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帝政ロシア末期の宗教政策

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帝政ロシア末期の宗教政策

美 樹 雄

帝政ロシア末期の宗教政策

一︑

二︑三︑

  目   次

え が き

帝政とギリシャ正教会

正教会の経済的地位

正教会を中心とする教育と文化

す びま え が き

 帝政ロシア末期の宮廷政治の腐敗と混乱を代表する人物としてはなんと云ってもラスプーチン℃碧身旨3門程︐

﹃oで§国臼§o・σ遷︵HQ︒刈一〜HO目①︶を挙げなければならないだろう︒彼はシベリアの農家に生れ一九〇六年末︑宮中

に入って以来︑その予言と奇蹟により次第に勢力をえて皇帝ニカライ置生=葵︒﹄聖目り﹀﹄突︒塁巷︒・︒=で︒=p︒=︐

o・︒︵ Q◎O◎o〜H㊤HQo︶︹譜欝目Q︒㊤蔭〜H㊤嵩︶および皇后アリェクサンドラ ﹀旨突8長忘鳩⇔Φo員で︒切=餌℃o§=o︒口鋤u︵目◎︒謁

〜HOHo︒︶の信任を得た︒とくに皇后は不治の病を持つ病弱のアリェクセイ﹀﹄突︒窪皇子をかかえたことも手伝って

常軌を逸した迷妄の虜となり︑怪僧の暗躍をほしいままにさせるに至った︒皇后アリェクサンドラとラスプ:チンが

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優柔の町田ライニ世を次第に押しのけて政治に干渉し︑帝政末期を収拾つかざる混乱と腐敗に落しこんだ責任は軽く

ない︒ 他方︑帝政ロシアはギリシャ正教を支配的公認宗教とし︑帝政維持の一手段として保護育成してきた︒もとよりラ

スプーチンがギリシャ正教会の正式代表として宮廷に食い入った訳ではないが︑彼をしてそのような暗躍をほしいま

まにさせる病理体質が末期の帝政制度と正教会組織にあったことも否定できないであろう︒そこで︑ここでは帝政崩

壊の政治史成立の底辺の一つとなった国家と教会の関係を︑正教会の組織と活動の面にスポットを当てて考察するこ

とにした︒そうすることによりそこから逆に宗教と国家の関係︑むすびつきがロシアにおいてどんなものであった

か︑つまり国家がどのような宗教政策をとっていたかが分明されると思う︒

 なお帝政版図内の旧分離派︑ローマ︒カトリック︑プロテスタント諸派信徒および少数異民族の信仰たる回教︑ユ

ダヤ教︑仏教各信徒などに対する宗教政策を同一傾向を保持していたがここではとくに取り上げて検討しなかった︒

2

一︑

−. 帝政とギリシャ正教会 −帝政の宗教政策︵1︶ーロシァにおけるギリシャ正教会略史

        a︐ギリシャ正教会の実権の変遷

 五世紀ローマ帝国の東西分裂に端を発し︑それぞれの地のキリスト教会は︑教理の維持︑教会活動の特性︑教会運

営の形式などにつき重要な相違をきたす歴史的特性を担って一︑〇五四年ついにローマ・カトリック教会と東方ギリ

シャ正教会の二組織に分離した︒後者はビザソチンの強力な帝国権力により組成され発展し︑行政的︑司法的機能も

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帝政ロシア末期の宗教政策

       ︵1︶      ﹂      一︑四五三年東ローマ帝国がトルコに滅されるや︑既負わされた国家の強力な構成部分として帝国権力を保持した︒

にそれ以前からロシアに滲透していたキリスト教はロシアをしてギリシャ正教史上重要な地位を占めさせるに至るの

  ︵2︶である︒すなわち九八九年キエフ公ウラディミール切目錯§巷Oし︒﹄コ↓09窃蚤︵りqO〜一〇Hα︶がキリスト教に改宗し

ていらい︑教えはロシアに拡大し︑またその教会組織は封建諸侯の権力の量塁と化した︒つまり封建的関係の発生と

封建的支配階級たる諸侯権力の出現は︑それ以前存在した未開宗教をして既にこの支配的階級のつくり上げた利益保      ︵3︶持にこたえられなくなったと云へよう︒キリスト教およびその組織は古い文化を解体し新しい時代の要請にこたえ

た︒その後モスクワ公国の上昇で︑ばらばらなロシア領土が統一的集権国家に合同しはじめ︑イヴァン四世︵雷帝︶

=弓︒壁厚じd碧§窃遷 ﹁℃oω=ぴ愚 ︵扇ωO〜望︶︹甫欝窃ωQ︒〜鷲︺ の帝政制度確立に当り︑政治の合同化に関心を有      ︵4︶する教会の社会的経済的影響力を政治に広汎に利用した︒その後前述の如くビザソチン帝国は滅亡し︑コソスタソチ

ィノポリス総主教はトルコの支配下に置かれて追害され︑財政的にも逼迫してきた︒

 イヴァン草画の子フョードル一世曾︒巷 H℃︹国司窃望〜H零Q︒︺皇帝時代に政治の実権を握り︑かつ尊敬と名誉

を自己の中央集権化に資さうとするポリス・ゴドノフゆ○℃§eの︒員︒で︒じコ=﹁o壮図︸δ︻w︵目α㎝H〜H①O㎝︶︹譜欝H㎝OQ︒〜       ︵5︶一①Oα︺の目論見と全権と虚名に執着せんとする宗教組織が迂途曲折を経て︸︑五八九年いままでコンスタンチノポリ

スのギリシャ正教の配下にあったモスクワ府主教三=ぢ︒口自白はそれより信者権力の譲渡をうけてモスクワおよび

全地総主教口舘℃冨℃×の称号を持ち︑また彼を頂点とするギリシャ正教会の総主教管区制が整備されるに至った︒

かくて教会は皇帝の忠実な支持者となり︑国家は教会を保護しキリスト教は栄えた︒

      b.宗務院の成立

 とは云えギリシャ正教会組織内部にはロシアにおける階級的︑階級内的闘いを反映した様々の風潮︑傾向が発生す

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ることも当然である︒少し遡って既に一四世紀末封建的圧政に反揆する宗教的外被を着たプロテストに示される異端      ︵6︶①℃①鍵が発生した︒公認教会は異端者Φ℃Φ日罠 を苛酷に迫害し︑かれらを焚刑などの刑罰に処した︒一五世紀央か

ら一六世紀央にかけて指導者内部の分派が見られたが︑一七世紀後半ギリシャ正教会はニコンェ夷︒=︵δO切〜Q︒H︶

総主教の教会改革以後︑それに不満のものは分離派℃9︒突︒き養§を形成︑その後公認教会○臼琵2︒き=o邸器℃ズ撃       ︵7︶に対し敵対関係入り︑正教会および帝政支配はそれに迫害を加えるに至った︒

 その後ピョートル一世口のも H矯﹀﹄Φ秀①窃§℃○§=oじ・ ︵日O刈b︒〜H刈b︒α︶︹餅欝H①Q︒b︒〜目刈b︒α︺は一︑七一八年勅令

を発し︑総主教制を廃し︑新たにこれに代るべき宗教組織団体を創設する目的をもって宗務規則 員k×oロ口恥忌℃?       ︵8︶ヨ山門ロ=↓ の作成をプスコフ 一霞8 の主教フォン・ファン︒フロコポビッチ合①O臼9︒=口℃OスO国Oじ口蚤 に命じた︒ 一︑

七二〇年その規則が整い翌一︑七二隔年宗務院O塁︒貝正しくは〃聖なる︑最高二二の宗務院Oじ・曽Φ邸揖身P巷︒−       ︵9︶

ロ。桝¥♂o旨kδ痒円︒∩臣Ohが発足した︒これは皇帝により指名された高位聖職者の代表者からなるギリシャ正教会

支配の最高組織で︑構成員は皇帝に対し忠順の宣誓をし︑国家の利益を守ることを約した︒

 宗務院の任務は聖職者教育施設を司り︑修道院︑教会任務の監督から信仰の純粋性保持のため迷信︑異端︑分派の       ︵10︶摘発︑糾問およびその他宗教生活上の最高行政司法体制を完成した︒

 宗務院はまた皇帝に対して責を負い宗務院の活動について指導し︑皇帝は逐剛報告する俗人たる宗務総監 ○◎Φマ

目℃o越℃o℃ を置いた︒彼は皇帝の宗教政策の具現者として宗務院に席を占め︑国家と教会の連絡官たるべきもの︑

すなわち﹁皇帝の目﹂であった︒はじめ総監は宗務院における単なる書記であったが︑一九世紀にはこの官職は教会

行政上の絶対支配権を保持し︑二〇世紀︑特にポベドノスツェフ スσ=自鋤=霞=コΦ﹃℃O︒ロ遷=Oα90=Oo員Φロロ︵HQ︒bの¶〜       ︵11︶一8刈︶︹沸露営欝HQ︒Q︒O〜HO8︺が総監のとき︑正教会の真の支配者はツアーでなく彼そのものであったといお潤た︒

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帝政ロシア末期の宗教政策

 かくて宗務院は事実上まったく世俗権力6ロコ二三︒邸口︒養︒遷0コントロールに従属さぜられるに至った︒つまりピ

ョートル一世の教会改革は教会を国家装置門Ook岩℃o話①臣︒①9︒ヨロB↓の一部と決定的に変化させ︑専制的農奴体制

に奉仕させ幅.宗務院の構成・そして宗務規則にかかれてある聖職者たちの権利霧笑革命に至るまでほとんど変        ︵13︶ることなく経過した︒

    2.聖 職 者

     a. 聖職者の職分

 正教会を構成する聖職者について考えて見るに彼等は一般に大別して高位聖職老と聖堂区つき聖職者に区分される

だろう︒いまロシアの聖職者についてツルゲーネフ =●写↓k肩窪窃 ︵H¶QQO〜一Q◎¶一︶の言葉を借りれば︑前回は府

主教ヨ竃℃o口︒自↓大主教﹀℃×濠冒︒訳︒=主教国目撃︒口など高位を持つ主教職の聖職者で︑これは昔時はロシアに       ︵14︶おける唯一の修道者団たる聖バジリウス会∩し︒遷08Gdロ∩§話から採用された︒後者は妻帯者でなけれぽならない

が︑生活費はすべて聖堂区の信徒が提供する援助に侯つほかないため極めて多くのものが貧窮な生活を送ることにな

菊聖霊志す青年たちには神学校卒業に際し・修道士生麺入るか・聖堂区つき聖職者になるかの二つの道があ

る︒修道士となって勉学を続けるものは少しでも能力があり勤勉であれぽ︑累進して主教職に到達する︒修道士を志

すのは立身が目的でないとしても︑他人の世話にならずにやってゆけ︑まじめな勉学に安心してふけることの出来る

地位の方を好むのは無理もないだろう︒他方聖堂区つき司祭が主教になろうと思えば︑妻コ︒口鎚﹃国を失うかまたは

離別した鋒修道士の法衣をつけなけれぽならな掩らその転換は特別のケースとい・てよいであろ究

    b.聖職老の社会的地位

 一般に︑自分と家族のための生活の糧を多かれ少かれ自分を司牧野と呼ぶこととなる人々の厚意に頼らなければな

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らないような地位︑つまりほとんど見捨られた地位ザすなわち聖堂五つき聖職者は人々からあんまレ尊敬されていな        ︵17︶いことも事実である︒しかし彼等の側にも責任の一半はある︒かれらの職務の物質的な面︑礼拝という外面的義務を

果すことさへ満足にやることのおぼっかないような劣等で卑しい地位におかれている︒かれらの地位から云って信徒       ︵18︶に道徳的影響を及ぼすなどとても望めず︑まして民衆の良心を導くなどまったく思いもよらないことである︒

 ツルゲーネフのこの記述は一九世紀の中葉︵一︑八四七年︶つまり農奴解放前の聖職者の状態であり︑その後ロシ

アの聖職者の社会的地歩や状況も相当に改善された︒たとえば古くから断続的に存在していた正教会活動の友好団体

∩ρぞ堵﹀嗣お∩↓じ︒oが一︑八六四年に再建され︑各教区における慈善︑社会事業︑教育活動を含めた広汎な布教活動を       ︵19︶改善し密接な連絡を保つ意味で教区連絡委員制コ︒コ2弓Φ潟↓じコ○が採用されたり︑聖職者に対し後述の如く一︑八      ︵20︶九三年以降国庫給与補助が実施されるなどなされた︒とは云え聖職者に対する評価︑信頼性が革命前まで大筋におい

て甚しく変化をとげるというところまで行かなかったことは残念である︒革命前の正教会聖職者構成は従軍僧および

一部アウト・サイダーを除き一般には第一表の通りで︑最高の教会組織として宗務院がおかれ︑そのメンバーは時々

変るが八名ないし一〇名の府主教3=壱︒コ︵︶自↓ 大主教 ﹀℃話Φ目與︒口主教国§突︒コ および地方教会監督者

コOo同︒口℃Φ8§Φ℃ つまり后鳶職 ∩︒︒国貰空莫のうち皇帝より指名をうけたものよりなる︒教会は六四管区に区分さ

れ︑宗務監督局ズ﹄Φ℃鵠天芝ぴ=o①ズ︒=Q8↓oヨ頴のアドバイスで主教職が管理している︒管区⑦左門︒養=蕗の境界はだ

.いたい行政区域のそれと一致している︒主教職について︑管区のうちペトログラード コΦぢヨ9︒紮モスコウヨ︒突︒﹂鋤

キエフ罫お︒コの三つのそれは府主教の称号をもち︑また西ウクライナ﹁雪=量忌門℃岩塁Ω︿管区のみは特別に監督主

教口器二︒℃×を置く︒大きな管区になるほど責任者の下に補佐のため主教︑副主教∩k臼臼℃o﹁盤などがおかれる︒こ

九に対し修道院外聖職者∩突三着蕊︒︒︒9︒臣ぴ轟栄﹄Φ喫=は後述の如く次第に増大していることに注目すべきでてろう︒

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帝政。シア末期の宗教政策

        (第一表)革命直前のギリシャ正教会聖職者構成*

  (最高行政機関)

宗務院CHHoユ→宗務総監(俗人)060P−npoKypoP

(高位聖職者:主教職)**

総主教naTP1{apx 府主教巡HTpon川T

大主教ApxenHCKon

主   教  En臼CKorI 冨り 主 教  CyΦΦparalI

退役主教 EnHcKon B orcTaBKe

(聖  堂)         一64管区一

軍 会UepKoBb   54174教会

(そのうち教区教会→司祭つき) 40746教会

聖堂XpaM H OpaTpH兄23593堂

(含小町:蕎所)

(聖堂口つき聖職者:司祭職)一修道洗外聖職者一 司祭職CB月皿ellHK

主席司祭 nPOTOHepeh 司  祭 Hepe尚

司祭補回b只KOH

哺祭見習 rHMH−neBeU

(修道院内聖職考)

修道院筑y>KecKo曜日oHacTupb 550院 修道土.MOHaXH朋

修道士補 rlocy田HH

尼 1曽 院  >KeHcKH臼 巡oHacTbIpb   475碗 1邑     曽  >KeHCKa5{ 」MOHaXHH月

尼 僧 補  rlocy皿1HIIua

神学大学 (男)  4校

 〃専門学校 (〃)   57〃

神学校 (〃) 

185〃

聖職者女学校  (女)    11〃

管区神学女学校(〃)   72〃 1人 0〃 3〃 26〃 80〃 80〃 20〃 3246〃 47859 15035〃 4〔畑9〃        11845〃

      9485〃

       17289〃

       56016〃

(聖職者養成施設)一一・般人のための教会立教区学校を除く一       995〃

       22734〃

       29419〃

      2177〃

       28671〃

*S.V. Troitsky, Statistics of Russian Church in the hoak

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 J.Hasthlgs ed., Encyclop母edia of Rehgio且and Ethics, vo1.

 X,Edinburgh,1918, P.825〜その他より作成

**1915年統計,この項目以外は1914年統計,いずれも宗務院最後の統  計報告といわれる。

 このほかトロイッキーは西ウクライナra朋照只管区のみの特別役職  として監督主教EK3apx 1名を挙げている。

鞭  職

(第二表)ギリシャ正教会組織の推移

    実 数     正教会信徒10万人当りの数

(うち司祭,補祭)

修道院,尼僧院 修道士,尼 僧 含士補,尼 補

(うち 男  )  7,829

(うち女 ) 6,453

     

   1,738   1,840   1,890

会19,90131,33340,205 相124,923116,72896,892     −  52,548  54,957     948     547     724   14,282  15,251  40,286 』

8,381  12,712 6,870  27,574

1,738  1,840  1,890

106 771

ハb9

 8 9044

71 265 119 12 34

53 137 76  1 56

19  18 15  38

*n∴MHπK)KoB, OqepKH no HcToP舶pyccKoH KyπbTypH, qacTb  BT, nHroe H3双, HeTporpa瓜1916, cTp 168より引用

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帝政ロシア末期の宗教政策

    5︒正教会支配の内実

      a.正教信徒の増大

 支配的宗教としての正教会は一八世紀から一九世紀にかけてその信徒数が増大している︒いまミリェーコフコ艶・

①﹄=莫︒き窃葦ヨ§δ宍︒汐 ︵目Q︒α㊤〜一戦ω︶の記述によると︑正教会聖職者組織が一般に逐年増大しつつあるが︑そ      ︵21︶れにもまして注目さるべきは信徒数の増大であったという︒一︑七三八年には信徒は一︑六〇〇万人以上ではなかっ       ︵22︶たが︑一︑八四〇年には四︑四〇〇万人︑一八九〇年︑七二〇〇万人に膨大化した︒これに対して宗教史制度施設︑

聖職者数の対信徒数比は相対的に低下しつづけ︑一九世紀末の実数は一世紀半以前のそれとの対比で教会数で約半       ︵23︶分︑修道士数二・五分の一︑司祭者数で六分の一減となっている︒

 ではなにゆえこれほどまで信徒数が増大したのであろうか︒ロシアの聖職者たちの教養高き魅力的な布教力のゆえ

であるか︑彼はこれに関してまず︑教会の強い同化力を挙げている︒革命前掲〇年間︑公式統計では百万人︑正確に       ︵24︶は一︑一七二︑七五八人を他から正教会信徒に改宗せしめた︒このうち半数︑つまり五八万人はカトリック︑プロテ

スタント︑ギリシャ東方教会門℃突︒釜§↓徒からである︒しかしプレオブラジェンスキー団℃①oα℃Ω︒巣①=突§に       ︵25︶よれぽ一一万︵叔トリック七・五五︑プロテスタント三・五三︶としている︒いずれにしてもこの改宗は伝道の結

果︑教会指導者︑熱心なる信徒の努力の成果と見倣されるのである︒しかしながら残余の四七万人の改宗については      ︵26︶彼は宗教的なものよりはむしろ民族的︑政治的原因と見ている︒二五万の東方ギリシャ教徒は一︑八九五年に転向し

た︵一︑六七四︑四七八人の東方ギリシャ教徒は一︑八三六〜九年に既に改宗していた︶し︑FO万以上のラトヴィ

ア人とエストニア人は一九世紀の四学年代に︑同数のカトリックは一︑八六三年ポーランド反乱抑圧後転向している

  ︵27︶のである︒

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 かくてギリシャ正教会信徒のこのような政治的増大は一︑九〇四年︑ロシアにおける九六の行政区画﹀員竃量?

も鋤窓︒コ匡×葛自①詠のうち三四県身αΦ囁§×は九〇%以上ギリシャ正教徒で構成され一四県では七五%以上︑九県

で五〇%以上︑五県二五%以上︑五画一〇%以上︑=県五%以上︑と記されている︒つまり半数以上の県が五〇%       ︵28︶以上の信者住民をもっていたことになる︒

      b.異教徒の強制的改宗

 前述の如く正教信徒の増大が布教説得による内面的帰依によるよりも政治的支配に帰因することがヨリ多かったこ

とは否定できない︒異民族︑異教徒に対するギリシャ正教会の改宗手段がどんなものであったかは次の事実から︑お

およそ省察せられ得よう︒

 すなわち一︑八九三年ブリヤート身℃曽族が恐れ乍らと訴え出でたところによると︑ギリシャ正教に改宗させ

るに当って︑﹁警察は日夜非キリスト教徒たちブリヤート族の住居を襲い︑次のようなことをやった︒

 彼らは家の中で見つけた異教の偶像をくくり︑その後遠慮なく強制的に洗礼を施したり︑あるいは宣教師の家に拉

致する︒もし反抗でもしょうものなら︑縄で縛り︑拷問し︑無差別に牢屋に押し込め︑飢えと寒さに困らぜ︑金銭的       ︵29︶処罰を要求したりなどしてギリシア正教会に引き入れた﹂というのであった︒

 ブリヤート族のこの訴は教会自体の秘密資料で確認されている︒

 一︑九一三年イルクーツク大主教セラフィム∩①℃二︒曾まが時の宗務院宗務総監ダマンスキー=・○員ρ・§︸幽突苺

宛作成した報告書に詳細に﹁ブリヤートの多数がギリシャ正教から離脱して仏教へ行った﹂理由についての宗務院の       ︵30︶質問に答えている︒それによるとコ︑九〇五年までイルクーツクの異民族男女一万人を洗礼した︒しかし同一︑九

〇五年末までわずか一〇名の破門を除いて︑かれらのすべては仏教︵ラマ教︶に鞍替えし現在もそのままつづいてい

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帝政ロシア末期の宗教政策

︵31︶ると︒

 ギリシャ正教から離脱することは後述する如く一︑九〇五年四月一七日および一〇月一七日の勅令︒ゴ竃oo爵貯§

賓臣ω発布直後実現された︒勅令はロシア帝国臣民に宗教的信仰の自由を与えたものであり︑それは﹁ギリシャ正教      ︵32︶に算入されるが実際には先祖伝来異教の信仰活動をしている者はそれに復帰する充分の実現性を持つ﹂とした︒

 ブリヤート族の上に物理的強制手段を行使することにより︑無理してギリシャ正教徒として獲得したものであるこ

とを大主教自身認めたのである︒つまり彼は一九世紀の四〇年代までブリヤート族に対し﹁市民および地方権力の協      ︵33︶力︑それは褒賞で︑ときには強制を奨励し︑洗礼を施したことを認めた﹂のである︒

 正教へのこのような強制的改宗はその宗教に対する理解のしかた︑つまり信仰の度合に影響せずにはおらない︒

一︑八五九年宗務院がロシアの正教徒五一︑四七四二〇〇人の宗教生活調査を行ったが︑その結果三五︑○八七︑〇

九七人が信仰告白ないし聖餐拝受まで行った︒また三︑四一七︑二三一人の成人︑九︑二三二︑二三四人の子供は礼

拝にも顔を見せなかった︒そのうち八一九︑九五一人はもっともと思える口実をつくったが︑残りば告白もしなかっ

︵34︶たということである︒

 信仰︑帰依の疎遠︑形骸化は聖職者達のその使命に耐えうる力量の不足ということも依然として大きくものを云っ

ているかもしれないが︑なんとしても一番重要なことはギリシャ正教会がロシアにおける支配的宗教であったという

ことであろう︒最高権力が国家と同様︑教会をも支配しているところではこのような政治と宗教の癒着の中で民衆が

本能的にもどのように対処せざるを得ないかの一つの実例を示していると云えよう︒

      c.信仰寛容令の前後       へ35︶ たしかに信仰自由の勅令発布以前はギリシャ正教会の麦配的優越性が特に明確であったし︑改宗は極端な困難が伴

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勘つ⁝シア人の篠縷とんど素量に操作さ妻ものであ・たと云ぞも過一景い︑  捻

 そしてその支配的優越性を維持するための強制手段も苛酷に実施された︒たとへばギリシャ正教を支持しないあら

ゆる人人を圧迫することは制服を着た人︑法衣をまとった僧侶がこのように正教信仰を拒否した人人の上に特別に狂

暴な暴力をふるったのである︒のみならず︑正教に対し公然と否定的に発言︑行動するものに対し帝政裁判所は〃漬      ︵37︶神窃︒月︒×道﹃自ロ︒oということを持ち出し重い国事犯﹁ookh巷自耳目①臣︒①コ℃①自kヨ①養①と見なしたし︑また

正教からの離反は刑事上相当の所業として迫害し︑無条件的に正教信仰を要求した︒それは一︑九〇六年に廃止され

たが︑〃矯正および刑事上刑罰法典k﹄o目窪§o=自︒臣ω鋤秀美k弓︒詣︒切=匡×国=o口℃舘︒窪↓①き工匡×第一七六条に       ︵認︶﹁すべて正しい信心を有せざるときは=一年ないし一五年の徒刑労役の流刑処罰を相当とす﹂というものを悪用した

のであった︒これにより実に多数のものが︑一僧侶の言葉を借りれば﹁神様のおかげでコーカサスとシベリヤに流刑    ︵39︶になりました﹂のである︒

 一︑九〇一年レーニンは宗教に関する右の法を特長づけて次の如く記している︒これは非キリスト教︑分離派︑セ

クト︑その他ユダヤ教などの各月に対して恥ずべき法典であり︑それは他の宗教の信仰告白を禁止するか︑布教を禁・

止するかまたは信仰を個人から奪う法典であった︑これらすべてはそれ自体不公平であり︑強制的であり︑不名誉な

     ︵40︶ものであった︑としている︒

〃僧侶にはパンと半シトフ・ウォトカをもって行かないと子供を洗礼してくれない︒⁝⁝彼らは神聖な福音書につい

て語り︑こう読んできかせる︑求めよさらば与えられん︑叩けよさらぽ開かれん︒われわれは求めに求めているが与       ︵41︶えられない︒叩けども開かれない︑それなら扉をやぶってとるより仕方ない⁝⁝︑これは第二国会における無党派議

員モローズヨ︒℃oωの発言の一部である︒このような行動はなんと云っても農民の一部であろうが︑しかし教会への

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帝政ロシア末期の宗教政策

国民の無関心O×き白油︒臣国さの事実は一︑八八八〜八九年宗務院総監の報告にもはっきりと現われている.この

ような無関心さの現れは有害な社会主義の宣伝と︑神の恵みから程遠い国民の教育の無理強いの結果と反省してい

臥㎎.つまり国民に対する教会権威の低落の事実と社会主審想発展の事実をやむを得ず切隠めていた.一︑九〇六年第

四一号教会年報員︒で訳︒︒︒=ぴ忌零自=美は﹁聖堂においてさえ昔の宗教的︑愛国的生活慣習たる習俗︑風俗を放り      ︵娼︶出すほど国民の敬神の度合が減少した﹂と苦々しく愚痴をこぼしたほどである︒

 そこに︑ギリシャ正教の特殊な地位と相対的な信教の自由につき︑信教寛容の勅令を発した君主の目論見とこれを

実行する最上の手段を検討する目的で一︑九〇五年内閣委員会によって宗務協議会弓§鴇︒↓塁①が召集された︒

 これは既述の如く一︑九〇五年信仰寛容勅令によりロシア国民は正教会から他宗へ一応︑正宗する権利を認められ

たので︑その結果前述のブリヤート族の例をはじめ︑ローマ・カトリック︑プロテスタント諸派の影響のもとに殊に

西部地方では一時数十万人が正教会から離脱した︒この新しい事態に対処する正教会組織再構成の必要性から設立さ      ︵44︶れたものだが︑それが後に宗教制度改革評議会Oo︒コ①員器養Φとなり︑これが革命前まで形式的に存続した︒ところ

でニカライニ世の信仰寛容令はいわゆる一〇月宣言の一環をなすものであったが︑宣言自体がその後の反動攻撃で有

名無実化されたと同様のコースを辿って事実上反古にされた︒

    4.正教会の国家装置化

      a.教会の政治干渉       ︵54︶﹁教会は国家に農奴的に従属し︑ロシア人は国家的教会に農奴的に従属した﹂というレーニンの言葉は両者の関係を

適切に表現していよう︒

 事実︑教会は政治的範域に代表を送ることを許された︒宗務院の宗務総監は内閣の一員であり︑また最高裁判所の

ユ3

(14)

頁でもあ・た・これは教会に関する事実が処象れるとき列席する権利があっ総

 高位聖職者層はまた国会員k畜に多数の議員を送って帝政と正教会組織の維持のため活躍し︑二〇世紀当初その

活動の底辺として保守的君主政維持組織としてのロシア人民同盟∩oδωで韓藍︒Φ塁℃o覚やミハイル・︑アルファ

ソゲル同盟∩06ωヨコ×嘗﹄﹀で×9︒=﹁Φ﹄などにより進歩的勢力に対し暴力的戦闘を挑んだいわゆる黒百人組?      ︵47︶℃エ08日の員90の暗躍はあまりにも有名であり︑聖職者が陰に陽に数多く加担したことは周知の事実である︒

 また︑各司祭職はゼムストボ ωΦ湾詰︒ の会議に出席する僧侶議院を任命する権利をも外心︒なおそのほか下級

聖職者・司祭職について云へばかれらは後述の如く国民に直接接触し︑その出生死亡冠婚葬祭に支配的宗教の地位か

ら必然的に立会うことになり︑それらの記録︑証明などいわゆる戸籍事務という国家︑地方自治体の末端業務を掌握

するにたいる︒国民は好むと好まざるとに拘らず聖職者と接触せずには日常生活すら満足になし得なかった︒レーニ

ン Udき小謡℃=き釜﹄Φ=臣︵一QQ﹃O〜HO漣︶は一︑八九八年七月一〇日同志でありフィアンセであるクルプスカ

や寓p︒抽Φ美h鋤穴O=自⇔霞==Oしロ鋤ズ℃旨突9︒潮︵一QoO㊤〜日りQ◎㊤︶と流刑地のシュシェンスコエ﹇﹇7日三戸︒Φの教会

で結婚式を挙げた︒ともに社会主義者であり現政治体制︑宗教および教会組織の批判者である両人が教会で婚儀を行       ・︵49︶つたことは︑かれらにむけられたロシア当局の半ば強制的命令? に対するやむを得ない対応策であったこと︑つま

りそうしなけれぽ正式の婚姻と認められなかったとは云え一般的にはきわめて奇妙なこととして受取れる現象であっ

た︒ 次に革命前までロシアでは前述の如く中世的ないわゆる宗教裁判法∩℃Φ崔窃突︒︒コ¢①釜臣お=↓o℃凶器ω輿︒=匡が

行なわれていた︒それはレーニンの言葉を借りれば﹁信者や非信者を迫害し︑人の良心を強制し︑あれこれの国家的

教会の火酒の分け前にあずか・た政府の地位と収入を轟遍﹂

14

(15)

帝政ロシア末期の宗教政策

 かくて︑そのような形で帝政に対する革命運動の抑圧機関のうちで宗教組織︑それも特にギリシャ正教会組織が重        ︵51︶要な役割を占めていた︒ことを示している︒この事態は教会関係当事老も認めているところである︒教会の司祭︵主

祭長︶であり教授であるゴルチャコフ ﹁o℃.墨ス○︒コでさえギリシャ正教会の国家に対する関係を〃ギリシャ正教省      ︵52︶

じ。ウ覚︒ζoo目︒口○=℃窃oo詣窃=oΦ=自︒しσΦ油£︒謡国と表現した︒これはこれ以上の言葉がないほどその関係をよく表現し

ている︒そしてすべての教会事務はその組織からして国家官吏の職分と同じであり︑それは云うまでもなく宗務院の      ︵53︶宗務総監と密接な依存関係をもっているとした︒

 一言で云えば正教会の主要な地位コ○﹄o渓Φ=臣は国家すなわち教会︑国家主脳部すなわち教会指導者︑支配的上       ︵54︶層部すなわち正教信仰保全者︑神聖な教会管理者たらしめずにはおかなかった︒︐

      b.市民生活の前提条件

 さて︑信仰寛容令以後においても実質的には次の事態は生きていた︒すなわち革命前まで生きていた﹁軽犯罪予防

措置法ko宙Φ弓Φhk尽鋤受①hΦ=§髭目で①o①①=§昌℃①自k自Φ=西国﹂第二巻第一部第七八三条に︑決闘︑文書誹訪︑

泥酔︑密狼︑公衆浴場での男女混浴を根絶するための配慮とならべて︑正教の教義に反対する論争や︑正教徒を他の      ︵55︶信仰あるいは分離派に改宗させようとする行為を監視することが地方警察署長に依託され︑彼は戦時︑平時を問はず

信仰に敬意を払うことを怠ったかたむきのあらゆる行為を予防または阻止する方法を講じたのである︒だからロシア

人はけっきょくこのような制度的威嚇の中で正教の日常性を叩き込まれたのである︒

 とは云へ︑一般にある政策の遂行に当っては物理的強制手段だけでなく多くの場合︑心理的説得手段も適宜混合併

用される︒つまり︑﹁飴と鞭﹂の使い分けである︒正教会が右のような強制手段をもったほかに次のような条件付利

益供与も準備しな︒つまり正教信仰に帰依していれぽ国家官職を得たり︑領土内各地における居住につき法の保護を

15

(16)

       ︵56︶うけるし︑勉学のための学校施設も利用できるというのであった︒

 なお言論出版の自由について云へぽ正教会は政府から次の特権すなわち出版検閲権を与へられていた︒それは︑宗       ︵57︶教に関する出版物はすべて教会の公式検閲委員会の許可なく印刷出版することは法により禁止されていた︒一九〇一

年ペテルブルグとモスクワの検閲委員会は三︑七三四の著作を検討し︑三︑四五三件を認可した︒不許可の数が相対

的に少いように思えるが︑検閲制度の重要性は他にある︒それは疑いもなく委員会が必ず拒否するような著作は決し

て書かれないし︑提出されない︒かくてこの検閲制度は正教会とそれを麦持している国家を助ける役目を果した︒

ω 切︒旨ぴ日雷∩oロロ雪突雷ω胃臨閑昌︒昌︒﹄=国↓・も︒継.Hり詔oぢ・ω8

②旨●団・属8冨5男巴喧8暫昌OOoヨヨq巳ω3い︒巳8.HOωω讐唱.ω︒︒

⑧ 切O﹄ぴ日魯箇↓鎚竃渓①・o↓℃・oQO一

  ↓四寓巣ρ

⑤ いうまでもなく一︑四五三年ビザンチン帝国滅亡前後︑モスクワは一応ギリシャ正教会から独立していた︒事実︑一︑四四

 八年ロシア正教会主教会議60Q℃目﹄9︒=謡Φ①目結︒閑︒昌がモスクワに開催されモスクワ府主教が自称総主教となっていた︒↓魯護

 美①・ よびOh・竃・↓■団δ﹃写︒閃矯①α.国号︒団OざO①創冨oh黒戸ωω口口昌二けげΦωo巳9︑q巳ob.一〇①ピピ︒員αo昌.︿o八丁・燭・題目

⑥ ↓碧渓︒・

ω 国①o犀①50b・O謬U・劇①

⑧国.国●寓貯昌ω国ロω忽碧Oケ薮9.凶昌島︒一Wぎ旨閏︒ω一昌oqω巴.切g鴇98巴置oh幻Φ鵠oqご昌層巳弾三8鰭︿9・X・国島ぢ9

 ロ﹁oq互HΦ一◎Qりb●Qo圃◎の

⑨ 切O﹄ぴE国頴↓薗護英PωO層一〇朝90け層・㊤Qo

⑳ 国●=.︼≦ぎ昌ρoU℃O凶rO.◎o刈Q●

⑪ 旨・Go・OO霞匡︒縢ωりOげ薮︒﹃昌αω$けΦ貯園易ω凶9讐8げ︒いΦωけK雷﹁ω9窪︒国目O貯ρZ①ミー︽o﹃口書6①90.お〜戯︒︒.

 当然のことながらソ連邦文献は彼を反動的非開化主義者とする︵﹀=O∩Oで噛ズ冨↓富国邸笹笛韻国︒−碧①属︒↓月鵡①o三惑O詣︒口口層﹁ぴ矯

 ﹂≦oo笛恥蝸Hり㊦㊤℃o↓℃.qω朝︶いずれにしても︑帝政の忠僕だった彼は西欧文化に通暁した達識の士であった︒

16

(17)

帝政ロシア末期の宗教政策

  Oh閑・勺陰℃OσΦαOコOω辞ωΦ︿讐幻①自①O江O昌ωOh二男ロωω一門昌ωけ帥け①ヨO昌や什﹁ρ昌ω・h同Oヨげδ幻⊆ωω冠昌σOO﹃﹂≦OO区ロσO民=邸

 目︒◎㊤9 ヨ一〇げ一mq9昌讐一㊤①9 0・①〜一〇噛切● H㊤幽〜NらQbo

働  団O﹄7日①国﹈一船蜜萸①.↓旧もQ幽・O↓℃・ωOド

㈱門 国・=.︼≦一昌昌90戸O一け戸 Qo﹃ω

佃=・二身鷺蓄㌔︒︒︒崔3・塗ρ︒︐ご客︒︒臣・・§刈・・弓・︒①︵但し原書はフランス語︶邦訳︑山本俊朗訳

 およびロシア人﹄広文堂︵昭三七︶二四頁

   ↓餌ζ萸①.同前︑邦訳︑同頁

   ↓㊤ζ美Φ・同前︑邦訳︑同頁

   ↓薗竃美①・同前︑邦訳︑二五頁

   ↓自︒竃民ρ自ワbo一同前︑邦訳︑二〇頁

   国口・竃貯5ω・OO.O一叶・弓・Qo刈心

   第二節3のb参照

   ﹁﹇﹂≦践識δ閑Oじコ︾04①℃内隅口O隅O↓O℃縄目でkOO困O陣閑k員ぴ↓k℃匡噂4凹O弓ぴロロ目・﹁︻①弓℃O﹁po角P 一〇一〇℃O月℃・一①り

(28)  (27)  (26)  (25)  (24) (23) (22)  (21) C2〔お  α9>  ⑱  〔17)  ⊂160  05}

(31) (30)

↓餌竃

↓恥竃

↓餌竃

↓藺竃

↓自︒竃↓潜竃 渓①芙①・葵①.寅Φ・襲①・

渓①・O↓℃・一刈O

 .帆O目餌月霞O↓=4①O閑類邸①︾宍O弓O泪==宍でO∩O国巖ω鋤一〇〇繕ω・︑︑O目α二一〇〇㎝︾O弓マ一〇H

 >自・﹂≦・口①℃O葭月噂O↓員①﹄Φ==﹇︻①℃閑ロコ潤O肩門OOk﹄薗℃O月二二薗臨○門員Φ旨Φ二醤Φ口月日O﹄匿

︒ぢ・﹃ ↓9竃萸¢ 6弓マ Q◎

 ↓m冨美Φ. ∩ロロO℃エ月お

﹃ロシア

O↓二①℃訳ロロ国 し0060マ層﹂≦OOスロコ笛. 一〇㎝QD嫡

17

(18)

働↓碧㌶ρ

働↓二︒竃美①.

圓 =乱≦油δス︒切鴇↓曽竃羨ρ∩↓℃●ミO

㈲ ペルシッツによれば帝政末期の宗教と教会が実現した国家との相互関係は次の三分類を可能とする

  A.支配的宗教ーロシア・ギリシャ正教会

  B.活動制限的認可宗教iローマ・カトリックをはじめキリスト教八雲︑ユダヤ教︑回教︑仏教など

  C.邪教  有害な宗教として迫害    三.≧.口①℃窪夢↓鋤竃美ρoゼ●恥岡転宗の可否について︑C←Aは自由︒A←BないしCは原則として認めない︒BないしC←その逆︑極端に困難︑↓睾

 ︾宍①︒

㈱ ↓山竃美①O↓7G◎

㈱ O南︒員器ス︒エ︒切℃oo9紮国竃目①℃=邸§↓.×塁︑O月9一Q︒Q︒潮自℃・ミ①

圃 bコ●=﹄の甲霞嵩・∩2●5伊自℃●卜⊃①㊤邦訳︑レーニン全集︵大月書店版︶第五巻二九入節

働 ↓鎚竃美9月・90↓ワQ︒①①同前︑邦訳第六巻四一四頁

鋤 ↓国寓策ρ月・一ω導︒目℃・G︒認.同前︑邦訳︑第一三巻三九三頁︒なお宗教論争は第三国会においても各党派の対立を激化し

 た︒目二叉ρ↓.一伊∩↓PωQ︒ω〜ωOO邦訳・第一五巻四〇五〜四一四頁︐および中村義知著﹃ロシア帝国議会史﹄︵昭四一︶

 風間書房︑二二九頁参照

㈹ .︑uコ8口︒員員魯踏=①二日国詠︒↓角︒αΦマロ℃o累kで︒冨8識↓①同日①30由二〇員帥ズ・口︒αΦ知︒=oo月①器口︒零hζooqロコk害毒¢o自・

 p︒ロロ=O↓O謡6自O切①員薗誕国ぬ鍔蕊◎Qoo〜一QoQoObの・︑︑O口α・一QQO一・O↓℃・同心

圃 ﹄.ヨ.国竃Φ﹄凶炉﹀=霞員の℃穴︒ロσ国︒①抽ロロ鉢渓Φ=潤①宍O①2♂嫡鵠ζ08員窪目①℃切︒詠℃k6與︒罫℃畠︒旨δ月=貫一︑︑しロ︒目℃oo露二月︒℃潤口

 ℃Φ﹄揖↓潤隅=缶↓①麟ω竃自.鴇自℃お誤Zo・QQo∋や膳置

働 この委員会に対しニカライ世世は一︑九一六年︑時の宗務総監の報告にもとずき教会の内部組織と行政につき根本的改革を

 指令した︒Oh国.出.ζ貯嵩ω℃OO.9け.戸◎◎刈㎝

㈲ じd●=●﹄①霞評OO4●弓・δ℃O弓℃・O①邦訳︑レーニン全集第一〇巻七一頁

㈲ いω・O信二圃ωρOげ¢﹁Oげ95qωけ餌け①ぎ国5ωω冨嚇↓犀①ピ四ω叶KO拶﹃ωOh叶げ①国富も蹄ρ7﹁①ミーKO昌ぎ同㊤①9ウω刈

18

(19)

㈲ 萌︒﹄7E潜頃●↓鋤竃芙Φ.おミ↓.戯凶身℃.図ミ

圏 一・ω●Oq﹁二ωωo戸︒圃ρこのようなことからベルフォスコイロ・bコ辱09ω℃×OじりO宍O邸は宗務院が帝政の国家機関のあらゆる面

 に部下を派して正教会の影響力を多大に与えているとした︒口.扇.OコΦで×o国︒区︒箪 望壱ω渓調の国辱①員kxOしd二〇箪課︒舞昌①弓隅壊 鵠

 旨昌×oしロ=げヨ℃①ヨ︒寓Φ=ご↓.ピ℃Oo↓oロコー=㌣員︒切ざH㊤目9q℃・㎝O海

㈹ ﹀・=器=o民︒ロロリ詣窪==ロσ∩鵠α国℃突︒邸oo置﹄訳ρ7δo只ロコ節お①bo矯2℃.一昏自

働 b﹂・箪﹄Φ霞=OO鵠日一90↓噂︒宅邦訳︑レーニン全集第﹁○巻七二頁

㈱ ヨ﹂≦・=の℃2夢目p︒護羨ρ∩↓Ψ㎝

國 ..∩qoヨ湊﹁o畠麸℃自ロロ2=窪×し︒ま=憲馴.︑口︒挿OΦきuロ・﹄.切80α冨囲凶噂↓・卸で山岩・..穴翠霞歪= 切竃q詣鼠︒↓慧昏駕国..︑

 O口9蕊胡噂qマトφ同ω

働 ゴ冨羨Φ曾

働 ︑.O切O戸ω僧閑︒=O切つoo∩=骨客︒陣鵠冨識①℃隅斜ピ↓.﹃6コ切HOO9自マ2

㈲ ↓国言萸ρ×7メピO口ρHQ◎り90↓℃・H

岡 竃・ヨ・=Φ℃自員︾↓恥鍵襲ρo↓で.﹃

㈱ 旨ω60β憎菖のω℃OO.9ρO.ω㎝

帝政ロシア末期の宗教政策

二︑正教会の経済的地位

 −帝政の宗教政策︵2︶1

11.教会財産への保護

        a.財政の非公開性

国家と教会のどのような研究も教会の経済的状況︑その資金︑収入︑資源がどこから出ているか︑それをどのよう

に配分しているかなどをできるだけ考察の対象とするのでなけれぽ不充分であらう︒

教会︑修道院の所領土地︑建物その他の教会財産がどのような寄進元をもっているかは一般に公表されないので正

19

(20)

       ︵H︶確な情報はつかみがたい︒つまり教会財産は﹁信者の神へのささげもの美①鷲口口k⇔コΦ凄δ員Φ門月Φき¢︒Φ否αo曙﹂とし

て与へられたものであり︑したがって信者の監視に属さぬものと理解されているからである︒

 とは云へ国家と教会の強固な同盟は前老か後老に対し少なからぬ額の融資援助を行っていることも争えない事実で

ある︒ たとへぼ第三国余日﹁o黒蜜℃自・コΦ臣○陣員葦寓の当該予算委員会でギリシャ正教当局が必要とする支出を多額に       ︵2︶肩代りをした︒すなわち一︑九一二年の予算表によると教会経費支出目四︑二〇六万ルーブルであった︒この金額の

ほかに同年︑教会はお上からの扶助金三〇〇万ルーブルが特別支出∩目Φ量9︒詣ぴ手拓︒℃Φ碧罠︒の名目で国庫から支出      ︵3︶されたことを予算委員会は明白にしている︒

 なお︑このほかほとんどすべての官庁当局はあれかこれかの方法で教会の経費を用立てた︒

        b.教会所領の巨大性

 次に国家はすべての教会および修道院の所領を教会および修道院の不可譲な財産として見なした︒一︑八六九年一

〇月一五日宗努院の﹃お達し属器﹄は一箇月革命まで効果を作用していたが︒それによるとそれぞれの教会の聖職       ︵4︶者は九九デシヤチン員Φo曽塁︵一デシヤチンは一︑〇九二ヘクタール︶より少なからざる土地の分配をうけたと云

われる︒そのような広さの土地が分与され得ないところでは﹃お達し﹄は教区信徒に次の義務を負わせた︒すなわち

﹁その寺院の僧侶全員に毎月それに相当する手当の金員を納付するかないしそれ相当の生産物を送付することを定め

 ︵5︶た﹂

 キルチェフスキー cロ學ズ塁ぴΦじ︒突愚 によれば︑二〇世紀はじめ︑二五〇〜五〇〇デシヤチンの土地保有の教会は

二四五︑五〇〇〜一︑OOOデシヤチンは五〇教会︑一︑OOO〜一︑五〇〇デシャチンが一四教会︑一︑五〇〇デ

20

(21)

帝政ロシア末期の宗教政策

シャチチン以上が一五教会あった︒しかして残余の七七︑四四三教会に関して云へば︑それぞれ九九デシヤチン以下        ︵6︶であったことになる︒

 また国家は修道院の管轄に好適な土地を見出すと︑修道院に手当の性質をもつ巨額の金員を支払ったと一︑七六四

年に発表した︒かくてエブロペィスク修道院は一︑九〇五年︑ロシアの五〇県におよぶ管轄地域で七三九︑七七七デ

シャチンの土地を領し︑キルチェスキーの計算によると各修道士︑修道女がほぼ四〇デシヤチンの土地を持ったこと

になつ.混といはれる・それゆえπ九〇八年公式数字によれぽ︑一〇︑○○○デシャチ・以上の土地保有一〇修道

院︑一〇︑○○○以下五︑○○○以上七修道院︑五︑○○○〜三︑OOO︑一二修道院︑一︑○○○〜五〇〇︑五九       ︵8︶修道院︑五〇〇〜二〇〇︑二三五院︑で最少保有三五〇デシヤチン三六院であった︒

 この時期における一般人の私的個人的土地保有円↓=田遷夷国昌︒ω①竃Φ葭再思ooα6↓ロ︒Φ臣︒自ぴについて一︑九〇

七年内務省刊行のコ︒九〇五年の土地所有統計∩↓碧籠局員鋤ω①§げ︒︒﹄租Φ=旧識同㊤8﹃o岩﹂により︑レーニンの言

葉を借りればヨーロッパ・ロシアでは︑第三表︑第四表の如く一方では三三に足りない地主が七︑○○○万デシャチ

ソの土地を所有しているのに対し︑他方では最少の分与地をもつ一︑○○○万の農民がこれと同じ面積を所有してい

る︒最大限の地主の一人当りの平均土地所有面積が二︑三〇〇デシャチンであるのに極貧層一家族一戸当り七デシヤ       ︵9︶チンにすぎない︒こんな狭い分与地では農民は生きてゆくことができず︑徐々に死んでゆくより仕方がないというこ

とになる︒

 これらの必然的状況は極貧農民衆ヨ=o﹃o竃§き︒臣匡×39︒ooα①窒Φ寓EΦ門︒丙℃Φ自げ臣自じ︒oをして否応なしに教会

を含む大土地所有者ω①ζ﹄①し︒詣9︒員Φ奉﹄ぴ月に隷属せしめずにはおかなかった︒

 二〇世紀初期の全ロシアをおおい︑また一︑九〇五七年の革命時には巨大な高さに達した農民一揆ス℃①角ぴ国=o否×

21

(22)

        (第三表)エ905年土地所有統計

  所有地規模      所有地霊   土地面積  所有地当平均面積   500〜2,000デシセチン 21,748   20,590,708      947

 2,000〜10,000      5,386     20,602,109        3,825 10,000〜      699     20,798,504        29,754    言十       27,833     61,991,321        2,207

*B.H. JleHHH. coq. T.18, cTp・17邦訳第18巻同21頁より引用

一戸当り面積   3.1   6.5   10.7   7.0 分王地規模

5デシヤチン未満

5〜8 8〜15  計

(第三表)分  戸 数

2,857,650 3,317,601 3,932,485 10,107,731

与 地  土地面積

 9,030,383 21,706,550 42,182,903 72,919,806

*B.H. JIeHHH. Coq・T,18, cTp.17邦訳第18巻同22心

し・盾盾助y=蚤の波は唯単に個人の土地所有に反対するぽかりでな

く教会土地所有器喫︒じσ=oり︒ωΦ竃器︒︒岩油Φ=§に敵対する方向        ︵10︶をもとったのである︒

   c.寺院領に対する反抗

 このような状況のもとで農民が教会領︑修道院領寓︒器?

亭も︒ス鵠×ωΦζΦ詣ずを強奪した事実は多数の資料 員O栄k寓①午

冨区に見出される︒たとへぼ一︑九〇七年一二月一〇日刊行

の雑誌〃ルス ℃継げに﹁修道士巡霊寓O畦引自窟巣遷蚤﹂

という論文が発表され︑それによるとグリソスク県で修道

院領を占拠せんとする農民の企てに対し闘うため武装修道士

の警備隊が組織されたと報じている︒グリンスク ﹁慧=霞院

長イアニンスキーミ︒鋤塁冥悪はそのク弁明書Oq鋤曽器工§

の中で︑農民は一︑九〇六年五月二〇日該修道院から四〇

露里自﹂Φ℃6↓勉︵一霞⁝里は一︑〇六七キロメートル︶のガマレ

エフ院を襲撃したのちグリソスク院に向うことは明らかである

旨ある僧院から通知あり︑武器をとってそれ自体を防備する以

外他の手段をもたぬ僧院は︑そこで生活する人々のうち一五人

に武器交付を郡警察署長 二︒弓躬誕葵 に要請し︑容れられ

22

(23)

た︒その後︑近隣僧院の略奪がくり返され︑次にその僧院がいくらかの威嚇的な匿名の手紙をうけとったとき︑警察       ︵11︶署は僧院に︑僧院の中に武装せる人を増員する請願を市民のあいだに高めることをすすめた︒       ︵12︶ このような僧侶階級の陰気な証言に倹つまでもなく︑農民の院諸領略奪は自然発生的かつ組織的でさえあった︒も

ちろんこれに対し僧侶階級を含めた大地主だちも︑軍隊︑警察の援助を求め︑この農民一揆による土地の加害から強

引に守ったのである︒

帝政ロシア末期の政治と宗教

 ところで正教会組織は国家の厚い保護をうけ︑巨大な教会︑修道院財産をもってロシア国民のあいだに支配的宗教

として生ぎ続けてきたが︑それを可能にさせた個々の経済的運営状況について考えて見たい︒

 考察の順序としてまず修道院︵以下特記する以外は尼僧院も含む︶︑つぎに教区教会つまり聖堂区つき司祭職︑さ

いごに高位聖職者にふれてみよう︒

       2.修道院の経済的運営

        a.不動産収益

 ロシア修道院の財産と収入に関する最も詳細な研究は﹇︑八七六年匿名で出版されたが事実はペテルスブルグ神学

大学教授ロスティスラポフ℃○自2窃︒しロによって書かれたものである︒そこで彼はそれを修道院の宗務院宛報告と       ︵13︶その他の公式資料を基にして書き上げた︒それによると修道院所領の大きなことは前述したが︑しかしその多くは森

林地帯であり︑そのいくらかはその保有地帯から薪炭︑木材を切り出し販売収益を挙げた︒この方法で一︑入七一年

二二︑六六六ルーブルの収益を挙げたサロフスカヤ9℃oσプ突雷院を含め年収一︑○○○ルーブル以上が四院あっ

たとのことである︒ノヴォゴロド=o口︒り︒℃o知管区の一〇院は牧場から八○〜二〇〇トンの干草を収獲し︑ほとんど

23

(24)

       ︵14︶は私用に供したが︑中院は余剰を販売して一三二〜四四三ルーブルを売上げた︒数院はライ麦︑小麦︑ポテトなど多

数収獲し︑八三は少くとも各院三〇頭前後の牛を飼い︑いずれも︑多分彼らの食料に供された︒しかし主として自己

用に供する土地の運営はいずれにしても大したことはないので問題は大きな所領の賃貸である︒

 ディベール↓口︒Φで管区院では八一デシヤチソ以上の果樹園︑牧場︑耕地︑と三つの池を賃貸して年二︑二七五ル

ーブルを得︑シンビリスクO臣O壱貧管区院では三四デシャチソの牧場で四八○ルーブル︑ザドフスカや曇9︒員○甲

衆医院は三三一デシャチンの耕地︑牧野で年収一︑二〇〇ルーブル︑他に遠隔の所有地賃貸で一︑九〇四年︑年収       ︵15︶五︑一五ニルーブル︑僅かに一二八デシヤチソが私用に供されただけであった︒

 このように地方の修道院は牧畜︑耕作︑漁業権いわゆる農業収益︑しかもそれは賃貸料収益を非常に大きな収入源

とした︒形態的には資本主義的農業企業であるよりもむしろ賃貸料率契約面から実質的に農奴生産的搾取が見られ

︵16︶た︒

 一方︑都市修道院においては︑店舗︑住宅等を所有し︑その賃貸収益が多大であった︒たとへぼトロイッコ・セル

ギエヴァ↓Oo=月区?∩①℃ヨ窃節院は一︑八七二年にセルギエフ・ポサド ∩Φ℃ヨΦし︒−﹁︻o$沁の繁華街の商店舗の賃貸

で年収三・一九ニルーブルになり皿・九一七年絵それからδ九・四四〇ルーブル収益竃解アリ・クサンド

ロ・ネフスカヤ﹀津寄盤も︒︐工窃重美院はペテルブルグ運河に沿った一三棟の巨大な穀物倉庫を貸して一︑八七

〇年に少くとも︷五〇︑○○○ルーブルの年収を得た︒それだけではない︒その上屋に荷卸しする穀物袋当りニコベ

イカの手数料を徴収し︑少くとも年五〇︑○○○ルーブル以上の副収益を得た︒かくてこの施設は︼︑八七四年にぺ       ︵18︶テルブルブ在のどの富豪よりも多くの収益を得たと云われる︒

 修道院はまた他都市部在施設を活用することも多い︒たとへぼティベール院はモスコウに旅館コ︒富︒℃σ①を持

(25)

帝政ロシア末期の宗教政策

ち︑一︑八九五年知人に賃貸して三五︑四〇〇ルーブルの年収を得た︒ヴァラアソスキ ロu£︒﹄き=o臣斜里は同じくモ

スコウの旅館から年三五︑○○○ルーブル︒ペテルブルグのそれから五〇︑○00ルーブル︑他に各都市の建物賃貸

収益一〇︑○○○ルーブルを得た︒ロスティスラボブは総計六七修道院が一︑八七四年モスコウ所在不動産から収益

を挙げたことを報じて臥耀目立・たものとしては先述のト︒イツコ・セルギエヴ・院がモス・ウ在不動産から空

○○︑○○○ルーブル︑それが革命直前には一五三︑五六一ルーブル︑ペテルブルグ在不動産から一七八︑五六一ル

ーブルの収益を挙げている︒もちろんこれら不動産は他の企業活動に供することも多い︒該院も賃貸以外の不動産で      ︵20︶石版工場︑印刷所︑鉄工所︑錠前工場︑煉瓦工場︑ローンク工場︑礼拝用具製作所などを経営していた︒

 このように都市在修道院は多くは所有不動産を店舗︑旅館︑住宅などに賃貸し企業改益を挙げていたと云へよう︒

       b.献   金

 ロシア修道院訪問の巡礼者は多数いるが正確にはつかめないが百万は下るまいと云はれた︒たとへばトロイッコ.

セル笑声ヴァ院には年三〇万人を越え︑キエフ・ペチェルスカヤス甲お︒︒o自①月Φ℃Ω︿皇院もそれを下らない︒こうな

るとこれら巡礼者の寄進の額は馬鹿にならない収益である︒しかしこれは必ずしも修道院の純益にはならない︒何と      ︵21︶なれぽ巡礼者滞在中の食費生活費は院の負担という慣習があったからである︒しかし巡礼者は聖像に祈りを捧げるた

め礼拝用のローソクを買った︒トロイッコ院を例にとれぽ一︑八七〇年に三二二︑二四五本を売り︑三九︑五二八ル

ーブル収益を得たと報ぜられているが実際には七〇︑○○○〜八○︑○○○ルーブルの収益があった筈である︒

 他の収益は特別祈鳶料︑修道院内各所にある献金箱収入︑聖餐拝受のパソ︑聖像臨ズ︒=︑聖画︑宗教文献︑修道

院印煉瓦その他の記念品の販売︑死老の葬式︑埋葬に関する費用などでいずれも馬鹿にならない︒その他基金募集の

製旅行が野行なわれたが・これは一・九〇一年宗務院によりいかなる方法による勧進も禁止され輸.

25

(26)

        c.投資収益

 修道院の他の収入は投資収益である︒修道院は農村︑都市在それぞれの企業施設の維持拡充のため投資をし︑その

利潤P は前述の如く莫大であるが︑それ以外の余剰金は四分ないし五分利付政府債を購入することに義務づけられ

ているので︑ここではそれについて一言しよう︒これに対する投資額から自らその年収が算出できるので第五表によ

り一︑八七三年修道院の報告によるこの種収益をうかがうことができる︒

      a.国庫補助       m.

(第五表)

修道院数   18   45   37   24   12   7   4   3   5   9   3 J.S.

Russia,

    Curtiss,

      1965,

但し*印は同頁文中記述により附加 修道院の政府債投資額  投資額(ルーブル)

   5.000〜 10,000    10,000〜20,000    20,000〜30,000    30,GOO〜40,0GG    40,000〜 50,000    50,000〜 60,000    60,000〜 70,000    70,000〜 80,000    80,000〜100,000   100,000〜200,000   200,000〜800,000   Churchand Stete

  P.109.

       *

○年それらのほとんどはけ年一〇五〜五︑

ス℃碧き自Oズ突︒︒国尼僧院の年三〇︑

領した︒ さて︑    五八五ルーブルをうとっただけである︒○○○ルーブルを筆頭に五尼僧院に限り以下二  修道院に対する国庫の補助は後述の司祭職︑に対すると同様にそれほど大きな額ではない︒原則的にこの補助は一︑七六四年エカチェリーナニ世国累霧①℃臣9国矯︸謬M︵8Φココ壁節℃o護−讐︒じσ斜︵蜀b︒㊤〜㊤①︶︹餅欝嵜爵〜㊤O︺ によって行なわれた教会財産国有化∩Φ塁﹄着蕊⊆︒月塁 に対する補償と考えられてい  ︵%︶たので︑それ以後建立された施設には当然与へられず︑従って

一︑九〇五年全体の三分の二に当る三三七修道院︑二〇八尼僧      ︵24︶院が恩恵に浴したのである︑しかしその額は僅少で︑一︑九一

       もっともクラスノストコッカヤ

       一︑九五〇ルーブル迄を特別に受

一八世紀の教会財産国有化にも拘らず修道院は革命前には土地︑施設の無財産ということから程遠かつた︒

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帝政ロシア末期の宗教政策

その理由は︑接収時のさだめによれば財産を没収した代りに各院はあらためて帝室領から六〇デシャチン宛下附され

る筈であったが実際には一〇〇〜一五〇デシャチンをうけ︑更に各院とも製粉工場︑漁業権など併せ与へられた︒こ

の最低限にとどまる院などはなく︑その後勅許をうけて未開発原野を購入ないし寄進により獲得することを認められ

た︒一︑八九〇年宗務院の資料によれば︑一二修道院は二二︑○○○デシヤチン以上︑そのうちカジェオジエルスキ

ース︒庚ΦoωΦ℃o否二院は二四︑八三六︑ソロベツキー∩自︒器長上院は実に六六︑○○○デシヤチンを所領した︒

かくて一︑九〇五年ギリシャ正教会修道院はヨーロッパ・ロシアにおいてその0︑二%にあたる総計七三九︑七七七       ︵25︶デシヤチンを領有したのである︒

       5..司祭職の経済的条件

        a.手数料収入

 司祭職扶持の一般的手段はサービス給付に対する耳払いであった︒教会法では繊悔︑聖餐式︑婚姻︑洗礼︑埋葬な

どに関する司祭職のサービスに対して金銭の支払を禁じてあるが︑依頼者がかれらに適宜の献金をすることは自由で

あるし︑司祭職もその善意はこころよく受けとることが慣習となっていた︒もちろん司祭職はまた︑年忌︑盆暮の祈       ︵26︶疇︑および個人の出生︑洗礼︑婚姻︑死亡などの記録簿にもとずく証明などを取扱った︒いまでいう︑いわゆる戸籍

事務はギリシャ正教会が支配的宗教である限り必然的に聖職者の末端である司祭職がうけもつ運命でもあった︒

 司祭職はその他学校司祭︑法廷神父などで僅かな補助的収入を得た︒司祭職に対する尊敬の存否に拘らず国民は否

応なしにこの末端聖職者と接触せずには生活できないところに問題があった︒つまり国民の眼にはかれら司祭職は多

かれ少かれ搾取者として映っていたのである︒国民と僧侶の間に敵意が発生し︑坊主はできるだけ取ろうとし︑国民      ︵27︶はできるだけやるまいとする︒そしてそれは多くの場合トラブルの種となった︒

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参照

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