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ウォートンの著述業と建築 : 作家としての自己形 成と家づくり

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成と家づくり

著者 石塚 則子

雑誌名 同志社大学英語英文学研究

号 94

ページ 35‑65

発行年 2014‑11

権利 同志社大学人文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014234

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石 塚 則 子 . . . external conditions provide a window onto the inner life.

Houses tell stories, stones carry the history of civilization, interior furnishings become metaphors of human experience.

(Benstock 69)

はじめに

 イーディス・ウォートン(Edith Wharton [1862-1937])が「気ままな素人か らプロの作家」(“a drifting amateur into a professional” A Backward Glance 209 )1 として本格的に創作に専念し始めるのは,40歳を過ぎて代表作『歓楽の家』

The House of Mirth 1905)を出版してからのことである。今まで出版され た,いくつかのウォートンの伝記では,「プロの作家」としてウォートンが 歩み始める過程について,幼いころからの両親の教育や夫テディ・ウォート ン(Teddy Wharton [1850-1928])との結婚生活に対する違和感からくる心理 的側面がよく論じられてきた。確かに著述業(authorship)を「黒魔術と肉 体労働の間のような仕事」(“something between a black art and a form of manual

labour”)(BG 69)と蔑視するニューヨーク上流社会の中で,抑圧的な母や結

婚生活の重圧がウォートンを創作に駆り立てたことは否めないであろう。し かしながら,精神的抑圧や社会への抵抗という負の力が,ウォートンの作家 への転身の動因として強調され過ぎてきたように思われる。

 さらにウォートン研究において,1880年から1900年ごろまでの作家として の修業時代,つまり初めて商業的成功を収める『歓楽の家』以前のウォート

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ン像について注目されることは少なかった。その頃,詩や短編小説を何度か 雑誌に投稿していたものの,ウォートンが最初の小説『決断の渓谷』(The Valley of Decision)を出版するのは1902年であり,彼女自身,著述家として の自己認識が希薄であったように思われる。「フェミニン・フィフティーズ」

(The Feminine Fifties)と言われる,19世紀半ばに家庭小説を発表して商業的 に成功した女性作家たちとは違って,作品を世に送り出すことを生業とする 経済的必要性はなく,むしろ母親や周りの目を盗んで独りで密かに楽しむ ものとして創作に携わっていたのである。1歳のころ詩人ロングフェロー

(Henry Wadsworth Longfellow)の紹介で『アトランティック・マンスリー』

誌(The Atlantic Monthly)に詩を投稿したとき,いくつか掲載されたものの,

編集者から厳しい批評を受ける。そのときの経験をウォートンは自伝の中で 次のように書いている。

. . . I shrank back into my secret retreat, convinced that I was unfitted to be either a poet or a novelist. I did, indeed, attempt another novel, and carried this one to its close; but it was destined for the private enjoyment of a girl friend, and was never exposed to the garish light of print. . . .

After this I withdrew to secret communion with the Muse. I continued to cover vast expanses of wrapping paper with prose and verse, but the dream of a literary career, momentarily shadowed forth by one miraculous adventure, soon faded into unreality. How could I ever have supposed I could be an author? I had never even seen one in the flesh! (BG 75-76)

ウォートンにとって創作はあくまでも「詩神ミューズとの密やかな交流」で あった。「作家になる夢」は到底実現できないことであり,著述業を蔑視す るニューヨーク上流社会で,「作家」という生身の人間を見たことさえなかっ たのである。

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 6歳の頃から独りで物語を考えて楽しむ“making up”(BG 33)という想像 的営為が,ウォートンの創作の萌芽であることは周知のことであるが,著述 業を意識しはじめるまでにはかなりの経験と年月を要する。メアリー・ス ザンヌ・シュライバー(Mary Suzanne Schriber)は“Edith Wharton and Travel Writing as Self-Discovery”の中で,『歓楽の家』出版後の1907年から1910年が ウォートンの創作や人生において重要な転換期であり,その重大な進路の決 断に旅行記の執筆が少なからず影響していると論じている(259)。確かに,

ウォートンはこの時期に『アトランティック・マンスリー』,『スクリブナー ズ』(Scribner’s Magazine),『センチュリー』(The Century)などの高級文芸 雑誌にヨーロッパでの旅行記を寄せている。一連の記事にはヨーロッパの風 土や文化への造詣の深まりが表れていると同時に,ヨーロッパの建築や庭園 への関心の深まりも明らかである。こうした雑誌に寄稿した旅行記や少しず つ書き溜めた短編小説に先んじて,ウォートンが初めて本として世に出した 出版物は,建築家のオグデン・コッドマン(Ogden Codman [1868-1951])と 共著で1897年12月に発表したThe Decoration of Housesという,内装や家の構 造について論じたノン・フィクションである。本論では,ウォートンが著述 家として成長していく過程を建築との関わりで考察してみたい。ウォートン は,1910年前後にアメリカからヨーロッパに本拠を移すが,その前の数十年 間の間にいくつかの家の建築に関わることで,アネット・ベネート(Annette Benert)の言を借りれば,「建築的想像力」(“architectural imagination” 19)を 醸成し,不安定な精神状況を乗り越えて,「気ままな素人からプロの作家へ」

と変貌していく。その過程を建築との関わりから解き明かすことが本論の企 図するところである。2

 1925年に出版した創作論の中で,ウォートンは小説家にとって,景観が如 何に創作意欲を掻き立てるものであるか,以下のように述べている。「景観 や街や家から得る印象は,小説家にとって常に魂の歴史の中の一つの出来事 であるべきである」(“The impression produced by a landscape, a street or a house

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should always, to the novelist, be an event in the history of a soul. . .”)(The Writing of Fiction 63)。1870年代のオールド・ニューヨークを描く風俗作家として,

建築のメタファーや居住空間の表象がウォートンの創作の中で重要な役割を 果たしているのはこれまでのウォートン研究の中でもよく論じられてきた。

例えば,ジュディス・フライヤー(Judith Fryer)のFelicitous Spaceがその代 表的な論考である。またソースタイン・ヴェブレン(Thorstein Veblen)が説 く「顕示的消費」(“conspicuous consumption”)の消費者であり,また体現者 としての女性像を,有閑階級の住居やその内装との関連性から読み解く手法 もウォートン論の常套的批評アプローチである。本論では,こうした創作に おける建築のメタファーではなく,ウォートン自身の人生における家や建築 との関わりを,幼少時代から解き明かし,著述家としての自己形成への影響 を考えてみたい。

1 景観に対する幼少期の美的感覚

 ウォートンは,南北戦争のさなか,1862年にニューヨークの上流階級の家 に生まれ,戦後まもなく景気衰退による経済的原因から,4歳から21歳まで の間に通算して8年間を家族とともにヨーロッパ各地で過ごす。1885年に23 歳でテディ・ウォートンと結婚したのちも,ほぼ毎年数カ月間を,夫とヨー ロッパで過ごし,やがて第一次世界大戦直前にヨーロッパに居を移し,1937 年に75歳で亡くなるまでに「70回以上」(Bentley 150)は大西洋を行き来し たという。こうした移動や旅行を多く経験することで,ウォートンは大西洋 の両岸の文化に微妙な距離感を生涯もつことになるが,その一方で様々な建 築物に対する関心や知識を醸成し,その知見を自らの住居や庭園の設計や内 装に生かすことで,建築と生涯関わることになるのである。

 第一次世界大戦後大きく変貌するヨーロッパで,60歳を過ぎたウォートン は,自らの半生を振り返って自伝『顧みれば』(A Backward Glance 1934)を

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出版する。その中に採録した写真と同様に,その内容はかなりウォートン自 らが選別したものである。自伝の始まり,つまり自らの人生をどのように ウォートンは語りはじめるのかを考えてみたい。

 冬のよく晴れた日に,やがて成長して「私」になる,まだ何もわからな い「個性のない」(“anonymous”)女の子が父親と散歩に出かけるエピソード で,自伝は始まる。それは,自分という存在について記憶している「最初の こと」であり,自我の芽生え,「アイデンティティの誕生」と位置付けてい る(“The episode is literally the first thing I can remember about her, and therefore I date the birth of her identity from that day.” BG 1)。「背が高くハンサムな」父親 との散策についてウォートンが語るのは,特に新しく買ってもらった帽子の ことである(BG 2)。とても綺麗で洒落ていて,服飾の重要性や「女性とし ての自我」(“feminine me”)意識が幼い少女の心に芽生えたことが視覚的に 語られる。そのエピソードとともに書かれているのは,ブラウン・ストーン(褐 色砂岩)のテラスハウスが「耐えがたいほど単調に」(“a desperate uniformity of style”)両側に建ち並んでいる,「平穏で平板な」(“placid and uneventful”)

五番街の景観であり,3歳の女の子と父親との冬の散策の背景となっている

(BG 2)。この五番街での散歩とともに幼い記憶に残っているもうひとつの エピソードは,父方の叔母のエリザベス(Aunt Elizabeth)のラインクリフ

(Rhinecliffe)と呼ばれる屋敷(図版1)を訪れたときのことである。そこで オオカミの怖い夢を見てしまい,その夢の原因が「耐えられないほど醜い」

屋敷(“its intolerable ugliness” BG 28)のせいだという。その屋敷はハドソン 川沿いにあるゴシック建築の家で,不気味で陰鬱な印象を幼いウォートンに 与えたのであった(Benert 20-21)。

 こうした幼少期の記憶を通して,二つのことに注目したい。ひとつは,昔 から「視覚が鋭敏」(“My visual sensibility must always have been too keen”)で,

室内や家屋を「写真のように記憶」(“photographic memory” BG 28)すること ができるため,幼児期の記憶が建築に関連付けられていることである。叔母

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の家の記憶にみられるように,特に美しくない部屋や家に対してごく幼いこ ろから「言葉で表現できない精神的苦痛」(“inarticulate misery” BG 28)を感 じていたという。もう一つは,この叔母の屋敷にまつわる苦い記憶が,4歳 のころから始まるヨーロッパでの滞在によって上書きされると同時に,ヨー ロッパへの憧れの対抗軸として,アメリカの醜い建物や単調な景観が二項対 立的な印象として刻み込まれたということである。文学や創作に目覚める前 の幼い時期,ウォートンにとって視覚,特に建築や景観に対する鋭い美意識 が涵養されていたことを,ここで注目しておきたい。

 自伝の中で,ヨーロッパから戻ってきたとき(おそらく「10歳のころ」“Life

and I” 1080),故郷アメリカの第一印象として目にした景観のあまりの「醜さ」

に落胆し,次のように語っている。

Out of doors, in the mean monotonous streets, without architecture, without great churches or palaces, or any visible memorials of an historic past, what could New York offer to a child whose eyes had been filled with shapes of immortal beauty and immemorial significance [in Europe]? One of the most depressing impressions of my childhood is my recollection of the intolerable ugliness of New York, of its untended streets and the narrow houses so lacking in external dignity, so crammed with smug and suffocating upholstery. How could I understand that people who had seen Rome and Seville, Paris and London, could come back to live contentedly between Washington Square and the Central Park? What I could not guess was that this little low-studded rectangular New York, cursed with its universal chocolate-coloured coating of the most hideous stone ever quarried, this cramped horizontal gridiron of a town without towers, porticoes, fountains or perspectives, hide-bound in its deadly uniformity of mean ugliness, would fifty years later be as much a vanished city as Atlantis or the lowest layer of Schliemann’s Troy, or that the social organization which that prosaic setting had

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slowly secreted would have been swept to oblivion with the rest. (BG 54-55)

自伝執筆時にはニューヨークはすでに大きく変貌してしまっているが,1870 年代初頭のニューヨークはウォートンの記憶の中では,ヘンリー・ジェイム

ズ(Henry James)のアメリカ文化に対する失望を語った,有名な『ホーソー

ン論』の一節を想起させるような,歴史や美的感覚が欠如した,雑駁な景観 として印象深く残っている。「塔や柱廊式玄関や噴水」などが全くなく,た だ単調で「格子状に狭苦しく建てられた」チョコレート色の建物の街は,パ リやロンドンやローマといった歴史ある伝統の街で暮らしたウォートンに とって「耐えがたい醜さ」なのだ。さらに,ジェイムズと違って,ウォート ンは家の内装にも言及し,当時流行っていたヴィクトリア朝風の「独善的で 息が詰まるような」カーテンやクッションで華美に飾り立てられた室内に対 する嫌悪感も明言している。こうした建築や内装についての幼いころから研 ぎ澄まされた美的感覚は,ヨーロッパとの比較で浮かび上がってくる,アメ リカの都市景観に対する幻滅とともに,ウォートンの脳裏に刷り込まれたの である。

2 結婚と家探し

 11歳のころ,ウォートンは “making up”,つまり想像しながら物語を即興 で作ることから,実際に文字化することに興味を持ち始める。自伝の中で,

その最初の試みについて述べている箇所がある。内容はやはり「両親の日 常の生活」をなぞったものであり(Lewis 30),客間にまつわる物語である。

突然の知人の訪問を受けて,客間が整頓されていないので当惑してしまうと いうエピソードで始まる,その書き出しを母ルクレチア(Lucretia)に「おそ るおそる」見せると,「客間というのは常にきちんとしているものです」と

「冷たく」一喝され,それ以降しばらく物語を書くのをやめて詩作に転向し

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たという(“Timorously I submitted this [my first attempt] to my mother, and never shall I forget the sudden drop of my creative frenzy when she returned it with the icy comment: ‘Drawing-rooms are always tidy.’” BG 73)。この挿話は,当時のニュー ヨーク上流階級の女性の生き方には相容れないものとして,ウォートンの幼 いころからの想像力や創作への関心を,母親が冷酷に無視し抑圧することを 物語る有名なものである。偶然とはいえ,創作をめぐる母娘の軋轢の萌芽期 に,客間という室内空間が関わっていることは興味深い。

 これまでの伝記作家たちが明らかにしているように,ウォートンにとって は,母親と結婚生活のそれぞれからどのように自立していくかが,作家とし て成功するための大きな課題となる。1885年23歳のときにテディ・ウォート ンと結婚したことは,親からの自立の契機であるとともに,自らの家庭/家 をつくることを意味する。ウォートンは自伝の中で,結婚の意味は「自分の 家庭を築くこと」(“to create a home of my own” BG 90)であると述べている。

“our own”ではなく,“my own”という表現に,親の家からの離脱の意味が込

められているように思われる。1913年に正式に離婚するまでの30年足らずの 結婚生活は,決して順風満帆ではなかった。しかし,その一方で,一人の人 間として,また作家としての生き方を模索し,その軌跡はウォートンにとっ て「理想の家(home/ house)探し」と重なるのである。 

 ウォートン夫妻は結婚後一軒の家に落ち着くことはなく,季節ごとに ニューヨークとニューポートとヨーロッパ旅行(主にイタリア)というサイ クルで移動を繰り返す。新婚当初は母親(父親は1882年に死去)のニューヨー クの家とニューポートのPencraig Cottage(図版3)に住んでいたが,親戚の 遺産を相続したことで,1891年ニューヨークのパーク街の家と1893年ニュー ポートのLand’s End(図版4)を購入する。さらに,1901年にマサチューセッ ツ州のレノックス(Lenox)に土地を購入し,ウォートンにとって人生の転 換点となるThe Mount(図版5)の設計に関わり,1902年に完成させる。3その 後10年間,アメリカでの拠点はこのThe Mountになり,ウォートンに後年大

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きな影響を与える,コスモポリタンな友人との親交を深める。例えば,ヘン リー・ジェイムズが21年ぶりにアメリカを訪問した折,The Mountを訪れ,『ア メリカ印象記』(The American Scene)を執筆し始めたという(Lee 202)。ま た初めて商業的成功を収めた『歓楽の家』を,出版社からの要請で雑誌の連 載に間に合うように,それまでにない集中力で執筆したのもThe Mountであ る。作家として,また一人の人間として理想的な環境を,この「最初の本当

の家」(“my first real home” BG 125)の設計段階から関わることで構築したの

である。しかしながら,結婚生活の破綻が明らかになると,1912年にウォー トンはThe Mountを売却し,フランスに居を移すことになる。

 結婚を契機に両親の家を出てから,ヨーロッパに渡るまでの20余年の間に,

ウォートンは5軒ほどの家を購入したり改装したりする。結婚後のこうした 一連の「家探し/家づくり」で,幼いころからの美的感覚を生かして自分に とって居心地の良い空間を作ることを模索し,それがやがて作家としての環 境づくりにつながっていく。つまり,ウォートンの建築に対する関心の深ま りは,幼いころからの経験やヨーロッパで得た知識や美意識を端緒に,結婚 後の住居づくりという実体験で,印象から理論へと深化していく。さらに,

こうした建築への関心の深まりが,時間や労力を創作に傾注する時期と重な る。創作と建築は,一見全く違う創造的営為であるが,ウォートンの場合,

それぞれに対する関心と熟練が双方にいい刺激となり相乗して,著述家とし ての自己意識や才幹を陶冶していくことになるのである。

3 Pencraig Cottage

 ウォートン夫妻は,結婚してすぐに一時ニューポートにあるPencraig(図 版2)に仮住まいをする。ここは父親が1861年に夏の別荘として購入し,

ウォートンがヨーロッパから戻った1870年代初頭からの10代の時期を過ごし た場所である。ヨーロッパのホテルでは窮屈な思いをし,またニューヨーク

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では両親が社交に忙しく,住居自体も十分な空間がなかったため,幼いウォー トンにとってニューポートは,自然に触れテニスやアーチェリーなどを楽し むことができる居心地のいい場所であった(BG 79-80; “Life and I” 1082)。そ の一方で,Pencraigの家自体は母がすべての内装をヴィクトリア朝風に装飾 したため,「暗く重い雰囲気」(Somers 47)であった。ウォートンにとって,

母が装飾した部屋の代表的なものが,ニューヨークの両親の家の客間(図版6) である。そこは幼いころからのウォートンの記憶にある,息が詰まるような 装飾華美な空間であり,心理的圧迫感を感じるオールド・ニューヨークを象 徴する空間なのである。

 Pencraigの外観(図版2)は「当時流行していたクィーン・アン様式のヴィ

クトリア朝風カウントリーハウス」(Somers 46)である。内装はすべて母の 嗜好で,ヴィクトリア朝風に華美な装飾とややコロニアル風の家具を合わせ たものだ。客間はニューヨークの住居(図版6)と同様,重厚なカーテンや ベルベットのダマスク織,「詰め物と張り地で張りぐるまれた(overstuffed) 家具,巨大な壺や観葉植物,大きなテーブルと壁には大きな肖像画」(qtd. in

Somers 47)などを設えていた(図版7)。日射しは分厚いカーテンに遮られ,

様々な飾り物が置かれ,華美で装飾的で,ウォートンの表現では「息が詰ま るような」(“suffocating”)内装であった。

 しかしながら,短い仮住まいのあと,ウォートンたちはこのPencraigと 同じ地所内にあるPencraig Cottage(図版3)を「自分たち[夫とイーディス] の趣味に合わせて」(BG 90)改装し,結婚生活を始める。自分の家として Pencraig Cottageの改装に関わる際に,ウォートンが留意したことは“simplicity, comfort and utility”(Somers 51)であり,また室内装飾スタイルの統一性(Somers 52 )であったという。こうした点は,母の作り上げた空間に対する反発と,

当時ニューポートに豪奢な邸宅を構える新興成金(nouveau riches)4 の華美 で壮大な建築や社交への反感とそこからの逃避であった(Somers 54)。シャ リ・ベンストック(Shari Benstock)は「紫のブロケードを用いたフランス第

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二帝政様式の母親の客間の過剰さを拒否して,優雅でシンプルで明るく風通 しの良い空間を作った」(61)と述べている。またハーマイオニ・リー(Hermione Lee)も伝記の中で同じく「重厚なモスリンのカーテン」を外して,「明るい 色のカーテン」に変えたと述べている(126)。両親の家Pencraigの玄関(図版7) の装飾,壺や観葉植物やきらびやかな額縁にはめられた肖像画などに比べて,

Pencraig Cottageの客間(図版8)の明るいカーテンやより洗練されたシンプ

ルな家具による統一感は対照的である。壁を飾っている絵画も,肖像画では なく,落ち着いた風景画である。床には重厚なカーペットではなく,いくつ かのオリエンタル風の小さなラグが置かれている。こうした母の作り上げた ヴィクトリア朝風の空間からの離脱は,母への反発だけではなく,自分が生 まれ育ったオールド・ニューヨークの価値観や習慣,そして期待される女性 像への抵抗がその底流にある。

 この頃のウォートンは住環境への関心もさることながら,幼いころ訪れた ヨーロッパの遺跡や建築物に対して新たな関心を抱き,知識を涵養するよう になる。新婚当時の「もっとも愛すべき仲間は書物」(BG 91)であったとい う。一年のうち,6月から2月をPencraig Cottageで過ごし,残りの数カ月はイ タリアを中心にヨーロッパで過ごす(Lewis 54)。やがて結婚生活に対する 違和感や不満を,ヨーロッパ旅行とイタリア,特に建築への興味に昇華させ ていく(BG 91)。また建築史の専門家であるジェイムズ・ファーガソン(James Fergusson [1808‐1886])著のHistory of Architectureが,そのころの“Awakeners”

(BG 91)のひとつであった。古代バビロニアから現代にいたるまでの建築 史の著作は「驚くべき革新」(“an amazing innovation”)であり,「古代建築 の美しさに対する今までのおぼろげな感覚に,的確な歴史的技術的示唆を 受け,その結果,視野が広がった」(“It shed on my misty haunting sense of the beauty of old buildings the light of historical and technical precision, and cleared and extended my horizon . . .” BG 91)と述べている。ルイスは明言を避けてはい るものの,夫テディとの不和から,イーディスは性的フラストレーション

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の代補として,ヨーロッパ旅行(イタリア熱)や建築への関心に傾倒して いくことを示唆している(54)。確かに結婚生活に対する精神的不安定が誘 因となって,イタリアへの関心が高まったが,その基盤にはラスキン(John

Ruskin)の著作を手引きに,父親とともにローマなどの古代遺跡を訪ねた幼

いころの経験(BG 3; Lee 7)と建築物に対する生来の鋭敏な感覚がある。ま た建築や歴史に関する読書は,幼いころの乱読とは違って,結婚後に友誼を 深める,様々な教養ある友人たちからの刺激も手伝って,「洗練された知性」

(“a cultivated intelligence” BG 92)として蓄積されていったという。

4 Land’s End

 ウォートンはPencraig Cottageに続いて,1891年に母親の西25丁目の家か らかなり離れたニューヨークのパーク街に家を19,670ドルで購入し(Lewis 67),オグデン・コッドマンの助言を受けながら改築する(図版9)。しかし,

この2軒の家の改装よりも,1893年にニューポートのLand’s Endという家付 きの土地(図版4)を購入することで,さらに熱心に家づくりに関わること になる。リーの言を借りれば,Land’s Endは本格的に「ウォートン自身の環 境を形づくる最初の機会」(“the first opportunity to shape her own environment”

126)となり,建築への造詣を深め,内装や間取りについて多くを学ぶこと になる。5

 Land’s Endに家を建てるまでにはいくつかの条件が整わなければならな かった。まず財源の確保である。当時としては珍しいことに,夫テディより もイーディスの方が財力の点で主導権を握っていた。イーディスは1883年に 父が亡くなると,2万ドルと年間8‐9,000ドルの賃貸料が入ってくる土地を 相続し,1888年には大叔父のジョシュア・ジョーンズ(Joshua Jones)の遺 産として約12万ドルが転がり込むことになる(現在の200万ドル相当 Chase 147)。こうした財源を活用し,母親が住むPencraigからさらに遠く離れた,ロー

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ドアイランドの海沿いで大西洋が一望できる土地(家付き)を8万ドルで購 入する(Lewis 68)。

 またLand’s Endの建築に際して,今後のウォートンの人生に大きな影響を 与える人物と出会い,建築への関心や知識を深めるとともに,技術的な支援 を受けることになる。ひとりは,オグデン・コッドマンという「才知に長 けた,ボストン出身の若い建築家」(BG 106)であり,もうひとりはウォー トンの姪であり,後にアメリカの造園家(landscape architect)の草分け的存 在となるビアトリックス・ジョーンズ・ファランド(Beatrix Jones Farrand  [1872-1959])である。コッドマンとは,このLand’s Endの建築からさらにThe Decoration of Housesを出版することになり,晩年まで建築などを介して友好 的な関係を保つ。6 姪のビアトリックス・ジョーンズはやがて1890年代より造 園業に携わり,ごく自然な流れでウォートンのThe Mountの庭園や景観に多 大な貢献をすることになる。7

 Land’s Endの家の外装については,「どうしようもなく醜い」(“incurably

ugly”)とウォートンが自伝で述べているものの,「円形の前庭や高い生垣 を加える」ぐらいに留めて,主に内装にウォートンは「興味深い可能性」

(“interesting possibilities”)を見出し,力を注いだようである(BG 106)。

Codman shared my dislike of these sumptuary excesses, and thought as I did that interior decoration should be simple and architectural; and finding that we had the same views we drifted, I hardly know how, toward the notion of putting them into a book.

We went into every detail of our argument: the idea, novel at the time though now self-evident, that the interior of a house is as much a part of its organic structure as the outside, and that its treatment ought, in the same measure, to be based on right proportion, balance of door and window spacing, and simple unconfused lines. We developed this argument logically,

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and I think forcibly, and then sat down to write the book [The Decoration of Houses]. . . (107)

自分と同じくヨーロッパの建築に精通しているコッドマンの力を借りて,

ウォートンはヴィクトリア朝風の重厚さを取り除き,「シンプルかつ建築の 視点を採り入れた」(“simple and architectural” BG 107)のである。Land’s End の客間(図版10)には,ダマスクの壁や花柄のクッション性の高い椅子,装 飾的な額縁に入った肖像画や彫像などがあり,ウォートンが忌避したヴィ クトリア朝風の内装のようにも見えるが,リチャード・ガイ・ウィルソン

(Richard Guy Wilson)によると,玄関やいくつかの部屋(図版 11)は,当時 ニューポートのベルビュー街(Bellevue Avenue)に続々と建てられた新興成 金の邸宅の内装と違って,シンプルで機能的なものになっていたという(138- 46)。またウォートンがヨーロッパに行くたびに購入した18世紀のイタリア の家具なども搬入されたようだ(Wilson 146)。その後のウォートンの家づく りにも見られるように,常に手を加え費用をかけながら,自分の趣味に合っ た家づくりに励むのである。

 Land’s Endの建築はコッドマンとの協同作業に負うところが大きい。コッ

ドマンはウォートンよりも一つ年下で,ボストンの名家に育ち,幼いころの ほぼ同じ時期に9年間フランスで暮らした経験がある。親族に建築家がいた 関係で建築の道へと進み,ボストンやニューヨークやニューポートなどで,

上流階級の邸宅などを手掛けるようになっていた。ウォートンと同じく,18 世紀のイタリア建築や新古典主義建築を好み,夫テディの家族と以前から親 しかった関係から,ウォートンのニューヨークの家とLand’s Endの改築を依 頼されたのであった(Singley 107)。ウォートンは自伝の中で,Land’s Endの 建築とコッドマンについて以下のように述べている。

My husband and I talked . . . with a clever young Boston architect, Ogden

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Codman, and we asked him to alter and decorate the house—a somewhat new departure, since the architects of that day looked down on house- decoration as a branch of dress-making, and left the field to the upholsterers, who crammed every room with curtains, lambrequins, jardinières of artificial plants, wobbly velvet-covered tables littered with silver gewgaws, and festoons of lace on mantelpieces and dressing-tables. (106-07)

当時,建築家が内装に関わることは,社会的に低く評価されていた。「室内 装飾は婦人服の仕立て業のひとつ」とみなされ,絨毯やソファの布張りなど をする室内装飾業者に任されるのが通例だったので,新進の建築家である コッドマンが室内装飾に関わることは「新機軸」(“a somewhat new departure”

107)であったとウォートンは自伝の中で回想している。当時,建築は男性 の領域,室内装飾は女性の領域というようにジェンダー化されていたが,コッ ドマンとウォートンは,新進気鋭の建築家と建築に関心ある顧客として,協

同してLand’s Endの改築に携わったのである。さらにそれまで建築と室内装

飾それぞれが分業化・専門化されていたが,建築と内装の統一性,つまり構 造と内装の有機的関連性を尊重したことも,当時としては画期的である。従 来は建築家が建て終わった後に,内装業者が床やカーテンなどの調度を整え ていたが,内装について“architectural”な角度から,窓やドアの配置,天井の 高さといった建築物の構造と内装の総合性を重視するようになったのであ る。

 こうした経験を理論化し,オグデンとの共著The Decoration of Housesを 1897年末にスクリブナーズ社から出版する。ウォートンはこの建築と内装の 指南書の中で,特に間取り,それぞれの部屋の役割,その役割に適した内装 などについて詳述している。さらにその理論を5年後にThe Mountにおいて具 現化し,上流階級夫人としての役割とは別に,文筆に専念できる理想の空間 を構築するのである。それはちょうど後年ヴァージニア・ウルフ(Virginia

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Woolf)が,女性が小説を書くためには経済力と自分自身の部屋を持つこと を主張したことと通底する。

結びに

 ウォートンとコッドマンの住環境づくりの協同作業は,ウォートンの私的 な事業に関わるものであったが,ポストベラム期のアメリカ社会に起こった,

建築をめぐる大きな変化とも共振するものであった。1851年に米国建築家協 会(AIA)が設立され,1868年にはマサチューセッツ工科大学(Massachusetts

Institute of Technology)で米国最初の建築学科の課程が設置され,建築という

仕事の専門化が加速される。南北戦争前後から,パリのエコール・デ・ボザー ル(フランス国立美術学校;École des Beaux-Arts)で教育を受けたヘンリー・

ホブソン・リチャードソン(Henry Hobson Richardson [1836-86])やリチャード・

モリス・ハント(Richard Morris Hunt [1827-95])などが建築事務所やアトリ エを開設し,多くの建築家を育て,建築家の職能の発展や組織化を進めたの である。その代表的な建築設計事務所が1874年に設立されたマッキム・ミー ド・アンド・ホワイト(McKim, Mead and White; Charles Follen McKim[1847‐ 1909],William Rutherford Mead [1846‐1928],Stanford White [1853‐1906]) であり,彼らが中心となって,80年代以降には大規模な公共施設や大学関係 の建物や富裕層の邸宅が建てられる。そしてウォートンがLand’s Endを購入 した1894年には,奇しくもシカゴ万国博覧会が開催され,ダニエル・H.バー

ナム(Daniel H. Burnham[1846-1912])らによって、「ホワイト・シティ」と

呼ばれた万博の建物の多くが新古典主義的建築様式で建てられたのである。

こうした新しい建築様式の進化が,さらに世紀転換期には都市美運動(City

Beautiful Movement)に発展することで,都市化が急速に進む世紀転換期の

アメリカにおいて,都市の景観はウォートンの幼少期とは一変するのである。8  世紀転換期には,男性の領域であった建築の分野に女性が少しずつ進出

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し始める。ウォートンが共著という形でThe Decoration of Housesを出版す る前の1890年に,ソフィア・ヘイデン・ベネット(Sophia Hayden Bennett [1868–1953])がマサチューセッツ工科大学建築学科で学んだ最初の女性と して卒業し,シカゴ万博の女性館の建築コンペを勝ち取る。またプロの建築 家として仕事をした最初の女性といわれるルイーズ・ブランチャード・ベ テューン(Louise Blanchard Bethune [1856-1913])が建築事務所を夫とともに 開設したのは1881年である。確かに,ウォートンは建築家を目指したわけで はなく,建築についての研究書としてコッドマンとともにThe Decoration of Housesを出版したわけでもない。しかしながら,都市化が進むアメリカにお いて,ナショナリズムの高揚とともに,建築や景観が進化していく歴史的文 脈で,ウォートンの家づくりという私的な営みを歴史化することもできるの ではないだろうか。ウォートンが審美的に嫌悪した,1870年代のニューヨー クのブラウン・ストーンの醜い景観が,建築技術の進歩やアメリカのナショ ナリズムの高揚とともに20世紀のモダンな景観に変貌していく。ウォートン の空間造形の営みと著述家としての自己形成の過程は単なる私的営みではな く,社会の変化の潮流のなかで再定置してみると,相乗的に「イーディス・

ウォートン」という一人の作家を陶冶することが明らかになる。

 ウォートンは自伝の中でThe Decoration of Houses の出版について,「楽し かったが,作家としてのキャリアの一部とは考えられない」(“The doing of ‘The Decoration of Houses’ amused me very much, but can hardly be regarded as a part of my literary career” 112)と述べている。確かに,建築に関するこの著作は,

小説家としてのウォートンの創作活動とは一見関係のないもののように思わ れるかもしれない。またこの頃,ウォートンは著述家としての自覚もなく,

出版社との交渉事も不慣れである。例えば,詩を創作して雑誌社に送付する 際に,社交のときに使う名刺を添えたり(BG 109),またヨーロッパ旅行以 外に「自分」という存在を感じることはなかったという(“. . . I knew of no other existence, except in our annual escapes to Italy. I had as yet no real personality

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of my own. . .”BG 112)。1890年代のウォートンの自分探しと家づくりについ ては,アリス・キンマン(Alice H. Kinman)が「単純に母親からの自立」だ けでは片づけられない「複雑なプロセス」であると述べている(104)。9 また エイミー・カプラン(Amy Kaplan)はウォートンの著述業を19世紀の文学史 の文脈で捉えて,お上品な男性作家たちのリアリズム小説と,19世紀半ばの 女性作家によるセンチメンタルな家庭小説のどちらにも縛られることなく,

文学市場にうまく進出することで世紀転換期に著述家として成功したと評価 している。10

 ウォートン自身は,まだプロの作家としての自己意識がないこの時期を,

作家としての「奇妙で意外な始まり」(“its odd and unexpected beginning” BG 106)と称している。結婚後の家づくりを通して,ウォートンは単なる住居 という建築物だけではなく,作家になるための環境を構築しつつあったと言 えるのではないだろうか。11レネ・ソマーズ(Reneé Somers)が指摘している

ように,Land’s Endと関わることで,ウォートンは当時のジェンダーの境界

を越え,建築という男性の領域に進出し,さらにその過程の中で,コッドマ ンと最初の本を出版することになる(63)。またPencraig Cottageの改装のこ ろより,ルイ16世様式の新古典的主義の内装についてエガートン・ウィンス ロップ(Egerton Winthrop [1838-1916])に啓発され,彼の東33丁目の家をよ く訪れ,歴史や芸術など様々な知的刺激を受ける。フランス人で小説家のポー ル・ブールジェ(Paul Bourget [1852-1935])とその妻がアメリカ旅行中(主 たる目的はシカゴ万博見物)の1893年にこのLand’s Endを訪れ交流が始まる ことも,ウォートンにとってのちに大きな財産となる。こうしたコスモポリ タンで洗練された教養をもつ男性の友人から知的刺激や様々な助言を受け吸 収していくことは,ウォートンにとって著述家としての才能を開花させるた めの大事な布石となる。

 作家としての修業時代ともいえる1880年代から1900年代までの時期は,母 親からの自立や夫との不和により精神的に不安定に陥ることもしばしばで

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あった。しかしながら,居住空間という物理的な空間だけではなく,コスモ ポリタンな友人たちとの人間関係などに支えられながら,理想の家づくりを 探求することで,やがて社会的認知と商業的成功も視野に入れた「プロの作 家」としての自己を確立するために必要な環境を築いていくのである。The

Mount では,文筆業に勤しめる「自分だけの空間」を構築し,プロの作家へ

と転身を遂げる。ウォートン自らの自己形成と空間の関わりは,やがて創作 の中で個と空間の関係性に反映されて,メタフォリカルなものへと進化して いくのである。

*本論は,京都大学大学院人間・環境学研究科主催の大学院コロキアム(2013 年11月29日 於 京都大学)での講演「ウォートン作品における『家』と ジェンダー・ポリッティクス」の発表原稿の一部を大幅に加筆・修正した ものである。

1 ウォートンの自伝A Backward Glanceからの引用については,本文中の括弧内注記 にBGとして表記する。

2 本論の中で,ウォートンの人生と家との関わりについての伝記的な情報は,

Lewis, Lee, Benstock, Wilson, Craig, Chase, Sarah Bird Wrightなどを参照。また図版に 使用した写真については,ウォートン関係の著作権を扱うWatkins-Loomis Agency の使用許可を得て,the Yale Collection of American Literature, Beinecke Rare Book and Manuscript Library所蔵の写真をイエール大学図書館から取得し転載した。尚,本論 で言及しているThe MountとThe Decoration of Housesがウォートンの創作や著述業 に与えた影響については,稿を改めて論じる予定である。

3 奇しくもThe Mountを完成させる1902年に,ウォートンは最初の小説『決断の渓谷』

The Valley of Decision)を出版する。

4 1880年代は,新興成金の進出により,ニューポートが大きく変貌する時期である。

「金メッキ時代」の新興成金が次々に広大で贅をつくした大邸宅を建築する。その 代表的なものはヴァンダービルト家(Vanderbilt)のブレーカーズ(The Breakers)

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である。コッドマンはウォートンの紹介で,ブレーカーズの内装を手がけた。

5 社交などに差し支えない程度に,できるだけ母親の家から離れたところに家を 構えたとルイスは書いているが,ベンストックは母親の家からの距離の問題で はなく,当時気管支が弱く,その体質改善のために運動を医者に薦められ,セ ントラルパークに近い場所を選んだと論じている(68)。またキンマンによる と,パーク街の家の改築について,コッドマンの役割は「建築に関する」こと だけに限定されていたようで,Land’s End改築の際の内装にまでわたる広範囲の 関与とは異なる(109)。またソマーズもLand’s EndとPencraig Cottageの改築の内 容の違いやウォートンの創作への貢献を以下のように論じている。“Wharton’s transformation of Land’s End was weighted with consequence: it began a process of artistic and intellectual development̶a bold branching-out process―that continued throughout her life. According to Scott Marshall, the decoration at Land’s End was a tremendous step from the far more simple work at Pencraig Cottage and represented a major step toward the philosophies exhibited ten years later at The Mount”(60).

6 1937年6月1日,ウォートンは心臓発作で倒れて,そのヶ月後に息を引き取るが,

倒れたときは,共著の改訂版に取りかかるためにコッドマンのパリ郊外の別荘を 訪問中であった(Lewis 530)。

7 ウォートンの姪ビアトリックスは,母親のミニ・ジョーンズ(Minnie Jones)が 父親(ウォートンの兄 Frederic)と1892年に離婚したのちも,母親とともに生涯 ウォートンと深いつながりをもつ。ビアトリックス・ジョーンズもウォートンも,

女性の領域とは社会的に認知されなかった造園業/著述業に従事し,世紀転換期 のアメリカ社会の中で,商業的にも社会的にも成功する。ビアトリックスはウォー トンのThe Mountの庭園づくりを助けながら,徐々に公共施設の造園に関わり,

1911年にはニューヨークに大きな事務所を構えるまでになる(Manzulli 38-39)。

8 南北戦争前後から世紀転換期にかけてのアメリカの建築史についてはブレイク,

奥出,Gwendolyn Wright, Woods を参照。

9 キンマンはウォートンの母親からの自立としてのThe Decoration of Housesを取り 上げながら,ヴィクトリア朝風の価値観や母親の影響からの離脱ではなく,如何 にそれらをうまく統合していったかを論じている。しかし,ウォートンは結婚後,

特に旅行や家づくりに忙しくなるにつれて,母親と疎遠になっていく。兄フレド リックの離婚をめぐって,ウォートンは1890年前後から母親や次兄ハリー(Harry)

と対立するようになる。1896年に離婚が成立した後,フレドリックとハリーはア メリカを出てフランスに移るが,母親ルクレチアも彼らの後を追って1897年ごろ にパリに移り住むことになる(Lee 81)。ルイスは,The Decoration of Houses出版の頃,

ルクレチアはウォートンの世界から姿を消すことになると述べている(79)。パリ

(22)

に移ってまもなく,彼女は病に伏すことになり,1901年にパリで亡くなる。奇し くもちょうど同じ時期にウォートンはレノックスで土地を購入し,The Mountの建 築に着手するのである。

10 カプランが指摘するように,純文学・高級雑誌は男性作家の領域,道徳的でセン チメンタルな家庭小説は女性作家の領域と,文学市場自体も19世紀半ばにはジェ ンダー化されていた。ウォートンは時代の流れの中で,資本主義や出版業界の構 造変化とともに,男女の領域が流動化する,ちょうど転換期に著述業を確立する のである。拙論を参照。

11 フライマンは,ウォートンのThe Decoration of Housesの中で展開される,家の構 造や内装に関する理論は,単なる住空間についての指南書ではなく,ウォートン 独自の創作と家庭環境(domesticity)を両立する方法論であると論じている。

引用文献

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石塚則子 「世紀転換期の文学市場―イーディス・ウォートンの場合」『同志社アメ リカ研究』(同志社大学アメリカ研究所)第34号(1998): 7-22.

奥出直人 『アメリカンホームの文化史―生活・私有・消費のメカニズム』東京:住 まいの図書出版局,1988年。

(24)

Synopsis

Authorship and Architecture in Edith Wharton’s Apprentice Years

Noriko Ishizuka

Edith Wharton studies has focused on the psychological influence of her mother Lucretia Jones, and on her own failing marriage, when considering Wharton's early development (the period before the publication of The House of Mirth in 1905). Her family background and the social milieu of Old New York indeed repressed her creative imagination and desire to write.

Yet through her rich cultural experience in Europe (accompanied by her family for eight years in total), she was able to cultivate aesthetic principles and visual sensitivity, which later developed into literary and artistic maturity. This paper will discuss the synergetic influence of architecture and the literary imagination on Wharton during her apprentice years as an author.

It appears odd that Wharton’s first full-length book was not a literary work but “a pioneer manual of interior decoration” (in Blake Nevius’s words), coauthored with the Boston architect Ogden Codman. Wharton and Ogden had both traveled extensively in Europe, and their aesthetic sensibilities bear the marks of classical Italian and French architecture. Their collaboration in architecture and interior design at her houses—one in New York and the other in Newport, Land’s End—eventually led them to coauthor The Decoration of Houses (1897). The architecture and interior decor of her own houses-––including another in Newport, called Pencraig

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Cottage––were informed by a broad knowledge of historical buildings and gardens in Europe. The philosophies she developed through her cultural experiences, her own practices, through her study of architecture and landscaping were realized in “her first real home”: The Mount, where she created her own arena for writing and socializing in 1902. This base, which was all her own, marks a significant turning point in her personal and professional development. Here, in a mansion of her own design (in Lenox, Massachusetts), she wrote her first truly representative work The House of Mirth, and felt keenly her transformation “from a drifting amateur into a professional.” In this house, she cultivated lifelong friendships with such cosmopolitan men as Walter Berry, Robert Norton, Paul Bourget, Henry James, and Egerton Winthrop, and achieved a comfortable balance between her intellectual and psychological needs that allowed her to manage her stressful marriage.

This essay suggests how Wharton’s interest in architecture and interior design developed from her very early years and was further cultivated through extensive travel with her family, and later, in annual excursions with her husband Teddy Wharton. Spurred by the part she took in building her own house, and by her continuing interest in designing and decorating houses, her artistic interest and aesthetic sensibility harmonized with her development as a professional author. Creating a home of her own made her independent of her mother and allowed her to break away from “Old New York” society. In fact, rejecting her mother’s suffocating, opulent style of Victorian interiors, Wharton created a “simple and architectural” interior decoration in accordance with her own tastes. In many of her literary works, she ascribes a moral dimension to architectural spaces, while many of her fictional interiors reflect and shape character. This confluence of

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architectural and literary principles began in her early European travel and became richer as her career as a novelist took off. Her first book, The Decoration of Houses, is not only an illuminating manual of interior decoration but also a compendium of her own aesthetic and architectural theories. Though she regarded the book as an “odd and unexpected beginning” of her own literary career, it marked a germinal stage of her professional authorship.

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図版1:Rhinecliffe, Wyndclyffe Rob Yasinsac - www.hudsonvalleyruins.org

図版2:Pencraig (Jones’ summer cottage) in Newport

the Yale Collection of American Literature, Beinecke Rare Book and Manuscript Library

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図版3:Pencraig Cottage in Newport

the Yale Collection of American Literature, Beinecke Rare Book and Manuscript Library

図版4:Land’s End (1911)

the Yale Collection of American Literature, Beinecke Rare Book and Manuscript Library

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図版5:The Mount

the Yale Collection of American Literature, Beinecke Rare Book and Manuscript Library

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図版6:interior of house at W. 25th St., New York City (Jones’ house) the Yale Collection of American Literature, Beinecke Rare Book and Manuscript Library

図版7:hall at Pencraig

the Yale Collection of American Literature, Beinecke Rare Book and Manuscript Library

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図版8:drawing room at Pencraig Cottage

the Yale Collection of American Literature, Beinecke Rare Book and Manuscript Library

図版9:drawing room of house at 884 Park Ave., New York City

the Yale Collection of American Literature, Beinecke Rare Book and Manuscript Library

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図版10:drawing room at Land’s End

the Yale Collection of American Literature, Beinecke Rare Book and Manuscript Library

図版11:dining room at Land’s End

the Yale Collection of American Literature, Beinecke Rare Book and Manuscript Library

参照

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