リスク社会と環境国家 : 法哲学の視点から
その他のタイトル Risikogesellschaft und Umweltstaat aus rechtsphilosophischer Sicht
著者 竹下 賢
雑誌名 關西大學法學論集
巻 56
号 1
ページ 135‑151
発行年 2006‑06‑15
URL http://hdl.handle.net/10112/12344
リスク社会と環境国家
と方法論における多元主義と寛容の原理であった︒この関心の出発点は︑
版﹄であったが︑それは︑ミュンヘン大学におけるカウフマンの最終講義(‑九八八年︶を公刊したものに︑さらに かということについてである︒それは︑現代の人間にとっての運命的な問題であり︑つまり︑平和や生存の保障であ
り︑原子力︑生物工学や遺伝子技術がもたらす社会問題である︒そして︑これらに対して︑討議倫理にみちびかれた 形式的で手続き的な法哲学ではなく︑実質内容をもった解答をあたえる法哲学が必要とされるということが主張され
その版で追加された﹁あとがき 補正を加えたものである︒
ドイツの法哲学者アルトゥール・カウフマン
は じ め
に
I
法哲学の視点から││
リスク社会と環境国家
︵一
九二
三年
i二
0
0
一年︶が︑最晩年に関心をもったのは︑価値観一九九二年の﹃ポスト近代の法哲学・第二 一九九一年﹂でのべられているのは︑とくに最終講義の関心の対象が何であった
竹
一三 五
下
︵一
三五
︶
賢
た︒そうした問題に対するカウフマン法哲学の解答は︑本書においては︑人格の理念という根本的な価値規準を提示 するに留まっていた︒ただ︑前記の﹁あとがき﹂において︑﹁未来の倫理学と未来の法哲学﹂を構想することの必要
( 1 )
性が訴えられており︑また︑現代における多元主義の重要性が若干の個所で主張されてはいた︒
この未来の法哲学の追求は︑
カウフマンによって一九九四年の
﹃法
学 哲
﹂ スク社会の法哲学﹂である︒ここでは︑原書で二頁という少ない紙数ではあるが︑多元主義的なリスク社会という現
( 2 )
実において︑﹁寛容の原理﹂の重要性が説かれているのである︒
後者のカウフマン最後の著書﹃法哲学﹂は最終章全体
( s s .
295‑ 344)
をこの問題にあて、「寛容の原理ー—多元主 義的リスク社会における法哲学﹂という標題を掲げている︒ここでは︑政治的な分野でのリスクも扱われているが︑
リスクの中心に置かれているのは原子力やとりわけ遺伝子技術といった科学技術によるリスクである︒こうしたリス
( 3
)
ク社会において︑カウフマン法哲学が重視すべきものとして提唱するのは︑多元主義と寛容の原理なのである︒
本稿が問題にするのは︑
カウフマンが多元主義と寛容とを原理として優先させる至った︑まさに現代のリスク社会 という状況である︒それを改めて検討の対象として︑そこにおける問題に対して︑法哲学が理念的︑価値原理的にど のように解答を与えることができるのかを考えてみることにしたい︒ただ︑こうした以下の考察は︑多元主義や寛容 の原理とは異なった方向に向かうことになる︒それは︑わたしのリスク社会の法哲学的分析は︑カウフマンの見解よ りも生態系への侵害を重視するといえ︑それゆえに︑環境保護が法理念として提示されることになるからである︒こ
の理念の導入によって︑法理念論における多元主義が帰結することにもなるが︑この問題や︑環境保護の理念と寛容 に至るまで︑持続的に遂行されたといえよう︒前者の﹃法哲学の基本問題﹄
の最終章の最後の項目は﹁多元主義的リ
﹃法哲学の基本問題﹄から一九九七年の
関 法 第 五 六 巻
一号
ニ ︱ ︱ 六
ニ ︵
ニ 六
︶
れるという︑有力な見解もみられる︒ の原理の関係という問題についても︑本稿では立ち入ることはしない︒
現代社会が多種多様のリスクに曝されているということは︑
いまや︑世界の共通認識となっている︒こうした認識 を明確に提示したのはウルリッヒ・ベックであって︑それは︑二
0年前に出版された﹃危険社会ー新しい近代への
( 4 )
道ー﹂においてであった︒その著書では︑産業社会がリスク社会へと変貌をとげている現状が描かれている︒
近代の産業社会では︑人間は科学や技術を基礎にした合理的な予測にもとづいて︑自己の行動を決定することがで きた︒しかし︑産業社会の発展は予測の合理性を破壊し︑それによって人間の行動を不確実なものにしてしまった︒
ベックはこの状況を﹁もうひとつの近代﹂と呼んでいるが︑これは︑﹁伝統的社会を近代化する産業社会﹂から区別 される社会であり︑﹁産業社会の前提そのものを変化させる近代化﹂をともなうところのリスク社会である︒他方︑
自由主義の社会が変化した結果︑現在の民主主義国家は福祉主義の社会を形成していて︑社会的な法治国家の体制を 維持している︒そしていまや︑社会的な法治国家についての学説において︑環境保護の問題が取り上げられている︒
これに対して︑環境保護の法的枠組みについては︑社会的な法治国家とは異なった法原理に導かれた法体制が要請さ 本稿が問題にするのは︑この環境保護の法体制とリスク社会論との関係である︒以下では︑まず︑ベックのリスク
社会論の概略を説明するが︑その社会理論の背景に社会の変動理論があり︑この変動理論の検討はリスク社会論の評 価のみならず︑環境問題の法的把握にとっても不可欠である︒こうした検討は︑ベックの社会理論におけるポストモ
リスク社会と環境国家
問 題 提 起
一三
七
︵ 一
三 七
︶
ある︒このことを︑さしあたりベックから離れて取り上げる︒
ー
リ ス ク 社 会 論
の転換についての理論を取り上げ︑これらの法的原理を明らかにしておきたい︒その際︑重要視しているのは︑こう した社会の変動理論との関係で︑環境国家の法的原理について説明を加えることである︒このことを踏まえることに よって︑最後に︑リスク社会と環境保護の法体制との関係について論述することにしたい︒
ベック﹃危険社会﹄が解明しようとしている課題は︑﹁いまだなお支配的である過去と対照することにより︑今日 すでにその輪郭をみせている未来を視野のうちに据えること﹂である︒その過去とは﹁近代﹂であり︑しかもそれは 古典的な産業社会である︒また︑﹁すでにその輪郭をみせている未来﹂とは産業化されたリスク社会であり︑その種
( 5 )
の未来は﹁近代﹂に亀裂をもたらしているとされる︒
不確実性の時代
ベックが問題にする﹁リスク﹂は周知の現代用語であり︑近年に至って注目されてきた概念だと考えられがちであ
るが︑すでにそれは二0
世紀の社会において最初の頃から注目されてきた不確定性︑不確実性の概念に関係している︒
そのことから︑二0
世紀はリスク社会であるということも含めて︑全体として﹁不確実性の時代﹂とも呼ばれるので
さらに︑ベックの理論と直接の関係はなしに︑ ダン論への評価にも関連する︒
関 法 第 五 六 巻
一 号
一三
八
︵一
三八
︶
一般的な学説動向における︑自由主義の社会から福祉主義の社会へ
リスク社会と環境国家
綜している現状や︑
松原純子﹃リスク科学入門﹄は︑テルフレッド・ボルクの論文﹁偶然性と二
0世紀﹂を要約的に取り上げ︑この時
代の姿をおおよそつぎのように描いている︒不確定性の概念で把握できる理論は︑
シュタインの量子力学論文において登場する︒そこでは︑分子の位置や速度が確定的に記述できないが︑その全体と してのエネルギー状態が確率的に記述できるとされる︒そして︑その後の量子力学は︑物質の本性の中に無作為的現 象がみられるという事実に立脚して発展する︒また︑二
0世紀になって︑ダーウィンの進化論による生物の進化過程
の基礎には︑無作為な突然変異が生起していることが認められるようにもなった︒
こうして︑無作為的な
r a n d o m
(ないし偶然的な︶現象は我々にとって︑法則定立のための重要な究明対象となる︒
このような究明のための手段に寄与するのが︑波動方程式の開発などの数学や数理統計学の発達であり︑とりわけ乱 数表や無作為抽出法の利用である︒このような事実を通じて︑前世紀には忌避され抑圧された偶然性が︑積極的現象
へと転換したのである︒
今世紀の情報社会では︑物理学や生物学の世界を超えて︑偶然性の積極的利用がなされている︒心理的事実であれ︑
社会的事実であれ︑これまでの一対一対応の法則による現象説明は︑乱数表などを利用しての確率的な
s t o c h a s t i c
説
明へと移行している︒松原によってさらに指摘されているのは︑人間の行動の意思決定についても︑人間の利害が錯
一定の事柄に対しても人間全体や個々人にとっての利益と損害とが︑併存している現状である︒
( 6 )
こうした現状には︑統計的な処理によるバランス点の選択という︑確率的処理が行われるといえる︒
以上のような松原の説明によれば︑こうした不確定性の科学︑確率の技術が扱うのがリスクであり︑換言すれば︑
リスクの科学が確率論だということになる︒しかし︑社会科学の側から説明すれば︑現代がリスクに満ちた社会にな
ニニ
九
︵ 一
三 九
︶
一 九
0五年のアルバート・アイン
これ
に対
して
︑ あった啓蒙に今もなお固執する者に対して私は異議を唱える︒反対に今日︑異常現象が累積したからといって︑近代 で
ある
︒
2
︵ 一
四
0 )
り︑その評価が確率の技術によって可能になるということであろう︒だが︑リスクそのものが︑乱数表などを駆使す
る確率論によって認知されるということを考えれば︑不確定性の時代がリスクの観念を生んだともいえ︑不確定性と
( 7 )
このような﹁リスク﹂を︑松原は﹁望ましくないことの発生に関する客観的な不確実性である﹂と定義している︒
本稿では︑こうしたリスクの定義︵ないし概念規定︶に立ち入ることはせず︑﹁リスク﹂は﹁人為の企てにともなって
ベックの定義を前提にしておくことで十分であろう︒この定
義は︑前記の定義に比べるなら︑自然科学的な知識につながる﹁不確実性﹂という言葉を避け︑人間がリスクを冒さ
なければ生きてゆけないという現代社会を表現する︑社会科学的な定義である︒
ベック﹁リスク社会﹂
すでにみたように︑ベックは﹃危険社会﹄における課題は︑産業化されたリスク社会として﹁すでにその輪郭をみ
せている未来﹂を︑社会学的に捉えることであるとした︒こうした問題設定において考慮すべきことは︑
とって︑この未来の社会の到来が﹁近代﹂に終息をもたらして︑まさに﹁ポストモダン﹂が始まるのかどうかという
ことである︒つまり︑近代に亀裂をもたらしている﹁未来﹂は︑もはや﹁近代﹂ではないのかどうかということなの
ベックはつぎのようにのべる︒﹁﹃非合理的な時代思潮﹄ 生じる︑損害や不利益の生じる可能性﹂であるとする︑ リスクの相乗関係を承知せねばならない︒
関 法 第 五 六 巻
一号
ベックに
の進撃に抵抗しようと︑十九世紀に前提で
︱四
〇
リスク社会と環境国家
( 8 )
化の目指すものほとんどすべてを歴史の中に廃棄してしまおうとしている者に対しても︑同様に異議を唱えたい﹂︒
このように︑ベックはモダニストでもポストモダニストでもなく︑変質した近代社会の未来において︑近代の理念を
しか
し︑
ベックの当該著書が新たな社会理念を構想しているとはいっても︑そのことは︑社会の未来に対する見通 しを得ているからだとはいえない︒すなわち︑未来社会の特徴は︑見通しが得られないということによって語られる のである︒また︑そうした構想はなお試論的である︒それは︑文明が自らをリスクに曝しているという展望はあるも のの︑近代に亀裂をもたらしているこのリスク社会は輪郭をみせはじめたばかりであり︑産業社会からリスク社会に このようにリスク社会を十分に把握できないという判断を前提として︑﹃危険社会﹄
﹁不
確実
性﹂
リスク社会への移行は︑産業社会の自己内省的な近代化︑
︱四 の課題は︑それらが醸し出す
への処方箋を獲得することにある︒つまりそれは︑﹁時代思潮の不確実性をいかにしたら︑社会学とし
( 9 )
て実り多く示唆に富む形で理解し把握しうるか﹂という課題である︒
つまり︑産業社会の前提そのものを変化させる近代化を ともなった社会の転換である︒これには︑﹁社会におけるリスクの生産﹂と﹁産業化された近代の不安定化﹂という 二つの側面がある︒前者は︑伝統的な産業社会で富の生産の副作用としてのみ捉えられていたリスクの生産が︑
ク社会では富の生産よりも前面に出ることを意味する︒特定の集団を超えた︑さらに地球規模でのリスクの発生に よって︑経済や技術における﹁進歩﹂の思想は批判されるに至る︒
後者の意味するところは︑近代化の進展によって産業社会に内在的な伝統が突き崩されるということである︒階級
至る近代の二分法は︑なお不分明だからである︒ もふくむ新たな社会理念の実現を求めているといえる︒
︵一
四一
︶
リス
リスク社会と福祉国家
向かう近代化は︑こうした産業社会の生活様式と常識から人々を解放する︒
︵一
四二
︶ 社会や核家族︑固定的労働形態や議会制民主主義︑さらには科学技術の進歩への信頼︑これらは﹁近代という概念に
( 1 0 )
とって必要不可欠なもの﹂ではなく︑むしろ﹁産業社会において歴史的に形成されてきた輪郭﹂である︒自己内省に こうした社会の安定要素が減少するとともに︑技術の発展にともなうリスクの生産が社会に不安定をもたらす︒こ
の不安定化は同時に︑従来の民主主義の政治システムを弱体化もするのであり︑そうした事態はまた︑技術の分野だ けでなく経済の分野でも生じている︒それはつまり﹁サブ政治﹂の登場であって︑これら﹁サブ政治﹂における行動 決定は︑民王主義的なプロセスに立脚するものではなくなっている︒産業社会では︑社会を左右する決定権限の半分
( 1 1 )
は︑﹁公の統制を受けず︑正当化の理由づけもされないまま企業や科学に属する﹂ことになる︒
これは︑中央集権化した政治システムの機能喪失を意味しているが︑ベックが著書﹃危険社会﹄
で示している処方
箋は︑こうした技術と経済の不安定分野に︑中央集権的な政治システムではない民主主義プロセスを導入して︑自己
( 1 2 )
コントロールシステムを確立することである︒ベックによれば︑近代化とは社会の﹁自律化︑細分化︑個別化﹂であ るが︑こうした社会に根づいたあらたなシステムの構築は︑まさに近代化の徹底を意味しているといえる︒
ベックのリスク社会論において重視されるのは社会の変動理論であるが︑そこでの論点は︑亀裂の入った産業社会 をどのように二分して︑亀裂を把握するかということにある︒前述のように︑それは﹁伝統的社会を近代化する産業 社会﹂と︑﹁産業社会の前提そのものを変化させる近代化﹂をともなうところのリスク社会という二種の社会への二
関 法 第 五 六 巻
一号
︱四
リスク社会と環境国家 ムに移行したのである︒ 分である︒つまり︑それらは﹁伝統的な産業社会﹂と﹁産業化されたリスク社会﹂と呼ぶことができよう︒
この後者にいうリスクとは︑生産ないし技術にともなうリスクであり︑これが重視されていることが当該著書の特 徴をなしている︒しかし︑著書全体からみる場合︑ベックはリスクを技術によるリスクに限定はしておらず︑貧困に よるリスクをもリスクに算入している︒伝統的な産業社会では裏面に押さえ込まれていて︑産業化されたリスク社会 で顕在化したリスクという点では︑貧困によるリスクも技術によるリスクと同様である︒
リスクの生産については︑産業社会は貧困と技術の両者によるリスクを﹁副作用﹂としてもたらした︒貧困のリス クヘの対処は福祉国家政策によって行なわれたが︑それは言及した産業社会の構成要素である階級社会を廃止する道 を歩むことになる︒と同時に︑福祉国家による公的介入は︑国民の側に利益の確保や権利の保障を一定程度に達成し
( 1 3 )
たのちは︑社会の形成力や駆動力を失うことになる︒こうした状況のもとで︑ベックは前述のように︑国民を活性化 する民主主義的な再編成を行うことによって︑技術によるリスクに対処しようとするのである︒
このようなベックによる社会の変動理論は︑リスク社会の構想について︑貧困によるリスクと技術によるリスクと を産業社会のリスクとして同列に扱っている点で︑不十分であると思える︒というのは︑それによっては︑貧困と技 術によるリスクについて︑両者の質的な相違が著しいことを捉えきれないからである︒さらに︑産業社会は貧困によ るリスクに対応する福祉国家によって︑その政治的手法を変更したといえる︒産業社会の国家システムは︑労働市場 をも含む自由な市場経済を保障する自由国家のシステムから︑国民の生活環境を介入的に保障する社会国家のシステ 前者の質的な相違については後述するとして︑ここでは産業社会における国家システムに関して︑福祉国家への転
︱四 三
︵一
四三
︶
適否が検討されることになる︒
︵一
四四
︶
換を取り上げることにしよう︒この転換を把握しようとする理論の立場に立って︑ベックの発展理論に関連づけると
すれば︑そこにいう﹁もうひとつの近代﹂の以前に︑近代の産業社会には二つの前段階があったということになる︒
これによれば︑貧困によるリスクと技術によるリスクは︑歴史的に並列的ではなく段階的である︒第一の段階は国民
の自由を防禦的に保障する自由国家であり︑第二の段階は国民の生活を介入的に保障する福祉国家である︒また︑第
一の段階から第二の段階への移行は︑法治国家から社会的な法治国家への転換を意味している︒
この社会的な法治国家の典型例は︑日本やドイツにみられる︒第二次大戦後︑日本は基本的人権としての﹁生存
権﹂を︑ドイツは国家目標としての﹁社会的法治国家﹂を掲げることによって︑従来の権威的国家体制を変容させた
のである︒その基本的な見解に関して︑自由国家に対抗する内容に注目するなら︑それは︑各人の平等な生活保障の
実現のためには︑従来の法治国家の自由保障を︑ある程度まで制約することも容認せねばならないという趣旨に集約
され
よう
︒
この場合︑自由に対抗する配分︑人格に対抗する生存といった原理的な意味合いで︑自由国家に対立的に社会国家
を把握することもできよう︒しかし︑私としては︑自由国家性と社会国家性を二つの方向での法治国家の実質化と捉
え︑これらの国家性を両極的に法治国家性の内部に位置づけることにしたい︒これによれば︑この両国家原理の最低
限の要請が︑法治国家の存立条件とされ︑それ以上の要求については︑状況に応じた比較衡量によって︑その実現の
この法治主義の統治原理は︑自由権を中心にした基本的人権を国民に保障し︑同時に︑最低限の生活を国民に平等
に保障することを基本条件にしつつ︑それ以上の要求の実現については︑自由主義と福祉主義の両極的原理によって
関 法 第 五 六 巻 一 号
︱四
四
しか
し︑
リス
ク社
会と
環境
国家
︱ 四
五
比較衡量する立憲的な法治主義である︒産業社会はもともと自由主義的な法治主義をもって出発し︑こうした両極的
( 1 4 )
な法治主義を採用するに至っている︒
いまや我々は︑社会的な法治国家についての学説において︑環境問題が取り上げられていることを認知している︒
しか
し︑
ハッソー・ホフマンやミヒャエル・クレプファーは︑社会的な法治国家の法的原理からは︑環境問題を解決
( 1 5 ) ( 1 6 )
するための原理は導き出されえないと考えていて︑わたしもそれに賛同する︒我々は現代の法治国家のために︑社会 的な法治国家の原理である配分や平等とは異なった︑環境国家の原理を要求するのである︒だとすれば︑このような 環境国家は︑ベックのリスク社会論とどのように関係するのかが︑問われねばならない︒
社会理論と国家論 この関係を問う場合︑前提として検討せねばならないのは︑リスク社会論が属している社会理論と国家論との関係 である︒この関係を論じるには︑社会変動論︵一定の価値的視点からは社会進化論︶はもとより︑とりわけ公法学史で扱 われてきた﹁国家と社会の二元論﹂を検討する必要があろう︒しかし︑ここでそれらの詳細に立入る余裕はなく︑概 西欧において国家論とは︑プラトンの﹃国家﹄以来︑もともと哲学的な規範学として論述される学問学科であった︒
ヘーゲルよりのちの国家論は︑すでにのべた自由国家から社会国家への転換といった歴史的事実や︑とりわ
括的に両者の関係を論じておくだけにしたい︒
ー
四 リスク社会と環境国家
︵ 一
四 五
︶
け国家の近代化という事実をめぐって︑事実認識に立脚する社会理論に傾斜した見解を提供してきた︒こうした哲学
的で規範理論的で︑しかも社会科学的な色彩をもった社会変動論の典型は︑
ス・ウェーバーの社会学は︑新カント主義の哲学的価値論を基礎にしつつ︑
きるものの︑英米の社会学者とは一線を画していたのである︒しかし近時︑ いっそう社会科学に傾斜した社会変動論
を提示している︒事実と価値の両者をともに重視する新カント主義のもとでは︑ゲオルク・イェリネックやハンス・
ともあれ︑こうした社会変動論の当初は︑大陸の哲学的な社会理論家によって展開されたが︑若干の影響は指摘で
アンソニー・ギデンズ
マルクスやデュルケームやウェーバーといった社会理論家の変動理論は︑社会学者のう
( 1 7 )
ちで社会理論を研究対象とする者の関心を惹くようになった︒
このように︑哲学的で規範的な思考が事実をも重視するようになった結果︑哲学的な社会理論と社会学的な社会理
ェヴァルド﹃福祉国家﹂はミッシェル・フーコーの哲学を基盤としな
( 1 8 )
がら︑社会の変動理論を説くものであり︑中山竜一によって精力的な紹介と展開が行われている︒この議論をわたし なりに理解するなら︑近代自由主義国家から変動して成立した社会国家は︑リスク社会に対応した保険社会として捉 えられるということである︒この保険社会においては︑社会的な行動を認識するにあたっての﹁背景的な﹂図式が︑
以前の社会における権利規定から確率論にもとづく標準︵規格︶設定へと移行し︑国家の行動は国民における妨害排
こうした主張の基本には︑﹁背景的な﹂図式が当為ではなく存在に属している︑ 除から行動保障へと移行するとされる︒ 論の接近が語られるのである︒最近において︑ 社会学﹂が指摘するように︑ ケルゼンなどが︑
一般国家学についての著作を公刊している︒
関 法 第 五 六 巻
一号
﹃社会理論と現代
つまり︑人々の現実の認識に内在 マルクスの史的唯物論であるが︑
︱四
六
︵ 一
四 六
︶
マッ
ク
2
の提示を︑基本的な課題に据えるからである︒︱四 七
( 1 9 )
しているという見解がある︒そして︑ここに哲学的な理論と社会学的な理論との接近をみることができる︒ただ︑こ うした標準に導かれた社会において︑たとえば環境問題に関して予防原則などの環境原理がどのように基礎づけられ るのか︑生命倫理の問題に関して自己決定がどのようになされるべきかについては︑認識に内在的な立場に終始する ところからは答えることができない︒この問題は︑社会理論が規範的であろうとするときに生じるのであり︑その場 合︑国家論は規範的にならざるをえない︒こうした国家論と現実的な社会理論との間には隔たりがある︒それは︑社 会理論が社会的な事実の変動に忠実に︑記述的態度を維持しようとするのに対して︑国家論がやはり国家の目標理念 このことは︑自由国家から社会国家の変遷について明らかなように︑社会国家は︑人間の自由の保障を絶対的なも
のとみなす国家に対して︑それの制限も辞さずに人間の一定限度の生活を保障しようとする立場に立つ︒ここには︑
権利保障について︑自由権から生存権への対象の転換がみられ︑価値対象としては︑人間の自由自律の生活から豊か
( 2 0 )
な生活環境への転換がみられるといえる︒ただ︑現代の国家論は前述のように︑社会変動の事実を十分に踏まえたも
( 2 1 )
のでなければならない︒その意味では︑ギデンズがのべるところの︑社会理論における哲学との相互交流は︑国家論 との間でも成立するといえよう︒しかし︑その場合でも両者の差異がなお存するように思われるのであり︑その点か らいえば︑本稿の環境国家論は︑規範理論的な国家論に属するものといえよう︒
リスク社会と自然保護 社会理論と規範理論的な国家論との異同が確認された上で︑ベックによっても︑社会︵福祉︶国家と環境国家との
リスク社会と環境国家
︵一
四七
︶
区別は︑ある程度まで支持されると考えることができる︒というのも︑前述のようにベックは︑福祉国家が貧困によ るリスクに対処しようとしているのに対して︑リスク社会が技術によるリスクに対処しようとしているとして両者を 区別しているからである︒ただ︑むしろ両者の類推的関係を指摘することによって︑とりわけ︑両者の国家介入的な 共通性と︑その問題点が指摘されていて︑その質的な相違が十分に認識されていないといえよう︒
だが
︑ ベックの論述において注目すべきは︑環境問題についての以下のような指摘である︒﹁リスクは︑人間が歴 史的に獲得した能力から発生するのである︒つまり︑地上の生命体の再生産の基盤を人間が勝手に変えたり︑
上げたり︑破壊することができるようになったことから発生するのである︒言い換えれば︑リスクの根源は無知にあ
( 2 2 )
るのではなく知識にある︒自然を支配できないことにあるのではなく︑自然を完全に支配できるということにある﹂︒
( 2 3 )
これとの関連で︑ベックは﹁自然と社会の対決の終焉﹂について語っている︒いまや︑自然も社会も他方なしでは 考えられない︒かつての社会理論にとって︑自然はあらかじめ与えられたものであり︑征服すべきものであったが︑
いまや歴史によって生産されたものとなった︒
( 2 4 )
であ
る﹂
︒
つまり︑﹁社会の再生産のための自然基盤は︑
︵一
四八
︶
つく
り
いわば文明世界の内装
すでにのべた環境国家論は︑リスク社会論のこうした自然についての理論を基礎とすることができよう︒リスク社 会において︑自然と社会は相互浸透的となった︒産業社会は福祉国家の段階となっても︑自然支配にもとづく生産構 造をいまだ想定していて︑そこでは︑自然の外部性ないし自然から独立した自律的な社会が前提されている︒しかし︑
産業社会がリスク社会に転換したとき︑自然と社会の同一性が認識されねばならない︒福祉国家によって保障される
活生
環境
は︑
いまやリスクに満ちたものでありうる︒リスク社会においては︑福祉国家の社会概念はとりわけ社会と
関 法 第 五 六 巻
一号
︱四
八
( 1
)
リスク社会と環境国家
︱四 九
自然との関係について︑転換を迫られることになる︒国家には︑環境国家に転換して︑あらたな法原理を採用するこ 以上のような環境国家の構想は︑法治主義が自由国家と社会国家の理念のみならず︑環境国家の理念をも包摂する
ということを意味している︒環境国家の理念の導入が︑自由国家の理念と社会国家の理念とを駆逐して︑環境保護の 理念のもとに︑たとえば︑環境強制国家を招来してはならない︒
ここにいう環境国家論が唱えるのは︑たんに生活環境の保護にとどまらない自然環境の保護を︑国家の理念の一角 に据えることを要求するということである︒現代国家の通例としては︑憲法体制が福祉主義の原理を自由主義の原理 とともに擁している法治主義を採用している︒生存権ないし社会権の保障としての生活環境の保護は︑この福祉主義 の原理に包摂されよう︒しかし︑環境国家としては︑地球環境︵ないし生態系︶としての自然環境の保護を︑
環境国家の理念を法治主義の体制に含むものでなければならない︒
つま
り︑
わが国はこの点で環境国家として︑ただちに理解されるのは難しい︒その主たる原因は︑憲法においてその種の理 念が示されていないことにある︒だが︑環境基本法その他の自然保護立法が︑こうした生態系保護の理念を明確に掲 げていることから︑わが国の現行法秩序の法治主義は︑全体として環境国家の理念を包摂しているとみることができ
るの
であ
る︒
A r t h u r K a u f m a n n , R e c h t s p h i l o s o p h i e i n d e r N a c h , N e u z e i t
A │
bschiedsvorlesung
—,
2 . A u f l a g e , H e i d e l b e r g ,
1 9 9 2 ,
む す び
とがもとめられるのである︒
︵ 一
四 九
︶
( 1 5 )
4 0 £ £ . , 永尾孝雄訳「ポスト現代の法哲学」上田健二/竹下賢/永尾孝雄/西野基継訳「法・人格•正義』
年︶二六七頁以下参照︒
( 2
)
A r t h u r K a u f m a n n , G r u n d p r o b l e e m e d r R e c h t s p h i l o s o p h e i , M i . i n c h e n ,
1 9 9 4 ,
S .
2 3 2 £ .
( 3
)
A r t h u r K a u f a m n n , R e h c t s p h i l o s o p h i e , M i . i n c h e n , 1 9 9 , 7
S .
2 9 5
£ £ .
( 4
)
U l r i h c B e
c k , R i s i k o g e s e l s l c h a f t
│
u A f d e m Weg i n e i n e a n d e r e M o d e m e │
" S u h r k a m p , 1 9 8 6 ,
東廉/伊藤美登里訳﹁危
険社会ー新しい近代への道ー﹄︵法政大学出版会︑一九九八年︶︒なお︑本稿では
R i s i k o
に﹁危険﹂ではなく﹁リスク﹂
という訳語をあてることにする︒本訳書で﹁リスク﹂という訳語が採用されなかった理由のひとつは︑日本語の語感からし て﹁危険の内容を限定し深刻さをむしろ薄めてしまう﹂︵﹁訳者あとがき﹂四六三頁︶ことにあるとされている︒たしかに︑
そうした面は否定できないが︑当該訳者も十分に認めているように︑﹁リスク﹂は﹁人為の企てにともなって生じる︑損害 や不利益の生じる可能性﹂である︒本稿が﹁リスク﹂の語を採用したのは︑﹁危険﹂とは異なったこうした﹁人為性﹂や
﹁潜在性﹂の意味要素を重視するからである︒
( 5
)
U l i r c h B e c k , R i s i k o g e s e l l s c h a f t , . S
1 2 ,
I訳
書八 頁︒
( 6
) 松原純子﹁リスク科学入門ー環境から人間への危険の数量的評価ー﹄︵東京図書︑一九八九年︶四頁以下参照︒
( 7
) 松原前掲書︑二六頁︒なお︑本書は︑リスクアセスメントの議論が社会的な意思決定の問題であるとし︑その当事者が専 門家と一般公衆の両者であることを強調している点で︑ベックの論調に通じていて興味深い︒
( 8
) ︵9
)
B e c k , R i s i k o g e s e l l s c h a f t , . S
1 3 ,
訳書 九頁
︒
( 1 0 )
B e c k , a . a . O . , S .
1 3 ,
訳書
︱二 頁︒
( 1 1 )
B e c k , a.a.O•
らS.
3 0 2 ,
l訳
書三 七八 頁︒
( 1 2 )
B e k c , a . a . O . , S . 3 6 7 ,
訳書 五四 二頁
︒
( 1 3 )
V g l .
B e c k , a . a . O . , S .
3 0 4 £ . ,
0
訳書三八
頁以 下参 照︒
(14)
これについては、竹下賢「環境保護と法治主義—環境法の思想的一考察ー」加茂直樹/谷本光男編『環境思想を学ぶ
人のために﹂︵世界思想社︑一九九四年︶二三四頁以下参照︒V g l . i M c h a e l K l o e p f e r ( h r s g . v . ) , U m w e l t s t a a t , S p r i n g e r ‑ V e r l a g ,
1 9 8 9 .
関 法 第 五 六 巻
一号
一五
〇
︵ 一
五
0 )
昭 ︵
和堂
︑ ]九 九六
リスク社会と環境国家
一 五
( 1 6 )
竹下賢﹁環境法の体系理念と法治主義の実質化﹂関西大学法学論集五一巻ニ・三合併号六八頁以下参照︒なお︑竹下賢
「環境国家論の現代的意義ー環境基本法をてがかりとしてー」関西大学法学論集四四巻四•五号合併号一三三頁以下を
も参 照︒( 1 7 )
V g l . A n t h o n y G i d d e n s , S o c i a l T
h e o r y a n d M o d e r n S o c i o l o g y , C a m b r i d g e , 1 9 8 7 , f f l 唸田祝字大監印
i ﹁社火云理論直と鉗ぷい社 i
今怠子
﹄
︵青木書店・一九九八年︶七九頁以下参照︒
( 1 8 )
公刊された文献を新しいものから挙げるなら︑つぎの通りである︒中山竜一﹁リスク社会における法と自己決定﹂田中成 明編﹃現代法の展望ー自己決定の諸相ー﹂︵有斐閣︑二
0
0
四年︶二五三頁以下︒同﹁戦後﹃近代化﹄論と法理論ー認識論的観点からー﹂﹃知的資源としての戦後法哲学﹂法哲学年報(‑九九八︶︵有斐閣︑一九九九年︶二八頁以下︒同﹁﹃保 険社会﹄の誕生ーフーコー的視座から見た福祉国家と社会正義ー﹂﹁市場の法哲学
j
法哲学年報(‑九九四︶︵有斐閣︑
一九九五年︶一五四頁以下︒同﹁標準と正義﹂人文学報第七六号︑一九九五年︑一
0
︱頁以下︒なお︑エヴァルドも本文後 述(‑三頁以下︶のベックと同様に︑福祉国家と環境国家の質的相違を把握していないことに疑問が残る︒
( 1 9 )
前掲論文︑中山﹁標準と正義﹂とりわけ︱一三頁以下参照︒
( 2 0 )
これについては︑前掲論文︑竹下﹁環境保護と法治主義ー環境法の思想的一考察ー﹂をも参照︒
( 2 1 )
V g l . G i d d e n s , o S c i a l T h
e o r y n a d M o d e r n S o c i o l o g y , C a m b r i d g e , 1 9 8 7 , ! m a
事 戸 ﹃ 社 i 今云理吟嘩と現庄い社 i
今盆子
﹄
( 2 2 )
B e c k , R i s i k o g e s e l l s c h a f t , . S
3 0 0 ,
訳
書三 七六 頁︒
( 2 3 )
︵24)
B e c k , a . a . O . , S . 1 0 7 ,
訳書
︱二
八頁
︒
︹追記︺本稿は真鍋俊二教授還暦記念論文集のために執筆したものであるが︑脱稿が遅れ本号に掲載されることになった︒真鍋 教授にご寛怒を乞うとともに︑ご還暦を心よりお祝いする次第である︒
︵一
五一
︶ 1
0四
頁以 下参 照︒