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明治前期における技術者の経歴と統計観察

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著者 植村 正治

雑誌名 社会科学

巻 44

号 4

ページ 1‑48

発行年 2015‑02‑18

権利 同志社大学人文科学研究所

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013873

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明治前期における技術者の経歴と統計観察

植 村 正 治

近代日本の経済発展にとって欧米の近代工学技術の日本への移転は不可欠であった という視点から,本稿では,お雇い外国人,海外留学,国内の工学系高等教育機関を 通して技能や技術を学んだ技術者たちが,明治前期においてどのような分野のどのよ うな業種に進出していったかを検討した。このために 3 つの工学会員名簿に記載され ている技術者たちの勤務先をいくつかの基準に基づいて分類した。まず省庁,地方庁,

陸海軍,学校,民間という 5 分類や,産業分類法の 1 つである経済活動別分類(SNA 分類)を用いた。また,技術者側の属性を基準とする分類も行った。彼らの学校歴や その有無などによる分類,何らかの教育機関で教育を受けた技術者の場合,専門分野 別の分類,である。これらの基準に従って 1880 年,1882 年,1892 年の工学会員名簿 記載の技術者たちを分類し,一定の時系列的変化を見いだすことができた。また 1892 年の名簿記載の技術者のうち勤務先などが明らかになった人数は 850 人ほどに達し,

1892 年段階の技術者たちの各産業分野などへの分布状況をうかがうことができた。

は じ め に

前近代社会においては,たたら製鉄や製塩業などにおいて一部鉱物資源(もしくは地 下資源)が生産活動に利用されたが,非鉱物資源が主要なものであった。これを利用す る生産技術の進歩により一定の経済発展は認められたが,上限があった。たとえば,江 戸時代の製糖業において非鉱物資源を利用した技術進歩があったことを検証したが,技 術水準は別としてそれから生み出される生産水準は明治以降の近代製糖技術の比ではな かった1)

産業革命期以降,石炭や鉱石などの鉱物資源に転換することにより,それ以前の経済 に比して急速な経済発展が達成された2)。この転換を支えたのが,鉱物資源を効果的に制 御するための,(1)動力機(エンジン),(2)作業機(生産加工機械)の技術革新・改良・

普及であった。その多くは機械工学や化学工学の技術進歩に基づく。また,鉱物資源を 制御するための動力機・作業機の素材そのものが,品質変化が少ないばかりでなく,耐

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久性,剛性,耐熱性などの特徴を持つ金属製でなければならない。すなわち,(3)冶金 装置の技術進歩が必要不可欠である。この技術進歩の中には,鉱石から金属に加工する ために必要な非鉱物資源である木炭から,鉱物資源である石炭に転換させたことも含ま れる。ただ作業機技術を,規則的に生起する物理的・化学的な各種自然現象を,生産や 加工に応用する技術と考えると,冶金技術も作業機技術の中に含まれるが,本稿では,資 源利用という視点から見て重要性が高いので,作業機技術から区分したい。厳密なもの ではないが,表 1 は 3 つの技術系統に属する具体的な機械・装置類を前近代社会と近代 社会に区分したものである。また表 2 は,資源を 4 グループに分類したものである。前 近代社会においては,作業機・動力機に関して素材資源の多くを非鉱物資源,また動力 機のエネルギー資源も水力や風力などの非鉱物資源に依存していた。ただし冶金装置の たたら炉に関して,その上部・下部構造のほとんどが石もしくは土からなり,送風機は 木製であったので,分類は曖昧となる。一方,近代においては作業機・動力機・冶金装 置の素材資源のほとんどが鉱物資源であり,動力機のエネルギー資源についても,水力 を除いて3)その多くが鉱物資源であったことは明らかである。

技術者や技能工によりこれらの技術が開発・活用されてきたが,大雑把に言って,前 近代社会においては,長年の経験と勘に基づき,変化に富む非鉱物資源の特性を熟知し た技能工が中心的役割を果たしたのに対して,近代社会,とりわけ後発国の近代におい ては,幅広い科学的知識を身につけ,これを基礎にして体系的な専門的工学教育を受け た技術者がその中核を担ったと考える。

徴発物件調査に基づいて集計された 1892(明治 25)年の職工合計人数(杣職,木挽職,

棒梢職,指物職,桶工,竹工など 25 業種)は約 58 万人に達したが4),本稿で取り上げた 1882 年の工学会員名簿には,技術者の範疇に入ると想定した 160 人ほどが掲げられてい

表 1 前近代・近代社会における各種機械・装置・道具類比較

前近代社会 近代社会

作業機 糸車,農業道具,木製圧搾機,精米

機,製粉機など

紡織機械,鑿岩機,圧搾機,工作機械,各種化学装 置など

動力機 水車,風車など 蒸気機関,蒸気タービン,ガソリンエンジン,ジー

ゼルエンジン,電動機など

冶金装置 たたら炉など 高炉,平炉,転炉など

表 2 資源分類表

鉱物資源 非鉱物資源

エネルギー資源 石炭,石油,ウラン,天然ガスなど 水力,風力,木材(燃焼用),人力,畜力など 素材資源 鉄鉱石・銅鉱石等の金属鉱石,石油,

石炭など 木材など

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るにすぎない。1892 年では約 1400 人であった。彼らの下で働く技術者・技能工や,1874 年頃にピークに達し 1879 年以降急減していったお雇い外国人を考慮しても5),1890 年代 において,近代工学技術は伝統的在来技術という大海のなかに流れ込む数本の細流に比 することができよう。

1 1880(明治 13)年の工学会員名簿

工学会は,1879 年 11 月,工部大学校第 1 期卒業生が工学の発展と卒業生相互の親睦を 計るために組織されたが,徐々に工部大学校以外の技術者にも開放されていった6)。以下 では,1880 年,1882 年,1892 年の工学会員名簿に記載されている技術者の属性や勤務先 をいくつかの基準に基づいて分類し,年代的変遷過程を跡づけたい。

1880 年 5 月の名簿には7),63 人の工部大学校卒業生全員が掲げられていた。すなわち 1879 年 11 月卒業の第 1 期卒業生 23 人,1880 年 5 月卒業の第 2 期卒業生 40 人である。分 類基準は学校歴,卒業学科,勤務先である。勤務先については省庁,地方庁,陸海軍,学 校,民間に分類し,経済活動別分類(SNA分類)も行うこととしたが,時代が異なるの でこの分類は必ずしも厳密なものでもなく,網羅的なものでもない。また省庁,地方庁,

軍が運営する各種工場に関しては,公務に分類せず,たとえば工部省官営工場の釜石鉱 山分局の場合,鉱業の金属鉱業,陸軍大阪砲兵工廠の場合,製造業の武器製造業に分類 した。

1882 年段階の学科は,土木学科,機械学科(のちに機械工学科),造船学科(1882 年 新設),電信学科,造家学科,実地化学科(冶金学科とともに 1 学科となっていた時期も ある),鉱山学科,冶金学科の 8 学科からなっていた。以下では,技術的関連性がある学 科を集約し,分類学科数を減少させたい。機械学科と造船学科,土木学科と造家学科,鉱 山学科と冶金学科,をそれぞれ機械造船学科,土木建築学科,採鉱冶金学科とする。造 家という名称は,工部大学校や帝国大学工科大学においても長い間使用されたが,東京 帝国大学となった翌年の 1898 年から建築学科に名称変更された8)。採鉱冶金学科(「採鉱 及冶金学科」)は,実際に工科大学において 1909(明治 42)年に採鉱学科と冶金学科に 分離するまで 1 学科として存続していた9)。また工部大学校の電信学科は,1884 年,電 気工学科(工科大学でも同一名称)と名称変更となったので,ここでは電気学科とする。

実地化学科は応用化学科や製造化学科とも称されることがあったので,単に化学科とし ておきたい。

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1880 年 2 月には,1879 年 11 月の卒業生 23 人のうち,成績上位者 11 人がイギリス留 学をしていた。「卒業生徒姓名及学科等級表10)」には卒業生の成績が「第一等及第」,「第 二等及第」,「第三等修学」の 3 段階に区分されているばかりでなく,各区分内でも序列 が付けられていた。「第一等及第」学生 8 人はすべて留学することになったが,化学科と 冶金学科には「第一等及第」がいなかったので,「第二等及第」の上位者 1 人ずつが留学 生として選出され,これにともない土木学科の「第二等及第」学生が 1 人選ばれること になった。このほかに 2 人の勤務先が空欄となっていたので,残り 50 人の勤務先につい て上記の基準に基づいて集計してみた。

表 3 によると,工部省に 37 人・74%が集中しているが,民間の勤務先が皆無であるの は当然のこととして地方庁や他の省庁にも在籍している。工部大学校は,1883 年に「工 学士ヲ教育スル学校」となるまでは「工部ニ奉職スル工業士官ヲ教育スル学校」であっ た11)。官費生の場合,卒業後の 7 年間工部省に勤務することが義務づけられていたが,実 際には弾力的に運用されていたことがわかる。ちなみに 1880 年の「第 1 等及第」卒業生 8 人すべては工部省勤務であった。

学校へは 2 人が勤務している。工部省の 1 人は,工部大学校に勤務する 1879 年化学科

表 3 1880 年工学会員名簿に基づく工部大学校卒業技術者の勤務先別分類

勤務先分類 機械 化学 採鉱冶金 電気 土木建築 合計 比率

外務省 1 1 2.0

工部省 12 3 12 2 8 37 74.0

省庁合計 12 3 12 2 9 38 76.0

岩手県 1 1 2 4.0

群馬県 1 1 2.0

秋田県 1 1 2.0

石川県 1 1 2.0

長崎県 1 1 2.0

島根県 1 1 2.0

福岡県 1 1 2.0

地方庁合計 3 1 4 8 16.0

海軍省 1 1 2.0

陸軍省 1 1 2.0

陸海軍合計 1 1 2 4.0

工部省 1 1 2.0

内務省 1 1 2.0

学校合計 2 2 4.0

総計 13 8 13 2 14 50 100.0

比率 26.0 16.0 26.0 4.0 28.0 100.0

出所:『工学叢誌(工学会員頒布用)』第 1 号,1880 年,21 ページ。

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卒業の中村貞吉である。1880 年の「Imperial College of Engineering, Tokei. Calendar.12)」 には,「Professor of Chemistry」の

E・ダイバーズとともに「Instructor in Chemistry」

として列記されている。日本人最初の工部大学校教師であった。内務省の 1 人は駒場農 学校勤務であった。地方庁には 8 人が勤務していたが,半数が土木学科出身で,すでに この頃から地方における社会資本の整備にあたっていたことがわかる。

表 4 は工部省に勤務した工部大学校卒業生の部局別人数である。名簿が作成された段 階で工部省の監督下にあったほとんどの官営工場に配置されていた。いずれの工場にお いてもすでに多数のお雇い外国人技術者・技能工が早期に雇用されており,彼らの下で 働いていた日本人の技術者や技能工も多数いた。当然のことであるが,卒業学科はそれ ぞれの官営工場の特質に対応している。営繕局の 3 人はいずれも造家学科の卒業生であっ た。電信局や横浜灯台局においても機械・電気などの必要性が高い。阿仁鉱山などの金 属鉱山や三池鉱山のような炭鉱においては機械・採鉱冶金・土木建築の重要性が高い。ま た造船や機械製造においては機械技術,品川工作分局のような硝子製造を主とする官営 工場では化学技術が必要となる。

工部大学校では,1,2 年の予科段階では学内授業を中心とし,3,4 年の専門科では半 期ごとに「修学」と「実地」とを繰り返し,5,6 年の実地科ではすべての授業時間を「実 地執業」にあて,6 年生の最後には卒業論文を提出することになっていた。すなわち,卒

表 4 工部大学校卒業生の工部省部局別勤務人数

勤務先 機械 化学 採鉱冶金 電気 土木建築 合計

阿仁鉱山分局 1 2 3

院内鉱山分局 1 2 3

釜石鉱山分局 1 1 2 4

佐渡鉱山分局 1 1

生野鉱山分局 2 2

三池鉱山分局 3 3

鉱山局 1 1 2

電信局 1 2 3

大阪鉄道局 1 1

神戸工作分局 2 2

長崎工作分局 2 2

赤羽工作分局 3 3

品川工作分局 3 3

横浜灯台局 1 1 2

営繕局 3 3

合計 12 3 12 2 8 37

出所:『工学叢誌(工学会員頒布用)』第 1 号,1880 年,21 ページ。

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業生全員は,6 年間のうち 3 年間は専攻分野と関連する官営工場などで実習を行っている ので,着任と同時に即戦力となったと考えられる。1879 年 11 月,土木学科「第 1 等及第」

で卒業しグラスゴー大学に留学した南清は,1878 年から 1879 年にかけて京都−大津間鉄 道敷設工事に「出張」した際,イギリス人技師の間違いを指摘した。そのあと,釜石鉱 山鉄道工事にも参加した13)。1880 年造家学科卒業の渡辺譲は,5 年生の 10 月から 6 年生 の 12 月までコンドルの設計した開拓使物産売捌所建設現場に派遣され,実地研修を行っ た14)。1880 年電信学科卒業の藤岡市助は,3 年生の 1877 年 7 月,大北電信会社による青 森−函館間海底ケーブル修理を見学した。1880 年 1 月に開通した盛岡−釜石−宮古間電 信線の敷設工事にも 1 年上の中山信順や岩田武夫らとともに参加している。藤岡市助の 伝記によると,「具に苦楚を嘗めて大部分の架設を終えて一同帰校15)」した。

1880 年鉱山学科「第 1 等及第」の桑原政は,三池鉱山分局に勤務したが,『工学叢誌』

第 1 号(1880 年 6 月)には,彼が 4 年生(1879 年 12 月)の時に著した「三池炭礦ノ景 況16)」が掲載されている。三池炭鉱の歴史,炭脈の地図上の位置やその傾斜状況,炭脈 ごとの石炭の品質,石炭相場,石炭運送費,各坑口より港や鉄道までの距離,石炭採掘 方法などが記されている。技術者として鳥瞰的観点から報告がなされている。5,6 年生 へと進級して行くに応じて三池炭鉱に関する各種情報を蓄積していき,卒業後は即戦力 になったものと推測する。

表 5 は,50 人の勤務先を経済活動別に分類したものである。一見して鉱業,その中で 金属鉱業に集中していることがわかる。鉱物資源利用そのものの分野であるが,前述の 鉱物資源利用技術による生産サイクルが未整備な段階なので,外貨獲得や貨幣鋳造の重 要性が高かったものとみられる。製造業や運輸通信業が相対的に少ないが,調査対象が 工部大学校卒業生に限定され,取り上げられた人数も少ないので,全体的動向をあらわ しているとは限らない。

2 1882(明治 15)年の工学会員名簿(姓名録)

1880 年 5 月の名簿には掲載されなかったが,名簿作成時に工部大学校卒業生以外の金 子精一が準員として工学会に入会し,6 月には足立太郎,松田周次がそれぞれ入会して以 降17),工部省を中心としてではあったが,裾野が広がっていった。1882 年 10 月段階の入 会状況を示す「工学会員姓名録18)」には 193 人の会員が登録されていたが,職名が「工 部大学校長19)」とある大鳥圭介,「鉄道会社長」(日本鉄道会社)の吉井友実,「農商務大

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輔」の品川弥二郎の 3 人は客員であったので,集計から除外した。また 21 人の工部大学 校在学生も会員となっていた。21 人のうち 13 人は留学中の学生である20)。在学中の学生 9 人のうち 6 年生が 7 人,4,5 年生が 1 人ずつとなっていた。6 年生 7 人のうち 4 人が電 信学科生(学科全員)であった。この 4 人のうち 3 人は金沢電信局と浜松電信局,また 5 年生の採鉱冶金学科学生は佐渡鉱山分局で実地研修中であった。彼らも技術者の範疇に 入らないので集計から除外した。残り 169 人の中で最も多いのは工部大学校卒業生で 112 人にのぼる。

169 人から工部大学校卒業生を差し引いた 57 人に関して,2 つのグループに区分して みた。会員名簿に工部大学校卒業生と同様に専門分野が記載されているグループと,記 載されていないグループである。それぞれ 39 人(1882 年では専門分野欄が空欄であった が,1892 年の名簿に専門分野欄に記載があった 2 人を含む)と 18 人であった。内田星美 氏は,日本の近代化初期における技術者を 3 つの範疇に区分した。(1)洋学者の独学に より技術者に転換した早期技術者,(2)①初期留学技術者,②国内養成技術者からなる 初期技術者,(3)①工部大学校・工科大学卒業者,②高等工業学校卒業者(東京職工学

表 5 工部大学校卒業生勤務先の経済活動別分類

大分類 小分類 機械 化学 採鉱冶金 電気 土木建築 合計 比率

鉱業

金属 3 8 2 13 26.0

石炭 3 3 6.0

不明 1 1 2 4.0

鉱業合計 3 12 3 18 36.0

製造業

窯業 3 3 6.0

一般機械 3 3 6.0

造船 4 4 8.0

武器製造 1 1 2.0

製造業合計 8 3 11 22.0

建設業合計 建築業 5 5 10.0

土木業 4 4 8.0

建設業合計 9 9 18.0

運輸通信業

鉄道 1 1 2.0

灯台 1 1 2 4.0

通信 1 2 3 6.0

運輸通信業合計 2 2 2 6 12.0

公共サービス 教育 3 3 6.0

公務 勧業 2 1 3 6.0

総計 13 8 13 2 14 50 100.0

比率 26.0 16.0 26.0 4.0 28.0 100.0 :公務の勧業には地方庁「勧業課」に勤務する卒業生を入れた。

出所:『工学叢誌(工学会員頒布用)』第 1 号,1880 年,21 ページ。

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校・東京工業学校を含む)からなる学卒技術者21),である。本稿では,上記の(2)グ ループを内田氏の指摘する初期技術者ととらえたが,後述の 1892(明治 25)年の名簿に 現れる別の技術者グループと対比させるために,就学型初期技術者としたい。

表 6 − 1 は,専門分野記載のグループに含まれる 39 人のうち,1882 年頃までの略歴が 明らかになる 27 人の就学型初期技術者の略歴である。彼らの多くは,数年間にわたって 欧米に留学し,それぞれの専門分野に関する勉学を行って帰国している。宇都宮三郎,山 田純安,黒部鉉太郎,毛利重輔ら 15 人である。また桑田知明,金子精一,吉田秀正,中 野外士男らのように,留学はしていないが,教育機関などにおいてお雇い外国人から専 門的知識を得た技術者も就学型初期技術者にあてはまる。ウィーン万国博覧会に派遣さ れた田中精助もこの中に入る。宇田洋五郎のように経歴が必ずしも明瞭でない人物も,幕 末維新期にお雇い外国人から何らかの指導を受けた可能性がある。

表 6 − 2 は,専門分野の記載がない 18 人のうち,その経歴が判明した 8 人の略歴を掲 げたものである。中野宗助のように就学型初期技術者にあてはまりそうな人物も見いだ せるが,後述の就業型初期技術者タイプも見うけられるし,小林秀知,長谷川嘉道,丹 羽維孝は明らかに事務官であった。さらに名簿の職名欄に「職員」,「属官」,「社員」と 記載された 4 人も見いだせたので,専門分野の記載がない人々については集計から除外 することとした。すなわち,工部大学校卒業生 112 人と就学型初期技術者 39 人とを合わ せた 151 人を集計対象としたが,勤務先不明の技術者が少なからず見いだせたので,1882 年の官員録に依拠して 25 人の勤務先を追加した22)

表 7 は,1880 年の名簿に基づく表 3 と同様にして作成したものである。就学型初期技 術者と,内田氏の指摘する学卒技術者,すなわち工部大学校卒業技術者とを区分してい る。両者を比較すると,省庁合計比率に関して,就学型初期技術者の方が若干高くなっ ている。とくに勤務先の工部省への集中が顕著である。1880 年の工部大学校卒業技術者 と比較すると,工部省以外の省庁への就職が進みつつある。表 8 の卒業学科別に見ると,

採鉱冶金学科比率は大きな差はないが,1882 年の工部大学校卒業技術者では電気学科比 率が 10.4%,同年の就学型初期技術者では 15.4%と,1880 年の 5.3%に比して 3 倍になっ ている。電信網が拡張しつつあったことによろう。

表 9 は,就学型初期技術者と工部大学校卒業技術者を合算して,勤務先を工部省各部 局別に集計したものである。かっこ内の数値は就学型初期技術者数である。当時,工部 省に存在していた 9 部局のうち,会計局を除くすべての部局に彼らが勤務していた。鉱 山局では採鉱冶金学専攻技術者がもっとも多く,鉱山局技術者合計の 77.6%を占める。ま

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表 6-1 就学型初期技術者の略歴(1)

氏名 勤務先 専門 生年 出身 略歴 留学国 留学年 留学先 修学分野 出所

宇都宮三郎 工部省

技長 化学 1834 尾張 藩士

尾張藩士上田帯刀に西洋砲術を学び,化学 の必要性を痛感。1854 年杉田成卿に舎密学 を学ぶ。1862 年幕府洋書調所化学所に入 る。1869 年大学中助教・大助教。1873 年 工部省勧工寮(製作寮)製煉所(1877 年深 川工作分局)勤務。1882 年工部大技長。

欧米,アメ リカ

1872- 1873 1875- 1876

視察,フィラ デルフィア 博覧会

化学 (1)

田中精助 工部省 機械 1836 京都

養父田中久重の下で諸機械・時計製造。

1864 年佐賀藩精煉方雇。1872 年工部省電 信寮修技科勤務。電信機などの修理。留学 後, 電 信 寮 仮 製 造 所 で ド イ ツ 人 シ ェ ー ファーについて電気機械製造。1877 年工部 4 等技手。

ヨーロッパ 1873- 1874

ウィーン万 国博覧会

電信製造伝 習生 (2)

山田純安 工部省 冶金 1839 高松 藩士

幕末期,緒方洪庵塾に入る。明治初年,大 阪で英語を学び,1871 年藩命によりイギリ ス留学。1875 年工部省小坂,阿仁,面谷鉱 山勤務。

イギリス 1871- 1875

王立鉱山学

鉱山学 (3)

(4)

黒部鉉太郎 工部省 川口鉄 道局

機械 1840 徳島 藩士

1862 年藩購入アメリカ船舶の「蒸気機関」

担当。慶応年間長崎英学修行。1876 年工部 省鉄道寮 1 等中師。1879 年鉄道局 1 等技 手。

イギリス 1870- 1875

ユニバーサ ル・カレッジ 入学。

兵学・航海

(5)

(6)

桑田知明 工部省 阿仁鉱

地質 1846 新発 田藩

幕末維新期,蕃書調所・開成所においてフ ランス語を学び,1869 年大学南校でフラン ス語を教える。1872 年開拓使仮学校生徒,

1873 年ライマンに出会い地質測量調査に 参加。ライマンの指導を受ける。1880-1883 年阿仁鉱山に勤務。1884 年ライマンの助手 として渡米。

(7)

(8)

金子精一 桜水舎 化学 1847 前橋 藩平

1870 年 6 月大学少助教として大阪理学校出 張。同所でハラタマ,リットルに化学を学 ぶ。1871 年 4 月帰学。同 7 月文部中助教。

1872 年 8 月群馬県出仕。1873 年 6 月熊谷 県出仕。同年 8 月秋田県出仕。同年秋田市 日新学校校長。1876 年化学入門書,ロス コー著「Science Primers」を「化学之始」

として翻訳。

(9)

毛利重輔 工部省 土木 1847 山口 藩士

民部省よりアメリカ留学。1872 年岩倉使節 団に随行し,イギリスで鉄道建設・土木工 学を学ぶ。1875 年鉱山寮出仕。1882 年鉄 道局出仕。

アメリカ,

イギリス 1869- 1872 -1875

レンセラー 工科大学

鉄道建設・

土木学

(10)

(11)

国沢能長 工部省 川口鉄 道局

土木 1848 高知

幕末期中浜万次郎に学ぶ。藩命により大阪 開成校で星亨に学ぶ。1871 年工部省鉄道寮 技術見習。1877 年工部省鉄道局工技生養成 所入所,1878 年逢坂トンネル建設主任技術 者。

(1)

松本荘一郎 工部省 札幌鉄 道局

土木 1848 兵庫 県神 埼郡

1858 年大阪・池内陶所塾,明治初年箕作麟 祥主宰の塾に入学。大垣藩士に推挙され,

藩校英学教授。1869 年大学南校入学。帰国 後,東京府土木掛,1878 年開拓使御用掛と して鉄道建設に従事。開拓使廃止後,1882 年工部省に転じ,さらに農商務省を経て 1884 年工部省鉄道局出仕。

アメリカ 1870- 1876

レンセラー

工科大学 土木工学 (1)

(12)

松田周次 工部省 土木 1849 高松 藩士

1865 年長崎で洋学を学び,明治初年大阪で 洋学を学ぶ。1869-71 年大阪洋学校,1871 年藩命によりイギリス留学。1873 年より文 部省留学生。帰国後,鉄道寮出仕。

イギリス 1871-

1875 土木工学 (3)

(4)

吉田正秀 工部省 電信 1850 幕臣

1868 年神奈川県兵となるとともに,アメリ カ人バラーに英語を学ぶ。1869 年電信工事 外国人技術者の通訳として雇用されたの を契機に電信技術を学び,同年末「伝信機 取扱方」となる。1871 年工部省出仕。1872 年東京−長崎間電信線工事に従事。1874 年 工学寮に電気学専門修行。1876 年電気試験 掛。1877 年工部 7 等技手。1882 年工部 3 等 技手。

(2)

(11)

藤倉見達 工部省 横浜灯 台局

灯台 1852 膳所 藩士

1868 年に来日した灯台建設技術者ブラン トンの通訳。翌年民部省土木司勤務。1872 年灯台寮出仕の時,留学。1877 年灯台局 1 等技手在勤。1881 年権少技長に昇進。

イギリス 1871- 1874

エ ジ ン バ ラ 大 学 で 建 築 学を学び,灯 台 建 設 者 の

R. スチブソ

ン の 下 で 実 習。

(1)

(13)

(24)

末松他三郎 工部省 阿仁鉱

冶金 1853 福井 藩士

1870 年大学南校で学ぶ。1873 年工部省鉱 山寮出仕。1879 年工部省阿仁鉱山分局在 勤。

(14)

中野外志男 工部大 学校助 教授

鉱山 1853 福井 藩士

1870 年福井藩校明新館・諸学科試業・中 級。1871 年 3 月グリフィス,明新館で教え る。1871 年 9 月「化学所庶務方兼教授手 伝」。12 月「洋学准二等教授」。1872 年 5 月 離職。1874 年開拓使測量課御用掛。1875 年 東京開成学校教授補,1876 年東京開成学校 地質学・鉱山学助手。1877 年伊豆大島噴火 調査のためナウマンに同行。1878 年工部大 学校金石学・地質学・鉱山学助手。

(10)

(15)

(16)

(17)

安達仁造 工部省 阿仁鉱

地質 1854 松江 藩士

北海道開拓使外人教師館ボーイとなる。

1873-1880 年 ラ イ マ ン に 鉱 山 学 を 学 ぶ。

1880-1883 年阿仁鉱山に勤務。1884 年アメ リカ・ペンシルバニア地質調査所に入る。

(7)

(8)

(18)

戸田氏共 化学 1854 大垣 藩主

1865 年兄戸田氏彬の養嗣子となり,大垣藩 主となる。1870 年大学南校入学。1876 年 工部省鉱山寮出仕。

アメリカ 1871-

1876 鉱山学 (19)

(20)

増田礼作 工部省 川口鉄 道局

土木 1854 府内 藩士

1870 年大学南校貢進生。1876 年東京開成 学校工学科卒。1876 年文部省留学生として イギリス留学。1881 年工部省鉄道局工部権 少技長。

イギリス 1876- 1881

グラスゴー大 学(工学士・

科 学 士 の 称 号 ),1878 年 エジンバラ大 学に入る。

エジンバラ 大学では上 下水道,港 湾,橋梁な ど の 視 察・

研修。

(1)

(21)

足立太郎 工部省 釜石鉱

鉱山 1855 山口 藩士

戊辰戦争に従軍。井上馨の勧告により大阪 開成校に入学。1870 年大阪造幣寮硫酸製造 所に就任後,工部省鉱山寮出仕。1876 年佐 渡鉱山在勤。1880 年工部少技長。1881 年 佐渡分局主任として出京,釜石分局へ派 遣。

(22)

(23)

岡崎重陽 工部省 青森電 信分局

電信 1855 幕臣

大学南校修学。1872 年電信寮技術見習。イ ギリス人ギルベルトに英語を学ぶ。留学 後,1874 年電気学研究のため工学寮通学。

1876 年山形地方電信線工事に従事。1879 年 電信中央局試験掛。

イギリス 1872- 1874

バ ル ネ ル 海 軍予備校,ロ ン ド ン の 教 授 キ ン グ 氏 に止宿。電信 建 築 長 フ リ ー ド ウ ー ド氏に学ぶ。

電信 (2)

杉甲一郞 工部大

学校 図学 1856 東京

1872 年岩倉使節団を介して,灯台寮技術 1 等見習としてイギリス留学。1876 年工部大 学 校 図 学 助 手。1878 年 図 学 教 師

(instructor),1882 年図学教授。

イギリス 1872- 1874

エジンバラ 大学

土木工学教 授の下で図 学・測量学・

建築学を学 ぶ。

(24)

(25)

伊藤弥次郎 工部省 鉱山

長崎 県平

幕末期シーボルトの長男に英語を習う。

1869 年井上馨の知遇を得る。彼の勧めで鉱 山学を学ぶ。留学後の 1880 年工部省出仕。

中小阪・釜石鉱山などを巡検。1882 年工部 少技長。

イギリス 1874- 1880

ユ ニ バ ー サ ル・ カ レ ッ ジ。 コ ン ウ ォ ー ル 錫 山勤務。王立 鉱 山 学 校 で 修学。

鉱山学

(11)

(25)

(26)

(27)

大島供清 住友・

別子銅

鉱山

1868 年生野鉱山でコワニーについて鉱山 学を学ぶ。生野鉱山測量課長として精銀分 析担当。1878 年住友別子銅山勤務

(28)

宇田洋五郎 工部省 電信 1876 年電信修技校卒業。1879 年電信局電

気試験所専門生徒。1880 年中央局試験係 (29)

大河平才蔵 海軍 2 等師 化学

鹿児 島藩

1877 年海軍少尉補。1882 年築地海軍兵器

製造所において坩堝製鋼法に成功。 ドイツ 1878- 1881

クルップ工

造兵 (10)

(30)

小出秀正 工部大 学校助 教授

化学 千葉

1872 年開拓使仮学校 14 等出仕・御用掛(化 学修行)。1875 年工学寮 3 等中師。1876 年 E・ダイバーズの下で工学寮化学助手。

(31)

(12)

狛林之助 工部省

技長 鉱山 福井

藩士

幕末期藩の蒸気船運用に従事。留学後,

1873 年工部省出仕,1874 年鉱山寮出仕,釜 石鉱山などに派遣。1877 年工部権少技長。

イギリス 1868- 1873

(10)

(32)

杉村次郎 面谷鉱 山,鉱 山家

鉱山 彦根

藩士

明治初年,大阪で金石学専門の西洋人に英 語を学んだのを契機に金石学に関心を持 つ。五代友厚の鉱山に勤務し,各地鉱山を 実地研究。1874 年滋賀県栗太郡で黄玉石を 発見。美野国では砂錫の発見。1879 年J. ナ「Dana's Manual of Mineralogy 」を抄 訳。

イギリス 1876- 1879

(26)

(33)

(34)

(35)

表 6-2 就学型初期技術者の略歴(2)

氏名 勤務先 専門 生年 出身 略歴 留学国 留学年 留学先 修学分野 依拠

文献

藤島常興 機械家 1829 長門 国長 府惣 社町

白銀細工師。1856 年江戸・後藤一乗に金属 彫刻を学ぶ。1866 年府中藩士となる。1872 年工部省勧工寮出仕。オーストリア技師カ ラフトから精密機器製造法を学ぶ。帰国 後,工作局で測量器等を製作。1878 年測量 工学機器製作工場設立。1883 年同工場を藤 島製器学校に改組。

オースト リア

1873- 1874

ウィーン万

国博視察 (36)

中沢孝政 工部省

技手 1833 尼崎 藩士

1865 年,黒鍬棟梁取締方。1868 年灯台建 設に従事。1870 年よりブラントン設計の灯 台建設に従事。1874 年国産の煉瓦を利用し た犬吠崎灯台を完成させる。1881 年工部省 退職後,建設会社設立。

(37)

小林秀知 工部省

鉱山局 1838 長州 藩士

戊辰戦争に参加。1872 年鉱山権大属で佐渡 支庁主任として赴任。三池炭鉱官収後の 1873 年,同炭鉱事務主任となる。1877 年 工部 1 等属。1881 年主任権少書記官として 三井鉱山分局会計主務を命ぜられる。三池 炭鉱拡大に貢献。

(20)

大島盈株 工部省

鉄道局 1842 江戸 新橋

幕府の大棟梁甲良家の養子となり,明治初 年に 12 代大棟梁を継ぐ。1871 年鉄道寮。

新橋−横浜間鉄道工事に従事。汐留駅施 工。

(20)

(38)

(39)

中野宗宏 工部省

電信局 1849 小城 藩士

1869 年洋学研究のため長崎・石丸安世に英 学を学ぶ。1871 年藩命により東京に遊学。

1872 年工部省電信寮出仕。外信掛として公 文翻訳を担当し,海外諸国の電信法規調 査。1880 年工部 1 等属。1881 年権少技長。

イギリス 1879- 1880

万国電信会

議に派遣 (29)

田岡忠次郎 工部省 1857 阿波 三好

少年期,愛媛県松山の西岡某に漢学を学 び,徳島に帰り渡辺衝平に師事。1875 年東 京の後曙新聞社で活版職工となる。1877 年 頃 電 信 局 出 仕。 ド イ ツ 人 技 術 者 シ ェ ー ファーに就いて電気機械製作に従事。1880 年モールス・インクと電信用炭酸紙の国産 化に成功し顕彰。10 等技手。

(40)

長谷川嘉道 工部省 鉱山局

京都 府平

1872 年灯台権助。1877 年鉱山権助に転任。

同年工部少書記官。鉱山局勤務。1881 年工 部権大書記官。工部省会計局長。1882 年皇 居御造営事務局 5 等出仕兼務。

(10)

丹羽維孝 工部省 鉱山局

名古

1875 年鉱山寮権大属在任。1876 年小坂鉱 山赴任。同年末小坂鉱山主任,大葛鉱山兼 務。1878 年中小坂分局に赴任。主任,1 等 属。1878 年阿仁鉱山赴任,権少書記官。1883 年鉱山局局務代理,少書記官。

欧米 1871-

1872 岩倉使節団 (41)

(42)

出所

( 1 )藤井肇男『土木人物事典』アテネ書房,2004 年。

( 2 )加藤木重教『日本電気事業発達史』前編,電友社,1916 年。

( 3 )竹中龍範「高松藩留学生のこと」『英学史研究』第 20 号,1988 年。

( 4 )内田星美「初期留学技術者と欧米の工学教育機関」『東京経済大学人文自然科学論集』第 71 号,1985 年。

( 5 )佐光昭二『阿波洋学史の研究』徳島県教育印刷,2004 年。

( 6 ) 松永友和「資料紹介・徳島藩の蒸気船−「徳島藩蒸気船乾元丸購入一件(一)」の紹介と翻刻−」『徳島県立博 物館研究報告』第 22 号,2012 年。

( 7 )今津健治『近代日本の技術的条件』柳原書店,1989 年。

( 8 )副見恭子「ライマン雑記(16)」『地質ニュース』533 号,1999 年。

(13)

た鉱山局全体で就学型初期技術者の占める比率は 31.8%(14/44)であるが,採鉱冶金学 専攻技術者に関して就学型初期技術者の各鉱山分局勤務人数合計に占める比率を見る と,25.0%(9/36)にすぎない。工部大学校卒業技術者が健闘している。ただ鉱山局勤務 の 6 人を見ると,半数の 3 人が就学型初期技術者であった。鉱山分局数は小坂鉱山分局 と油戸鉱山分局が増え,8 分局となった。技術者数も工部大学校卒業技術者だけでも 12 人から 27 人に増加した。

電信局に関しても勤務先数,勤務人数も増加している。当然のことであるが,その多 くは電信学専攻技術者であった。就学型初期技術者の比率は 33.3%と,彼らへの依存率 が平均より若干高くなっている。鉄道局に関して人数的には少ないものの,就学型初期 技術者への依存率は 60.0%(6/10)に上っている。その 6 人は黒部鉉太郎,増田礼作,国

( 9 )「農商務属金子精一五等技師ニ被任ノ件」,国立公文書館デジタルアーカイブ。

(10)大植四郎編『明治過去帳』東京美術,1991 年。

(11)石附実『近代日本の海外留学史』中央公論社,1992 年。

(12)花房吉太郎・山本源太編『日本博士全伝』博文舘,1892 年。国立国会図書館・近代デジタルライブラリー。

(13) 海上保安庁灯台部『日本灯台史』丸ノ内出版,1969 年。「元逓信省灯台局長勲六等藤倉見達勲位進級ノ件」,国 立公文書館デジタルアーカイブ。

(14)「故末松他三郎君を弔う」『日本鉱業会誌』第 387 巻,1917 年。

(15)「開拓使御用掛中野外志男免役」,国立公文書館デジタルアーカイブ。

(16)熊澤恵里子『幕末維新期における教育の近代化に関する研究』風間書房,2007 年。

(17)山下昇「ナウマンの火山および火山岩研究」『地質学雑誌』第 96 巻第 6 号,1990 年。

(18) 「実業家安達仁造君」,松下長重編輯『東洋成功軌範』中央教育社,1911 年。国立国会図書館・近代デジタルラ イブラリー。

(19)『明治維新人名辞典』吉川弘文館,1981 年。

(20)『日本人名大辞典』講談社,2001 年。

(21)『東京帝国大学五十年史』上冊,1927 年。

(22)浦上新吾編輯『立身致富信用公録』 第 12 編,国鏡社,1903 年。国立国会図書館・近代デジタルライブラリー。

(23)『造幣局沿革誌』造幣局,1921 年

(24)北政巳『国際日本を拓いた人々』同文舘,1984 年。

(25)『工部大学校学課並諸規則』明治 15 年 2 月改正,国立公文書館蔵。

(26)「1000 号記念特集」『日本鉱業会誌』第 87 巻,1971 年。

(27)神田礼治「日本鉱業会の創立より今日まで」『日本鉱業会誌』第 597 号,1935 年。

(28)住友春翠編纂委員会編『住友春翠』住友春翠編纂委員会,1955 年。

(29)加藤木重教『日本電気事業発達史』後編,電友社,1918 年。

(30)『明治工業史』火兵・製鋼編,丸善株式会社,1929 年。

(31)北海道大学編集『北大百年史』札幌農学校史料(1),ぎょうせい,1981 年。

(32)熊澤恵里子「解説・幕末明治の福井藩人材育成と海外渡航」『福井藩士履歴 2』福井県文書館資料叢書 10,2014 年。

(33)佐々木享「日本鉱業会の創立をめぐって」『専修自然科学紀要』第 3 号,1970 年。

(34)杉村次郎抄訳『金石学必携』1878 年,国立国会図書館・近代デジタルライブラリー。

(35)中野外志男「日本宝石論」『日本鉱業会誌』第 1 号,1885 年。

(36)富田仁編集『海を越えた日本人名事典』紀伊國屋書店,2005 年。

(37)中島耕二「中沢孝政と洋式燈台」『地域史研究』第 20 巻第 3 号,1991 年。

(38)赤堀又次郎『読史随筆』中西書房,1928 年。国立国会図書館・近代デジタルライブラリー。

(39)初田亨『職人たちの西洋建築』講談社,1997 年。

(40) 『日本名家肖像事典』第 8 巻,ゆまに書房,1990 年。

下記文献は,個々の技術者略歴作成に際し適宜利用した。

(41)大蔵省編『工部省沿革報告』,1889 年。国立国会図書館・近代デジタルライブラリー。

(42)手塚晃編集『幕末明治海外渡航者総覧』全 3 巻,柏書房,1992 年。

(43) Imperial College of Engineering, Calendar (1883 年 以 降,The Calendar of the Imperial College of

Engineering), 東京大学情報理工学図書館蔵。

(44) 「工部大学校(工学寮)学課並諸規則」,国立国会図書館・近代デジタルライブラリー。1876 年以降の諸規則は 国立公文書館蔵。

(14)

表 7 1882 年工学会員名簿に基づく技術者の勤務先別分類

勤務先分類

就学型初期技術者 工部大学校卒業技術者

総計 比率 機械 化学 採鉱

冶金 電気 土木 建築

その

合計 比率 機械 化学 採鉱

冶金 電気 土木

建築 合計 比率

工部省 5 1 10 4 6 4 30 81.1 18 1 27 8 15 69 63.9 99 68.3

大蔵省 1 1 2 1.9 2 1.4

内務省 4 4 3.7 4 2.8

農商務省 1 1 2 1.9 2 1.4

省庁合計 5 1 10 4 6 4 30 81.1 19 3 27 8 20 77 71.3 107 73.8

岩手県 1 1 0.9 1 0.7

宮城県 1 1 0.9 1 0.7

群馬県 1 1 0.9 1 0.7

埼玉県 1 1 0.9 1 0.7

山口県 1 1 0.9 1 0.7

石川県 1 1 0.9 1 0.7

長野県 1 1 0.9 1 0.7

島根県 1 1 0.9 1 0.7

地方庁合計 8 8 7.4 8 5.5

海軍 1 1 2.7 1 1 0.9 2 1.4

陸軍 1 1 0.9 1 0.7

陸海軍合計 1 1 2.7 2 2 1.9 3 2.1

公立学校 1 1 0.9 1 0.7

工部省 1 1 1 3 8.1 3 3 1 4 2 13 12.0 16 11.0

静岡県 1 1 0.9 1 0.7

石川県 1 1 0.9 1 0.7

和歌山県 1 1 0.9 1 0.7

学校合計 1 1 1 3 8.1 3 5 3 4 2 17 15.7 20 13.8

民間合計 1 2 3 8.1 1 2 1 4 3.7 7 4.8

総計 5 4 13 4 6 5 37 100.0 25 8 32 12 31 108 100.0 145 100.0 比率 13.5 10.8 35.1 10.8 16.2 13.5 100.0 23.1 7.4 29.6 11.1 28.7 100.0

注:その他には,地質,測量,図学,灯台が含まれる。

出所:「工学会員姓名録」(『工学叢誌』第 1 輯所収),1882 年。

表 8 省庁勤務技術者の卒業学科別比率

機械 化学 採鉱冶金 電気 土木建築 合計

1880 年工部大学校卒業技術者 31.6 7.9 31.6 5.3 23.7 100.0 1882 年工部大学校卒業技術者 24.7 3.9 35.1 10.4 20.8 100.0 1882 年就学型初期技術者 19.2 3.8 38.5 15.4 23.1 100.0 出所:『工学叢誌(工学会員頒布用)』第 1 号,1880 年。「工学会員姓名録」(『工学叢誌』第 1 輯所収),1882 年。

(15)

表 9 技術者の工部省部局別勤務先

勤務先部局 機械 化学 採鉱冶金 電気 土木建築 その他 総計

阿仁鉱山分局 1 7(1) 3(3) 11(4)

院内鉱山分局 1 5(1) 6(1)

小坂鉱山分局 2(1) 2(1)

釜石鉱山分局 3(1) 1(1) 4(2)

佐渡鉱山分局 2 2

生野鉱山分局 5 5

油戸鉱山分局 1(1) 1(1)

三池鉱山分局 1 5(1) 6(1)

鉱山局 6(3) 1(1) 7(4)

合計 3 36(9) 2(2) 3(3) 44(14)

宮城電信分局 1 1

金沢電信分局 1 1

姫路電信分局 1 1

浜松電信分局 1 1

上野高崎電信局 1 1

西京三條電信分局 1 1

青森電信分局 1(1) 1(1)

豊岡電信分局 1 1

電信局 2(1) 2(2) 4(3)

合計 2(1) 10(3) 12(4)

札幌鉄道局 1(1) 1(1)

神戸鉄道局 3(1) 3(1)

川口鉄道局 1(1) 3(2) 4(3)

柳ケ瀬鉄道 1 1

鉄道局 1(1) 1(1)

合計 5(3) 5(3) 10(6)

赤羽工作分局

長崎工作分局 2 2

兵庫工作分局 4 4

工作局 3 1(1) 4(1)

合計 9 1(1) 10(1)

横浜灯台局 1 1(1) 2(1)

営繕局 1 8(1) 9(1)

書記局 1 1

摂州神戸 1 1

不明 2(1) 1(1) 2(1) 5 10(3)

工部省合計 23(5) 2(1) 37(10) 12(4) 21(6) 4(4) 99(30)

注:かっこ内の数値は就学型初期技術者数。書記局勤務の 1 人は,土木学科卒業の千種基である。

出所:「工学会員姓名録」(『工学叢誌』第 1 輯所収),1882 年。

(16)

沢能長,松本荘一郎,服部勤,河島錠三郎であったが,前者 4 人の略歴については表 6 − 1 に掲げたとおりである。

工作局については,機械学専攻の 9 人ともに工部大学校卒業技術者であり,就学型初 期技術者の役割は小さかったように見える。ちなみに工部大学校において造船学科卒業 生を出すのは 1883(明治 16)年のことであったが,長崎工作分局と兵庫工作分局に属す る 6 人のうち何人かは造船技術を学んだ可能性がある。営繕局勤務の 9 人のうち 8 人は 工部大学校卒業生で,7 人は造家学科卒業生であった。

1882 年の名簿には勤務先とともに,たとえば工部技長とか工部大学校助教授などのよ うな職名もしくは職階が記されている。表 10 は工部省勤務の就学型初期技術者と工部大 学校卒業技術者とを職名・職階名別に分類したものである。表 6 − 1 に示した技術者の 生年が判明する 20 人の平均年齢は,1882 年段階で約 34 歳であったのに対して,第 1 期 卒業生の生年が判明する 8 人の 1882 年段階の平均年齢は,27.5 歳であったので23),6.5 歳の年齢差がある。第 2 期以降も 1 歳ずつ繰り下がると仮定すると,1882 年卒業生の平 均年齢は 24 歳ほどとなり,就学型初期技術者との平均年齢差は 10 歳ほどに達する。工 部省における 6 〜 10 年間の技術経験の差が,表 10 のように就学型初期技術者 9 人が技 長に就任することになったと解せる。彼らが当初,工部省の各官営工場をリードしていっ たものと考えられる。「局員」に関しても就学型初期技術者だけが就任しており,何らか の技術経験に基づいたポストであったろう。

表 7 に戻ると,地方庁への勤務人数は 1880 年とほぼ同じであるが,少ないながら内務 省土木局勤務の 4 人が見いだせる。官員録からいずれも「御用掛」として勤務していた ことが確認できる。これ以降,内務省勤務の近代土木技術者を中心とした全国的土木事 業が進展していくことになる。軍への工学会員技術者の関与はまだまだ少ない。学校へ 勤務する 20 人のうち,16 人(工部大学校卒

業生 13 人,就学型初期技術者 3 人)・80%

が工部大学校を勤務先とするものであっ た。他は静岡中学校や和歌山県師範学校な どが少数ながら見いだせる。就学型初期技 術者の 3 人(杉甲一郎,中野外志郎,小出 秀正)の経歴は前掲表 6 − 1 に掲げている。

また工部大学校卒業生 13 人のうち 4 人,す なわち電信学科 1881 年卒業で「第 1 等及第」

表 10 技術者タイプ別の職名・職階名別人数 職名・

職階名

就学型初期 技術者

工部大学校卒業 技術者

技長 9

技手 17 69

教授 1

助教授 2 13

局員 3

役員 1

合計 33 82

出所: 「工学会員姓名録」(『工学叢誌』第 1 輯所収),

1882 年。

表 6-1 就学型初期技術者の略歴(1) 氏名 勤務先 専門 生年 出身 略歴 留学国 留学年 留学先 修学分野 出所 宇都宮三郎 工部省 技長 化学 1834 尾張藩士 尾張藩士上田帯刀に西洋砲術を学び,化学の必要性を痛感。1854 年杉田成卿に舎密学を学ぶ。1862 年幕府洋書調所化学所に入る。1869 年大学中助教・大助教。1873 年 工部省勧工寮(製作寮)製煉所(1877 年深 川工作分局)勤務。1882 年工部大技長。 欧米,アメリカ 1872-18731875-1876 視察,フィラデルフィア
表 7 1882 年工学会員名簿に基づく技術者の勤務先別分類 勤務先分類 就学型初期技術者 工部大学校卒業技術者 総計 比率 機械 化学 採鉱 冶金 電気 土木建築 その他 合計 比率 機械 化学 採鉱冶金 電気 土木建築 合計 比率 工部省 5 1 10 4 6 4 30 81.1  18 1 27 8 15 69 63.9  99 68.3  大蔵省 1 1 2 1.9  2 1.4  内務省 4 4 3.7  4 2.8  農商務省 1 1 2 1.9  2 1.4  省庁合計 5 1 10 4 6
表 9 技術者の工部省部局別勤務先 勤務先部局 機械 化学 採鉱冶金 電気 土木建築 その他 総計 阿仁鉱山分局 1 7(1) 3(3) 11(4) 院内鉱山分局 1 5(1) 6(1) 小坂鉱山分局 2(1) 2(1) 釜石鉱山分局 3(1) 1(1) 4(2) 佐渡鉱山分局 2 2 生野鉱山分局 5 5 油戸鉱山分局 1(1) 1(1) 三池鉱山分局 1 5(1) 6(1) 鉱山局 6(3) 1(1) 7(4) 合計 3 36(9) 2(2) 3(3) 44(14) 宮城電信分局 1 1 金沢電信分局
表 12 1892 年名簿に記載の就学型初期技術者の略歴 氏名 勤務先 専門 生年 出身 略歴 留学国 留学年 留学先 修学分野 一川一 大蔵省 印刷局 化学 1864 岐阜県士族 帝国大学予備門第 3 級学科卒業後,1885 年アメリカ留学。帰国後,大蔵省印刷局技師試補。 アメリカ 1887-1891 印刷技術 沖野忠雄 内務省 土木 1854 豊岡藩 士 1870 年大学南校に入学しフランス語を学ぶ。1885年内務省土木局に入る。1891 年第 5 区土木監督署長。大阪築港・大阪水道・淀川改修工事などを
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