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日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(13) -戦時大本営編制の成立と日清戦争期の戦時平時区分-

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(1)Title. 日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(13) −戦時大本営 編制の成立と日清戦争期の戦時平時区分−. Author(s). 遠藤, 芳信. Citation. 北海道教育大学紀要. 人文科学・社会科学編, 61(1): 39-53. Issue Date. 2010-08. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/2263. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) 北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編)第61巻 第1号 JournalofHokkaidoUniversityofEducadon(HumanitiesandSocialSciences)Vol.61,No.1. 平成22年8月 August,2010. 日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(13) 一戦時大本営編制の成立と日清戦争期の戦時平時区分−. 遠 藤 芳 信. 北海道教育大学函館枚日本・東アジア国際関係史研究室. Wartime Organization and Thought of the Mobilization Program. beforetheRusso−JapaneseWar(13) ENDO Yoshinobu. DepartmentofInternationalreladvehistoryofJapan−EastAsia,HakodateCampus,HokkaidoUniversityofEducation. 概 要 本研究の目的は日露戦争(1904∼1905年)に至るまでの日本陸軍の戦時編制の歴史的変遷と成立過程を明 らかにしつつ,そこにおける動員計画思想を考察することにある。本稿は,特に,1894年6月に戦時大本営 編制が制定されると同時に日清戦争期の陸海軍の戦争計画と統帥の最高機関としての大本営が設置されるに 至った過程を検討し,さらに,日清開戦をめぐる戦時平時区分の明示化措置を考察するものである。. 271894年日清開戦前における戦時大本営編制の制定 (丑 参謀本部における1893年の戦時大本営編制案の起案. 大本営は戦時における陸海軍の戦争計画と統帥の最高統轄機関である。1894年制定の戦時大本営編制は, 大本営の構成職員の組織編成を初めて制度化したものである。 さて,日清戦争開戦前の1894年6月5日に裁可・制定された戦時大本営編制の起草は,従来の文書史料に よれば,「明治二十五年の末即ち戦時編制書及び戦時諸規則の略ぼ脱稿せし後ちなりき」等の記載があるよ. うに,1892年末とされてきた。(1)これに対して,本研究の前満は,戦時大本営編制は1893年戦時編制の制 定過程において,すでに1891年戦時編制草案(1891年10月)の調査・起草の段階でその基幹部分が調査・起. 草されていることを考察した(帝国全軍構想化路線の展開)。(2)っまり,陸軍の戦時編制の構想が先行し, 成熟・成立した上で戦時の大本営編制が同時に調査・起草されたのである。ただし,戦時の大本営編制には 他省庁が関与することもあり,陸軍の戦時編制の調査・起草・起案から分離され,独自の「戦時大本営編制」 として別個に調査・起案されるに至ったとみてよい。そして,その独自の戦時大本営編制の調査・起案がま とまったのは1893年2月7日であり,戦時の大本営の設置及び大本営の参謀長を参謀総長とする戦時大本営. 39.

(3) 遠 藤 芳 信. 条例案(全4条)とともに,職仁親王参謀総長は同日付で大山巌陸軍大臣との内議(戦時大本営条例施行に. かかわる平時の海軍と参謀総長との関係に関する「陸海軍交渉手続」(案)の規定化を含む)に入った。(3) 参謀本部起案の戦時大本営編制案は,1891年戦時編制草案の第2篇の大本営の記載部分をほぼ踏襲し,ま ず,第1章を「定員」と表記した上で,「大本営員ハ武官部及文官部ヲ以テ組織ス但文官部ノ人員ハ臨時規 定ス」と起案している。ここで,文官部の人員は,1891年戦時編制草案記載の宮内省官吏と内閣総理大臣他 を想定していることはいうまでもなく,政府・軍部・宮廷のトップから編成される大本営の編制は帝国全軍 構想化路線の具現化である。次に,第2章の「任務」においては,大本営幕僚の参謀総長は陸海軍の大作戦 を計画奏上するが,その時に陸海軍参謀の上席将官は陪列し,また,陸海軍大臣が同地所在時には陪列する と起案した。これによれば大本営は移転・移動を前碇としていて,戦地・戦闘現場密着の戦争計画の最高機 関において,陸海軍大臣の陪列も含む儀式的雰囲気の中で戦争計画の裁可手続がとられる。また,参謀総長 は部下の各機関をして各自分担の任務を尽くさせて「協力一致全軍ノ目的ヲ達セシムルノ責二任ス」という 責任があるが,ここでの「全軍」とは,上記の参謀本部起案の2月7日の戦時大本営条例案の第2条に記載 された用語の「帝国全軍」にほかならない。その他,参謀総長は地方官に当該方面の実況を報告させ,大本 営管理部長(少佐1名)は大本営の移転・移動にかかわって宿営設備・行軍衛戊の勤務を規定し,また当該 地に地方警察署がある時は地方官と協議して所要の警戒をとり,大本営憲兵長は管理部長に隷属して「土民 ヲ鎮圧スルノ任」があるとし,蛸重兵士官は管理部長に隷属して大本営の移転・行軍中において行李を指揮 する,等と起案された。また,陸海軍大臣は上記のように参謀総長の陸海軍の大作戦の計画上奏に陪列する が,軍の現状及び将来の情況を明らかにすること等が起案された。以上の起案によって,1891年戦時編制草 案の第2篇の大本営のありかたがさらに明確にされた。すなわち,1893年戦時大本営編制案は,究極的には 国内陸上某地域が主戦場・決戦場になることを想定した上で,当該某地域近辺における大本営の移転・移動 を基本にした編制思想を含み,かつ,「陸軍主導」の戦争指導最高機関の構築を明確化したものである。 (卦 大本営職員配属名簿調製及び海軍の回答引き延ばし. さて,戦時大本営条例が同1893年5月18日に制定されたことをうけて,大山陸軍大臣は5月24日付で西郷 従道海軍大臣に対して,以上の参謀本部起案の戦時大本営編制案と「陸海軍交渉手続」(案)の内議に入った。 しかるに,西郷海軍大臣は同年の12月に至っても何等の回答も示さなかった。それで,参謀総長は12月7日 付で陸軍大臣宛に他の戦時諸条規を決定する上で支障が少なくないとして,海軍大臣の回答を催促してほし いと照会した。参謀総長が海軍大臣の回答を催促したのは,1893年の戦時編制の裁可・制定を目前にして, 同12月7日付で翌1894年度の出師準備調査にあわせて出師準備訓令,出師準備訓令附録,出師準備調査及報. 告規則の仮制定に関して陸軍大臣との協議等を進めていたからである。(4)すなわち,戦時編制が裁可・制 定される段階を迎えて,出師準備訓令等が陸軍省の同意を得て制定されれば,参謀本部は1894年度の出師準 備調査においては,戦時編制を実現すべき動員(出師準備)の計画の諸調査に加えて大本営及び軍司令部の 諸職員の配属予定名簿も作成する方針であった。そのため,12月23日の戦時編制の制定と同時に,陸軍大臣 は出師準備訓令等の制定(仮定)を各師団等に通知した(送乙第1921号)。この結果,翌1894年2月には戦. 時の大本営の職員配属予定名簿も調製されることになった。(5)これは,1893年戦時編制においては大本営 編制の規定自体は分離起案の措置がとられたが,戦時大本営編制が制定されるに至るまでは,1893年戦時編 制の起草・起案段階の大本営の編制案にもとづく諸職員の配属を予定せざるを得ないという考え方をとった ことによる。つまり,参謀本部は,海軍側の回答がなければ,戦時編制関係の諸計画を先行させて調査・立 案することはできないという焦燥感をもっていた。 しかし,海軍大臣は翌1894年2月を迎えても回答しなかった。そのため,陸軍大臣は2月17日付で海軍大 臣宛にさらに催促を促したが,海軍大臣は2月19日付で「日下頻リニ調査中」「尚数日ヲ要スル見込」と述. 40.

(4) 日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(13). べて回答を引き延ばし,最初の内議から約1年後の5月16日付でようやく陸軍大臣宛に次の回答を発し. た。(6)西郷海軍大臣の1893年戦時大本営編制案に対する回答は主に,①第1章の「定員」における「大本 営員ハ武官部及文官部ヲ以テ組織ス但文官部ノ人員ハ臨時規定ス」という文言を削除し,②第2章の最後の 「陸海軍大臣」に関する規定を削除するものであった。海軍大臣の回答(丑は,大本営の構成職員から文官部 規定を拒否する構えが明確に含まれたものである。海軍側の「陸軍主導」の拒否の構えは(海軍側の立場か らみれば仮に当然であったとしても),つきつめれば文官排除の構えであったと称しても過言ではない。さ らに,回答(卦は,海軍大臣は大本営に積極的に関与しないので,陸軍大臣も関与すべきでないとするような 構えが含まれ,「協力一致」からはほど遠い姿を示している。大山陸軍大臣は翌17日付で海軍大臣回答を参 謀総長にそのまま通知した。海軍大臣回答に対して,参謀本部側は苦慮した。その結果,参謀総長は5月28 日付で陸軍大臣に対して,軍隊の作戦を支える軍需品の補給と整備のために戦時大本営編制中に陸軍大臣を 置くことだけは最も緊要であるとして,さらに海軍大臣と協議してほしいと要請した。その結果,陸軍大臣 は6月3日付で海軍大臣に再応協議した。この間,約1週間の空白があるが,下記の朝鮮国情勢に向けた当 面の軍隊派遣を統轄するための機関としては,陸軍側は特別な臨時的機関の設置によって対応する方針であ り,戦時大本営編制は戦時の編制として制定されていればよいという構えであったことを反映している。 (卦1894年の朝鮮国情勢と軍隊派遣の閣議決定. ところで,当時,日本国内の新聞紙上でも,前年からの朝鮮国全羅忠清両道での農民反乱戦争(当時は「東 学党の乱」等と記述されてきた)が「猫狭」(獣のように荒れ狂う)を極めているとされ,朝鮮国政府は鎮 静化できない状況が報道されていた。農民反乱戦争は朝鮮国の開氏一族系の「勢道政治」が生み出した「貧. 官汚吏」の「虐政」を一掃し,「輔国安民」をめざしていた。(7)朝鮮国政府内では農民反乱戦争を自力で鎮 静化できない場合には清国への兵力依頼も予想されていた。参謀本部は以上の朝鮮国の状況調査のために5 月20日に伊地知事介砲兵少佐を釜山に出張させていた。伊地知少佐は京城の日本公使館附武官渡辺鉄太郎砲 兵大尉と釜山領事館総領事室田義文と協議し,また,日本公使館代理公使杉村溶と通信往復するなどして情 報を収集し,同30日に帰国し,同夜川上操六参謀次長宅で朝鮮国の情勢を談話していた寺内正毅等に合流報. 告し,6月1日には参謀総長にも出張結果を報告した。(8) 他方,職仁親王参謀総長は,現在の朝鮮国の政治情勢においては,朝鮮国政府は農民反乱を鎮圧できず, そのため清国からの兵力支援を必ず求め,清国もまたその請求に応ずることは必至と認識し,朝鮮国居留日. 本人の保護と権勢維持のために日本も出兵する必要があるとして,伊藤博文首相と「謀議」したとされる。(9) この「謀議」の日時は不明であるが,おそらく6月1日であろう。俄仁親王は前年以降,すでに伊藤首相に 対して,高齢等の理由により参謀総長辞職を請願していたとされている。しかし,5月10日に天皇から1896. 年まで留任して勤務を続けることの命令が下されていた。(10)辞意をもらしていた職仁親王からみれば,仮 に戦端が開かれれば,さらなる負担が加わることになることはいうまでもない。伊藤首相からみれば,清国 出兵問題は自己が締結責任者であった1885年天津条約の管理にかかわるものであり,5月上旬の清国軍艦の 便宜供与をうけた朝鮮国政府の征討軍派遣を含めておだやかに済まされるものでなかったとみてよい。そし て,この「謀議」のなかで. ,事案処理の統轄機関の構築を含むおよその軍隊派遣の方向が双方で了解しあっ. たとみてよい。統轄機関の構築では,おそらく,職仁親王を「総裁」とすることであったとみられる。 そして,本「謀議」後に,ただちに参謀本部は職仁親王が「総裁」(特命総裁)に就くことを前提にして. 軍内外に向けた7件の命令案等の起草に入った。(11)すなわち,「第一号 混成旅団戦闘序列」,「第二号 旅団長二与フル命令案」,「第三号 特命総裁ヨリ混成旅団長二与フル命令」,「第四号 特命総裁ヨリ混成旅 団長二与フル訓令」,「第五号 一般国民二達スル勅令案」,「第六号 陸海軍へ令達案」,「第七号 陸軍大臣 ヨリ第五師団長二与フル訓令案」である。この中で,特に「第六号 陸海軍へ令達案」は「今般朝鮮国二内. 41.

(5) 遠 藤 芳 信. 乱蜂起シ勢益々猫狭ナルノ報アリ依テ同国二及国民本邦公使館保護ノ為メ軍隊ヲ派遣ス之二関スル陸海軍ノ 事項ヲ特二俄仁二命シ総裁セシム 総裁ハ陸海軍将校及同相当官ヲ以テ所要ノ機関ヲ編制スヘシ」と起草さ れ,下記の6月2日の「御沙汰」の起案原文になった(その他の起草修正関係は,注㈹参照)。 さて,翌6月2日に臨時閣議が開催された。そして,同閣議の最中において,陸奥宗光外務大臣から朝鮮 国政府が清国に農民反乱鎮圧の軍隊派遣を要請したことが報告された(朝鮮国駐在代理公使の杉村溶発の電. 信)。(12)同閣議では,陸奥外務大臣が朝鮮国における日清権力の均衡維持のための軍隊派遣を述べ,閣議 として一致了承し,同閣議の案件の決議文書の表題は「朝鮮国内乱二関シ兵員派遣二関スル方針」とされた。 すなわち,朝鮮国の「乱民」が将来京城又は他の日本居留地に侵入することもありえるとして,「公使館及 国民ヲ保護スル為二兵員ヲ派遣スルノ必要アリ」と述べ,今回の朝鮮国の事態は天津条約第3条上では「急 速ノ事変」にかかわるものであり,清国と「公文知照」して直ちに出兵することを適当とした。そのため,. 速やかに派遣の準備をすべきであるとした。(13) その後,同閣議においては職仁親王参謀総長と川上操六参謀次長の臨席を求め,軍隊の派遣概要の内議を すすめたとされる。この内議に関連して,6月2日の閣議決定が派遣兵力規模を含めたものであったか否か については,日清開戦主導者の特定を含めた議論があるが,上記のように閣議決定の範囲は軍隊派遣のみで あった。それ故,閣議での上記案件決定後の内議においては,歩兵1個旅団の派遣とその経費予算化が了解 されたとみてよい。すなわち,注¢飢こも示したように,歩兵第九旅団の派遣の閣議了解である。しかし,そ の後,特に,派遣兵力の編成・規模は閣議了解とは異なり,陸奥外相と川上参謀次長との意思の一致により,. 平時の1個歩兵旅団から混成旅団に「強行変更」されたことが特筆されなければならない。(14) 閣議及び参謀総長等臨席による内議の後,伊藤首相は軍隊派遣に関する天皇裁可を仰ぎ,直ちに裁可され た。そして,陸軍大臣・海軍大臣及び参謀総長・海軍軍令部長に対する「勅語」(「今般朝鮮国内二内乱蜂起 シ其勢猫狭ナリ依テ同国寄留我国民保護ノ為メ兵隊ヲ派遣セントス卿等宜シタ協議ヲ褐シ適宜二処分スヘ シ」)と,職仁親王への「御沙汰」(「今般朝鮮国二内乱蜂起シ勢ヒ猫狭ナル為メ同国寄留本邦人民保護ノ為 メ軍隊ヲ派遣ス依テ俄仁二命シ陸海軍二間スル事項ヲ総裁セシム 総裁ハ陸海軍将校及同相当官ヲ以テ所要. ノ機関ヲ編制スヘシ」)(15)が下された。ただし,ここでの「総裁」は,「謀議」の時期とは異なり,清国軍 隊の派遣要請が確実になった段階でのものであり(かつ清国軍隊の即時派遣が見込まれる),清国軍隊との 接触等がありうることも想定される日本の陸海軍の進退を統轄する機関として置かれたとみてよい。なお, 6月2日の「勅語」及び「御沙汰」の正文からは「公使館保護」の文言が消えた。注拙のように6月5日の 監軍部や各師団司令部等への動員通知にも記述されなかった。日本公使館(のみ)が何故に保護されなけれ ばならないかということは,外国公使館側からみれば積極的理由がなく,政府の公文としては適切ではなかっ た。. ④ 戦時大本営編制の制定−「特命総裁」から大本営の設置へ− さて,翌6月3日は日曜日であったが,陸軍大臣官舎において児玉源太郎陸軍次官や動員担当の参謀本部 員寺内正毅等が協議し,混成旅団の二次にわたる輸送手続き等と第五師団の動員計画その他郵便体制や兵端 監部・兵端司令部職員の任命手続等を決定した。そして,同夜9時に参謀本部の東条英数歩兵少佐は第五師 団への動員に関する細部の伝達・説明のために東京から広島に向けて出発した。さらに,同3日の陸軍大臣 官舎での協議においては,上記の混成旅団長等に対する参謀本部の7件の命令案等の起草に対して検討が加 えられた。たとえば,「第一号 混成旅団戦闘序列」には混成旅団の参謀は未記載で,かつ兵端部の兵端監 は古川宣誉工兵大佐が予定されていたが,参謀には長岡外史歩兵少佐を,兵端監には陸軍省軍務局第二軍事. 課長の竹内正策歩兵中佐をあてることになった。(16)また,「第五号 一般国民二達スル勅令案」は「朝鮮 国二内乱蜂起シ勢益々猫狭ヲ極ム同国政府ノカ能ク之ヲ鎮圧二導カサルノ情況二迫レリ依テ同国二在ル本邦. 42.

(6) 日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(13). 公使館領事館及国民保護ノ為メ軍隊ヲ派遣ス」と起草されていて,政府としての積極的な構えを示す意図が あったものと考えられるが(あるいは対外硬派的世論に迎合している面もあるが),朝鮮国政府への否定的 評価にかかわる文言があり,また,軍隊派遣を内密に実施するためには一般国民に公表する必要がないとし てとしてボツにされた(ただし,軍隊内部には増補文言が施されて発された)。すなわち,陸軍側は軍隊派 遣にかかわる陸海軍の統轄は,「御沙汰」にもとづき「特命総裁」としての職仁親王のもとにすすめること を前碇にして,混成旅団の編成と動員の準備にとりかかっていたのである。この場合,清国軍隊の即時派遣 と「公文知照」が確実に予想される中で,日本の軍隊派遣は清国軍隊との接触・衝突の可能性も推定されて いた。. それ故,翌4日の午前10時から開催された陸軍大臣官舎での陸軍と海軍との協議集会においても(陸海軍 両大臣と両次官,参謀総長・参謀次長と局長,海軍軍令部長と局長が出席),陸軍側は軍隊派遣にかかわっ てその進退と清国軍隊との衝突も想定・考慮したうえでの陸海軍を統一的に統轄する権限をもつ機関とし. て,「特別総裁」の設置を主張した。(17)注㈹の『明治天皇紀 第八』(430−431頁)に「軍事動作と政府の 意向とを相応ぜしめんがため,特別統帥部を設くるの必要あり,偽りて従来の慣例に拠り,総督府を設置す る議ありしも行はれず」云々が記述されているが,この「特別統帥部」の設置を主張したのは「特命総裁」 の機関名で諸命令・訓令を起草してきた陸軍側であるとみてよい。陸軍側は清国軍隊との衝突も想定してい たが,現時点を(法的には)平時であると認識していたことを意味している。しかし,海軍側は,「特命総裁」. 又は「特別総裁」「特別統帥部」等の機関名称による特別な臨時的機関の設置は,事態が平時のままに推移 するという認識が含まれる結果,政府への意向対応の比重が当然に大きくなるとして,賛成しなかったので あろう。. その後,同4日の深夜(午後10時)に至り,西郷従道海軍大臣は昨年から陸軍より照会されていた戦時大 本営編制にもとづく大本営の設置を発諭したとされている。西郷海軍大臣の大本営設置の発論は,1個旅団 派遣程度の事態においては過大という受けとめ方もあったが,他案もないということで陸海軍側双方から賛 成された。それは,当面は1個旅団派遣程度の事態であっても,将来は陸軍海軍の全兵力の動員がありえる ことで賛成されたのであろう。他方,西郷海軍大臣は,注㈹のように「外征派」とみなされていたが,その 発論は軍隊及び国内の雰囲気と世論等を一気に戦時の事態にもっていきたいとする戦時誘導論によるもので ある。もちろん西郷海軍大臣は,大本営が陸海軍の作戦計画上の最高統轄機関であることを認識していた。 そして,参謀本部起案の戦時大本営編制案が「陸軍主導」の編制構想を含んでいたことに違和感をもち,上 記のように約1年間も回答を引き延ばしてきた。それゆえ,西郷海軍大臣が大本営設置を云々する場合には, 戦時大本営編制案や大本営自体に積極的に賛成したのではない。西郷海軍大臣の発論は戦時の事態やその契. 機をいち早く招来させたいとする気分の先行にもとづくものであって,戦時平時の法的区分に準拠したもの でもなく,戦時平時の区分を自覚したものでもない。つまり,当時の時点においては,法的には戦時編制の 頂点に立つ大本営の編制・組織・機関等の組立てをとりあえず6月2日の「御沙汰」にもとづき軍制技術的 に平時に借用・準用するものであった。したがって,戦時大本営条例や戦時大本営編制にもとづき大本営が 置かれたとしても,そこから単純に逆算・類推して事態がただちに法的に戦時に移行したと認識されたこと ではない。前満で述べたように,すでに,1890年3月末からの愛知県下での陸海軍連合大演習では天皇の行 幸行在所が「大本営」と称されていたこともあり,当時においては大本営設置をめぐる戦時平時の法的区分 に対しても自覚的でなかった。近代日本では軍隊のありかたや編制をめぐって,戦時平時の区分の自覚化が ないだけでなく,そもそも戦時とは何かということが解明されず,戦時・戦場の究極的な事態や姿を冷静に 迎えて向き合うこともなかった。その上で,戦時大本営編制制定と大本営設置にもとづく戦時誘導論は国内 向きの軍隊の内輪的なものとしては有効であったとしても,同設置が公表される場合には,対外的には戦争. 43.

(7) 遠 藤 芳 信. 開始に対する日本政府の積極的な姿勢や対応が露呈されることになり,外交上及び作戦上は逆に支障が生ず ることは想定されることであった。そのため,戦時大本営編制制定及び大本営設置は秘密扱いにして公表し ない方針がとられた。つまり,当時は,陸海軍の軍隊派遣にかかわる陸海軍事項の総裁としての大本営の設 置を含めて,戦時平時の区分のありかた等が公開的に議論されることもなかった。 かくして,6月4日の陸軍と海軍の協議集会に待機していた当時の田村恰与造歩兵少佐(参謀本部第一局 局員)は,その場で動員令と戦時大本営編制に関する上奏書類調製を命ぜられることになった。しかし,田 村少佐は,従前の海軍側における戦時大本営編制案中の陸海軍大臣規定の削除回答に対する6月3日付の陸 軍側の陸軍大臣のみを加えることの再応協議の照会への海軍大臣回答が未決・未着であるが故に,海軍大臣 にその回答をたずねた。これに対して,西郷海軍大臣は海軍次官及び海軍軍令部長等とその場の別席で密議 した後,大本営には陸軍大臣のみを加えて海軍大臣規定は削除してほしいと回答した。この結果,田村少佐 は帰宅して動員令と海軍大臣を削除した戦時大本営編制の上奏案を調製し,翌5日朝に参謀総長自宅に赴い て参謀総長に渡した。その後,田村少佐は参謀本部に出勤したが,大本営に海軍大臣をも加えてほしいとす る海軍次官発陸軍次官宛の修正回答の通知書に接した。海軍側は「編制権衡上」において海軍大臣も加える という回答であった。田村少佐は海軍の修正回答に対しては海軍次官との電話確認を経たが,参謀次長・局 長との連絡がつかず,午前11時予定の動員発令に間に合わせることが出きるか否かも含めて,「心中甚だ穏 かならず」という気持ちであったが,「陸海軍に衝突を生じ之が為め万一にも大事を引起しては実に一大事. たり」と決断したとされる。(18)そして,田村少佐は宮内省に行き,宮中に居た参謀総長に「この場合は耐 忍して海軍の望みを入るるは将来陸海軍の協同と親密と云ふ事に最も必要なる事」を述べ,参謀総長の修正. 了承を得て戦時大本営編制の上奏書類を修正して提出したとされている。(19)かくして,戦時大本営編制は 同5日に参謀総長からの上奏を経て直ちに裁可・制定された。したがって,以上の戦時大本営編制の制定過 程からみれば,西郷海軍大臣を含む海軍側には6月2日の「御沙汰」にもとづく陸海軍進退の統轄機関の設 置に関しても一貫的な定見はなく,(軍制上は)アナーキ的傾向と受けとめられるものである(注(2)の拙稿参 照)。. ところで,大本営の設置理由は下記のように参謀総長から6月5日に口奏された。(20)すなわち,「今般 朝鮮国へ出兵二付大本営ヲ東京二設置ス但帝国全陸海軍ヲ動員スルニ至ル迄ハ戦時大本営編制中所要ノ部局 ノミヲ置キ其人員モ亦減少ス. 理由 朝鮮国へ出兵スルニ就テハ其事悉ク陸海軍二渉り大作戦上ノ計画. 及其統御ヲ敏活ナラシメサレハ機ヲ逸スルノ虞アルヲ以テ大本営ヲ置キ陸海両軍ヲシテ協同一致ノ動作ヲ為 サシムルノ計画ヲ為スコト最モ緊要ナリトス」記述されている。つまり,将来は陸軍海軍の全兵力の動員が ありうることを前碇にした大本営の設置であった。また,参謀総長は,大本営を宮中に置くか又は参謀本部 に置くかということについては,その場で「陛下ノ叡慮ヲ仰カサル可ラス」として天皇の判断を仰いだが, 参謀本部内設置の天皇命令があったとされている。天皇としては当面は大本営設置に距離をおくことにした のであろう。ただし,戦時大本営編制の管理者としての陸軍側としても参謀本部内設置は大本営設置の秘密. を保つ点などで効果的とみなされた。(21)その後,6月5日の大本営設置後の7日に閣議が開かれ,内閣総 理大臣伊藤博文から第九旅団長陸軍少将大島義昌と常備艦隊司令長官海軍中将伊東祐享のそれぞれに発する. 「朝鮮国派遣二付キ訓令」(全8項目)が決定された。(22)また,同訓今は伊藤首相から同7日付で上奏され, 裁可された。その後,大本営の設置は8月5日の公表(宮中への移転)までは秘密化された。. 28 日清開戦と戦時平時の区分規定等をめぐって さて,6月5日の第五師団の一部動員によって混成旅団が広島の地において編成された。混成旅団の編成. 44.

(8) 日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(13) 及び朝鮮国への派遣にかかわる輸送運搬・諸予算編成・会計経理・兵端体制(国内及び朝鮮国仁川)等につい. ては,7月20日までを中心にしてすでに述べておいた。. (23). その後,清国艦隊に対する7月25日の豊島沖海戦及び清国陸軍に対する7月29日の成歓での戦闘を経て, 日本は8月1日に清国に対する「宣戦詔勅」を公布し,日清戦争が開始された。そして,戦争開始等によっ て,戦時諸法令規則の施行・適用等が問題になった。この場合,戦時諸法令規則の施行・適用において重要 なのは,戦時平時の区分月日の指定・確定の問題と,その区分月日の指定・確定にもとづき,諸官街及び諸 個人あるいは特定地域や外国に対する戦時諸法令規則等の施行・適用・告知を含む一般的な公布・公示の問. 題である。(24)本稿では特に戦時平時の法的な区分規定とその明示化問題に関して考察しておく。 ① 戦時平時の区分月日指定をめぐる第二師団質疑と大山巌陸軍大臣の閣議論議 まず,戦時平時の区分月日に関する質疑を掟出したのは第二師団参謀長の大久保春野であった。大久保第 二師団参謀長は8月4日付で陸軍次官宛に「法律規則中戦時卜称スルコトハ去ル十五年布告三十七号二在り 今回ノ詔勅ハ同号二云フ布告二該ルヤ」と伺い出た。. (25)さらに,同6日付で同質問に対して至急回答して. ほしいと願い出た。第二師団は戦時平時の区分と犯罪者の取り扱いとの関係を早く承知して処置したいとい う実務処理上の事情があったものと考えられる。しかし,大久保第二師団参謀長の質疑は,1882年太政官布 告第37号布告(「凡ソ法律規則中戦時卜称スルハ外患又ハ内乱アルニ際シ布告ヲ以テ走ムルモノトス 右奉 勅旨布告候事 太政大臣三条実美」)と「宣戦詔勅」との該当関係を問うものであり,同太政官布告第37 号に対する何らかの認識・判断の回答をせまるものであった。当時,6月2日以降,陸軍省はすでに大蔵省 と協議して朝鮮事件費諸予算編成をすすめ,臨時・戦時給与関係や経常費と臨時費との区分措置等について. は動員下今の月日等を基準にして明確化していた。(26)それ故,第二師団の質疑は,もちろん以上の予算・ 会計経理や戦時給与等にかかわる既定の戦時限界を越えた次元の事案として陸軍省に受けとめられた。 この結果,陸軍省副官は同6日付で,第二師団の質疑の件は詮議中であるが「当省限リニテ答フルヲ得ザ. ルモ知レス」と回答した。(27)当時,第二師団からの伺いに似たような質疑は他官衝からも掟出されていた ようであり,当該事案は重層的内容を含むとみられ,陸軍大臣官房は戦時始期月日が判然化しなければ疑議 を生じてしまうとして,翌7日に戦時始期の法的明示化に関する意見を閣議講読書(案)としてまとめた。 そして,省内各局課の回覧を経て,大山陸軍大臣から8月10日付で閣議に提出された。. 大山陸軍大臣の閣議論議書は次のように述べている。(28)第一に,「宣戦講和ハ固ヨリ天皇ノ大権二属シ ーニ君主ノ大旨二依ルヘキハ論ヲ待タス而レトモ宣戦ノ詔勅ハ聖旨ノ存スルトコロ広ク告諭セラレタルモノ ニシテ其実アラシムルハ之ヲ換言スレハ其大旨ヨリ生スル結果ヲシテ臣民二遵奉セシメ且平戦両時法規適用 ノ限界トナサンスル如キハ之ヲ公文式ノ走ムル方式二依テ公布セラルルヲ以テ至当トナスヘキニ似タリ」と 述べた上で,宣戦は天皇大権の一つであり,その大権発動の形式は依るべき条規が存在しないが故に,詔勅 の公布であっても,勅令の公布であっても効力としては差異がないとした。第二に,上記の1882年太政官布 告第37号を引用記述しつつ,同太政官布告は宣戦の「大権発動ノ形式必ラス布告ヲ要スル」と規定している ので,明治憲法の精神に背戻し,憲法実施によって「消滅」したと言わざるを得ないと述べた。また,読者 の中には詔勅も「布告」の一種であって同太政官布告は現在も効力を有すると主張するものがいるとしても, 同太政官布告中の「布告」は現在の法律勅令の意義であって詔勅は含まれていないとするのが公文式(1886 年勅令第1号)以前の実例からみて明らかであるとした。そして,結論的には宣戦は布告形式による必要は なく,「宣戦詔勅」の日をもって戦時と公認し,特に「戦時ヲ走ムルノ法令発布」をまたずに同詔勅発布日 をもって戦時の限界とすべきであると強調した。. 大山陸軍大臣の閣議講読吾が,特に8月1日の「宣戦詔勅」をもって戦時の限界(始期)としたのは,「聖 旨」の告諭・遵奉の文言のように,詔勅公布日を出発点にして,ことさらにその日の意義を強調することに. 45.

(9) 遠 藤 芳 信. よって精神的昂揚等の効果が期待されると見たからにほかならない。また,この種の主張は,たとえば,会 戦等において敵味方の両軍・両陣営が対面・対陣するなどして,大元帥の開戦宣告がなされ,必勝の決意を 新たにして,すなわち,「宣戦詔勅」等の言葉による意思の表明(宣言・大号令)から戦端が開かれて開戦 に進むという儀礼的な戦争開始の姿を含み,やや,いわば古典的戦争開始論を混入している。ただし,大山 陸軍大臣の閣議講読吾が,1882年太政官布告は宣戦の大権発動の形式を規定したものとして記述しているこ とは誤解である。同じく,第二師団の8月4日付の質疑も誤解である。本太政官布告は宣戦の大権発動の形 式(あるいは戦時の認定権自体)の規定ではなく,また,宣戦の意思表明の手続を規定したのでなく,ある. いは太政大臣に開戦日を決定させる権限を与えたものではない。(29)すなわち,当時の1882年の戒厳令制定 時点において,天皇の宣戦の意思表明や大権発動(戦時の認定,外患・内乱の認定)をふまえ,国民に戦時 始期月日を予知させるために,当該の戦時の始期自体(月日の指定)の実務的な公布の公文形式について太 政大臣がとりおこなう手続きを布告式として法的・一般的に整備したものである。したがって,戦時の始期 自体に関する実務的な公布・公示はなんらかの公文形式や手段によらなければならないことはいうまでもな く,そうした公布の必要性を基本にした本太政官布告の法令主旨は明治憲法後も消滅していないとみるべき である。 (卦 内閣法制局の戦時始期の指令. 以上の陸軍大臣の閣議論議に対して,内閣法制局の審査報告書は,宣戦講和は天皇大権であるが故に陸軍 大臣の閣議講読書のように,1882年太政官布告によることなくいかなる形式によって戦時を指定しても支障. はないとしつつも,8月1日の宣戦詔勅日を戦時始期とすることは当を得ないとした。(30)っまり,宣戦詔 勅日を戦時始期の基準にする儀礼的な古典的戦争開始論の思想を退けた。その理由としては,開戦(戦い) は開戦の宣告・告知を必ずしも必要とすることなく成立するものであり,「法律命令中二云フ所ノ戦時」は「宣. 戦詔勅」の有無もしくはその時期にかかわらずに実際に戦いが成立した日より始まるものとして決定するこ とが穏当であるとした。そして,敵国に対する宣戦書や中立国に対する告知状及び国内における詔勅公布は 主権者の意思の発表にほかならないが,「法律命令中二所謂戦時」とは主として平戦両時の法令適用の限界 を指示するものであるが故に,また,宣戦詔勅日をもって戦時始期とすることは将来において支障が多いと して(戦時禁制品に対する必要処分の決行,局外国に対する戦い成立の通知済み,陸海軍刑法中の戦時は実 際の戦いの成立日を基準にして適用しなければならない,軍人軍属は軍人恩給法による従軍年加算に離齢が 生ずる),今回の朝鮮事件における戦時始期は「事実二於テ戦端ノ開カレタル日卜走メラルル方可然」と審 査し,8月18日の閣議に「戦時限界ノ儀ハ宣戦詔勅公布ノ日二拘ラス実際戦ノ成立シタル日トト得ヘシ」と いう指令案を起案し提出した。なお,その場合,法制局は実際の戦いの成立日として一旦は豊島沖海戦の7 月25日の日付を起案したが,海軍の戦いであるとされ,陸軍の戦いとしては不向きとして指令案から取り消 した。. さて,以上の法制局審査報告書は,第一に,「法律命令中二云フ所ノ戦時」の文言はほぼ一般に平戦両時 の法令適用の限界の意味のように解釈されるが,1882年太政官布告に云々された戦時始期自体の公布を意味 するものでないようにみえる。すなわち,陸軍大臣の同太政官布告の「消滅」の意見に対する審査・判断を 避けた上で,陸軍省への指令案を起案し閣議に提出したことが特質である。また,法制局審査報告書は,同 太政官布告を憲法の宣戦講和の大権に依拠して退けてはいるが(いかなる形式によって戦時を指定しても支 障ないとして),同太政官布告の趣旨を「宣戦詔勅」と同等祝する点では第二師団や陸軍省と同様に誤解を 含み,かつ,同太政官布告の主旨としての戦時始期月日の法的な公布の手続きの審査を脱落させている。第 二に,戦時始期を適用すべき法律命令については,軍人恩給法にも言及しているものの,主として,外国関 係も含めて軍隊外部との関係で判然化・明示化されなければならないものとして受けとめていたとみてよ. 46.

(10) 日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(13) い。. ここで,大山陸軍大臣の1882年太政官布告の「消滅」の意見が提出されつつも,法制局(当時の法制局長 官は末松謙澄)は同太政官布告の「効力」等自体も含めて明確な審査と判断を回避したことの問題が残るが,. ひとまず,8月18日の閣議は法制局審査報告書の指令案を妥当なものとして決定した。そして,伊藤首相は 念のために8月23日に上奏し,天皇は「聞いた」ということになって,伊藤首相から8月25日に陸軍省に指 令が発された。しかし,陸軍省は内閣からの指令を受理しても,ただちに第二師団及び他師団・諸官街に対 しても回答・通知を発することはなかった。この間,第二師団側では,同師団法官部と陸軍省法官部との間 で照会・回答を取り交わしていた(第二師団法官部が1882年太政官布告中の戦時始期は今回の「宣戦詔勅」 をもって心得ると照会したことに対して,陸軍省法官部は8月15日付で同照会の通りでよいと回答)。さら に大久保第二師団参謀長は8月17日付で陸軍次官宛に,同師団は動員には至っていないが,犯罪者取扱いに ついては戦時規定と平時規定との関係で不権衡があっては不都合なので,至急回答を発してほしいと催促し た。 (31)しかし,陸軍省は閣議決定の翌8月19日に,高級副官から第二師団参謀長に対して,日下閣議提出 中として回答したのみであった。. それはなぜか。陸軍省としては(あるいは後述の海軍省も),戦時限界の日付の法的明示化を内閣からい わばまる投げされたようである。この場合,8月25日付の内閣指令による「実際戦ノ成立シタル日」の明示 は,退けられた儀礼的な古典的戦争開始論とは異なり,新たな視点や次元にもとづいて組み立てられなけれ ばならなかった。すなわち,作戦計画と軍制技術から組立てて,それらの作戦計画・軍制技術上の調査・検 証をせまられたのである。したがって,陸軍省は,そうした調査・検証を抜きにして内閣指令をそのまま第 二師団及び他師団・諸官街に横流し的に回答・通知することは無意味である以上に,かつ戦闘成立の候補日 をめぐって諸論議・疑義が沸騰することも予想されるが故に,即時の回答・通知を躊跨したのであろう。ま た,8月25日の内閣指令は,その後,すでに他師団にも漏れていたようであり,「実際戦ノ成立シタル日」 を基準にして諸件を処理する旨を伺い出た師団(第四師団参謀長原口兼済の9月10日付質疑)もあった。. (32). 他方,海軍省は作戦計画と軍制技術の視点から対清国との敵対関係の明確化に対応した直接的・具体的な 兵力行使態勢立ち上げの時期にも遡及しつつ検討したものと考えられる。この場合,対清国との敵対関係の 明確化は,7月19日と20日の大本営の作戦方針(清国軍増兵を予期しつつ,7月22日の海軍艦隊の佐世保軍 港出艦く芙際は7月23日〉 による清国艦隊被砕方針と,これに連携した混成旅団による清国軍の撃被)以降. の時期を参照しつつ,(33)「7月23日」という陸海軍戦闘成立の共通候補日にもなりうる月日を浮上させ, 下記のような海軍大臣からの閣議講読に至ったのであろう。他方,この時点で,陸軍省としては積極的に戦 時成立日に関する自らの意思を軍隊内外(閣議講読を含めて)に示すことはなかった。陸軍省は,いわば, 海軍大臣からの閣議講読と内閣の認識・判断を待っていたかのようであるが,その理由は,内閣指令の「実 際戦ノ成立シタル日」の明示化は,その明示化の次元にとどまらない調査・検証・説明等の問題を含むこと に気付き始めたからであると考えられる。つまり,「実際戦ノ成立シタル日」の明示化を必要としつつも,. その明示化をどの範囲に通知あるいは公布・公示するかという方針が確定しなかった問題が含まれていた。 (卦 海軍大臣の戦時平時区分の閣議講読と陸軍省. さて,西郷海軍大臣は9月1日付で「戦時平時区分ノ件」(「今般対清国事件二付戦時平時ノ区分海軍二於 テハ軍令二依り各軍艦戦備ヲ為シ戦闘編隊ヲ以テ佐世保軍港ヲ出発セシ日即チ七月二十三日ヲ以テ戦時ノ始. 期トスルヲ至当卜存候得共重要ノ件ナルヲ以テ叢二閣議ヲ請フ」)の閣議論議書を提出した。(34)ここで西 郷海軍大臣が佐世保軍港出港日の7月23日を海軍の戦時始期としたのは,太政官が1874年の台湾出役事件の 戦時期間として,「長崎発艦」(5月17日)から「北京訂約」(11月17日)の報告受理日までを指令したこと を想起したことにもとづいているだろう。これに対して,法制局の審査報告書は,7月23日は「各軍艦戦備. 47.

(11) 遠 藤 芳 信. ヲ為シ戦闘編隊ヲ成シタル」ことであって,戦いの準備に過ぎず,戦端を開いたものではなく,8月18日の 閣議決定の趣旨に抵触すると審査し(他方,京城の7月23日の「日韓兵ノ衝突」も戦時始期とすることは穏 当ではないとした),7月25日の豊島の海戦は「陸海軍二対シ戦時ノ始期トスルヲ至当トス」と起案し,陸 海軍共通の戦時始期を7月25日にすることの指令案を9月6日の閣議に掟出した。9月6日の閣議は法制局 の審査報告書を了承し同指令案を決定した。そして,伊東巳代胎内閣書記官長は9月10日付で同戦時始期(7 月25日)の指令を陸軍次官に通知した。これを受けて,ようやく,陸軍次官はただちに9月11日付で第二師 団参謀長宛に7月25日の豊島の海戦をもって戦時始期と心得ることを回答した。さらに,同9月11日付で, 陸軍次官は参謀本部・監軍部宛に同回答を通知し,また高級副官から各師団・省内各局課にも同回答が通知. され,副官から大本営にも同回答が通知された。(35) かくして,「宣戦詔勅」後,戦時平時の区分をめぐり,明治憲法の宣戦講和大権にも言及された戦時始期 月日の明示に関する内閣の海軍省及び陸軍省への指令問題の事案は,約1ケ月を経て,厳密には政府及び陸 海軍内部の組織範囲内で同月日を通知しあうという取扱いにすることで決着したことが最大の特質である。 当時点においても,戦時始期月日を法令格式上の陸軍省・海軍省告示として一般に公示することは不可能で はなかった。しかし,「実際戦ノ成立シタル日」としての7月25日(豊島の海戦日)の明示措置は,陸海軍 を含む政府部内通知化措置にとどまり,厳密には法的な公布・公示としての明示には至らなかった。その理 由は,8月18日法制局審査報告書が戦時始期の論点を「実際戦ノ成立シタル日」に焦点化しつつも,1882年 太政官布告第37号の主旨としての戦時始期月日の法的な公布の手続き側面に対する審査を脱落させたことに よって,消極的には戦時始期月日の明示は政府部内の通知範囲にとどまっても行政措置・作戦計画・軍制技 術上で了解しあうことができれば支障なしという認識が共有されたことにある。ただし,同太政官布告の戦 時始期月日の法的な公布手続き側面に対する審査が脱落されたわけであるから,依然として同太政官布告(の. 法令主旨)は消滅していない。他方,その積極的な理由は,「実際戦ノ成立シタル日」の当該の戦いや戦端 が仮に謀略等によって成立・開始した場合,同月日を戦時始期として公布・公示することになれば,その説 明や調査・検証に堪えないことになると認識・判断されたことにあろう。. 総じて,7月25日の豊島の海戦は対清国との敵対関係の明確化のもとに海軍によって戦端が開かれたもの であり,かつ,国際法的にも外国に対しても開戦を説明できるものであった。なお,同海戦により日本と清 国とが開戦に至ったために,陸軍省から見れば自らの直接的な戦闘の管轄外において戦時始期が指定された ことになり,検証や説明責任を負うことはなく「好結果」に終わった。しかし,いずれにせよ,大本営設置 の当初の秘密化と戦時始期月日の政府部内通知化措置は,敵対国家を明確にした最初の本格的な対外戦争と しての日清戦争が,国民の注視・環(監)視が届かない海外他国を戦場にした派遣現地軍隊の独断専行等を 含み,また開戦の背景・契機を「騎虎の勢い」(陸奥宗光外務大臣)等の文言に象徴される戦争待望気分・. 雰囲気に責任を転嫁させつつ,(36)理性的な洞察を捨てて強行展開されたことが反映しているとみなされる。. (注). (1)稲葉正夫編『現代史資料郎)大本営』27,33,81,88−89頁,1967年,みすず書房。本書収録の1894年戦時大本営編制の 関係文書資料には,①重複関係が多く,編者の解説は6月5日制定の戦時大本営編制の制定正文がどの文書に該当するかを 記述せず,②本書の附録(568−571頁)収録の「明治二十六年制定 大本営編制」は,1944年当時の大本営陸軍参謀部が8 月13日にタイプ印刷した文書とされるが,同タイプ印刷文書の「大本営編制」なるものは,実際には制定されていないにも かかわらず(同タイプ印刷文書は1893年2月7日付の参謀総長から陸軍大臣宛の内議の起案文書の写しであり,その後に起 案文書自体に削除・修正が施される),あたかも1893年に制定された戦時大本営編制の正文として収録したものである。こ のことは,1944年当時の大本営陸軍参謀部が1894年制定の最初の戦時大本営編制に対してずさんな調査をしていたことを意. 48.

(12) 日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(13). 味すると同時に,本書の編者等を含む近代日本軍制史研究が本文書資料等の真偽に対する史料批判をしてこなかった研究状 況を示している。また,稲葉正夫編書と同時期刊行の防衛庁防衛研究所戦史室編『戦史叢書 大本営陸軍部〈1〉』(1967年, 朝雲新聞社)も1894年の戦時大本営編制の制定止文の所在等については言及してこなかった。 (ZX3米4)拙稿「日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(1針−1893年戦時編制の成立と帝国全軍構想化路線の展開・変. 容−」北海道教育人学紀要(人文科学・社会科学編)第60巻第2号,2010年2月。寺内正毅参謀本部第一局長は2月7日に 職仁親王参謀総長までに「戦時大本営編制書類」を持参してきたとされている(日本史籍協会編『職仁親王日記 六』181頁, 1976年,東京大学出版会,原本は1936年)。1893年2月の参謀本部起案の戦時大本営編制案は防衛研究所図書館所蔵 〈陸軍. 省大日記〉 中『密大日記』1894年7月,第24号所収(全2章活版印刷本文5丁,附表計2)。本稿では2月7日付の参謀本 部起案の陸軍大臣宛内議の戦時大本営編制案を「戦時大本営編制案」と表記する。大本営職員組織は上記紀要の拙稿参照。 (5)防衛研究所図書館所蔵 〈陸軍省大日記〉 中『明治二十七年 出師準備関係書類』第8件所収。たとえば,大本営職員の配 属著名簿には,軍事内局(佐官)に歩兵大佐田村寛一,大本営幕僚(陸軍参謀官)に歩兵大佐高橋雅別,歩兵少佐田村悟与 造,砲兵少佐伊地知幸介,陸軍副官(佐官)に砲兵少佐村圧‖享,兵端総監部〈参謀大(中)佐〉 に塩屋万国,運輸通信長官 部〈長次官は大佐〉 に歩兵大佐寺内正毅,鉄道船舶運輸委員に工兵少佐山根武亮,野戦高等電信部〈長は工兵中(少)佐〉 に工兵少佐渡部当次,大本営管理部〈長は少佐〉 に騎兵少佐梅崎信量,同憲兵(大尉)に憲兵大尉犬塚能,同衛兵(騎兵大 尉)に騎兵大尉秋庭守信,同輔重兵(尉官)に輔重兵大尉寺田六太郎,陸軍大臣従属(佐官)に砲兵少佐村木雅義と砲兵少 佐福家安定,等が記載された(下線部は6月5日の戦時大本営設置時に当該職員に配属された着である)。 (6)注(3)の 〈陸軍省大日記〉 中『密大日記』所収。 (7)朝鮮国政府は5月6日に洪啓薫を両湖招討使に任命して親軍壮衛営兵力(760余名,人夫60余名,野戦砲4門)をもって「鎮 圧勤除」させることを決定した。そして,清国公使の哀世凱に請い,仁川港駐艦の北洋海軍軍艦平遠に380余名の兵員等と 野戦砲及び弾薬140箱を搭載して8日に群山に向けて出港した。残余の兵員等は,朝鮮国の最初の海運業会社の利運社所有 汽船の蒼龍号と漠陽号に分戟した(朝鮮史編修会編纂『朝鮮史』第6編第4巻,1052−1053貞,1976年,東京大学出版会, 原本は1938年。仁川府庁編纂『仁川府史』上巻,399頁所収の5月8日付在仁川領事館能勢辰五郎発林董外務次官報告参照, 1995年,影仁文化社復刻,原本は1933年)。これに対して,日本公使館代理公使の杉村溶は5月22日付で外務人臣宛に仁川 港駐艦の筑紫艦を群山に派遣させ同地周辺を視察させる手続をとったことを報告した。仁川港等の現地駐艦の日本の海軍は, 5月上旬の農民反乱に対する朝鮮国の鎮圧と清国軍艦の便宜供与(兵員等の軍艦搭載と運送)の情報を入手し,また,5月. 中旬には清国軍艦による朝鮮国兵員等の搭載・運送の状況等は日本国内にも報道されていた。日本の外務省や海軍側からみ れば,清国軍艦の便宜供与は1885年天津条約(日清両国が朝鮮国へ派兵する場合は相互に「行文知照」する)の上では疑問 が生じないわけではなかったが,朝鮮国の征討軍兵員中への清国兵員の混入等の確証は得られなかった(外交史料館所蔵〈外 務省記録〉中第5門第3類第2項,「韓国東学党蜂起一件」所収の5月25日付筑紫肺海軍大尉谷雅四郎他の「群山津視察報告」 参照)。これに対して,農民反乱側は5月13日に「布告文」を発し,「公卿ヨリ以下方伯守令二至ルマデ,国家ノ危殆ヲ念ハ ズ,徒二肥己潤家ノ計ヲ窃ミ,経選ノ門視テ生貨ノ路卜作り,応試ノ場挙ゲテ交易ノ市卜作ル。許多貨賂王庫二納メズ,反 テ私蔵二充ツ。」云々と中央・地方の腐敗官僚を批判し,「八路同心,億兆諭議シ,今義旗ヲ挙ゲ,輔国安民ヲ以テ死生ノ誓 卜為ス」と強調した(前掲『朝鮮史』第6編第4巻,1055−1056頁)。洪啓薫の征討軍は5月19日に全羅道の中心都市の全州 に到着したが,壮衛営兵員中には逃亡者が続出し,全州監督首校鄭錫宿は農民反乱指導者の全壊準(農民反乱戦争の最高幹 部)より「賂銭」を受けて内通したとされ(その結果鄭錫宿は臭首になる),さらに全州府官吏中にも農民反乱に「内応」. するものがあり(前掲『朝鮮史』第6編第4巻,1058−1063頁),全州府は6月1日に陥落し,反乱農民に占領された。農民 反乱戦争は上記のように日本にも報道され,その後,いわゆる「壮士」「無頼」者が朝鮮国内地に進入した((前掲『朝鮮史』 第6編第4巻,1058−1063頁,1092頁。黒龍会編『東亜先覚志士伝』上巻,206−221頁,1966年,原書房復刻,原本は1933年)。 (8)国立国会図書館憲政資料室所蔵『寺内止毅文書』所収「寺内止毅日記類」中「明治二十七年日記(懐中)」(450−22)の5 月30日イ寸参照。注(2)の『職仁親王日記 六』397頁。また,川上参謀次長は5月31日に職仁親王参謀総長と用談しているが, 当然,朝鮮国情勢が中心だったとみてよい。 (9)参謀本部編『明治二ト七人年 日清戦史』第1巻,94−95頁,1998年,ゆまに書房復刻,原本は1904年。 (1¢)宮内省発行『職仁親王行実』(巻28)1894年5月10口条,1898年。本「謀議」が前掲『職仁親王口記 六』に記述されて いないのは,「協議」でなく「謀議」であるが放であろう。内閣官制上からは首相と参謀総長との「協議」あるいは制度的・ 直凛的な交渉ルートはありえないからである。なお,戦前ではこの「謀議」を参謀総長の名による内閣への「要望」とする 見解もあったが(田保橋潔『近代日朝関係の研究』下巻,293頁,1940年),「要望」とすることはできない。ただし,当時 においては,そうした「謀議」も含めて,陸奥外務大臣の秘書官であった中田敬義の指摘にもみられるように,参謀本部と 政府・外務省との間のいわば情報流通の雰囲気関係があったことが示されている(注(14)参照)。それは,6月21日と7月1 日に伊藤首相の官舎で大臣集会が開催された時に,職仁親王参謀総長も同席していることなどからも窺われることである(前 掲『職仁親王日記 六』406,416頁)。. 49.

(13) 遠 藤 芳 信 ㈹ 防衛研究所図書館所蔵〈戦役 日清戦役〉 中『明治二十七年六月 臨時事変二関スル書類綴(甲)』所収。計7件の命令 案等はともに朝鮮国政府からの清国政府への軍隊派遣依頼の情報が届いていない6月2日前に起草されたものである。ただ し,第五号の勅令案を基本にして,6月8日にやや派遣内容を詳しく記述して各師団長(第五師団長を除く)等への内示が 発された(送乙第1072号)。同内示は「朝鮮国二内乱蜂起シ勢ヒ益々猫狭ニシテ同政府之ヲ鎮圧スル能ハス依テ帝国政府ハ. 我公使館領事館井二国民保護ノ為メ第九旅団ヲ以テ混成旅団ヲ編制シ明九日ヨリ逐次仁川二向テ派遣セラル又支那政府モ朝 鮮国へ派兵ノ旨昨七日公然我二通知セリ情報二依レハ太音古及上海関ヨリ既二約千五百人同日出発セシメ又旅順ロニモ約千五 百ノ兵出発ノ準備ヲナスカ如シ」(前掲〈陸軍省大日記〉中『明治二十七八年戦役日記 明治二十七年六月 完』第32号所収) と記述された。第六号の令達案は,たとえば「勢益々狽狭ナルノ報アリ」云々の「報アリ」の文言はその真偽性等が議論さ れうる可能性があるが故に削除修正され,6月2日の「御沙汰」の起案に至った。なお,職仁親王を陸海軍事項の統轄機関 としての「総裁」職にあてたことは,法的には事態を平時の軍隊派遣とみなしたからであろう。第七号の訓令案は,朝鮮国 派遣軍隊の携行歩兵弾薬箱(400発入り背負弾薬箱)計1041箱を第五師団に送付すると起草したものである(到着日付は未 記載)。ただし,本訓令案は弾薬箱1000箱に修正された。 ㈹ 宮内省臨時帝室編修局編修『明治天皇紀 第八』428−429頁,吉川弘文館,1973年。. ㈹ 国立公文書館所蔵〈公文別録〉 中『内閣』1886年∼1912年,第1巻,第12件所収。閣議決定文書自体は6月6日に伊藤首 相から天皇閲覧用に提出された。6月2日の軍隊派遣案件の閣議決定直後において(当日の同席上で)派遣兵力の規模・内 容等はもちろん参考的なものとして話題になり議論・了解されたことは,注㈹の6月7日の閣議における第九旅団長陸軍少 将大島義昌等への訓令案起案も含めて推測されるが,6月2日の閣議の決定範囲は軍隊派遣の目的・理由のみであった。ま た,閣議決定文中の「京城駐在公使館ヨリノ来電」の電文は閣議冒頭に陸奥宗光外務大臣が提示したとされているが,外務 省編『日本外交文書』第27巻第2冊,155頁,1953年)所収の「全州ハ昨日賊軍ノ占有二帰シタリ衰世凱日ク朝鮮政府ハ清 国ノ援兵ヲ講ヒタリト」(6月1日付朝鮮国駐節杉村清臨時代理公使発陸奥宗光外務大臣宛の電報「朝鮮国政府清国政府二 援兵請求シタル旨ノ衰世凱談話報告ノ件」)云々,を参照。なお,同閣議決定は参謀本部にも伝えられ(注㈹所収),陸軍省 編『明治天皇御伝記資料 明治軍事史』(上巻,903∼904頁,1966年,原書房復刻,原本は1927年)に翻刻収録された。他方, 参謀本部編『明治二十七八年 日清戦史』(第1巻,95頁)は,「内閣会議ヲ開キ給長及次長陸軍中将川上操六モ亦之二列ナ. リ公使館及在留臣民保護ノ為メ出兵ノ事ヲ議定シ而シテ其兵力ハ総長ノ提議二基ツキ混成一旅団卜為スコトニ決セリ」は記 述しているが,二重に正しくない。本書の編纂者・執筆者は1個混成旅団の兵力派遣決定(やその理由等)を「閣議決定」 として権威づけようとしたことはいうまでもないが,そもそも,閣議当日では,注㈹のように,混成旅団ではなく,平時の 歩兵第九旅団の派遣が了解されていたからである。[補注]朝鮮国内の日本居留民の当時の事態の受けとめかたを示したも のとして,6月7日に京城日本人商業会議所の会員有志等68名が日本公使館を経て外務大臣宛に発送しようとした請願書が ある。同請願書は,農民反乱自体の「脅威」に対するよりも,むしろ,農民反乱征討のために朝鮮国政府をして兵力派遣依 頼を導いた清国に対して,その「意図蓋し測るべからざるものあり」として,「我々在留民の心を安じ,併て国力の平衡を 保ち,我が帝国の威霊をして千歳長く失墜せしめざらんと欲せば,少なくとも被れ清国と等数の精兵を此の国郡に集め以て 非常に備ふるにあり」云々と述べているように,朝鮮国内の貿易・商業活動における日本居留民の勢力や主導権確保のため の清国同数の兵力派遣を望んでいた(京城居留民団役所編纂兼発行『京城発達史』66−68頁所収,1995年,影仁文化社復刻, 原本は1912年)。 ㈹ この場合,従来,陸奥外相と川上参謀次長との意思の一致による開戦への指導的役割があるとされてきた(外務省百年史 編纂委員会編『外務省の百年』上巻,309−310頁,1969年,原書房)。ただし,「強行変更」にかかわる自伝等の記述を正確 に整理してこなかった。第一に,当時の外務次官であった林 董の「林董伯自叙伝 回顧録」(1901年)と「後は昔の記」(1910 年)を合冊復刻収録した由井正臣校注『後は昔の記 他』の記述がある(75−76,256頁,1970年,平凡社東洋文庫)。同記. 述は林本人の日付の不止確さはあるが,おそらく6月2日の閣議前の6月1日における陸奥外相と川上参謀次長との会談に 同席したことは確実である。同記述によれば,同会談での派遣兵力の編成・規模について,川上が「先ず,一旅団を派遣す る者とすべし。(伊藤博文)経理大臣は,旅団の兵は二千人位なることを知る故に,多分異議なかるべし。然して混成旅団. を出せば,実際七,八千の兵あり」と述べたとされている。ここで,①「一旅団を派遣する者とすべし」の文言は閣議当日 の席上で了解してもらう陸軍側の主張内容を意味し,②「然して混成旅団を出せば,実際七,八千の兵あり」の文言は閣議 了解後の他日に実際に動員・編成して派遣する場合の陸軍側の兵力規模を意味している。川上の①の「旅団」のレトリック を含む主張内容は6月2日の同案件決定の閣議後にそのまま了解された。第二に,徳富猪一郎著『陸軍大将川上操六』の記 述がある(126−127頁,1942年)。すなわち,閣議決定直後の当日席上での伊藤首相と川上参謀次長(当時は中将)との議論 は,「韓国出兵の廟儀決定するや,伊藤は大将に問ふて日く『幾許の兵を韓国に出す用意である乎』。大将日く『一筒旅団で ある』。伊藤日く『成るべく兵数を減少せられたい』。大将日く『出兵するや否やは,廟儀に由りて決せねばならぬが,すで に出兵に決した以上は参謀総長の責任である。出兵の多少は我等に一任せられたし』と。然るに,大将の所謂一箇旅団と云 ふは,平時の一箇旅団にあらずして臨時に編成したる混成旅団であったので,其の兵は少なくとも八千人は下らなかった。. 50.

(14) 日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(13). 伊藤は後に至りて之を聞き,心中頗る釈然たらざるものがあったと云ふ。」と記述・紹介されているが,本引用文中の二重 下線部分が林記述Q)に対応し,波線部分が林記述②に対応したレトリックである。すなわち,陸奥外相と川上操六参謀次長 との意思一致の組立てに軌齢はない。なお,これらに関連して,大江志乃夫『東アジア史としての日清戦争』(302−305頁, 1998年,立風書房)は,同じく徳富猪一郎著『陸軍大将川上操六』の記述をもとにして,派遣兵力規模について,「皇族参 謀給長の事実上の代理権者である川上参謀本部次長が外交の主務大臣である陸奥外相と協議のうえ派遣兵力量を決定し,そ の結論について伊藤首相の了承を得たという手続はまちがった手続ではないし,手続的には川上次長(統帥部)の独走だと か,伊藤首相(政府)を欺いたとかいう水準のものではない」と記述している。ここで,陸奥外相と川上参謀次長が日清開 戦に主導的役割を果たしたことはいうまでもないが,両者の会談を(「統帥部」と政府との間の)正規・公式の手続き(「協 議」)とみることはできない。むしろ,両者には相互に非公式的な「気脈」による連携や意思疎通としての謀議がなされた 雰囲気を意味している。ただし,川上参謀次長の役割を「統帥部」の「独走」とみることはできないのは,大江の指摘の通 りであるが,そもそも,当時において「統帥部」が厳密に成立していたわけではない。6月2日の段階では大本営は設置さ れていないので,「統帥部」という記述等は正しくない。具体的な機関・官職等を明記し,責任所在を明確にすべきだろう。 その上で,川上操六らの開戦策動の役割評価であるが,「川上(操六参謀次長),西郷(従道海軍大臣),樺山(資紀海軍) 等の外征派は,この機を逸しては再び開戦の好機無しとの意気組で力癌を入れる。」という見方もあるように(岡本柳之助述・. 平井駒次郎編『伝記叢書39 風雲回顧録』258頁,大空社1988年復刻,原書は1912年,ルビ略と()内は遠藤),薩摩系陸 海軍のトップの国外での開戦強行策動の一端とみてよい。また,当時の陸奥外務大臣の秘書官であった中田敬義は「東学党 ノ事件ガ起り,朝鮮ノ方カラ援兵ヲ乞ハレタノデアツタカラ,支那ハ益々ツケ上ツタノデアル。ソコデ,コチラハ最初カラ 何力事ヲ起サウトイフ考ガアツタノデアルシ,殊二川上参謀次長ノ如キハ支那ヲ廻ツテ来テ,支那兵ハ問題ニナラヌ,乞食 同然ダ,唯兵ラシイノハ李鴻章ノ兵ノミダト私共二語ツテ居ツタ位デアツテ,今日私カラ言ハスレバ,此際支那ヲ片付ケテ. シマウデハナイカトイフデアル。コレハ川上卜陸奥トノ仕事デアツタ」「船頭達ハ益々船ノ舵ヲ自分等ノ信ジ夕方向へ向ケ テ行キ,サウシテ其船頭ハ誰カトイフト陸奥卜川上参謀次長デアツタト私共ハ見テ居ル」「日清戦争等ハ,事実二於テハ見 方次第デ侵略ニナッテ居ルノダト思フ。」「日清戦争ノ時ハ朝鮮ノ独立ヲ維持スルト言ッタガ最後ニハ保護国,合併スルトイ フコトニナッタ」云々と述べ,侵略と「韓国併合」につながる開戦強行推進者としての陸奥外務大臣と川上参謀次長の役割 を指摘している(国会図書館憲政資料室所蔵『憲政史編纂会収集文書』(550)中「中田敬義氏述『秘 日清戦争ノ前後』」〈外 務省調査本部第一課,1938年10月特輯第1号〉)。川上参謀次長が朝鮮を経て清国を調査旅行したのは1893年4月∼7月であっ た。また,西郷従道は1874年台湾出役の強行者(番地事務都督職のときの出艦強行)であり,1884年朝鮮国甲中辛変時の閣 議(農商務卿の職)においては清国軍事介入に対して「対支宣戦論」を主張したと伝えられている(前掲『東亜先覚志士伝』 上巻,85頁)。さらに,樺山資紀は海軍大臣職にあった1890年9月19日に「海軍事業計画ノ議」を閣議論議しているが,同. 論議書において「戎ハ説ヲ作シテ云ハン我海軍ハ防禦ヲ主トシ主トシテ小階ヲ造ルヘシ敵国二航進スルノ目的トスル大鰐ハ 造ルニ及ハス然ルトキハ費用省ケント是甚夕目的ヲ誤ル者ナリ我国権ヲ維持スルトハ他ノ侮ヲ禦クヲ云退テ守ルノ策アレハ 進テ攻ルノ実無ル可ラズ軍艦海上ノ勢力ハ攻守ノ別ナキモノナリ敵国二侵攻スルヲ得ヘキ艦ナキトキハ到底彼我匹敵スルモ ノアラサルナリ」と敵国侵攻の軍艦拡大を強調していた(国立公文書館所蔵〈公文別録〉 中『海軍省』1888年∼1917年,第 1巻,第2件所収)。 ㈹ 防衛研究所図書館所蔵『参謀本部歴史草案 一五∼一七』(1892−1894年)所収の「御沙汰」正文は「今般朝鮮国二内乱蜂. 起シ勢ヒ猫狭ナル為メ同国寄留本邦人民保護ノ為メ軍隊ヲ派遣ス依テ焼仁二命シ陸海軍二関スル事項ヲ総裁セシム 総裁ハ 陸海軍将校及同相当官ヲ以テ所要ノ機関ヲ給制スヘシ」と記述されているが,「給制」は「編制」の誤写である。 ㈹ 防衛研究所図書館所蔵〈戦役 日清戦役〉 中『明治二十七年六月 臨時事変二関スル書類綴(甲)』所収。「第二号 混成. 旅団長二与フル命令案」は「混成旅団長二与フル命令 一 朝鮮国二内乱蜂起ス同国二在ル本邦公使館及国民保護ノ為メ軍 隊ヲ派遣ス ニ 混成旅団ハ仁川港若クハ其附近二上陸シ首トシテ京城及仁川二在ル者ヲ保護スヘシ 旅団中ヨリ歩兵一中 隊(一小隊ヲ欠ク)ヲ釜山二歩兵一小隊ヲ元山へ分遣シ其地二在ル本邦居留人民ヲ保護セシムヘシ 三 保謹上ノ問題及外. 交上二関スル事項二就テハ常二彼地二在ル本邦公使卜協議スへシ 月 日 特命給裁 俄仁親王」と起草された。「第 三号 特命総裁ヨリ混成旅団長二与フル命令」は「特命詮裁ヨリ混成旅団長二与フル命令 一 旅団長ハ車ノ進退及兵器弾 薬ノ補給並二会計経理衛生ノ事二関シテハ特命総裁(大本営)ノ指揮二従フヘシ ニ 旅団長ハ派遣中将及同相当官ノ人事 −、・−■・. ニ関シテハ特命総裁(大本営)ノ指揮二従ヒ時々其結果ヲ第五師団長二報告スヘシ下士以下(ニ就テハ)補欠ノ(上)為メ. 自ラ昇進セシムルヲ得」と起草された。以上の命令・訓令案の起草において,−は削除,−()は修正,()は挿 入の表記であるが,削除・修正・挿入は6月4日の陸軍と海軍の協議集会における大本営設置決定を受けておこなわれた。 すなわち,「第二号 混成旅団長二与フル命令案」は「混成旅団ノ任務二関スル命令」と修正され,6月5日に大本営から 発された。「第三号 特命総裁ヨリ混成旅団長二与フル命令」は「戦闘序列卜共二旅団長二下ス命令案」と修正され,さら に「混成旅団長二与フル命令」と再修正され,大本営から6月5日に発された。「第四号 特命総裁ヨリ混成旅団長二与フ ル訓令」は「混成旅団長二与フル訓令」と修正され,さらに「戦闘序列卜共二旅団長二下ス訓令」と再修正され,参謀総長. 51.

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