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涼 !! ! ! 一一一魯
争 !≡ チ 昭 利 十 七 年 二 丹
程 !壌 査寝 の ま 一鷺 離 た
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句 !麗
第一一第二雨玄莞郡と高句雇
高句麗つ第二玄莞郡略Iと第二玄莞郡
第二玄覧郡の淡落と高句露の新競
・距肋 一珀 !
内
一 第一︒第二藁立発部を高範露
玄苑郡は前漢つ武帝の時 ︑朝鮮牟島内に置かれた函郡の一であそがい比の郡には共の後ら後漢︒三園を経て扇害時代に至るまでの間に ︑地理斡並に歴史的の著しい愛遷があつた o
前漢の武帝は玩曽三年︹紀元前一〇斥︶衛氏の朝鮮園と討ち滅ぼし ︑実の地を分つて四郡となし ︑
ま期者の玄克部と高句麗︵池・内宏﹀九五
逸 ,
宏
( カ リ ( 3 )
九大喪瑳古らす一覧群と︑句蔑 ︵池内宏︺
甲囲に於けると同様在あ郡麻柄を示いた っ彊郡五郵ち業浪ど具きT臨屯つ玄苑であって ︑各 ゝ若子の
購が之に局した ︒しかしぃ部の技治は共あ了すの状法と渉て永積せず ︑早くも次の昭市の時には著し
い愛革を見たのである ︒帥ろB郡辞設の時から二十六年降うて昭帝の始元五年︵紀元前八二︶に至う ︑
先づ具番の一部が罷められた ︒前漢許唯昭帝本紀の此の年の一保に﹁ ︲罷催H ︒具番部﹂とあって ︑今
の海市島に置かれてあろた商越の構耳訴と去花一履止せられたのである ︒鼻番部の位置につrては ︑北
在乱と南在読とがぁる ︒北在読とrムのは ︑鴫維れの北方に出すぶ毎佳江︵通江じの流域 ︑卸ち享李
︵今の遠陽▼﹂中心とする遺東郡 ︲li秦の始呈千の時﹁すり存在した ︲︱の東方の分水嶺外にあったとす
る読で ︑明治の末に殺表せられた舜鳥耳吉淳士の設と ︑其の代表的のものである ︒これに¨封して問題
の地方を全く反当の方面 ︑却ち業浪郡の管轄臣域でぁった一牛安商北道 ︒衰海道 ︒京畿道の話地方を隔
てヽ ︑共の高方に局する息清一道及び登羅北道の方面に褒てやうとするのは
一 ︑
大正三年に公けにせられ
た抜今西記淳士の識であって ︑所詳具番苗!在義を代表してゐ・ る ︒さうしィ︶これ等の面読は其の後ち和
互の論戦もなく ︑一始んど封立の形をなして今3に至つてゐス︶が︑前者の主要なる部分が所講平勢論で
あるのに当し ︑後 ・者L利営有力なる文厭的護左を論援としてゐるから ︑余は北在読を否定して苗在乱
に左祖する ︒又た臨竜郡は大地今の江原道に相曽する鮒一方であう ︑玄菟郡ほ成銃南道の成一 典を中心と
する曽吉の一扶過の地方であつて ︑これ一等の二部の位置につでては ︑殆んど問題はなr ︒それで昭帝の
始 元 年 五 於 に
け る
雰 草
は ︑
前
記 の
前 漢 書 昭 帝
本 紀
記 の 事 示 の て し
ゐ る
如 く
︑ た 商 ゞ 方 比 の の 一 部 が 省 か れ た だ け で 他 ︑ 三 の 郡 存 の
在 に
何 は の 関
係 も
か な つ 力 一の で
あ る
︒ 然 に る 共 後 の 七 ち
年 ︑
十 1 郡 四 設 開 後 の 三 ち 十 三
年 ︲ ︐ ︲ ︲
同 じ
帝 昭 元 の 鳳 六 年 紀 ︵ 元 前 五 七
︶ に は
︑
業 浪
臨 ︒ 屯 元 o 充 三 の
郡 に
当 て し 著 し い 務
一革 が 加
︿ ︑ ヽら
れ た
部 ︒ ち れ こ 等 三 の
郡 は
併 合 せ ら
れ ︑
屯 臨 郡 が 全 然 英 え の 失 を
A と
共 に
玄 ︑ 死 郡 別 は 還 に 郡 ︶東 東 の 退 薪 に
! 設
せ ら
れ た
一 郡 名 の 梅 な と
う ︑
朝 鮮
牛 島
に 十円
於 け
契 る 郡 浪 南 は 方 韓 の 族 住 の
地 を
い 除 実 て 大 の 部 分 告 を 塔 す 唯 る
一 の
大 郡 と な つ た の で あ
る ︒
た し ゞ 比 の 時
行 は
れ た 憂 革
は ︑
母 に
れ こ だ で け は な
く ︑
斎 玄
齢 ︒ 屯 二 部 併 を
せ た
大 葉 浪 郡
束 の
邊 ︑
郎 故 ち 二 の
部 ︼の
一 部
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つ た 本 再 海 滑 幸 細 の 長 地 r
方 ︱
︱
所 諾
嶺 東 七 蠣 地 の
︱ ︱
︲を
﹁東
部 ﹂
海 ︑責 道 の 慈 悲 嶺 脈 山 以 南 部 の
分 ︱
後 ︱
誉 の 方 部
地 の
︱ ︱ を 部 ﹁商 生 な と
し ︑
各 主
都 尉
官 の 置 を
r て
れ こ 等 特 の 別 域 E 分 を 管
せ し
あ る
や に う た し 又 ︒ 三 た 郡
の 一併
合 同 と
時 に
ま .
東 郡 束 の 退 置 に
か れ
た 玄 発
部 は
共 ︑
の 乞
補 そ こ 郡 四
開 設 時 の
か ら
三 十 年 三 成 間 錠 商 道 決 の 温 地 の 存 に 在 た し 次 過 一班
︵今 成 の 典 ︶ の 玄 売 部 同 と じ
い け
れ メ
も
︑ 地 理 的 は に 何 の 開
一係 も
な く
一第 ︑
二 玄
充 郡 稲 と べ す 新 き 郡 で あ
つ て 高 ︑ 句 躍 上 ・ 段 台 o 薫 西 馬 三 の
塚 を
べ 統 輝 ︑ 河 上 の 流 の 支 一
な る
子 一鯨 河 漢 ︵ 代 南 ・り 蘇 水
︶ 流 の 域 以 を 共 て 管 の 暗 正
域 と
し
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さ う
て し 藤 三
一 中
高 の 髄 句 郡 は 音 の 犠 し と 郡 て
治 と
在 所 同 を
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於 け 製 る 京 老 城 附 の
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︐あるこたは︐ふまでも在r c ・
終らば柘市ぢ元R︻年→紀元前七五又臨屯︐玄発二郡の業濃郡への併谷といひ ︑第二互苑郡の新設
といひ ︑どうして止り頃かうr虫妾言︶
一 ︼凌享行がいはれかたムに比題にの問和立とこんで別ゝと︑︑
に他の匠兄上の大きイ声垣戸存在する︹︶そ■よ全体碓資なる文献に徴することのでふ在い高句此の娃
房に南する育一起であつすヽ本末夫会の劇振でぁるとせられてるる高句更 ︑郡ろ北お洲の阿竹河令阿抜
手一 ︶の上方を技採とする夫除法から出たとせられてゐる其の高句Eが ︑ い︐映 ︑どうして孝佳江の流
域に可を十をてた
力 ︑
ヽといネことでぁる ︒さうして一確fなる文疎
一 に
出て本るキ︺句粧の名は ︑第二尭郡の
者
一︲十 ! 〜 ︲ ⁝
っ在としての高句L全性3が景わでぁちから ︑千一れと手拒とを経びつ庁て考へてつかると ︑二つの
﹁起都合よく好ける c邸ろえよ族の川江であるといふ高毎たが北満汎か 内′南下しイ束浦加の作任江
の流一■L口を手
一 て
たのは ︑十二十一充部の布一 設される百一;前に在つた車 車愛であつて ︑すに一たの!部の試岳ほ
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帝沖の遠下十耐の寺ヤ付と︐︶て ︑比の新異の車イカン喬﹂屈! することを一慎接の目︺的としたもので力→ければ
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︑ 女 た そ れ と 同 時 に 行 ほ れ た 第 圭 室 智 及 び 臨 再 都
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︑ 並 に 業 浪 打 の 束 部
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!じ■二本部・以外の三■一 を一研合し ︑同時によ温攻の玄売部のれを妻ゲた第二玄支部を遠束郡の東
違 つ 地 に 所 設 じ た の ■ ︑ 束 浦 洲 に 於 け る 高 字 硬 つ 珪 所 を 契 性 と す る 材 勢 つ 愛 化 に 卸 雁 し た 庭 置 で な け
れ ば 在 ら 丁 い の で あ ふ ︑ か く し て 安 一 玄 売 郡 の 残 上 に 律 つ た 年 二 玄 苑 部 の 新 設 と ︑ 高 句 一 批 の 廷 閲 と の
間 に は 卜 こ れ て 者 丁 も 開 係 が あ る の で あ 一 る ︒
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数 化 ︒ 市 林 等 の 要 地 を 逸 池 す る 載 道 線 に 持 る や う に な つ た が ︑ 上 は 先 秦 時 代 か ら 下 ほ 明 ・ 病 の 近 代 に 至 る ま で ︑ 前 湖 の 重 心 が 遺 陽 方 面 に 置 か れ て あ つ た 過 去 の 時 代 に 於 い
加 ィ し は 営 れ に 最 こ す 重 要 る も ︑ な る 交 通 蜂 は ︑ 成 銃 南 道 の 成 興 を 起 路 と し て 袴 佳 江 及 び 輝 河 の そ 卜 ヽ の 流 域 を 経 由 す る も の で あ つ た
のである c成宴は城川江及び共ら支流のま流す毛距ょなる不野を読し ︑ いふまでもな く牛島の日本海
港岸に於ける距一の要地てあるが ︑こLから五七に芸卓嶺を賦え ︑長津江の流れる高をを江に港うて
北に下う ︑富銀一一窪二洋邑︶から西に折れ
杏ブ し一梁
⁝ ⁝ ⁝
脈の鋒祭嶺を過ぎ ︑禿冬江の一支流の一農谷を下め ︑
江畔の大邑江界を経出して鴨維江の中流に於一 ける載安︵通巌︶に達する ︒これは成興卒野と鴨維江乃
至作佳江の流域とを賄格ちる唯一にして且っき終なるヽ一 路であつて ︑報安ほ吉一句麗の第二の囲都 ︱︱
長芋王の年張遷打以前の十1丸都城一名囲内城の所在地である 3弱安から高句一麗の最初の田一郡であっ
た作住江咋α程仁え殉ゑ慎仁︶に至り ︑それから■に碇十 七に赴くと ︑蘇子河の源する分永箱に進する ︑
郵ち束満洲た南浦洲との境である ︒蘇子一判の上流興京老城あ職近は比の方面の要地であって ︑第土玄
充郡の郡治の所在地であう ︑また病朝の一な譜年地でょ六一る ︒蘇子河は輝河の上流の一支であるが ︑満初
の古戦場として有名なる薩爾詩古城 ︲︱上高層西十七年太配努爾吟赤が明の大軍を破った 十 11の傍を過
ぎて拝河の本浦に含する っ共の合流絡かヽら拝河に滑イ ″ナて少しく西に下つた虎は撫順であって ︑揮河の
上流域に嵐する出禄地帯と本天を中心たする大卒野との境一 日い位し ︑清朝の探順城 ︑明代の同名の城
の左豊の外 ︑更に湖つては垂金時代及び高句琵津 ︶代あ艦一︐著なる道蹟もある ︒さうして撫順から本天を
過ぐる道路は ︑市に下つて十草ヤ河?P抗に飛¨︐▼命基暢に聯格するのである ︒違陽庁鑑一束抽方の中腫 ︑
漠魏時代の遼東郡治としての主︵牛である ︒
再本お渚・洋と述東地方との直接の琳落は ︑吉本かういふ通路になつて行はれてめたのであるが ︑漠
代の第一玄売都治も
︑ ↓
これに代つて岳かLた第二玄莞郡治も ︑共に比の交通線上に住したのは ︑特に
登再すベネそある .さうしてまた畠角一麗は前漢の昭帝の時 ︑これ等の葛新両玄蒐郡の間に介布︐する束
前洲のわ■江の流域に一囲を建設したのである ︒高句麗の共の後の歴史は ︑前漠末の王券の時 ︑助と
rふえの二声んつて ︑キの道はし整たしめたキ玉に誇殺せられたとrふ外 ︑ 一世紀養
一 う
の長む期間を
通じて登鉄い不現であるが ︑後一浜の中業に至つ毛推¨航才も黎明一期にス一つ一 ︒卸ち・営時工共の園の王持中に居た
のほ官といム名の傑主した再一であつて ︑坂ぅにお十あ十玄著一︒遺一外二部の地を侵し ︑和帝の干一鼻元年︵紀
元一〇五︶恵手河の流域に★けら玄苑一部を旬して英の地を占有し為 c閃つて漢は次の年なる安市の抑
性■つ年︵や卜元一〇六︶ ︑遠一央部の一部を割いて第三玄苑郡予一誠けた ∩√
さて此●各三玄克訂の中心は三磁韓一代になつてへ︶空らなかつたが ︑呉志尭の孫維俸の話に引かれた
異詩の一逃真に依ると ︑みヽれは一表手︵寿二央郡治一小あ主一 ︑瞬︶●・社十一二百野一︵一管時の里数け内一庭でぁった
といふのであち ︒故市内工拝士が三両一幹 ャ代昴主西時代●玄群お■本天お近で・あらうたしたのは ︑
一︵一︼一一匹批吉う玄克部と高句一 魁 ︵︼池内一方︶
( 7 〕
r 局 、
渓苑吉のま充那と句五 令池内表じ 一0・
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就 ﹂支 上 徴 の 置 本 に づ
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銃 都 業 市 と て し 今 の 撫 の 順 市 束 の 遊 丘 の 陸 地 永 合 安 克
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︶ に
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さ 止 て 第 の 三 充 玄 郡 蘇 ほ 子 河 流 の
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玄 亮 郡 が 高 角 魔 領 の 内 漫 に し 経 た
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新 た に 遠 束 郡 の 一 部 を 割
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︑ そ れ 等 相 開 向 の 位 置 か ら を
中庄 装 L 宴 京 老 装 の 購 近 に 擬 せ ら れ る が
︑ こ れ も 一第 二 玄 充 一郡 の 故 郡 城 の 代
う 置 に か れ た も で の は あ ま る い か と は は れ
る 命 ︶
要 す る に 後 浅 の 中 頃 於 に け つ 第 二 克 玄 部 漫 の 本 は 垂 ︑
東 す 百 F 妖 俺
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文 た 東 方 を 雇 み る と ︑ 日 本 海 滑 十 の 嶺 東 七 軽 の 地 は ︑ 後 ま ら 初 め 染 浪 郡 の 東 部 都 尉 の 治 を 罷 あ ︑ 面
水 七 犠 の i 含 と 啄 長 に 封 じ て ︑ そ れ 等 の 自 治 に 委 せ て あ つ た が ︑ 高 句 藍 が 始 め て 比 の 地 方 に 勢 力 を 及
ぼ し た の も ︑ 宮 王 の 在 位 の 間 で あ つ た や う 才 ヽ あ る ︒
一 やと合Tぜ前出栽れ﹁高句藤あ廷閣岸註と史上の事安L D
F⁝ ⁝︶キ ︶■卑率話 B年二一を ︑第二焼︵昭.和十六年二片じ所載報稿﹁玄荒一 郡・の園基高瓢の遺址﹂ ︒
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⁝ l i l 猛■地理 ︑卒二 ︑夏九六十九A. 一m!た■共二郎氏著 ︑綬市洲誉強志︹昭和4年刊﹀ ︑五一一一︱二一踏︒ 一hじたL三二氏著 ︑準順■話︵昭和十三一午阪ヽ考古掌雑誌 ︑第二九を ︑
漢犯告万玄力部と高旬直 ︵池内を︶ 合昭和十四年十一月
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↑ 高 句 一携
? 勢 力 制 を 座 し た ば
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な く
︑ は 一南 朝 鮮 牛 島
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ぼ し 楽 て 浪 部 空 を 中 牧 に
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郡 商 の 牛 ま ︑ 海 道 の 慈
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ち ︑
郡 壕 の 統 治 墾 を 由
十 な
状 る 態 復 に だ し
︒ 孫 な 氏 討 を 一滅 し 述 て 束 並 突 に 浪 帯 ︒ 方
二 部
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地 を 領 有 し た の は 三 園 の 魏 で あ る ︒ 魏 ほ 幽 州 刺 史 母 丘 佼 の 名 に 依 つ て 有 名 な る 二 同 の 東 方 這 征 を 途 行
し た ︒ 共 の 第 一 岡 の 役 ︑ 高 句 糖 の 画 都 丸 都 城 は 一猪 ら れ た が ︑ 翌 年 夏 に 起 さ れ た 第 二 回 の 後 ︑ 囲 王 位 宮
︵東 川 王 ︶ は 遠 く 商 及 温 合成 果 地 方 ︶ に 森 ち た の で ︑ 茨 温 征 伐 が 績 行 せ ら れ ︑ 商 沃 温 に 攻 あ 入 つ た 魂 車
は ︑ 位 宮 を 罪 警 し イ ︶北 氏 温 合 間 島 地 方 ︶ に 至 る と 共 に ︑ 別 に 薬 浪 ︒ 樺 方 二 郡 の 大 守 は ︑ 旨 時 高 句 牲 に
服 屋 し て ゐ た 機 東 地 方 の 減 族 の 議 壊 侯 を 降 服 せ し あ た ︒ こ れ は 魏 の 磨 帝 曹 芳 つ 正 始 五 ︒ 六 雨 年 ︵ 紀 元
二 高 四 ︱ 二 四 王 ︶ の 間 の こ と で あ つ て ︑ 魏 の 勢 力 は 牛 島 を 風 摩 じ た ︒ し か し か く の 如 く 華 や Ц 作 時 代
は 甚 れ 短 か く ︑ 詳 し い 事 情 も 確 か な 年 共 も 昼
か 魏 わ ぬ け れ 正 始 末 上 の の 限 西 書 の だ を で ︑ ら も し と ︑ ︑
初 め に 局 す る 式 市 の 秦 始 十 年 を 下 限 と す る 二 十 五 年 ば か 0 の 関 ︵ 種 元 二 四 八 ﹁ 二 七 四 X ワ 或 る 機 含 に ︑
魏 の 束 方 経 峰 の 反 動 た し て の 高 句 魔 の 南 侵 た 認 む s へ と ︑ 立 上 に 俸 は ら な r 事 を は 起 う ︑ 業 浪 郡 の 大 同
江 以 北 の 話 球 は も ん と も に 其 の 影 を 溜 あ た ︒ さ う し
末 全 然 夜 滅 ィ し れ は 適 首 至 つ 本 郡 の 一 そ に て す の る
段 階 を な し た の で あ る Ъ
西 書 末 の か ら
一央 書 初 の め に 互 少 済 ︑ 一 西 を 本 榛 一 と す る
鮮 キ
索 の 容 腐 は 書 適 の 東 郡 地 の を 占 領
し た
︒ か く し て
干 あ
勢 力 牛 の 島 に 及 ば な く な つ た の 柔 に
﹁ じ
︑ 高 句 雇 は 築 浪 郡 を 没 落 せ し め
た ︒
れ こ は 西 書 滅 の び 三 る 年 前
︵ 懸 帝 建 築 元 年
︑ 紀 元 三
十 三
︶ の こ と
で ︑
時 の 高 句 一麗 美 は 州 王 乙 升 利 で あ
る ︵ ︶
文 束 た 畜 の 元 市 が 新 朝 を 南 江 に 創 め 後 た ち 十 数 年
︑ 高 句 麗 は 前 兼 主 実 容 廃 死 の に 件 つ て 起 つ た 菓 容 氏
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一浜収だつま苑部と高句歴 ︵池内々i︶ 子 一〇六
十11キ塩の一年再子一来客仁ム 一毎 ︲﹂際
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一 に
なける第二次のみ革﹂ヽ一の機官を小付 ︑十求容氏の行︻土ウ一部
となつてる攻第三束革を使し文 ︒これは吉毎磁の衣展上L特にと百すべき頭著在る事件であるけ
れども ︑猛■●表直に現れてゐ々ふれ
・ ら
こ従本来だ項かにせられてゐない ︒これに開する詳しい考
乱は一を代のを束﹂ととしたおおの中に逃 .へたLころに語外 ︑こLには省略に従ふが ︑三出史託一性
高句枕オ紀丁そ
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れるて箭■に﹁案蝉北新抗﹂と試る゛デいてゐる■ギ準故H原王五年︵東言成帝成
・康九年 ■定元三三二︶●対す集設は ︑たの卒士の一斗におれたものであろ ︒さうして和距る四年の技
ころ減市r圧三年
十 ︵ ︑
紀元三二九︺の事責Lし ンて ヽ ﹁す治近鉢堆 九に﹁幕容勤と高覧 ︑兵及干ず ︑お句
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私︶つと私岸一庄元年︵主元三三百じにかけえナ革t夜●所坊築設が ︑菓容氏の領土●一部であつた務三
玄充耳に当する高句屁的震時 ︑
と 1 1
ち後まあ中世一以降猟順を杯治として存キ︐した此の郡の技落を意味す
るといふり上 ︑十打すといム一 品句度の一城の的確なる生こと考意に入れてのことである ︒新域の位揖に
ついては ︑とを今の未十ギ4は耗小幅いのあたうであらうとする故松井等氏︒故箭内王薄士上び津題左ヽ有古
た士等の読があつたが ︑Ц?れも互︺ら不十分土を文献↓町の徴誇 .に本づいたものであつモ ︑よう以上に
的になる位置を決定することはできなかつた ︒無る■去る昭和八年 ︑純順画書鶴長渡退三三氏は今の
撫頂噺の管内に存する北闘山城を調査し ︑追監及び浸物つとからそれが高行批時代の出攻つ一基であ
ることを識う ︑之を前この諸一読に照らして此の出技を問運の新城に比定せられた ︒題¨河食南岸に臨ん
ゃれ今つ挨収市の永安三束な買には ︑数通の如ぐ第三玄売郡
ナ ︲ ︲ と
が現手するが .北閉
﹂ ︱ ︱
城は比の注一蹟と相
当して淳河の北岸を北に去ること遺からぎる析胡キ代あ挟恒城の束北数町の定に位し ︑淳河の水流を
技んで相る二十一致尊である ︒来頃城の古︼ 縄外の対には市出 ︑↓北円井の地には北一 開つ構があつて ︑山
サ空けれは北開に一らするから︑かく呼ばれるのであえ︑祭と稲↓和十三年春 ︑支卜邦旅行ら途衣 ︑比の出
我を一見し ︑昨年︵一十五年︶秩 ︑更に精密なるを≡≧由 ︶調査を行つたが ︑た遂氏の比定は一動かす ︑へか
一一 拘︶︐らいする ヽ ︲いし
り千卜あるヽと一佑ギリる ︒
無Lのサ開山抜が新城のヽ一基であつて ︑それと第三サ一就一 部士との地理上の開一体がかくの知くである
とすれド ︑一打域は一央子の初卸″に嵐するょ反帝の成痢十 九年乃三若立 ︵弘府一元年︵一紀元一 三三日十三二五︶高!た
の故口ば耳一ガ第三玄充部を峰有したのに作ひ ︑土︵あ故剖新一 に一とき癌寛京︼る掛 一路を辞んで新併十へ 十築設し
た山我でなけ
︲ I L
ばならね .新域といふ・特別石る十一義のあるだ ︑・る或名も ︑かう考へることに伝つて一硫あ
て共●読現がつくのであつて ︑部ちそれは江市の玄克城に当して新たに江北に築かれだ致であるから
で あ ら
う ︒
柔 言 す 4 新 は 域 玄 ほ 克 改 の 那 城 封 に す 高 る 覧 句
白 ︐身
の 由 城 と し て 玄 の 克 新 城 外 に な ら 石 む
の で あ る
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は 現 存 す る 遣 義 其 ゆ も の か ら 見
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て 担 枝 庄 大 で あ る が
︑ 共 の 柔 設 が
漠塊苦め才一克奇と高句一鰐 ︵池内宏じ 一〇七
( 上七 」 ( 15 )
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克 部 二 一屋
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比 方 の 面 地 の 上 一勢
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充 の 故 郡 城 相 と 隻
つ て
︑ 句 !高 麗 新 の 領 占 地 の 守 備 を 化 悪 し
た も
の で あ る こ と
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更 あ て
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束 書 初 の 期 於 に け 高 る 句 覇 あ 城 一耕 築 設 事 の 情 は そ か 如 卜の く で あ
る ︒
さ し う 此 て 域 の 爾 は
本 束
書
か ら
南 北 朝 終 を t 盾 店 時 代 至 に ま る
で ︑
還 東 遠 ︒ 西 乃 至 北 章
一 那
地 の 領 を 有 す 諸 る 勢 力 高 と 句 一脳 と 抗 の 守 に 聯 開
し
て ︑
前 逃 に へ ︑ た 高 句 麗 商 の
蘇 城
木 ︒ 産 戎 等 諸 の 城 共 と 特 に 重 に 要 な 役 る 割 働 を い た の で あ
る ︒
一 方
玄 売 故 の 郡 城
は ど
か う と
い ふ
に 唐 ︑ 大 の 来 貞 の 親 十 年 九 行 に は れ 高 た 句 一脳 親 征 後 の に 闘 し 玄 て 莞 城 名 の
が 沖
一 上 見 に え 又 ︑ 往 た 年 洛 陽
の 一部
出
か ら
出 一土 し 泉 た
! 男 生
︵≡高 句 躍 末 権 の 泉 臣 藁 蘇 文 子 の
︶ 墓 の 話 に 男 も 件 ら 援 つ た 城 と し 英 て 名 の
が 一見
え
る ︒
こ .れ
玄 は 菟 郡 最 の 後
の も
の た 第 る 二 玄 克 郡 改 の 郡 城 に 外
な ら
な い の で あ つ て 東 ︑ 書 初 の 期
高 ヽ句
度 領 の
十 に 内
浸 し 後 て
も ︑
な 数 ほ 世 紀 の 間 長 共 く 名 の 資 と を と 存
し た の で あ
る ︒
だ
か ら
撫 順 束 の 公 園 郡 の 治 址 か
& らL 漢 ︑ 魏 代 時 各 の 種 遺 の 物 と 交 は
つ て
︑ 高 句 一躍 の え 片 澤 も 出
審 一見
せ ら
れ る
の で
あ
る ︵ ︶
章主
︵W
︶ 史
九 ︑
一弁
三を
第 ︑
六城
︵昭
和四
年
月デ ︲
し
所載
拙 稿
公﹁
採 氏
の一帯
方
郡設
置
膏と
貌
業の
浪拳
方
郡二
﹂ ︒
イ ︵ぶ﹀
前 序 地
歴理
史
研究
報 告
第 ︑
一二
船 所 載 耕 稿
菅﹁
魏
東の
方 経 時
﹂ ︒
合巾
︶ 前
拙出
橋
業﹁
浪
郡考
﹂ 第
七童
︒
殉︵
﹀ 資
治通
鑑
︑ 各 八
八 ︑
審守
建 興
元年
四月
確の
︒
︵拠︺︵邦文﹀帝囲掌士院紀事 ︑年一各第一坊︵昭一和十七年再月︶︒
︵2 2
︶滝洲歴史地理 ︑な一 ︑耳三八
⁝ ナ L i二九二 ︒同上 ︑頁三二五 .速鮮地翠居史研究報告 ︑第一赫 ︑﹁安京都護府考﹂町録一 ︑﹁高 句屋時代あ新戎 ︑木E城及び高蘇城について﹂ ︑夏九ズ .
︵聴u渡違三氏著撫順史話 ︒前出拙稿﹁禁順の史蹟L .
︵算︶滝鮮地型歴史研究報告 ︑第一大矛所載拙稿﹁高句園討滅の校に於ける唐軍の行動﹂ ︑頁一一七︱一二八︒
踊鯛 既悔
指
以上緩読したとこんは ︑津一代以本三たび庭を異にして存在した玄苑郡と高句麗との開係についての
考説の大略であつて ︑別に老 .祭すべき束書乃至商北朝時代の遠束に開する会あ研究の序読である ︒今
女之を概括すると ︑前漢の昭帝の時 ︑第一玄売郡L業浪郡に併合すると同時 ︶に︑第一 ^玄充郡と蘇子河
の上流に新誠したのは ︑偶投高句麗が侮佳江の流域一に占!援して ︑新たに一園材︸建てたからであつて ︑
本に第二玄売郡?新設は ︑革句一 批の勢力の制屋に直接の目的を置いたものであつだのであち ︒然るに
後漠の中世に於ける安 ヤ帝の眸 ︶に至う ︑高句麗ほ共の地を侵奪して ︑郡治を撫順に選却せじめた ︒撫暇
の玄苑郡は第三玄菟郡と橋すべきもので ︑三園を経て面一吾あ世をれる女で存績し ︑東者の初め鮮卑の
慕容氏の右に鋳したが ︑高句一魔ほ某容一腕の死後に於ける菓本氏の内証に乗●そ共の地を占有し ︑同じ
撫 順 地 の 新 に 城 と い ム 一 城 築 を
い て
共 あ 地 の 守 備 を 報 化 し
た c
帥 ち 比 城 の 高 は 句 一 麗 自 身 克 玄 新 抜 と
し て
︑ 別 の 立 場 に 於 い て の 玄 一 兎 都 の
延一 長
に 一担 な ら
こ次
の
でf
あ る
︒
︵昭
和 十 六 年 十 二 月 十 二 日
︶
藻麹音の玄克郡と高句麗 ︵一池内宏じ一〇九