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37<注解と解説>

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(1)

ハーフェズ詩注解 ( 7 )

佐々木 あや乃

はじめに

ガザル第

37<注解と解説>

おわりに

はじめに

ペルシア文学史上、ガザル (抒情詩) の最高峰と讃えられる詩人ハーフェズ (Khājah

≈āfi√-i Shīrāzī, Shams al-Dīn Mu∆ammad ibn Mu∆ammad, 1326?-90

頃) の作品は、ペルシア語の原詩に直 接触れると言葉で表現された世界の奥行きがぐんと広がり、読者をえもいわれぬ独自の空間へ と 誘いざなう。しかし、外国語―ここでは日本語―に訳出した途端、その魅力は半減、いやほとん ど伝わらなくなると言っても過言ではない。訳者の技量の問題ではなく、ハーフェズ詩の言語 に含まれる意味の重層性やペルシア語の音によって生み出される音楽性を翻訳に反映すること が、ほぼ不可能だからである。筆者は、そのペルシア語と日本語との間に生じてしまう不本意 な大きな溝を少しでも埋めたいという衝動に駆られ、仄かな希望を抱きつつ、これまでいくつ かのハーフェズ詩注解を試みてきた。1)

ここでとりあげるガザル

37

は、イラン人の間でもよく知られているガザルの範疇であると 同時に、研究者の間ではさほど激しい論争の的とはなりにくい、比較的平易な作品である。し かし、我々ペルシア語を母語としない者が翻訳を読むだけでは到底気づきえない、密度の濃い 言辞が多用されレトリックが駆使された作品である。

そこで本稿では、このガザルを日本人のためのハーフェズ入門的な作品と位置付け、そのハ ーフェズの妙技に着眼し、言葉のあやを解きほぐし、十分に咀嚼しつつ、詩人のメッセージを しっかりと汲み取ることを目標とする。

ガザル第 37<注解と解説>

まず、『ハーフェズ詩集』ハーンラリー版2)に依拠し、原文の音写表記と拙訳を示してから、各 行毎に順を追って考察していくこととする (各行冒頭の番号は便宜上筆者がつけたものである) 。

(2)

1. biyā ke qa≠r-e ’amal saxt sost-bonyādast biyār bāde ke bonyād-e ‘omr bar bādast 2. ¶olām-e hemmat-e ’ānam ke zīr-e čarx-e kabūd ze har če rang-e ta‘alloq pa§īrad āzādast 3. če gūyamat ke be meyxāne dūš mast-o xarāb sorūš-e ‘ālam-e ¶eybam če možde-hā dādast 4. ke ’ey boland-na√ar šāhbāz-e sedr-e nešīn nešīman-ē to na ’īn konj-e me∆nat-ābādast 5. to rā ze kongere-yē ‘arš mī-zanand ≠afīr nadānamat ke darīn dāmgah če ’oftādast 6. na≠ī∆atī konamat yād gīr-o dar ‘amal ār ke ’īn ∆adīs ze pīr-ē ªarīqatam yādast 7. majū dorosti-ye ‘ahd az jahān-e sost-nehād ke ’īn ‘ajūze ‘arūs-ē hezār dāmādast 8. ¶am-ē jahān maxor-ō pand-e man mabar ’az yād ke ’īn laªīfe-ye ‘ešqam ze rahrowī yādast 9. reżā be dāde bedeh, vaz jabīn gereh bogšāy ke bar man-ō to dar-ē ’extiyār nagšādast 10. nešān-e ‘ahd-o vafā nīst dar tabassom-e gol benāl bolbol-e bīdel ke jā-ye faryādast 11. ∆asad če mī-bari? ’ey sost-na√m bar ≈āfe√ qabūl-e xāªer-o loªf-ē soxan xodā-dādast

1.

さあ、希望の城はひどく脆い礎なのだから

酒をもて、人生の礎も風に漂うがごとく脆いのだ

2.

僕は巡る蒼い天の下、現世のどんな色にも

染まらぬ者を慕うしもべ

3.

君に何と言えばいいのだろう、昨夜酒場で酔い潰れた時、

不可視界の天使が僕になんとすばらしい吉報を届けてくれたことか

4.「おお、大志を抱き世界の果ての聖木にとまる鷹よ

苦労に満ちるこの世の片隅はお前の居場所ではないはず

5.

天の果てからお前を呼ぶ声がする

なぜお前がこの罠に陥ったかわからぬのだ」

6.

君に一言忠告しよう、憶えて実行するがよい

次の言葉はわが老師によってこの身に刻みこまれたもの

7.「礎の脆いこの世が誓いを守り抜くことなど求めてはならぬ

この老いた花嫁には数多の婿がいるのだ

8.

世を嘆かず、我が教えを忘れるな

我が愛の麗句は求道者から学んだもの

9.

『運命に満足し、眉をひそめるな

扉は我らの意のままには開かない』」

10.

バラの微笑みに誓いと誠実の 徴

しるしはない

恋に悩む小鳥よ、嘆くがよい、今こそ叫ぶ時

(3)

11.

下手な詩人よ、ハーフェズをなぜ妬むのか?

美しく流麗な言葉を語る才能は神からの贈り物

以下、ベイト (対句から成る

1

行) 毎に解説していくことにする。

第一ベイト

biyā ke qa≠r-e ’amal saxt sost-bonyādast biyār bāde ke bonyād-e ‘omr bar bādast

さあ、希望の城はひどく脆い礎なのだから 酒をもて、人生の礎も風に漂うがごとく脆いのだ

biyā

;文法的には動詞

āmadan

「来る」の命令形。しかし、ここでは「来い」という命令として 用いられてはいない。「知るがよい」「見よ」「信じよ」「受け容れよ」「注意を向けよ」という激 励や同意の意図が混在した、微妙で繊細な意味を込めた呼びかけである。このような

biyā

の用 法は他の詩人ではあまり見られない、ハーフェズの特徴的表現であり、ハーフェズ作品の美し さの鍵を握る語の

1

つであると評価される。3)

amal

:希望。通常は長命を望む等、叶い難い望みをさす。

qa≠r-e ’amal:「希望の城」

。希望を城に喩えている。エザーフェ (語を結びつける

e

音) の種類の

1つである比喩的エザーフェ (eżāfe-ye tashbīhī) 。

saxt

:形容詞としては「堅固な」という意味をもつが、ここでは次の語

sost

を修飾する副詞「非 常に、たいへん」という意味で用いられている。

sost:永続しない、脆い。

saxt sost:元来正反対の意味 (「堅固な」と「脆い」)

を有しながら、共に

CVCC

1

音節であ

り、

s

t

という共通の

2

子音を含むこの

2

語を敢えて隣接させることにより、美しいリズムと 響きを生み出すことに成功している。

sost-bonyād

bonyād-e sost,

修飾語と被修飾語の語順を逆にし、それらを結びつけるエザーフェ

(e

音) を省いた形。ペルシア語ではよく用いられる倒置的エザーフェ (eżāfe-ye maqlūb) 。

biyār:動詞 āvardan「持って来る」の命令形で、本来は biyāvar。このベイト冒頭の biyā

に子音

r

を付加した形を採用し、一音付加されたために異なる意味を表す語を形成する「類音異義」

のテクニック

(jenās/tajnīs-e zā’ed)

が用いられている。各半句の冒頭の音の類似が耳に心地よく 美しく響く効果を狙ったレトリックである。

bāde:酒。ハーフェズ詩をはじめ神秘主義詩では多用され、間断のない煌めきによって愛が沸

(4)

き立つことを意味すると同時に、人間の悲しみを癒し、視野を広げてくれるものとして詩に登 場する。ペルシア古典で酒といえば、赤ワインをさす。後出の

bād

「風」の語末に

e

という母 音を付加した「類音異義」の技がここにも用いられている。

bonyād-e ‘omr

:人生の礎。隠喩的エザーフェ

(eżāfe-ye este‘ārī)

4)

このベイトの前半句におけるハーフェズの主張は、以下のとおりである。

さあ、よく考えてみるがよい、私は、希望という城はその礎がとても脆いと思う。君はそ うは思わないかい。もしこれまで叶えられなかった望みがあるのなら、願いが叶うまで長生 きをしなければならない。だが、人間の生命は人間の手中に握られてはいないのだから、生 命の礎は風に弄ばれているような、不確かで危ういものなのだ。

現代に生きる我々も全く同じことを思う。人間の生命は儚く、明日が必ず訪れる保証はない。

しかし、だからといってハーフェズは刹那主義を振りかざしてなげやりな人生を勧めているわ けではない。今を、この一瞬を大切に生きようという思いを込め、相手

(

読者

)

に呼びかけて いるのである。

このハーフェズの言葉は神秘主義的に解釈することも可能である。神秘主義修行者に対して は、「現世のなにものに対しても執着してはならない」という教えがある。この教えに従うなら、

人間は「少しでも長生きをしたい」という、自分の寿命についての希望ですら抱いてはいけな いことになる。ではどうすればよいのか。今、この瞬間の人生を謳歌すればよい、とハーフェ ズは言う。それが、後半句にある「酒をもて、悲しみを忘れよう」というハイヤーム5)的フレ ーズに集約されている。酒が悲しみを忘れさせてくれるのは、周知の事実である。

また、bād (風) という語には、神が息 ( = 風) を吹き込んで人間を創造したとする創世記の 逸話を想起させる効果があることを付け加えておきたい。人間の寿命は神が太初におさだめに なったものである。神が息を吹き込んで人間を創造し、その人生の幕引きも創造主たる神の御 心のままだということを、無意識下に読者に認識させる効果を狙った表現であろうと筆者は考 える。

第二ベイト

¶olām-e hemmat-e ’ānam ke zīr-e čarx-e kabūd

ze har če rang-e ta‘alloq paƒīrad āzādast

僕は巡る蒼い天の下、現世のどんな色にも

(5)

染まらぬ者を慕うしもべ

¶olām

:奴隷、 僕しもべ、下僕。

hemmat

:大志、大望、大いなる努力。

čarx:天。車輪のように廻る性質から「天輪」という訳語が慣例的に用いられるが、ここでは

「天」とのみ訳出した。

kabūd

:藍色がかった青。ハーフェズは

kabūd

という語に嫌悪や軽蔑の情をも密かに込めたのか

もしれない。藍色がかった青は、ハーフェズの最も嫌うスーフィー

(

見かけだおしの神秘主義 修行者の意) が纏う弊衣の色だからである。6)「青い弊衣」は導師の中でも最高位の者が身につ けることを赦された衣であるが、ハーフェズ詩の中では偽善の衣、腹黒い者が纏う服として描 写されている。7)高潔で自由の身であることの象徴であるはずの弊衣を纏った者が、実は名声 や外見―青色の衣―にがんじがらめに捕らわれ、神から最も忌み嫌われる存在になり下がって いることが、滑稽で、悲しい。

ta‘alloq:所属、従属。

rang-e ta‘alloq pa§īroftan

:字義通りには「従属の色を受け入れること」。したがって「何かに属

し、従う」という意味を表す。

āzād

:自由の身であること。前半句冒頭の、真逆の意味を持つ

¶olām (

下僕

)

という語との対比 は意図的ではないかと考えられる。

人間の高潔さ、ものごとへの執着心のなさについてうたった点において、ハーフェズの作品 の中でも最も有名なベイトといえる。この第二ベイトは、完全に第一ベイトの主題であった「叶 わぬ望み」「ままならぬ人生」に呼応している。自由に生き、理想の姿をもつ者以外のこの世の 何にも執着せず生きていくことを、ハーフェズが追い求めていることがわかる。

¶olām (下僕)

と いう語で始まったベイトが

āzād (自由人)

という語で終わっているのも、暗示的である。

神秘主義的に解釈すれば、神以外のなにものにも心寄せることのない、真のアーレフ

(

霊知 者

)

が理想像であると解釈できる。このベイトは神秘主義者たちの間では格言として知られて いるとする注釈者もいる。8)

下僕が主人の色に染まるように、神秘主義においても導師の指導にしたがって修行者たちが 道を歩み、やがては彼らが指導者的地位に上りつめる。しかし、階梯を上りつめ、導師の手を 離れたと思った先には、「辛い修行に耐えた偉い方」という、より厳格なレッテルが貼られ、足 かせをはめられたような状態で生きていくことになる、という隠れたメッセージも込められて いるところが、ハーフェズの妙技といえよう。9)

(6)

第三ベイト

če gūyamat ke be meyxāne dūš mast-o xarāb sorūš-e ‘ālam-e ¶eybam če možde-hā dādast

君に何と言えばいいのだろう、昨夜酒場で酔い潰れた時、

不可視界の天使が僕になんとすばらしい吉報を届けてくれたことか

dūš

= dīšab

昨夜。

xarāb:現代では形容詞「壊れた」という意味で用いられるが、古典においてはしばしば、そし

てこのハーフェズ詩の文脈では「酩酊しているさま」を表す。

možde

:吉報、よい知らせ。

sorūš

:ゾロアスター教の聖典アヴェスターには、

sorūš

の原形として、元来「服従」「従順」と

いった意味をもつ

sarāvaš ( = sare’ūšā)

という語が見られ、これは特に、天からの命令に従順で あり、神々の言葉に傾聴するという意味をもつ。sorūšは「聞く」という意味をもつ

sru

の派生 語であり、アヴェスターに頻繁に登場し、現代ペルシア語の

sorūd (

歌・国歌

)

sorā’īdan ( =

sorūdan,

歌う

)

の中にもその基幹が残っている。ペルシア語の文献では、天使ガブリエル

(

ルシア語ではジャブライール

jabra’īl

と発音される

)

に同じとされる。ハーフェズ詩の中では、

アラブ・イスラーム世界からの影響でハーティフ

hātif、ルーフ・アル・グドゥス rū∆ al-qudus

10) と称されることもあるが、いずれも「天からのメッセージを伝える天使」という意味である。11)

‘ālam-e ¶eyb

:肉眼では見ることのできない世界。反対は可視界

(‘ālam-e šahādat)

dādast

:本来は現在完了形

dāde-ast

であるが、韻律上の関係で

e

音を落として

dādast

と読む。

昨夜、酩酊した自分に天使がメッセージを届けてくれた、とハーフェズは語る。通常不可視 界の天使ガブリエルはこの世になんら執着をもたない高潔な者の許に吉報をもたらすとされる。

ではなぜ酔い潰れて前後不覚の「私」の許に、天使が訪れたのか。

それは天使が、私

(

= ハーフェズ

)

はたとえ酔っ払っていようとも清廉潔白な心の持ち主 であると見究めたからである。つまり、世間的には高く評価されていようとも、自分の名声に 執着する似非隠者たちの許になど天使は訪れないということを強調したかったのである。酔っ 払った者は理性がはたらかなくなり、すべてに対してどうでもよいと思えるようになる。つま り執着心がなくなるのである。ここで、このベイトが、完全に前の第二ベイトの続きであるこ とがはっきりと見てとれよう。ハーフェズ自身が「現世のどんな色にも染まらぬ者」の心的境 地に達し、自分の理想像に到達した、だから天使がメッセージを携えて来てくれた、と告白し

(7)

ているのである。

ここに登場する「酩酊した者」は、神秘主義的には、愛しい存在のみに思いを馳せる状態に ある人と解釈できる。すなわち神以外のなにものをも思わない状態が「酩酊」と表現されてい るのである。

では、その神への思いにどっぷりと浸っている者、心に汚

けが

れをもたぬ者に届いた吉報とはど のような内容だったのか。それが、次に続く第四・第五ベイトである。

第四ベイト

ke ’ey boland-na√ar šāhbāz-e sedr-e nešīn nešīman-ē to na ’īn konj-e me∆nat-ābādast

おお、大志を抱き世界の果ての聖木にとまる鷹よ 苦労に満ちるこの世の片隅はお前の居場所ではないはず

boland-na√ar:大志を抱く者。反対語は kūtāh-na√ar, past- na√ar。

12)

šāhbāz

:鷹の一種。詩人は、鷹の空高く勇壮に飛び行く姿を思い描き、大志を抱く者の比喩と

して用いたのだろう。

sedre

:世界の果てにあるとされる樹木の名。

ªūbā (

トゥーバー

)

と呼ばれることもある、天使ガ

ブリエルの住処とされる聖木。コーランにも

sidarat al-muntahā (高い極みにあるシドラ)

という 表現で登場する。13)かつてイスラーム世界では、天は七または九層から成り、第九天 ( = 次

ベイトの

‘arsh

「天の果て」

)

より先は、時間・空間を超越し、感覚では認識できない形而上界

であると考えられていた。

sedre-nešīn:シドラに住む者。天使ガブリエルもこの樹に住むとされる。

boland-na√ar šāhbāz-e sedr-e nešīn:大志を抱き、シドラに住む鷹。この句全体が天使からハーフ

ェズに対する呼びかけであり、直接「ハーフェズよ」と呼びかけない点がハーフェズ詩に特徴 的な隠喩表現である。

nešīman

:居場所。座所。鳥や動物が夜を過ごす場所をさすこともある。

konj:隅。

me∆nat-ābād:苦労や不幸、悲哀に満ちた場所。転じてこの世、現世。

たいていのアーレフは、自らのことを「大志を抱く者」と認識する。なぜなら神とのみ結ば れたいという純粋かつ崇高な目的に向かって日々精進を重ねたからである。14)ハーフェズもア ーレフである。その証拠に、心躍る喜ばしいメッセージが届いたのである。「おお、ハーフェズ

(8)

よ、お前は大志を抱き、まるで雄姿を天に誇る鷹のようだ。お前の本来の居場所はシドラの樹 であるぞ。」すなわち、お前も私と同じであるぞ、と天使が言ってくれたのである。そしてさら に続けて「悲哀に満ちたこの世がお前の居場所ではない、お前のいるべき場所はシドラの樹で はないか、何をしているのだ」という叱責にも似た声が、ハーフェズには聞こえたのである。

これは物理的な居場所をさすのではなく、神秘主義文学で頻繁に登場する「現世では魂は肉体 に捕らわれているが、かつて魂が肉体に吹き込まれる以前、あるいは肉体が消滅した後には、

魂は自由の身となり、自分の居場所

(

= 神の御許

)

に戻る」という話15)を読者

(

聞き手

)

に想 起させる、絶大な効果をもつベイトといえる。

第五ベイト

to rā ze kongere-yē ‘arš mī-zanand ≠afīr nadānamat ke darīn dāmgah če ’oftādast

天の果てからそなたを呼ぶ声がする なぜお前がこの罠に陥ったかわからぬのだ

kongere

:塀の上部の規則的に刻みをつけられた、ぎざぎざとした部分。そこから敵に向けて矢

を射かけたり発砲したりできるように造られた壁の一部。

‘arš:字義通りには「王座」だが、この意味で用いられる頻度は比較的低く、コーランの中でわ

ずか

4

回である。通常は、「最高天 (第九天) 」「天の果て」の意味で用いられ、この意味での 使用はコーランでも

21

回に及ぶ。16)

falak-e aªlas, falak al-aflāk

とも称される、神のおわすところ。

17)

kongere-yē ‘arš:可視界と不可視界の境界。

≠afīr:鷹匠が鷹を呼び戻す、合図の口笛。ここでは、鷹匠の口笛ではなく、天からの声。

nadānamat:最後の t

音は

2

人称単数「君」がこの動詞の目的語であることを示す ( = to rā

nemī-dānam)

dāmgah

= dāmgāh,

韻律上の制約により短縮形が用いられている。罠の仕掛けてある場所、転

じてこの世。

oftādast:本来は現在完了形 oftāde-ast

という形をとるが、韻律による制約で

e

音を落として

oftādast

と読む。本来「落ちる」という意味をもち、「天界から地に落ちた」というニュアンス

を巧みに醸し出している。

大志を抱く鷹のようなハーフェズに、天の果てから「戻っておいで」と合図の口笛が聞こえ

(9)

る。これは、コーラン第

89 (暁)

27~28

節「おお、安心、大悟している魂よ、あなたの主に 帰れ、歓喜し御満悦にあずかって。」18)という内容を、ペルシア語でハーフェズが平易に表現し たものである。完全に前のベイトの内容を踏まえ、この言葉が紡がれていることがわかる。魂 が大悟の境地に達した者には戻ってきてもよいという合図の口笛が聞こえるのである。

「安心・大悟の境地 (nafs-e moªma’enne) 」とは、具体的には、悪魔の誘惑が及ばず、心に悪 事は浮かばず、心の平静を持続して保つことのできる境地、精神的に最も上位の心的状況をさ す。19)ハーフェズは「僕はこの大悟の境地に達した」と伝えたいのである。

後半句の大意は「この世であなたに何が起こったのか、なぜ現世に捕らわれの身なのか、何 に執着して現世から戻ってこないのかわからない」ということである。

ここまで読むと、ハーフェズが、自分は俗人のようにこの世に執着せず、凡人より上位の精 神状態にあるという優越感をひけらかす、いやらしい人間ではないかと感じる読者もおられる かもしれない。しかし、ハーフェズの作品の中では「僕

(man)

」とは「我らみな」を指すこと を忘れてはならないだろう。嘘をつかず、外見を取り繕わず、人を欺かない者でありさえすれ ば、神はその人の許に天使をお遣わしになる、逆に人を騙す者や似非隠者の許には、神からの メッセージなど届きはしない、というのがハーフェズの意図である。

第六ベイト

na≠ī∆atī konamat yād gīr-o dar ‘amal ār ke ’īn ∆adīs ze pīr-ē ªarīqatam yādast

君に一言忠告しよう、憶えて実行するがよい

次の言葉はわが老師によってこの身に刻みこまれたもの

na≠ī∆at:

「忠告」はハーフェズ詩における重要なキーワードの

1

つである。500近いガザルの中

で、ハーフェズはたいてい他人の忠告に耳を貸さず、小馬鹿にしてとりあわず、皮肉めいた言 葉で茶化す。それは、理性に基づく学問や学習、その記録としてのノート等を取るに足らぬも のと考える、ハーフェズのマラーマト的と呼ばれる思考法に直接結びつくからである。20)マラ ーマトとは「非難」という意味で、ハーフェズは自らの作品の中で、社会常識や社会規範から 逸脱した行為をよしとする姿勢を貫いているのである。しかしながら、ハーフェズは自分の忠 告に対しては他人が傾聴してくれることを期待する。

だが、ここで注意すべきは、ハーフェズという人物が、ありきたりの忠告者として悪行から 善行へと人々を 誘いざなうことを目的としているのではないという点である。他人に厳しく説教をし たり、薄っぺらな倫理観を振りかざしたり、保守的にのみ行動するわけではなく、長く伝えら

(10)

れてきた先人の金言や教訓から得た言葉や、人生やこの世についてのさまざまな秘密について ハーフェズ自身が熟考し、観察した結果として、世に説いているのである。21)

∆adīs:言葉、話。預言者の伝承「ハディース」の意味はここでは含まない。

pīr-ē ªarīqat

pīr

は老人、老師。

ªarīqat

は元来「道」という意味を持ち、ペルシア古典では主に

神秘主義の修行道をさす。この

2

語をエザーフェで結び「神秘主義の導師」となる。神秘主義 道には神を模索・探求する段階

ªalab、神を愛しく思う段階 ‘eshq、神を識る段階 ma‘refat、こ

の世のものを何ら必要としない自立の段階

esteghnā、神以外の何物も存在しないと悟る tow∆īd、

沈思黙考できなくなりほど当惑する茫然自失・無我の境地

∆eyrat、そして神人合一の境地 fanā

という

7

つの階梯があり、22)この長く苦しい道程を歩むには、通常シェイフと呼ばれる指導者 的存在を必要とする。

ze pīr-e ªarīqatam yādast:= az pīr-e ªarīqat marā yādast (古典散文的表現) = az pīr-e ªarīqat yād dāram (現代文語表現) = az pīr-e ªarīqat yādam ast (現代口語的表現)

「私の老師から学び、記憶に留めてある」という意味。

天使ガブリエルからの言葉を伝え終わるとすぐさま、ハーフェズは読者に対し、脳裏にしっ かりと焼き付けておいた、自分の尊敬する老師からの金言を伝え始める。その内容が、次の第 七・第八、さらに第九ベイトへと続く。

第七ベイト

majū dorosti-ye ‘ahd az jahān-e sost-nehād ke ’īn ‘ajūze ‘arūs-ē hezār dāmādast

礎の脆いこの世が誓いを守り抜くことなど求めてはならぬ この老いた花嫁には数多の婿がいるのだ

majū:jostan (求める)

の否定命令形。古典の否定命令では、na-ではなく

ma-という接頭辞が用

いられることが多い。

dorostī

:正義、堅固。

sost-nehād

:根本が脆弱な人、意思の弱い人。

nehād

はここでは「性質、天性、創造」という意

味。

‘ajūze:醜い老婆。この世を老婆に喩えている。コーラン等アラビア語文献では ‘ajūz

という形

で用いられるが、ペルシア語においては

‘ajūze

という発音の方が普及している。23)

hezār

:元来は数字の「千」。ここでは漠然と「多くの数」を表す。

(11)

ハーフェズが「わが老師」から聞いた言葉を我々読者に伝え始める。’īn

‘ajūze ‘arūs-e hezār

dāmādast

「この醜い老婆は多くの花婿の花嫁」とはどういう意味であろうか。ハーフェズの作

品には「美しく不実な花嫁」が何度か登場する。24)しかし、不実なうえに老練さが加わった例 としては、中世の偉大な宗教思想家でスンナ派イスラーム法学者であったガザーリー

(Ghazālī, Abū ≈āmid Mu∆ammad ibn Mu∆ammad ∫ūsī, 1058-1111,

共に高名なガザーリー兄弟の兄の方) の

『幸福の錬金術 (Kīmiyā-ye sa‘ādat) 』に、イエスがこの世を老婆の姿として捉え「何人の夫が いたのか?」と尋ねると、「数は把握していないけれど、とにかく大勢!」と答える場面が描か れており、25)ハーフェズがこの逸話を意識し、この世を「老獪で不実な花嫁」に喩えたのだと も考えられる。百戦錬磨の老婆の花嫁とうら若い花婿が互いに誠実でいようという誓いの下結 婚の儀を執り行うさまは、まるでこの世と「生きる」契約を交わす人間のようだとハーフェズ は言いきる。しかし、この世で人間はいつまで生きられるかわからず、決して永遠の命を得る ことはない。そしてまた新たな人々がこの世に生を享ける。老練なこの世はたとえ今日は私と の約束に誠実であったとしても、明日は別の人を受け入れ、私との約束は反古にしてしまう、

とハーフェズは訴えているのである。

前半句の解釈としては、この世はたとえ僅かの間自分の思い通りになり、地位や名声を得る ことができたとしても、それが永遠に続くことはない、という意味にとることも可能であろう か。26)

老獪な男と若い花嫁ではなく、老いた花嫁と若い花婿という組み合わせがペルシア文学にお ける一つの伝統となり得たのは、ペルシア語で現世・世界を意味する

donyā, jahān

という語が 主として女性の名前に用いられることが影響するのかもしれず、また老人に複数の妻という、

さほど珍しくもないパターンでは、読者へのインパクトが足りないと詩人が判断した末の表現 なのかもしれない。

第八ベイト

¶am-ē jahān maxor-ō pand-e man mabar ’az yād ke ’īn laªīfe-ye ‘ešqam ze rahrowī yādast

世を嘆かず、我が教えを忘れるな 我が愛の麗句は求道者から学んだもの

laªīfe-ye ‘ešq

:ハーフェズ注釈書の類にはこのフレーズに関する明確な解釈・説明は一切施され

ていない。「神への愛の道 (神秘主義道) を歩む際に忘れてはならない座右の銘」とでも解する べきであろうか。27)

(12)

rahrow:道行く者。転じて神秘主義修行者。

「わが老師」の言葉が続く。が、老師が忘れてはならぬという話の内容は、「求道者」から学 び憶えたものだという。ここで、第二ベイトで述べた、主人と下僕―導師と修行者―の「めぐ る関係」が再び伏線となって用いられていることに我々は気づかされる。求道者が厳しい修行 の果てに導師となる。導師になり、その名声や地位に執着している自分に気づいた者は再び求 道者となる。人生とは修行の連続ということであろうか。

そしておそらく、人間観察に長けたハーフェズが理想としたのは、導師の中でも特定の修飾 語を付して称される、突き詰めていけば「レンド」と呼ばれる自由人であり、おそらく決して 実在しえない人物であったのだろうと筆者は考えている。28)

では、求道者から学んだ言葉―第九ベイト―を見てみよう。

第九ベイト

reżā be dāde bedeh, vaz jabīn gereh bogšāy ke bar man-ō to dar-ē ’extiyār nagšādast

運命に満足し、眉をひそめるな 扉は我らの意のままには開かない

reżā:満足している状態。神秘主義では、大悟の境地に達した人の心的境地をさす。具体的に

は、運命に身をゆだねることへの心の喜び、善や悪に対峙した際にも動じない心の平静さをさ す。この境地に達した者には悲しみや心配事がない。なぜなら、ありとあらゆることは神のご 意志によると考えるからである。

dāde:= dāde shode,

与えられたもの・こと。神から与えられたもの、すなわちここでは運命、

宿命。

jabīn

: 額ひたい

gereh

:結び目。「眉間の皺」という意味でしばしば用いられてきたという指摘もある。29)

az jabīn gereh gošādan:字義通りには「額から結び目を解く」

、眉間の皺を解くこと、すなわち

不快でなくなること。

bogšāy

gošūdan (

開く

)

の命令形は本来

begošā(y)

となるが、韻律上の制約により

bogšāy

と読む。

nagšādast

gošūdan (

開く

)

3

人称単数現在完了否定形。本来は

nagošāde-ast

であるが、韻律を 考慮するとこのように読まれるべきである。

(13)

神があなたに与え給いしことに満足せよ。悲しんでも無駄なのだ、なぜなら我らには選択の 自由はないのだから、というのが、その求道者の教えである。30)この言葉の裏に「もし選択で きる身であったなら、自分の今置かれている状況を変えることができただろうに」というやり きれなさ・はがゆさを感じるのは筆者だけであろうか。

神秘主義やイスラーム神学では、神によって人間の行為が強制 (jabr) されるという考え方と 人間には自由意思 (ekhtiyār) があるとする考え方の対立が存在する。神秘主義修行者たちは通 常、人間の行為は神に強制されると考え、イスラーム神学の中のアシュアリー派の流れを汲む 考え方をもつ。アシュアリー派は、人間の行為は、人間のために「神が創造した能力」によっ て、神の創造するその行為を「獲得」しているにすぎず、行為の結果は行為者自身に責任があ ると考える。シーア派信徒も、強制と自由意思を各々ある程度認めてはいるものの、自由意思 の占める割合はかなり少ない。ハーフェズもこの強制と自由意思については、アシュアリー派 の考え方に追随している。

第十ベイト

nešān-e ‘ahd-o vafā nīst dar tabassom-e gol benāl bolbol-e bīdel ke jā-ye faryādast

バラの微笑みに誓いと誠実の 徴しるしはない 恋に悩む小鳥よ、嘆くがよい、今こそ叫ぶ時

‘ahd

:契約、誠実。

tabassom

:微笑。

tabassom-e gol:花の微笑み。蕾がほころぶさま。花を人に喩えた、隠喩的エザーフェ。

benāl:nālīdan (うめく、不平を言う、号泣する)

の命令形。

bīdel

:字義通りには「心失くした者」。意味がほぼ同じであることから

‘āšeq (

恋する者

)

という

語を採用した版もあるが、

bolbol

との組み合わせを考慮した際、敢えて極めて直接的な

‘āšeq

を 用いるよりは、語感の鋭いハーフェズの詩には、その音の響きの美しさからも

bīdel

がよりふさ わしいと判断できる。31)

bolbol:美しい声でさえずる小鳥。ペルシア古典では、鳥は恋する者、花 (バラ)

はその愛の対

象を表し、対で用いられることが多い。神秘主義的に解釈すれば、

bolbol

は人間全般を、

gol

は神を表す。

faryād:大声で助けを求めたり、不満をあらわにしたりすること。大声で叫ぶこと。

32)

(14)

記憶しておくべき教訓は前のベイトで終わり、ここからは詩人ハーフェズ自身の言葉でうた われている。

花が咲くのは契約や誠実さの証しゆえではない。前半句では、小鳥がさえずるのは花からの 永遠の愛や誠実さが見られないことを嘆いているからであり、恋する者として当然の行動であ る、と小鳥の行動が正当化されている。

詩人は恋する者に対し、お前が愛する花がいつまでも咲き続けることがないように、それど ころかすぐにしおれて枯れてしまうのだから、実に嘆かわしいことだ、今がまさに叫ぶ時なの だ、と呼びかけている。

bolbol

が美声の小鳥を表す語であることから、筆者はハーフェズが詩人である自身に対して

呼びかけているのだとほぼ確信している。その美声でコーランを

14

通りに暗誦できたともいわ れるハーフェズであればこそである。33)

この世で永遠に生き続けられないのと同じように、愛しい人に会えたとしてもそれは永遠に 続くわけではない。厳しい修行の中で、神を間近に感じられたとしてもそれは一瞬でしかなく、

歓びの時ははかなく過ぎ去ってしまう。ああ、辛い、悲しい。今声に出して嘆かずしてなんと しよう。

このガザルのクライマックスとでも言うべき、ハーフェズの思いのたけが凝縮されたベイト である。

第十一ベイト

∆asad če mī-bari? ’ey sost-na√m bar ≈āfe√

qabūl-e xāªer-o loªf-ē soxan xodā-dādast

下手な詩人よ、ハーフェズをなぜ妬むのか?

美しく流麗な言葉を語る才能は神からの贈り物

qabūl-e xāªer

:快い、楽しい、好ましい。

loªf-e soxan

:優美で繊細な言葉。機知に富んだ言い回し。

xodā-dād:= xodā-dāde,

神から授かった、天賦の。

この最終ベイトで、ガザルの調子ががらりと変わる。

駄作しか作れぬ詩人よ、なぜハーフェズを妬むのか?ハーフェズが流麗に詩を詠むのは、神 が与えてくださった天賦の才能だというに、とハーフェズは言う。これまでの

10

ベイトで披 露してきた自身の言葉の巧みさは神からの贈り物なのだと、自らの才能を讃えているのである。

(15)

当時の詩人の中にハーフェズを妬む者がいたのであろう。他より優れた才能の持ち主が嫉妬 の対象となるのは、世のならいかもしれない。しかし、嫉妬はハーフェズ自身に向けられるべ きではなく、人々の口の端にのぼることで時空を超えて伝えられていくであろう詩を語る彼の 才能であるべきであり、それは神が与えてくださったもの―太初からさだめられていたこと―

なのだ、と声高に語っているのである。他の詩人たちが自分の作品を称賛したり自慢したりす るのと同様の感覚で、ハーフェズは自分に与えられた天賦の才を称賛し、そこに自分と神との 間の強い絆―天使を通してメッセージが届くほど、高潔で汚

けが

れのなきまっさらな人間であると 認められたこと―を感じたに違いない。

おわりに

「ハーフェズのガザルには一貫性がない」と評されることが多い。確かに、一つのガザルの 中のベイトが個々に独立し、前後のベイトとの連続性がわかりにくい感は否めない。34)しかし、

本稿でとりあげたガザル

37

に込められたメッセージは実に明白であったと同時に連綿とした 流れが感じられた。人生には限りがある、だがそれを嘆いていても何も始まらない。今この一 瞬を楽しみ、大切にしよう、そしてこの世の無情に苦しみ、恋に思い悩む時には、ハーフェズ のようにとはいかないまでも、声に出して嘆くことがあってもよいではないか、という内容で ある。最後に、このメッセージをこれだけの雄弁さで語ることができる自分の詩才こそが天与 の稟質と豪語するおまけつきであるところも、いかにも誇り高いアーリア人の血をひくイラン 人らしさがうかがわれ、得心させられてしまう。

ハーフェズは欺瞞と偽善を嫌う詩人として有名である。この作品の中でも、似非隠者や見か けだおしの神秘主義修行者、とりわけ「スーフィー」に対する皮肉はしっかりと盛り込まれて いた。35)誰もがすぐ理解できるよう、酔っぱらい―しかもほろ酔い程度ではなく、前後不覚に 陥るほど酩酊した自分―という極端な姿を登場させることによって、神の御許にたどり着ける のは、裏表のない人間のみであると言ってのけている。酩酊した自分を引き合いに出したのは、

神人冥合の妙境や忘我脱魂のさまを人々にわかりやすく伝えたかったからであり、決してハー フェズ自身が実際に正気を失うほどワインを飲んだということをうたっているのではないと筆 者は確信している。神秘主義における精神と行動の一致の重要性を説くと同時に、日常生活に おいても、自分を上手く強く見せようと枠にはめこんだり飾ったりする息苦しさから自分を解 放することの大切さを、動乱の世に生きる同時代の人々に発信しようとしたのかもしれない。

ハーフェズのいつもながらのぴりっとエッセンスの効いた辛口の批判が盛り込まれ、ベイト の連続性が手にとるように明らかで、平易な言葉づかいと美しい音に満ち、メッセージ性も高 いという、まさにハーフェズの真骨頂が余すところなく披露された作品が、このガザルなので

(16)

ある。

ペルシア語を母語とする人々にとって、ハーフェズの作品を通してハーフェズを知ることは、

己を知ることに等しいという。36)なぜなら、ハーフェズはペルシア語が守ってきた文化の出発 点かつ中心で、彼らはその中で育ってきたからである。最も近しく、誰よりも親しい、無二の 親友のような存在―それが彼らにとっての詩聖ハーフェズなのである。

しかし、人が己れを最も知らないように、イラン人にとってハーフェズという近すぎる存在 を客観的に識るということは難しいのだろうと筆者には感じられてならない。彼らが自分を大 事に、いとおしく思うのと同様に、彼らはハーフェズをただひたすら愛してやまないのである。

イラン人を識るためには、一外国人の立場から、彼らの代弁者としてのハーフェズの声に耳を 傾けつつ、客観的な視点をもって、地道にハーフェズ研究に取り組む以外道はないと筆者が考 えている理由がここにある。

本文と注における翻字については、基本的には米国議会図書館Library of Congressの表記に基づき、ペルシア古 典文学時代が終焉を告げる15世紀以前は古典的な表記を、15世紀以降は現代ペルシア語の音に近い表記を採用 し、カナ表記もこれに準じた。ただし、本稿でとりあげる詩人ハーフェズに限り、現代ペルシア語の音に近い「ハ ーフェズ」というカナ表記を採用した。また、詩の音写表記に限っては、文字と音価が11で対応するよう、

Encyclopaedia Iranicaに準じた表記を採用し、韻律や詩のリズム・読み方が読者に明らかになるよう試みた。

1) 佐々木あや乃「ハーフェズ詩注解(1)~(6)」『東京外国語大学論集』第68, 70, 72, 75, 77, 79号。

2) ≈āfi√-i Shīrāzī, Shams al-Dīn Mu∆ammad ibn Mu∆ammad, ed. by Khānlarī, Parvīz Nātel 1362/1983.

ハーフェズ詩集は数多出版されているため、版によっては3~8ベイトまたは7~9ベイトにおける順番の相 違がみられるが、本ガザルが全11ベイトより成ることに関しては全く異論はない。また、別の版に採用さ れた形の方が妥当と判断したごく一部の語に関しては、ハーンラリー版にこだわらず別の版の記載を採用し た。

3) Khorramshāhī, Bahā

e-ddīn 1371/1992:245-246, Qey≠arī, Ebrāhīm 1380/2001:251.

4) 隠喩的エザーフェと前出の比喩的エザーフェを識別するためには、あるもの(人、物)の全体を表す語が用い られているか、一部のみを表す語が用いられているかという点に着目するとよい。例えば、qa≠r-e

omr「人

生という城」は比喩的エザーフェ、bonyād-e

omr「人生という礎」は、礎は城の一部にすぎないため、隠喩 的エザーフェである。同じ理由で、derakht-e sa

ādat「幸福の木」は比喩的エザーフェ、mīve-ye sa

ādat「幸 福の果実」は隠喩的エザーフェとなる。

5) ウマル・ハイヤーム(

Umar-i Khayyām, 1048-1131)は、日本では四行詩人として明治以来広く人口に膾炙して

いるが、元来セルジューク朝に仕えた天文学者・数学者である。彼の四行詩集『ルバイヤート』には、人生 の儚さやこの世の無情、そしてだからこそ今この瞬間を、今眼前にあるものを大切にしたいとうたう作品が 数多く収録されている。例えば、以下の作品がその一例である。

美女のいる天国にはコウサルという河があり、

ワイン、乳、蜜や砂糖が流れているらしい

(17)

ワインを酒盃に満たし、この手に置け

「今手にするこの一杯は、あるとも知れぬ千もの天国に勝る」(‘Umar-i Khayyām 2010:13)

最古のハーフェズ注釈で知られるスーディーは、このガザルの注釈の中で、このハーフェズのベイトと同じ 主旨をうたったオスマン・トルコの詩人ヘイラティーの作品の1ベイトを紹介・引用している (Sūdī

1366/1987:264) 「今を大切に」という主題はイスラーム世界においても普遍的であったといえる。

6) Jāvīd, Hāshem 1375/1996:457.

7) ハーフェズ詩に描かれた弊衣については、佐々木「「弊衣」とハーフェズ―その社会批判の精神を探究する

―」『総合文化研究』第7号、pp. 156-175を参照。

8) Sūdī 1366/1987:265.

9) Jāvīd, Hāshem 1375/1996:458.

10) マイブディーはKashf al-Asrārの中で、rū∆ al-qudusjabra

īlは同じであると述べた後、rū∆ al-qudusがマル ヤム(マリア)の前に現れ彼女に息を吹き込んだことによりイエスを身ごもったという話に言及したり、rū∆

al-qudusは死者を蘇らせることができるため、最も偉大なる名であると述べたりもしている (Maybudī, Abū

al-Fa‹l Rashīd al-Dīn 1357/1978:264-265) 11) Khorramshāhī, Bahā

e-ddīn 1371/1992:248-249.

12) boland-na√arは寛大、厳格、勇気のある、という意味であり、鷹とはなんら関係ないという指摘もみられる

(Mo

īn, Mo∆ammad 1367/1989:397)。

13) コーラン第53(星)章13~16節「本当にかれ(ムハンマド)は、再度の降下においても、かれ(ジブリール)を見

たのである。(誰も越せない)涯にある、スィドラ木の傍で。そのそばに終の住まいの楽園がある。覆うもの がスィドラ木をこんもりと覆う時。(日本ムスリム協会発行『日亜対訳・注解 聖クルアーン』(第6刷)より)

14) ハーフェズは別のガザルで次のように述べている。

o ªūbā

o mā

o qāmat-e yār fekr-e har kas be qadr-e hemmat-e

ūst 君は天国の樹を求め、僕は恋人の姿を追う 誰の思いもそれぞれの願いの程度次第(ガザル56)

これは、君(=似非隠者や単に信心深い者)は天国を求めるが、自分(=アーレフ)は神そのものを純粋に求め るという、自分と他人の志や願いの差異に言及したベイトである。ハーフェズが見かけだおしのスーフィー (神秘主義修行者)に欺瞞や偽善の匂いを強く感じ、彼らを嫌悪する根本的な理由が述べられている。

15) 神秘主義詩人の最高峰ルーミー (Rūmī, Jalāl al-Dīn Mu∆ammad Balkhī 1207-1273)による『精神的マスナヴィー (神秘主義叙事詩集成)』は、魂が本来いる場所へやがては帰還するという主題で始まる有名な「葦笛のうた」

から展開していく作品である。

16) Khorramshāhī, Bahā

e-ddīn 1371/1992:250-251.

17) 「神のおわすところ」という表現については、神が物理的に‘arshにいる・いない、神にはそもそも肉体が ある・ない、比喩的表現にすぎない等の論争がイスラーム神学諸派の間で起こった。その詳細については Khorramshāhī, Bahā

e-ddīn 1371/1992:251-252Maybudī, Abū al-Fażl Rashīd al-Dīn, ed. by ≈ekmat,

Alī A≠ghar 1357/1978:631-632, 639-640等を参照のこと。

18) 日本ムスリム協会発行『日亜対訳・注解 聖クルアーン』(第6刷)より。

19) 神秘主義では、人間の魂の状態は次の三段階に分類して考えられる。

最初はnafs-e ammāreと呼ばれる、最も卑しい、動物的な欲求の段階。次がnafs-e lavvāmeという、自然な人

間の欲求の段階で、悪行であるとわかっていながらその誘惑に負けてしまう状態。最高段階が nafs-e

moªma

enne という大悟の境地である。魂は清浄であり、全く悪行に手を染めることができない。ただし、

ごく僅かの限られた人しかこの段階に到達することはできないとされる。

20) 「ノートを洗う」という表現が含まれたベイトとその注釈については、佐々木「ハーフェズ詩注解(4)」『東 京外国語大学論集』第75号、pp. 137-151を参照。

21) Khorramshāhī, Bahā

e-ddīn 1371/1992:583-584.

22) この神秘主義道の7階梯を描出した作品が、アッタール(‘Aªªār-i Nīshābūrī, Farīd al-Dīn Mu∆ammad, 1145?-1221/

(18)

一説には29または30)の簡明な言葉による叙事詩体作品『鳥の言葉(Manªiq al-∫ayr)』である。

23) ≈āfi√-i Shīrāzī, Shams al-Dīn Mu∆ammad ibn Mu∆ammad, ed. by Kāseb,

Azīzollāh 1371/1993:26.

24) 「不実な花嫁」が登場するハーフェズの他のガザルは、ホッラムシャーヒーの指摘によれば以下の通りである。

xoš-

arūsīst jahān az rah-e ≠ūrat līkan har ke peyvast bedū

omr-e xodaš kāvīn dād この世はみかけは美しい花嫁だが 彼女と結ばれる者は誰も命を捧げる(ガザル108)

jamīle

īst

arūs-ē jahān valī hošdār ke īn moxaddare dar

aqd-e kas nemī-āyad

この世の花嫁は美しいが気をつけよ この貞節な女は誰とも結婚の契約を結ばぬのだから

(ガザル226)

arūs-ē jahān gar če dar ∆add-e ∆osnast ze ∆ad mī-barad šīve-yē bīvafā

ī この世の花嫁がどれほど美しくとも 相も変わらぬ不実さは度を越している(ガザル483)

(Khorramshāhī, Bahā

e-ddīn 1371/1992:254.) 25) Ghazālī, Abū ≈āmid, ed. by Khadīvjam, ≈oseyn 1361/1982 1:76.

26) Sūdī 1366/1987:268.

27) モイーンはlaªīfe-ye

ešqという表現について、完全にこの2語が無関係であり全体として無意味なフレーズ

とみなし、このベイトは後に付加されたものか、ハーフェズの他のガザルから紛れ込んだものであるか(現 存しないため不明)であろうと判断した(Mo

īn, Mo∆ammad 1367/1989:397)。

28) 「レンド」や「酒場の師」については佐々木「ペルシア古典文学にみる表象―ハーフェズの「人間」への考 察―」『総合文化研究』第5号、pp.63-75を参照。

29) Sūdī 1366/1987:269-270.

30) スーディーは「このベイトすべてが教訓である。無論理解できる者にとってはであるが。」と付記している

(Ibid.:270.)。

31) Borhānī, Mehdī 1366/1987:77-78の意見を支持し、この語に関してのみガズヴィーニー版を採用した。手元に

あるハーフェズ詩集のうち、他にホッラムシャーヒー版、カーセブ版、サーイェ版もbīdelとしているが、

āšeq を採用する版が多数を占める(ハーンラリー版、エンジャヴィー・シ―ラーズィー版、ジャラーリー・ナー イーニー&ヴェサール版、ファルザード版、エイヴァズィー版、ジャラーリー・ナーイーニー&アフマド版、

バフティヤーリー版)。

32) ジャラーリー版ではこの後半句を

benāl bolbol-e

āšeq če jā-ye faryādast (恋する小鳥よ、嘆くがよい、だが叫ぶとは何事か)

とし、nālefaryādという語の差異にハーフェズは着目した上での語の選択であるとしている。つまり、nāle

は苦痛を心に秘めた嘆きであり、それがエスカレートした段階で自分の内に隠しきれなくなったのがfaryād であるとし、この2語の使い分けの証しとして以下のベイトを引用している。

az ¶am-e hejr makon nāle-o faryād ke man zade-

am fāli-yo faryād-rasī mī-

āyad

愛しい人との別離を嘆き悲しむな。私が占ったところ、泣き叫んで助けを求める声は届いて救われるとあ ったのだから。

しかし、この詩の前半句においてもnālefaryādは同列にまとめて用いられており、後半句をもってして も、この2語が詩人の言辞に対する微妙な感覚によって使い分けられている証しにはならない (Haravī,

≈oseyn-

Alī 1368/1989:227-228)。また、この詩は大半のハーフェズ詩集に見当たらない。

33) 「ハーフェズ」という雅号には「コーランを記憶し美声で暗誦できる者」という意味がある。

34) ≈abīb al-Siyarには、ハーフェズについて次のような記載がある。

詩聖シャムスッディーン・ムハンマド、シーラーズのハーフェズはその完璧な雄弁さと言葉づかいや 言葉の組み合わせの優れたことでその名を広く知られており、他の詩人たちの賛辞を引用する必要もな いほどである。すなわち「(月が)光り輝く夜に月光は不要」なのである。

(19)

ある日シャー・シュジャー(訳者注:ハーフェズのパトロンの1人)がハーフェズに向かってこう言った。

「そなたのガザルどれひとつをとってみても、開句(第一句)から最終句まで連綿と一続きのものはなく、

それどころか各ガザルのうち3,4ベイトはワインを愛で、2,3ベイトは神秘主義を、1,2ベイトは愛しい人 の性質が詠みこまれている。1つのガザルの中でテーマが転々と変わるのは雄弁者の道に反するぞ。

ハーフェズはこう答えた。

「王様のおっしゃる通りでございます。ですが、それにもかかわらず、ハーフェズの詩は世の中に広く 知られ、他の[シーラーズの]詩人たちの作品はシーラーズの市門より外に出ることすらございませ ん・・・。

(≈usaynī, Ghiyās al-Dīn ibn Humām al-Dīn (Khwāndamīr); ed. by Dabīr-Siyāqī, Mo∆ammad 1353/1974 3:315.)

また、かつては彼の詩の対句は一見して「ばらばらの真珠のように見える」一貫性の欠如の指摘があった が、抒情詩として一連の真珠を構成し、「芸術的統一性」が存在すると主張する研究者たちの声が大になっ て久しい。

35) ハーフェズが欺瞞や偽善を嫌うこと、また、とりわけスーフィーに嫌悪感を抱いていることについては、佐々

木「ペルシア古典文学にみる表象―ハーフェズの「人間」への考察」(前出)を参照。

36) ≈aqq-shenās,

Alī Mo∆ammad 1370/1991:169-191.

参考文献

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―――, ed. by Qazvīnī, Mo∆ammad & Ghanī, Qāsem 1367/1989 (chāp-e panjom) Dīvān-e Khājah Shams al-Dīn Muammad ≈āfi√-i Shīrāzī, Tehrān, Zavvār.

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Maybudī, Abū al-Fażl Rashīd al-Dīn, ed. by ≈ekmat, ‘Alī A≠ghar 1382/2003 (chāp-e haftom) Kashf al-Asrār wa ‘Uddat al-Abrār, Jeld-e sevvom, Tehrān, Amīr Kabīr.

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日本ムスリム協会編 2001『日亜対訳 注解 聖クルアーン』 (第6刷)

(21)

حﺮﺷ ﻟﺰﻏ ﻲ زا ﺎﺣ ﻆﻓ ٧ ) (

آ ﻳ ﻮﻧﺎ ﻛﺎﺳﺎﺳ ﻲ

ﻆﻓﺎﺣ ﺷ ﻴ زاﺮ ي ﻪﻛ ﺮﻬﻈﻣ ﮓﻨﻫﺮﻓ اﻳ ﻧاﺮ ﻲ

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ﺎﻬﻧآ زا ﺮﻈﻧ ﻈﻔﻟ ﻲ و رﻮﺘﺳد ي ﭘﻴ ﭽ ﻴ ﮔﺪ ﻲ ﺻﺎﺧ ﻲ د ﻳ هﺪ ﻤﻧ ﻲ دﻮﺷ . ﺎﻣا ﻫﺎﮔ ﻲ

،تﺎﻗوا ﻪﺑ ﺖﻠﻋ اﻳ مﺎﻬ و ﻣﺎﻬﺑا ﻲ ﻪﻛ رد رﺎﻌﺷا

ﻆﻓﺎﺣ دﻮﺟو

،دراد ﻀﻌﺑ ﻲ ﺑا ﻴ تﺎ رﺪﻘﻧآ ﻞﻜﺸﻣ هﻮﻠﺟ ﻣ ﻲ ﺪﻨﻨﻛ ﻪﻛ دا ﻳ نﺎﺒ و نادﺎﺘﺳا ﺪﻨﻤﺟرا اﻳ ناﺮ و ﺳرﺎﻓ ﻲ نﺎﻧﺎﺑز ﻧﻴ ﺰ

حﺮﺷ نآ ار راﻮﺷد ﻣ ﻲ ﻳ ﺪﻨﺑﺎ .

ًﺎﺻﻮﺼﺨﻣ ﻪﺟاﻮﺧ

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٣٧ لﺰﻏ (

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بدا ﻨﭘاژ نﺎﺘﺳود ﻲ

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ﺪﺑﺎ

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参照

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moṭreb che parde sākht ke dar parde-yē samāʻ bar ̓ahl-e vajd-o ḥāl(o) dar-ē hāy-o hū

(意味同じ) ing 形ではなくこのように「主語+動詞」という形で書くと、before・after は前置詞ではなく

これらの英文の中で使われている、 who や which などを「関係代名詞」と呼びます。 修飾される 名詞 と 修飾部 の関係は、