宗 心 九
奨宗連合學會研究紀要
ー 第 一 輯 一 一
暉 和 3'年 IO日
虞 索 碑 合 囀 會
親鸞咆人腐頭 正像末法和讃(国宝) 翡田屈専修寺絨
阿禰陀経集註︵国宝︶ 本派本願寺蔵
一回大會研究登表︵昭和二九︑一て一四︶
鍍宗教園と数學:·:·………•……••……常
『正像末和讃』の成立過程:·………•••………•…………·::宮
﹃ 淮 土 文 類 衆 紗 ﹄ に 就 て の 疑 問
: ・
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租
専 修 寺 法 賓 物 の 特 質 :
・ :
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第二
回大
會研
究寝
表︵
昭和
一︱
‑0
︑
初期賀宗教圏の社會的基盤について⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝・:
﹃ 見 聞 集
﹂ よ り 見 た る
﹃ 教 行 信 證 ﹄ の 成 立 と そ の 意 義
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. . . .
. . . .
. . .
﹃ 阿 蒲 陀 経 ﹄ の 流 偲 に 闘 す る 諸 問 題
: . . . . . . . . . . .
: ・
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・ ・ 小 笠
鏡の御影に就いて⁝
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9
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・ ・ 小
目 次
奨 宗 研 究 第 一 輯 目
二二
︶
次
宣
田 繁
松
俊 桑 葉
秀
︵ 七
P )
︵全
︶
︵哭
︶
明︵
ヽ
賢 ︵
一 ︳
一 ︶
秀︵
四
P )
綺 闘 遵
︵ 七
︶ 井 亮 棋
︵ 一
︶
彙 信 と 證
次
一念覺知の異義に就いて:・………•••大
﹁ 堂 僧 ﹂ の 解 繹 に 封 す る 疑 義 :
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. .
;:·…………••••……·:;……••佐
行 巻 の 行 に つ い て
・ ・
・ ・
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. . . .
. . . .
囀••…·:;.
『教行信證』化身土巻の古葛延書本の零残について…•ヽ・・・・・・・・・・日
疑 蓋 無 維 の 倫 理 ー ー ﹃ 信 巻
﹄ 三 一 問 答 を 中 心 と し て ー
・ ・
・ ・
・ :
. . . . . .
竃•…・・・・・・・・・山
淮土教への新視覺………••••••…
. . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
: ・ ・ 結
目
の古今楷定
ーー信一念における時の構造ー—…•••………·:. . . .
. . . .
. . . .
堤
の教學………•••………・・・籐
報:・………·:·…•,
. . .
. . .
. . .
. . .
. . .
. . .
. . .
. . .
. . .
. . .
. . .
. .
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. . . . . . . . . . ;
: ︵ 一 さ
︶
城 本 野
令
本願寺宗門の生活規範に闘する史的考祭・・・・・・・………·:·………•長谷山正観(
I-四)花 浄
籐 哲
英 ︵ 九 一
︶
環 ( ‑ ︱
︱ 主 ︶
文 ︵ 一 王
D
聞 ︵ 一 六
︱ ‑ ) ^
玄 立
︵
^
ヽ原 性 賓
︵ 一
︶
とも
なり
︑
その基礎ともなる諄ではありましようが︑同じ佛数に於ても︑
異理性を承認している立場から研究して行くという貼に︑敦學というものの意義がある︑ということを前提として話
を進
めま
す︒
箕宗教圏と数學 の教學とは︑全然一緒のものではない︑ということが原則になっ
それぞれに分れた他の宗におけるその宗の その基盤
そ
いう
こ
そ
従っ
一般に言われます佛敦學が︑
教 圃 と 教 學
話していただ苔たいと思いますから︑
てか
かつ
て︑
ごく簡寧に私の話を清まさせていただ苓たい︑と思います︒
して
︑
教學と申しましても︑異宗教圏にあっては異宗教學というものが中心になる諄ですが︑大儒教學といえば︑それぞ
れ一定の特殊の宗数︑箕宗教學にあっては異宗のもつている異理性を承認するという立場︑そしてその立場からその
宗数を研究するのが教學であり︑異宗の場合は異宗學になる輝であります︒頭から奨宗の異理性というものを否定し
いうものに於ては︑
ての
晨 宗
いようでありますの
でい
し し
︑出来れば少しでも多く
常
磐
井
尭
砒
て︑この
々圃
と
つて
い
せ
そし
そ
つて
い
置宗
教圏
と敦
學
こういう立場に立つて研究して行く為には︑どうしても私共研究する者は︑生苔る上に於ける生活上の燈瞼が予想
されなければならないのでありまして︑生きる儒験を離れて本営の教學は成り立たないと思います︒こういう生きる
慨臆私共の生きて行く儒瞼が︑生きて行く上に現われるいろいろな障害とか︑
そのぶつつかった時に︑その妨げとなるもの︑或はその問題を︑自分の︑
か︑と思い
こういう證瞼を通して︑
考えられるのであります︒
賓践的な敦學の研究は︑ はつきりきまった態度で︑
この異理性を承認する立場が確立されて行くのであります︒
上に於て︑敦學の歴史的な研究の立場と︑教學の組織的な研究の立場と︑
な學的研究が板底になります︒ のように役立つか︑ この立場から研究されて行く
そうしてもう一っ賓践的な立場︑があると
その教圏が成り立った上に於ては特に意味のあるものであって︑
そういうことを︑とい その属している敦閣の教
あり
ます
︒
そう
なる
と︑
から︑活動を最も効果あらしめる腐の方法の研究面が︑この賓践的な研究面に
祉會に封して有炊ならしめる方法の研究になるので︑所謂敦學という面ではなく︑それより歴史的︑組織的立場の方
が學としての姿をとつていると言えましよう︒最初︑敦閣が成立した営時では︑或は布敦︑開敦といった面ではこの
賓賤的な研究が自然に盛になされる調でありますが︑賓践的研究をするために必要な生の櫃瞼は︑やはりその組織的 うか︑自分と同化しそしこそこに︱つのいうものがあるのではない
いも
の
ナ ︑
, 9
けるとい
けで
はな
しに
︑
ヘ
じものに
叉
いろんな問題にぶつつかつて行く︒
しかし歴史的立場ということになると︑ この組織的な學というもののドソク︑といいますか背後になるという貼で璽要なのは︑歴史的研究と言えると思い
ます︒特に敦園が成立した営時でなしに︑成立後年月を経た後の敦學を考えますと︑之は敦祖という人が其虜にあっ
て説を設<繹ではないのでありまして︑説かれたものの博えられたところに隧つて之を解繹し︑之を承認して行かね
ばなりません︒最も重要な面は︑書き残されたもの︑及びその教圏の最も根本となる経典に封する箕理内容を︑はつ
きり記述することに重要性があることになって参ります︒
意は結構でありますが︑ 一般の歴史と同じように︑歴史的事賓といいますか︑史賓に封して之を尊
重して行かねばならぬのは申すまでもないことであります︒ともすれば宗祖に封するうやまいとか︑経典に封する敬
歴史的事宵を曲げねば承知が出来ないとか︑或はそれを櫂威ずけたいという氣持から︑こと
す︒事賓を尊軍するという上に於ては︑ さらに歴史的事賓を曲げてその異理性を現わそうとするのは︑之は學として斥けられねばならない在り方だと思いま
一般の歴史と斐りはない輝ではありますけれど︑この数學の歴史的研究の面
その殺展︑そういうものの朕態ということが大告な要素になにおきましては︑特定の宗教の具儒的内容︑生活活動︑
ります︒そしてそういう歴史的事賓が︑
持ったか︑という貼が研究の大事な所なのでありまして︑事賓を曲げなければ承知出来ないというのではなしに︑
の事賞を尊軍して︑それが如何にその宗教の登展︑或はその生活活動の上に︑どの様な債値を示
して来たか︑ということを認めるということが必要だと思います︒ただその意味におきまして債値を認めなければな
らな
いが
︑
その事賓を通して︑ その宗敦の具儘的内容︑生活活動︑及びその登展の上に於て如何なる債値を
そ
それはあくまでも事賓を尊軍しての債値なのでありまして︑自分の奉ずる所の宗教︑勿論それは宗教に封
する異理性を承認した立場から研究するのではありますが︑それなるが故に異理性が招封的なものでありまして︑他
のものはことごとく排斥しなければならぬという見方から︑極端な排他的な姿となり︑過去のものばかりに紹針的な
翼宗教圏と敦學
は︑誠に喜ばしいこあると思います︒ せんが︑敦學は萎縮した形をとつ 我が異宗教圏に於て︑こは歴史的な面に
呉宗
教圏
と教
學
そうなると自ら歴史的な敦學も根本的な革新ということを必要とすることがでてくるのであります︒そのようにし
て根本的な革新が生れでるということは︑歴史的な教學の
K
に於て嘗然あり得るのでして︑とは︑敦學の登展を阻害し萎縮させて行くことに他ならないのであります︒ それをおさえるというこ
の呉宗教學が︑従来︑特に江戸時代にも敦學は喧ましく學ばれ
ていましたが︑歴史的な教學史という面からの研究の仕方は︑所謂歴史精誹に合致しないものが多かったのではない
でしようか︒今申しました様に︑招射的箕理であるとして他のものを排斥するとか︑過去のものを紹封的灌威として
認めて︑歴史的事賓を無視しようとするような見方があったのではないかと思います︒通俗的な見方をすれば︑歴史
精神にもとづいた歴史的な見方をするのではなしに︑尊敬の餘りに︑謂わばひいきの引き倒し︑という形になった様
な姿が窺われるいたします︒従って鱗家的な保護を受けて︑敦圏そのものは安泰な姿を持ったかもしれま
いる︑ということが言えると思います︒ですから︑歴史的事賓による根本的
な革新などは許されなかった︑というのが古い敦學の研究の在り方ではなかったかと思うのであります︒
今日今後に於て︑本営に敦學が登展して行く為には︑その敬學の歴史的研究はあくまでも歴史精神に従って事賓を
尊重し︑しかもその歴史事賓がその宗教の呉理性を現わし︑叉屈會に反映し︑生活活動︑或は登展の上に形を示して
来たところを認め︑同時に将来に封してどのようにあるべきか︑ということをはつきり暗示してゆくようなものにな
つてゆかねばならないのであり︑又そういう風になりつつあるということ︑叉現在そういう風に研究されていること 灌威があるという態度は慣しまねばならぬと思︑
四
この歴史的な面から見るのに封して︑もう一っ別の見方があります︒その宗教自儘の異理内容︑その宗教の持つて
いる所の人生の債値︑人生の︱つのきまり︑
No
rm
及びその宗教のもつている妥嘗性を論述する︑
が正常である諄をはつきりさせるのに︑
その呉理内容と人生の債値︑ へ繋がったり︑もしくは古い時代のように︑軍に言葉の研究に終つてしまうものではなく︑持つている内容の問題︑
ともすれば古い江戸時代の敦學というものが︑人生の債値という問題よりも︑字句の問
題に終始して︑それが如何なる妥嘗性を持つているか︑如何なる異理内容を持つているか︑又その異理内容がどう主
張されているか︑こういう風に主張されている異理内容であるが故に︑又妥嘗性を持つものであるが故に︑こういう
風に主張されている所の人生の債値を持つものであるが故に︑之は正しいものであることという説き方ではなかった
貼が多かったのではないでしようか︒その奨理内容とか︑
に大事なことは︑黛振的な氣持を捨てて述べられなければならないことであります︒これがある時代には︑妙に黛派
的な偏見を以て之を研究し述べることに終始しているのではないか︑ということが多分に窺われます︒
こういうような研究の甚礎になるのは︑先に申しました歴史的な研究が︑その本質賓現の過程として大きな役割を
持つてくる課ではあります︒その黛派的な氣持があってなされる時は︑
この窯派が良い︑この黛派でなければならないのだ︑
現在異宗敦閣が︑+にも分れていますが︑本来その主張する敦義︑異理内容には何も幾りはなく︑ただ歴史的成り
立ちの原因が違う為に分れているので︑その承認さるべき箕理内容には愛化がないわけであります︒従って法要作法
等に於てはそれぞれ相違を持つとしても︑教學の面に於ては各個に孤立した立場でこれを研究し︑恰もその呉理内容
奨宗教圏と敦學 本営の敦學ではないと思います︒ ︱つの組織的な敦學が打立てられなければならない︒ただその言葉から言葉
その妥嘗性の主張︑
五
そしてその主張
それが正営であることを述べる上に特
その本嘗の債値︑その正しさを述べるよりも︑
そういう面を強調しようということになる領向があり︑それは
これをもちまして︑呉宗敦隈と敦學に閲する私の話を終ります︒ 容 ︑
呉宗教圏と敦學
一層明確に把握し以つてその属理内 を異にするものの姿で封立すべ言ではないと思います︒嘗て︑或る佛敦研究家と自稲する一英國人から或る人へ宛てた手紙の中に︑何故異宗教隅か︑その︑賓践的乃至歴史的敦學の面で完全に合同した歩みをしないのかという意味のことが書いてあったのを見たことがあります︒此の貼︑各宗派毎に餘りにも所謂忠節心の強い人々によって︑郎ち偏狭な愛山護法の志によっその教園が護持されて来たことも︑反省されなければならない時機に来ていることを敦
えられるような氣がいたします︒殊に歴史的研究に最も大事な史料を各敦閣で分散偲持していながら︑これを生かす
ことが出来なかったのは惜しいあったと思い
今回この呉宗連合學會の設立を機會として鞣宗教圃打つて
丸と
なり
︑
の人生に於ける債値を顆示し︑而も︑過去の事賓の解繹評債に終ることなくして︑未来に射する理想とし
ての意義を示し︑而してここに︑新しい歴史を造り出だす生含た力を持たなければならないと思います︒
↑
/
強陀の本願信ずべし︑本願信ずるひとはみな︑振取不捨の利盆にて︑無士覺おばさとるなり︒
この和讃をゆめにおほせをかむりて︑うれしさにかきつけまいらせたるなり︒
﹁正
像末
和讃
﹂の
成立
過程
康元二歳丁巳二月九日の夜寅時夢告にいはく︑ こ
の
<讃敷の少いことA
てゐ
る︒
﹃正像末和讃﹄の成立過程
七
に比して著し の外題と
高 田 派 専 修 寺 に は い は れ る 一 帖 を 蔵 す る
︒ に
の袖書がある︒本文は第九首までが親鸞聖人の冥蹟で︑その後は別筆であるが︑それは外題や袖書と筆蹟を同じくす
るから︑覺然が書露して隠持したものと見られてゐる︒覺然は聖人の門弟で︑﹃交名帳﹂には所見はないが︑高田入
道宛聖人自筆害欣にその名が見え︑高田近在の武士が入信して入道したものと思はれる︒この﹁正餃末和讃﹂の各讃
こと
は︑
この
には諧数を示す屑害の敷字はなく︑終に﹁已上三十四首﹂とあるが︑すべて五首あり︑算定を談つてゐる︒これ
帖の成立について︑なほ考えしむるものがあるが︑それはともかく︑
宮 崎
園
遂
多少異るものがあるが︑ 正嘉元年丁巳壬三月一日
愚禿親鸞糾害之
とある︒即ち正嘉元年閏三月聖人八十五歳の時に︑かうした形の﹁正像末和讃﹂が一往出来たことが知られる︒しか
大日本粟散王︑佛敦弘興の上宮皇︑恩徳ふかくひろくます︑奉讚たえずおもふべし︒
上宮太子方便し︑和國の有楠をあわれみて︑如来の悲願弘宜せり︑慶喜奉讃せしむべし︒
奉讚
﹂第
二首
︑十
一首
﹁太
子奉
讃﹂
第九
首︶
罪業もとより所有なし︑妄想顕倒よりおこる︑心性みなもときよければ︑衆生すなわち佛なり︒
第一
四首
︶
八首の別和讃を載せてある︒即ち次の
であ
る︒
④
R
②八首
︶
① の稲名は︑如来廻向の法なれば︑不廻向となづけてぞ︑ ー
に︑
次の
と闘
係が
多い
¢
稲念きらはる
, I ¥
0 も右の別和諮を載せてゐるが︑これ等は各讃に註記するやうに︑
無明法性ことなれど︑心はすなわちひとつなり︑この心すなわち涅槃なり︑
ところで︑同じく高田山に蔵する顕智が正應三年九月害寓した この心すなわち如来なり︒
は︑賓治二年の初稿本と内容において
草本云︑建長七年乙卯四月廿六日
m
之といふ識語が示すやうに︑建長七年聖人八十一1一歳の時に成ったものである︒しかるに︑
︵一
百十
四首
﹁太
子
︵改
作し
て
この寓本には巻首と巻尾とに 顆智
﹁正
像末
和讃
﹂の
成立
過程
とあ
り︑
次に
︑
が、
⑧同上④に同じ︒ ⑦前掲草稿本別和讃Rに同じ︒
六首
︑
R
⑤ ④ ︵巻尾
︶
R
R
①
行證かなはぬときなれば︑ 褒陀の名琥となえつA︑信心まことにうるひとは︑憶念の心つねにして︑佛恩報ずるおもひあり︒
和厳﹂草稿本第五首︑類智本第二九首︶
末法五濁のよとなりて︑繹迦の遺敦かくれしむ︑涸陀の悲願はひろまりて︑念佛往生とげやすし︒
本第七首︑顕智本第一七首︶
本第八首︑顕智本第1
一 首︶
︵同上草稿本第四首︶
r正像末和讃﹂の成立過程
︵巻
首︶
の
とご
とく
︑
九
にみ
てり
︒
すでにいりたまふ︒
(﹁
正像
末
︵同上草稿
彊陀のちかひのゆへなれば︑不可稲不可説不可思議の︑功億はわきてしらねども︑信ずるわがみにみちみてり︒
南無阿禰陀佛をとなふるに︑衆善海水のごとくなり︑かの消浮の善みにえたり︑ひとしく衆生に廻向せむ︒
右の八首の中︑各讃に註記したやうに︑その中五首は︑文字に多少訂正されたものもあるが︑﹁正像末和讃﹂の草
稿本に牧められ︑二首は別和讃に學げられてゐる︒従って﹁正像末和讃﹂の製作は建長七年の頃に萌芽のあることを
刊の一親鸞聖人全集﹄ 十三首の和諧がある︒しかもこのもの
とこ
とヽ
A
であ
るが
︑
その初に の後に﹁涅槃癌﹄と﹃観念法門﹄との二文を附記してゐる︒ が
あり
︑ ベ
ある
が︑
ここ
の
﹃正
像末
和讃
﹂の
成立
過程
認めねばならない︒
次に︑高田山所蔵正應一1一年九月顕智害寓の﹃正像末和讃﹂は︑本文の終に︑
草本云︑正嘉二歳九月廿四日親鸞八十六歳 と あ る
︒ 即 ち 前 述 草 箭 本 が 成 つ 内 容 は 詢 者 に 比 し て 著 し く 増 加 し
︑ ま た 整 備 さ れ て ゐ る
︒ 再 治 本 と も い ふ
切︵中略︶
れてゐる︒そしてこれにつゞいて
は五十八首に増加して列ねられてゐるが︑その中には草稿本の別和讃第一首①が第一二十八首に入ってゐる︒
この後に﹁愚禿述懐﹂として疑惑讃二十二首と﹁悲歎述懐讚﹂十一首とを學げ︑﹁己上︱︱‑+=一首愚禿悲歎逍懐﹂と
結び︑また前掲正嘉一一年の聖人の識語がある︒なほこの顕智本には︑この次に顕智の正應害篤の奥書があり︑またそ
は和讃の番琥が各讃の肩に敷字で記されてあるから︑
られる︒そして第一首の初めに﹁浄土和讚﹂と題してゐるが︑賓は﹁正像末和讃﹂である︒これ等の和讃はすでに先
啓が﹃大谷遺法纂彙﹂に﹁帖外和讃﹂として牧めたところで︑藤永清徹氏の﹃帖外和讃集﹂にも牧録してゐるが︑近
︵和讃筒︶の﹁和諧拾遺﹂の中にも載せてゐる︒この影寓の原本は西本願寺の坊宮下閻氏所蔵
の聖人の旗蹟であるといふが︑谷大本は何回かの転寓を経たもので︑すでに聖人の奨蹟としての風格を可なり失って
10
の
⑧ ①
R R
④R
①
頴智本第五六首︶ 首︑顧智本第二首︶︵浄土和讃別和讚第三首︶
1
1一朝浄土の大師等︑哀慇振受したまひて︑異賓信心すヽめしめ︑定緊のくらゐに蹄せしめよ︒
﹁正
像末
和讃
﹂の
成立
過程
の有情の︑行證かなはぬと合なれば︑繹迦の
本第
ま ︑
~'
こと
第
濁世の有惜をあわれみて︑勢至念佛すAめしむ︑信心の人を振取して︑浄土に錦入せしむなり︒
六首︑顆智本第三二草︶
顎迦禰陀の慈悲よりぞ︑願作佛心はえしめたる︑信心の智慧にいりてこそ︑佛恩報ずるみとはなれ︒
.頴
智本
第一
1 ‑
︱ ︱一 首 ︶
第一
ーニ
首︶
るな
り︑
R無碍光佛のたまはく︑むと
首︶
顕智本第二二首︶
末法五濁のよとなりて︑
穎智本第一 繹迦の遺数かくれしむ︑
と人\く︑龍宮にいりたまひにき︒ 禰陀の悲願ひろまりて︑
いか
で け
しむ
︒
︵草稿本第 念佛往生さかりなり︒
︵首稿本第九首︑
し ︒
︵草
稿
︵草
稿本
ゐる︒しかし日野環氏の研究によると︑原本はすでに解儒されたらしく︑その断簡と思はれるものが諸所に存在する
が︑それ等は聖人の異蹟と認められるといふことである︒さてその十三首の和讃とは次の通りである︒
禰陀の智願海水に︑われ等が信水いりぬれば︑置賓報土のならいにて︑煩燐菩提一味なり︒︵草稿本第ニ︱首︑
︵草稿本第
五︑顕智本
︵草稿本第二
① R ④ R
ー 一 四 ー 四 三 ー
繹迦禰陀︑
︑︑
︑︑
︑︑
︑
像季末法の衆生の
R ①
禰陀の悲願は
︑︑
︑︑
︑
とげ
やす
し
のたまはく
︑ ︑
︑
せし
めけ
り
頭陀の悲願
さか
りな
り
砂宍
ふに
応
︑・
︑
せし
めけ
り
︑︑
︑︑
禰陀繹迦末法五濁の有情の
︑︑
︑
他力の
︑ ︑
︑
他力の 草稿本と顆智本とに封比すると次の通りである︒
首︶
⑬ ⑫
r正像末和讃﹂の成立過程
本第一首︑頴智本第二五首︶
穎智本第1
大日本國粟散王︑佛敦弘興の恩徳ふかくひろくます︑奉諧たえずおもふべし︒
上宮太子方便し︑和國の有情をあわれみて︑如来の悲願弘宜せり︑慶喜奉讃せしむべし︒
この十三首の中︑終の二首の太子讃は草稿本の終の別和讃に存するところである︒次に第一首から第十一首までを
われ等が禰陀の悲願
さか
りな
り
のたまはく
せし
むな
り
繹迦蒲陀末法五濁の有情の
⑪
ヘに
︑
いりぬれば︑補虞の禰勒におなじくて︑ 顕智本第二六首︶ ⑲念佛往生の願により︑等正覺にいたるひと︑ ⑨五十六億七千萬︑禰勒菩薩はとしをへむ︑
すなわち禰勒おなじくて︑ まことの信心うるひとは︑
べし
︒
このたびさとりをひらくべし︒
大般涅槃をさとるべし︒︵草稿本第
︵草
稿本
別和
讃第
一一
首︶
︵草稿本別和際第三
︵草
稿本
︵草
稿
右の封照によって知られる通り︑顕智本に同じものが多いのは︑
この
十一
1一首本の成立が草稲本よりも成立がおくれ
ることを暗示するものである︒しかしまた草稿本に等しい文旬があり︑更に顕智本に存しない太子和讃二首がこの一
連の十三首の中にあることは︑この本が顕智本の抄出ではなく︑それ以前に成立したことを物語ってゐる︒
かくてこの十三首本の成立は︑草稿本と顕智本との間にあると思はれるが︑本害にはこれ等前後の雨本に比して左
訓が少いことは︑
れて
ゐた
\め
︑
かな
はぬ
龍宮に蹄
せし
めよ
まこ
との
信心
うる
ひと
は
禰勒さ
とる
べし
この十三首本が別個の一本として成立したことを示唆するものであらふ︒また先に言及したやうに︑
この第一首の初めに﹁浄土和讃﹂と記してゐることは︑この和讃の性格や讃名について考へしむるものがある︒けだ
し草稿本には覺然筆の﹁正像末法和讃﹂の外題はあるにしても︑聖人筆の内題はない︒﹁正像末法和讚﹂の内題は顕
智本にいたつて現はれるのであり︑それに先立つ十三首本がなほ﹁浄土和讃﹂と記されてゐるとすると︑﹁正像末和
讃﹂も初めは﹁浮土和讃﹂と呼ばれてゐたかとも思はれる︒これは前述の通り﹁正像末和讃﹂が﹃浄土和讃﹂の巻首
と巻尾の別和讃に源流すること\も闊係があらうが︑また﹁正像末和讃﹂が先に成立した一具の﹁浄土和讃﹄﹁浮土
高憎和讃﹄と矢張り一連の作をなすものであることを示唆してゐる︒しかし本和讃には特に末法の時機が深く自覺さ
﹁正像末法和讃﹂と稲されることAなったものか
と考へられる︒
﹁正
像末
和讃
﹂の
成立
過程
⑪ ⑩ ⑨ ⑧
﹁正像末﹂の文字がこの﹁浄土和讃﹂に冠せられ︑ 四 三 三 四 四 二
蹄せ
しめ
よ
︑︑
︑︑
︑︑
︑︑
念佛
往生
信す
れば
ヽ蒲勒に
︑ ︑證す
べし
龍 か
宮 なにわ、
すヽぬ でヽ にヽ
かな
はぬ
龍宮に︑ ︑ い
れし
めよ
まこ
との
信心
うる
ひと
は
ヽ頭勒に
さと
るべ
し
R
た五
中に
は︑
があ
る︒
<
﹁正像末和讃﹄の成立過程所謂﹃御草稿和讚﹄は寛政十一年深動が刊行したもので︑出羽酒田浄輻寺所蔵本を羽州本と稲して底本とし︑河内
八尾慈願寺所蔵本を河洲本として校異してゐる︒これ等と同類の和讃は︑現在室町時代の富本が右の外にも存し︑江
それはともかく︑羽州本と河州本とを射比すると︑
と呼ばれてゐるが︑には可なり相異がある︒
そこで先づ羽州本を前逮顕智書寓本と対照すると讃敷やその配謹は異るところはない︒しかるに河州本は︑これに
比して更に内容を増加してゐる︒即ち疑惑讃において第二首に﹁罪輻信ずる行者は﹂の一首を増してすべて二十一1
一 首
となり、また第二十一首「信心の人におとらじと」と第二十二首「自力諸善の人はみな」との二首は第七•第八首目
に入って顆智本と配謹が異つて来る︒しかもこの疑惑讃の次に﹁皇太子聖徳奉諧﹂十一首が新しく挿入され︑悲歎述
懐 際 は 五 首 培 加 し て 十 六 首 と な っ て ゐ る
︒ そ し て 更 に そ の 後 に 獲 得 名 琥 自 然 法 爾 章 並 に 別 和 讃 一
とり入れられてゐる︒
一首中の第九首に牧められてあるが︑このRは先に言及した通り十三首和讚に綴承されたものである
が︑また︑正愚一年二月二十日の識語のある一百十四首﹃太子奉讃﹂の第二首に牧められてある︒また別和讃③は同
じく十三首和讃にも牧められてゐるが︑建長七年十一月に成った七十五首﹁太子奉讃﹂第一首﹁日本國蹄命聖徳太子︑
佛法弘興の恩ふかし︑有惜救演の慈悲ひろし︑奉讃不退ならしめよ﹂と闊係があり︑それを受けたものかと思ふが︑
今の十一首﹁太子奉讃﹂の︑
四
︵浄
土和
讃︶
きであら れば︑文明版は右の と
意 味 に お い て 大 差 は な い
︒ し か し こ の 第 九 首 と は 共 に 一 百 十 四 首
﹃ 太 子 奉 證
﹄ ら れ て ゐ る か ら
︑ 草 稿 本 の 別 和 讃 の R R の 二 首 は 十 三 首 和 讃 と 一
﹃ 太 子 奉 讃
﹂ を 経 て 十 一 首
採り入れられた
ベ告
であ
らふ
◇ かくて初稿本から顕智書露の再稿本を経て﹃御草稿和讃﹄の河州本へて来たが︑蓮如刊行の文明版を河州
本に対比すると︑文明版は巻頭の﹃般舟諧﹂の文を映く外讃敷や配置は相等しいが︑左訓は著しく少い︒そして河州
いが︑善光寺和讃の終に﹁親鸞八十八歳御筆﹂の一行があるから︑これ等雨本
であらふ︒しかし︑雨本の前後闊係を問題とす
左訓の少いこと等から︑文明版は河州本から轄化したものと考ふべ
以上の叙述を表示するならば︑凡そ次のやうである︒
︵草
稿本
︶
の文のないこ
﹁正
像末
和讃
﹂の
成立
過程
して成つ
(+
︱︱
一首
和讃
︶
︵顕智寓本︶︵河州本︶︵羽州本之に同じ︶
般舟
讃の
文
'1
'│
0
II│II¥i││0',1,IO
ー1正 像 末 讃 ー
' ー
!
1 1
ー
!i
ii
i/
ー︵三五︶/ーー\
夢 告 讚 ー
\
\!淫土和讃︵三︶
I
I I □
口 M
O
︵五
八︶
ーー
︐
1!
〇│
ー
'ー// (正像ご•太子―-)\,\ー1
疑惑讃
I I , 1 1 1 0
( 1
! ︱︱一︶'〇
直 口
\
︵ 一
︶
\
y
1,
︐'
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1 l 1︐
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‑ 三
︶ ー 別 和 讚 い ロ ー
︐
\ ー
1
'
…~~ー
︵ 五 ︶
l11/11,│l!ー聖碑
1 , I l l i i
1 '
/'
Iー
!,
1
I il
ii/
る悲歎逮懐讃;!!
i1
0(
(︱
一︶
本並に文明版には共に聖人の
は共に文應元年八基くもの 和國の教主聖徳塁︑廣大忍徳謝しがたし︑一心に蹄命したてまつり︑
五
讃
一 ︶ 〇
六 ︶
0
めよ
︒
゜
︵第
八首
︶
︵文
明版
︶
こ
9,
1
一首
に牧
め
聖人が門弟に送った奢朕に︑
︵﹁
法事
る ︒
この事件は建長七年から表面化したが︑それが善鸞の策動に基くことを知った聖人は︑翌八年五月ついに善鸞 先に言及した通り﹃正像末和讃﹄述作の萌芽は建長七年聖人八十三歳の頃にあり︑いたったと思はれるが︑次に考ふべきは︑づ建長七年の頃聖人の身邊に惹起されてゐた重大な問題を考慮するならば︑
由来善鸞の問題は未だ全貌の委曲を詳かにしないが︑
恐らく聖人蹄京の際共に上京したやうに考へられるが︑ その後次第に登展して文明版に
て下向した︒しかるに善鸞は︑聖人蹄京後の闘東敦圏の首領となろうといふ野心を抱き︑特異な策動を行って東國門
徒を惑胤せしめた︒しかも彼は地方の有力者である領家・地頭・名主等と結んで︑彼の意に従はない聖人の有力門弟
逹を︑好んで悪事を行ひ︑帥祇を蔑如するものとして︑鎌倉に訴へた︒かくて念佛者は大いなる弾歴を蒙ったのであ
を義紹するのである︒ところで︑かうした現貰相を凝視した聖人は︑末法の意識を深化せしめたにちがひない︒常時
﹁五濁増時多疑訪︑道俗相堀不用聞︑見有修行起眼毒︑方便破壊競生怨﹂の文
四
﹁正
像末
和讃
﹂の
成立
過程
そうした逮作の契機が何であったか︑といふ問瞑である︒それについて先
それはいふまでもなく︑善鸞事件である︒
その輪廓は凡そ推知されてゐる︒即ち闘東で成長した善鸞は︑
その後闊東の門弟の間に異義が起ったので︑聖人の使者とし
別 和 讃
〇
︵ 一 一
︶
゜
獲得名琥自然 法 爾 章
善 光 寺 讃
〇
︵ 五
︶
一六
讃﹂巻下﹂︶を屡々引用してゐることによってもその一班が推察される︒
に獲起されてゐることは︑頗る由縁の存することAいはねばならない︒
かくて末法意識を深化せしめられた聖人にとつて︑張くそこに想起されたのは聖徳太子である︒聖人が︑太子を末
世の衆生を化度せんために出現された方と仰信したことは︑聖人害寓の廟窟偽︵金澤尊光寺蔵︶によっても考へられる
が︑上述の通り初稲本の別和讃に太子を讚詠した二首があり︑建長七年十一月には﹃皇太子聖偲奉讃﹄七十五首を製
作し︑次いで翌々正嘉元年二月には﹃大日本國粟散王聖應太子奉讃﹂
への傾投を物語るものである︒しかもその間康元元年二月には︑前述の夢告讃を感得してゐる︒この和讃は何人から
受けた夢告か明記はないが︑その内容並に七十五首と一百十四首との雨太子和讃製作の中間にあることから︑太子の
夢告と見て必ずしも妥営を鋏くものではあるまい︒それはともかく︑右の雨太子和讃は︑六角堂や天王寺等の太子闊
係の寺院の縁起や太子の停記等が多く讃詠されてゐるが︑その根底にあるものは観音またはその化身としての太子で
ある︒しかもその中には善鸞事件が想起されてゐるので︑たとへば次の七十五首﹃太子奉讃﹄の︑
如来の遺教を疑謗し︑方便破壊せむものは︑弓削の守屋とおもふべし︑したしみちかづくことなかれ︒
つねに佛法を誹謗し︑有消の邪見をすヽめしめ︑頓敦破壊せむものは︑守屋の臣とおもふべし︒
といふ二首を見ても︑
﹁正
像末
和讚
﹂の
成立
過程
一 七
︵第
六四
首︶
一百十四首をものしたのは︑常時の聖人の太子
︵第
七一
首︶
その一面が推知される︒卸ちこAには現在念佛を毀謗するものが豫想されてゐる︒それは支配
階級の櫂力をもつて念佛を弾歴する善鸞や領家・地頭・名主等一味の徒に外ならない︒
なほ︑河州本や文明版には﹁皇太子聖應奉讃﹂+一首が疑惑諧の次に牧められてゐる︒その来るところは︑すでに
言及したやうに初稿本の別和讃であるが︑それが七十五首や一百十四首を経て︑こヽにとり入れられ十一首に展開し
たのである︒こヽに太子讃が加兄られた理由は上述するところによっても凡そ明かであらうが︑それと共に今︱つの されば﹁正像末和讃﹂の述作が建長七年の頃
となる︒この 次い
これ
が法然上人の本地で
これは顕智本では十 濁壌時多 いたると
五 あ
るか
︑
の成立過程
意味があると思ふ︒けだし聖人の讃詠は何れも太子を観音の化身とする仰信が基調をなしてゐるが︑これより先に成
った﹃浄土和讃﹄の終に勢至讃八首があること\思ひ合せると︑この太子讃十一首は逃かにそれに封應するものと見
るべきであらふ︒即ち賓治二年成るところの﹃浄土和讃﹂の異蹟本には︑
として︑勢至が念佛の人を振取し
因み
に︑
入れしめたの としててゐる︒ところ
は太子と上人とを日本における観音と勢至と頂いたので︑
のに封して︑﹃正像末和讃﹄には観音の化身としての太子が讃仰されたのである︒
この後に見える善光寺讃は未だ充分盤つてゐないが︑恐らく一種の太子和讃の一部であらふ︒それは三河
満性寺所歳の太子和讃集にこの善光寺和讃の抄出を牧めてゐることによっても示唆されるところである︒
﹁佛智うたがふつみとがのふかきことをあらはせ﹂るものであるが︑
疑謗
︐
lといはれるやうに︑末法濁世の賓相である︒その故にこの疑惑讃が正像末和讃につゞいてあらはされたことは
自然といふべきであらふ︒
次にこの疑惑讃につゞいて悲歎述懐讃がある︵河州本や文明版ではその前に太子讃十一首がある︶︒
で終つてゐる
であるが︑河州本・文明版では五首を増して十六首となってゐる︒その初め六首許りは多く聖人の違懐と見るべ
まつ
入れしめる因縁を示す八首を列ねてゐるが︑その
は
﹁首桜厳経によりて大勢至菩薩和讃したて
一八
なくて外道である︑と鋭く批判するにある︒ 苔であらうが︑第七首以下は嘗時の佛教徒の現賞相に酎する聖人の悲歎であり︑また批判である︒即ち第七首以下の五首は︑常代僧俗は共に天地の鬼紳を祭祀し︑吉日良辰を探び︑卜占に耽る等︑に婦散せ﹂る賓相を指摘してゐる︒また第十二首以下は僧尼が自ら持すること少くして櫂力者に侍り︑世人は僧尼を奴婢僕使の如く蔑如して怪しまないことを慨し︑末法濁世には無戒名字の比立であっても舎利弗・目蓮等に等しかるべ
しと
して
︑
その尊厳を説く︒しかも文末には︑
己上
十六
首︑
これは愚禿がかなしみなげきにして述懐としたり︑
まふすもうきことなり︒
と述べてゐるのは︑以上は聖人の悲歎述懐であると共に︑それが常代佛敦への鋭い批判であることを有力に物語るも
ので
ある
︒
一九
﹁外儀は佛数のすがたにて内心外道
この世の本寺本山のいみじき憎とまふすも法師と
ところで︑右のような悲歎述懐讃の所説を考へる時︑こ\に想起されるのは﹃敦行信證﹄殊に﹃化身土巻﹄の所明
である︒卑見によると︑﹃教行倍證﹂は︑南都北嶺の僧徒が時機に暗く教の義理を緋ぜず︑徒らに博統的敦櫂の保持
に腐心し︑政府官僚と結托して︑専修念佛を弾黙することを︑元仁元年の念佛停止を契機として︑鋭く批判し︑
の道俗︑己の分を思量せよ﹂と重大な反省を要請したところに撰述の契機がある︒郎ち常代僧徒が鎮護國家を名とし
て國家櫂力に依存し、佛敦を民族宗教化せしめた上代以来の佛敦ー~律令佛教の批判に登端する。そして殊に『化身
土巻﹄においては︑南都北嶺の僧徒や政府官僚が︑念佛者を破戒無衛と罵り︑神祇を蔑如すると難じて念佛を弾堅す
るが︑由来佛徒の道は戒の有無にあるのでなく︑殊に末世の僧賓は無戒名字の比丘である︑として僧賓の尊厳を説合︑
佛敦以外の諸天鬼帥を祭祀したり︑吉日良辰を選捧したり︑或は卜占に耽つてゐる如き律令佛敦こそ︑正しく佛敦で
﹃正像末和讃﹂の成立過程
﹁今
﹃正像末和讃﹂の成立過程
ー 昭 和 二 十 九 年 十 一 月 稿
・ 同 三 十 年 六 月 補
訂I かくてこAにとりあげられてゐるのは︑念佛弾堅・戒の持破・諸天諸神の祭祀等であるが︑これは善鸞によって惹
起された東國における事件と内容において相等しいものがある︒従って﹃化身土巻﹂の所明に相通ずる批判が正像末
和讃につゞくこの悲歎述懐讃に鋭く表出されたことは営然の蹄結である︒律令佛教を批判して︑佛教徒のゆくべ苔道
と末代僧賓の尊厳を説き︑佛敦のいはゞ主儒性を樹立する︑それが聖人の生涯を貫く大きな糀軸であり︑反律令佛敦
的立場ともいふべ苔ものであるが︑
といふことが出来るであらふ︒ それが善鸞事件を契機として︑晩年鮮活に表明されたのが﹃正像末和讃﹂であ.る
附記
右の本文中に﹁宗祖奨蹟集﹂の十三首﹁浄土和讃﹂に言及した︒しかるに︑頃日書輝より入手した﹃往相還相廻向文類叫紅品﹄
と題する一富本の初めにも右の﹁箕蹟集﹂を店し︑同様十三首の和讃等を牧めてゐる︒外題に﹁井諸文﹂といったのは︑﹃箕蹟 集﹂を指すのである︒この﹃廻向文類﹄の原本は三詞佐々木上宮寺の蔵本で︑慈琳の識語によると︑賓膠六年九月彼が野寺本證 寺で講談の序にこれを拝見し︑侍者談誘をして筆梵字様まで漠嵩せしめたことが︑その識語に見える︒右の所謂﹁諸文﹂︵箕蹟 集︶はそれと闘係があるのか否か不明であるが︑﹃廻向文類﹂の前に寓してある︒いづれにしても︑これは﹃呉蹟集﹂が江戸時 代 に お い て 學 者 の 間 に 知 ら れ て ゐ た こ と を 示 す 一 文 献 で あ る
︒
︵ 三
0年九月校正の時︶
︱
r o
こま
︑
99
;~'
﹃淫
土文
類緊
紗﹂
に就
ての
疑問
宗祖親鸞聖人の撰逮には︑殆んど撰述乃至は書寓の年月日が自署せられてをり︑それは異蹟本の存する限り︑著作
年時を判定する根腺として︑聖人述作の特徴をなしてゐる︒然るに興蹟本の存しないもの︑或は述作年時か書寓年時
かの明確でないもの︑乃至は全く年時の自記を鋏くもの︑については︑多くの問題を残すのであって︑その一に﹃浄
土文類緊紗﹂がある︒
﹃浄土文類緊紗﹂は宗祖の興蹟本が現存せず︑また現存最古の鴬本と考へられる滋賀縣蒲生郡西大路村の光延寺本
延慶一年ノ;正月二十日
の奥書があるけれども︑それは明かに書寓の年時であって︑撰述年時のてがAりとはならない︒それ故に本書の撰述① 年時については古来種々の異説が存するのであって︑それを要約すると︑大證三説となる︒
めの撰述とし︑ 一︑建長四年八十歳説︒これは﹃正明博﹂及び﹃正統博﹄の説であって︑
﹃正統博﹂巻六には︑宗祖八十歳の一1一月四日の撰述と記してゐる︒然しこの雨書は︑その史的債値に
﹃浮土文類衆紗﹄に就ての疑問
﹁正明博﹄巻四には︑宗祖八十歳三月初
稲
葉 秀
臣只
このゆへに親鸞聖人︑ にヽ 建長七年七月十四日 於いて問類があるので︑直ちにその説はとり難いものがある︒
二︑建長七年八十三塁︒これは東本願寺本︵翡噂爵︶の奥書に︑
愚 禿 親 鸞 尉
とあるに基くもので︑これと同一の識語を有するものに︑滋賀顆滋賀郡北比良の扁博寺本がある︒更に注意すべ告は︑
香月院の﹃浄土文類棗紗講義﹄に︑理綱院の側へられた存覺上人延書本が︑同じく﹁建長七年七月十四日書之︑愚禿
親鸞八十三歳﹂とあると記されてゐることである︒
三︑正嘉元年八十五歳證゜ これらに依て︑建長七年八十三巌詭は最も廣く用ひられてゐる説
であって︑第三説と照應してこれより確賓な根猿は︑少くも現在のところ登見し得ないやうである︒
これは大谷大學闘書館蔵︑室町末期の露本と考へられる延書本に︑
正喜︵嘉︶元年林鐘四日書寓之︑本奥親鸞聖人以朱染御筆︑愚禿親鸞八十五歳貼之
とあるに基くものである︒これに就いても香月院は︑開轍院の博へられた覺如上人延書本に︑
云つてゐられる︒かくて一般には︑
その他︑年代不明と見る説もあるのであって︑ ﹁正嘉元年林鐘四日寓
之﹂とあると云い︑従って前掲の理綱院所博の存覺上人延書本と射比して︑それが再治消書されたことを示すものと
八十一二歳御製作︑八十五歳再治溝害と僧へて来たのである︒
それは多くの古寓本に全く撰述年時が記されてゐないのに基くので
ある︒かうした吠態であるから︑本書の撰述年時に就いての決め手がなく︑こ\に﹃教行信證﹄との聯闘に於いて本
R
害の撰述が﹃数行信證﹄の前であるか︑後であるかとの論議を生ずるに到った︒本書の撰述が﹃教行信證﹄よりも後であるといふことは︑従来殆んど疑ふものがなかった︒それは﹃敦行信證大意﹄
一部六巻の書をつくりて敦行信證文類と琥して︑くはしくこの一流の数相をあらはしたまへ
﹁涸
土文
類棗
紗﹂
に就
ての
疑問
E淫土文類緊紗﹄に就ての疑問 れたのは︑生桑完明師︵高田學報第六輯︶であり︑更に詳細に同意見を開示せられたのは桐淫順忍師︵異宗學第九並に印度學佛敦學研究五︶である︒その他正親含英師が大谷大學箕宗學會に於いて︑同じ意見を登表せられたことがある︒更に近時﹃敦行信證﹄の撰述に就いて信巻別撰論を提示し︑學界の注目をひいた結域令聞師は︑信巻を除いた﹃敦行信證﹂よりは︑略本は後であるが︑信巻を加へた廣本よりは先であると考へられてゐる如くである︒
之に封し︑廣前略後の従来の説を支持せられるのは︑山口竹千代師︵高田學報第八粗︶岩田繁三師︵高田學報第三五紺︶
である︒今︑生桑︑桐淫雨師の論説に基いて略前廣後説を摘記するならば次の如くである︒
生桑師に依れば︑略本を以て廣本撰述過程にあらはれた習作とするのであって︑その撰述年時は闊東遊化時代か︑
更に測つては越後流誠時代に構想を回らされたものでないかと推定してゐられる︒その理由としては︑ この問題に就いて︑夙に﹃浄土文類棗紗﹄
らう
か︒
に問題ともならなかったのである︒
然る
に︑
り︑しかれども︑
︵略
本︶
が先
で︑
︵廣本︶が後であるとする意見を殺表せら この害あまりに廣博なるあひだ︑末代愚鈍の下機にをひて︑
一部六巻の書をつゞめ︑肝要をぬきいでヽ一巻にこれをつくりて︑すなはち浄土文類緊紗となづけられたり
といふ證櫂があるからである︒尤も古く︑
六巻廣書之前
1敷﹂といふ説を出してゐるけれども︑
近年﹁教行信證﹂
﹃敦行信證﹂より前に撰述せられたのではないかとの説が行はれるやうになった︒ 日漢法謀が﹃文類緊紗蹄潜記﹂に︑﹁又祖之製証翌杢也未レ考
1一
年暦
﹁恐
在︱
︱
そこには何等の理由も根操も示されてゐないのであるから︑特
の撰述年時が問題とせられることと並んで︑本書が
﹃教
行信
證﹄
その義趣をわきまへがた言によりて︑
これは如何に考へられるべきであ
桐淫師の主張は次の如くである︒ ったといふのである︒ 一︑虜略二本の内容から見て︑三法から四法への展開が思想的登展として営然である︒それ故略本の三法から齋本二︑正信念佛偶から念佛正信偽へ展開することは思想的逆轄であり︑又文辟も正信偶の方が念佛偶よりははるかに
堅備せられてゐる︒殊に正嘉二年八十六歳撰述の翼本を得へる﹃尊琥箕像銘文﹄には︑正信偽の文を翠げて通繹を加
へら
れて
ゐる
︒
三︑高田所得の古典に依る推定に依れば︑顕智上人は﹃浄土文類﹄の内に︑
又﹁浄土文類緊紗云﹂として同じく略本の文を引用してゐられる︒郎ち顕智上人は略本を呼ぶのに︑廣本の通稲であ
る﹃教行證﹄を以てし︑又﹁浄土文類棗紗﹄とまさしくその名を用いてゐられる︒そして廣本を指す場合にも︑
行證﹄と云つてゐられる︒これから推定すれば︑廣本の撰述後は略本を﹃浄土文類緊鉛﹄と呼ばれたのであり︑従っ
て廣本を同名で呼ばれたこともあったと専空上人の自筆﹃口博紗﹄を翠げ︑従って雨書は嘗初から別箇の撰述でなか
一︑序文に於ける雨書の疑問︒廣本結序の文後序の文と︑略本の序題の文結勤の文とを比較すると︑廣本継序の一
連の文が略本では序題と結勤に分断されてゐる︒之は何の必要があってか説明がで言ない︒従って略本がまづあって︑
広本で整備せられたと考へられる︒
二︑
一
1一法四法の問題︒広略二本を比較して最も重要な問題は︑思想展開としては三法より四法へであるべきであっ
て︑
略本
は一
1一法々門であり︑広本は四法々門であるから︑略前廣後と見られる︒更に略本を三法々門と決定したのは僧
銘以後のことであり︑自由な立場で広略二本を比較すると︑略本も四法々門と考へられぬことはない︒従って略本は四 の四法法門へ展開したものと見る︒ r淫
土文
類緊
紗﹄
に就
ての
疑問
﹁ 敬
﹁敦行證云﹂として略本の文を引き︑
ニ四
◎
﹃浬
土文
類緊
紗﹄
に就
ての
疑問
一由が示されてゐない︒ ◎内容から見ると︑廣本では合一1一為一の理由として
され
ない
︒
@
④法々門の未だ整はぬ形態であり︑従って略本が廣本の前であると考へなければ︑略本が三法々門であるといふ結論を
導吾出すのに異論のある貼︑行下に浄信を出して十七十八雨願の成就文を連引した貼などを説明することがで言ない︒
三︑正信偏の問題︒
已下の二十旬は﹃銘文﹂に通繹され︑
二五
一愚鈍の衆生をして解了し易からしめんが為︑二涅槃の 正信渇に﹁蹄命無量壽如来南無不可思議光﹂と整った蹄敬序があるのに︑念佛偽ではたゞ﹁西方不可思議尊﹂
の一句となってゐる︒これは蹄敬序としては整ったものとは云へず︑宗祖としては多く例を見ない西方の文字を用ひ
てゐられる︒それに主観的と云へばそれまでゞあるが正信偽の方が修辞が整つてゐること︑特に﹁本願名琥正定業﹂
それは安城の御影の銘文と考へられる︒それほどの文を何故に略本に於いて原
型を存しないほど斐更せなければならなかったか︑説明がで言ない︒
正信偽は行信雨巻の間に置かれてゐるのに︑念佛偏では三法の説明が終ったところに置かれてゐることも不
審で
ある
︒
四︑三一問答糠の問題︒
①廣本では大信の説明の中に三一問答が出て納得できるが︑略本は念佛偶が終ったところで突如として示され︑
前後の闊係が明かでない︒廣前略後とすれば︑念佛偶の安虜も︑三一問答の安虞やその組織及び量の多いことが説明
異因は唯信心を以てする︑との二由が示されてゐるのに︑略本では前の一由のみ示して︑敦義上重要と思はれる後の
字訓繹を封照すると︑廣本は六字で一定した名目になってゐるのに︑略本では五字四字等の整はない形態に
一︑信を明すに就いて︑廣本は妙果は難成でないが信築が難獲だと明す
も難證であると示され︑その理由を明すに略本がより平明になつてゐるので︑それは宗祖晩年の ら
れる
が︑
はその黙未だ明確でない 一︑略本では 持したいのである︒岩田師は 佛偶よりは堅つてゐる
五 ︑
なつ
てを
り︑
これは略前賓後の證左ではないかC
二糀
の三
心一
問題を示すに︑
だけしか示されてゐない︒
以上が︑略前廣後を主張せられる雨師の説の大憫であるように見える︒
この問題は︑既に桐淫師も指摘せられるやうに︑何れの立場をとるにしても︑
て︑客観的な新資科がでない限り︑論黙を決定的ならしめることはで苔ないであらう︒たとへば︑正伯偏の修僻が念
つても︑それは主観的な問題であり︑﹃一法四法の問題にしても︑何れの説も成立し得ない
ものではない︒従っていま提示しようとする所説も恐らくは決め手にはならないであらうし︑又前述の諸師の所説に
も充分肯けるものがあるのであって︑敢てそれに反対するのではないが︑かうした観貼も許されないかといふ疑間を
提出したいのである︒
略前廣後の設に射して︑近く齋前略後の所説を獲表せられたのは︑
一本
の内
容か
ら論
證し
て︑
還相利他の回向を開示せられた聖櫂化盆の記現として感戴してゐ
﹃浄
土文
類来
紗]
に就
ての
疑問
は雨経に
略本では浄信も難獲であり︑ 師であるが︑私も亦廣前略後の設を支 て主観的な論檬に立つのであっ 二面を示してゐるのに︑略本では同の面
三 ハ
であ
る︒
﹁浄
土文
類緊
紗﹂
に就
ての
疑問
二七
人證︑異偽未決説等があっ い
て︑
られたことを示すもので︑
その
﹁深藉本願興興宗﹂は︑
へと愛つてをり︑殊に正信偽の明し方は聖人晩年の信境と距りがあるので︑廣的略後と去は
これが岩田師の主張であり︑
従つて問題が決定的になることは恐らく至難であらうけれども︑ なくてならぬ句であり︑叉源信章でもその愛
この立場から桐淫師の説を一K反駁してゐられる︒
があり︑教へられる所が多い︒然しやはりその主張は主観的であって︑決め手となるやうな客観性はないやう
ふに︑従来廣前略後とする説が一般的に行はれ︑疑はれなかったのは︑
からである︒然し この岩田師の論旨にも幾多の示唆
必ずしも徒来側承せられ来ったやうに︑覺如上人或は存覺上人と決定することができ の撰各に就いては︑如信上人設︑覺如上人説︑従覺上人説︑蓮如上 ﹃教行信證大意﹂の説が證権とせ
四
ゆかねばならない︒ 々はそれをできる限り客観的資料に依て裏づけて ねばならないC 化を見 る ︒
語の始めで て霊正像末法和讃﹂の一首︑現行の浄土和讃 三︑廣略二本の組織は︑略本の方が整備されてゐる︒印ち略本は四法答︑二癌三心一異問答︑二癌一二心と﹃小癌﹂一心との一異とを一括してゐる如きである︒
四︑正信偽は直讀的であり︑念佛偲は解説的であって︑後者は晩年の作であることを一︱
五︑念佛偽龍樹章の﹁造十住昆婆娑論﹂は曇鸞章の﹁論註解﹂に射應して整備せられたものであり︑又龍樹章に於
は憶念不退であるが︑念佛偶では稲名不退になってゐるのは︑宗祖が憶念不退から稲名不退に到達せ
あるとして
てゐ
る︒
相を並べ明した後に念佛偶を匿合︑
一問