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:ケイト・ショパンとウィリアム・フォークナーの 諸作品における沈黙と語り

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アメリカ南部社会におけるリアリズムと女性像

:ケイト・ショパンとウィリアム・フォークナーの 諸作品における沈黙と語り

加藤 雄二

1. ショパンの評価 2. ジャンルと混淆性

3. ショパンの言語とモダニズム

4. ショパンとウィリアム・フォークナー 5. ショパンの作品における矛盾と葛藤

1. ショパンの評価

作家ケイト・ショパン(Kate Chopin)は、1970年代以降のフェミニズムによる文学研究と キャノンの読み直しの過程において、アフリカン・アメリカン作家ゾラ・ニール・ハーストン

(Zora Neale Hurston)などとともに忘却の淵から救い出された作家のひとりであり、現代の

アメリカ文学研究においてもっとも重要な女性作家としてすでに認められているといえるだろ う。1) ショパンはアメリカ文学研究のコンテクストにおいて「地方色」(local color)とよばれ る19世紀後半のリアリズム文学の実践者として、南部ルイジアナ、ニュー・オーリンズ近辺 のクレオールたちの生活を描いた。生前未刊行の処女作At Fault (1890)とショパンの作家生命 を奪うことになった姦通小説The Awakening (1899)は、おそらくフローベールやモーパッサン などフランスのリアリズム作家に影響された形式をもちいて保守的な社会の道徳律や結婚生活 の決まりきった掟に拘束される現代的な女性像を中心的に描いたが、それらの作品よりもむし ろ彼女の名声を高めたのは、有名雑誌に作品として掲載され、Bayou Folk (1894), A Night in

Acadie (1897)などに収められた諸作品だった。それらの短編は、クレオールたちの生活を突き

放した冷静な視点にユーモアのセンスを交えて語る、通常のいわゆる「地方色」作家たちの作 品とほとんど変わることがない。文学史的には、やはり同じミリュのクレオールたちを描いた The Grandissimesなどで知られるジョージ・ワシントン・ケーブル(George Washington Cable) ラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)などと並び称される作家として記憶されていたはず である。

現在ショパンの代表作として読まれているThe Awakeningは、周知のとおり女性のセクシュ

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アリティと姦通を描いたため、1899年に出版されるもたちまちのうちに絶版とされた。ショパ ンの作品の出版事情をあらためて詳細に調査したJanet BeerとElizabeth Nolanは、その経緯を つぎのようにまとめている。

First published in 1899, Kate Chopin's The Awakening provoked significant controversy because of its engagement with the taboo issues of female sexuality and infidelity.

Chopin depicts Edna Pontellier as repeatedly flouting convention in the search for autonomy and self-fulfilment outside of her role as middle-class wife and mother. She creates a heroine who boldly claims, 'I don't want anything but my own way', and thus offers a direct challenge to the expectations of Victorian society in America. The censure and moral indignation prompted by the novel was expressed in a rash of outraged reviews; the text quickly went out of print and remained so for almost fifty years, during which time it was essentially unremarked, ignored by critics. 2)

モダニズムの時代になると、ここでショパンとならんでとりあげるウイリアム・フォークナ

ー(William Faulkner)の作品におけるキャディ・コンプソン, アディ・バンドレン, シャーロ

ット・リットンマイヤーなどをはじめとして、偏狭な道徳律に反逆する女性というテーマがよ り自由に取り上げられるようになる。しかしながら、ショパンの時代において女性の自立や意 志を描くことが現代において想像されるよりもはるかに困難だったに違いないことは、ショパ

ンの The Awakening について書かれた当時の書評をあらためて参照してみればあまりにも明

白である。3) ショパンは、The Awakeningを執筆するにあたって、おそらくフローベールやモ ーパッサンなどフランスの男性作家のリアリズムの形式を踏襲したのだと想像されるが、そう であるとすれば、ヨーロッパではなくアメリカで創作したショパンは、上記のような状況にお ける困難に加えて、作品の形式や言語のレベルにおける問題点につきあたったに違いないとも 考えられるのだ。

2. ジャンルと混淆性

たとえばフォークナーの例をとり上げるならば、The Sound and the Fury においてキャデ ィ・コンプソンが独自の語りや声を作品形式のなかに割り振られず、おもに3人の兄弟たちの 視点から対象化されていることは、ある意味強く印象的な現代女性像キャディを救済しようと する読者たちによって、フォークナーの父権的な制約によってつくりだされた、ある意味で好 ましからざる偏向として認知されている。4)フォークナーに影響を与えたジェイムズ・ジョイ

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ス(James Joyce)をはじめとして、モダニズムの時代の作品においても女性は対象化され、父 権的社会にとっての他者として描かれるのが普通だったはずである。20世紀モダニズムには るか先立つフローベールの『ボヴァリー婦人』が、おそらくはある種の皮肉をこめて夫の生涯 についての語りから語りだされていることをあらためて指摘しておいてもよいだろう。

アメリカ文学の支配的な形式は、従来から指摘されているようにいわゆる「ロマンス」の形 式であり、フランスやイギリスでは支配的だったはずのリアリズムの実践は、「純文学的」と考 えられる領域においてはわずかの作家たちによってしか行われなかったといってよいかも知れ ない。例外的に思われるヘンリー・ジェイムズ(Henry James)にしても、リアリズムと見な される作品の多くはヨーロッパを舞台としており、ジェイムズの生涯におけるどの時期をとっ ても、作品の形式やプロットがなんらかの象徴的な意味合いによって自律性を損なわれていた り(The Portrait of a Lady)、語り手の自律性や語りの事実性そのものが曖昧だったり(The Turn

of the Screw)、言語と形式がリアリズムよりもむしろロマンスに近づいてくる。たとえばThe

Golden Bowlなどがその典型的な例である。「ロマンス」対「ノヴェル」という二項対立的な図

式を小説の形式論として定律化したのはいうまでもなく19世紀のナサニエル・ホーソーンや 20世紀半ばのリチャード・チェイスなどだが、ここでの議論に相応しく、「アメリカ」対「ヨ ーロッパ」という二項対立と重なり合うようにしてきわめてヨーロッパ中心主義的に定律化さ れた形式論が、現在の反ヨーロッパ中心主義的傾向をもつ文学・文化批評においてかならずし も有効でないことは指摘するまでもない。5)しかし、アメリカにおいて純粋なリアリズム小説 の形式がおおむね成立せず、一見成立しているかに見える際にも共同体的合意に基づいたプロ ット構成を必ずしも安定して実現できるわけではなかったことは、たとえば Mark Seltzer や

Fred G. Seeが、もはや古典的ともいえるアメリカン・リアリズムの新歴史主義による初期の再

考であるEric Sundquist, ed., American Realism: New Essays (Baltimore: Johns Hopkins U.P.,

1982)において、通常最も純粋にリアリズムを志向したとされるヘンリー・ジェイムズについて

指摘したとおりである。6)

Seeによればジェイムズは、おそらく通常“real”であるとは考えられず、したがってリアリズ ム小説におけるプロットの動因とはなりえないはずの“evil”を描き出そうと苦悶したという。7) そうした抽象的な“evil”がどのようなかたちをとって社会的に受容可能な言語と語りのなかに 立ち現れようと、The Turn of the Screwにおける女家庭教師による語りがそうであるように、

社会的に受容可能な「現実」とされる構築物から逃れ去る他なるものとしての“evil”の現れは、

Seltzerも指摘するようにリアリズム小説の成立要件ともいえる自律的な形式を撹乱し、破壊せ

ざるをえないだろう。8)そうした場においては、二項対立的に想定される「ノヴェル」と「ロ マンス」という形式そのものが元来混淆的なものであり、それぞれが別個に独立したジャンル

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でありえないことが露呈する。一見リアリズム風の形式のなかで、「目覚め」というタイトルが 示唆する昼夜の交錯をそのひとつの柱とする二項対立の錯綜が反復されるかに見えるショパン の作品は、そうしたジャンルとイデオロギーが混淆する場として成立しているのではないか。9) ショパンの作品は、ルイジアナというアメリカ合衆国の領土としては新しく、フランス文化 が残存するミリュに舞台をおき、クレオールたちを素材にしたフランス風の短編、小説という ふうに見える。しかしながら、そこには上記のジェイムズにおける“evil”と同種の問題が社会的 規範からの逸脱として混ぜ込まれており、姦通や人種などのテーマは、とくに長編作品におい て顕著に形式、内容の両面にわたる特異性をつくりだしている。かつてトニー・タナーが

Adultery in the Novelで指摘したように、姦通は共同体の規範との関係において、共同体のコ

ードの侵犯と再規範化という19世紀リアリズム成立の要ともいえる視点を小説形式に導入し もする。10)そうした侵犯と再規範化やその不可能性が、ショパンの場合においてそうであるよ うにおもに小説の形式と言語の問題として立ち現れてくることは、フィクションや物語を共同 体の規範に照らして偏狭な視点から断罪することを常識と心得ていた社会においては至極当然 のことであったに違いないからだ。たとえば、The Awakeningというタイトルを凡庸な夫との 関係に倦んだ人妻の、夫以外の男性との恋愛関係への「目覚め」と理解することは、現代の共 同体におけるリアリティとして認知されている意味内容を“the awakening”という記号に対応 させようとする恣意的な所為にすぎないのかも知れない。

「終わり」を意味する“end”のアナグラムである“Edna”という名前をもった The Awakening のヒロインは、有名なエンディングで文字通り「目覚め」、愛人との歓楽の地でもあった海辺へ と赴き、全裸のまま海へと泳ぎだす。この場面での「目覚め」やエドナが海に泳ぎだすシーン が現実なのか夢なのかは、エドナの意識によりそう語り手のナレーション以外に客観的な視点 が与えられていないせいで判然とせず、それらが現代小説や映像作品で多用されるいわゆるダ ブル・エンディングの一方として読まれる可能性もある。11) 眠れぬ夜から目覚めたエドナがむ しろ夜以上に幻想的な朝に目覚めるエンディングは、「目覚め」と「夢」や死を結びつけその境 界線を脱構築する、アンビヴァレントなつくりになっているのである。

そうであるとすれば、一見リアリズム小説の形式をもつかのように見えるThe Awakeningは、

姦通というテーマが同時に喚起する結婚の制度の安定性とその侵犯可能性と相俟って、リアル なものとアンリアルなものを平行あるいは混淆して提示する典型的なロマンスの形式を内化し た作品であるといえ、その形式と言語は一見上品なブルジョア社会のそれと見えながらも、そ れらが指し示し定義づける共同体的合意に基づいた対象と記号との結びつきを解き放ち、断ち 切る可能性を秘めているだろう。タナーが指摘するように、姦通とはつねに二重の意味合いを 秘めているからだ。12)そうした可能性は、ショパンの作品における三人称の一見客観的な語り

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の形式ときわめてプライヴェートかつ侵犯的な作品内容との間にあるかに見える、みせかけの 齟齬の意義を探求する際の鍵となるはずである。13)

3. ショパンの言語とモダニズム

実際、従来も指摘されてきたように、The Awakeningのもっとも根源的な問題は、エドナに 自己を表現するための限られた言語しか与えられていないことにある。たとえばパトリシア・

イェーガーは、「『目覚め』のもっとも根源的な認識は、エドナは限られた言語的可能性の世界 の暮らしているということである(“The Awakening’s most radical awareness is that Edna inhabits a world of limited linguistic possibilities.”)」と述べる。14)しかしながら、一見作品にお いて規範となっているかに見える父権的ブルジョアジーの言語にしても、それがそもそも確固 とした言語的基盤となりえているかどうか疑わしい。読者が作品冒頭で出会うのはただ言葉を 言葉として反復するオウムの声であり、イェーガーが指摘するような言語的可能性の限界が、

既存の言語的基盤の脆弱さに起因すると想定せざるをえないからだ。またそもそも、The

Awakeningなどショパンの作品における父権的権威たる夫その他の男性登場人物たちは、きわ

めて脆弱なキャラクターでしかない。エドナの内的変化にまったく気づくことがない The

Awakeningの夫や愛人のロベール・ルブランにしても、At Faultのヒロインの文字通り死んだ

夫にしても、離婚と息子の死によって父権的な権威をすでに一旦喪失しているデヴィッド・ホ スナーにしても、アイデンティティーやそれを絶対化する言語を構築する力はきわめて脆弱で

ある。Chopinのキャラクターのなかでもっとも無能な男性像かも知れないホスナーを代表とし

て、彼らは自己や自己の家庭、来歴、今後の生活などを明確化する言語を持たず、夫婦関係や 妻との関係に強力な現実性をもたせる力を持たない。

同じことが、自立を目指した女性であるはずのエドナ自身についてもあてはまる。批評家た ちの一般的了解は、エドナがポジティヴな意味でも共同体からの自立、独立を目指していると いうことだ。たとえばElizabeth A. MeeseはCrossing the Double-Cross: The Practice of Feminist

Criticism で、「彼女は自分自身になりつつあったのであり、われわれが世間を前にする際に身

にまとう衣服のような架空の自我を日々脱ぎ捨ててゆく(“she was becoming herself and daily casting aside that fictitious self which we assume like a garment with which to appear before the

world”)」と述べている。しかしエドナは、夫以外の男性たちとの戯れに満たされるわけでもな

く、離婚や再婚、あるいは情事の持続すら望まないし、通常の行動規範から逸脱することによ って自分が何をなしとげようとしているのかを理解しているわけでもない。15) エンディングで 回想されるのは、かつて彼女が共同体に正常に帰属していたことをかすかに示すかに思われる 幼少時の断片的な記憶と家族たちの声にすぎず、死の可能性に直面してすらエドナは明確な目

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的や独自の言語を持たない。作品最後のパラグラフは、実際つぎのようなものだ。

She looked into the distance, and the old terror flamed up for an instant, then sank again. Edna heard her father’s voice and her sister Margaret’s. She heard the barking of an old dog that was chained to the sycamore tree. The spurs of the cavalry officer clanged as he walked across the porch. There was the hum of bees, and the musky odor of pinks filled the air. 16

したがって、ショパンの作品がキャラクターのプライヴァシーにかかわる展開を見せるとき むしろ問題となるのは、言語を自分のものとする必要性や可能性よりもむしろプライヴェート な意志を語る言語のそもそもの無効性であり、みずからをみずからの言語によって語り、分節 化し知ることの不可能性やプライヴェートな言語の不在そのものであるといってよいのではな いだろうか。

こうしたきわめて現代的なショパンの言語と知の可能性への懐疑は、ウイリアム・ディーン・

ハウエルズ(William Dean Howells)やイーディス・ウォートン(Edith Wharton)などの典型 的なリアリストよりもむしろ、ショパンとフォークナーなどのモダニストたちとの類縁関係を 示唆する。ヴィクトリア朝的で抑圧的なリアリズムの言語は19世紀末以降の自然主義やモダ ニズム時代において攻撃の対象となったが、ショパンの作品におけるキャラクターたちの自己 についての知や選択の困難さや、抑圧的な父権的家族構造からの脱却の不毛な試みなどは、そ うした新しい文芸思潮の攻撃の対象というよりはむしろ先駆けだったと考えることができるの ではないだろうか。フォークナーのAs I Lay DyingやLight in August, Absalom, Absalom!, The

Wild Palmsなどは、リアリズムとは隔たった断片化された形式によって言語にたいする懐疑や

知の不可能性をより根源的にテーマ化しているが、知そのものや言語によるプライヴァシーの 表象の不可能性を前提としつつ、共同体の言語によって語り得ないものを表象しようとする試 みは、おそらく両者に共通のものである。フォークナーは、人種と性差を中心的な課題として 引き受けつつ、ここまでショパンについて議論してきた混淆的な形式をより明確に作品化した 作家でもある。

4. ショパンとウィリアム・フォークナー

フォークナーのいわゆる“multiple narration”の形式は、ショパンの作品の最終的な帰結に類 似して、三人称の語りが作中人物の語りにたいして行使する抑圧を解除し、現実的とされる語 りと非現実的な語りとの境界線を解体する。典型的な例は、As I Lay Dyingにおけるヴァーダ

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マンの“My mother is a fish.”といった狂気じみた意味不明な語りや、作品なかばに突然現れる、

死んで埋葬されつつあるはずのアディ・バンドレンによるあまりにも有名な独白などである。17) ホメーロスの叙事詩になぞらえられたプロットの『荒地』風の非現実性や、公然とした『緋文 字』へのアルージョンなどがそもそも、As I Lay Dyingの言語がそのものとしては何ものをも 意味し得ないことをあらかじめ宣告しているのだと言ってもよいだろう。18)

アンドレ・ブレイカスタン(André Bleikasten)が指摘するように、父権的抑圧がきわめて強 いアメリカ南部社会では、実の父と父親代理の区別、つまり生物学的なアイデンティティーの 起源とその代理作用との区別はしばしば問題とならないことが常識的だったからなのか、フォ ークナーはあえて合法的な言語や語り、歴史と非合法的な言語や語り、歴史とを区別しない方 法を選んだ。19)誤解を避けるために述べるならば、それは、ブレイカスタンがそう指摘したラ カン的精神分析の文脈においてそうであるように、フロイト的な精神分析を語りや分析の絶対 的な前提とするという意味においてではなく、やはりラカン的な精神分析をフォークナーやフ ェミニズムそのものの分析に援用したキャロライン・ポーターやジュディス・バトラーが述べ るように、そもそも社会的、共同体的に合法的な性差の自然化やアイデンティティーの認知が 象徴的なレベルにおける抑圧によって生起し、性差のそれぞれやアイデンティティーと非アイ デンティティーとの区分があくまで言語的に生成しているという認識においてそうであると言 えるのである。20)

したがってフォークナーの作品においては、いったん構築された語りの構造が、非合法的な 歴史へと滑り込み変貌されてゆく様がしばしば描かれる。As I Lay Dying における“multiple narration”においてだけではなく、Absalom, Absalom!やLight in Augustなどにおいて一見合法 的に認知可能かと思われる語りそのものもまた、最終的にはその輪郭を失い、リーナ・グロー ヴとバイロン・バンチの旅姿を目撃する若い夫婦の寝物語へと変貌したりするし、21)共同体的 な声の集積からみずからのアイデンティティーを正当化する歴史的語りを形成しようとするク エンティン・コンプソンが、Absalom, Absalom!でシェリーヴ・マキャノンと共同しつつ再構築 する歴史物語もまた、解体され流れ去ってゆかなければならない。22)つまり、父権的、白人中 心主義的な抑圧が強く社会的に機能するフォークナーの南部的ミリュにおいては、合法的な共 同体形成やアイデンティティー形成にかかわる歴史的語りは、最終的に不確実性と不在の位相 に回収されてしまうことになる。

また逆にいえば、フォークナーのキャラクターたちが、エドナが自己のアイデンティティー を非社会的な領域で実現しようとするのと同様に何らかの構築性や自己のアイデンティティー の明確な輪郭を手に入れようとすることもまた、上記のように確固とした共同体と言語との結 びつきが確立され得ないからなのかも知れない。このことは、フォークナーが最盛期の作品で

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課題とした、20世紀前半のアメリカ南部における歴史表象の可能性という大きなテーマに触 れるので別の論考を必要とするかも知れないが、Light in August のジョー・クリスマス、

Absalom, Absalom!のトマス・サトペンやクエンティン・コンプソン、The Wild Palmsのシャー ロット・リットンマイヤーなどが自己のアイデンティティーや理想像を具体化し固定化しよう とすることは、The Sound and the FuryやAbsalom, Absalom!でクエンティン・コンプソンがそ うするように、過去の時間軸と現在とを整合的に結びつけ、ときにフォークナー作品の舞台で あるヨクナパトーファの共同体における噂が暴力的な力となりSanctuaryなどにおけるリンチ 事件を引き起こしたりもするといったような、共同体の言語の本来的な真実性の欠落という侵 犯性に抗い、本来的にはあり得ようもない現前や存在としての何らかを不毛にも確立しようと する努力を意味している。23)

したがって、フォークナーの作品がいわゆるリアリズムの形式をまったく顧慮しない実験的 作品であると述べることはできないはずである。妹キャディの処女喪失を名家であるコンプソ ン家の没落そのものであると信じ、それにたいする防衛反応としての妹との近親相姦をねつ造 して父に告げ知らせ、みずからその真実性を信じ込もうとするクエンティン・コンプソンは、

象徴派的というよりはむしろ度し難いリアリストである。また、人間の足以上により強い物質 性を持った芸術作品を創作したいと野心を燃やし、「愛」の実在を実存的にあくまでも確証しよ うとするシャーロット・リットンマイヤーもまた、言語と事実性や言語と物質性との結びつき を求めてやまないリアリストであるし、南部貴族の家屋敷や奴隷を手に入れることによってみ ずからの身分や過去を消去し改変することができると信じたトマス・サトペンもまた、多くの 自己矛盾をはらんだリアリストであるに違いない。フォークナーの作品で、ある種の愛着をも って描かれる挫折する芸術化像としてのリアリストたちは、「100年後に動くように」作品を 書いたとインタヴューで語ったフォークナー自身の芸術家としてのイメジとも重なりあい、作 品の魅力の多くを形成している。ショパンの女性像ととくに印象深く重なりあうシャーロッ ト・リットンマイヤーもまた、エドナと同じように水辺の地において、みずからの意志により 消え去ってゆく。

しかし、John N. Duvallなど多くの論者が指摘してきたように、自己実現への夢をもったこ れらのキャラクターたちは、ショパンのAt Faultのテレーズやエドナと同じ程度かあるいはそ れ以上に共同体にとっての他者・よそものにほかならず、24)Sanctuaryのテンプル・ドレイクに よる偽証の例に顕著に見て取れるような、ときに偽善的でもありうるリアリティの形成過程か ら排除され、Light in Augustのジョー・クリスマスのように他者として共同体から消え去り、

他者として記憶されてゆくのである。25)フォークナー作品における無法な噂の力を『予告され た殺人の記録』などで再利用したガブリエル・ガルシア=マルケスが観てとったに違いないよ

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うに、フォークナーの小説における言語はしばしば事実性に対応せず、無法にも事実性をねつ 造する共同体の噂話や、The Sound and the FuryやAbsalom, Absalom!におけるクエンティン・

コンプソンやその父、あるいはローザ・コールドフィールドの語りのように、むしろ言語によ る表象行為の無効性あるいは非真実性を証してしまうのだ。上に触れた The Sound and the FuryやAs I Lay Dyingなど以外についても、たとえばThe Wild Palmsの二重形式などは、交 錯する無関係なふたつの物語それぞれの中心性や意味をたえず脱構築する働きをしている。キ ャラクターたちの意志にかかわらず、フォークナーのThe Sound and the Furyや、As I Lay Dying, Absalom, Absalom!やThe Wild Palmsなどの作品のありかたは、作品の言語の指示、言 及作用を無効化する。26) Edgar A. Poeのいくつかの作品において言葉・言語の起源が曖昧にさ れていることに似て、そもそも言語運用能力をほとんど持たないベンジーや、自殺する直前の 独白をチャプターとして書き留めることができるはずのないクエンティン・コンプソンの意識 の流れを文字にして書き留めた形式をとっているThe Sound and the Furyの言語は、シェイク スピアの『マクベス』の引用である“the sound and the fury”というタイトルが示唆するように、

何も意味することはないのである。それと類似したことがショパンの作品でもおそらく起きて いるのではないか。

5. ショパンの作品における矛盾と葛藤

ポーラ・トレイクラーは、ショパンの作品は「矛盾と二重性(“contradictions and dualities”)」 によって特徴づけられていると指摘している。27)そうした二重性のひとつは、キャラクターの プライヴェートな表現を阻むかに思われる抑圧的な三人称の語りの言語と、それが抑圧し、語 られないままに放置されるキャラクターのプライヴァシーとの乖離である。そうした不在とし ての何かは、本論冒頭であげたジェイムズの“evil”と同様、不在としてむしろその存在感を主張 する。なぜならば、読者にはキャラクターのプライヴァシーがそもそも不在として提示されて いることがあきらかであり、The AwakeningやAt Faultにおいてそうであるように、作品がキ ャラクターのプライヴァシーを重要視することもまた明白である場合、その不在は語りの言語 によって語られ得るもの以上に真実であるとして認識されるからである。The Awakeningの作 品の言語はしたがって、ある種の言語論と類似した方向性を指し示しているといってもいいだ ろう。言語によって指し示されるのは、存在ではなくむしろ不在そのものである。いわば通常 の言語的認識の転倒と脱構築が起きているといってもよいが、それはたとえば、結末で海に沈 むかに思われるエドナが水に沈む飛翔するべき鳥(“a bird with a broken wing,”“down, down to

the water”)のイメジで語られる場面などで明確化される。28)

The Awakeningというタイトルが示唆するように、「目覚め」と「眠り」という二項対立がThe

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Awakeningのロマンス的な側面を構造的に担っているといえるが、そうした単純で、したがっ ておそらく作者によってそれと理解されていたとしか思えない二項対立的図式は、きわめて当 然のようにして「上下」の階層構造をも導き入れる。通常の陸の世界の言語的規範から外れて 裸となったエドナは、水および下降する方向性へと誘われてゆく。そこでは、飛翔を希求する プライヴェートな自我の主張そのものは、下層に抑圧された無意識的世界に一体化することに ほかならないという認識や、エドナの生死の曖昧さとは別個の次元に見いだされる上下構造と その破壊のありさまがきわめて明瞭に指し示されている。エドナが「鳥」によって含意される 上昇のイメジを担ったままに海中に沈んでゆくことを示唆するエンディングは、階層構造の破 壊と平等化、そしておそらくはホイットマン的な自然と言語との合一を女性が成し遂げるとい う好ましい方向性を示すと同時に、自然や共同体の言語のなかに、対自的な言語の独自性の可 能性が埋もれてゆく過程、つまり、自我と非自我との境界線が抑圧の解除によって消滅し無化 される過程をも意味している。29) このことは、エンディングにおいてエドナの内面を語る語り 手の言語がエドナの内面の言語を支配し、エドナ自身から声を奪うことにも端的に表れている。

30)そうした意味でThe Awekeningのエンディングと作品の全体はともに、上記のジェイムズに おける「悪」(“evil”)とThe Portrait of a Ladyなどにおける道徳的選択との関係がおそらくそ うであるように、ジャンルとしてのリアリズムと形式との境界線を撹乱し、それらを含めた二 項対立的関係性を混淆あるいは平行して提示する、いわば非ジャンルに属するとでもいうべき アメリカ的小説の到来を告げてもいたのではないかと思われるのだ。そうした意味において、

一見リアリズムのマネリスムとして書かれたかに思われなくもないショパンの長編は、後のフ ォークナーや他のモダニストたちの作品にきわめて類似しているのである。

*本稿は2008年10月初旬にSoutheast Missouri State Universityで開催されたコンファレンス、

“Faulkner and Chopin”における口頭発表原稿の一部を書き換えたものであり、文部科学省科学

研究費補助金、基盤研究(C)・代表加藤雄二による研究の一部であることをお断りさせていた だきます。

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1) Sacvan Bercovitch, ed., The Cambridge History of American Literature, vol. 3: Prose Writing 1860-1920 (Cambridge: Cambridge U. P., 2005), 171-180.参照。

2) Janet Beer and Elizabeth Nolan, eds., A Routledge Literary Sourcebook on Kate Chopin’s The Awakening (New York: Routledge, 2004), 1.

3) 上掲Beer and Nolan, Routledge Literary Sourcebookなどに再録された当時の書評の多くは、Chopinの主題を 社会的道徳の立場から裁断し、批判する立場をとっている。

4) こうした批評は1980年代以降多くなされている。最近の例としては、Patricia McKeeによる響きと怒りの 議論などがある。後にコメントする Carolyn Porterのラカン的フェミニスト・リーディングに習ってか、

McKee はフォークナーにおける男性と女性の区分を象徴化における存在と不在との区分として冷静に分析

している。Patricia McKee, Producing American Races: Henry James, William Faulkner, Toni Morrison (Durham: Duke U. P., 1999), 99-100.を参照。

5) Richard Chaseによるノヴェルとロマンスの区分は、あまりにも単純な二項対立的区分として現代における

アメリカ文学批評・研究の場では敬遠されるだろうし、それぞれをF. R. LeavisThe Great Traditionと関 係づけて、それぞれイギリス的、アメリカ的とするジャンル、形式観は、そもそもヨーロッパ中心主義やそ れを前提とした歴史観に偏りすぎていると現代では批判的に読まれるだろうと想像される。Richard Chase, The American Novel and Its Tradition (Baltimore: The Johns Hopkins U. P., 1957), 1-28.を参照。

6) Eric J. Sundquist, ed., American Realism: New Essays (Baltimore: The Johns Hopkins U. P., 1982).収録のMark Seltzer, “The Princess Casamassima: Realism and the Fantasy of Surveillance”Fred G. See, “Henry James and the Art of Possession”を参照。

7) Fred G. See, “Henry James and the Art of Possession,” Sundquist, American Realism, 119-120.

8) Mark Seltzerは、上掲“The Princess Casamassima: Realism and the Fantasy of Surveillance”において、20世 紀初頭のロンドンでは、不在として記録されない犯罪がより悪質であると考えられたとの指摘を行っている。

Sundquist, American Realism, 96.

9) ChopinThe Awakeningは、リアリスティックな昼の場面とロマンス的な夜の場面の交錯による単純な意

匠で成り立っているかに見えるが、エンディングのシーンがそうであるように、朝の目覚めがある種の夢的 世界へとつながってゆくような、昼と夜それぞれの意味づけの通常のパタンを逆転しうる形式を持っている。

10) Tony Tanner, Adultery in the Novel (Baltimore: The Johns Hopkins U. P., 1979), 12-13.

11) たとえばとくに類似した例に、Jane Campionによる映画The Pianoのエンディングがある。ヒロインのAda

(ヒロインのこの名前には、姦通を意味しうる“ad”の文字がより明確になっている)が、ピアノとともに海 底に沈むシーンが思い浮かべられる。Adaは海面に浮かび上がり、愛人との生活を送るために生き延びるか にも思われるが、作品末尾では海底にピアノとともに沈んだAidaの姿が映し出され、この映像作品が生と 死の両方の可能性をエンディングとして用意していることがわかる。Jane Campion, The Piano (1992)のエン ディング参照。

12) Tanner, Adultery in the Novel, 12.

13) 作品の書き出しは作品の問題点を象徴的にしめすオウムの描写となっているが、最初に語り手によって名指 されるのはエドナの夫のMr. Pontellierであり、一見平穏なブルジョア小説の形式から外れてはいない。

14) Patricia Yaeger, “‘A Language Which Nobody Understood’; Emancipatory Strategies in The Awakening,” Novel (Spring 1987), 197.

15) Elizabeth A. Meese, Crossing the Double-Cross: The Practice of Feminist Criticism (Chapel Hill: University of

North Carolina Press, 1986), 122. エンディングでのエドナはさまざまに回想を巡らせはするが、結局のとこ

ろ、“There was no one thing in the world that she desired.”との結論にたどり着く。Kate Chopin, The Awakening, Kate Chopin: Novels and Stories (New York: Library of America, 2002), 653.

16) Chopin, Awakening, 655.

17) ヴァーダマンは、母親が不在であることと、魚が料理されてなくなったことの共通点を取り上げて“My

mother is a fish.”と結論づけるのだから、ふたつが同一視される根拠は、両者がともに不在であることに求

められる。アディはそもそも死んでいるキャラクターであり、不在の語り手であるに違いない。William

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Faulkner, As I Lay Dying, The Norton Anthology of American Literature, vol. D 1914-1945 (New York: Norton,

2003 ),1718, 1724. なお、As I Lay Dyingにおける不在のモチーフについては、他の箇所でも取りあげる

Carolyn Porterによる論考を参照のこと。

18) 『緋文字』とAs I Lay Dyingの類似性は従来から指摘されてきたが、記号と指示対象の絶対化された対応関 係への懐疑も、両作品で共有されている。“Addie”という名前に含まれる“A”あるいは“Ad”の文字は、『緋文 字』の“A”がそうであるように、具体的に限定された指示対象を持つとは考えにくい。また、死んだAddie が独白を語り得ないはずなのと同様、独白の事実性は確かめようがなく、断片として語られた独白は事実性 と切り離されたかたちで、たんに言語として読まれなければならないはずである。

19) André Bleikasten, “Fathers in Faulkner,” Robert Con Davis, ed., The Fictional Father: Lacanian Readings of the Text (Amherst: The University of Massachusetts Press, 1981), 117-118.

20) Carolyn Porter, “Symbolic Fathers and Dead Mothers: A Feminist Approach to Faulkner,” Donald M.

Kartiganer and Ann J. Abadie, eds., Faulkner and Psychology (Jackson: University Press of Mississippi, 1994), 78-122.Judith Butler, Gender Trouble: Feminism and the Subversion of Identity (New York: Routledge, 1999),

3-44.における主体と性差の構築についての議論を参照。

21) William Faulkner, Light in August, The Corrected Text (New York: Vintage, 1987), 545-559.

22) クエンティンが過去の再構築がもたらすヴィジョンが明確になるのを待つあいだ、シェリーヴは“it clears the whole ledger, you can tear all the pages out and burn them, except for one thing.”と、それまでの再構築の 過程が無効であったことを宣言する。William Faulkner, Absalom, Absalom!, The Corrected Text (New York:

Vintage, 1990), 302.

23) フォークナー自身も作品のキャラクターと同じような自身の「失敗 (failure)」について語ることが多かった が、作品そのものはそうした「失敗」を説得的に理論づける要素を明確に持っていると筆者は考えている。

24) John N. Duvall, Faulkner’s Marginal Couple: Invisible, Outlaw, and Unspeakable Communities (Austin:

University of Texas Press, 1990), xiv.Chapter 1, 2を参照。

25) Faulkner, Light in August, 513.参照。

26) 前掲Carolyn Porter, “Symbolic Fathers and Dead Mothers,” とくに“Mothers and Fathers”における母と父の 不在にかんする議論を参照。Porter, “Symbolic Fathers and Dead Mothers,” Kartiganer and Abadie, eds., 95-99.

27) Paula A. Treichler, “Language and Ambiguity,” Margo Culley, ed., The Awakening, 2nd. ed., Norton Critical Edition (New York: Norton, 1994), 264.

28) Chopin, The Awakening, 654.

29) エドナが全裸で海へと泳ぎだすシーンは、かならずしもネガティヴな意味合いしかもたないとは限らないか も知れない。筆者には、この場面がホイットマンの水浴シーンが持つような、トランセンデンタルな自然と の合一というポジティヴに解釈される要素を持っているように感じられる。そうであるとすれば、The

Awakeningという作品はたんに南部的であるというよりも、アメリカにおける文学のイデオロギーの混淆的

形態を示しているといってよいかも知れない。The Cambridge History of American Literatureの記述は、上 記のような視点を優先しており、エドナをホイットマンにたとえて“Chopin’s song of the self”という表現で

The Awakeningを評価している。筆者はそれとはいくぶんことなった立場、つまり南部的言説と北部的言説

の混淆としてThe Awakeningを理解しているが、Cambridge Historyの指摘もまた重要である。Bercovitch, Cambridge History, 179.

30) 上に引用した最後のパラグラフで語り手は、エドナの家族の声や犬の鳴き声をエドナが回想する様子を伝え ており、そこではエドナ自身の声が発せられる可能性は低いはずである。Chopin, The Awakening, 655.

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参考文献

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A Routledge Literary Sourcebook on Kate Chopin’s The Awakening, New York:

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“‘A Language Which Nobody Understood’; Emancipatory Strategies in The Awakening,”

Novel : Spring.

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Realism and New Women in the American South: Silence and Narrations in the Works of Kate Chopin and William Faulkner

KATO Yuji

Kate Chopin was obliterated from the literary history after she published The Awakening, a sensational novel about a bourgeois wife’s flirtations and sexual liberty, but her works have recently been reevaluated as attempts at depicting the realities of women living in the American South and their desire for personal freedom. Appropriate for a writer groping for new forms of fiction, Chopin did not simply write her works “realistically” as 19th century male writers did. Her fictions are the mixtures of different genres of fiction such as the novel and the romance, as they have been traditionally defined in American literary criticism. They are experiments in writing the repressed undersides of women’s lives in a conservative society through the language of the repressive bourgeoisie of the 19th century. There are no linguistic possibilities to express the heroine’s repressed individual desires in the ordinary language of the community.

As a consequence, her works and their language approach the modes of the experimental novels by later modernists such as William Faulkner, who also created memorable “marginal”

characters and heroines in the novels set in the American South. William Faulkner focuses on the idiosyncrasies of the language that point to the absence of the real in works such as The Sound and the Fury, As I Lay Dying, Sanctuary, and Light in August. His language establishes the demarcations between the real and the fictional, the male and the female, or the historical and the unhistorical, but deconstructs them at the same time by highlighting the arbitrariness of the language. His heroes and heroines try to express their personal desires in their languages, but they iventably fail because they are strangers to the community and to its language.

The comparison would lead to a re-reading of Chopin’s novels and the re-evaluation of their significance. The ending of The Awakening is an ambiguous impasse that affirms and negates the heroine Edna’s desire for personal fulfillment in a language that blurs the demarcations between the personal and the communal and the fantastic and the real.

参照

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