなる。大谷派本願寺が出版を担当したことにより、編纂業務は大谷派真宗教学研究所へ移さ れ、藤 元正 樹 ・ 柴田秀附の 二 氏によ っ て編纂作業が進めら れた。﹃相伝義 書 ﹄ の第 一 同配本は、昭和在 三 ( 一 九七八 )年に始め られ、金 一 二 巻で構成されている.相伝教学の内容は後に取り上げるが、その内容は ﹃ 曽我教学を裏 付け る も の ﹂ と さ れ 晶 、 一 般的な近世宗学とは趣を異にしている。 一 方 、 ﹃ 相 伝 叢 書 ﹄ は 、 ﹃ 相伝義書﹄を再編集して出版したもので、全十九巻となっているま出 版 元は大谷派 本願寺から相承学闘へと移行され、ト刀丈堂 出版の協力を 得て出版された。

(27)

第三項 相伝教学の歴史(親鷲からの近世まで) 相伝教学の教学内容は第二節に譲り、ここでは相伝家である真宗寺超尊真昭二七三一

1

一 七 八 三 ) の﹃安永 勘進﹄などに依りながら、相伝の由来と歴史とについて述べておこう@ 相伝教学の柑伝は、教学を受けるぶ面白星﹂が重視され、 その伝統は親鷲以後からあったとされる。以下、相伝 教学の雁史の中、最初に親驚から近世にいたるまでを見ておこう。 親鷲は、法義を師弟に伝えようとしたが、嫡男の範意は早世、次男の善鷲は異義であったことから、他の者に 相伝しようとしたという。 しかし、﹁ソノ余ハ授法ノ御器量ナク候ユヘ。第七ノ御女メ覚信尼公ト。御孫如信上 人 ト ヘ 法 、 肱 御 相 承 ・ 5 ﹂したという e その後、第二代如信(一二三一九

5

一 三

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O

)

は﹁如信ノ御子多ケレトモ。 ソ -19・ ノ御器量ナカリシユへニヤ。法脈ノ御棺承口伝。井本廟寺務ヲハ譲リタマハス。法義ノ器ヲ鑑察マシマシテ。法 肱井寺務ヲ覚如上人へ御付属

J

し、第三代覚如(一二七

03

一三五二は、﹁御嫡子存覚

l

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ハ。博学広才ノ人 ニテオハセシカトモ。法義相違ユへ。両度御勘気有レ之。ゴパ一ベ河口故ニ御寺務ヲモ譲リ玉ハス。法肱ヲモ御次男 従覚上人へ御付属﹂し、従覚(一二九五

1.4

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)

から第四代善如(一三三二一

5

.

三八九)、第六代巧如(一 三七六

1

一 四 四

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第七代存如(一三九六

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一四五七)、第八代蓮如(一四一五

5

一 四 九 九 ) へと‘歴代の門 主に相伝されたとする。ここまでを図示すれば次頁のようになる。

(28)

親鷲

11

1

覚信 尼 一 ③

l 如 信

11

1

覚 如 │ │ ﹂ 1 : 存覚 ﹁ ー 従覚 善@ 知 巧⑩締⑤ 如 如 1 安 │ 朱

存∞聖

は 脱 文 蓮@ ~n 特殊 な教学 が相伝され た かどう かを 別にすれば 、蓮如までの相伝 について 、特異な面は見い 出せない。相 伝教 学の特徴は、 蓮如以後に見 ることがで きる@ 祖師聖人ヨ リ面授

μ

決 ノ 。 真宗相承ノ 大事ハ 。知信 上人 ヨリ蓮如 上人マ テ ハ 。 本山御別当職 唯 授 一 人 ノ御日 20 -伝ナリシヲ 。蓮如上人尊 慮ヲメクラ サレ。末代ニ 至リ.万一本 山断絶 スルコ ト アラントキ ノタ メトテ。御連 枝御 一 族ノ 内 ニテ。法義ノ器量ヲ 御 見立アソ ハサレ 。御口伝ヲ 御 分チナサレ。御本書相伝ノ家ヲ 御 立ナサ レ 候。常楽寺光信顕証寺山連淳教行寺建芸光善寺光淳ナリ。是五箇寺ノ 始 ナ リ ・ 5 ﹃安永勘進 ﹄に依れば、相伝教 学は 蓮如まで一子相伝 の教学とし て残されていた が 、 その断 絶を憂いた蓮如に よ って、光 信(常楽寺)・蓮淳 ( 顕 証 寺)・蓮芸(教行寺 )・光淳 ( 光 蕎 寺 ) の四人に 相伝 が 広げ られたという。 ﹁ 是 五箇寺ノ始ナ リ﹂とす るにも関わらず、 四箇寺し かあげら れ ていな いのは、蓮 如 の 長子である 順如(一四 回 . 一

1

一 四 八 一 ニ ) が加えられるから で あ る 。 蓮知から相伝された人物を見ると、越知の先々代巧如の甥である常楽寺光信(蓮覚、

3

一 四七七 )、光信の息

(29)

子である光善寺光淳、蓮如の十三子である顕証寺蓮淳︿一四六四

1

一 五 五

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)

、 蓮 如 の 第 -一

l

子である教行寺蓮 芸(一四八四

1

.

五二三)の四人であり、蓮如と血縁関係にある人物である。 五箇寺が出来たことにより、相伝の方法に以下の三つが生まれたという。 -つ目には、門主から直に新門へ相 伝される﹁直伝﹂(的伝・竪の相伝ともいう)、二つ目には、 五筒寺などの門主以外に相伝される﹁僅伝﹂(横の 伝授・陰役・傍人の口伝ともいう)、一二つ日には、門主の早世などによって直伝が不可能な場合、笛伝を受けた 五箇寺から新門主へ相伝される﹁返伝﹂ の 三 種 類 で あ る 。 以下、蓮如以後の相伝の系譜を見ていこう。 最初に、本願寺門主への相伝を見ていくと、第八代蓮如から第九代実如(四五八

1

.

五 一 . 五 ) に 相 伝 さ れ 、 -21・ 実如は次男である円如'(一四九

-1

.

五二一)に相伝を行ったという。しかし、円知は三十歳という若さで亡く なってしまう。実如は円如の早世に相伝教学の危機を感じたのか、先の五家に加えて称徳寺実賢(一四八九

1

一 五二一二)と瑞泉寺実悟(一四九二

1

一五八三)、本善寺実孝三四九四

1

一 五 五 三 ) の宍人にも相伝を広げたと される・5実如は次の棺伝者を選ばなければならなかったが、実如が死去した時には第十代証如二五二ハ

1

一 五五四)はわずか十歳であったため、実知からの直伝は叶わなかった。ここに初めて五箇寺から新門主への 返 伝﹂が行われ、天文五(一五三六)年に蓮淳から証如へ返伝したという。その際、順虞寺実従(一四九八 4 3 一 五 六四)と光善寺実玄とが相伴僧として参加し、これによって順興寺は五箇寺に加えらたという。また、証如から 第十一代顕如で五四三

3

一五九二﹀には直伝が叶わず、順興寺実従から顕知に返伝され.顕如から第十二代教

(30)

如 ( 一 五五八

1

一 六 一 四 ) には直伝であったという。 第三項 相伝教学の歴史(近世以降) 第 十 一 代顕如以後、本願 寺は次男准如が率いる本願寺派と、長男教如 が率いる大 谷派とに分派する。分派以後‘ 両派とも に相伝教学の系 譜は大きく変化していく。以下、近併にお ける 相伝の系譜を述べておこう。 本願寺 振では、顕如の後 を継いだ第十二代准畑(一五七七

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一 六 三

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)

は 本善寺証珍からの返伝によって相伝 を受けたと い う 。 し か し 、 第 ト 一 一 -代 良 知 ( 一 六 二

-1

一六六二) の 相 伝 に つ い て 、 明確に語る史料は残されてい -22 -ない。相伝教学の史料では、本願寺派の相伝について 西派本廟は良如上人に断絶し、 A I にては本末共に断絶せり・ 5 と述べられている 。 ﹁良知上人に断絶﹂と述べてはいるが、これでは良如が受けてからの断絶であるのか、良如 が受けなかったための断絶であったのか不明確である。また、﹃相承伝授記録 ﹄ に は 、 西派は、准如へ本善寺証珍より返伝せり。其の後の事は知らず・ま とあり、良如の先代である准如の後について言及していない。このように、史料の上から准如以後の相伝につい て明確にする こ とはできない。ただ、良 如は相伝家 である光善寺准玄を初代能化に任命してお り、相伝家に対す

(31)

る理解があったと見ることができることから、 ここでは、良如も相伝を受けたと考えておきたい。また、良如の 次代である第十四代寂知が相伝を受けていることからも、良如が相伝を受けていたと推測することができよう . . 宮 その後、良如の後を継いだ寂如は寅字三(一六八六)年に光善寺寂玄から返伝されたという・ 5 この寂如の時 代に、本願寺派では桐伝教学が排斥されることになる。相伝教学排斥の原因は、相伝家である光善寺寂玄の転派 であった。寂玄の転派は、 その影響が先々代の准玄にまで及び、本願寺派では初代能化である准玄を歴代能化か ら外し、西吟を初代とするのが慣例となっている・ 5 准玄の転派について、玄智(一七三阿

3

一七九四)は﹃大 谷本願寺通紀﹄に、 是年出口光善寺寂玄守山名塩教行寺寂超吋弘-一異義惑 b衆事聞二本山¥使三堂衆料、検 d h 獄事状、去月奪ニ寂 超 寺 職 一 令 -臨 居 一 日 時 的 寂 玄 、 以 = 一 其 為 両 鐘 ヘ 雌 令 ニ 悔 謝 -而 恕 レ 之 。 是 月 晦 日 慎 一 罰 出 口 側 邪 党 九 僧 一 川 ・

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M H 引川、九年正月三目、寂玄共=其党-背レ本属東門﹁而其徒不一敢従一者凡数村山 M M M M H h p n J れ 野 口 ト 悦 ・ 高 (この年︹元緑八三六九五]年︺、出口光善寺の寂玄[講主准玄の孫日と名泡教行事寸の寂超[准超の困]とが異義を弘めて衆を感 わすこと、本山に聞こう。品単線{知空と玄慧)、事状を検駁して、去月に寂超の寺織を奪いて、幽居せしむ[後に清光寺の次チ をもって腐を継がしむ]。寂玄、その同鎗なるをもって、ただ悔謝せしめてこれを怨す@この月の筋目、出口側の郷党九僧を憤 罷す[叙 M m ・河内に各凶入、屑防に一入、中において九人は光善寺の門下なり]・九一六九六)年正月二目、寂玄、その党と 共に本(本山}に筒きて東門{大谷派}に属す・しかしてその徒、あえて従わざる省およそ数村なり[寂玄は准玄の孫なり。良 如宗主の崎、准玄は学業をもって、一宗の能化首狙とす.しかして後靴、准玄を称する者なし。けだし寂玄背本の践を厭うなり ] J

(32)

-23-と述べている.玄智に依れば寂玄の転派は、光善寺寂玄と教行寺寂超とが異議を弘めて民衆を惑わしている、と 本願寺に聞こえてきたことに起因すると い う 。 これに対応した知空と玄慧の 二 人は‘状況を確認 し た上で寂超を 隠居処分、寂玄を悔謝で許し、 一 件 を 治めたという 。しかし、本願寺が光善寺門下の 九人 の 僧を処罰した ことか ら、寂玄は彼らと共に本願寺派 から大谷派へ転派したと い う 。 記録 には寂玄と寂超との 具体的な主張は記されていな い が 、 ﹁ 異義 ﹂とされてい る以上、教学問題であったと 想像され る 。 ま た、寂 玄 の 転派理由について﹃大谷嫡流実記﹄で は 、 大谷 、最初之勤行ハ 、浄土六時礼讃也。中興蓮知上人、正信 偶文 ・ 一 一 一 帖 之和讃と定られ、在家江も許され給 ふ。西方寂如 上 人 、 元禄六こしハ九一ニ)年、先師良如上 人之 さ 一 十 三回之御 忌 、 御執行の時、旧来の声明を改、 -2 4-和吟とし、大原流を学び、 楽譜に合し伽陀其外之曲を 替られたり。今、西派流の 曲は寂如上人以来也。僧楽 も此上人より始る能書ニておハ し け る 故 、 御 堂 の 九 ・ 十字之名号を始、楽類迄も書 改 ら る。此事然る べから ず殺て執頭河州出口之光蕎寺殿、 院 主諌 め 給 ふ 事 、 再 三 ニ 及 べ ど も 、 . 向用ひ給ハ須、却 而 大 ニ 御 憤 リ 有し 故、翌年元緑九( 一 六 九 九 ハ ﹀ 年 正 月 、 御 当山(大谷派) 一 札 帰参せら連ける ・ 警 ,....園、 〆・、 )内は筆者註} と述べている・ q 大谷嫡流実記﹄は、・制玄の転派について、寂如が良如の三十三岡忌法要に際し、ぞれまでの勤 行を改変したことに対して寂玄が反発し、それによる寂知と寂玄との不和が原因であったと記している。確かに、 -誠如は本願寺における荘厳 ・ 勤行を改変 し た 門 主として有名である, 5 相伝家の中、光普寺 は特に教 学と勤式と に関して重要な佐置にあったと言わ れ て お り ・ 口 、 寂 玄 にすれば伝統を出席する寂如への反発 が強かったと思われ る 。

(33)

寂玄の転派理府は、 以上の教学と動式との-一説を見ることができるが、両者共にその詳細を記した史料は知ら れ て い な い ・ 5 恐らく、教学と勤式との両面から異義復されたと考えられる。 以上のように、寂畑との不和が原因で光善寺が大谷派に転派したことにより、本願寺派における相伝教学は次 第に廃絶していくことになる。 一方、大谷派では、第十一一代教如の後を継いだ第十三代宣如(一六

O

1

一六五八)は教行寺教宣から返伝さ れ、それ以後は直に門主から第十四代琢如(一六二五

1

一六七二、第十五代常如(一六四一

1

一 六 九 四 ) 、 第 十六代一知(一六四九

1

一 七

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)

、第十七第真如︿一六八二

1

一 七 四 四 ) へと直伝され、第十八代従知(一七 二

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一 七 六

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は光善寺一玄(一六八

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一七四四)から返伝、第

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九代乗如︿一七四四

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一七九二)は真宗 -25・ 寺真昭から返伝されたとされる。大谷派では乗如の後に門主が相伝を承けたという記録は残っておらず、相伝教 学は五筒寺の光善寺・真宗寺・本宗寺などに文書が秘蔵されるのみになったという。 ここまでの本願寺派・大谷派両本願寺の相伝を図示すれば次貞のようになる。

(34)

I11貨 安 日 ( 以 下 、 ﹃ I l l 1 ﹄ は 直 伝 、 ﹃ t 5 } ︾﹄は返伝、﹃:;﹄は直に相伝されなかったことを意味する・} 蓮⑨

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琢如││常如 l l 一 如 教 宣 刊 行 し

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(35)

第四項 門主以外への相伝と廃絶 以上、相伝教学の相伝について、本願寺派・大谷派両本願寺の門主を中心に見てきたが、相伝教学の棉伝は門 主 に 止 ま ら ず 、

i

箇寺やそれ以外の学匠にも相伝されたとされる。以下、門主以外への相伝について見ていくが、 門主以外への相伝は複雑多岐に渡っているため、そのすべてを網羅することは闘難である。よって、ここでは﹃相 伝義書 L 所収の﹁伝来相承図 d ﹂と﹁相承伝統分派之譜 . J とを整理して次頁に凶示することにした。 相伝を受けている寺院の多くは蓮如と関連する寺院であり、真宗各派において別格とされる寺院である。図中 の寺院を各派に分けると、本願寺派は常楽寺・顕-証寺・教行寺・順興寺・慈敬寺・本善寺であり、大谷派は光善 同 27・ 寺・本泉寺・大信寺・真宗寺・本宗寺・名監教行寺・願得寺である・ 5 これらの寺院は.それぞれ本願寺派では 別格寺・%に、大谷派では五箇寺.目に数えられており、相伝は格式を持った寺院に伝えられたとされる。また、本 願寺祖国の鍵を預かる法胃司錨にも相伝寺院が多く含まれている.苦 系譜から読み取れることとして、相伝は顕証寺蓮惇系統と教行寺蓮芸系統とに大別できることと、主に大谷派 で相伝されていたことの三点があげられる。 戦国期一家衆について研究している草野顕之氏は、戦国期-家衆と相伝との関連を指摘して以下のように指摘 し て い る 。

(36)

閣幽斗││岡幽﹁党議議実順││実主ll 顕 勝 T 議 饗 依 光 信

T

ーー岡凶寸

│ l 岡 凶 │ 悶 幽 閲 幽 l l 関 幽 寸 撃 菜 、 淳 一 T 察 霊 証 淳 真 玄 奥 昭 襲 警 円 高 寸 Tll 尖淳 T 緒 護 顕 従 ll 准 勝 l 准

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一 卒 1 十 一 真 智 義 器 具 芸 T 援 護 郡 蓮 淳 寸 華 麗 実 醤 ll 証智 l 顕 智 l 教尊 1 教 映 ﹁ 誕 種 真 覚 擁 護 真 詮 ﹁態撃証珍 l ム 附 幽

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醤 1 教﹂閏幽l開凶l問剛凸凶ー関幽

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﹁濡蜜踊教恵 l l l 宣恵 -28・ ※称徳寺は実醤の代で悠敬喜寸に改名 ※教行寺は名盛教行寺が市東西分派時に分家

(37)

この(実悟の﹃聖教目録聞書﹄の奥書)永正十七年は、 一門一家制が定まったちょうど翌年に当たり、 そ こ に例外的な﹁一門﹂とされた実悟の﹃聖教目録聞書﹄が存在するという事実からは. 一門一家制がこのよう なで門﹂のみへの特殊な﹃教行信証﹄伝授日相伝を生み出した要因とも考えられるが、論理的には、相伝 の確立がそれを強占する二門﹂の身分的確立を促し、その制度化があったと考えたほうがよかろうと思う・ 5 ︹()内は筆者註︺ 草野氏は一門一家衆の形成論理を追求する過程で、先行研究に指摘されている血縁と系譜との両面からでも説明 できない、顕証寺実恵と勝興寺実玄とを問題にし、相伝教学の系譜を当てはめれば説明がつくとしている。草野 氏の指摘は、相伝教学が別格寺に相伝されたとされることとも符合しており、相伝が権威の象徴であったことが 知られる。このように相伝教学の系譜は、戦国時代の一門一家制度を支える論理となっており、戦国期の本願寺 -29・ で隆擁を誇っていたことがうかがえる。 戦周期に隆盛を誇った相伝教学であるが、現在ではその存在を知る学者も少なく、ごく限られた人が相伝する のみである。先に見たように、本願寺派での相伝は寂如の時代にすでに断絶しているが、相伝され続けたとする 大谷派においても、近世には鹿絶したという。以下、相伝教学の廃絶について、柴出秀昭氏の論考・ z によりなが ら 述 べ て お こ う 。 大谷派で相伝の存在が危うくなってきたのは延享二(一七四五)年、光善寺一玄から大谷派第十八代従如への 返伝以後である@従如へ返伝されたのも、すでに教行寺系統の相伝が途絶え、相伝教学自体が危機的状況にあっ

(38)

たからとされる 。 一 玄から従 如への返伝時には、大信寺真智・ 真宗寺真覚 ・ 光善寺真玄が相伴したが、相伝を仔 った一玄と、相伝を受けた真智とが直後 に亡くな ってしまう。また、宝暦ニ(一七五二)年には真玄 も亡くなり 、 残るのは真覚のみとなってしまう。相伝を重 視した従如は 、真党から真宗寺真昭と教行 寺真芸とにも相伝を行わ せ た が . 宝麿十(一七六

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)

年 に は従如が死去、翌年 には真覚も亡くなってしまう。こ の時、真芸はすでに亡 くなっており 、 一 人 残 っ た真昭は﹁予一人の重任に相成り候

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と 、 当時 の 門主であった乗如に相伝を広げるこ とを願 い出たという。しかし、 乗知が当時十七歳であったことも あり、家老 達 の 意向が大きく介入したのか、真 昭の願 い は 乗 知 に 届 く こ とはなかったという。宝暦十一 ( 一 七 六二年‘ 真昭は相伝の存続を願い出るべく書状 をした ため、本願寺の大蔵卿頼 俊に渡したが、頼俊から本願 寺へ提出されることはなかっ たという。この辺りの -30・ 事情に ついて柴田氏は 加えてその時の話によれば、学寮の恵 然(学寮講師 )等‘多くの学寮系の人物が入洛 し て お り 、 とくに連枝 誠締院真恵並びに苗村民部以下数 輩 が 、 真覚の一統すなわち 相 伝家を偏 執者として批判しており、翫月氏︹大 ( ︹ 臓卿頼俊のこと ︺ も真昭の書状をそのままにせざるをえない状態であった。 ︺内は筆者註) と述べ、本願寺の上層部による相伝教学排除があったとしている. そんな中、応如法嗣擁立事件が起こる。応 如法嗣擁 立 事 件 は 、 このことから真昭は、乗 如 ではなく 、相伝家である大信寺で育 てられた法 嗣応如へ期待を寄せるようになる。 当 時 の 門 主であった乗如に子 供がいなか ったこと に端を発して い る 。 乗如に法嗣がいな い状況の中で、明和 八 ︿ 一 七 七一)年、応知( 先代従如の息子)が得度す

(39)

ることになった。しかし、本願寺当局はそれを新門主ではなく連枝扱いの得度とした。しかし、門主乗如に子供 がいないのであれば、先代従如の息子である応知が法嗣となってしかるべきと考えていた門徒は、これを問題に して本願寺当局の上層部入れ替えを求め、 それを実現させた。これによって.相伝排除の本願寺上層部が入れ替 わり、しかも相伝家で育てられた応如が法嗣となるという、相伝家にとっては非常に有利な状況になったのであ る。しかし、応如は安永五(一七七六)年に十七歳という若さで亡くなってしまう。このような混乱の中、五箇 寺の勧めを受ける形で安永七︿一七七八)年、乗知は真昭から返伝を受けることとなる。ここに門主への返伝が 成立したのであるが、 以後も相伝は振るわず、相伝の後ろ盾であった第十八代従如への返伝からわずか三十年と いう短い期間に廃絶し、原史の中から忘れ去られることとなる。 -31・

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第二節

相伝教学の教学的特色

第一項 相伝教学の相伝形態 伝授・相伝・秘伝・

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伝 と 云 う の こ と は 、 いずれも同じことのようにおもえども、くわしく論ずるときに於 いては格別なり。今ここに於いていわば、秘伝というは、正伝の一事にして至概の大事、この極秘は御相承 の上ばかり外にしる人のなきを秘伝という。相伝とは、僅伝の趣をその家々に書き留めて授与の器を守りて 伝えるを、柑伝とも文は伝授ともいう。 口伝とは、書きても伝えがたきことを口にていいきかすことなり。 これは一切にわたりてあり。書物聖教の上に顕われたばかりにてはしられぬなり。 一 字 相 伝 ・ -句 相 伝 と 出 , -32・ す 事 も あ り て 、 一言申し顕わすことも口伝ならぬことはなきなり・

5

右の文は、相伝史料﹃浄土真宗依典籍私者﹄の一文である。口伝を﹁秘伝﹂﹁相伝﹂﹁口伝﹂の三つに分類し、﹁秘 伝﹂を本願寺門主にのみ相伝される門外不出の教学、﹁相伝・ 3 ﹂を五箇寺を中心とする寺院にのみ相伝される教 学、﹁口伝﹂を聖教の字や句に対する解釈としている。この一文から相伝教学が口伝による相伝をいかに重視し、 限定された者にのみに相伝していたかを知ることができよう。また、相伝の内容は、 マ キ 広本ニ於テ、深信ノ伝ト深解ノ義トイヘルアリ。今深解ノ義ノ釈・意ヲ弁スへシ。コレ一宗大事ノ義、口綬ノ趣

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ナリ.ヒトへニ口外二山スコトヲ禁スル而己・ 5 とあり、﹁深信の法﹂と﹁深解の義﹂との二種類があるとされる。﹁深信の伝﹂とは独自の科段に依りながら﹃教 行信託﹄を通読していくことであり、﹁深解の義﹂とは﹃教行信証﹄等の真宗典籍に関する解釈を学ぶこととさ れ る ・

5

今日、相伝教学の内容を伝えているとされる﹃相伝義書﹄や﹃相伝叢書﹄は、後者の﹁深解の義﹂を中 心としたものである。本節では、﹃相伝義書﹄﹃相伝叢書﹄所収の講録から、相伝教学の特徴を述べておく。 第二項 利益論(二門判釈) 相伝教学の教学内容に関する研究は少なく、 一般的に知られているものをあげれば.竹島宗人氏の﹁﹃棺伝義 同 33・ 書﹄の教義的特色について

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があげられる。以下、竹島氏の論考を参考にして、相伝教学の二門判釈を述べて お こ う 。 正定飛とは﹁等正覚﹂とも﹁便阿弥鞠﹂とも説けり。仏願を信ずる人の果なり。然るに経論共に勧化門・実 義門の二あり e 先ず凡夫に対して教うる時、実義を説いて信ずる立ち処が即ち無生成仏ぞと勧化せば、本よ り愚鈍の凡夫は、無生の深理は夢にもしらぬ境界なれば、 一人として信ずる者有るべからず。此の故に欣浄 厭機と教えて、本願を信ずれば摂取不捨の故に、 一期の聞は正定衆の位にして命終れば無上の証果を開くぞ

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と勧むる時、此の教えに導かれて漸々仏願に帰するなり。是の故に、 凡夫の方には正定策と信じて、 もはや 生死に還らぬ身と思い知りて悦ぶなり。然るに仏の方より言えば、共の行者の正定衆と信ずる 処が即 ち無上 浬柴なり。正定と滅度と更に前後 無く 一つ事なり。信心既に他力の仏智故に証果とて 外に求むべからず。 今 生後生・裟婆浄土と各別に思うは凡夫の妄情なり。然れば勧化 の前には二益と 教えて、命の有る間は正定衆 と思えとなり 。本 より行者の知らざ る法体の利益なれ ば、仏 の 方 よりは信心発起の時、 即ち滅度に成じたま うな り . 苦 右の文は 相伝資料である ﹃略本聴書﹄の-文である。ここでは、真 宗の理解を 実義門と勧化門とに分け、実義門 を﹁信ず る処が即ち無生成仏 ﹂として、獲信のところで浬蝿 の悟りを獲るとしてい る。しかし、衆生は獲信時に 浬柴を獲て いると言っても 理解できないので、勧化門としてご期 の 聞 は 正 定衆の位にして命終 れば無上の 証果 を聞く﹂と説明し.現生には正定束、命終に間擦を得ると教えるとして いる。言い 換えれば、実義門では正定衆 -34・ と滅度とを同時に獲る 一 益とし、勧 化門 で は

.

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定取県と滅度とを異時に得る 二 益とするのである。 二 門判釈 は、親 鷲が実義門に立ち、蓮如が勧化門に立つとした上で、最終的には勧化門は教化のためであり、実義門のみが真実 であるとするのである。 こ の 一 益と 二 誌との問題は、真宗教学史の中でも織論され 一 益とするのは異義とされる。それは例えば﹃歎 異抄﹄第十五条に、 この身をもてさとりをひらくとさふら うなるひとは、釈 尊のごとく種々の応化の身をも 現 じ 、 三 十 二 相 ・ 八

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十随形好をも具足して、説法利益さふらうにや。これをこそ今生にさとりをひらく本とはまふしさふらへ。 ﹃和讃﹄にいはく、﹁金剛堅固の信心の、さだまるときをまちえてぞ、弥陀の心光摂護して、ながく生死を へだてける﹂とさふらうは、信心のさだまるときに、 ひとたび摂取してすてたまはざれば、六道に輪廻すべ からず。しかれば、ながく牛一死をばへだでさふらうぞかし。かくのごとくしるを、 さとるとはいひまぎらか すべきや.あはれにさふらうをや

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とあることや、覚知の﹃改邪紗

J

や存覚の

2

ハ . 喪 紗

.

J

でも否定されていることがその担拠である。また蓮如 も ﹃ 御 文 常 ﹄ の 中 で 、 問 て い は く 、 正定と滅度とは一益とこ¥ろうべきか、またこ益とこ、ふろうべきや。 答 て い は く 、 一念発起のかたは正定衆なり。これは磁土の誌なり。 つぎに滅度は浄土にてうべき益にてある -35 -なりとこ﹄ろうべきなり。されば二益なりとおもふべきものなり・

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と 述 べ て 、 -益ではないことを明言していることからも、 正定衆と滅度とを一括とすることは否定される。 しかし相伝教学は、これらの二益とする考え方を勧化門と位置づけ、あくまで一益の実義門が正統であるとす るのである。相伝教学が口伝を重視し、 その口伝が当時の資料に記録されていない以上、実義門を正統とする煙 解が運知当時からあったのかどうか論証する術はない。 しかし、現存する資料から見れば、﹃歎巣抄﹄当時から 二益とする理解が正統であったのであるから、相伝教学の主張は否定されると考える。現存する資料のすべてが、 勧化門のみを述べているとするのは、あまりにも都合のいい解釈である・

5

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一 益とする主張が通るかどうかはともかくとして、蓮如も否定している 一 益思想を、相伝教学はどのような論 理で主張するのだろうか。先の文中では 、 ﹁ 信 心既 に 他力 の仏智故に髄果とて外に求むべからず ﹂ と 述 べ て お り 、 信心が仏智 で あ る か ら 、 倍りは獲信の衆生の中にあるとし、 それによって、裟婆 ・ 浄士の分別を越えると理解し て い る 。 し か し 、 それは﹁仏の方 より言えば、共の行者の正 定東と信ずる処が即ち無 上海繋﹂なのであって、あ くまで如来 の 立 場にお い てという条件が 付けられている。 このよう に.相伝教 学は如来の立場︿以下﹁約法﹂とする)と 衆生の立場 (以下、﹁約機﹂とする)とを使い 分けて一益 と 二 益とを 主 張 し て い る 。 つ ま り 、 一益は約法であ り、二益は約機である。 その理由は.約法は煩悩 即菩提と いう大 乗仏教の定理をもって述べ られ‘約機は裟婆 と浄土とを隔絶したものと捉える 浄土教強自の理解 -36・ から述べるから で あ る 。 この問題は後の仏 性論と同じ く、仏教当面 の 理解と真宗独自の理解との関係をどのよう に捉えるかに関わってくる。本論文で 利益論を取り上げ たのは、本論文の主題である両 吟・月感の論争とも深 く 関わる問題と考えるからである。以下、この 一 益とする理解について考えてみよう。 真宗教学史の中で.利益論が大きく 問題にされたのは、四代 同能化法震( 一 六 九 三

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一 七 四 ご の 時 代 で あ る 。 法森の所説が 一 益法門であると 批判 されたのである 。 この論争は明和の法論と呼ばれ、明和元( 一 七 六 四 ) 年 、 智遁が ﹃ 浄 土真 宗本尊義 ﹄ の末尾に、法霧を 一 益法門と批判したこ と に始まる。まず、明和の法論の中で問題に なった法霧の所説をあげておこう。 発 二 浄 土 大菩提心願作仏心者。 持入 一法性土 一 。 証 -真 如 法 性 身 一 。 成 ニ 尽 未 来 一 切 仏 事 。 於 初 生 一 一 利 那 -。 而 是

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菩薩。何故必至=減度・。住=正定衆一故。何故言ニ正定一。必至滅度故。知一常山地勢一。龍樹調レ之言ニ必定コ 是 合 ニ 正 定 及 滅 度 ・ 為 ・ 一 益 一 。 故 言 -一 必 定 ・ 。 因果相即益。錐 b 通 一 現 生 密 益 一 。 埋 実 生 後 益 ・

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(浄土の大菩提心・願作仏心を発さば、みな法性の土に入り、真如法性身を証す・未来.切の仏事、初生の一利那に成尽す.しか し て こ の 菩 薩 、 何 紋 ぞ 必 ず 減 度 に 雫 る 、 正 定 療 に 住 す る が 放 に ・ 何 紋 ぞ 正 定 と 一 一 一 = n う、必至誠度なるが撲に。常山の蛇勢のごとし・ 佳樹はこれを謂いて﹁必定﹄と言う。これ、正定及び滅度を合して.設となす。故に必定と言う・因果柑仰の益.現生密益に通 ずといえども、理、実に生後の益なり。﹀ ことでの﹁是合-正定及滅度為二益 d﹂や ﹁因果相即益。難 b 通--現生密益こが問題とされたのである。これら の根拠をもとに智濯は、 近代当流ノ学者。他宗ノ円融即具ノ談ヲ羨ミ。解第一義ヲ以テ。知実修行相応卜称シ。是ヲ以テ。安心ノ極 産ト忠ヒ。或ハ浄臓不二因果不二ヲ談シ。 正定滅度一益ノ義ヲ以テ宗極トス。近クハ。中興ノ高判ニ違シ。 -37・ 遠クハ。指方立相ノ宗致ニ背ケリ。ナケカシキ事ニ非スヤ。-孟 と述べ、法謀の説が﹁浄核不二因果不一一ヲ談シ。 正定滅度一益ノ義ヲ以テ宗極﹂とすると批判したのである。学 林は智逼の一文に激怒し、智選と対論することになる。 その対論を行ったのは天侃

(

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一七八九)や後に能化と な る 功 存 こ 七 三

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3

.

七九六) で あ っ た 。 この論争は先にあげた法一森の文が問題の中心になり、その内容について議論となった。学林側の天侃は﹃鞘之 問論義﹄の中で、先の.文を釈して、

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