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1 大学への就職の可能性

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(1)

デデキントの生涯

(2)*

赤 堀庸子1

『デデキ ントの生涯(1)』 (191,以下『生涯(1)』 と略す。)では、ゲツテインゲ ン大学で 受けた教育、チュー リッヒ高等工業学校への赴任(1858)、 プラウンシュヴァイク高等工業 学校 (以THと記す)への赴任 (1862)に ついて、背景 (19世紀 ドイツの高等教育制度)

にふれつつ扱った。本稿では、後半生での出来事 (特に大学への就職可能性について)、 ラウンシュヴァイクでの生活 (家族のこと、政治への関わ りに関 してなど)、 (趣味を超え て第二の専門分野と称 される)音楽のことな どを述べる。

大学への就職の可能性,後半生の 出来事

リヒャル ト・デデキ ン ト(」ulius wilhehn Rlchard Dedekind,1831‑1916)の 生涯 を追 う 際 に最 も目を引くのは、生地のプラウンシュヴ ァイ クTHでそのほ とん どを過 ごし、一生 大学 (U」versit乱)に就職 しなかった ということで あろう。 どのような経過でそ うい うこ とになったのか。一言で いえば、実 はデデキ ン トは自分か ら (数多 くあった)赴任 の話を 断 って いるので ある。

こうなった要因のうち最大のものは (イルゼ・デデキントが述べているように)家族との 結びつきであろうと思われる。デデキン トの家庭は、社会的にも文化的にも大変恵まれて お り、学者としての生活を送るのに適していた。一方、他の数学者との交流も書簡や直接 訪間を通じて活発に行うことが出来たので、仕事を続けていくことに大きな不足はなかっ たのであろう。

とはいえ、当時 の数学界 との関係が どうであったか も気 にな る ところで はある。14〕 12章 「デデキ ン トと大学」 においては、 この事情 についていくつかの資料が提示 され て いるので、それ を参考 にみて い くこととす る。 1

1.1  18601手

『生涯(1)』 とはやや重なるが、1860年代の出来事 について復習、補足 してお こう。

'津 田塾大学数学史 シンポ ジウム 2016109

tykabllori◎

ernall COm

l本章 を読み進む うえで 、文献 [81が 不 可欠で あ った ことを ここに記 してお く。

(2)

1860年代が、THの講義、編集作業 に労 力を割 いた時期で ある ことは 『生涯 (1)』 で述 べた。公刊論文は数本で、THの講義 との関連 を窺わせ る もので ある。2

編集作業 に関 して いえば、1863年にディリク レ (LeJeune Dirichlet,18051859)の 整数 論講義 を出版 した ことにつ いてはすでに『生涯(1)』 で述べた。

デデキ ン トはガ ウス全集 の編纂 について も一部尽 力 して いる。1863年にガ ウス (Carl

iedrich Gauss,17771855)の 論文を出版 しているのである。(全集の編集 を しているのは シェ リング (Ernst Schering,1833‑1897)で ある。シェリングは リーマンが正教授 になった ときに員外教授 に昇進 したのであるが、それは天文部門 と兼任のポス トで あったようだ。)

この出版 との関係 もあるのか、1862年にゲ ッティンゲ ンアカデ ミーの通信会員 になって いる。

ただ この作業 をす る過程で、 シェ リング シュテル ンと折 り合 いが悪 くな った らしい。

(シュテル ン(MoritZ Stern,18071894)は『生涯(1)Jで述べた よ うに、微分積分学や整 数論の初歩段階の教育 を行 つて いた人物である。)

リーマ ン全集編集の経緯 について も補足 してお く。リーマ ン (Bernhard Riemann,1826‑

1866)が没 したのは1866年で あるが、 この ときにデデキ ン トが遺稿 を託 された。原稿の 複雑 さな どか ら作 業 は困難 を極 め、なかなか進展 しなか ったた め、1872年には共 同編集 者 と して ク レプシュ (Al■ed Clebsch,1833‑1872)が 加わ った。共 同作業は順調のようで あつたが、同年 11月 ク レプシュが急死 して しまった。1874年Hヴェーバー (Heinrich

Weber,18421913)が 協 力者 とな り、最終 的には1876年に全集が 出版された。

これがきっかけでHヴェーバー との交流が始 まる。後 (1880‑82年 )の 『代数関数論』は 有名で あるが、ヴェーバー 自身の 『代数学教科書 』にお いてはデデキ ン トが1850年代 に ゲ ッテ ィンゲ ンで行 ったガ ロア講義の影響がみて とれ る。

また、期間は短 いが ク レプシュとも親 しく交流 して いる様子が窺 える。 ク レプシュが長 生き していた らどうで あったか と想像 させ られ る。

1860年 代 に も大学就職 を巡 る話はあるが、1870年代の出来事 と関係す る事柄が大半な ので、次節 に譲 る こととす る。3

1.2  18704手

すでに『生涯(1)』 で述べたよ うに、1870年 代はデデキ ン トにとってはまず主要著作 (数

学思想)発表の年代で あった。再記すれ ば、1871年にはデ ィ リク レ整数論講義の第二版 (付録 にて代数的整数論の確立、整数論講義の フランス語 版(1876)、 3版 (1879)。 加え て連続性 と無理数 (1872)、 リプ シッツ (Rudolf Lipshitz,18321903)や カ ン トル (Georg Cantor,18451918)と の文通 の開始、「数 とは何か」の草稿執筆 (1872‑78)が ある。

上記で述べたよ うに、 リーマ ン全集の出版が 1876年 にあった。公刊論文は4本で ある。

教育 に追われ、 また編集 に集 中 した30代に蓄えた数学思想が 、40代になって一気 に花 を開いた形である といえよ う。

さて、ゲ ッテ ィ ンゲ ン大学での リーマ ンの後任 の状況 をみてい こう。

2デデキ ン ト全集 に所収の公刊論文は全部で34本ある。(著作 、編集、およびそれ らにちなんだものは除 く。)うちゲ ッティンゲン時代のものが6本、チュー リッヒ時代のものが5本、プラウンシュヴァイクに赴任 して以降の60年代の公刊論文はない。

31865年にチュー リッヒヘの再任の話が出ているようであるが、デデキン トはこれを断っている。

(3)

リーマンが没 したのは 1866年 だが、後任が決まるまでには2年かかっている。デュガッ クは資料 として、物理学者Wヴ ェーバー 4とハ ノー ファーの枢密参事官ヴァル ンシュ テッ トとの文通をあげている。(141,pp 166 167)そ れによると、まずベル リン大学 に打 診をして断 られていた らしい。(当時はクンマー (Erllst Kullllller,18101893)と ヴアイ エルシュ トラス (Karl Webrstrass,18151897)が教授職 にあり、クロネッカー (Leopold Krolllecker,18231891)は アカデミーの会員として講義資格を持っていた。)そこでヴァル

ンシュテットはクレプシュを推薦 したようだ。5こ れに対 してヴェーバーは手紙の中で、ク レプシュの他にノイマ ン、デデキ ン ト、シェリングの名をあげている。(このうちシェリ ングは、天文部門の兼任 ということで、対象か らはずれたようだ。)

これに対 してヴァルンシュテットは、やは リクレプシュが良いという意見を述べている。

その際 「ここでデデキン トを採用すると、シェリングやシュテルンを傷つけることになる か ら、そのような ことは避けた方がいい」 という趣旨のことを述べている。

デデキ ン トとシュテルン、シェリングの折 り合いが悪かったことはすでに述べたが、か な り対立は深刻であったようである。

結局クレプシュが 1868年 に後任になったわけであるが、すでに述べたように、彼は 1872 年に急死 して しまった。ここで再び後任人事が発生することとなる。このときはデデキン

ト、リプシッツ、フックス (Lazarlls Fuchs,18331902)の 名前が挙がって、1874年 にフッ クスに決定 した。(デデキン トはこの話を断った らしい。)

ところが、フックスは翌年1875年に転任 して しまい、またもや人事が発生する。 この ときの状況については、友人ヤコプ・ヘンレか らデデキン トヘの手紙によって窺い知るこ とが出来る。(141,pp 172 173)そ れによるとフックスが転任 した件は、ゲッティンゲン の方に何かまずいことがあった らしい。そ して、人事で再びデデキン トに声がかかったよ うだ。ヤコプ・ヘンレは、是非 この話を受け入れるよう強く勧めている。デデキ ントの家 庭の事情も心得た うえで、大学での研究者としての経歴を再開するべきだと情熱的な文体 で説いている。

だが この誘いも結局断ってしまったようである。(デデキン トの返事はデュガックの資 料にはない。)著作の発表状況を考えると、 この機会はデデキン トが大学での経歴を再開 する大変良い機会であったと思われる。また、1872‑75年にブラウンシュヴァイクの学長 の仕事を務めたことを考慮すると、1875年 という時期はプラウンシュヴァイクを去るのに 適 していたともいえるだろう。(最も、そ こまでの名誉職を務めた ら、他所へ行 くことは 著 しく困難になって しまったとも考えられるが。)

ゲッティンゲンの後任は、結局シュヴァルツ(Hermann Amandus Schwarz,18431921) に決まった。6このポス トは後にHヴェーバー、ヒルベル ト(David Hilbert,18621943)

)に引き継がれることになる。(ちなみにシュテルンが退職 したあとのポス トを引き継い だのは、クライン(Fel破 Klein,18491925)であつた。)

4wヴ̲バ (Wilhelm weber,18041891)は 、ゲ ツテインゲンの解剖学者ヤコプ・ ヘ ンレ(」akob Henle,18091885)と ともに、デデキ ン トの規 しい友人であった。年齢はデデキン トよ り20‑30年ほ ど年長 ではあるが。

5当時ク レプシュはギーセ ン大学 にいた。実はク レプシュがギーセ ンに赴任 した ときの人事で、デデキ ン ト の名は他の数名 とともに挙がっていた。 また、クレプシュがギーセ ンを去る際の後任人事で もデデキ ン トの 名が挙が つていたよ うであるが、デデキ ン トは断った らしい。

6シュヴァルツは1892年までゲ ッティンゲンにいて、後にベル リン大学に移った。

(4)

1.3  18804手

1880年代 には論文が6本ある。すで に述べた ように、1880‑82年 にヴェーバー と共者の

『代数関数論』が出版 された。 また、1870年代 に草稿が書かれていた 『数 とは何か、何で あるべ きか』 も、1888年に出版 され る。

1880年にはデデキン トが ドイツ数学界で認め られる出来事があった。ベル リンアカデ ミーの通信会員に選ばれたのである。デュガックは、クロネッカーによる推薦の ことばを

紹介している。(141 pp 73‑74,い 1)それによるとまず教育での貢献、編集での業績が認め

られて いる。最後 に整数論での業績が述べ られ るが、「代数的数 に関 しては、私の方が先 に思 いつ いたが、デデキ ン ト氏の方が先 に出版 した。Jと述べている。

このいわゆる 「先取権 問題」について、デデキ ン トははっき り否定の態度をとっている。

1850年代 にクロネ ッカー と交流が あったのは確かで あるが、デデキ ン トの着想 自体が クロ ネッカーの思想 に由来す るものであるとい うことはな い、 という立場で あるよ うだ。 この 件 につ いては、本 稿で は これ以 上立 ち入 らな いでお く。

クロネ ッカーの発言で もうひ とつ 目を引 くのは、『連続性 と無理数 』につ いて全 く言及 されて いない ことで ある。後述す るパ リアカデ ミーで も似たような状況があ り、受 け入れ られ るの に時間を要 した ことが窺 える。

ちなみに、他の数学者がアカデミーに受け入れられた時期は、次のようである。(‖

p74)

リーマン(1859)、 クロネッカー(1861)、 ハイネ(1863)、 ザイデル(1863)、 クリス トフェ (1868)、 クレプシュ(1868)、 リプシッツ(1872)、 シェリング(1875)。

さて大学就職の機会であるが、年齢が50代に達 しているにもかかわらず、いくらかあっ たようである。

デュガックはカン トルがハレ大学への赴任を勧めている件を紹介 している。(141 pp 126

127 pp 239‑248)ハイネ死亡による後任を、カントルが熱心に勧めてきたのである。(カ ン トル自身もハ レ大学教授であつた。)書簡のや りとりは 1881年 11月 より1882年1月 わた り、結局は高齢の母親を残 してプラウンシュヴァイクを去ることは出来ない、と断っ ている。(事実デデキン トの母親は1882年に亡 くなっている。)

興味深いのは、書簡のや りとりの中で、カン トルが「クンマー、クロネッカー、ヴァイ エルシュ トラスは、あなたが ドイツの大学での経歴を再開するのは有意義な ことだと言っ ている」と述べている部分である。(1881年 12月 31日)我々は、ベル リン学派とデデキン トが深刻に対立 していたという印象をもって しまうが、良好な関係 とはいえないにしろ、

それほど決定的な対立はしていないとみてよいのではないか。

このほか、1885年 にマールブルク大学、ゲッティンゲン大学の人事で名が挙がっている ようである。

(5)

1.4 1890年代 以 降

1894年 にデデキ ン トはプラウンシュヴァイクTHを退職 した。7(後

任はフリッケ (Robert

i歯,18611930)(全 集 の編集者のひ と り)である。)ただ、教 える こと自体 は不定期 に続 けて いた よ うだ。

著作の生産 は この時期 も盛んである。まず 1894年 の『整数諭講義 』の第4版がある。公 刊論文 は13本 (う 1890年代が8本)で、 この うち、1891年1900年に東論が 出版さ れて いる。60才を過ぎて、新たに 「概念の創造」に着手 しているわ けで ある。また、フロ ベニ ウス (G∞ 電 ■obenius,18491917)と の文通で、群指標 の理論 に寄与 している。(文

通 自体 は1880年代 に始 まっては いたが、1890年代が主である といえる。)

1900年には、パ リアカデ ミーの通信会員 に、1910年には同アカデ ミーの外国人会員 に 選ばれている。8通 信会員の ときは ジョルダ ン (Camile」。rdan,18381922)が 、外国人会 員のときにはピカールrdle PiCard,18561941)が、推薦のことばを述べている。(141

pp 194‑195)フ ラ ンスで は ク ンマー の こ とが よ く知 られ て いたた めか 、 両者 と もに整数 論の功績 を中心 に述べて いる。『連続性 と無理 数 』『数 とは何 か 』につ いて言及 され て いる の は ピカールの方 だ けで ある。(最もジ ョルダ ンは、 自 らの解析 学 の教科 書 ではデ デキ ン

トの理 論 を紹介 して いるよ うで ある。)

ちなみにデデキ ン ト以前に会員 になった数学者の リス トは、次のよ うである。(141 pp 103‑

104)

通信会員 (ドイツ):プリュッカー(1867)、 クロネッカー(1868)、 ヴァイエルシュ トラス

(1868)、 ボル ヒャル ト(1876)、 フックス(1895)、 シュヴアルツ(1895)、 クライン(1897)、

リプシッツ(1900)。

外国人会員:ベッセル(1840)、 ヤコピ(1846)、 ディリクレ(1854)、 クンマー(1868)、 チェ ビシェフ(1874)、 ヴァイエルシュ トラス(1895)、 ス トークス(1900)。

1909年 には兄のア ドルフが、1914年には同居 していた姉のユー リエが亡 くなった。2年 後、第一次大戦の最中の1916年2月 12日 に、デデキン トは没 した。

日常生活

以下では主 として文献 [71に所収 の、イルゼ・ デデキ ン ト (兄の孫娘)による小文を参 考 とす る。

2.1 プラウンシュヴァイクでの生活

リヒャル ト・デデキントがプラウンシュヴァイクにとどまった要因のひとつには、家族 との親密な結びつきがあるといえる。ゲッティンゲン大学は、父や兄が法学を学んだ大学

7実は文献 国 では、1896年に退職 した とあるが、これはおそ らく誤 りであろう。 これ以外の文献、たと えば121,141,151,181の いずれにおいて も退職は1894年となってお り、 こち らの方が正 しいと判断 してよい だ ろう。

8日頭発表時に配布 した資料では、通信会員:1890年、外国人会員:1900年とな って いたが、 これ は誤 り であった。お詫び し、言r正 しま丸

(6)

であった。『生涯(1)』 で述べたよ うに、父 も母方の祖父 もコ レギウム・ カロ リヌム (プ ウンシュヴァイクTHの前身)で教えて いた し、兄はプ ラウンシュヴ ァイ ク地方裁判所の 判事 を していた。 9そのような環境で、彼は母親や長姉 と共 に暮 らしていた。 また、兄の 家族 とも日々親 しく交流 し、甥や姪 を大変かわ いが って いた とい う。

ブ ラウンシュヴ ァイ クとい う都市 に 目を向ける と、同地は決 して辺境 の地ではない。ブ ラウ ンシュヴ ァイク公の居住地 として発展 してきた同地 は、文化都市 としての水準 も決 し て低 くはなか った。

デデキ ン トは実際、同地の文化的な名誉職 を引き受 けていた。中等教育会議のスポーク スマ ンに加えて、文芸会議の委員長 も務めて いたのである。彼個 人はイギ リス文学 (デ ケ ンズ、スコッ ト、シェークス ピア)、 ドイツの詩 を好んだ。家 にはゲーテの初版本があっ た という。(長姉のユー リエが詩人 として晩年 に賞 を受 けた ことはすで に述べたが、リヒャ ル ト自身、あるいは兄のア ドル フも含めて文芸 にはある程度の心得が あったのだ ろう。)

デデキ ン ト家の所有す るハル ツプル クの別荘 につ いて も一言紹介 してお こう。

ハルツプル クは、プラウンシュヴァイ クか らもゲ ッテ ィンゲ ンか らもほ どよい位置 にあ り、両地の知識人 との交流 に適 しているといえる。 10(長姉ユー リエは、 ここで グ リム兄 弟 と会 っているそ うである。)11リ ヒャル トは、 ここで無理数論、 自然数論の序文を書い た。 また、ゲ ッテ ィンゲ ン時代 に リーマ ンが体調不良に陥 った ときに、 この別荘 に誘って いる。(自 らの書 いた伝記では、 自分の貢献を伏せている。)カ ン トル ともここで議論 を し ている。

リヒャル ト・ デデキ ン トの人柄 につ いて もイルゼの述べて いる ことをみてお こう。イル ゼは、彼はとにか くまず謙虚であった という。服装は簡素で、自分に厳 しく、他者には親切 であった。(デュガ ックに所収の手紙 にみえる知人の発言か らもそ うした ところは窺える。)

彼のユーモアを示す有名な逸話が ある。1890年 代のある とき、数学者年鑑 にデデキ ン ト の死亡年 月 日が掲載 され た。デデキ ン トは編集部 に手紙 を書 いて、「日付 (月 )につい

ては将来た また ま一致す ることが あ りうるか もしれ ませ ん。 しか し、 日記 によ ります と私 はそ の 日は全 く健康で、ハル ツプル クの別荘で カン トル と議論 して過 ごしてお りました。

もっ とも、私 の数学上の誤 りが見 つかって死 にそ うな思 いを しま したが。Jと いった こと を述べた とい う。

イルゼが紹介 して いる話が もう一つ ある。 リヒャル トは75歳の ときに甥の結婚式 に出 席 した。「数学な どとい う無味乾燥 な学問 に私 は興味 を覚 え ませ ん」 とい う花嫁 に向かっ て、 リヒャル トは微笑んで、「私 は九々の表は偉大な詩だ と思 って いるよJと言った とい う。(これが実はイルゼの両親 の結婚式で あった。)

ちなみ に、彼は親族 とのつきあいでちょっとした詩 を書 くのを常 として いたようである。

フロベニウスヘの手紙 にて書 き送 った詩 を、イルゼは 「リヒャル ト・ デデキ ン トの詩の才 能が現れた もの」 と評 している。

9『生涯(1)』 にお いて、母方祖父 を帝国郵便 局長 と したが、 これ は誤 りで あった。帝 国郵便 局長で あった のは、母 の祖 父で ある。お詫び し、訂 正 します。

プ ラウ ンシュヴ ァイ クはゲ ッテ ィ ンゲ ンのお よそ北北東100キロほ ど、ハル ツプル クは両地 の中点か ら お よそ 東南東25キロほ どの と ころにあ る。

1lWヴェーバー もグ リム も、ゲ ッテ ィング ン七教授事件 の当事者で あ る ことは興味深 い。

(7)

2.2 デ デ キ ン トと政 治

リヒャル ト・デデキ ン トの政治への関わ りにつ いて、イルゼは若千の ことを述べて いる。

それ による と、彼 は時代 を追 って強 まる軍 国主義に懸念 を示 して いた という。イルゼが聞 いた話、ヤ コプ1ヘンレに送 った書簡な どか らその ことが窺 えるという。

イルゼ は次のようなエ ピソー ドを紹介 している。リヒャル トの兄ア ドルフは、1848年 にゲ ッティンゲ ン大学 に入学 した際、プラウンシュヴァイク出身者か ら成る学生同盟 Bruns宙ga"

を結成 した。122年後 に リヒャル トもそれ に加入 した。 しか し、1902年、「根本的な見解 の相違」 を理 由に、兄弟は ともにこの会か ら脱退 した という。会が軍国主義的な傾向 を帯 びて きた ことに抗議 しての ものであろう。

1914年、第一次世界大戦開戦のお り、当該戦争を賛美す る知識人たちによる宣言が出 さ れたが、デデキ ン トは これへ の署名 を拒否 した とい う。2年後 にデデキ ン トが亡 くな った ときには、戦争の最 中であるにもかかわ らず、 フランスのアカデ ミーよ り感謝の気持ち と 限 りのな い哀悼 の意が示 されたので あった。

デデキ ン トと音楽 3.1 デデキントと音楽

デデキ ン トと音楽の関係 は、デュガック (1976)に 所収の資料か ら知ることができるが、

1981年出版の 171(イ ルゼの小文、家族への手紙)ではさ らに詳 しい ことを知ることがで きる。

イルゼ によれ ば、音楽はデデキ ン トの第二の専門分野 といってよいものであ り、チェロ、

そ して ピア ノの力量は玄人の水準 に匹敵 した とい う。(地域の音楽会で 、歌由な どの伴奏 を務 める こともあった よ うで ある。)特に好 んだのはベー トーベ ン、 シューベル ト、モー ツ ァル ト、ハイ ドン、バ ッハであった とい う。

もともと幼少時か ら家庭で音楽 に親 しんで いた らしい。ゲ ッテ ィング ンか ら姉 にあてた 手紙 にも音楽の話題がたびたび登場 し、姉弟が ともに音楽 によ く通 じていることを示 して いる。

ゲ ッテ ィンゲ ンでは音楽の才能 をさらに伸ばす ことができた。ディリクレの妻 レベ ッカは ロマ ン派前期 を代表す る音楽家、メンデルス ゾー ンの妹で あった。 また この時代にブラー ムス、 クララ・ シューマ ン、 ヨア ヒムな どとも会 って いる らしい。

後年 (1890年 )知 人にあてた手紙では、「チュー リッヒでは、自分のほかにチェロを弾 く 人間が いた ので、 自分は もっぱ らピア ノのパ ー トを担 当 して いた」 と述べて いる。 (14])

p158)ま た、1860年ヤ コプ・ ヘ ンレの夫人にあてた手紙では、現在 ガウスやディ リク レ の著作の編集作業 を して いる ことを述べた あ と、「バ ッハのプ レリュー ドとフーガ を弾 く ことが、よい気分転換 になるのです。Jと語 つて いる。

イルゼはデデキ ン トの生涯の友 人 Hans zinよe(SOmmer)(18371922)の ことを紹介 し

て いる。彼はコ レギ ウム・カ ロ リヌムでのデデキ ン トの後輩 にあた り、ゲ ッテ ィンゲ ンに 121848年に学生同盟が結成されたというのは、一見奇妙な ことに思える。19世紀前半に祖国の統一を願っ て ドイツで盛んに結成された学生同盟は、次第に急進的な様相を帯び、1848年に禁止 されたか らである。お そ らくア ドル フの創設 した会はごく小さな もので、穏健な性格を帯びたものであったのだろう。

(8)

お いて は 「 ドイ ツで初 めての ガ ロア理論 の講 義」 を聴 いた4人の うちの ひ と りで あ った。

1859年にブ ラウ ンシュヴ ァイ クTHに赴任 し、デデ キ ン トの同僚 とな ったが 、1884年 に早期 退職 を して 音楽家 とな り、多 くの歌 曲 を残 した。

Hans Zinckeに よれば、デデキン トはベー トーベンやシューベル トの交響曲や室内楽を 自在 にピアノで弾きこなしたという。

イルゼ はデデキ ン トの作曲 につ いて何 も述べていな いが、DSB plにはデデキ ン トが作 曲 も した という記述がある。兄のア ドル フの台本 による室 内オベ ラを作 ったそ うである。

(室内オペ ラとい うのは楽器編成が室内楽 レベル とい う意味で あろう。 また、兄に も詩作 の心得が ある ことが窺える。)

イルゼ による と、デデキ ン トは当時興 り始めて いた新 しい音楽 (ワー グナーな ど)か は、距離 をお いて いたよ うである。

3.2 著 者 に よ る 私 見

以下 に述べ る ことは、著者の全 く私 的な意見である (音楽史の文献な どを真面 目に参照 して いない)こ とをお断 りしてお く。(特に後 半部分 はす こぶ るあや しくな る ことをお断 りしてお く。)

3.2.1  ロマ ン派 (プラームス)

メ ンデルス ゾー ン (Fel破 Mendelssohn,18091847)と デ ィ リク レが縁 戚で ある ことを 述べたが、両者 には似通 つた ところが あるよ うに思 える。デ ィ リク レはす ぐれた指導者で あつたが、メンデルスゾー ンに もそ うした ところが あつた らしい。楽団の指導 にす ぐれ、

現在 の 「指揮者」のあ り方の基礎 を確 立 した といわれて いる。(指揮棒の導入 は、 メンデ ルス ゾー ンによる ものだそ うで ある。)

メンデルスゾー ンと同世代 のシューマ ン(Robert Schumann,181卜 1856)は内気で、存 命 中はむ しろ評論家 として知 られて いた。メ ンデルス ゾー ンに楽団の指導 を託 されたが う まくいかず、そ うした ことな どが重な って、晩年 には心身の不調 にお ちいった とも言われ て いる。 これ は講義が得意でなかった リーマ ンの姿 に重なるような気がす る。(もっとも、

シューマ ンは現在 も作山の力量が未熟だ といわれ ることがあ り、この点は リーマ ンと全 く 違 うが。)

シューマ ンがその才能 を認めた プラームス (」ohannes Brabms,18331897)が、デデキ ン トと実際 に出会 って いるのは大変興 味深 いが、両者が また少 し似通 って いるよ うに思 える。

ブラームスは推敲 を丁寧 に行 う習慣 だ った らしい。交響曲第一番 は20代の ときに着手 され たが、発表 は40代であった。(このあた りはデデキ ン トの代数的整数論の事情によ く 似て いる。)また、彼 は古典主義 といわれ 、古典 を徹 底的 に研究する ことによ り自分 の創 作 を行 った とされ るが、同時 にまた シェー ンベル クに影響 を与えた とも評 され る。 また、

管弦楽法の分野では、後の世代 に受 け継がれ る基礎 を作 った といわれ る。

(もっとも、プラームスは音楽界の中心で認め られた いという野心 もあったので、その あた りがデデキ ン トと少 し違 うといえるだ ろ う。)

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3.2.2 デデキ ン トの音楽 と数学

科学者が音楽をた しなむ ということは しば しば話題 になる ことである。た とえば、アイ ンシュタイ ンやハイゼ ンベル クが楽器 を弾 いた とか、近 いところではカ ン トルが ヴ ァイオ リンを弾 いたな どとい うことが知 られて いるよ うだ。 こうした中で、デデキ ン トの場合 は 音楽 と数学 の結びつきが いっそ う深 い ものに思える。

デデキ ン トは自ら楽器 を弾 くだけでな く、伴奏 ピアニス トで もあ り、作曲 もした。合奏 ではチ ェロの (バスの)パー トを受 け持 っていた。旋律だ けでな く、和声やバスのパー ト を担 っていたわけである。旋律、和 声、バス旋律、 この三つの要素 に同時 に神経 を行 き届 かせ る ことと、「編集 に没頭す る ことを通 して、数学の基礎 を築 く」 とい うのは、 どこか 似通 って いないだ ろうか。「そ の上 に様 々な数学の理論や結果 を奏で るためのバ ス旋律 と して、集合論を考えたJとはいえな いだ ろうか。型を獲得す る ことが、即そ の先の 自由に つなが るよ うな、そんな知的活 動が常 に念頭 におかれて いたのではな いだ ろうか。

素人が作曲するときに最 も注意す ることは、最初のテーマ に含 まれ る諸要素を一貫 して 保つ ことで あ り、 この 「一貫性 の保持」 とい うものが、すべての数学 の根底 に横たわ る基 礎 を追求す るにあた り、大 いに役立 った とはいえないだろうか。 あるいは対称性 に対す る 鋭 い感覚が磨かれ ることが、構造 を見出 し的確 に記述する才能 につなが ったのではなか ろ

うか。

デデキ ン トは 1854年 に就職講演 131で「概念の創造Jを主張 し、一生か けてそれ を貫 い た。 この ことと音楽へのかかわ りがが全 く無関係 だ とは、筆者 には どうして も思 えな い。

単な る 「良い気分転換」以 上の ものが ここに存在 した、 と思 えてな らな いので ある。

おわ りに

デデキ ントの生涯にについてもう少し色々知られてもいいのではないかと思い、今回資 料を改めて読んでみたが、(予想通 りというか予想以上というか)ドイツ語 (特に 19世 紀 のそれ)が難 しくて難儀をして しまった。結局きちんと読むことがかなわなかった資料が まだ多 くある。現在、見落 としや誤 りがあることをおそれているが、必要に応 じて修正、

補足をするようにしていきたい。13

参考文献

K.R.Biermann, "Richard Dedekind im Urteil der Berliner Akademie" , Fortschungen und Fortschritte 40, S.301 302. (1966)

Kurt-R. Biermann, "Richard Dedekind", Dictionary ol Scientifc Bibliography (Scribner, 1981).

R.Dedekind, "Uber die Einfiihrung neuer Funktiouen in der Mathematrk", Gesam- melte mathematische Werke III, pp.428-438. (1854).

13と りあえず、こちらhttp:〃www7b bigiobe nelp/〜 erkyll1/にホームベージを開設したので、ここで誤

りを修 正す るよ うに した い。

121

131

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141 Pierre Dugr,Ricλ

̀イDede鷹,̀θι lc3」o,ごenentt de3 matλι

ιj (Vrin,1976)

151W.晦,D St・ldj●n der Mαttem● a■ &nれ ftcen伽erat"ten 3eJι ■ara deg raJalr■tl &rra(■ubner,1916).

FI R.■ icke,E.Noether und O.Ore(hrsg.), Cし7 rerte M。emαttci¢ ″θtte,I III (VieWeg,19311 1932 i ChL、 1969).

 WoSCharlau(h喝 ),RICh̀だ Dグnd f∂θl‑1"I(Vieweg,1981) 181W.Sallarlau(brSg。), M・em●333Cλ

̀ fFa ttlὶ れ ,ettttc″o■」 ιゴ%J

(■iedr.vb型疵Sohn,1990).

191赤 堀庸子,『 デデキ ン トの生涯(1)』 26回数学史シンポジウム (2015)(津 田塾大学 数学・ 計算機科学研究所報37,"16)pp.10卜114.

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参照

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