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真宗研究54号 006永原智行「阿闍世の回心」

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阿闇世の廻心

本 願 寺 派 、 水

はじめに

阿閣世王の救いによって、私は浄土真宗の救済を具体的に示そうとしている。 王舎城の悲劇から阿闇世の苦悩のありさまや、堕地獄を恐れる様子や、六師外道では救われないことを解明して きた。不可治から可治に転じる論理を考察してきた。阿闇世の告白した罪の実態から、五逆罪・詩法罪・一間提を ︵ i ︶ 考察し、親驚聖人独自の一闇提観や逆詩観・阿闇世観を明らかにしてきた。 本論文は、阿闇世の漸塊から展開してみる。親驚聖人の漸塊観を考察し、断慌によって阿闇世の罪が消滅したか ら救われたのか、漸協は自己内省の糸口で、救いは廻心によって真実信心を獲得することに帰するのかをうかがっ て み た い 。 ﹁阿闇世王の為に浬繋に入らず﹂と釈尊は弟子に説法する。この説法に救われがたい阿闇世に差し向けられた如 来の救済がある。出離の縁のない阿闇世を救う如来の大悲を説法より分析してみる。五逆の罪を犯した悪人が救わ れる論理、因縁によって苦悩するものが浬繋にいたる論理、無自性仏性のものが縁によって迷界から悟界に転じる 七 五

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阿閤世の廻心 七 六 論理、これらの論理にはたらく如来の大悲をあきらかにして、阿閣世の廻心の意義を明らかにしてみる。

一、阿間世の漸悌

着目婆は六師外道の説では救われない阿閤世に、 エムヤイヅクンゾコトヲイナヤ︸︵ 2 ︶ 大 王 、 得 一 安 眠 不 。 仏に帰依するように奏上する。 と 、 ま た 、 モ ス ト ヲ ニ ヲ シ テ f ダ ケ リ ヲ ニ ハ ク ノ ヲ リ ノ ク タ ス ク ヲ ユ ハ ニ ハ ナ リ 王難 ν レ 罪 、 心 生 − 重 幅 f而懐暫塊寸大玉、諸悌世尊常説一是言。有一二白法↓能救二衆生べ一悪、二塊。悪 且 つ 3 凡 ハ ヂ ハ ミ ズ カ ラ ズ ラ ヲ ハ ズ テ ヲ ナ サ シ メ ハ ニ ミ ズ カ ラ シ ユ チ ス ハ シ テ フ ニ ハ ハ グ ニ ハ ハ ザ ニ ヲ ク ト 者白不レ作レ罪、塊者不一教レ他作寸草者内白基恥、懐者発露向レ人。暫者基レ人、恨者基レ天、是名二暫慎一 ハ ヂ ハ ズ ハ ズ テ セ ト テ ス ト ガ ニ ク ス ヲ ガ ニ ク コ ヲ タ ヰ ヤ ウ 無意偶者不一名為 v 人、名為二畜生。有二軍慎一一故、則能恭一敬父母・師長寸有二車慎一故、説レ有一父母・兄 ア ニ テ イ ン マ イ ツ ブ 升 ニ り ト ︵ 3 ︶ 弟・姉妹寸善哉大王、具有一暫憾。 オトトアネイモウト と あ る 。 阿闇世は、殺父の事実を後悔して罪の報いを恐れて堕地獄の不安をもち、堕地獄の自身に絶望し、罪に対して断 慌している。阿闇世に誓婆は諸仏世尊の法として三つの漸塊を説いている。香婆は、漸憐こそ仏が衆生を救済する 手がかりであると奏トいする。漸憾とは自他に罪を恥じることである。断塊の有無で﹁無暫塊は名づけて人と為さず、 山首生と為す﹂とあり、無断憾の者は畜生であり、人間性の喪失した者である。慨塊のある者は、宗教的罪悪を自覚 した者であり、人間性のある人間である。断塊は人倫の原点である。ただし、者婆は、﹁断惚あり﹂と称賛こそは しているが、﹁漸塊せよ﹂と強制していない。

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︵ 4 ︶ 親驚聖人は、漸惚・無慨憶について を中心にして親鷲聖人の断塊観をうかがってみる。 ﹁ 教 行 信 証 ﹂ ︵ 5 ︶ で四箇所引いている。﹃正像末和讃﹄には二箇所ある。これら 一つ目の引用は、﹃般舟讃﹄を引く﹁信巻﹂の大信釈にある二河警の結論の丈である。この漸憶は、発露して滅 罪すると言う意味ではなく、﹁種種の方便をして、われらが無上の信心を発起せしめたまへり﹂ことを知らないこ とを漸慌している。釈尊・弥陀のご苦労を知らないことを断惜している。 一一つ目の引用は、﹁信巻﹂で阿閤世に対して香婆がいう漸憾である。この漸憾のないものは人間性の喪失した畜 生 で あ る 。 ︵ 8 ︶ 一一一つ目の引用は、提婆達多の漸憾である。提婆達多は阿閤世に取り入るために神通幻術を行った。阿闇世は天の 是陀羅華を欲し、その求めに応じて是陀羅華を取ろうとした。しかし、神通を失い、不首尾に終わった。そのとき に提婆達多が﹁心に漸憶を生じ﹂とあり、この場合は宗教的内省ではなく、単に恥ずかしいという意味である。 四つ目の引用は、﹁化身土巻﹂の三経隠顕釈での ﹃ 住 生 札 讃 ﹄ の 説 で あ る 。 シ ス ル テ ヲ セ ン ト ヲ ノ ハ ハ ニ マ レ ニ ウ ヲ ハ ニ ニ ウ ヲ ヲ ノ ニ マ シ ガ ス ス ル ニ ヲ ニ ト ノ 若欲三捨レ専修二雑業一者、百時希得一一一二↓千時希得二五三寸何以故。乃由三雑縁乱動失二正念二故、与一一仏本 ル ガ セ ニ ト セ ル ガ ニ ル ガ ゼ ニ ニ ケ ル ガ セ ニ ス ル ガ ニ ル ガ イ ン ナ ラ ニ 願一不二相応一故、与レ教相違故、不レ順一仏語一故。係念不二相続一故、憶想間断故、回願不二態重真実一故、 カ ク ル ネ ム ゴ ロ ニ ノ タ リ ス ル ガ ニ キ ガ コ ︸ ノ ニ リ ナ リ ノ ハ ノ モ ウ ク ノ 貧蹟諸見煩悩来間断故、無レ有情塊憐悔心一故、機悔有一一三品︵一乃至一上・中・下。上品機悔者、身毛孔 ノ ヲ 川 ヅ ク イ 九 ユ ヨ リ ヲ シ ノ ヨ リ ス オ パ ク ノ 卜 ノ ハ ニ ア ソ キ ア セ ヨ リ ヅ ノ ヨ リ ノ ガ ル ハ ク ノ ト 中血流、眼中血出者、名二上品憐悔寸中品機悔者、偏身熱汗従二毛孔出、眼中血流者、名一一中品機悔寸下 ノ ハ ト ヲ リ ア y ク ノ ヨ リ ダ ル ヲ パ ク ノ ト ラ ノ モ ト レ ク タ ル ノ ヲ ナ リ ス 品機悔者、偏身徹熱、眼中涙出者、名二下品機悔寸此等一二品、難レ有二差別↓固定久種二解脱分善根一人 c 到 レ ム ル コ ト ヲ ニ ヒ ヲ ク シ ズ オ シ マ ヲ モ ン ザ ン ギ ス レ パ チ ク リ テ ズ イ シ ク ク ノ ス レ パ ズ ヲ ノ ナ 使下今生敬レ法重レ人不レ惜一身命ペ乃至小罪若機即能徹二心髄↓能如レ此機者、不レ問二久近一所有重障皆 タ チ マ テ ニ セ シ レ パ ク セ ノ タ ト ヒ ニ モ ト ム レ ド モ イ ニ シ タ ガ フ テ ル ナ サ ノ ハ シ ト ヌ モ ズ ト ル ル イ ク ヱ チ 頓 滅 尽 M 若不レ如レ此、縦使日夜十二時、急走終是無レ益。差不レ作者、応レ知、難 ν レ 能 一 流 一 保 流 血 ナ ミ ダ 阿閤世の廻心 七 七

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阿闇世の廻心 ク ハ ト ミ ジ ト ︵ 9 ︶ 等一但能真心徹到者、即与レ上向。 ト ヲ リ イ タ ル ︵ 問 ︶ とある。﹃往生札讃﹂の雑修の十三失のうちの九失を出したところである。雑行を修するものの第九失を結んで、 ﹁ 断 慌 機 悔 の 心 あ る こ と な き が ゆ ゑ に ﹂ と あ る 。 ﹁ 憐 悔 に 一 二 品 あ り ﹂ と 要 ・ 略 ・ 広 の コ 一 種 の 機 悔 を あ げ て い る 。 こ の 九失は雑修雑心の失である。雑修とは法の失、雑心とは機の失で、要門は法と機の失を出されてある。この慨悔の 丈は、九失の最後にあたり、雑縁乱動のすがたであり、その内障をあらわしている。三品の憐悔については、﹁身 の毛孔のうちより血を流し、眼のうちより血出す﹂上品の憾悔、﹁偏身に熱き汗毛孔より出づ、眼のうちより血の 流るる﹂中品の憐悔、﹁偏身徹り熱く、眼のうちより一供出づる﹂下品の憐悔によってどんな小罪も﹁もし慨すれば、 すなはちょく心髄に徹りて、よくかくのごとく慨すれば、久近を聞はず、諸有の重障みなたちまちに滅尽せしむる 七 j人 ことを致す﹂と、機悔は重障を滅尽する。﹁真心徹到するものは、すなはち上と同じ﹂とある。﹁真心徹到﹂の金剛 の真実心を獲得することは、憐悔に同じであり、衆生のうえに如来回向の真実信心を疑うことなくいただくことで あ る 。 ︵ 日 ︶ また、﹁観念法門﹂を引く﹁信巻﹂に﹁すべて余の雑業の行者を照摂すと論ぜず﹂とあり、心光照護の益の丈で ︵ ロ ︶ あり、阿弥陀如来の光明は、念仏の行者を摂取して捨てない。心光照護は、念仏の行者だけである。この文は、 ﹁ 尊 号 真 像 銘 文 ﹄ に も 、 ﹁総不論照摂余雑業行者﹂といふは総はすべてといふ、 みなといふ、雑行雑修の人を、はすべてみなてらしをさ めまもりたまはずとなり。てらしまもりたまはずと申すは、摂取不捨の利益にあづからずとなり、本願の行者 にあらざるゆゑなりとしるべし。しかれば摂護不捨と釈したまはず。﹁現生護念増上縁﹂といふは、この世に ︵ 日 ︶ てまことの信ある人をまもりたまふと申すみことなり、増上縁はすぐれたる強縁となり。

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と、阿弥陀仏の心光は雑行雑修の行者を摂取しない。さらに、﹃高僧和讃﹂ の 善 導 讃 に 、 真心徹到するひとは 金剛心なりければ 二 一 品 の 機 悔 す る ひ と と ︵ は ︶ ひとしと宗師はのたまへり とあり、真心徹到する人と三品の憐悔する人とは等しいとその信徳が記されている。この真実信心による如来の滅 罪と三品の憐悔をしての衆生の滅罪とが同一のようにあらわされているが、﹁散善義﹂の下品上生の釈の問答で十 二部経を聞いても千劫の罪しか除かれないが、 一 戸 弥 陀 の 名 を 称 え た ら 、 五百万劫の罪が除かれるようにこの﹁ひ とし﹂は同一ではなく、大いに相違がある。凡夫の心は散乱しやすく、その上に凡夫の罪業は、凡夫ですべて知る ことができず、如来による滅罪に遠く及ばない。﹃往生札讃﹂には、凡夫だけではなく、﹁かくのごとき等の罪、上 ︵ 問 ︶ 諸の菩薩に至り、下芦聞・縁覚に至るまで、知ることあたはざるところなり﹂とあるように無辺の罪業であり、 ︵ げ ︶ ︵ 日 目 ︶ ﹁唯仏と仏とのみ乃ち能く我が罪の多少を知りたまへり﹂とある。 漸塊憐悔と真実信心の違いは、滅罪を求めるか求めないかである。漸惚憐悔は真実信心に至らしめるためのもの である。元照律師の﹁弥陀経義疏﹄を引く﹁化身土巻﹂の真門釈に﹁まづ余善を庇して少善根とす。いはゆる布 施・持戒・立寺・造像・札諦・座禅・憐念・苦行、一切福業、もし正信なければ、回向願求するにみな少善とす。 往生の因にあらず﹂とある。この少善根の九義中、機念の語義は、慨悔のおもいであり、余善であり、往因ではな い。このことから四つ目の慨恨憐悔は、真門の余善中の一行であり、漸悔憐悔して滅罪しなければならないという ことになる。親鷲聖人はこのような少善根を積む漸憾で滅罪をすることを勧めない。慨惚機悔によって罪が消滅す る と い う 次 の 、 阿閤世の廻心 七 九

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阿闇世の廻心 J¥ 0 王 若 憐 悔 懐 二 漸 慎 一 者 。 罪 即 除 減 清 添 如 レ 本 。 や 若 懐 一 断 慎 一 罪 則 消 滅 。 の﹃浬繋経﹄の文を引かない。漸塊滅罪によって人は救われるのではなく、﹁ただ信心を要とするとしるべし﹂で ある。漸憾による滅罪を親驚聖人は必要としないのである。 一方、無漸慨については、漸憶は罪を反省し人間性のあるものであり、加盟⋮漸憶は、﹁名づけて人とせず、名づけ て畜生とす﹂と、人間性のないものであると者婆が阿閣世に奏上している。 ﹃ 正 像 末 和 讃 ﹄ の 悲 歎 述 懐 讃 で 、 無漸無恨のこの身にて まことのこころはなけれども 弥陀の回向の御名なれば 功徳は十方にみちたまふ 小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもふまじ 如来の願船いまさずは 苦海をいかでかわたるべき 蛇蝿好詐のこころにて

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自力修善はかなふまじ 無 如 悔~来 無 の 惚 回 に 向 て を は

T

こ で の ぞ ま せ(で ん竺は とある。この和讃には親鷲聖人ご自身のことが記されている。単に自己反省をしているのではなく、末法の機の邪 偽を悲歎している。虚仮偽りの心をもち、不浄な行いをしても断塊なく、不実な自己でありつづけ、漸憶すること さえできない自身である。小慈小悲もなく人間性のない蛇蝿の心の持ち主であり、自力修善のできない自身である。 その断憾のない自己は、ただ十方三世に阿弥陀仏が回向する本願を信じ、乗託するしかない。如実の漸慌ができな いものは、自らのはからいによるものではない真実信心によるしかなく、真実信心でしか救われないのである。 ︵ 幻 ︶ 親鷺聖人の漸惚観にみる宗教的人間は﹁愚者になる﹂ことである。愚者がご本願を聞いて悲痛なる自己の本性を 信知するのである。

二、阿闇世王の為に浬繋に入らず

難化の三機・難治の=一病を阿闇世のうえにみると 釈迦・意提方便して ﹃ 浄 土 和 讃 ﹄ に 、 浄土の機熟すれば 闇 雨 王 行 逆 大 悪 臣 興 謹 ぜ と

し(し

む竺て とある。阿間世は、罪科を認め漸慨しでもなお己が罪過に執して、自身に執らわれている。その時、頻婆裟羅王の 阿閣世の廻心 J¥

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阿閤世の廻心 入 声が阿閣世の退路を断ち切る。悶絶する阿閣世に真実への道を決定させる。出離の縁のない身には、 ただ如来の大 悲の救済だけである。如来の大悲は、 ν ガ ノ フ ニ ノ ズ ラ ニ ノ ノ ダ ハ ト ク コ ト ︵ お ︶ 如 二 我 所 v 三 口 、 為 二 阿 閤 世 王 一 不 レ 入 二 浬 繋 一 。 如 ν是蜜義、汝未 ν レ 解 。 と仏弟子には理解のできない仏の境界である。ここに阿闇世は救いなき絶望者から救いのある信心獲得者と転じる の で あ る 。 ﹁阿闇世王の為に浬繋に入らず﹂をそれぞれ分析してみよう。 フ ト ハ ハ ク ピ ル ヲ ノ ナ リ ハ ノ ナ リ レ ニ ズ 一 我言レ為者、一切凡夫、阿闇世王者、普及一切造一五逆者。又復為者、即是一切有為衆生、我終不下為二元為衆 ノ ン テ セ テ ヲ ノ ニ レ ハ ル ニ ハ セ ル ヲ ノ ナ リ ハ ル 生一而住も於レ世。何以故、夫元為者非二衆生一也。阿閣世者、即是具二足煩悩等一者。又復為者、即是不 ν 二 悌 ヲ ナ リ シ ミ ム モ ノ ニ ハ ヲ レ ニ ズ ユ ン ク セ ニ ヲ ノ ニ ル ヲ ノ ハ ル ニ ハ ダ 性一衆生。若見二係性︵我終不二為久住 v ν世。何以故、見︶悌性一者非二衆生一也。阿闇世者、即是一切未レ ル セ ヲ ノ ナ リ ︵ お ︶ ハ テ ス ト ハ テ ス ト ハ ク オ ン ニ ノ ル ヲ ゼ 設二阿蒋多羅三窺三菩提心一者。︵乃至︶又復為者、名為二悌性↓阿閣者、名為二不生↓世者名 ν 。 以 レ 不 レ 生 一 一 悌 ヲ ニ ノ ア ダ ズ ノ ア ダ ズ ル ガ ニ レ ナ ヲ ヲ ノ ル ヲ ヲ ニ チ ル ヲ テ ヲ ヲ ニ チ ウ 性一故、則煩悩怨生。煩悩怨生故、不レ見一傍性。以レ不レ生二煩悩一故、則見二悌性寸以 ν見二悌性一故、則得三 コ ト ヲ ニ ヲ ク ト ノ ニ テ ス ト ハ ク ニ ハ ク ト ハ ク ニ T 安二住大般浬繋ペ是名二不生サ是故名為二阿闇世寸善男子、阿闇者名一一不生↓不生者名二浬葉一世名二世法↓為者 ク ワ ニ テ ノ ヲ ナ ル ガ ザ ル ケ ガ サ ニ ニ ズ ト ラ ニ ︵ 幻 ︶ 名 ニ 不 汚 寸 以 二 世 人 法 一 所 レ 不 レ 汚 故 、 元 日 一 一 元 辺 阿 僧 祇 劫 、 不 レ 入 ニ 浬 繋 寸 ケ ガ ス とある。右の引丈を次の五つに分ける。 為 と 言 ふ は 、 一切凡夫・阿闇世王は、普く及び一切五逆を造る者なり。 為は、即ち是れ一切有為の衆生なり。 為は、即ち是れ仏性を見、ざる衆生なり。 為は、名づけて仏性となす。

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為 と は 、 不 汚 に 名 づ く 。 ① ﹁ 為 と 言 ふ は 、 ﹃ 浬 般 市 経 ﹂ の 通 常 の 訓 点 と は 異 な る 。 そ の 違 い を 比 較 し て み る 。 一切凡夫・阿閣世王は、普く及び一切五逆を造る者なり﹂は、親鷲聖人の訓点による訓読は、 ﹁ 信 巻 ﹂ の 訓 読 為 と 言 ふ は 、 一切凡夫・阿闇世王は、普く及び一切五逆を造る者なり。 ﹃ 大 般 浬 般 市 経 ﹄ 党 行 品 為 と 言 ふ は 、 一 切 凡 夫 な り 。 阿 閣 世 と 普 く 一 切 の 五 逆 を 造 る 者 に 及 川 町 o この二つの文の特徴は﹁為と言ふは﹂のそれぞれの修飾する文節の関わりにある。﹁信巻﹂の﹁為と言ふは﹂は、 ﹁一切凡夫・阿閣世王﹂にかかっている。﹁浬繋経﹄の﹁為と言ふは﹂は﹁一切凡夫﹂だけにかかっている。 ﹁ 信 巻 ﹂ の ﹁ 為 と 一 一 一 日 ふ は ﹂ を 受 け る ﹁ 一 切 凡 夫 ﹂ と ﹁ 阿 闇 世 王 ﹂ は 同 格 で あ り 、 一切の凡夫と阿閣世が五逆罪を 造る者となる。﹃浬繋経﹄では一切凡夫といい、﹁一切凡夫﹂は、 五逆を犯した阿閤世と﹁普く一切の五逆を造る 者 ﹂ ま で も 及 ぶ の で あ る 。 一切の凡夫のなかに、阿闇世と五逆罪を造る人があり、 五逆を造らない人もいることに なる。すべての凡夫といいながらも五逆を犯さない人を認めている。﹁信巻﹂は、 ことで、阿闇世と一切凡夫は等しく五逆の罪科をもつことを認めている。 一切凡夫と阿闇世を同格にする ②﹁為は、即ち是れ一切有為の衆生なり﹂は、 一切衆生ではなく、﹁一切有為の衆生﹂であり、﹁無為は衆生にあ ら ず ﹂ と あ る 。 有為とは、因と縁との和合により生じた一切の現象であり、無為とは因縁による為作・造作を超越した真知 ︵ お ︶ ︵ 仏 ︶ で あ る 。 し た が っ て 無 為 の 衆 生 は 存 在 し な い 。 ﹁ 信 巻 ﹂ に ﹁ 序 分 義 ﹂ を 引 き 、 阿閣世の廻心 )¥

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阿間世の廻心 ジ テ ニ テ ダ ラ キ ノ ハ ニ ヒ チ ス ヲ ン ル ヲ ノ ハ 此 五 濁 五 苦 等 、 通 二 六 道 一 受 、 未 レ 有 二 元 者 一 、 常 逼 二 悩 之 寸 若 不 レ 受 二 此 苦 一 者 、 ズ セ ム ナ ヤ マ ス とあるように、衆生には六道を輪廻転生する苦悩がある。苦悩は、 即 非ル 凡 数ノ 摂ー二 }\

也??四

因縁に依って生じる現象であり、 有為の世界に 生きる者には離れ難いものである。出世間的立場よりみると、 あらゆる人は苦悩を持ち、 五 濁 ・ 五 苦 を も ち 、 こ れ に苦しみ輪廻転生する有為的な存在である。釈尊が一切衆生と言われずに、﹁一切有為衆生﹂と言われた本意であ る ③﹁為は、即ち是れ仏性を見ざる衆生なり﹂とある﹁仏性を見、ざる衆生﹂とは、 一 間 提 の こ と で あ る 。 不見仏性の阿闇世のために浬般市に入らないと釈尊は説いている。阿閣世はまだ無上菩提心を起こしてはいない。 不見仏性は阿闇世の現実を語るもので、堕地獄の畏れに沈む阿闇世に仏性を見ることはあり得ない。阿闇世の救済 は見不見が問題なのである。 ④﹁為は、名づけて仏性となす﹂において、﹁為・阿闇・世﹂を﹁仏性・不生・怨﹂として、これを二重に読む。 先ずは、﹁仏性を生ぜざるをもってのゆゑに、すなはち煩悩の怨生ず。煩悩の怨生ずるがゆゑに、仏性を見ざる なり﹂とある。これは﹁仏性不生・怨﹂ということである。仏性が生じなければ、煩悩の怨生ず。だから、仏性を 見ない。﹁仏性←不生←怨﹂という流れである。流転の様相である。仏智においては、流転があれば、必ず解脱が あ る 。 次に、﹁煩悩を生ぜざるをもってのゆゑに、すなはち仏性を見る。仏性を見るをもってのゆゑに、すなはち大般 浬繋に安住することを得。これを不生と名づく﹂といわれる。これは、﹁怨不生・仏性﹂ということである。解脱 の様相である。煩悩を生じないので、仏性を見る。﹁怨←不生←仏性﹂ということで、﹁仏性←不生 H 大浬繋﹂とい うことである。﹁不生﹂には、﹁生じない﹂ということだけではなく、﹁大浬繋﹂という意味がある。ここでも、見 不見が問題なのである。

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⑤﹁為とは、不汚に名づく﹂は、﹁為・阿闇・世﹂を﹁不汚・不生・世法﹂としてその意味を現す。不生を浬繋 として、仏陀の境界である大浬繋は、世の八法である利・衰・致・誉・称・識・苦・楽にけがされない。常住であ る か ら 、 浬 繋 に 入 ら な い 。 以上、五つの﹁為﹂について考えてみた。はじめの三つは流転するもののためになされた釈尊の大悲を現すので ある。第四は流転と解脱の両方を現して、流転あるが故に解脱があることを示している。第五は大浬繋・知来のあ ︵ 犯 ︶ り方が示している。このように流転・最極悪の阿闇世の為に浬繋に入らないというのが、釈尊の意趣である。 いまだ解決していない点がある。 し か し 、 第一の﹁為﹂で一切凡夫は五逆罪を犯した阿闇世と同じであると論じたが、その五逆罪を犯した者が救われるか ど う か を 論 じ て い な い 。 第二の﹁為﹂で無為は真如であるに対して、因縁に依って苦悩をもっ有為の衆生は何をもって浬繋に至るかを論 じ て い な い 。 残り三つの﹁為﹂で、仏性に依って一間提でも成仏し、仏性は浬繋であると論じたが、衆生の仏性は無自性仏性 である故に、縁に依って転じてしまう。 この三点を更に﹁浬繋に入らず﹂の如来の仏心と関連して考察してみる。 ︵ お ︶ 仏心とは、﹃観経﹄に﹁仏心とは大慈悲これなり。無縁の慈をもってもろもろの衆生を摂す﹂とある。大悲は、 無縁の慈悲であり仏のみに有る。無縁は法縁などを超越した慈悲である。全く因縁がなく、縁のいらない慈悲であ ツ ヲ ︵ M A ︶ る。これは有縁に対して﹃大経﹂の﹁我建二超世願一﹂にあたる。超世願は、知来の慈悲の自由と平等を意味する。 更に、無縁は無為有為に住せず、三世に執らわれず、 であり、不可能のない如来の所作をいうのである。だから、仏が慈悲心をおこし衆生を救済するのに、如何なる制 一切の束縛から解脱したものであり、如何なるものにも自由 阿閤世の廻心 八 五

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阿閤世の廻心 八 六 限も受けずに自由であることを示すのが、大悲無縁の経説である。 ﹁浬繋に入らず﹂の仏心が如来の大慈悲心であり、﹁不取正覚﹂と同意である。コ一点のうち、最初の二つの衆生は、 五逆・一切の凡夫と有為の衆生で、無有出離縁の自身であり、自身の救済を願望しても成就することができないの である。彼らを救済するのは、自らの因縁に依って成ずるものでなく、如来の無縁の大悲にほかならない。 衆生の仏性は無自性仏性であるが故に、如来そのものの無縁の大悲で悟界に転ずるのである。 難化の三機・難治の三病の阿闇世を救済するために、﹁浬繋に入らず﹂といわれたのである。 更に如来の出世の本懐は、﹃大経﹄を引く﹁教巻﹂に、 ノ タ イ イ ハ シ テ ヲ ク テ ヲ ス テ ヲ デ ス ル コ ︸ ホ ウ ヲ シ テ ニ コ ウ セ ン シ テ ヲ 斯経大意者、調陀超二護於 v 、 贋 開 二 法 蔵 ↓ 致 下 哀 二 凡 小 一 選 施 中 功 徳 之 賓 上 。 穣 迦 出 一 一 興 於 v 、 光 一 一 間 道 教 ↓ ヒ ロ シ ヒ ラ ク オ ボ ス ナ リ ヒ グ ン マ ウ ヲ メ グ ム ニ テ セ ン ト ヲ ︵ お ︶ 欲下彊−群蔚−恵以中員賓之利目 と あ る 。 如 来 は 、 一切凡夫・一切衆生を救済するために世に出興されたのであり、﹁若不生者不取正覚﹂と誓う自 利利他不二の救済者である c

三、月愛三昧と説法

阿闇世の為に釈尊は月愛三味に入る。阿閣世の身を照らして、携を直ちに治した。月愛三昧について阿閣世と香 婆とに三度問答がある。 釈尊がどうして光明を放ったのかと阿闇世は問、っ。香婆は、阿闇世王が身と心を治療できる方がいないと歎いて いるので、先ず身体を光明によって治し、心を救おうとなされたのであると答える。

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世に尊ばれている如来が私にどうして会おうとしてくれるのかと問う。この間いは、なぜ悪人を救うのかという ことである。香婆は、七人の子どもの中に病気の子どもがいたら、七人の子どもは同じで掛け替えのないのである が、今、病に苦しむ一人の子どもに親は愛情を注ぐと睦言える。仏は、あらゆる衆生に平等であるが、罪のあるもの に対して特に心を懸ける。放逸な者に如来は慈悲をかけ、不放逸な者には心をかけない。不放逸の者は、初地から 六地にまでの菩薩で、放っておいてもよく、放逸の者は凡夫であるから放ってはおけない。罪の苦悩する者に対し ての仏の大慈悲であり、難化の三機・難治の三病の救済を説く悪人正機の根拠である。また、平等とは、生まれ・ 年齢・貧富・時節・日の善し悪し・職業・地位に執着せず、分け隔てのない心であり、罪に苦しむ者を慈しむこと で あ る 。 月 愛 三 昧 と は 何 か 。 月愛三昧は、月が華を聞き鮮明にさせるように、衆生の善心を聞かせるものである。月光は一切の行路の人を喜 ばせるように、浬繋を修道する心の歓喜を生じさせる。月愛三味は、言葉による説法ではなく、光明による救済で ある。月愛三昧は、あたかも月明かりが暗闇にありながら光を射すことをいい、月の明かりのように優しく包む寛 容性がある慈悲の光に包まれた世界を象徴している。光明は﹃大経﹄に﹁もし三塗の勤苦の処にありて、この光明 を見たてまつれば、みな休息を得てまた苦悩なし﹂とあり、身心を照らし苦悩を除くはたらきがある。釈尊は、阿 闇世の苦悩を言語で慰めるのでなくて、言葉で表現できない不安と絶望を静寂の中に、共感しているのである。阿 闇世王の為に浬繋に入らずは、若不生者不取正覚と同義である。 月愛三味は念仏三昧である。﹃浄土和讃﹂に﹁超日月光この身には ︵ 幻 ︶ 一子のごとく憐念す﹂とある。念仏三昧は虚仮の世界を超えるものであり、仏の願いと功徳の満ちた名号を称える 念仏三昧おしへしむ 十方の如来は衆生を 他力念仏のことである。月愛三味は、濁世にありながら阿閣世を包み込み苦悩から静寂に向かうのである。 阿閤世の廻心 人 七

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阿閣世の廻心 人 j

釈尊の説法は、阿闇世を不安から悟りに導く。釈尊は、阿閣世の不安を聞き、﹁いかんぞ説きてさだめて地獄に 入らんといはん﹂と、阿閣世が良心の阿責で罪悪に執らわれ、堕地獄の身と独り善がりに卑下し、絶望し、孤立し てはいないかと諭す。人が罪を犯すのは、時代や社会背景に多分に関わることであり、罪過を認めるが、罪人個人 ︵ お ︶ を憎まないという姿勢で、﹁もしなんぢ父を殺してまさに罪あるべくは、われら諸仏また罪ましますべし﹂と罪の 多面性や関連性を示して、阿闇世の罪は阿闇世一人のものではないという慈しみのある言葉である。 その他に頻婆裟羅王にも罪があったことや、貧狂・薬狂・阻ん柾・本業縁狂の四狂に錯乱し本来の自分の心を失い、 実有の執をとり、僻見に滞って大利を失う過失であると教誠した。 また、愚人の眼と賢人の眼の違いを示している。愚人とは凡夫であり、見えるものだけを真実と思い、信じるこ とである。見えるものだけを信じるのは、六師外道の諸説にも通じるものであり、真実が見えていないことである。 出世間の仏の眼で見ると、殺父は罪ではない。これは殺父を無罪としているのではなく、阿闇世が罪に執らわれて い る と 諭 す の で あ る 。 最後に、空と縁起から罪をみて、﹁有﹂は存在することに執らわれ固定化し執着して迷うことであり、﹁無﹂は存 在しないことに執らわれる。空と縁起により、阿闇世の殺父は現実に起こった重罪なのであるが、罪を永遠に固定 するのではなく、さまざまな因縁により生じたもので、阿闇世一人が罪をかぶるものではない。さらに、罪を固定 化して、未来の堕地獄に絶望し、自虐的になり、破滅的になるのではなく、殺父の現実を現実とふまえて、それを 引き受けて、真実によって乗り越えるべきことを知るようにと諭す。

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四、阿闇世の廻心

阿闇世のために月愛三昧に入る。阿闇世への説法は、罪悪に執らわれ、罪の多面性と関連性を一不し、阿闇世の罪 は阿閤世一人のものではないと諭した。 阿閣世は、聴聞して、 ニ ヲ ヨ リ ズ ヲ ズ ミ ヨ リ ズ ル ヲ パ テ ル ズ ル ヲ ヲ 世尊、我見二世間ぺ従二伊蘭子一生一伊蘭樹↓不 ν 下 伊 蘭 生 一 栴 檀 樹 一 者 同 我 今 始 見 下 従 一 一 伊 蘭 子 一 生 中 栴 檀 樹 印 伊 蘭 ガ ハ ガ ノ ハ テ ズ ラ セ ム コ ト ヲ ヲ ズ ゼ ヲ ヲ ク ト 子者、我身是也。栴檀樹者、即是我心元根信也。元根者、我初不レ知三恭一敬如来↓不レ信一法僧べ是名−元根 4 ン ズ パ マ ウ ア ハ ニ ニ テ ニ テ ニ ク ノ ヲ マ ツ ル ヲ テ ヲ ミ タ テ マ ツ サ ノ ノ 世尊、我若不レ遇二如来世尊↓嘗下於一元量阿僧祇劫ペ在一大地獄一受中元量苦日我今見レ悌、以レ是見一悌所レ エ タ マ ワ ヲ セ シ ム ト ノ ザ ア ︵

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︶ 得 功 徳 ↓ 破 二 壊 衆 生 煩 悩 悪 心 寸 と、廻心してその告白は歓喜極まりないものである。救いなき絶望者から信心獲得者へと転じた歓びである。﹁我 今始めて伊蘭子より栴檀樹を生ずるを見る﹂とある。伊蘭子とは、父を殺した阿闇世自身で、真実信心のない、仏 を信じない阿闇世である。栴檀樹とは、芳しく香る栴檀の樹で、釈尊の願いが満ちた心で、あらゆる人々の煩悩を 断ち、悪心を破りたいとの阿闇世の願心である。伊蘭子の轍えのように煩悩と五逆罪と悪道と煩悩障惑・業障業・ 報障苦の三障と無辺の重罪の者が如来の大悲無縁の救いを得て、無根の信の真実信心を得た歓びである。﹁無根と ︵ 必 ︶ は、われはじめて如来を恭敬せんことを知らず、法僧を信ぜず、これを無根と名づく﹂とあるように、仏・法・僧 ︵ 円 相 ︶ のゴ一宝に帰依することを知らない自分のことである。﹁はじめて如来を恭敬せんことを知らず﹂とあるが、これは 何も正しいことを知らなかったことであり、解っていたつもりであったが、正しく理解していなかったという意味 阿闇世の廻心 J¥ 九

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阿闇世の廻心 九

で あ る 。 この無根の信は、﹁阿闇世王の為に浬繋に入らず﹂ の仏の大悲をそのまま信じるのである。 阿閤世の無根の信の告白は、 釈尊に値遇することにより、 本願招喚の勅命に発起するところによるものである。 こ の 信 心 は 、 如来より賜る信心であり、 ﹁ 信 巻 ﹂ の 法 義 釈 に 、 ト ハ ノ ノ ナ リ ノ ニ シ コ ト ニ ク ト テ ヲ 次言二信楽一者、則是如来満足大悲円融無碍信心海。是故疑蓋無レ有一間雑べ故名二信楽寸即以二利他国向之至心↓ ス ル ノ ト ニ タ シ ニ チ ン メ イ シ ニ セ ラ レ テ ニ シ ノ 為二信楽体一也。然従一無始一巳来、一切群生海、流一転無明海一、沈二迷諸有輪↓繋二縛衆苦輪↓無二清浄信楽ベ シ ヅ ミ マ ド フ ツ ナ グ シ パ ル ト シ テ シ ノ ヲ テ ガ タ ク ハ チ グ シ ノ ガ タ シ シ ノ ニ ニ ク 法爾無−一真実信楽サ是以無上功徳、難二巨値遇↓最勝浄信、難二巨獲得。一切凡小、一切時中、貧愛之心常能 カ タ シ ア フ ア フ ウ ル ケ ガ シ ヲ ニ ク ク ヲ キ ウ サ キ ウ シ テ ク ス レ ド モ ハ ラ フ ガ ヲ テ ク ト ク テ ン グ ヰ ト ル 汚一善心↓膿憎之心常能焼一法財寸急作急修如レ来二頭燃↓衆名一雑毒雑修之善↓亦名一虚仮諸偽之行↓不レ イ ソ ガ シ ノ ト テ ノ ヲ ス ル ト ニ ︵ 必 ︶ 名ニ真実業也。以二此虚仮雑毒之善一欲レ生−無量光明士↓此必不可也。 とあり、疑葦無雑の信心である。真実信心には、阿弥陀如来の本願力を疑う心が雑じっていない。 法義釈の至心釈に﹁仏意測りがたし。しかりといへども、ひそかにこの心を推するに、一切の群生海、無始より このかた乃至今日今時に至るまで、機悪汚染にして清浄の心なし、虚仮詣偽にして真実の心なし﹂とあるように、 信楽釈や欲生釈に豆、心釈と同じく機無・円成・廻施の法義を展開す一日。機無とは衆生に真実が絶無であること、円 成とは衆生にかわって阿弥陀仏が善根功徳を成就されたこと、廻施とは如来成就の善根功徳を衆生に回向されるこ とである。阿闇世の無根の信は、全く疑蓋無雑の真実信心に他ならない。本願は悪人救済のための願であり、虚仮 不実の衆生の救済のためである。阿闇世には全く仏国となる三心はない。機無・円成・姐施により、全く仏国のな つまり阿閣世には、自力のはからいなく、無疑一心に如来回向の真実信心を受けるのみである。 い 衆 生 、 ﹁ 信 巻 ﹂ の 三 信 結 嘆 に 、 信知、至心・信楽・欲生 ノ ハ モ ナ リ 卜 ノ コ レ ナ リ ヲ ノ ニ 其 一 一 百 難 レ 異 、 其 意 惟 一 。 何 以 故 、 ’ し 、

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疑ギ ナ 蓋

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故ェ 真 実ノ ,L、ナ ヌ正ヲ

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剛 真 心 べ ノ ヲ ク ト ︵ 灯 金 剛 真 心 是 名 一 真 実 信 心 叶 とある。三心の解釈を結ぶところであるが、三心即了心である無疑の一心であり、名号領受である。衆生には全く この三心はなく、阿閤世をはじめ衆生は、如来が成就した二一心をそのまま受けるのが無線の信である。 さらに、阿闇世の無根の信に、﹁我今仏を見たてまつる﹂とある。 見仏について﹁観経﹄の真身観に﹁仏身を観ずるを以ての故に、亦仏心を見る。仏心とは大慈悲これなり。無縁 ︵ 特 ︶ の慈を以て、諸々の衆生を摂す﹂とある。観仏は見仏であり、見仏とは肉眼で仏を見るのではなく、仏心を知るこ とである。大悲をうかがうことである。阿闇世は堕地獄に愁苦していた。愁苦する罪悪人を信知できるのは仏の他 に な い の で あ る 。 ﹂ の こ と は ﹃ 歎 異 抄 ﹂ 第 九 条 に 、 しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときの ︵ 印 ︶ われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。 とあり、仏が苦悩の当事者の阿闇世以上に苦悩を知っている。知来の大悲の目当ては、この苦悩者なのである。今 まで仏縁なく真実の法を開法することのなかった絶望者が、如来の増上縁の絶対他力である本願力の救済を受けて 信心獲得者となる。絶望者から信心獲得者に転ずるのは、本来自身にない真実信心を如来よりたまわる廻心しかな い、これが無根の信である。そして、廻心とは﹁唯信妙文意﹄に、 ︵ 日 ︶ 廻心といふは、自力の心をひるがへしすつるをいふなり。 とある。更に絶望者を転じて信心獲得者となった阿闇世の告白は、﹁信巻﹂の逆詩摂取釈に、 ン レ ア キ ラ カ ニ ク セ ノ ノ ヲ パ シ ム 卜 モ レ ニ テ ニ ノ ニ ニ ノ ノ ケ ヲ 世尊、若我審能破一壊衆生諸悪心一者、使下我常在二阿鼻地獄ペ元量劫中為一一諸衆生一受中苦悩日 ソ マ ビ ラ カ ニ 阿閣世の廻心 不ズ 以テ 為セ 九

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苦ト o;::;阿 ::':;閣 世 CT)

’L、 九 とあるように、真実信心を得た阿闇世は、衆生の悪心を破壊するために、わが身が常に地獄にあって苦悩を受けて も、それは苦とはならないと告白している。堕地獄の罪過に恐れていた阿闇世が、自ら地獄に堕ちようとも恐れな り子のように憐れむ心をおこす位で、 いと地獄必定と転成したのである。極愛一子地の菩薩の志願である。 一般には初地の歓喜地の菩薩の境地である。親驚聖人は、怨親を平等にみそ 一子地とは、すべての衆生を平等にわがひと なわす仏心のこととされている。 この一子地の菩薩は、﹁信巻﹂に、 ク ト ヲ ノ ニ ノ ノ ヲ ニ ハ チ テ ニ タ リ 仏 性 者 名 一 一 一 子 地 寸 何 以 故 。 以 一 一 一 子 地 因 縁 一 故 、 菩 薩 則 於 一 一 一 切 衆 生 一 得 一 平 等 心 寸 ニ ノ ニ キ フ ナ リ ト ハ ナ リ ハ ナ リ ト ︵ 臼 ︶ 故、是故説言一一一切衆生悉有仏性寸一子地者即是仏性、仏性者即是如来。 切 衆 生p

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子 地ヲ とあり、これを証したのは阿闇世である。 阿 三 警 闇 菩 婆 世 提 、 は

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天 身ヲ ス テ ヲ ミ ジ カ キ テ ヱ ヲ 捨レ於一短命一而得長命﹂ ス テ ノ ヲ テ タ リ ヲ 捨 二 無 常 身 一 而 得 一 常 身 ↓ シ ム ノ ヲ シ テ セ 令 一 ↑ 諸 衆 生 発 一 阿 轟 多 羅 一 二 一 貌 と、天身・長命・常身を得たといっている。これら天身・長命・常身は大般浬繋の身命であり、極愛一子地の菩薩 の身命である。 阿 善 ク 実 闇 能 語 療ス甚ダは ふ 微 偶

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義ニ ノ ナ リ 甚深秘蜜蔵 為 レ 衆 故 顕 一 一 不 , ノ 司 ノ 所 有 広 博 三 口 為レ衆故略説 具一足如レ是語

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と獲信をうたっている。 廻心以前の阿闇世は、まさしく逆罪とそれによる堕地獄の報いに震憾していた。その阿闇世を地獄にあっても苦 ︵ 同 ︶ にならないと転じたところに廻心の意義がある。阿闇世は自利利他の大乗菩薩道を歩む者である。大乗菩薩道は、 自利利他のために行をなし、たとえ我が身は、地獄に堕ちようとも他を救済するのである。阿闇世の廻心において 他力義の顕揚を見ることができる。自分のことだけしか考えられなかった阿闇世が、他者のことを考えられるよう ︵ 日 ︶ になり、ましてや自身が地獄に堕ちようとも苦とならないとは他利利他の深義が釈成されている。

まとめ

阿闇世の廻心に真宗の救済の奥義がある。阿闇世が廻心できたのも仏に遇い聞法の縁があってのことである。こ の間法は、開即信であり、信仰の純化された頂点である。真実信心の謂れを人間の思慮をなくして、ただ素直に聞 受することであり、これを﹁信巻﹂の信一念釈に、 ニ ニ イ フ ト ハ テ ノ ヲ シ コ 卜 然 経 言 レ 問 者 、 衆 生 間 二 悌 願 生 起 本 末 一 無 レ 有 二 疑 心 ↓ ア ラ ハ ス ノ エ チ ヨ ヲ カ ホ パ セ ナ リ ヘ 卜 者、形二身心悦子一之貌也。言一乃至一者、 ー ロ コ ブ ノ ︵ 四 四 ︶ 名 一 一 了 心 寸 一 心 則 清 浄 報 土 真 因 也 。 ヲ フ ト ト ハ チ 卜 是日レ聞也。言二信心一者、則本願力廻向之信心也。三一歓喜一 リ ト ハ キ ガ ニ フ ト ヲ 摂多少之言也。言一一念一者、信心元−二心一故日一一念ペ是 とある。また、﹃一念多念文意﹄に、 ﹁聞其名号﹂といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をき冶て、うたがふこ冶ろ ︵ 日 ︶ なきを、聞といふなり。またきくといふは、信心をあらわす御のりなり。 阿閤世の廻心 九

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阿 閣 世 の 廻 心 九 四 とある。聞則信は、 一切の自力の計らいを捨てるのである。仏に遇い獲信することの重大さとその難しさを﹁穂 序﹂に、﹁ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く ︵

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︶ 宿縁を慶べ﹂とある。阿闇世の仏に遇う縁は、者婆の勧めと父の頻婆裟羅王の声である。仏縁あって、如来の大悲 の救済を得た。自力にては転迷開悟することのない阿闇世が如来に遇い絶対他力の行信を聞いて救われたのである。 註 ︵ l ︶ ︵ 2 ︶ 拙稿﹁親驚聖人の阿閤世観﹂﹁龍谷教学﹂四

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日 万 六

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頁|八二頁、同﹁親驚聖人の阿閣世観合乙||阿閣世に み ら れ る 難 化 の 一 二 機 が 救 わ れ る 論 理

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|﹂﹁龍谷教学﹄四二号三五頁

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五五頁 ﹃ 真 宗 聖 教 全 書 ﹂ ︵ 以 下 ﹃ 真 聖 全 ﹂ ︶ 二 巻 八 五 頁 ﹁ 信 巻 ﹂ 逆 誇 摂 取 釈 一般的に﹁安眠を得るやいなや﹂と読み、安眠できますかと訳す。しかし、この読み方だと六臣とかわらない軽 憐であるが、親驚は、﹁いづくんぞ眠ることを得んや、いなや﹂と読まれ、﹁どうして眠りを得ることができまし ょうか。いや、とてもできない﹂となる。香婆は、秋山苦している阿閣世をそのまま受容していて、六臣のように 批評していない。阿閣世を為政者としてではなく、一人の人間として向かい合っている。この姿勢こそ、香婆が 名医たることがうかがえる o ︵三明智彰﹁阿閣陛﹂﹃大谷大学研究年報﹂四四八三頁︶ 右問 、サンの字は、親驚の引用の御文は葱となっているが、他の引文は漸に統一した。 恒松見照﹁親驚に於ける意惚の研究﹂﹃龍谷大学大学院研究紀要﹄一五一一一一頁 ﹁ 真 聖 人 玉 ﹂ 二 巻 五 七 頁 ﹁ 信 巻 ﹂ 大 信 釈 ﹁ 安 心 決 定 紗 ﹄ ﹃ 真 聖 全 ﹄ 三 巻 六 一 六 百 ︵ ﹃ 真 聖 人 玉 ﹄ 二 巻 九 四 貞 ﹁ 信 巻 ﹂ 逆 誇 摂 取 釈 右同一五一貞﹁化身土巻﹂三経隠顕釈 残りの凹失は真門に引かれている。 ﹁ 真 聖 人 L ﹄ ↓ 一 巻 七 八 頁 ﹁ 信 巻 ﹂ 真 仏 弟 子 釈 大江淳誠﹁教行信証講義録﹄下六八

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貞 ︵ 3 ︶ ︵ 4 ︶ ︵ 5 ︶ ︵ 6 ︶ ︵ 7 ︶ ︵ 8 ︶ ︵ 9 ︶ ︵ 叩 ︶ ︵ 日 ︶ ︵ ロ ︶

(21)

26 25 24 23 22 21 20 19 18 17 16 15 14 13 '--' \、ノ \ーノ '--' \ーノ '-../ "-.../ \、J '-.._/ '-._/ '--../ \、ノ '-._/ '-._/ ﹃ 真 聖 人 王 ﹂ 二 巻 五 七

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頁 ﹃ 尊 号 真 像 銘 文 ﹄ 右 同 五 一

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頁﹁高僧和讃﹂善導讃 ﹁ 真 聖 人 王 ﹄ 一 巻 五 五 二 頁 ﹁ 散 善 義 ﹂ 下 品 上 牛 釈 右同六八一頁﹁往生札讃﹄日中讃 右 同 三木照国﹁高僧和讃講義﹄三四五頁 ﹁ 真 聖 全 ﹂ 二 巻 一 六 一 一 貝 ﹁ 化 身 土 巻 ﹂ 真 門 釈 大正蔵第十二巻四七七頁 C ﹁ 大 般 浬 般 市 経 ﹂ 北 本 巻 一 九 党 行 口 聞 及 び 右 同 七 二

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南本巻 a 七 党 行 品 。 右 同 ﹃真聖全﹂二巻五二七頁﹃正像末和讃﹄悲歎述懐讃 右 同 六 六 五 頁 ﹁ 末 燈 紗 ﹂ 右同四九五頁﹁浄土和讃﹂観経讃 右同八七頁﹁信巻﹂逆誇摂取釈 ︵乃至︶の、ところは大正大蔵経﹃大般浬繋経﹄第一二巻四八

O

頁 C ︵ 北 本 ︶ と 第 一 二 巻 七 二 一 一 一 頁 C ﹁ 又 復 矯 者 。 即是阿難迦葉二衆。阿闇世者。即是阿閤世王後宮妃后及王舎城一切婦女。﹂一又復為とは、即ち是れ阿難・迦葉の 二衆阿閣世とは即ち是れ阿閣世王の後宮妃后、及び王舎城の一切の婦女なり一がある。 ﹁真聖全﹄二巻八七頁﹁信巻﹂逆誇摂取釈 ﹁ 大 正 大 蔵 経 ﹄ 第 一 一 一 巻 四 八

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﹁ 大 般 浬 繋 経 ﹄ 巻 二

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訓 点 は 、 ﹁ 我 言 為 者 。 一 切 凡 夫 。 阿 関 世 者 。 普 及 子 一 切 造 一 五 逆 者 し と ﹃ 大 正 大 蔵 経 ﹄ 第 一 一 一 巻 七 一 一 一 一 一 貰

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﹁ 大 般浬繋経﹄巻一八にある。信巻には阿南世王とあり、﹃大正大蔵経﹄に王の字はなく本文はこれに準じた。 中村元編﹃新・悌教辞典﹄四四頁 ﹁ 真 聖 全 ﹂ 二 巻 五 二 貝 ﹁ 信 巻 ﹂ 大 信 釈 ﹃ 大 正 大 蔵 経 ﹂ 第 三 二 巻 五 八 一 頁

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五八二頁 a ﹃ 大 乗 起 信 論 ﹄ 三明智彰﹁阿関世﹂﹃大谷大学研究年報﹂四四九九頁 ﹃真聖全﹂一巻五七頁﹁観経﹂真身観 ︵ 幻 ︶ ︵ お ︶ ︵ 却 ︶ ︵ 却 ︶ ︵ 出 ︶ ︵ 回 ︶ ︵ お ︶ 阿 閣 世 の 廻 心 九 五

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一回二頁、大原性実著﹁教行信証概説﹂二二

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頁などによ 阿 閤 世 の 廻 心 九 六 ︵ 泊 ︶ ︵ お ︶ ︵ 羽 ︶ ︵ 幻 ︶ ︵ お ︶ ﹁ ゆ J / f

︵ 判 ︶ ︵ 引 ︶ ︵ 幻 ︶ ︵ 刊 日 ︶ ︵ 叫 ︶ ︵ 日 ︶ ︵ 判 ︶ ﹃ 真 聖 全 ﹄ 一 巻 一 一 一 一 頁 ﹃ 大 経 ﹄ 重 誓 偽 右同二巻二頁﹁教巻﹂出世本懐 右同一巻一六頁﹃大経﹄三塗見光 右同二巻四九九頁﹃浄土和讃﹄勢至讃 右同八九頁﹁信巻﹂逆誇摂取釈 右 同 右同九二頁 右同 右 同 右同 右同六二頁﹁信巻﹂法義釈信楽釈 右同五人頁﹁信巻﹂法義釈至心釈 機無・円成・廻施の法義は、普賢大円著﹃真宗概論﹄ る 。 一方、機無・円成・廻施・成一︵信楽一心を成ずる灘本愛慈著﹃やさしい安心論題の話﹄三二頁︶ ほかに大江淳誠﹃教行信証講義録﹄四八五頁、研修部﹁真宗の教義と安心﹄一一一頁などにみられる。 ﹃真聖全﹄二巻六八頁﹁信巻﹂法義釈 右同九二頁﹁信巻﹂逆誇摂取釈 右同一巻五七頁﹃観経﹄真身観 右 同 二 巻 七 七 七 頁 ﹃ 歎 異 抄 ﹄ 右 同 六 四 六 頁 ﹃ 唯 信 紗 丈 意 ﹂ 右同九二頁﹁信巻﹂逆誘摂取釈 右同六三頁﹁信巻﹂法義釈 右同九二頁﹁信巻﹂逆誇摂取釈 右同九三頁 ヘ げ J / 4 \ ︵ 岨 ︶ ︵ 羽 ︶ ︵ 印 ︶ ︵ 日 ︶ ︵ 臼 ︶ ︵ 日 ︶ ︵ 弘 ︶ ︵ 臼 ︶ の 法 義 は 、

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︵ 日 ︶ 大乗菩薩道は、一般仏教では六波羅蜜行をいい、真宗では三願的証をいう o ︵ 西 義 雄 編 村孝照著﹁第八章大乗浬般市経における菩薩道﹂三五五頁から︶ 高木昭良著﹃七祖教義概説﹄九六頁 ﹃ 真 聖 人 玉 ﹂ 二 巻 七 二 頁 ﹁ 信 巻 ﹂ 信 一 念 釈 右 同 六

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四 頁 ﹁ 一 念 多 念 丈 意 ﹄ 右 同 一 頁 ﹁ 総 序 ﹂ ︵ 町 ︶ ︵ 臼 ︶ ︵ 印 ︶ ︵ 印 ︶ 阿閤世の廻心 ﹁ 大 乗 菩 薩 道 の 研 究 ﹄ 河 九 七

参照

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