• 検索結果がありません。

日清戦争後に於ける台湾の治安問題 : 雲林虐殺事 件を中心に

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "日清戦争後に於ける台湾の治安問題 : 雲林虐殺事 件を中心に"

Copied!
22
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

件を中心に

著者 柏木 一朗

出版者 法政大学史学会

雑誌名 法政史学

巻 48

ページ 120‑140

発行年 1996‑03‑24

URL http://doi.org/10.15002/00011218

(2)

昭和十五年四月一日、台湾総督府警務局発行の『台湾警(1)察遺芳録』は明治二十八年に(ロ湾警察が創始されてから昭十二年末迄に在職中死亡した警察官の氏名原籍死没理由を輯録し編纂されたものである。同書によると昭和十二年末現在、台湾に於て死亡した警察官は三千五百六十一名でそのうち「領台後明治三十五年迄の匪擾に殉職した者は二百三十九名」「蕃地に於ける殉職者一千八十七名」「暴動其他公務上の殉職者一一百一一十七名」「在職中の病没者二千八(2)名」となっている。『ムロ湾警察遺芳録』は(ロ湾総督府編刊(3)による『(ロ湾総督府警察沿革誌』全六巻につづいて編纂されたもので両書では領台後、日本官警に反抗した所謂「士 はじめに 法政史学第四十八号

日清戦争後に於ける台湾の治安問題

l雲林虐殺事件を中心にI

匪」を大凡三種に分類している。それによると「その一は台湾島授受当時に於て島内各地に於て皇軍に抵抗した者で台湾を克復する名分の下に唐景癌へ劉永福を盟主と仰ぎ矛を逆にせる者先づ反徒と云うが適切であろう」「第二は真正の意味の土匪で即ち草賊である。正常なる業務につくことを厭い徒党を組みて掠奪槍掠を事としたものであるが其の発生原因は民族性、風土、清朝政治の腐敗等に依ることが多い。」「第三は反徒掃蕩の当初当局良萎の甑別容易でなかった為め、玉石混滑の禍を蒙り或は密偵通訳等の証告に依り不慮の嫌疑を蒙り冤柾訴ふるに由なく流れて匪群に入った者」(4)と分類している。以上のように昭和十五年当時、台湾総督府警務局は「士

柏木-朗

(3)

匪」という用語を広義では「日本官警に反抗した者」として狭義では「草賊」として使用している。小稿では日本の植民地時代の台湾において日本官警に反抗した者を一括して抗日軍もしくは抗日ゲリラと呼ぶことは不適当と考えあ(5)》えて「土匪」という用語をそのまま使用することにする。明治二十八年六月十七日、台湾総督樺山資紀海軍大将は台北において始政紀念式典を挙行した。しかし当時の台湾は軍政下にあり警察官どころか警察制度もなく国内で募集された警察官約五百名がようやく台湾に到着したのは同年九月末であった。明治二十九年四月一日をもって台湾に民政が施行されたが武装した土匪の前では警察は軍隊の補助的な存在にすぎなかった。『台湾警察遺芳録』の中で死亡した警察官が「領台後明治三十五年迄の匪擾に殉職した者は二百三十九名」であったのに対して「蕃地に於ける殉職者」は二千八十七名」と四倍以上となったのは治安の担当者が前者は軍隊が、後者は警察官が担ったことを如実に示している。台湾における治安については前掲の『台湾総督府警察沿革誌』が詳しいが同書は台湾警察の職員の参考資料として編纂されたものである。軍が編纂した史料としては台湾憲兵隊編刊『台湾憲兵隊史』(昭和七年発行一九七八年、龍渓書舍復刻)があり同書は領台から土匪の活

日清戦争後に於ける台湾の治安問題(柏木) 動が鎮静化した明治三十五年頃までの憲兵隊の活躍を中心に編纂されている。憲兵は軍事警察官として土匪の捜索を任務とし明治二十八年末には三千四百余名の憲兵が台湾の(6)主な町村に配置されたが最小単位の憲兵屯所の兵力は十一一(7)名程度であったため集団で武装した土匪を相手に戦壱っには荷が重すぎた。領台から明治三十五年まで台湾の治安維持の主体をなしたのは台湾守備混成三個旅団の将兵であった。残念ながら台湾の軍隊に関する史料は太平洋戦争敗戦時の混乱の中で散逸もしくは焼却されたと思われるがさいわいにも台湾省台北市の中華民国中央図書館台湾分館所蔵図書の中に台湾総督府図書館旧蔵の『陸軍幕僚歴史草案』全十冊があり明治二十八年より三十八年までの台湾における軍の活動を知ることができる。同書は明治二十八年を第一巻として同三十六年の第九巻まで編年体で記述されているが第十巻は明治三十七・三十八年を年度で区別せず各事項ごとに分類して記述している。その理由は。事項ノ終始及其関係ヲ知ルー一困難」であり日露戦争に関して事項が(8)連続しているものが多いためだとしている。第一巻は明治三十六年五月、第二巻は同三十六年十月、第三巻は同三十九年十月に発行され「台湾総督府陸軍幕僚印行」という奥付があるが第四巻以降には奥付がついていない。この草案

(4)

が作成されたのは明治三十五年十月一日の総達第十六号によって陸軍幕僚服務規則が改正された際、第七条の副官部(9)事務管掌の中に「九、幕僚歴史ノ編纂」という項目が設けられたことに始まるものと推測される。表紙は洋紙で紐綴じで縦二十四センチ、横十六・二センチ、すみに「昭和十四年七月七日保管転換」印が押されている。第一巻と第二巻にはそれぞれ筆写本があり「大正十五年七月十日謄写」と裏表紙に書込ある。第一巻の原本は十九頁から四十七頁が欠落しかわりに明治二十八年三月一一十一一一日から同六月十八日までの記事が「台湾史料原稿用紙二十×二十」を使用して筆写され綴られている。第一巻の原本には附図があり一枚目は彩色がほどこされた「領台前布政使衙門及附属官庁一覧図」、二枚目は「台北及大稲埋・艦艀略図」で「四千分の一縮図明治二十八年八月十日測製明治二十八年十二月十一一一日製版台湾総督府製図部」としるされている。本稿ではこの『陸軍幕僚歴史草案』を中心に使用しながら日本の台湾初期統治において軍隊が治安維持に果たした役割とその弊害を「雲林虐殺事件」を通して考察していきたい。 法政史学第四十八号

明治二十八年四月十七日、日清講和条約の締結により台湾は清から日本へ割譲され同年五月十日海軍大将樺山資紀が台湾総督に任命された。このころ清国台湾巡撫、唐景癌は台湾割譲反対派によって台湾民主国総統にまつりあげら(Ⅲ)れ日本軍に対して抵抗の姿勢をとっていた。しかし(ロ湾駐屯の清軍は大陸で募集した兵を中心とする寄せ集めの部隊で団結力に欠けていた。明治二十八年五月二十九日、台湾平定を命ぜられた近衛師団が台湾北東の三詔角に上陸し清兵の抵抗を撃退して翌六月一一一日には台湾北部の要港基隆を占領した。日本軍の接近により台北はパニック状態となり台湾民主国総統唐景癌は六月六日廩門に脱出した。近衛師団は翌七日台北を占領し同十日には台北北部の港町淡水を占領した。台北から敗走して淡水に追い詰められていた清兵約三千はここで降伏し大量の捕虜の処置にこまった日本軍は捕虜一千七百名を同月十一日輸送船に乗せて対岸の中(Ⅲ)国本土福建省海壇島に輸送し釈放した。台南には劉永福将軍が黒旗軍を率いて日本軍と対時していた。近衛師団を主力とする日本軍は台湾上陸以来、炎暑とマラリアに悩まされ疲弊しきっていたため同年八月二十 台湾平定戦と台湾守備混成旅団の設置

(5)

八日大本営は近衛師団を彰化と鹿港を結ぶ戦で進撃をいったん休止させた。大本営は翌九月十六日台湾副総督高島鞆之助陸軍中将を司令官とする南進軍を編制し新たに第二師団(師団長乃木希典中将)を援軍に加えた。南進軍は明治二十八年十月十日、第二師団を台南南方の坊讓に上陸させ南北から台南の清軍を挾撃した。同月十九日劉永福は大陸に脱出し清軍の組織的抵抗はここに終った。この台湾平定戦ではマラリアによって戦病死した近衛師団長北白川宮能久親王(莞去により大将に昇進)と近衛第二旅団長山根信成少将を含む将校七十六(戦死十九・戦病死五十七)、下士官二百七十(戦死五十・戦病死一一百一一十)、兵卒三千九百六十九(戦死三百四十五・戦病死三千六百二十四)、軍属軍夫百八十三(戦死百十一一一・戦病死七十)の合計四千四百九十八名(戦死五百二十七・戦病死三千九百七十一)の損害をだした。日清戦争全体の死亡者が総計八千三百九十五名(戦死一千百六十一・戦病死七千二百三十四)であったことと比較してみると台湾平定戦が明治二十八年五月二十九日の近衛師団の台湾上陸から同年十一月十八日の樺山総督の全島平定宣言までの短期間の戦闘だっただけにその損害の規模がいかに大きいかがよくわか(皿)る。

日清戦争後に於ける台湾の治安問題(柏木) 樺山総督は全島平定宣言に先立つ十一月十一日、総督府の文武官に対して訓示をおこなった。この中で樺山は台湾施政についての諸注意を述べたあと最後に「若シ戦勝ノ余威二乗シ本島居住内外人民二接スルー一方リ或ハ軽侮騎傲ノ処為アルニ於テハ独り施政ノ障碍卜ナルノミナラス我軍紀風紀ヲ傷ケ延テ我国光ヲ汚損スルナキヲ保セス本職ハ諸子力能ク此旨ヲ体シ各自相戒メ以テ筍クモ過二陥ルナカラムコトヲ望ム」(、)と締めくくった。さらに十二月十五日台湾総督府参謀長の大島久直少将が各将兵に対して軍紀引締めの訓示をおこなった。大島は「今ヤ内外人ハ本島戦後ノ形勢卜施政ノ如何ヲ注目シッッアリ今日一点ノ汚名ハ千歳二流レテ減セサルヘシ視ョ豊臣氏征韓始末ノ暇逢ハ今二至リテ猶ホ人口一一膳灸ス真二邦家ノ為メ借ム所ナリトナス若シ夫レ般鑑ヲ此二取り来レハ軍配風紀ヲ更二厳粛ナラシムルハ豈今日ノ急務ニアラサランヤ況ンヤ」(傍点筆者)と過去の豊臣秀吉の過ちを例にとって台湾の施政についての注意を述べ「我国戦勝ノ勢上一一因り東洋二雄視セラルルト同時ニ世界各国人ヲシテ嫉視センムルニ至りダル時二於テヲャ然ル故二古来東洋ノー隅二蟄伏セシ時代ノ観念ヲ脱

■■■■■■■■■

(6)

シ大国民タルノ度量風采ヲ備ヘサルヘカラス」と日清戦争後の日本に世界が注目しているという自覚をもつようにと述べた。大島はさらに「軍夫職工輩下賊ノ者二至テハ無教育ノ悲シサ固ヨリ天下ノ大勢ヲ知ラス是非弁別ノ明モナク唯一時ノ欲望ノミニ制セラレ又他ヲ顧ミサルカ如キ等滴々皆是ナリ」と軍夫等の無分別な行動を嘆き「此輩ヲ駆テ敵地若クハ新領地二臨ム其危険真二少ナカラス」と不安を洩らした。実際に各地からの報告によると「我邦人殊二軍役夫職工等ノ軍紀風紀ヲ乱シ又法網二罹ル者多キヲ致サントスルノ勢ヒァリ誠二痛嘆ノ至リテ堪へことし「士人二対シ粗暴据傲ノ挙動アリ賤列貧汚ノ行為アリ廉恥ヲ重シセサル所業アリ」として「甚ダシキニ至リテハ浸り一一民家二侵入シ婦女子二対シ言う可カラサルノ行ヒアリ又ハ物品ヲ購フニ際シ僅少ナル代価ヲ払上逃ケ去ル等真二以テ言語二絶スルノ行為」を行なっていると非難した。このような行為に対して将校その他文官、憲兵警察官は断固たる態度で徹底的に取り締まれば「忠勇ナル同胞ノ鮮血ヲ犠牲二供シ由テ以テ得ラレタル此新占領地ノ前途ハ如何ソャ実二懐然タラサルヲ得ス」であり「台湾百年ノ大計ハ今日二基ケリ此大計ヲ成就スルハ上下ノ|致一一アリ遊二赤誠ヲ吐露シテ各(Ⅸ)官ノ猛省ヲ切望ス」と訓示した。 法政史学第四十八号

しかしこの樺山総督と大島参謀長の台湾統治に対する危慎は現実のものとなってしまった。明治二十九年三月十一日、近衛及び第二師団にかわって台湾には平時編制の三個混成旅団が置かれることとなり旅団長の人事が発表され四月初旬より順次近衛師団、第二師団との交代がはじまった。そして同年一一一月三十日、勅令第八十八号をもって「台湾総督府条例」が公布された。この条例により台湾は軍政から民政に改まったが総督は親任で「陸海軍大将もしくは中将」とし委任の範囲内で陸海軍を統率し拓殖務大臣の監督を受け諸般の政務を統理するとともに其管轄区域内での防備と安寧秩序を保持するために必要と認むるときは兵力を使用することを認められた。つづいて同年四月一日、勅令第百十六号を持って新たに「台湾総督府軍務局官制」が公布され軍務局は台湾総督の管轄に属する陸海軍軍政及び軍令に関する事を掌り軍務局には陸軍部と海軍部が設置され台湾総督府参謀長大島久直少将にかわって陸軍少将立見尚文が台湾総督府軍務局長兼陸軍部長に任命された。さらに同月六日、勅令百二十一号をもって「台湾守備混成旅団司令部条例」が制定された。同条例第一条には「混成旅団長ハ陸軍少将ヲ以テ之二補シ台湾総督二隷シ部下軍隊ヲ統率シ所轄守備管区内ノ警備及匪徒鎮

(7)

圧ノ事二任三(傍点筆者)と明記されていた。台湾守備混成旅団とは「台湾守備」ではなく「匪徒鎮圧」を目的とする鎮圧軍であったのである。台湾は情が巡撫を設置する以前より三年に一度小さな乱(旧)が五年に一度大乱がおこることで知られた土地であった。また土匪は日本軍の輸送部隊等の護衛の少ない小部隊に攻撃をしかけ援軍が来るとみるや住民の問に姿を消すというゲリラ戦法で日本軍にたちむかった。日本兵は神出鬼没の土匪に翻弄され、さらに炎暑とマラリアをはじめとする疫病に悩まされた。苛酷な生活状況で疲弊し心も荒んでいた日本軍将兵は土匪の嫌疑をかけた者を容赦なくその場で殺害した。その背景には当初の総督府は軍政であり治安維持の主体は警察ではなく軍隊及び憲兵が担当したため土匪に対して警察権を執行する際に行政警察権より司法警察権を濫用しがちであった。また民政が施行されたとはいえ台湾総督は現役の将官であり、日本の刑法が台湾に施行されておらず土匪とその容疑者に対する対応が完備されていなかったことがあげられる。これらの諸問題が一気に表面化し武力による土匪及び住民へ対する弾圧が国内外で大きくクローズアップされたのが明治二十九年六月に発生した「雲林虐殺事件」であった。

日清戦争後に於ける台湾の治安問題(柏木) 明治二十九年六月二日、第二代台湾総督に第三師団長桂太郎中将が任命された。桂総督は同月十一一一日、台湾視察に訪れた伊藤博文首相と西郷従道海相とともに台北に到着した。同月十八日、桂総督は総督府の文武官に対して訓示を行ない「諸政ノ施設ハ前総督樺山伯爵卜其方針ヲ異ニセサ肥)ル」とし文武官は互いに一父流をはかること、外国政府又は外国人との交渉で国際問題を惹起せぬこと等の注意を与えた。桂は伊藤西郷とともに膨湖島を視察したのち対岸の中国本土廩門を経由して日本へ帰国した。その後、桂は二度と台湾に戻らぬまま同年十月十四日、総督を辞任した。桂総督時代の明治二十九年六月十一日、台中県雲林支庁長に(Ⅳ)新竹支庁長だった松村雄之進が任(叩された。松村雄之進は嘉永五年に久留米の神官の家に生れ若くして志士活動に身を投じた。松村は明治四年、長州から久留米に逃亡していた大楽源太郎の暗殺事件に連座し禁固七年の刑を受けた。出獄後の明治十三年、久留米の士族を率いて福島県に移住し久留米開墾社社長となり開墾事業を行ない明治十五年、立憲帝政党結成に参加したが同党が翌年解散した後は大阪府警部、神戸貿易商組合委員をつとめた。日清戦争がおこ 二雲林虐殺事件の概要

(8)

ると志願して陸軍一層となり膨湖島占領に係わったことで台(旧)湾総督府が開かれると抜擢されて新竹支庁長となった。松村がのちに総督府に提出した『雲林土匪事件二関シ軍隊卜(旧)一父渉顛末軍隊退却事情』には当時の文武官の意思の不統一さと土匪の攻撃に苦戦する日本軍の姿が赤裸々に描かれている。当時の雲林(現在の台湾省雲林県斗六)は事件直後の明治二十九年十一月一日、雲林を視察に訪れた陸軍軍医総監石黒忠蘆の日記によると「市街ノ西一一雲林河アリ、地形概ネ平坦就中、西北ハ広漠タル原野二接ス、四辺竹林ヲママ以テ包擁シ諺蒼トシテ昼尚ホ陰ニタリ、戸数凡ソ七百七(別)十、人口二千二百有余」であった。松村が雲林に着任直後の同月十三日、斗六街の雲林支庁門前にある日本酒舗が土匪に聾われ商品が掠奪された。その際土匪は支庁にむかって発砲し日本官警を挑発した。松村支庁長は軍及び警察と協力して警戒にあたっていたところ土匪の頭目簡義、黄丑、何鉄等が雲林の東南約四里にある険しい山間部の太坪頂で暴動の軍議をおこなっているという情報を得た。雲林(Ⅲ)(皿)守備隊長古市龍八郎大尉は中村道明中尉以下兵二十余名と憲兵二名に大坪頂の偵察を命じ支庁員二名がこれに随行した。六月十四日午前三時に本隊を出発した偵察隊はその途中、土匪の待ち伏せをうけ中村中尉以下五名の戦死者と六 法政史学第四十八号

名の負傷者を出して退却した。報告を聞いた古市大尉は自ら一個小隊を率いて現場に急行したが敵兵力が優勢であったため嘉義の台湾守備歩兵第四連隊司令部に応援を要請した。翌十五日、台湾守備混成第二旅団歩兵第四連隊長益田照(羽)(別)遠中佐は第三大隊佐藤常政少佐を指揮官とする歩兵一個中(閉)隊及び歩兵二個小隊と北斗に駐屯していた歩兵二個小隊を(妬)雲林に派遣した。また(口中の混成第二旅団長田村寛一少将には総督府より太平頂付近の土匪を「根底ヨリ之ヲ討滅」(汀)せよとの〈叩く祠が発せられた。佐藤少佐指揮の討伐隊には憲兵、警察官のほか支庁長松村雄之進以下支庁員も武装して従軍し軍隊の誘導、通訳等をつとめることになった。ところが同月十七日、討伐隊の接近を知った大坪頂の敵は戦わず夜陰に乗じて四散し付近の各村落に潜伏して姿を消してしまった。怒りに燃えた討伐隊は翌十八日より土匪捜索を開始し中村中尉ほかの遺体を回収したのち土匪の嫌疑をかけた者を次々と殺害しその家屋に火をつけた。この討伐について混成第二旅団は総督府に対して「土匪三十五(邪)名ヲ殺戦シ諸村落ヲ焼夷セリ」と報告した。のちに松村支庁長は自分は討伐に二日間しか参加しなかったが良民の保護をはかり土匪逮捕のため密告を奨励し家屋を焼き捨てる 一一二ハ

(9)

際は良民に対してその理由と他の家屋への類焼に注意を呼びかける告示をおこなったと総督府に報告した。土匪の捜索及び討伐は二十二日まで続けられ―先ず目的は達成されたと判断した益田中佐は討伐隊を解散して各駐屯地への帰還を命じた。軍隊の撤退にともない土匪が蜂起することを恐れた松村支庁長は一個大隊以上の兵を林杷哺に駐在させることを希望したが結局は雲林守備隊に一個小隊が増員されるにとどまった。討伐隊が解散したのを知った土匪討伐戦の被害者たちは日本官警に対して復讐を誓った。不穏な空気を察知した雲林守備隊はたびたび大坪頂に偵察隊を派遣したがそのつど追い払われ土匪の勢力は日々増大していった。六月二十七日、林杷哺憲兵隊が約三十名の土匪によって(羽)挑発を受けた。林杷哺憲兵隊の安藤直憲兵少尉はこの日の夜に土匪の襲撃があるとの情報を得たため雲林守備隊長古市大尉の救援を求めた。ところが古市大尉は安藤少尉に対して憲兵は非戦闘員であることを理由に林杷浦からの退却を勧告した。この場に同席した松村支庁長は古市大尉に対して戦わずして林杷哺を放棄するのかと質問したところ古市大尉は六月二十七日は土匪が雲林支庁のある斗六街を襲撃するとの噂があったため援軍は送れないのだと答えた。

日清戦争後に於ける台湾の治安問題(柏木) 松村はそれは噂であり林杷哺は現に土匪が迫っており噂に惑わされ事実を度外視するべきではなく、また同地を失えば斗六街が危機におちいることは明白であると援軍派遣を強く要請した。古市大尉は嘉義の益田中佐に電報をうち援軍の可否を相談した。同日午後三時ようやく雲林から林杷哺へ一個小隊が派遣されることになり午後八時、派遣小隊は同地に到着した。翌二十八日午前三時、林杷哺憲兵隊屯所が土匪約三百名の襲撃をうけ憲兵隊は死亡四名負傷七名の損害をだして雲林へ退却した。この報告を受け取った混成第二旅団は嘉義(卯)から佐藤少佐指揮の一個中隊と鹿港から一個中隊を派遣し雲林守備隊とともに「匪徒ヲ根底ヨリ劉滅スヘキヲ命シ」別)た。同二十九日午前五時、集々街憲兵屯所が土匪約三百名の攻撃をうけ憲兵十二名と馬丁二名からなる同憲兵隊は全滅した。そして六月三十日午前一一一時半ごろ一発の銃声を合図に斗六街に土匪が来襲した。土匪の襲撃が始まったその夜、支庁に対して守備隊は護衛も情報も送らなかった。松村支庁長の抗議に対して古市大尉は支庁方面に兵を配置しなかった理由は平素は支庁の警戒は支庁に一任してあると返答した。怒った松村はならば戦時もまた文官に一任するのか、するならば支庁にも軍隊同様の報告があるべきだと

(10)

詰め寄った。ここで佐藤少佐が言葉の行き違いを詫び軍も不意を襲われたため支庁の警備に手がまわらなかったと弁解し古市大尉とともに謝罪した。午前八時、古市大尉は支庁員及び警察官等の文官の退却を勧告したが松村支庁長は文官のみ退却することは不可能であるとしてこの勧告を取り消させた。佐藤少佐以下守備隊の将校は早々に雲林からの退却を主張したが松村は行政的見地からあくまで固守を主張した。しかし佐藤少佐はすでに軍は退却に決定したとして譲らなかった。また雲林警察署長原田則行警部の兵の半数以上が艶れた場合に退却するのかという質問に対して古市大尉はたとえ雲林を死守できなくても最後まで固守したあと退却すると答えた。午前十一時現在の守備隊の損害は三個中隊あわせて将校以下死者三名負傷者七名であったが猛烈な敵の攻撃に守備隊の士気は低下していった。午後六時、松村支庁長は佐藤少佐より退却の準備をするようにと告げられた。松村は死守が無理ならせめて援軍が来るまで固守すべきだと強く主張したが佐藤少佐の「仮令軍律二照ラサルルト雌モ退却ス(犯)ルノ外致方ナシ」という一一一己葉に押切られついに雲林からの退却に同意するにいたった。雲林が襲撃された六月三十日(羽)は南投も土匪数百名の襲撃をうけて山田万四郎大尉以下戦 法政史学第四十八号

死四名負傷五名を出した。また莉桐巷の通信所が襲撃されたことによって電信が各地で断絶し雲林は外部からの情報から遮断されてしまった。佐藤少佐以下雲林守備隊は電信の不通によって心理的にも孤立しこれが雲林退却の最大の原因となったものと思われる。脱出の打ち合せでは前衛一個中隊を先頭に支庁員と警察官等の文官が続き後衛二個中隊がこれを守るはずであった。しかし実際は前衛中隊の姿はなく支庁員と警察官は憲兵の一部とともに自ら血路を開き午後九時半頃莉桐巷に脱出した。憤慨した松村はことの次第を七月一日、台中の台湾守備歩兵第四連隊長益田中佐に上申するとともに総督及び民政局に報告書を提出した。七月二日、混成第二旅団長田村少将は南投守備隊長松居(弧)士口統少佐より土匪の襲撃をうけ防戦しているが弾薬が欠乏し苦戦中との報をうけたため在北斗の台湾守備歩兵第三連(鍋)隊長今橋知勝中佐に救援を命じた。また同日午前十一時ごろ土匪数百名が県庁所在地で混成第二旅団司令部のある台中を襲撃したが午後一時、台中守備隊はこれを撃退した。翌三日には在台北の歩兵二個大隊が応援部隊として台北を出発し混成第二旅団長の指揮下に入った。七月四日午前(犯)四時、北斗か土匪の襲撃をうけ宮永計太大尉以下二名が戦(卯)死し守備隊は憲兵、警察官とともに彰化へ退却した。この

(11)

明治二十九年七月四日付「香港デーリプレス」に雲林事(㈹)件に関する記事が掲載された。同月七日桂総督は混成第二旅団長田村少将に対して軍発第二百八十九号訓令を発し「無事良民ヲ殺害スルハ本島後来ノ治民上甚タシキ害ヲ残スノミナラス彼等激昂ノ余り遂二土匪二加担シ以テ大 結果、彰化と大甫林間には日本兵が一兵もいない状態となった。七月五日、南投に今橋中佐の部隊が到着し松居部隊と協力して敵を撃退した。翌六日には台北から派遣された一個大隊が台中に到着し日本軍の反撃がはじまった。以後約一ヵ月をかけての雲林第二次討伐戦の結果、七月十三日、雲林は今橋隊により奪還された。八月二日、台湾総督府は土匪の勢力は雲林東南一帯の山中にその残余をみるまでとなり炎天下での山中討伐戦はこれ以上困難と判断し混成第二旅団長に対して掃蕩中止を命じた。日本軍の損害も甚大(棚)で七月一二十日までに今橋部隊の損害は死傷百十五名を数えた。

三外国新聞に掲載された「雲林虐殺事件」をめぐる総督府の対応

日清戦争後に於ける台湾の治安問題(柏木) 集団ヲ形成セシムルハニ至ルハ過去二徴シテ明カナリ故二貴官力尚続行セントスル討伐ハ深ク戒餅シテ玉石混清ノ挙錯ナカラシメンコトヲ要ス然しトモ本島ノ土賊ハ一般良民卜区別スルノ因難ナル論ヲ俟夕ス為二深ク軍隊一一要求スレハ其動作ハ緩慢二陥ル一一至ラン故二貴官ハ従前ノ如ク各隊ヲ動作セシメ銃器ヲ携帯セルノミニシテ現一一我二抵抗セサルモノハ一人卜難トモ殺戦スルヲ厳禁シ悉ク之ヲ補縛シ其事詳ナルーー及ンテ其処置ヲ定ムヘシ」と非武装の者の殺戦を厳禁しさらに討伐地には臨時法院を設置するものとするが臨時法院設置には若干の時を要すろ(机)ため容疑者は台中県知事に引き渡すように〈叩じた。ところがイギリスの新聞「タイムス」に雲林事件の記事が掲載されるにおよんで事態は国際問題に発展する様相をしめした。明治二十九年七月二十一一一日、加藤高明駐英公使より外務大臣西園寺公望宛てに電報が届いた。その内容は在香港のタイムス新聞通信員が台湾の某宣教師からの情報として次のような電報を発したというものであった。「日本人ハ台湾島南部二於テ残虐ヲ行上居り六十箇村ヲ焼失シ数千人ヲ殺害セリ或ル曰廿一人ノ支那人無差別二捕縛セラレ其ノ墓ヲ穿チ残忍暴虐二取扱ヒタル上統剣ヲ

(12)

以テ刺殺セリ又或ル時ハ五十人ノ支那人日本人ヲ歓迎セントテ準備ヲ為シ居ル時不意一一攻撃ヲ受ケ殺害セラレタママリ六月二十一一日「ハンーーン」(雲林?・ノ庁長)ハ山中ヨリ帰り来ル様村民二布告シタル一一彼等ハ其ノ帰途ニテ殺致セラレタリト云う一一在り」これに対して加藤公使は「右二対シ反駁ヲ為スヘキ材料ヲ与エラルルコトヲ得ベキャ」と外務省に指示を仰いだので(⑰)ある。また七月二十四日付「ノース・チャイナ・ヘラルド」紙(⑬)に「ムロ湾の日本人」という題名で「(ロ湾の住民に関する限り日本人は文字通り絶滅政策を実施しつつある。それが下関条約の狙いの一つではなかったと思いたくなるほどだ。作物が荒され、村を焼かれ、墓をあばかれ女性が陵辱されて島民は激怒に駆られている。」と日本を非難する内容の記事が掲載された。この記事の中で盗賊の本拠を攻撃すると思った日本軍が意外にも村々を焼き払い村民を殺害しているとし家や食料を焼かれた村民は悲惨な状態にあり三日も四日も死体が放置されているなど不安な様子を伝える雲林の中国人の手紙が紹介された。外務省は西園寺外相名で七月二十五日、桂台湾総督と高島鞆之助拓殖務相に対して照会をおこなった。 法政史学第四十八号

七月二十七日、桂台湾総督は西園寺外相に対し書翰を送り総督府に事実取調べを命じたので改めて回答をおこなうが記者が列記するような「残忍苛酷ノ事実ハ断シテ無之ハ(“)総督二於テ保証致候」と返答した。そして雲林は古来より土匪の巣窟であり良民は彼らに協力しなくては生命財産を守られずまた良民が土匪の間にまぎれてしまい時に或いは非命に蕊れる恐れもあるため戦闘中に間違えがおこらぬよう注意の訓示をおこなったと伝えた。さらに桂総督は七月七日付「軍発第二百八十九号総督府訓令」を発し台湾守備混成第二旅団長に対して厳重注意を与えたことを伝達した。また桂総督は八月五日、総督府に対して「土匪討伐二対シ内外新聞ノ悪評甚夕シ文武官其処置ヲ誤リタル者ハ連(妬)カニ処分シーア報告セョ」と打電し関係者の処罰を命じた。翌八月十四日、加藤駐英公使の第二信が外務省に入った。加藤は台湾での事件についてのイギリスの記者の質問に対して反駁できるように「充分且シ迅速二加害者ヲ処罰セラレンコトヲ切二希望」してきた。同八月二十七日、高島拓殖務相は西園寺外相に対して桂台湾総督の報告書と総督府民政局長水野遵から桂総督宛ての電報の写を送付した。(化)水野民政局長の桂総督宛八月一一十一日着信の電報による

(13)

と水野は「二十一人ノ支那人ヲ無差別二縛シ銃剣ヲ以テ刺殺シタルコト雲林支庁長力村民ヲ山中ヨリ呼戻シ帰路二殺戦シタル事等全ク無根ナリ」とこの件は否定したが「六十ケ村ヲ焼失シ六千人ヲ殺害シタル」ことについては「初メ討伐隊力土匪ノ村落卜認メテニ十余村ヲ焼キ又土匪百数十人ヲ殊戦シタルヲ誇張シ又五十人ノ支那人、日本人ママ三m力)ヲ歓迎スル準備中不意二殺害セーフレシハ海豊林ノ人民ヲ土匪卜認メ其村外ニテ打払ヒタルコトヲ指タルモノナラン」と事実を大筋で認めた。また別紙の桂総督宛ての水野民政局長の報告書によれば六月十八日より同二十二日までの討伐での住民の被害は「二十七庄一千数百戸ヲ焼夷シ土匪八十三名(此八十一一一ママ名ハ軍隊ノ報告ニシテ他ノ報告ニハ一一一百余名トアリ此四マ(灯)百余名トノ報生ロコソ事実ナリト信ス)ヲ殺戦セリ」というものであった。被害者の中には婦女子は一人もいないとするも殺害された者がすべて土匪か良民かは不明であり焼失した家屋は土匪の家屋を焼き払ったところ類焼したものと報告した。また具体的な事例として人家約百戸の海豊喬は良民が多く日本軍を湯茶で接待して迎えたが児玉市(妃)蔵中尉が指揮する討伐隊は軍に同行していた雲林支庁員が寛大な処置を求めたにもかかわらず「命令ナリ」と称して

日清戦争後に於ける台湾の治安問題(柏木) 壮年の男子七八十名を「一斉射撃ヲ以テ之レヲ銃殺シ家屋ハ悉ク焼失」したことをあげ、この事件が在台湾の内外人の中で住民が日本人を歓迎する準備中に不意に殺害されたとの説の根拠になっていると述べた。この児玉中尉の討伐隊は九菖林でも約四十名を殺害し家屋を焼き払っていた。また石榴斑では約七十名が渓辺屑では十数名が殺戦されたことが伝えられた。また松村雲林支庁長が住民を誘き出したという件については六月二十一日付の告示で良民に帰宅を促したが討伐がまだ継続していたため告示を二十三日に引き延ばした。そのためこの告示はあたかも雲林支庁長が住民が家に戻ったところを一網打尽にしようとしたものと住民たちに誤解されたものだと報告された。第二次討伐戦で哺里の奮回を命ぜられた松居少佐がその途中の集々街で警察署長のかざす総督の訓示を黙殺し集々街を焼き払い進撃したのち浦里近辺の約二十五圧の村落を焼き払ったことも報告された。七月二十日付イギリス「タイムス」に掲載された記事の切り抜きが七月三十一日付の駐英公使加藤高明の書翰とともに九月三日、外務省に届いた。この書翰で加藤は「タイムス」の記事は新聞社自体が記事の信愚性に疑問を抱いておりその後の続報も掲載されて

(14)

いないので台湾の残虐行為に関する件は「幸二右風説ハ最早立消ノ姿卜相成居リ候二付此際改メテ之力取消ヲ出スハ即チ得策ナラスト存シ暫ク差控居候」としながら外務省からの電報では事実確認が充分ではない

とし「例ヘハ旅順ロー於テモ兵士等ハ無論右同様厳命ノ下ニアリタルニハ相違無之卜被存候共実際当時ノ如キ出来事モ有之候様の次第」なのでこの件が事実無根であることを主張できるようにしてほしいと述べた。「旅順□」とは明治二十七(’八九四)年十一月二十一日の午後と以後数日間にわたって中国本士の遼東半島の軍港旅順で発生した日本軍による中国人虐殺事件のことである。中国側の統計によると二万人が殺害されたというこの事件はイギリスの一八九五年一月八日付「タイムス」に(㈹)「旅順陥落後の残虐行為」という記事が掲載されたのをはじめ各国の新聞でも取り上げられた。陸奥宗光外相は日本が欧米列強に国際法を守らぬ野蛮国ととられては条約改正交渉にはなはだ悪影響を及ぼすと危慎し欧米の記者に謀略や買収といった手段までとってどうにか事態を鎮静化させ 法政史学第四十八号’一一一一一

(卯)たのである。日本に雷とって「雲林事件」が「旅順事件」の悪夢の再来になることは何としても阻止しなくてはならなかった。加藤駐英公使の八月十八日付の書翰(九月二十一一一日外務(別)省収受)では台湾の件が「事実無根ニアーフサルコ卜梢ャ判然」したため「断然タル取消ヲ差控」たことは好都合であったが同時に「其事実アリタルハ我帝国ノ為メ深ク遺憾一一存候」とし「タイムス」の記事をきっかけに「其他当地ノ諸新聞紙上二之力批評論難ヲ褐ケ我帝国二取り大二不利益ナル世論ヲ惹起スルコト可有之ヤト甚夕懸念致候」と日本軍の蛮行が条約改正をめざす日本にいかに悪影響を及ぼすかを心配した。そして「素卜是等不都合ノ行為ハ其官吏軽忽怠慢又ハ不能二基ツクト軍人兵士等ノ無法乱暴二出タルトヲ問ハス恂二野蛮的残忍タルヲ免レス実一一以テノ外ナル次第二有之候二付テハ審理ノ上当該地二於テ右一一関スル世評ノ生シタル際犯人ノ既二処分一一遇ヒタルコトヲ公示スルヲ得ハ大二非難ノ声「フ薄弱ナラシムルノ効力可有之此際帝国ノ令名ヲ維持スル上一一於テ唯一ノ策卜被存候間本件関係人ノ審理処罰ヲ速ニセラレ其始末直二御報道相成候義不堪希望」と述べた。

(15)

「タイムス」には八月二十五日付で「中部台湾二於ケル反乱」という記事が同月二十七日には「台湾事情」という記事が掲載された。またイギリスの八月二十七日付「スコッッマン」紙には台南の宣教師ダンカン・ファガーソンからの書翰が「台湾における日本人」という見出しで掲載され(犯)た。このうち八月二十五日付「タイムス」の記事については駐イタリア公使栗野慎一郎から問い合せの書翰が十月十二日に外務省に到着した。栗野は地元イタリア紙には同様の記事は掲載されてはいないが「此後如何ノ挙動二出ル歎ハ今ヨリ予測難致次第二有之」として「タイムス」の記事が万一誤報の場合は急いで訂正する必要があるため台湾に(卵)関する実況は以後、常に至急知らせてほしいと要請した。明治二十九年十月二十一日、高島拓殖務相は大隈重信外相に宛てて桂台湾総督より送付された雲林事件に関する(別)「文武官処分ノ顛末及其前後ノ処置に関スル報告書」を提出した。この報告書は「第一苛酷処行ナル問題ヲ引起シママタル源因」「第一一文武官ノ懲戒処分」「第一二捕獲土匪ノ処分」からなり事件発生の経緯と関係者の処分及び今後は土匪を逮捕したうえで臨時法院に送致するという内容であった。この報告書は外務省より同月二十七日、加藤駐英公使並びに栗野駐伊公使と在露、仏、独、塊、米、清の各

日清戦争後に於ける台湾の治安問題(柏木) 国公使に送付された。またこの報告書に添付された送付文書は「残虐ノ行為アリタル文武官」という文言が起案の段(閲)階で「残虐」を「不当」に訂正された。台湾総督府はこの報告書の中で二十七庄、戸数一千数百戸を焼夷し軍隊の報告では土匪八十三名、他の報告では三百から四百名を殺戦し殺害された者がすべて土匪なのか良民も交じっているのか不明であることを認めた。『公爵桂(砧)太郎伝』では「ムロ湾中部の土匪益々椙搬を暹うせしを以て守備隊及ひ支庁長は之か職滅を期せんか為に一時玉石倶に焚くの殺戦を敢てしたり。是れ蓋し、新領土経営の方針未た確定せさると戦後殺伐の気分未た全く収らさる時期とに起りしなりと錐も之か為に中外の物議を醸したりき」として、その責任をすべて「守備隊及ひ支庁長」に負わせている。雲林支庁長の松村雄之進は九月二日、懲戒免職位記剥(印)奪という厳罰に処せられた。また同日か》b雲林支庁管内において窮民に対する救伽が施された。これは八月十四日、天皇皇后から雲林地方の土匪蜂起によって被害をうけた住(昭)民に対して救伽金三千円が下賜されたことによって行なわれたもので玄米の給与、米代金の支給のほか良民罹災者に対して小屋掛の各戸毎に平均五円内外の金員が給付された。雲林守備隊長古市龍八郎大尉と上官の台湾守備歩兵第

(16)

四連隊長益田照遠中佐は明治二十九年九月二十六日に停職(卵)となり翌三十年二月十七日には休職を命じられた。「文武官処分ノ顛末及其前後ノ処置に関スル報告書」には処分された文武官はこの三名だけになっている。しかしその他に雲林派遣部隊の台湾守備歩兵第四連隊第三大隊長佐藤常政(㈹)少佐は明治二十九年八月十三日、軍法会議にかけられた。佐藤少佐は土匪討伐の不手際よりも雲林撤退の責任を問われ、同じく撤退の罪を問われた哺里守備隊長石塚烈三郎大(Ⅲ)尉とともに明治三十年八月八日、剥官位記剥奪の上禁固二(⑰)十年の刑に処せ》られた。しかし彼らに土匪を「根底ヨリ之ヲ討滅」せよと命じた者は処分の対象にならなかった。混成第二旅団長田村寛一少将は監督責任を問われず明治三十年四月八日、近衛第二旅団長に栄転し翌三十一年十月一日(鯛)には中将に昇進して新設の第十二師団長に補せ→われた。また台湾総督府軍務局長立見尚文少将も田村と同日に中将に昇進し総督府軍務長から同じく新設の第八師団長に栄転した。さらに立見は日露戦争に出征したのち旧幕派の桑名藩(例)出身ながら大将に昇進した。「雲林虐殺事件」をきっかけに土匪の嫌疑を受けた者は臨時法院に送致され裁かれることになったが軍隊の銃口から脱した彼等は以後、合法的な手段によって処刑場に送られることとなった。明治三十一 法政史学第四十八号

年十一月五日には未遂罪でも本刑が課せられる苛酷な「匪徒刑罰令」が公布され多くの土匪が刑場の露と消えた。明治二十九年十一月十九日、外務省に十月十七日付加藤駐英公使の書翰が到着した。十月十七日付「タイムス」に最初’の通信者である台南の宣教師と思われる匿名者の記事が掲載されたが加藤は「通信者ノ報道ハ大体二於テ全ク事実卜符合」するためあえて反駁もせずこのまま放置するほかないとし幸にこの件は同年八月トルコの首都コンスタンティノープルで数千人の在住アルメニア人がスルタン政府に(閃)よって殺戦された事件やその他イギリス人に近接な問題がおこったためこのまま埋没しそうであると報告した。加藤の予測どおり雲林事件は日本の国内問題として「土匪討伐ノ際不当之行為アリタル文武官」を台湾総督が「懲戒処分」した段階で決着し国際問題に発展することはなかった。懲戒免職位記剥奪処分を受けて台湾を去った松村雄之進は翌三十年十二月十四日、北海道宗谷・上川支庁長に就任した。この人事は明治二十九年九月十八日に第二次伊藤博文内閣の後を受けて組閣された第二次松方正義内閣の内務大臣となった初代台湾総督樺山資紀の力によるもので(船)あったが懲戒免職位記剥奪の処分者が翌年には支庁長に復職している事実からみても当局が事態を収拾させるために

(17)

松村に対して一時的に厳しい処分を下したものといえよう。松村は明治三十五年の衆議院選挙に久留米から立候(印)補し当選して議員を一期つとめたあと立室唇国民党・憲政〈雪の院外団のり1グーとして活躍した。雲林虐殺事件の処理を済ませた桂台湾総督は第二次松方正義内閣の陸軍大臣候補にあげられ松方首相から入閣の打診をうけた。桂は入閣を望んだが松方は途中で意を翻し同じ薩摩出身で台湾総督府を監督する拓殖務大臣高島鞆之助陸軍中将に陸軍大臣を兼任させてしまい憤激した桂は明治二十九年十月十四日、(開)(ロ湾総督を辞任した。ムロ湾総督には桂と同じ長州出身の第二師団長乃木希典中将が任命され乃木総督は翌十一月九日、台湾に着任した。しかし乃木総督がめざす統治手段は以前と変わらぬ武力支配であり台湾の土匪問題は何の解決も見ることはなかった。

雲林虐殺事件の原因は軍事力による台湾住民への無差別な弾圧にあった。この住民に対する弾圧の背景には明治二(的)十八年四月十七日に締結された日清講和条約第五条があった。樺山総督が台湾の全島平定宣言を行なった翌日の同年十一月十九日、日清講和条約第五条により台湾からの退去 おわりに

日清戦争後に於ける台湾の治安問題(柏木) を希望する者に対して日令第三十五号「台湾及膨湖列島住(、)民退去条規」が発せられた。その内容は「第一条台湾及澄湖列島住民ニシテ本地方ノ外二転居セント欲スル者ハ累世ノ住民卜一時寄留ノ住民トー一論ナク其郷貫姓名年齢現住所不動産等ヲ記載シ明治三十年五月八日以前一一地方官庁二届出へシ其携帯スル家族二就テモ亦同シ」「第二条幼者ノ戸主及地方旅行中ノ者ハ後見人又ハ代理人二於テ退去ノ届出ヲ為スコトヲ得」「第三条土匪暴徒ノ擾乱二与ミシ官軍二抵抗シタル者卜錐トモ帰順降伏シテ兵器ヲ納メタル上ハ本島地ヲ退去スルコトヲ許三「第四条本地ヲ退去スル者ノ携帯スヘキ家財二就テハ総テ海関税ヲ免除三というものであった。台湾総督府は台湾住民に対して明治三十年五月八日までに台湾を退去するか残留するか決めるように通告したがこの退去条規は台湾から中国人をすべて退去させ日本人を移住させるものという誤解を双方に生じさせた。雲林虐殺事件の関係者が処分されはじめた明治二十九年九月十七日、水野民政局長は通達を発し「本島住民二対ス

=二

(18)

ル帝国政府ノ方針二付往々誤解スル者有之」として「本島ノ割譲ハ独り土地ノ統治権ヲ譲与セラレタルノミナラス此土地一一居住スル一一一百万ノ人民二対スル統治権ヲモ併譲七ラレタルコトハ素ヨリ論ヲ俟夕ス」と述べたあと台湾の住民に対して二ヵ年の猶予をもって台湾からの退去を認め退去しないものは「帝国臣民卜看倣乙と規定したにもかかわらず「我官民中ニハ往々帝国政府ノ趣意ハ本島住民ヲ退去セシメ之二代フル内地人ヲ以テスルーー在リトカ或ハ綏撫ノ方針ヲ執ルハ国家ノ為不利益ナリナトト誤想シ之ヲ言論一一発シ之ヲ行為二顕スモノ有之哉二伝承致候処右ハ総督閣下ノ下命ハ勿論帝国政府ノ大方針二背反スル者ナレハ貴下二於テハ心得違ノ者無之様充分御注意相成事宜二依リテハ貴管下内我官民へ御訓達有之度又万一所属官吏等(刊)ニーナ是等心得達ノモノ有之候ハ悩無容赦御処分有之度」と末端の日本官警に対して改めて帝国政府の意思を再確認させていることからみても彼等がなにゆえ軍事力を背景に高圧的な態度で台湾住民に接していたかがよく理解でき

る。台湾守備三個混成旅団(各旅団二個連隊の平時編制)の将兵は台湾全土に中隊単位で配置された。彼らは目の前の士 法政史学第四十八号

匪討伐に追われ自分達の行動が台湾統治に多くの弊害をもたらすことなどを考える余地はなかった。その後もつづいた武力統治の弊害は別稿に譲るとして雲林虐殺事件は台湾の初期統治が民政とは名ばかりのものであったこと、軍人にとって住民虐殺より守備地退却の方が罪が重く旅順虐殺事件の反省など微塵もなかったことを示す典型的な事件であった。

(1)中華民国国立中央図書館台湾分館所蔵同書表紙には「台湾総督府図書館蔵」印ならびに「昭和十五年六月二十七日府警務局ヨリ寄贈」印あり(2)前掲『台湾警察遺芳録』凡例一頁(3)台湾総督府編刊『台湾総督府警察沿革誌』全六巻(昭和七年から同十二年以下『沿革誌巳(4)前掲『台湾警察遺芳録』一頁前掲『沿革誌』(第二編上巻)二六七頁にも土匪の分類について同様の記述がある。(5)小林道彦氏は二八九七年における高野台湾高等法院長非職事件についてl明治国家と植民地領有l」S中央大学大学院論究』十四’一)一一五頁註三七において「土匪」とは〃政治的秩序の壊乱者“と同義であるとし抗日ゲリラ(抗日という政治的目的を結合基軸とする同士的集 ’一一一一ハ

(19)

日清戦争後に於ける台湾の治安問題(柏木) 団)と等置することはできないと述べているが筆者も小林氏の見解と同意見である。(6)台湾憲兵隊編刊『台湾憲兵隊史』(昭和七年一九七八年龍渓書舎復刻)二六頁(7)前掲『台湾憲兵隊史』二○頁(8)台湾総督府陸軍幕僚編刊『陸軍幕僚歴史草案』(以下『歴史草案ご中華民国国立中央図書館台湾分館所蔵第十巻凡例(9)前掲『歴史草案』第八巻四五頁(皿)台湾民主国については黄昭堂『台湾民主国の研究』(一九七○年東京大学出版会)を参照。(、)前掲『歴史草案』第一巻一六頁(Ⅲ)大江志乃夫「植民地領有と軍部」二九七八年『歴史学研究』四六○)’八頁(旧)前掲『歴史草案』第一巻八九頁前掲『沿革誌』第二編上巻一七五頁(u)『歴史草案』第一巻一○○頁(胆)前掲『沿革誌」第二編上巻二六一頁(旧)前掲『歴史草案』第二巻六五頁(Ⅳ)松村雄之進の経歴については吉富莞爾編刊『松村雄之進』(大正十年)を参照。(旧)松村雄之進が新竹支庁長心得に任命されたのは明治二十八年六月十八日である。中京大学社会科学研究所台湾総督府文書目録編纂委員会編『台湾総督府文書』第一巻(一 九九一一一年ゆまに書一房以下『文書目録』)二五一一一頁(四)松村雄之進『雲林土匪事件一一関シ軍隊卜交渉顛末軍隊退却事情』(明治二十九年以下『退却事情ご国立中央図書館台湾分館所蔵『退却事情』の見返しには「当時雲林支庁長松村雄之進民政部報告草案雲林土匪事件一一関シ軍隊ト交渉顛末軍隊退却事情佐々木安五郎立案」とあり「大正九年一月十三日謄写」の印がある。以下特に断らない限り雲林守備隊の退却に関する事実経過は『退却事情』による。(卯)石黒忠寝「在台湾軍病院視察日記」(明治二十九年以下「視察日記」)慶応義塾大学医学情報センター所蔵(Ⅲ)陸軍省編『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿』(明治二十九年七月一日調防衛庁防衛研究所図書館所蔵以下『名簿巳歩兵科士官之部五六頁(皿)前掲『名簿』(明治二十九年七月)歩兵科士官之部一六七頁(閉)前掲「名簿』(明治二十九年七月)歩兵科上長官之部二頁(別)前掲『名簿』(明治二十九年七月)歩兵科上長官之部三○頁(妬)前掲「視察日記」によると明治二十九年十一月一日に石黒が訪れた際の北斗は「戸数九百七十三、人口四千一一百人」であった。(邪)前掲『名簿』(明治二十九年七月)将官之部七頁

=二

(20)

法政史学第四十八号

(町)前掲『歴史草案』第二巻六四頁(肥)前掲『歴史草案』第二巻六八頁(別)前掲『名簿』(明治二十九年七月)憲兵科士官之部二一頁(釦)前掲「視察日記」によると明治一一十九年十月三十一日の台湾中部の港町鹿港は「戸数三千百六十八、人口一万七千七百九十九、其内内地人七戸一一十三人アリ市一一富豪多ク商売交通ノ要所ナリ」と記されている。(皿)前掲『歴史草案』第二巻七○頁(皿)前掲「退却事情』(冊)大植四郎編『明治過去帳』(昭和四十六年東京美術)四九五頁前掲『名簿』(明治二十九年七月)歩兵科士官之部七五頁(狐)前掲『名簿』(明治二十九年七月)歩兵科上長官之部二二頁(開)前掲『名簿』(明治二十九年七月)歩兵科上長官之部二頁(洲)前掲『名簿』(明治二十九年七月)歩兵科士官之部一四三頁前掲『明治過去帳』四九五頁(〃)前掲「視察日記」によると明治二十九年十月三十一日の彰化は「戸数二千四百二十七、人口一万三千四十二中、内地人十三戸五十四人アリテ市街繁栄ナルモ下水ノエ事不完全ナルヲ以テ風土病多キ」と記されている。(胡)前掲『歴史草案』第二巻七七頁 (的)前掲『沿革誌』第二巻上巻四七六頁(Ⅲ)台湾総督府台湾史料編纂会編『台湾史料稿本」(昭和七年以下『稿本』)国立中央図書館台湾分館所蔵台湾総督府は大正十一年四月一日総督府内に台湾総督府史料編纂委員会を設置して「台湾総督府」史料の収集と編纂を行なおうとした。この事業は組織の構造的欠陥と編纂事業の中心人物の相次ぐ病没により中断したのち昭和四年四月二十六日、新しく台湾総督府史料編纂会が設置され編纂事業は再開されたがその目的は史料収集より史料編纂に力点がおかれ昭和七年に完了した。こうして編纂されたものが「台湾史料」でありその主要部分をなすのが「台湾史料稿本』と『台湾史料綱文』である。残念ながら両書ともに誤植が多く編纂事業の社会的信頼性をうしなわせている。『台湾史料綱文』は中京大学社会科学研究所より全三巻として復刻されており「稿本』及び『台湾史料綱文』に関しての解説は中京大学社会科学研究所台湾史料研究会『台湾史料綱文』下巻一一一二七頁の檜山幸夫「解説」を参照のこと。『稿本』での翻訳文は「台湾総督府公文類纂乙一一十三巻ノ五」から引用されている。(Ⅲ)前掲『歴史草案』第二巻七一一一頁(岨)外務省編『台湾南部二於テ本邦人残虐ヲ行ヒタリトノ義一一付在英加藤公使ヨリ実否間合一件』(明治二十九年以下『間合一件』)外務省外交史料館所蔵。以下特に断らない限り、加藤駐英公使からの事実経過は『間合一件」に

ノ(

(21)

日清戦争後に於ける台湾の治安問題(柏木) よる。(蛆)国際ニュース事典出版会編『外国新聞による日本』第一一一巻本編上(’九九二年毎日コミュニケーションズ)四六頁(“)前掲『間合一件』所収、西園寺公望宛て桂太郎書翰(妬)前掲『歴史草案』第二巻七八頁(妬)前掲『間合一件』拓殖務省「秘八六号」(〃)前掲『間合一件』拓殖務省「秘一○|号」明治二十九年十月二十一日付の大隈外相宛、高島拓殖務相の「文武官処分ノ顛末及其前後ノ処置二関スル報告書」では「三百余ママ名又四百余名トアリ此四百四名トノ報告コソ事実ナリト信ス」となっている。(岨)前掲『名簿』(明治二十九年七月)士官之部三一一九頁(蛆)前掲『外国新聞に見る日本』第二巻本編(一九九○年)六○六頁(印)明治二十七年の旅順虐殺事件については、大谷正「旅順虐殺事件の一考察」(『専修法学論集』四十五)を参照のこと(Ⅲ)前掲『問〈ロ|件』「機密第五十一号在台湾日本人残虐行為一一関スル件」(皿)前掲『間合一件』「機密第五十四号在台湾日本人残虐行為一一関スル件」(記)前掲『間合一件』在伊日本公使館「公第七三号」文書(別)前掲『間合一件』拓殖務省「秘第一○一号」文書 (開)前掲『間合一件』「送第二九号」「送第一○九号」「送第仏二六号」「送第独一○六号」「送第澳八七号」「送第露九三号」「送第米九○号」「送第漬八二号」文書(冊)徳富蘇峰編著『公爵桂太郎伝」(昭和四十二年原書房復刊)乾巻七三五頁(印)前掲『文書目録』第一巻四八九頁「明治二十九年台湾総督府公文類纂一永久追加懲戒松村雄之進免官位記返上明治二十九年九月二日」同四九八頁「明治一一十九年台湾総督府公文類纂追加三永久追加懲戒雲林地方土匪討伐一一関シ松村雲林支庁長懲戒処分ノ件明治二十九年八月一日明治二十九年九月一一一日」(肥)宮内庁編『明治天皇紀第九』(昭和四十八年吉川弘文館)一○七頁(明)陸軍省編『陸軍現役将校同相当官実役定年名簿』(明治三十年防衛庁防衛研究所図書館所蔵)(印)前掲「歴史草案』第二巻七九頁(Ⅲ)台中から南東一一一十五キロの標高四百二十二メートルの盆地に位置する哺里は電線を土匪に切断されたため台中との連絡が不通になっていた。雲林を襲撃した土匪が来襲する恐れがあると判断した哺里守備長石塚烈三郎大尉は防禦するには不利と判断し同年七月二十一日、文官らの反対を押切って戦わずして哺里北方の北港渓に退却した。前掲『沿革誌』第二編上巻三七三頁

==

(22)

法政史学館四十八号

(肥)前掲『沿革誌』第二編上巻四一一一六頁『勲位及従軍記章取消並剥奪人名簿』(防衛庁防衛研究所図書館所蔵文庫千代田史料一五一三)によると佐藤常政元少佐と石塚烈一一一郎元大尉は明治一一一十年十二月二十二日付をもって勲位と従軍記章を剥奪されている。(田)外山操編『帝国陸軍将軍総覧』(平成二年秋田書店)一一一八三頁(M)金井之恭『明治史料顕要職務補任録』(三上昭美校訂一九六七年柏書房復刊)’’’’四頁一一一一一一二頁奏郁彦編『日本陸海軍総合事典』(’九九一年東京大学出版会)九一頁(筋)『岩波講座世界歴史二十二近代九帝国主義時代I』所収岡部健彦「世界政策と国際関係」(’九六九年岩波書店)一○七頁二九頁一八九四(明治二十七)年秋に発生したアルメニア人キリスト教徒虐殺事件を解決するために翌年一月イギリスはロシア・フランスと共同で当時トルコ領アルメニア地方の行政改革案をトルコに提出することになった。ところが同年九月にふたたび虐殺事件がおこると今度は翌一八九六(明治二十九)年八月、トルコの首都コンスタンティノープルでアルメニア人による復艸がおこなわれた。これに対してトルコ政府は首都に在住するアルメニア人数千人を殺戦した。この虐殺事件はイギリスが主導となって列強を動かしアルメニア人迫害の停止とアルメニア地方の行政改革 案をスルタンにのませた形で一応解決した。(船)前掲『松村雄之進』二九頁(師)前掲『松村雄之進』所収「松村雄之進君小伝」五頁この小伝は松村が明治三十五年春の衆議院選挙に立候補した際に刊行され配付されたものであるが同書では松村が雲林支庁長を免職のうえ位記返上になった件は雲林退却をめぐって文武間の軋礫から喧嘩両成敗となったのだと記されている。(冊)前掲『明治天皇紀第九』’二三頁一一一一五頁(的)外務省編『日本外交年表竝主要文書』上巻(昭和四十年原書房)一六六頁「第五条日本国へ割与セラレタル地方ノ住民一一シテ右割与セラレタル地方ノ外二住居セムト欲スルモノハ自由一一其ノ所有不動産ヲ売却シテ退去スルコトヲ得へシ其ノ為メ本約批准交換ノ曰ヨリ二箇年間ヲ猶予スヘシ但シ右年限ノ満チタルトキハ未夕該地方ヲ去ラサル住民ヲ日本国ノ都合二|因り日本国臣民卜視為スコトアルヘ、と(、)前掲『歴史草案』第一巻九三頁(Ⅶ)前掲『歴史草案』第二巻八四頁(付記)本稿執筆にあたり御指導をいただいた法政大学文学部教授安岡昭男先生と中京大学法学部教授檜山幸夫先生に、また中華民国国立中央図書館台湾分館における史料調査に御協力をいただいた台湾大学歴史研究所碩士班の酒井郁氏に心から感謝を申し上げます。 ’四○

参照

関連したドキュメント

宛)註(8)中第六十五回帝国議会貴族院請願委員第三分科会

 ジョルジュ・マルシェ、世界政治資料編集部編訳﹃民主的変革の探求社会主義へのフラソスの道﹄新日本出版社 一九七六年

注 ⑴  前号まで掲載した書信の数の一覧には誤りがあり︑本号で全て訂正した︒以下に訂正表を掲げる︒︵誤︶一九四〇年    周十二通︑松枝七通    ︵正︶一九四〇年   

(二) 同月一一日再び組合三役を謎責処分に付した。 ’一月九日、賃上げ紛争は妥結したが、会社は

同『明治十三年九月 大日記 太政官』日第152号,同『明治十三年八月 大日記 各部各局』給水局第44号,同『明治十

二等大路第二類第四號 壽町屋島線擴築工事 延長 一六五,三米 幅員 一五米 着手 昭和十一年十月二十三日 竣功 昭和十四年三月三十一日.

︵八十一︶高野口町誌編纂委員会﹃高野口町誌   下巻﹄ ︵高野町教育委員会、一九六八年︶三八

、-ノ、-ノ、、ノ、_ノ、=ノ.、.ノ、ミーノ、=ノ、.ノミロノ里./、-ノ