伊 東 泰 幸
Sister Carrie の語り手と作者の布置
──ジェンダーと資本主義を巡る欲望の諸相
はじめに─ドライサーの脱構築
ア メ リ カ の 自 然 主 義 文 学 を 代 表 す る セ オ ド ア・ ド ラ イ サ ー(Theodore Dreiser)のデビュー作、 『シスター・キャリー』 ( Sister Carrie )
(1)は、田舎娘キャ ロライン・ミーバー(Caroline Meeber)が大都会シカゴに成功の夢を求めやっ て来て、自身の類稀なる美貌と奇跡的な幸運が奏功し、社会的にも経済的にも 累進を重ね、最後には有名女優として大出世を遂げるある種の成功物語であ る。しかし、いかに成功する人物を描いているとは言え、作品においてはホレ イショ・アルジャー(Horatio Alger)的な楽天思想の影は皆無に等しい。それ よりもむしろ自然主義的な教義、すなわち個人の可能性や努力を否定し、環境 や偶然などの人の統御が叶わぬ諸力を強調するその価値観が、この物語の基調 を成している。
例えば、主人公キャリーの成功は、上に述べたように彼女の外見的魅力や時
の運、あるいは偶然の所産であるし、また彼女と関係したために破滅させられ
たジョージ・ハーストウッド(George Hurstwood)は、図らずも長年勤めて
きた高級サロンで盗金騒動を働いて以来、再起の努力も空しく零落の一途を
辿った末に凄絶なガス自殺を遂げる。つまり、彼らの人生行路は、ほとんど努
力や可能性という明るさに類するものとは無縁の冷酷な偶然によってのみ決定 されている、と言って良い。
しかし、逆説的なことにこの興味深い二人の男女を筆頭に、『キャリー』に おいて立ち現れる登場人物は、みな程度の差こそあれ欲望という一種の主体性・
積極性を仄めかす心象によって切り結ばれている。今日でこそ我々は、『キャ リー』をアメリカ文学のキャノンであると評して憚らない。だがそれが描く人 間と彼(女)らの欲望は、出版当時の 19 世紀末においては、その内容があま りにも非道徳的だとして刊行が制限されるまでに、センセーショナルなもので あった。
本論文は、そうした『キャリー』において表出する欲望を読者と共に見つめ る語り手の存在・役割に着目し、それを複数の角度より解析する試みである。
具体的には、まず第 1 章で『キャリー』が描く欲望の数々を取り上げて、それ らに対して語り手はどのような態度・立場を表明しているのかを分析し、その 逸脱的な語りの性質を確認することで論考の土台を構築する。
続いて第 2 章では、その逸脱する語りの根源を探る。すなわち 1 章で見たよ うな登場人物の欲望に課される抑圧と、そこからの逸脱の図式を基軸に、語り 手と作者ドライサーの心理的な同調作用を作品の出版規制・検閲の問題を絡め て読み解き、両者の等位性を検証する。
それ受けて第 3 章においては、語りの取り扱う欲望の表象の中でもとりわけ ジェンダーと資本主義に絡むものへと視線を移し、キャリーとハーストウッド のジェンダー構造が攪乱される様相を、その過程において二人が手にしたスト 破りと舞台女優という資本主義と密接に関係する職を頼りに考察する。そして 最終的には、そこでの議論により露呈するであろう語り手と作者の微かな相違・
乖離を掘り起し、先に解明した両者の同質性の一部を脱構築する。
言い換えるなら、本論文の目的は端的に言って、ウィリアム・J・ハンディ
(William J. Handy)や伯谷嘉信が主張するような語り手と作者に限りない同義 性・等位性を見る従来の解釈
(2)を再検討し、そこへ一石を投擲することである。
その果てに現出するドライサーのイメージは、自身のジャーナリストとしての
経歴や経験から彼が紡ぎ出した非情な世界への認識哲学を、そのまま作品と語
りへ投射するこれまでの姿に、一つの疑問符を付すこととなる。
Ⅰ.語り(手)の不確定性と逸脱性─不道徳な欲望
1.振幅する語り手の立場
『キャリー』の翻訳者である村山淳彦が指摘するように、この作品における
「語り手の声の位置は特定しがた[く]」(Murayama 69)、その人格も一概には 規定できない。なぜなら語り手は、ある時は公平無私な態度で登場人物の心理 を解説したり、教訓めいた文句を呈したりするかと思えば、反対に彼らの言動 や思考を弁護したり非難したりと、およそ中立的で客観的な立ち位置からとは 思えぬ語りを、我々読者に提供するためである。
ここではまず、プロットに則しながら語り手のポジションを中立・批判・擁護、
さらには登場人物の視点・思考との同一化という四つの配置・視座より把捉し、
その流動性、不確定性を検証する。そして、そうした漂泊的な語りが強烈に傾 斜する先として欲望の表象、それも当時の価値観においては不道徳とされた欲 望を析出し、語りのいわば逸脱性を確認することで次章への足掛かりを築く。
物語の冒頭、田舎のコロンビア・シティを出て大都会シカゴへ向かうキャリー が列車に揺られる姿が描かれる。そこでまず語り手は、“ When a girl leaves her home at eighteen, she does one of two things. Either she falls into saving hands and becomes better, or she rapidly assumes the cosmopolitan standard of virtue and becomes worse” (Dreiser 1)(一八歳の若い娘が国元を離れれば、残された 道は二つしかない。救いの手にうまく出会ってましな身の上になるか、コスモ ポリタン的な道徳観をたちまち身につけて堕落するか、どちらかである)と、
キャリーのような若い女性が都会で辿る道を、客観的に解説している。
第 3 章でも、キャリーがシカゴで職にありつけず途方に暮れている様子を 前に、あたかも言い訳するかのように、“It must not be thought that any one could have mistaken her for a nervous, sensitive, high-strung nature, cast unduly upon a cold, calculating, and unpoetic world. Such certainly she was not” (17) (誤 解してもらっては困るが、キャリーはだれの目にも、不当なことに冷たく打算 に満ちた世界に投げ込まれて気が滅入って傷つきやすくなり、胸が張り裂けそ うになっているように見えるとか、そういうことを言いたいわけではない)と 述べ、自身の語りが彼女に過度な肩入れをしたものではないことを、わざわざ 主張している。したがって語り手は、ひとまずこの段階では自身の役割・領分、
すなわち中立性や客観性に忠実な、いわば模範的な語りを進行させていること
が伺える。
しかし、このようにして敢えて断りまで入れたにもかかわらず、その舌の 根も乾かぬうちに、客観性を標榜する語り口は変調をきたし始める。同章の 最後、幸運にも靴工場の工員として仕事を手に入れることができ歓喜する キャリーに語り手は同一化し、“What would not Minnie say! Ah, the long winter in Chicago̶the lights, the crowd, the amusement! This was a great, pleasing metropolis after all” (21)(ミニー〔Minnie〕は何て言うかしら!ああ、シカゴ の冬は長いだなんて、どうということはない─街には灯が点り、人は群れ集 い、楽しみが始まる!ここはやっぱりすてきで愉しい大都会だわ)と、彼女の 晴れやかなこころ模様を陳述する。
そうかと思えば今度は反対に、冒頭の列車の場面よりキャリーに魅了され、
どうにか我が物にせんと気張るチャールズ・ドルーエ(Charles Drouet)か ら、半ば強引に手渡された 20 ドル紙幣に時めかずにはいられない彼女を、“The poor girl” (48)(哀れな女)という風に、侮蔑と同情の混淆する眼差しを以っ て語り手は評す。加えて、“One of her order of mind would have been content to be cast away upon a desert island with a bundle of money, and only the long strain of starvation would have taught her that in some cases it could have no value”(キャリー程度の頭の持ち主は、札束さえ持っていれば、不毛の島に置 き去りにされてもかまわないと考えてしまうもので、長期間そんな島で飢餓に 苦しんだ末にはじめて、金が役に立たない場合もあるということがわかるよう になる)と、あたかも人格が入れ替わったのかと錯覚するほどに、キャリーを こき下ろす姿を垣間見させてもいる。
これらの例を確認しただけで、既に語り手の布置は固定的ではないとある程 度は判じられるが、こうした語りの立場の流転、厳密には中立性の放棄は、キャ リーに対する場合のみならず、ドルーエやハーストウッドらに寄せる語りに関 しても同様であり、またその反復は作品の全体に及ぶ。
その実例をいくつか挙げると、上にも引用したシカゴへ向けて走る列車の中 で、ドルーエがキャリーを熱心に口説こうとしている場面において語り手は、
“Lest this order of individual should permanently pass, let me put down some of the most striking characteristics of his most successful manner and method ” ( 3 )
(この手合いの人間がいつまでものさばることのないように、そいつのもっと も有効な作法と手口のいちばん目立つ特徴を、いくつか書き留めておこう)と、
軽蔑的にとは言えなくとも、彼を一種の社会悪に近い存在として扱い、そのよ
うな部類の男が女性を如何にたらし込めるのかという薀蓄を、長々と解説する。
また、ある時自身の孤独で鬱屈とした身の上を嘆き不意に涙を浮かべたキャ リーを見てドルーエは、その涙を自分の不在を嘆くもの思い込み、挙句一緒に ワルツを踊ろうなどと見当違いな優しさ
(3)を振りまく。それを語り手は “ He could not have introduced a more incongruous proposition” (78)(その場で言い 出すにしては、これ以上的外れな言葉はなかっただろう)と痛快な勢いで非難 している。
これらの非難に加え、先のキャリーの事例と同じく、例えばたまたまある知 り合いの女性と昼食を取る姿を、ハーストウッドに目撃されてしまい焦るド ルーエ─彼はハーストウッドにはキャリーの夫として通用していた─の心 境にも語り手は介入、同一化して、“Here was a moral complication of which he could not possibly get the ends” (80)(こりゃ、どうにも手に負えない、道徳が 絡んだ厄介ごとが持ちあがってしまったな)と一方では述べている。そしてそ のハーストウッドを見てみても、彼の家庭事情が紹介される第 9 章において語 り手は、“the fi rst grade below the luxuriously rich” (34)(富豪の一段下の階級)
に属する彼の身分や人柄、思考を極めて模範的な視線・態度で冷静に詳述して いる(66 - 67)。ところが、11 章になると “ He [Hurstwood] could hoodwink him [Drouet] all right” (81)(あいつ[ドルーエ]ならまんまと騙くらかせるさ)と 言って、彼からキャリーを奪取する算段に耽るハーストウッドの心の内に溶け 込んでいる。
以上のように、キャリー、ドルーエ、ハーストウッドら三人の主要人物だけ を見ても、語り手は物語の初期段階より既に、一応は客観・公平を装いつつも 時に半ば公然とその領分を離れ批判や擁護、さらにはその対象そのものとの同 一化を敢行している。その実態はすこぶる多面的で飄然としているが、次には その不確定的な立場が漂着した先の問題を取り上げることにする。
2.自然主義と欲望
本格的な議論に入る前に、まず『キャリー』が属する自然主義というカテゴ リーと欲望との関係について、少し触れておく必要があるだろう。
チャールズ・ダーウィン(Charles Darwin)やハーバート・スペンサー(Herbert
Spencer)
(4)らを筆頭に提唱された(社会)進化論や、フランスの作家エミール・
ゾラ(Emile Zola)の思想に多大なる影響を受け、自然主義は 19 世紀末にア
メリカにおいても興隆した。キース・ニューリン(Keith Newlin)の言葉を借 りるならばそれは、「人間の生活における決定因子として理性的選択よりも外 的な諸力を重視[し]……、自由意志の可能性を疑問視ないし否定する決定論 哲学を、客観的表現法に結びつける」(272)ものである。したがって、そうし た価値観に依拠した文学は、「自我や自由意志の力とそれらに反作用する巨大 な力との相剋の中で、苦悩し葛藤を演じながら結局は後者に道を譲り敗北する 無力な人間」(中川 222)と向き合うものである。言い換えるなら、環境や遺 伝などの人の力の遠く及ばぬものが、人生における幸不幸や成否を左右し、そ こでは個人の力量は度外視される、というのが自然主義の文学のおそらく一般 的な了解である。
また、そのようにしていわば運命の気まぐれな振り分けに弄ばれる人間は、
成功という勝利と失敗という敗北を決する舞台に参入するそのいわば資格条件 として、必然的にみな自身の欲望を前景化する。ニューリンは、欲望と自然主 義の関わりを以下のように指摘している。
自然主義文学についての伝統的定義では、ふつう登場人物の人生に影響を 与える諸力が列記される。遺伝とか環境とかはもっともありふれたもので あるが、強者の意志、自然そのものの力、それにおそらく人物自身の内部 の無意識な恐怖や欲望も、そういうものとしてあげられうるだろう。(58)
この指摘が有意義なのは、単に遺伝や環境などの先天的・外界的な駆動力に留 まらず、人間個人が内包する/触発される欲望もまた、彼らの人生の趨勢を占 い、決定し得ると理解している点であろう。なるほど、ちょうどウォルター・
ベン・マイケルズ( Walter Benn Michaels )が「『シスター・キャリー』では、
欲望の充足は、それ自体は決して欲まみれであることにはならないが、代わり に失敗や頽廃、果ては死の兆候である」(42)と言っているように、欲望は自 然主義の教義たる個人の力を滅却し、彼らを破滅へと導く力─運命─の、
いわば起爆剤のようなものである。ある者はそれに踊らされたために凋落し、
またある者はそれに突き動かされたことで栄進する。
かくして、自然主義における欲望とは、いわば成功か失敗のどちらかが印字
された切符なのである。その意味においてローレンス・ E ・ハスマン(Lawrence
E. Hussman)の「欲望が『シスター・キャリー』の主役である」(18)という
言葉は正鵠を射ていると言える。
ところで、この作品における欲望の表象は、そのほとんどが 3 章で詳細に取 り上げるジェンダーや資本主義と多かれ少なかれ連携している点は、見逃すべ きではない。
例えばきらびやかな衣服や、その獲得に不可欠な金銭へ向けて強烈に発信さ れるキャリーの欲望は、それが消費主義社会の見せる虚構的な価値やイメージ に盲目的に追従してしまうという意味において、多分に資本主義の制度や思潮 と切り結ばれている。また彼女という女性を猪突猛進の勢いで手中におさめん とするハーストウッドの男性的な欲求は、ジェンダーやセクシュアリティの問 題と密接に繋がっていると言えるはずだ。
その他にもドルーエが、ハーストウッドが支配人を務めるバー、フィッツ ジェラルド・アンド・モイ(Fitzgerald and Moyʼs)で名だたる有力者に混じっ て酒を嗜むのも、やはり自己顕示欲とも言うべき男性的な指向に起因したもの のである。さらにはハーストウッドの妻ジュリア(Julia)に至っては夫と息子、
二人の男性を政略的に利用し、上流社会への参入を画策するというジェンダー 構造の攪乱の兆候すら示している。
このような欲望に、先に確認した揺らぎを孕む語り手はどのような眼差しを 寄せるのか、次節以降で検証する。
3.逸脱的に傾斜する語り
フィリップ・L・ガーバー(Philip L. Gerber)は、「初めから、キャリーの人 生は経済的な安定や富、そして特に衣服やそうした豊かさの象徴、さらには 快楽に対する強烈な欲望によって動機づけられている」(58)と述べて、彼女 の欲望の強度とその矛先を分析しているが、彼女のそうした類の欲望は、出 版当時(19 世紀末)の価値観に照らし見て、極めて非道徳的なものであった と言われている。実際『キャリー』を最初に出版したダブルデイ・ペイジ社
(Doubleday, Page & Company)も、その反逆的な内容を憚って積極的な販売 活動をしなかったことは知られており、後にドライサーはこうした一連の出来 事を、「『キャリー』は、出版の間際になって、一部たりとも売らせまいと画策 した出版社とダブルデイ夫人〔 Mrs. Doubleday 〕のお上品さのおかげで、長ら く抑圧されてきた」(Wilson 287)と主張し、半ば発禁伝説まで作り上げるほ どであった
(5)。
作品のモラリティの問題に関してバートン・ラスコー(Burton Rascoe)は、
その特徴的な逸脱性を登場人物の造形や人生行路より以下のように解説する。
その作品[『キャリー』]はキャリー・ミーバーが同棲した二人の男性のど ちらもが、メロドラマ的な舞台に登場するような悪役として描かれていな いという点、さらにはキャリーが結末において改心し善徳の道の置かれる こともなく、挙句彼女の罪業が貧しさや辱めという形で罰せされることも ないという点において、当時のアメリカの文学的道徳観に公然と反抗して いた。(33)
ドルーエやハーストウッドがいわば紋切型の女たらしではないことに加え、
キャリーの型破りな振る舞いや人生は、無論マーシャ・ S ・モイヤー(Marsha S.
Moyer)の言う「女性の社会的な価値規範に真っ向から挑みかかる」(42)と いうような確信犯的なものでこそないが、やはり当時の倫理・道徳コードにはっ きりとそれが抵触したことは、自明である。
ここで特に着目しておきたいのは、そうした不道徳とされる欲望に囚われる 彼女に対し、語り手は必ずしも世間的な道徳の声を代弁する形で、批判や痛罵 を加えてはいない点である。仮に語りの性質・姿勢が客観的であるならば、お そらく当時の道徳に素直に礼賛し、その美名のもとに彼女の悪行を攻撃するか、
あるいは少なくとも公平な見解や訓示を提出するはずである。しかし実際物語 中には、そうはならないケースが散見される。
例えば第 10 章の初めでは、“Actions such as hers [Carrieʼs] are measured by an arbitrary scale. Society possesses a conventional standard whereby it judges
all things ” ( 68 ) (キャリーのとったような行動を裁断する尺度は恣意的なもの
である。社会には因習という基準があって、それにもとづいてあらゆる物事が 判断される)と、キャリーの不道徳な所業を否定するどころか、むしろそうし た旧弊を批判することで彼女の行動を正当化している。
またこれに留まらず語り手は、その次の第 11 章においては、華やかに着飾
りたい欲望にとりつかれつつも、そこに一種の引け目を感じてしまう彼女の懊
悩を、“Fine clothes to her [Carrie] were a vast persuasion; they spoke tenderly
and Jesuitically for themselves. When she came within earshot of their pleading,
desire in her bent a willing ear” (75)(キャリーにとってきれいな衣服はしたた
かな説得力をそなえていた。衣服は甘い言葉で、またイエズス会士のような詭
弁を弄して、自己主張する。その訴える言葉が耳に届くところに足を踏み入れ
ると、内なる欲望がその言葉に耳を貸す)と、ひとまず婉曲的に弁明した上で、
“but spoil her appearance?―be old-clothed and poor-appearing?―never!” (76) (で も自分の外見を台無しにするの?─古びた服を着て貧しい身なりに甘んじな ければならないの?─絶対いやよ!)と、最終的には彼女と同一化して衣服 への欲望の増長を援護している。
同じく、ハーストウッドに関してもこれと類似する傾向が見られる。まず 13 章の最初で、彼がキャリーに道ならざる恋の欲望を抱き始めたことを、語 り手は以下のように言葉巧みに弁護する。
The reason for his [Hurstwood ʼ s] interest, not to say fascination, was deeper than mere desire. It was a fl owering out of feelings which had been withering in dry and almost barren soil for many years. […] He had had no love affair since that which culminated in his marriage, and since then time and the world had taught him how raw and erroneous was his original judgment.
Whenever he thought of it, he told himself that, if he had it to do over again, he would never marry such a woman [like Julia, Hurstwoodʼ wife]. (90) (ハー ストウッドがキャリーに首ったけとは言えないまでも惹きつけられたの は、ただ欲望に駆られただけではなく、もっと深い理由があった。長年ひ からびてほとんど不毛と化した土地で萎れかけていた情感が、開花したに 等しかった。……ハーストウッドは、結婚を境にして恋愛には無縁だった し、それから時間がたって世間を知るにつれ、そもそも結婚したのは、い かに未熟で誤った判断だったかということを思い知らされた。そのことを 考えるたびに、もう一度やり直せるものなら、もう二度とあんな[妻ジュ リアのような]女と結婚するものかと自分に言い聞かせた。)
恋の孕む熱や夢は所詮一過性のものに過ぎず、やがて等しく冷めて/醒めて消 えゆくのが道理だというこのクリシェに裏付けられたハーストウッドの欲望 は、確かに凡俗なものではある。しかし、その卑近さ故に、彼の欲望のリアリ ティは逆説的な深みを帯びているのではないだろうか。
そうしてかつての若さ故の過ちをもう若くはない大人の彼が、後悔し反省し た結果至った決断が、キャリーへの新しい恋であった。しかし、それは社会的 に許されない、再度クリシェを用いるなら、禁断の恋路でもあったのである。
けれども語り手は、そうした「禁忌」へひた走るハーストウッドのために
さらなる援護射撃を敢行する。21 章の後半部、いよいよキャリーにドルーエ との離別を迫ったハーストウッドは、彼女の結婚の要求に一抹の不安を募ら せるものの、“ He [Hurstwood] did not trouble over little barriers of this sort in the face of so much loveliness. [ … ]. He would make a try for Paradise, whatever might be the result. He would be happy, by the Lord, if it cost all honesty of statement, all abandonment of truth” (150-51)(この程度のつまらない障害など は、これほどかわいらしい子を前にすれば、取るに足りなかった。……結果が どう出ようと、幸福をめざしてみるんだ。何が何でも幸せになってやる。口か ら出まかせを言っても、嘘八百を並べることになっても)と、狂おしいまでの 恋(愛)への没入の欲望を発動させ、語り手はそれを増幅・称揚するかのよう な語りを提示する。
同様にハーストウッドの人生が堕落の方向へと転換する決定打と言うべき バーでの盗金行為には、おそらく彼に関する語りに限って言うならば最高度の 傾斜、つまりニュートラルな水平状態から、ある一方に対する肩入れが見られ る。
閉店後のバーで、売り上げを保管しておく金庫がその日に限って何故か施錠 されていないことを発見したハーストウッドは、思わず中身を覗いてしまう。
語り手はひとまずそれを、“quite a superfl uous action” (190)(まったく余計な 行為)だと冷静に述べる。だがその後語り口は再び同一化の傾向を呈し始め、
“He [Hurstwood] could see great opportunities with that [money in the safe]. He could get Carrie. Oh, yes, he could! He could get rid of his wife” (191)(あの金で 前途が大きく開けそうな気がした。キャリーをものにできるんだ。ああ、そう だ、できるとも!妻とも手が切れるぞ)と言って、たちまち彼の異様な思考に 付き添ってゆく。
それでもハーストウッドは理性を咄嗟に蘇生させ、遅疑逡巡の末にどうにか、
“He [Hurstwood] would not do it―no! Think of what a scandal it would make.
The police! They would be after him” (193) (こんなことはするまい─だめだ!
どんなスキャンダルになるか考えてみろ。警察沙汰だ!追われる身になるぞ)
と思いとどまり、自身の欲望を制止する。
ところがそれも束の間、「彼の道徳の勝利は皮肉なことに[金庫の伴がひと
りでに掛かるという]まったくの偶然によって無に帰し、そうして彼は残酷な
運命の犠牲者と成り果ててしまう」(Hakutani “Novel” 33)。語り手は、その瞬
間の彼の動揺を “It [the lock] had sprung! Did he do it? […] Heavens!” (193)(錠
がかかっちまった!おれがやったのか。……なんてこった!)と迫真的な調子 で語り聴かせている。
ここまで明らかとしてきたように、この小説の語りの属性は、ほとんど恣意 的な勢いで本領であるところの公平性を拭い去り、決して気ままな軽快さこそ ないものの、登場人物の言動と欲望に共鳴している。それはたとえ不道徳の誹 りが免れないものであっても共鳴するという、すこぶる逸脱的な角度を取るも のだ。そのある種の背任行為の根源を、次章で追究する。
Ⅱ.語り手/作者と欲望の相関─抑圧と逸脱
1.傾斜の根源
前章で確認した明確で固着的な立場とは程遠い語り手の語りは、挙句当時の 道徳観念において禁じ手とされる言動にまで共感を催していた。ここではその 不道徳な語りの対象である欲望の、抑圧と逸脱のメカニズム・構造を解析し、
それを頼りにそうした抑圧/逸脱の現象が、語り手にもまた秘かに生じている 可能性を、作者の個人的な事情や背景、あるいはこの作品が、出版に際し直面 せざるを得なかった検閲の問題を通じて検討する。
西山恵美が「富の有る無しが、人生の意味を計る基準となり、……勤勉、質 素、誠実というような伝統的な道徳律は、物質的な欲望の追求に比して副次的 な制約要因にしかならず、道徳律を破ってまでも富の追求をする事が許される こととなる」(87)と言うように、『キャリー』では金銭的な欲望が道徳的な抑 圧の対抗因子として作用し、なおかつそれが容認される事態が現出している。
顧みると、ここまで検証してきたそのような欲望は、みなその充足・成就に何 らかの足枷がかけられながらも、そこへ向かって進まずにはいられないという 論理において、抑圧と逸脱の構図が仄見える。前章の最後で取り上げたハース トウッドの盗金の場面は言わずもがなだが、その他にも、姉夫婦の陰惨な暮ら しぶりに愕然としたキャリーは、ドルーエという救世主が救いの手を差し伸べ た時、それを嬉々として握りしめようとするが、やはりそうした欲望が世間の 道徳の名の下で検閲にさらされ、結果としてその無条件な充足が抑制される。
だが、このような抑圧の反転(あるいは連動作用)として、衣服や金へ激し
い執着を見せるキャリーを是認するドルーエを、最終的には受容するに至るこ
とは、既に確認した。またハーストウッドもこれと似て、高級サロンの支配人
という社会的な地位や名誉、さらには経済的な事情を慮り、当の昔に愛の冷め てしまった妻と、体面上は平穏な生活に甘んじ己の欲望を飼い慣らしていたも のの、キャリーと邂逅したことがきっかけでその箍が緩み、欲望は解放され逸 脱へ向けて流出する。
他にも、上では細かく言及しなかったが、例えばハーストウッドの妻は夫と 同じように世間の手前、長年本来の欲望を押し殺し、一応は 円満な家庭環境や 夫婦関係をアピールしている。またキャリーの姉ミニーは、仕事に忙殺され余 暇らしい余暇も持てない夫スヴェン(Sven)
(6)の下、「自身の日常生活の単調 さを慰める娯楽や気晴らしの一切が許されず」(Davidson 399)、それ故に自己 の欲望あるいは主張が制限されているとみることは、理にかなっていよう。実 際、ニューリンは「[ミニーという]その名前が示唆しているのは、キャリー がシカゴ滞在中の早い時期にハンソン夫妻宅に下宿しているうちに経験するこ とになる、精神的肉体的欲求をミニマムにしか満たせない生活である」 (Newlin 179)と述べ、余暇の不足による夫妻のセックスレスな関係が、ミニーの性的 な欲求不満を醸成する苗床となっている可能性を提示している。
ジョセフ・エプスタイン(Joseph Epstein)は、「ドライサーはキャリーを称 揚することも非難することもせず、感傷や嫌悪を抜きにして彼女と向き合う」
(28)と彼の視線が極めて中立的であることを指摘しているが、作者ドライサー と語り手が等位・同義であるならば、その認識は修正すべきだ。なぜなら前章 で検討したように作品における欲望、それも『キャリー』が世に出た当時の思 潮的に糾弾・断罪されて然るべき欲望に、語り手は果敢にと言うべきか、挑戦 的とも取れる弁明や弁護を行っているからだ。
するとここで疑問が生じる。すなわち語り手はなぜ、そのような不道徳な欲 望に敢えて寄り添おうとするのだろうか。言い換えればなぜ語り手は、本来の 中立無私の義務や使命、あるいは世間的な道徳観・倫理観よりの逸脱を試行/
志向するのか。
この疑問を考察する上で避けて通れないのが、やはり先にも見た出版規制の 問題であるが、それ以前の議論として、『キャリー』という作品が、作者ドラ イサーにとって甚だ共感をせずにはいられない内容・設定になっている点を、
まずは見ておく必要がある。
「ドライサーの最初の小説[『キャリー』]は、不思議なまでに個人的な事情
に関連していた。彼は自分をキャリーとハーストウッドの双方と同一視してい
た」(58)と指摘するリチャード・リーハン(Richard Lehan)は、作品と作者
との個人的な結びつきをさらにこう述べている。
キャリーとハーストウッド、この二人の物語は個人的なものであり、また 表象的なものである。ドライサーにとって個人的というのは、つまり彼は
[姉]エマ〔Emma〕と[彼女と駆け落ちした]L.A. ホプキンス〔Hopkins〕
の物語を語っているからであり、表象的というのはつまり、それ[『キャ リー』]は憧れと欲望、弱さと強さ、努力と野望、成功と失敗の物語だか らである。(56)
確かに、伝記的事実を参照するならドライサーは、姉のエマとホプキンスとい うバー店員の駆け落ちを、『キャリー』におけるキャリーとハーストウッドの 物語の下敷きとしている。よってそうした私的な事情をいわば焼き直した彼ら の物語に、必要以上に作者が(無)意識的に肩入れしてしまうのは、十分あり 得ることである。そうしてその作者の傾斜に巻き込まれる形で、語り手の語り もまた本来の領分を逸脱するのではないか。
暫定的な見取り図として、作者と語り手の構図を押さえるなら、物語を創造
/想像する絶対者的な存在が作者ドライサーであり、その物語を作者に成り代 わって語る役目を担うのが語り手であるということになる。さらに今一歩踏み 込めば、すなわち欲望の抑圧と逸脱の間で揺れる人物を描くその意志は、作者 のものであり、その逡巡や葛藤を語り、時に客観の役目を放棄しても攻撃、批 判するのは(作者のそれを代行する)語り手の意志ということになる。したがっ てそのようなプライベートな事情に突き動かされた作者と、その意志や欲望が、
語りの質を左右していることは確かである。
だが、そうした表層的、あるいは構造的な事情に留まらず、ルーハンの引用 の後半部が示唆するようにドライサーは、自身のジャーナリストとしての経験 からも作品にただならぬ共感を催している。T・J・ジャクソン・リアーズ(T.
J. Jackson Lears)の論を引用するなら、「ドライサーにとっては常に、都会は 願望の中心地であり、またどんなに奥ゆかしい欲望でさえその充足を図らずに はいられない場所であった」(69)という。いわば欲望いう名の汚濁にまみれ た都会の中で、夢や野望を抱かずにはいられないキャリーやハーストウッドに、
ドライサーはエマ(とホプキンス)に寄せたような親族的な共感感情のみなら
ず、一層痛切な自身の経験より発露する親近感に誘われ、彼らに寄り添うので
はないか。
ロバート・H・イライアス(Robert H. Elias)はこう述べる。
キャリーは少年期のドライサー─外の世界に幻想を抱いて夢を追い、そ の本質を決して理解しない─を体現している。災難から逃れられない ハースウッドは、少年時代のドライサーの恐怖が具現化した存在である。
……キャリーのキャリアが人の夢を実現することの不可能性を訴えるもの であるのに対し、ハーストウッドのそれは、あらゆる夢が断ち切られた人 生の恐怖を例示している。(109)
田舎を捨て、都会での夢と可能性をひたすらに信じる彼女の憧憬にも似た欲望 と、そこで自らの欲望のために破滅してゆくハーストウッドの恐怖は、『キャ リー』を執筆するよりも以前、ジャーナリストであった頃のドライサーが、否 応なしに直視させられた現実であったとも考えることができる。
作品において、卑俗な言い方をするなら「勝ち組」と「負け組」を瞭然と隔 てるものの象徴として第 43 章の表題にもなっている “The walled city”(城壁を めぐらせた都市) (239)という言葉が何度か見られるが、アラン・ムカジー(Arun
Mukherjee )は「……単に田舎の対照としての「都市」ではなく、むしろ都市
そのものの特別な一部分、すなわち富によって生み出され、同時にその富を占 有する特権的な一部分を、それは意味するのである」 (118)と規定し、ドライサー が都市に抱いた幻想と現実の痛ましい相剋をここに見ている。実際、詳細な検 討は次章で行うが、ニューヨークで没落してゆくハーストウッドもまた、往年 の栄華や自分を捨てたキャリーをその屹然とそびえ立つ「城壁」の内にある存 在と見て、ただただそこと自身との決定的な隔絶を痛感している(241 , 328)。
岡崎清が、ドライサーが作品の登場人物に寄せる共感を「突き放した冷たい それではなく、[ドライサー]自身のシカゴ、ニューヨーク体験を重ねながら 到達した、……悲しい共感」(岡崎 17)と定義しているように、このような私 的な経緯が相乗し、作者とその意志に牽引された語り手は、多分に作品におけ る欲望する人物に、寄り添わずにはいられないのである。つまり言い換えれば、
前提として『キャリー』は作者ドライサーにとって個人的な結びつきが強固で
あるがため、半ば必然的に彼と語り手は、作品の登場人物へ傾斜を余儀なくさ
れるのである。
2.共犯する語り手と作者
だが、その傾斜は当然のことながら、既にみたような不道徳な欲望と遭遇す ることとなりここに、先に言及した出版規制の問題が重くのしかかる。繰り返 すと『キャリー』は出版当時、その存在がほとんど黙殺され、同じ自然主義作 家の「[フランク・]ノリスが 127 部の書評を送ってまわる役目を引き受けて いなかったら、作品[『キャリー』]はおそらく完全に世間の注目を逃してしまっ たことであろう」(Brennan 90)と、ノリスの好意的宣伝活動のおかげでかろ うじて売れたと言われるほどに、苛烈で不当な抑圧を受ける。つまり、個人的・
境遇的な事情によって本来の責務から逸脱し、語りの傾斜を志向/試行するこ とは、道徳上の逸脱行為と同義でもあるということである。この事実を、ドラ イサーと語り手は突き付けられ、それにより彼らの執筆や語りの欲望は抑圧さ れる。
執筆の抑圧に関してルーハンの言葉を再度拝借すると、「ドライサーは、最 初に作り上げたキャリーという人物 ─無垢な田舎娘とは程遠い男たらし
─に修正を加えないと、『シスター・キャリー』を出版するのは困難だろう と予見していた」(60)という。実際に、『キャリー』は、ドライサーがさま ざまな出版規制の問題を解消すべく本来の原稿に加筆修正を施したノートン
(Norton)版と、そうした訂正を除去し、限りなくオリジナルに近いものを再 現したペンシルヴァニア(Pennsylvania)版、この二種類が今日においては並 存している。塚田麻里はその二つエディションにおける相違を、キャリーのセ クシュアリティを基軸に以下のように解析している。
……ノートン版のキャリーは性的な事柄に関して、無知無関心である。と いうのも彼女は、男性と性的な関係を築こうとしないし、官能的な魅力あ ふれる自身の肉体を活かそうともしないからだ。
ペンシルヴァニア版のキャリーが自身の性的な魅力に無知でないことは明 らかである。彼女は、自分の肉体[が男性に及ぼす影響力]にも意識を払っ ている。なぜなら彼女は承知の上で己の性的な魅力を活用しているからだ。
(Tsukada 59-60, 62)
なるほどこの論考より、訂正後のノートン版と訂正前のペンシルヴァニア版と
における重大な差異
(7)の一つは、キャリーの性にまつわる欲望の描き方にあ ることが判明する。事実、ペンシルヴァニア版は第 29 章において、ハースト ウッドに強引にシカゴを連れ出された際、前途の不安を募らせつつも、“ Also the physical claims its own ”(肉欲もまたそれなりに充足を求めるものだ) ( Penn SC 293)と注釈されるべきキャリーを描く。これはノートン版には無い一節で あるが、「キャリーがハーストウッドにしたがう動機には性欲も関与していた と示唆している」(村山 訳注(下)460)。
その一方で、対照的にノートン版の彼女の異性関係は「恋愛的というよりは 友愛的なもの」(Witemeyer 240)に変貌し、「性への過度な無頓着さ」が誇張 され、元来の性的欲望(の表象)は後退している。しかし、たとえ半ば隠蔽さ れてもなお、そうした欲求は秘かに脈動している。例えばドナルド・パイザー
(Donald Pizer)によって「彼女[キャリー]がドルーエと駆け落ちしたこと に対する伝統的な見方を象徴的に表したもの」(Pizer, The Novels 58)と定義 されるミニーの夢─「そこで……キャリーは地獄あるいは奈落の底に落ちて ゆく」─について、ジョセフ・チャーチ(Joseph Church)は、「キャリーの
[性的な]魅惑を[ミニーの夢という]劇的な形で描くことで、ドライサーは『シ スター・キャリー』に当初より付き纏った検閲のいくつかを掻い潜ることがで きた」(184)と指摘する。つまり、明示的で決定的な場面が無いからといって キャリーが異性と性交渉を持たなかったわけでは無論なく、むしろドライサー は夢という文学的な心理現象を担保とすることで、疑似的な性描写を隠然と敢 行している点を見逃してはならない
(8)。
ともあれ、そのような形で性の表象を弾圧しなくてはならない事情の下、ペ ンシルヴァニア版とノートン版との間で、キャリーの変質が見られるというこ の事実より、元来あった彼女の(性的)欲望が道徳的検閲の下において抑圧・
矯正されたのは間違いない。
また、このようなセクシュアリティの次元だけでなく、前章で見たような登 場人物の言動を正当化・弁護する語りも、抑圧の対象となったのではないか。
ノートン版には無い擁護の語りとして、例えば 10 章には、“[…] whoso is it so noble as to ever avoid evil, and who so wise that he moves ever in the direction of
truth? ” (Penn SC 91 ) (……だれがいったい、いつも悪を退けるほど高貴であろ
うか。だれがいったい、いつも真実へまっすぐ進んでいけるほど賢明であろう か)と、良心の呵責に苛むキャリーの味方をする反語表現が見られる。
その後の 11 章では、“Trite though it may seem, it is well to remember that in
life, after all, we are most wholly controlled by desire. […] Desire is the variable wind which blows now zephyrlike, now shrill […].”(陳腐な話に聞こえるかもし れないが、結局のところ人生において私たち人間の大半は終始欲望に支配され ているということは、覚えておくべきである。……欲望とは、ちょうどある時 はそよ風のよう穏やかに、そしてまたある時は疾風のように激しく吹く……き ままな風なのだ) (Penn SC 97)と欲望に汚染されつつあるキャリーを守るべく、
かなり積極的に弁論を行い「間接的に情状酌量を訴えている」 (村山 訳注(上)
467)。
このようにノートン版においては削除されている箇所が、ペンシルヴァニア 版にはおいては復活している。そうしてそれらの分析により上で見た除外され た、抑圧にさらされた語りが、やはり登場人物の(不道徳な)欲望を擁護する 類のものであったことは重要な意義を持つ。
すなわち、これらの議論は登場人物たちの抑圧と逸脱に揺れる欲望を語る語 り手と、検閲の事情で本来の執筆を抑圧された作者ドライサーを、ことのほか 密接に結び合わせることになるのではないか。つまり、その旺盛な執筆欲で有 名なドライサーにとって、自身の描きたいと思う作品と、そこに立ち現れる欲 望が諸般の都合から阻止されたことで直面した抑圧感が、語り手の語りに投影 されたのだ。それによってその語りの質はここまで追跡してきたように、それ がやはり道徳的観点より抑圧される登場人物に寄り添うものとなり、同時に個 人的・経験的事情から発現する共感作用も共闘することとなる。その結果、欲 望に忠実な擁護や同一化現象と、道徳に従順な中立と批判との間で、激しく立 場が動揺・振幅するのではないだろうか。
「道徳の曖昧さという感覚が、 『シスター・キャリー』の中核を成している」 (24)
と言ったのはロバート・ペン・ウォレン( Robert Penn Warren )だが、これを 深く突き詰めれば、語り手の語りが不確定なのは、欲望する人物に寄り添わず にはいられない自身の逸脱的欲望が、ひとつには語り手としての中立性が要請 される手前、またもうひとつには世間的な道徳の手前、抑圧・抑制されるため である。
その抑圧された欲望が最大規模で解放されるのは、おそらく終章、物語の幕
切れにおいてである。ペンシルヴァニア版の『キャリー』、すなわち本来の『キャ
リー』は、ハーストウッドがガス自殺をする場面(Penn SC 499)で作品が完
結する。だが、ノートン版ではそこに新たな語りが付され、語り手は “Oh, the
tangle of human life! How dimly as yet we see” (368)(ああ、とかくこじれる人
生!その正体はまだおぼろげにしかわかっていない)と突如感傷的になり、結 びの部分では “Oh, Carrie, Carrie! Oh, blind strivings of the human heart!” (369)
(ああ、キャリーよ、キャリー!ああ、見境ものなくあがき求める人間の心よ!)
と、熱烈な勢いで彼女に傾斜している。ジョセフ・ K ・デイヴィス( Joseph K.
Davis)は「その[最終章の語りの追加という]変更により彼[ドライサー]は、キャ リーと彼女の不幸を強調する形で物語を終わらせることができた」(455)と指 摘する。もちろん、そのような抒情的・余情的な戦略や意義もあるだろう。し かし、本章の議論を踏まえるなら、最後の情熱的な語りは語り手/作者の抑圧 が一挙に解放されたと見ることができる。つまり、一応彼女が不幸・不満足で あるという担保を残存させつつも、同時にそれを唯一の突破口にするかのよう にして語り手は抑圧された語りの欲望を解き放ち投擲している、と解釈するこ とは決して強弁ではないはずだ。
以上に分析してきた通り、作品において不道徳な欲望を孕んでしまう登場人 物に共感的な語りを提示せずにはいられない語り手は、とりもなおさず自身の そうした逸脱的な語りを決行させようとする作者ドライサーの抑圧からの解放 の力学に、多大なる影響を受けている。いわば語り手と作者の共犯関係は、反 復するまでもないだろうが、ことのほかその両者の同義性を承認する従来の解 釈を裏書きするものとなる。
Ⅲ.ジェンダーと資本主義に対する語り─演劇とストライキの行方
1.スト破りと舞台女優の定位
前章では、作品における欲望に寄せられる語りの性質・立場の不確定性を、
そうした欲望と同様に道徳的な経緯より抑圧されつつも、そこへ傾斜してしま う作者ドライサーの逸脱心理とその動揺として分析した。本章はその中でも特 に、先にその枠組みを見ておいたジェンダーと資本主義に関係する欲望を取り 上げる。
具体的には、まずキャリーとハーストウッドのジェンダー構造が、シカゴか
らニューヨークへ渡って以来、次第に反転の様相を呈してくる様を、彼らの生
活態度・経済事情を通じて把捉し、そのような逆転現象が生じる背景として資
本主義に下支えされた欲望を改めて議論する。そして、二人のジェンダー関係
が混乱する過程において、彼らが手にした舞台女優とスト破りという、やはり
資本主義と密接に関連する職業にフォーカスし、先の作者と語り手の同義性を 巡る論考を深化させる。
しかし、そもそもスト破りや舞台女優に限らず、およそこの世における労働 行為はおそらくみな何らかの形で資本主義という大枠に収斂され得るものであ る。だが、ここで敢えてその二つの職種に議論の対象を絞るのは、それらが単 に作品においてジェンダー攪乱に寄与するという戦略的企図のみからではな い。
すなわち、例えばキャリーが参加するような演劇は、第一義的には男性の観 者が女性の演者に欲望的眼差しを差し向ける構図を提示するが、そこには演じ るという労働が観るという欲望を媒介に購買される、言い換えれば需要者であ る男性と供給者である女性との相補性作用が蠢動していて、いわば資本主義的 な力学が確かに存在している。それだけでなく、ちょうどキャリーが給料を出 納係より渡される場面(334)─高給取りのキャリーにはその出納係は好意 的だが、そうでない者にはすこぶる冷淡である─を見れば明らかなように、
成功者と非成功者の隔絶・格差が歴然かつ極端である。そうした側面から資本 主義の弱肉強食性が、とりわけ鮮明に逆照射されると言えるのではないか。
またスト破り関しても、その職が成立する前提として、資本主義の発展が必 然的に直面せざるを得ない強者たる資本家/経営者と、弱者たる労働者の軋轢 を中核とした設定である。そしてその職務内容は、本来後者の側の人間であり ながらも前者の手先として、二者間の対立を一方的に打開するべく都合良く利 用され、同時にその背信的行いを許さないだろう後者の人々に悪辣な態度を 以って報いられるという意味で資本家や、さらには労働者よりも劣位に置かれ るすこぶる弱い存在である。
つまり、スト破りと舞台女優を特に資本主義的なものとして見るその根拠は、
両者の弱者性(との密接さ)にある。多少先取り的な理解を示すなら、ある者 はそうした脆弱な立場・境遇が必然的に招く破滅に至り、またある者はそうし た位置にありながらも成功を勝ち取ることとなる。その足跡を以下では分析す る。
2.攪乱されるジェンダー規範
前章でも言及した盗金騒動の末、ハーストウッドは彼女を強引に連れてシカ
ゴを出奔し、ニューヨークへと漂着するが、そこであるアイルランド人と共同
出資してバーを開き、どうにか再び糊口の資を得る。しかし、バーの経営が軌 道に乗り始めるにつれて仕事に傾注し始めたハーストウッドは、次第にキャ リーに以前ほどの注意を払わなくなる。のみならずそうして家に半ば軟禁する ことも、彼女にとって何ら不都合なことではないだろうと、その根拠こそ不可 解ながらも伝統的なジェンダー認識を鮮明に抱くようになる。
[…] he [Hurstwood] began to imagine that she [Car rie] was of the thoroughly domestic type of mind. He really thought, after a year, that her chief expression in life was fi nding its natural channel in household duties.
[ … ]. He felt to attracted to the outer world, but did not think she would care to go along. (222)(ハーストウッドは……彼女[キャリー]はあくまでも 家庭的な気性の持ち主なのかもしれないと思い込みはじめた。 [ニューヨー クに来てから]一年後には、彼女にとって人生の生き甲斐は、主として家 事をこなすことにあるのだと、本気で考えるようになった。……自分は外 の世界へ出ていきたいと思っているくせに、キャリーもいっしょに行きた がっているとは考えなかった。)
家庭の守り手、家事の担い手という鋳型にはめ込まれそこに軟禁される被抑圧 者たる女性と、それを強要する一方で自分は外の世界での労働に勤しむ抑圧者 たる男性とで成る極めて典型的なジェンダー規範に、この時点でのキャリーと ハーストウッドの関係は依拠している。振り返ってみて、この作品におけるジェ ンダーの構図はいずれも伝統的なものである。例えばドルーエが、キャリーに ハンソン( Hanson )家を去り自分の下へ来るよう教唆したのも、男性的な女 性獲得の欲動によるものだし、また先にも触れたがそのハンソン家においても、
働き手である夫スヴェンの意向・意志に妻ミニーはほとんど盲目的に従順であ るなど、『キャリー』におけるジェンダーの様相は、およそ規範と親和するも のである。
しかし、それが作品の進展に、とりわけハーストウッドの衰微に伴って脱構 築されることとなる。第 34 章、共同経営するバーがある事情により閉店へ追 い込まれたハーストウッドは、再び無職の身に転落してしまう。再起を図ろう とするも、バーを開く資金はもはや彼には無く、また年齢的な問題や自身の虚 栄心、さらには不況という景気情勢などの負のファクターが幾重にも堆積し、
一向に新たな職を得ることができない。不甲斐ない彼と彼の抱える苦境がもた
らす鬱蒼とした空気に、キャリーは不安と不満を感じ、ついには(一応)夫で あるハースウッドとベッドを共にしないという形で、反抗の狼煙を上げ始める
(261)。ちょうどルーハンが「ハーストウッドがキャリーを[金銭的に]支え る術を失うと、彼は同時に彼女と寝る権利までも失ってしまう」(60)と述べ ているが、まさしく二人の関係は、資本主義の象徴であり、またハーストウッ ド(のステータス)が保証していた金に裏書きされているに過ぎず、その意味 において伯谷の「作品においてキャリーに真の愛を見せる者は誰一人として いない。そして当のキャリーも、自分以外の誰も愛してはいない」(Hakutani, Young Dreiser 182)という解釈は正しい。
さらに、キャリーの金銭への飽くなき欲求や、資産が底を尽きつつある事実 に恐怖するハーストウッドの姿をもとに、クリストファー・ゲアー(Christopher Gair)がこの作品において「金を持たないことはすなわち、社会において自己 が存在しないも同然である」(165)と指摘するように、金銭がもはや至上の価 値基準として厳然と躍動しており、その作用圏域はジェンダーの構図にまで到 達している。
そして、ベッドを共にしないというキャリーの無言の抵抗は、ついで言葉を 伴うようになる。ある時、以前より親しく付き合ってきたヴァンス婦人( Mrs.
Vance)がたまたま二人の暮らすアパートを訪れ、図らずも変わり果てたハー ストウッドの姿を目撃してしまい、それを知ったキャリーは羞恥心と日頃の鬱 憤から、彼を熱罵する。このシーンで交わされる口論の中で特に重要なのは、
キャリーがハーストウッドに向ける “Why donʼt you get out and look for work?”
(266)(外へ行って、仕事でも探してきたらどうなのよ)という台詞だ。つま りこれまでは、語り手の言葉を用いるなら、“ Being of a passive and receptive rather than an active and aggressive nature ” ( 221 ) (行動的で積極的な気質とい うよりかはむしろ従順で受け身な)状態に徹してきたキャリーが、無言の反抗 のみならず、現実に言葉を伴い男に意見・指図する/できるようになったので ある。
この両者のジェンダー構図の反転を一層鮮明に提示するのは、キャリーが コーラスガールの職を得てまもなくして、ハーストウッドが彼女の買い物を代 行するようになる事実である。厳密を期すと、それより前にも彼はキャリーに 頼まれて食材や日用品を買いに行くことがあった(260)が、こちらはまだ、
彼は自分の金を使っており、なおかつこれ以上キャリーにそれを浪費されない
よう、するためであったため、そこまでジェンダーに関わる深刻性は含んでい
ない。一方、キャリーに少しずつ見放される過程において、ハーストウッドが 自分のではなく彼女の稼いだ金で物を買いに行かされるというこの現象は、ク レア・ヴァージニア・エビィ( Clare Virginia Eby )も指摘するように、まさし く一般に「期待されるジェンダーの役割の反転」(145)に他ならない。
財布が底を尽いたハーストウッドはキャリーに当座の経済支援を申し入れ、
彼女はそれに応じる(291)。しかし、その場面の不穏当な空気は、さながらそ の後の両者の関係を、あからさまではないにせよ予告するようで示唆的である。
すなわち、「他人の厚意によって養われている」(252)ハーストウッドは、仮 にそうしたパトロン的な者に嫌われるようなことになれば、「物乞いになる外 ない」と、幾分一方的ながらも、キャリーやバーの客という(生活)資金提供 者の好意/厚意によってしか自身の地位が保持できない彼の惰弱性を指摘した リチャード・リンジマン(Richard Lingeman)の言葉通りに、彼はその後、路 傍の乞食と成り果てる。
いずれにせよかくして、抑圧者/男と被抑圧者/女の伝統的な男女関係が脱 構築され、その果てに現出したのは女性が扶養者となり男性がその被扶養者に なるという劇的で痛烈なジェンダー逆転の様相である。その過程において、既 にその一部は取り上げたが、キャリーとハーストウッドが就いた職─スト破 りと舞台女優─もまた、結果としてこの現象を加速、深刻化させることとな る。
3.ジェンダー秩序回復への希求