『緋文字』と罪の意識
著者 北垣 宗治
雑誌名 主流
号 23
ページ 65‑79
発行年 1961‑10‑10
権利 同志社英文学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000016659
﹁ 緋 文 字
﹄
意 識 と 罪 の
﹃緋文字﹄はふつう︑ニュ1・イソグランドのピュl
リタ
ユズムの道徳的な苛酷きが︑いかに人間性を圧迫するかとい
うことを例証するものと考えられている︒すなわち︑へスタ
ー・プリソもアiサi・ディムズデIルも︑ともに厳格なピュIリタソ道穂の犠牲なのである︒チリソグワiスはピュー
リタン道億のこの厳格さを︑自分の日的を追求するために巧
みに利用したといえる︒したがってピュIリタニズムはこの
物語の単なる背景となっているだけでなく︑この物語を構成
する素材なのである︒そして︑このピュiリタソ道徳に対し
て勇敢な抵抗を示したのが︑遣しい独立心に燃えた女性へス
タl・プリンであった︒へスタ!は彼女の抵抗によって︑一
人の弱い人聞が罪を犯したのちにどのように生き︑そして︑
その生き方を通して︑かつての罪にもかかわらず︑なおこの
北
垣
ι主ヌ
万す
? 合
人生に勝利を獲得できることを示した︒彼女はつまり︑罪を
犯したのちになお︑勝利が可能であることを示した︒しかし︑
それはいったいどのような原理によって実現されたのか?
またその原理は︑生き方の原理の一つとしてのピュlリタニ
ズムとどのような関係に立つのか?同じくピュiリタニズ
ムの苛酷さの犠牲者であるディムズデiルは︑徐々に敗北の
道を辿るのであるが︑彼の運命が敗北から逃れられなかった
という事実を支えているのはどのような原理であるのか?
この原理は︑さきの︑ヘスターに勝利を与えた原理といかな
る観点から関連付けられ︑統合されるのであるか?
この物語はまた︑ピュiリタユズムの苛酷さによってゆが
められた人間性の回復を取扱った作品であるために︑物語全
体を規定する原理としてヒューマニズムを想定することは適
切である︒ヒューマニズムにはもちろんさまざまな定義があ
るけれども︑私の考えでいちばん妥当と思う定義は︑﹁先立つ
時代の時代的偏向もしくは偏見によってゆドがめられた人間性を︑本来の人間の姿にもどそうとする運動﹂なのであって︑
この意味からすれば︑あらゆるヒューマニズムは人間性解放
の運動である︒ところで︑本来の人間の姿とは何か?それ
は一口で言えば︑人間らしさを保持していることである︒チ
リソグワIスが物語の進行とともに悪魔性を獲得していくの
は︑失なわれていく人間らしさを絶えず思い出させるための
巧みな手段とも言えるのである︒人間らしさを規定するのは
創られた者としての人間の有限性と︑創る者としての人間の
もつ威厳と自由なのである︒さて︑ルネッサンスのヒューマ
ニズムは︑中世のキリスト教的・教権的な固定した人間性を︑
ギリシア・ラテソの古典の光に照らして解放する運動であっ
た︒十八世紀の終り頃から十九世紀の前半にかけてヨーロッ
パの各地に起った文学上のロマンチジズムの運動もまた︑理
性万能的な考え方︑すなわち普遍性を個別性よりもずっと重
要視した十八世紀的な思考法から︑個性や感情や情熱にもっ
と積極的な意味を見出すことによって人間性を再発見しよう
とするヒューマニズムの一形式であった︒たとえばパイ口ソ
とツエリーが文学上の戸マソチシズムを代表するとともに︑
社会的にも国際的にも︑しいたげられた人間の解放を叫んだ
詩人であったことは意味深いことである︒十九世紀のアメリ
カ文学を代表するニュi・イングランドの作家たち︑エマソ
ソ︑ソlロl︑ホイットマンらは︑一一百年間にわたるきびし いピューリタン道徳がゆがめてきた人間性を解放しようとしたヒューマニズムのチマソピオソであった︒そして彼らは︑この解放をなそうとするにあたって︑トランセンデソタリズムという原理に拠った︒﹃緋文字﹄を貫いている思想がもしも︑ピュIリタニズムがゆがめた人間性を回復することにあるとすれば︑いったいその解放の原理は何であるのか?ここでもまた︑あのトランセンデンタリズムがその原理となっているのか?
この小論において私の意図していることは﹃緋文字﹄に登
場する主要人物一一人の生き方の原理を明らかにし︑規定する
ことである︒ただ規定するだけにとどまらず︑これらの規定
された別々の原理を統一する原理を見出すことが︑この小論
の最後の意図である︒緋文字は姦淫という罪のしるしであっ
た︒したがって︑上に設定された課題に接近するための出発
点は罪の問題であり︑罪の意識の種々相を検討することであ
常識的にいえば罪とは道憶のおきてを破ることである︒ユ る ︒
ダヤ教・キリスト教の思想からすれば︑このおきては神が人
間のために人聞に課したものにほかならない︒いわゆるモI
セの十戒は︑ユダヤ教の律法全体の根幹をなすものである︒
したがって罪の意識とは殺人︑姦淫︑盗み︑偽証といった律
法を破ったという自覚であり︑認識であり︑痛みである︒旧
約聖書においては︑おのおのの罪には︑こと細かに罰が規定
されており︑その罪のあがないの方法が記されている︒ユダ
ヤ教・キりスト教の信仰からすれば︑人間の犯すことごとく
の罪は神の目に映じている︒ところで︑人の目に映じなかっ
た罪の行為︑つまり闇から闇へと葬り去られた罪の行為は︑
その罪を犯した者にどのような影響を与えるのか?人知れ
ず人を殺した者︑人知れず姦淫した者︑人知れず盗みを働い
た者︑そしてこれらの行為が人々の自にあらわされない場合︑
何が起るのか?
起るのは良心の苛責である︒そして良心の苛責は罪の意識
が働いていることを経験的に証明するものである︒もちろん
罪の行為が人々の目にあらわされ︑それに対する罰が課され
たあとでさえも︑良心の苛責がすっかり消えるとは限らない︒
ところで現代人の場合︑時として良心の苛責がきわめて稀薄
にしか感じられないことがある︒カミユの﹃呉邦人﹄の主人
公はその典型的な例である︒カミユは﹁不条理﹂という言葉
で表現される現代の状況を描くために︑罪の意識とか良心の
苛責といった言葉や現実からは全く無関係に生きている人間
を主人公に取上げたのである︒これは︑もはや理性によって
も︑道理によっても︑常識によっても問題に解決が与えられ
ないような状況である︒
私の考えでは︑罪の意識のあらわれ方は大体四通りある︒ これらの四つは︑たがいに内面的につながりをもっ︒第一は恐怖である︒これは神の刑罰に対する恐怖であることもあれば︑その罪の行為の被害者が加害者に対して加える自然的︑超自然的な復讐に対する恐怖であることもある︒たとえばダソカソ主を殺害したあとのマグペスのゼワブには︑この種の恐怖がいきいきとあらわれている︒
第二は蓋恥であって︑これはふつう自分自身に対するもの
である︒カラマ!ゾプの兄弟の父親ブョ1
ドル
︑が
人々
の前
で
絶えず道化じみた行動をする理由は︑この自分自身に対する
蓋恥をおおい隠そうとするためである︒だから︑それは﹁て
れかくし﹂と呼ばれる行為となる︒それゆえ︑グツマ長老の
﹁まず第一に自分で自身を恥じぬことが肝要ですぞ︒これが
③ 一切のも乙ですからな﹂という言葉が鋭く︑しかも適切にひ
びく
ので
ある
︒
第三は罪を告白したいという衝動である︒罪を犯したとい
う心の中の秘密は︑秘密として保持される限り︑だんだん重
さを増し加えていく︒心の苦しみは他人に打明けることによ
って減少する(ように感じられる﹀ことはわれわれが日常経
験することである︒告白は特定の人に向つてなされることも
あれば︑一般の人々に向って︑しかも大芦でなされることさ
えあ
りう
る︒
第四は罪の赦しを求める熱意である︒これはしばしば︑罪
のつぐないを求める意思を起させる︒﹁怒りの葡萄﹄のアγ
グル
‑
ジョソはこの種の熱意にとり濃かれている︒彼がたえA
ず子供らのベッドにキャンディーをしのばせておいたのは︑
彼の心の深い傷︑つまり彼がなくなった妻に対して犯したと
信じている罪の償いをしたいという動機から出ている︒しか
し興味深いことに︑彼は単なる﹁償いへの熱意﹂以上の真理
をも︑はっきりとは意識しないが︑洩らしたりするのである︒
つまり︑彼はよい人間になろうと努めるが︑なれっこないこ
とを知っている︒そして
E
回H
目ロ
バロ
2 m
同 仏
O一
口町
ロ︒
岳山
口
w長
田件
当
g
ロバ
宮江
田山
口・
3
(第十八章)というぶっきらぼうだが赤裸
々な言葉は︑人間の内奥に潜む真実を示すのである︒なぜな
ら︑真に実存的な状況︑すなわち神の前に単独者として責任
をもって立たせられた人間というキエルケゴi
ルの
状況
では
︑
人聞は罪を犯すことなしには善事をさえもなしえないからで
ある
以上述べてきたことは︑いずれも︑何らかのおきてが破ら ︒
れた場合に生じた罪の意識である︒ところが︑おきてとは直
接的に関係せずに罪の意識が生ずることがある︒つまり殺人︑
盗み︑姦淫のような具体的な︑法律にふれるような罪の行為
がなくても︑なお内部に罪が見出されるのである︒その場合
は︑行為ではなくして人間の存在そのものが罪となる︒﹃カ
ラマ
iゾフの兄弟﹄に出てくるグツマ長老の天折した兄は次
のよ
うに
言う
︒
﹁お母さん︑大事なお母さん︑ぼくが泣くのは嬉しいから です︑決して悲しいからじゃありません︒ぼくがすべての者に対して罪人となるのは自分の好きですよ︒ただ蹄に落ちるように説明ができないだけなんです︒だって︑皆の者を愛するにはどうしたらいいか︑それさえわからないんですもの︒ぼくはすべての人に罪があったって構やしません︑その代りみんながぼくを赦してくれます︒それでもう天国が出現するのです︒いったいぼくはいま天国にいるのじゃ
③ ないでしょうか?﹂
これはほとんど天才的な言葉である︒この少年にとって︑
自分が人を愛するにはどうすればよいかがわかっていないほ
どの罪人であるということは︑本能的に彼の出発点なのであ
った︒彼は罪を信じ︑次に赦しを信じ︑そしてそれゆえに天
国の出現を信じることができた︒彼にとっては︑この一一一つの
ものはあたかも最も重い必然の鎖でつながれていたかのよう
である︒天国があるためには罪の赦しがなければならず︑罪
の赦しがあるためには︑人間存在のなまの現実としての罪が
なくてはならないのである︒しかも彼の場合︑神のおきてを
破ることというよりはむしろ︑人間存在そのもののあり方︑
つまり︑愛ぜよと命ぜられているにもかかわらず愛すること
のできい存在︑神への反逆者的存在という意味での罪が︑十
八歳の若者に直観されていたのである︒人聞は神の創造物で
あるにもかかわらず︑自己の有限性を忘れて神の立場に自己
を置こうとする︒人間は自己中心的に︑自己を目的とL
て ︑
‑ 68ー
(神を目的としないで)生きようとする︒これこそが人間の
散慢なのであり︑倣慢は一一一口棄の本来の意味における罪なので
ある︒このような罪に対しては︑自己の有限性と相対性にめ
ざめて︑神の前にへりくだることができるだけである︒そし
てこの場合には︑まごころからの謙虚さが罪の意識のあらわ
れと
なる
︒
罪と罪の意識についての以上のような考察を前置きとして︑
﹃緋文字﹄に登場するこ人の主要人物を眺めてみたい︒
而m
殺人や宥盗とくらべると︑姦淫はいくつかの目立った特徴
をもっている︒第一に︑姦淫が成立っためには︑特定の男子
と女子が存在しなくてはならない︒しかも姦淫の罪は︑具体
的には︑当事者たる男と女が︑同じ時に同じ場所で犯すので
ある︒第二に︑姦淫は結果として︑新しい生命体を創造する
契機を作る︒そして子供ができる場合︑男と女は宿命的な関
係に入る︒第一二に︑姦淫は多くの場合︑周囲の人々から隠さ
れているとはいえ︑きわめて親密な人間関係を予想する︒へ
ブライの伝統では︑夫ある女が夫以外の男と通じる場合︑が姦
淫なのであるから︑この新しいよこしまな人間関係のゆえに︑
合法的な人間関係が侮辱されるのである︒
アiサl・ディムズデ!ルとへスタl・︒フリソは同時に︑
しかも同じ場所││多分︑森の中
i l
で姦淫した︒その結果︑ ︒ハ!ルができた︒一一人の罪はしばらくは人々の目から隠されていたが︑パ1ルが生れると︑へスタlの上には明白にあら
われた︒へスタi
はピ
ュ
Iりタソ社会の刑罰を受けた︒すな
わち公衆の面前で三時間にわたって処刑台の上に立たされ︑
生涯︑緋文字を胸につけて暮すことになった︒アlサIの罪
は人々の目に隠されていたし︑ヘスターも相手の名を自白す
ることを頑強に拒んだ︒また︑このときアlサiは自分の罪
をみずから告白しなかった︒彼はこのとき︑牧師としての責
務から︑へスターに相手の名前を一一一日うように訴えなくてはな
らな
かっ
た︒
E : ‑ H
同同 }回
︒己 同白 巾‑ m 山
田昨
H 4 日
5
ず町出︒円己
H U 1
由︒ ロ守 印匂 町田 口♂ 田口
F 内H
国 片
U 手
1 2 2 E U 刊 宮 己 曲
H 目
53
件 当 日 ロ
2岳 岳 山 可 ゲ 目 白 色 町
50 5
由民 自己
g ‑ H o g ‑ 4 阻 止︒
PH
口} H
同品目岳叩由吉田沼町田}円︒
E
F司口同日目︒同吾可同町= 0 4
司E回
目ロ
ロ2
R L F ‑
‑ 0 4 宇 田口
2 民
m H
一 回 目
ロ︒付加己相互同28
田口 吋
B u s r g H ) 5 1
出口仏窓口弘2
口町 田由
O H 同
Eg ur
♂ゲ由民白
25 mw
国g
Z吋w H r o c m r r
問 委m B
吉 田 仲 告
︻回
︒話 口同
C H H H 門
同E
∞﹃
2立
9
田口
︻凶 田窓 口仏
H F 2 白
2ゲ丘町
F m m w
︒ロ 吾可 市町 内田 和田 仲田 目︒ 問団
E H H M P M 可四件宮
2 m w
同省内同町山仲田O
二 宮 口 件︒
﹁山 内円 四回 ぬロ
3 1 ロ
月 同町 田
H 1 H
い己目︒ロ
mr
‑ 民 自
・
4 J 1
伊丹円田口同r
} H U
﹃
田口 開口 口白 色︒ 問︒ 吋
EF223比一件目吉宮
EB lu
﹃S
LO Bm
即 日
E F
富 山 件
2当
ml Z
白 色門
Hr 30
口 門戸 田
U 1
吉 田 宮 叶 出
24 2 H E P
∞
E
己主 F 2 2︒] 凶開 口紅 ロ︒ 白山 口可
w p由片手巾
ES
任︒ロ宮田吉田件当日}円︒ロ仲田口︒
‑ u m ロ
R E S ‑ u r
︒
42P
巾2
口当 日 同 何
P
回 目P 2 w
白H H
仏子開閉
OH 84 4司 王 H O E ‑
︑ 吋 回 目
内 向
r町
内円
四げ
︒委
任︒ロ仏
35
同ZE E‑
司r 4
p
・
M M m B r g n p r a r p O 仲岳町
g z g m
州四
件︒
m g
曲 目
V X
向 ︒ 同
EB
諸 民 ー
lp mZ 22 w
ゲロ
門委
日 r c
開
E
8 8 m w
ロロ
切岳
由同
仲田
ロ︒
当日
V円 相 凹
g
R
門H
Z H r u
可ロ唱団一
3Q
‑
ゴ ﹀
そしてこの訴えは︑物語の全過程の中に投影するとき︑デ
ィムズデIルの必死の告白にほかならないこと︑その上︑こ
れは予一言であり︑賭でさえあったことに気付くのである︒こ
の訴えは必死の告白にふさわしい震え声と誠実な態度でなさ
れた︒しかし︑それは仮面をかぶった告白だったのである︒
それは勇気のないために︑装われた告白となったのであるが︑
それにはへスタ!以外まだ誰も気付いていなかった︒そして︑
ディムズデlルのこの告白への衝動の中に︑罪の意識がはげ
しく働いているのを見るのである︒
上に引用したディムズデIルの言葉に真撃さと深刻さを付
与しているのは︑彼があのすすめに自分の生命を賭けたこと
である︒もしも彼の震え声の訴えに心動かされて︑魂の平安
を得るためにへスターが男の名を告白していたならば︑ディ
ムズデ1ルは即刻その﹁高い所﹂からくだり︑﹁彼女の恥の
台座﹂に共に立つことになったばかりか︑あまりの意外さに
全ボストンを混乱におとしいれたのち︑死刑に処せられたこ
とであったろう︒しかるにへスターは頑強にこの名を告げる ことを拒んだ︒この抵抗によってディムズデlルの命は救わ
れ︑さらにあと七年間生きのびることとなるのである︒また
この言葉が予言である理由は︑ここで言われたことが︑七年
間にわたって彼の身の上に成就したからである︒すなわち︑
へス
タ
Iの沈黙はディムズデiルを﹁誘惑し﹂﹁いわば罪に
偽善を加えるようにと﹂彼に強いることになったのである︒
ディムズデ1ルの仮面をかぶった告白は︑ここでは皮肉と呼
ばれる効果をよび起す︒つまり︑彼の告白は︑正面切ってな
されたならば全ボストンを混乱と怒りの渦中に投げ込んだ筈
であったのに︑仮面をつけ︑﹁訴え﹂のかたちでなされたた
めに︑民衆の感動と尊敬という︑すっかり逆の効果をよび起
したからである︒
ヘスターがはずかしめの刑罰を受けた日から数えられる七
年間は︑ディムズデIルにとっては苦悶と暗黒の七年であっ
た︒彼はたえず自分の罪を告白したいというはげしい欲求に
おそわれた︒じじっ︑彼は仮面をかぶって︑何回か罪を告白
しているのである︒たとえばパlルを教育上その堕落した母
親からひきはなす必要があるという知事の意見を翻えさせる
ために︑ヘスターが知事邸まで陳情に行ったとき︑ベリンガ
ム知事︑ウィルソソ牧師およびチリングワIスに向ってへス
ターを弁明したときのディムズデiルの言葉(第八章)には︑
仮面をつけての罪の告白が見られる︒﹁罪ある母親は罪ある
父親よりも幸いです﹂QS頁)という言葉がそれである︒説
‑ 70ー
教壇からは︑彼は聞き手たちに向って﹁自分は全く阻劣な者
である︑最も担劣な者の阻劣な仲間である︑罪人のうちで最
悪の者である︑いとうべきものであり︑想像できないほど不
義な者である﹂
Q B
頁﹀と語った︒これもまた仮面をつけて
の罪の告白である︒彼は自分に関して本当のことを︑あたか
もパウロの﹁わたしは︑その罪人のかしらなのである﹂(テ
モテ前I・日)という一句をあかしするかのように語った︒
そしてこれを聞いた人々は︑なおさら彼を地上の聖徒とあが
めたのである︒チリングワiスとディムズデIルの薬草を出
発点とする会話(第十章)では︑話題がたまたま罪の告白と
いうことに及んだ︒ディムズデIルは︑牧師である彼にむか
つて罪を告白した人々を羨みさえしている︒けれども︑この
世には罪を告白できない人もいる︒そういう人はディムズデ
i
ルに
言わ
せる
と︑
t l M 宝 石 田
∞ 岳 町
U1 5a FH mg
ロE
mW 52
三
F
宮F
回
目白色向︒吋︒︒仏池田
m ‑ ︒弓田ロ門田宮内口代田
42 Z2 3
同r
qm rH
山 口} 内
向H
OB
‑4
‑a zm p由
吉田
即日
42 ER WE Lm
笹‑
山
﹃ 宮 各 白 三 司 君
︒ 同
B O H H U
ず2
2m pF gn
内向︒同当日向HVロ︒
m o o
仏E
ロ ゲ 自
由口
E
白2
色}
)可
F2
ごH
ロ
︒
2
戸
︒ 同 舎 内 宮 田 仲 ず 由 同 町
25仏
丘 寸 可
ゲ巳宮門田町吋えの
m‑ ω3
吉 長 白 山 円
d︒
Eg PE RE
一)
日開
件︒
H E m p p
p q
刷
m
︒ 田‑ u o z
仲
B間
O口町山岳町山同町四日
‑ o d
司a口同再三
5 2 v r c w
宮市
州
市ロ
2 2
ロ白︐手向田口町ロ∞ロ︒4﹃
u d
司
ZFF
白 山門
r g
尽 国 国 片 町 田 口
m M ︼ 出口
] h F
仏担ロ円目印刷}︒丘町仏当日件
} H F
ρH H 日
回目
件同
︒同
4 4 日 戸山 口 ] μ
昨日
戸開
一司
口同
ロロ
O件
EF mg E4
・32
・Q
H b )
罪を告白できない人の心理をこのように雄弁に説明するこ
と︑これもまたディムズデlルの仮面をかぶった罪の告白に
ほかならない︒しかもこれは彼の敵に対してなされたのであ
る!このように見てくると︑ディムズデ
Iルはその一生の
終にあたって群衆の目前で自分の罪を告白するまで絶えず告
白の衝動を感じ続けたことと︑仮面をかぶったままの告白を
続けてきたこととがわかるのである︒しかも︑この装われた
告白は︑きまって彼の真の意図とは逆の効果を彼にもたらし︑
いよいよ彼を窮境へと追いやることになったのである︒
ディムズデlルの罪の意識は︑告白への衝動とともに︑苦
行への熱意となってあらわれた︒彼は自分の良心の苛責から
逃れるために︑七年間にわたって自分の身をさいなんだ︒自
分の肉体に無数のむちを加えた︒或る夜のごときはひとり宿
をぬけ出て︑かつてへスターが刑罰として三時間立たされた
処刑台の上に立ってみた︒Lかし︑こうした自分自身による
折櫨は少しも彼の良心の苛責をやわらげなかった︒むしろ︑
ますます肉体は衰弱し︑精神の病気はつのっていくばかりで
あった︒彼はせいいっぱい牧師としてのっとめをはたした︒
自己の罪を償おうと懸命になったが︑これもまた良心の苛責
を鎮めなかった︒苦痛はやがて彼の存在を支える唯一のよす
がとなり︑彼にとっての唯一の真実となった︒多くの人にと
‑71
つては苦痛があるゆえに病気が意識されるのであるが︑彼に
あっては苦痛があるゆえに存在が意識されたのである︒
善行や苦痛が人間性の回復に役立つであろうか?善行は
名声と尊敬をもたらすであろう︒しかし︑こうした産物は善
行を積む人の虚栄心をくすぐるのに役立つのみで︑彼の内面
性に何ら本質的な変化をもたらすものではない︒善行を積む
ことによって﹁罪ほろぽし﹂ができたと考える人は︑罪の本
当の姿に気付かない人である︒苦痛についても同様のことが
いわれる︒禁欲主義は宗教的な装いにみちているけれども︑
福音主義の立場からすれば︑やはり神を第一とせずに自分を
第一︑とする方向に走りやすい︒ディムズデiルの場合︑彼の
人間性の回復に最も役立つ言葉︑彼のための恐らく唯一の福
音は﹁お前の罪は赦された!﹂という一言葉なのである︒しか
もこれは︑反逆する人聞を神と和解させるために十字架にか
かったところのキリストだけが発しうる言葉である︒ところ
がディムズデiルにとって︑神のめぐみとは︑ほかならぬこ
の苦痛が︑彼の犯した罪に対する罰として与えられることで
あった︒神のめぐみは﹁罪は赦された﹂という高らかな宣言
であるとする福音主義の立場から︑彼の立場は何とへだたっ
ていることであろう!死にのぞんでの彼の告白は︑非常に
雄弁に︑苦痛は神のめぐみであるという考え方をあらわして
いる
れ の ︒
O円 四
rロ
0
524﹃団山田ロ門山田町山田
口広
己
回目r
注目 戸田
V吋04 町 内 田
rU 52
口 予
50
由件︒町田
‑r EB U1
忠臣
n t o g
‑
切U可ぬ芝山口mB叩岳山田
‑u cg gm Z2
5伯仲︒
σE
吋
E V 白
O ロ
S U 1 r H 2 2
一
U 1 回
8
ロ門 出口
∞
U 3
5
g
丘町同門目白井仏 広 三 伊 豆 向
︒
‑
L B Z u g ‑
内町
四匂
岳 四 件
︒
H H H 巳
四回目44内々︑由主円四平何回目丘一回可ゲ江口m札
口m H H g F
片手
H w 目
g円山円四岳町仏EFo
同
E可
BU EE Em og
山口可ゲ町出
OBF
日
] V m w O H V F
一
E司 山田 開門 田ず 白
E
田 口 曲 目 白 一 回 目 印
4己 ロ ゲ 伺
o p 己 由 一 町田 片目 当出 口一
3 ( H
・V
Nm
vN
)
@ その苦痛はついに頂点にまで達し︑死が彼を襲った︒ディ
ムズ
デ
Iルにおいて︑ロマ書の﹁罪の支払う報酬は死である﹂
(︿ ケ N 3
という一言葉が成就した︒彼はたしかに人々の前で
罪を告白した︒それは彼にとってはせいいっぱいのゴI
ルで
あった︒それゆえ︑この告白に続く死を﹁勝利のごとき恥辱
の死﹂とみずから呼んだのである︒このようにして︑苦痛を
生存の原理として︑また苦痛を神のめぐみと観じつつ生きて
きたひとには︑告白も︑死も︑彼の人間性を回復させるのに
少しも役立たなかったのである︒
じつに︑このような意味においてディムズデI
ルはピュl
リタニズムの犠牲だったのである︒彼は姦淫の罪を犯したけ
れども︑人間的な見方からすれば弱さのゆえに︑そして神の側
からすれば恐らく散慢ともいうべき強さのゆえに︑その罪を
人々の前で言いあらわすことができなかった︒苦痛が神のめ
ぐみであるとする立場から︑罪の赦しこそが神のめぐみであ
るとする立場へと︑一歩も前進できなかったこと︑裁きの神
‑72‑
のみを見て愛の神を見なかったこと︑これらの事実があわれ
なディムズデiルという人間の内面をあれほど暗くてゆがん
だものとした︒外面的にピューリタン社会の犠牲となったへ
スタ!と︑内面的に同じ社会の犠牲となったアIサi
・デ
ィ
ムズデiルが対比されるとき︑内面的に犠牲になることの方
がより大いなる犠牲であったことをこの物語は示している︒
しかも皮肉なことに︑ディムズデlルは︑自分がピュl
リタ
ニ
ズムの犠牲であることを少しも気付いていない︒そしてこの
事実は︑伎が犠牲者であることの度合を一層きびしくするこ
とに役立っている︒次に︑ヘスターに同じ光をあててみたい︒
W
ヘス
タ
i・︒フリソに罪の意識があったといえるであろうか
? 彼 女 が パ
Iルとともにピューリタンの町はずれに住んだ
こと︑彼女が多くの人々のさげすみのまなこをものともしな
いで︑さまざまな雑役の奉仕を買って出たことは︑へスター
の罪の意識の表明だったのであろうか?それとも︑そうし
た行為は彼女の独立心の表明であり︑彼女を苦難の道へと追
いやったピュiリタソ社会に対する巧妙な反逆だったのであ
ろうか?巧妙な︑というのは︑それがレジスタソスである
ことを誰にも気付かれないで︑しかもかよわい女性の身でで
きるところの反逆だったかもしれないからである︒
刑期が終るとへスターは牢獄から解放された︒彼女はイソ グラソドの生れ故郷に帰ることも︑ヨーロッパのどこか住みょいところに行くことも︑また新大陸の他の植民地へ移住することも自由であった︒にもかかわらず彼女は︑緋文字を胸につけたままで︑いま一つの恥のしるしであるパiルととも
に︑このきびしいピュlリタソの社会にとどまることを選んだ︒この理由をホ1ソソは次のように説明する︒
若
宮
:
Z 2
口宮止
5
r m 門
出向
尽き
ず己
目白
4014﹃EF
出 口 出 口
吋
wmF22︒
E
仏ロ
ロ︒
P S F 2
B︒
仲町
四時
2 8
E広
丘ロ
∞但
同町
田丘
町ロ
件︒
同
Z白
老開
m口 FE
w‑話
回目
官民
白 RE Y 国 ロ 門 日 F E ‑
問
問田
町民
ム乙
口弘
Oロ
・出
向同
u 日 m r 四
回同
日仏
件O
HH 22 Fr
白色
ゲ白
白ロ
己古
田口
叩ロ
m w o h
四 回 r
リ ぬ ロ 己
F
田 口 L
rm 一 門 町
田 r o
d ‑ 仏
ゲ四
件}
凶町
田口
m w H H
目
︒向
M日 22 2E U1
ちC H
阿 佐 日
HEStg
門 目 白
C U } U 2 n E ロ
ロ♂
岳町
吉岡
昨日
目︒
同 r2 円 山 戸 即 日 吋
同m r
H H H
問委
O己広三
‑ g m p H V H H
∞ 白 H
r ‑ 2
2己
w m g 円
目当
︒H
WO ES
2C吾
匂 民 同 日
々 F S
4F巳
岳 山 口 同
戸
田z
r&
‑o
∞ご
言︒
片目
白色
E z ロ
‑ F
ゲ2
2 2
F出
同目
的口
]件
︒町
吉田
三可
止︒
B‑
℃(H
Y 2 i S )
そして︑この説明に別の光をあてるのは︑処刑台の上に立
たされたへスターに向ってジョソ・ウィルソン牧師が男の名
を告白せよと追ったときの彼女の答である︒
EZ
白4
232ZF
一
円四
gR回
同司
弓ロ
ロ♂
日c
cE
ロm
V
ロO円三
γ向H・4
︿ 己 目 ︒
H M M
ゲロ
片山
口4
5 4
再H白
円同
開開
匂同
ロ仏
件同
O H M ゲ ‑ 四 円 H m u ﹃ 町
田 ︒ 同
手目
可︒
ロロ
mm
H 口
目立 担当
g ‑ E H
門戸
田件
︒︒
F 3 f r E H
己 主‑JP
ロ B
ロ♀
g w m
位︒
Rkr
口弘
司︒
ロE
F同
昨 日S KE g
門同信吋町
古 田 由 ぬ
Cロ
uJ 24
・2 SBZ13Qロ
4 8
これらの言葉がただちに明らかにすることは︑第一に︑
スターにもはっきりと罪の意識が存在することである︒ここ
には︑みずから進んで苦難の道を歩むことによってのみ︑滑
らかさに至るのだという希望さえも含まれている︒自分の犯
した罪に対するこのような態度は︑ディムズデlルのそれと
同じである︒へスターは罪を意識するゆえに苦難を求めるの
であって︑苦難の彼方に清浄を予想してはいるけれども︑罪
の此岸に︑ただちに赦しがあるとは夢にも思っていない︒こ
の点で彼女はまさにディムズデlルの弟子であり︑ピュ1リ
タニズムの子である︒しかし︑第二に︑ディムズデiルの苦
闘をも自分の苦悶と同じく堪えようという決意︑つまり︑罪
の共犯者の魂の重荷をになおうとの決意は︑﹁愛﹂の決意に
ほかならない︒彼女をニュ1・ィングラソドにとどまらせた
大きな理由の一つは︑ディムズデiルに対するこの愛︑つま
り受苦的な愛のゆえであった︒
ヘスタ!の罪の意識をいま少し詳細に論ずる必要がある︒
彼女がみずから派手な刺繍をほどこして絶えず胸につけて暮
した緋色のAの文字︑すなわちこの物語の題名となった緋文
字は︑じつにへスタ!の罪の意識のしるしなのであった︒彼
女はこれをいやいやながら︑ふてくされてつけて歩いたので
J ¥
はなく︑むしろどちらかといえば誇らしげにつけて歩いた︒
彼女はこの恥のしるしに装飾をほどこすことから︑このしる
しと自分との関係を作りはじめた︒ヘスターにはいま一つの
緋文字があった︒それは探紅のビロードの上衣を着せられた
︒ハ
Iル
であ
る︒
パ
iルは罪の果実であったが︑へスターはこ
の娘をどこに行くにも連れて出た︒この子の衣服と姿全体は︑
へス
タ
Iの胸の上の文字をどうしても思い出させた︑とホI
ソソは記している(第七章﹀︒これはへスタI自身が一切の
想像力をこめて︑自分の罪と恥と苦痛のしるしである緋文字
に似たものをこの子の上に作りあげようとしたからである︒
パiルはへスターの愛の対象物であると同時に︑罪と恥と苦
痛のしるしとなった︒緋文字とパ1ルとの聞にできあがった
この類似性の度合は強まって︑ほとんど同一性の域にまで達
したかと思われた︒ヘスターが︒ハiルをこの上なく愛したこ
と︑つまり罪の果実を愛したということは︑罪を愛すること
ではなく︑罪を何か別のものへと変えることであった︒ディ
ムズ
デ
lルにとって︑苦痛を身に受けることが生きることと
もなっていったと同様︑ヘスターにとって︑罪と恥と苦痛のし
るしであるパ!ルを愛することが生きることを意味するよう
になっていった︒
ヘスターには恐怖もあった︒さいしょはパiルが成長する
につれて︑この子の生命のもととなった自分の罪の行為にふ
さわしい結果が︑今にもその子の上にあらわれるのではない
かと恐れた︒さいわいパlルは元気に︑欠けたところもなく
大きくなったが︑この子には妖精の子を思わせるような気ま
ぐれと︑鋭さと︑炎があった︒一アィムズデIルもそうである
が︑ヘスターには自分で自分を恥ずかしがる気持はなかった︒
二人は自廟の誘惑からは不思議と守られていた︒二人ともそ
れぞれ苦痛を自分の身に受けることによって︑この罪によご
れた状況から脱け出すことを欲していた︒しかし一方は罪の
告白ができないまま︑告白の衝動にじりじりと駆られつつ生
きたのに対し︑他方は︑罪がすでに人々の自の前にあらわさ
れたために︑告白の衝動からは完全に解放されていた︒そし
て︑二人とも︑ただちに罪の赦しを宣言するキリストを所有
していなかった︒
パールとともに生きるということは︑ヘスターにとってあ
がないのための苦行であるとともに愛の行為であった︒ヘス
ターにとってパiルは単なる娘というだけにとどまらず︑さ
らにこの子は彼女の罪と恥と苦痛のしるしであり︑幸福と喜
びと愛の対象物であった︒パールはへスタ!なしに生きてい
くことはできなかったし︑へスターは︑時には最も鋭い苦痛
となるこの娘なしには生きていかれなかった︒このはげしい
ご重の関係が母と娘の間にあったことが︑ヘスタ!の人間性
の回復にどのように大きな役割をはたしているかに注目され
るべきであろう︒ディムズデ!ルの悲劇は︑じつに︑このよ
うな関係をだれとの間にも絶たれていたことにあったのであ る︒だから︑ベリソガム知事邸におけるディムズデi
ルの
﹁罪ある母親は罪ある父親よりも幸いです﹂
28
頁)という
言葉は︑彼のまごころからの告白であり︑羨望の言葉だった
のである︒こうした︑愛にもとずく関係性は︑ゆがめられた
人間性の回復に効果のあるほとんど唯一のものである︒そし
て︑これのみが︑罪を犯した人を︑その罪にもかかわらず︑
なお勝利へと向わせるのである︒ヘスターはキリストを所有
していなかったけれども︑キリストがその生涯と死と復活を
通して具現した﹁愛﹂に︑︒ハ1ル之緋文字の聞の不思議なア
ナロジーを通して徐々に接近していったのである︒
今までは罪の意識を中心に︑内なる罪︑すなわち自分自身
の罪を取扱ってきた︒ところでこの物語はこれに対立するも
のとして︑外なる罪︑すなわち自分自身のものではないが︑
自分を苦しめるところの他人の罪をも描き出している︒たと
えばへスターは自然性を破壊することを本能的に罪と感じた
のである︒海岸で薬草を採集していたチリソグワ!スに会っ
て︑彼と話したのちにへスタlの心の中に起った憎しみの感
情は︑この別の意味で用いられた罪への憎しみの感情であっ
た︒うら若い頃の幸福で︑清かった彼女に︑書斎の虫である
老人がいいより︑口説き︑ついに彼女をめとったことが彼女
には自分の犯した姦淫の罪よりももっとひどい罪だったよう
に恩われた︒これに似た憎しみの激情はディムズデIルの方
にも見られる︒医者のチリソグワIスは︑或る日︑患者のデ
ィムズデlルと話していたが︑最後にこの老槍な医者は︑身
体の病気を直すためにはどうしても精神の病気を知り︑魂の
傷︑煩いの内容を打明けてもらう必要がある︑と言った︒こ
れに対して牧師は憤然と次のように答える︒
E2 0
一ー
ーロ
︒ご
cFg一
lt g ご︒但ロ
S E r ‑
可辛
苦片
山田
口一
:・
wOロ∞ 丘 民伊丹ゲ四件ゲ白田‑ w
印島田町
29
岳町ロ仏︒
Hn og BX B U ﹃ 田
町 民
zp mO
口出可
F U 1
曲 目 白 山
田 H H
o h
岳 町
O田 ロ
‑ 一 出
♂ は 芦
田宮
口門
目当
日昨
H 日
ru mo o 門目立町田巴一回
出吋
ク
g p p j H ロ ロ
m u o
同
r m w g
白
日内日一戸白昨日比旨︻目︒d司 昨
H H H μ 日
巾
g w
山 口
r u
吉田貸出但
H H 仏
当日
田仏
0 5 w r m
由日
戸田
口田
町四
m o o
仏・切出件当日
H0 2同任︒
F F
呉
虫色門出町三宮岳山田百三宮乙手巳円日間同
2P22EB
田 町民
ず白
件当
2ロ吾師団口同22
田 口 門
Hr
Ouの
3 ( 門 口
H V ‑ H U
印﹀
この憤りの言葉が明らかにすることは︑人の魂こそは神と
苦しむ者とが交ることのできる唯一の場所であり︑それゆえ
他人の犯してならない聖所だということである︒ディムズデ
Iルはこのことをほとんど本能的に感じている︒そしてここ
をねらう者は悪魔なのである︒森の中で︑ヘスターがついに
牧師に︑チリングワlスは以前の自分の夫であったことを打
明けたときの牧師の激情にもまた︑人の魂を聖所と見倣すあ
の考え方があらわれている︒
E者向田吋;︒件祖国
22P432
回 目
52 11 rm dS HE
‑
叶}
回目
吋白
山田
O白 目
当2
8
田 口 F
2 8
岳町唱︒
宮‑ E
内回
官円
四回
同一
叶宮同
05 52
ぷ
2 4 8 m
山 由
rg
げ日
gz sr Ep gg u可 回
目 ロ・
回目
rs ic
三‑
L丘
P2 5Z 00
門H
Lr
ロg
口昨
日々
0同
ロ国r
5s rg
ュ・叶日
♂ロ目H O 戸田口円四戸出gR
42
円同
日仏
由︒
3一
Q‑ SN
﹀
魂という聖所を侵すことは神のおきてを侵すことよりもっ
と恐ろしい罪であるという︒へスターにとってもディムズデ
lルにとっても︑外なる罪が内なる罪よりもっとひどい罪と
感じられた︒しかしそうかといって︑このことのために︑二
人の内なる罪は少しも軽くされるわけではない︒この外なる
罪の優位が︑二人の海外への逃走のくわだてに幾分なりとも
道徳的な根底を与えたことはあきらかである︒しかし︑この
逃走は挫折に終った︒チリングワlスはすでにプリストル船
の船長にわたりをつけていた︒ディムズデ1
ルの
肉体
には
︑
名誉ある祝日の説教と︑最後の告白と︑みずからの胸を聞い
て肌をあばくだけの力しか残っていなかった︒人間性の回復
は徐々に進むので︑一挙には起らないのである︒
‑76
﹃緋文字﹄の世界のきびしさは︑ε罪人であるディムズデI
ルに対し︑彼の善行と苦痛とか一通して罪の償いを得ようとす
る努力の成就が一切拒絶されたことにある︒へスターやパー
ルとともに海外に逃亡して︑自分の宿命から逃れようとする
くわだてもまた拒絶された︒彼にとってはまさしく︑﹁罪の
支払う報酬は死﹂なのであった︒ディムズデIルにおける悲
劇は︑﹁赦し﹂︑が求めるものとしてはあったが︑与えられる
ものとしてはなかったことである︒﹁けれども︑この問題に
干渉するとは︑
‑ i
苦しんでいる者と神との間にあえて出し
ゃばるとは︑あなたはいったい何者ですか?﹂戸田頁﹀悪魔
のようなチリングワIスがそのように出しやぼったちょうど
その場所は︑キリストが座を占めるべき場所であった︒そし
てこのキリストは十字架上の死と復活を通して罪の赦しを宣
言することのできる唯一の人であった︒ディムズデiルは彼
に苦痛を与える神を所有していたし︑彼はその神を天にいる
医者であるとさえ考えた︒しかしキリストではなかった︒デ
ィムズデ!ルにはキリストが拒絶されていた︒ピューリタン
のニ
ュ
I・イソグランドでは道徳を代表するおきてが横暴を
ふるい︑ダイナミッグな福音はほとんどその力を示す余地が
なかった︒この小説にキリストが登場しないこと︑ディムズ
デIルやへスタiの思いの中にも︑夢や希望の中にもキリス
トがあらわれないことは意味深いことである︒このことは︑
この作品が一八五
O
年にあらわれたことと︑当時のニュ1・イソグラソドのユニテリアニズムやトラソセンデソタリズム
に代表される宗教的・思想的風土からすれば当然のこととい
えるかもしれない︒しかし︑私の考えでは︑それよりも一層
重要なことは︑この作品にキリストが拒絶されているからこ
そ︑ディムズデIルの悲惨さは一一層確実な根拠を与えられて いることである︒
へス
タ
I・プリンを罪と恥から救ったものは﹁愛﹂であり︑
愛は関係性のうちに全うされた︒彼女はまず彼女の恥のしる
しである緋色の文字と自分との間に関係を作り︑次にそれを
パIルと自分との関係へと発展させていった︒この類似性は
ついに同一性にまで近付いた︒パールとの関係においてのみ
へスターは生きていたのであり︑ヘスタ!との関係において
のみ
パ
1ルは生きていた︒このため︑ヘスターは罪と恥と苦
痛のしるしを愛していく以外に生きる道がなくなった︒罪と
恥と苦痛のしるしを人は避けようとするし︑また避けること
には何の無理もない︒しかしへスタIの場合︑緋文字とパー
ルとの間に作られた驚くべき類似性のゆえに︑へスターはそ
れを避けたり憎んだりしたい自然の気持にもかかわらず︑緋
文字を愛することを余儀なくされたのである︒緋文字に刺繍
をほどこして装飾したことが︑このしるしを愛したことの証
拠といえよう︒ここに彼女の勝利の秘密があった︒
さいしょはまぎれもなく罪と恥のしるしであった緋文字が︑
この物語の進行とともにどのように呉った意味を加えていく
かを︑この作品は描きえて余りがある︒罪と恥のしるしは︑
やがて他人の目には有能な者︑あわれみと思いやりある者の
しるしとなった︒それは普通人には出入りできない区域にさ
えも自由に立入ることのできるパスポートでもあった︒この
しるしはへスターを魔女の誘惑から守った︒このしるしを取