表 22 は,個々の民間会社に勤務する技術者人数を経済活動別に分類したものである。
金属鉱業から見ていこう。具体的な鉱山名もしくは会社名が明らかでないものも少なく ないが,財閥形成過程にあった企業グループ傘下の鉱山が多数見いだせる。古河には足
表 21 工科大学教師の氏名・所属学科・職名など
氏名 所属学科 職階名 卒業学校 卒業学科 卒業年月
高松豊吉 応用化学 教授 東京大学 化学科 1878.07
中沢岩太 応用化学 教授 東京大学 化学科 1879.07
河喜多能達 応用化学 助教授 工部大学校 化学科 1881.05
志筑岩一郎 応用化学 助教授 工部大学校 化学科 1884.05
真野文二 機械工学 教授 工部大学校 機械学科 1881.05
井口在屋 機械工学 助教授 工部大学校 機械学科 1882.05
野呂景義 採鉱冶金学 教授 東京大学 採鉱冶金学科 1882.07
恩田宮五郎 採鉱冶金学 助教授 工科大学 採鉱冶金学科 1888.07
辰野金吾 造家学 教授 工部大学校 造家学科 1879.11
石井敬吉 造家学 助教授 工科大学 造家学科 1891.07
曽禰達蔵 造家学 講師 工部大学校 造家学科 1879.11
木子清敬 造家学 講師
三好晋六郎 造船学 教授 工部大学校 機械学科 1879.11
宮原二郎 造船学 教授 グリニッジ海軍大学 (機関学) 1883.01
寺野精一 造船学 助教授 工科大学 造船学科 1890.07
中野初子 電気工学 教授 工部大学校 電信学科 1881.05
山川義太郎 電気工学 助教授 工部大学校 電気学科 1882.05
清水済 土木工学 教授 東京大学 土木学科 1879.07
古市公威 土木工学 教授 エコール=サントラルほか (土木学) 1880.01
田辺朔郎 土木工学 教授 工部大学校 土木学科 1883.05
小川梅太郎 土木工学 助教授 工部大学校 土木学科 1886.07
中山秀三郎 土木工学 助教授 工科大学 土木学科 1888.07
倉田吉嗣 土木工学 講師 東京大学 土木学科 1880.07
東條二郎 技手 8 級 東京職工学校 染工科 1887.09
注: 彼らの勤務先は工学会員名簿に記載されていない。採鉱冶金学科教授と御料局技師を兼任していた渡 辺渡は,名簿には本文のように御料局勤務となっていたので,御料局勤務の方に分類した。
出所: 『帝国大学一覧』明治 25 年・26 年,『改正官員録』明治 25 年 10 月 25 日乙,国立国会図書館・近代 デジタルライブラリー。井関九郎『大日本博士録』第 5 巻・工学博士之部,発展社,1930 年。
表 22 経済活動別分類に基づく民間会社勤務の技術者人数
鉱業 製造業 建設業
小分類 会社・事業所 就業型 学卒 合計 小分類 会社・事業所 就業型 学卒 合計 小分類 会社・事業所 就業型 学卒 合計
金属
阿仁銅山 2 3 5
繊維
岡山紡績 1 1
建築
明治工業 3 3
院内銀山 6 4 10 金巾製織 1 1 建築事務所 2 2
羽島金山 1 1 三越紡績所 2 2 合計 3 2 5
吉岡銀山 1 1 三重紡績 1 1
土木
桑名土木 1 1
金銀山事務所 1 1 鐘淵紡績 1 1 埼玉土木 1 1
金山事務所 1 1 泉州紡績 1 1 三重土木 2 2
軽井沢銀山 1 1 大阪紡績 1 1 鹿島組 1 1
鉱山事務所 1 1 東京紡績 1 1 清水組 2 2
藤田組出張所 1 1 日本屑繭紡績 1 1 2 若松築港 1 1
笹谷銅山 1 1 尾張紡績 1 1 土木工場 1 1
三菱社坑業所 1 1 平野紡績 1 1 東京測量 2 2
十和田鉱山 1 1 北海道製麻 1 1 兒島湾開墾事務所 1 1
小坂銀山 3 1 4 麻糸紡績 1 1 日本土木 12 8 20
小真木銀山 1 1 合計 6 9 15 門司築港 1 1
松岡銀山 1 1
紙・
パルプ
千寿製紙 1 1 2 合計 23 10 33
神岡銀山 2 1 3 富士製紙 1 1 不明 1 1
神子畑鉱山 1 1 合計 2 1 3 建設業合計 27 12 39
水沢鉱山 1 1
窯業
愛知セメント 1 1 電気ガス水道
足尾銅山 8 7 15 小野田セメント 3 1 4
電気 ガス 水道業
東京電灯 1 5 6
大井鉱山 1 1 日本セメント 1 1 大阪電灯 2 2
大森金山 1 1 北海道セメント 2 2 4 名古屋電灯 1 1
大鳥鉱山 1 1 合計 5 5 10 横浜共同電灯 2 2 4
東茂住採鉱社 1 1
一次 金属
三田鋳造所 1 1 熊本電灯 1 1
畑佐鉱山 1 1 新居浜住友支店 1 1 2 北海道電灯 1 1
半田銀山 1 1 合計 2 1 3 合計 3 12 15
尾去沢銀山 1 1
一般 機械
家入鉄工場 1 1 東京瓦斯 2 2
尾小屋銅山 2 1 3 国友機械製造所 1 1 電気ガス水道合計 3 14 17
別子銅山 2 1 3 三田農具製作所 1 1 卸売・小売業
茂住鉱山 1 1 川口鉄工所 1 1 高田商会 1 1
遊泉寺鉱山 1 1 船具商店 1 1 三井物産 2 2
立里銀山 1 1 中島工場 1 1 2 和英商会 1 1
槇峰銅山 1 1 東京機械製造所 1 1 卸売・小売業 集計 3 1 4
合計 35 33 68 東京蒸汽鑵製造所 1 1 運輸通信業
石炭
金田炭鉱 1 1 函館器械製造所 1 1
鉄道
日本鉄道 16 5 21
空知炭鉱 1 1 平岡工場 1 1 阪堺鉄道 2 1 3
高島炭鉱 2 1 3 木綿調革製造所 1 1 2 両毛鉄道 1 1
三池炭鉱 1 2 3 合計 9 4 13 山陽鉄道 19 2 21
春鳥炭鉱 1 1
電気 機械
沖電機工場 1 1 大阪鉄道 2 1 3
勝野炭鉱 1 1 2 三吉工場 1 1 讃岐鉄道 1 1
新入炭鉱 1 1 東京電気工場 1 1 関西鉄道 4 1 5
大室炭鉱 1 1 合計 2 1 3 九州鉄道 12 3 15
炭鉱社 1 1
造船
永田造船所 1 1 筑豊興業鉄道 5 1 6
田川炭鉱 1 1 石川島造船所 4 2 6 北海道炭鉱鉄道 14 3 17
芳谷炭鉱 1 1 2 川崎造船所 3 3 6 参宮鉄道 4 4
幌内炭鉱 1 1 大港造船所 1 1 川辺馬車鉄道 1 1
夕張炭鉱 1 1 大阪鉄工所 1 1 大津馬場鉄道 1 1
鯰田炭鉱 1 1 長崎三菱造船所 2 3 5 合計 82 17 99
不明 1 1 合計 12 8 20
水運
大阪商船 2 1 3
合計 7 14 21
印刷 築地活版所 1 1 日本郵船 2 1 3
石油
日本坑油 1 1 合計 1 1 合計 4 2 6
日本石油 1 1 不明 1 1 運輸通信業合計 86 19 105
合計 1 1 2 製造業 集計 40 29 69 不明 5 2 7
鉱業合計 43 48 91 総計 207 117 324
注: 民間部門勤務人数は合計で 328 人,うち 208 人が就業型初期技術者で,120 人が学卒技術者であったが,総計欄の数値 と一致しないのは,民間学校勤務の 3 人と「特許明審社」勤務の 1 人を除いたからである。学卒技術者には,就学型初 期技術者を含む。
出所:『工学会々員名簿』工学会事務所,1892 年。国立国会図書館・近代デジタルライブラリー。
尾銅山,軽井沢銀山,阿仁銅山,院内銅山があり,就業型初期技術者 16 人,学卒技術者 15 人が見いだせる。三井の場合,神岡銀山のみが見いだせた。それぞれ 2 人と 1 人であっ た。三菱は吉岡銀山,小真木銀山,大葛金山,半田銀山,尾去沢銀山,槙峰銅山にそれ ぞれ 1 人ずつ技術者が見いだせるが,大葛金山を除く 4 人はいずれも学卒技術者であっ た。また藤田組も「藤田組出張所」,十和田鉱山,小坂銀山,大森金山に就業型初期技術 者 4 人,学卒技術者 3 人が勤務していた。4 グループに属する技術者は合計 47 人で,金 属鉱業全体の 68 人のうち 69.1%を占めている。また,学卒技術者比率を見ると,全体で 36.0%であったが,金属鉱業の場合,48.5%と高くなっている。炭鉱においても財閥系会 社が見いだせる。三井は三池炭鉱,三菱は高島炭鉱,新入炭鉱,鯰田炭鉱,また空知,幌 内,夕張は北海道炭鉱鉄道に属していた。金属鉱山に比して炭鉱技術者は少ないが,学 卒技術者比率は 65.0%と,電気ガス水道業,教育についで高い比率である。
払い下げを受けた鉱山では,官営時の技術者がそのまま民間に移行している。1884(明 治 17)年 10 月の官員録によると,工部大学校卒業生で阿仁銅山勤務の狐崎富教と島田研 六はそれぞれ 5 等技手,8 等技手,就学型初期技術者である大里志郎も 8 等技手として工 部省阿仁鉱山局に勤務していた。また就学型初期技術者に分類した長沼釘糠は,院内鉱 山局 7 等技手から,表 6 − 1 に掲げた山田純安は,阿仁鉱山局 2 等技手から院内銀山に 移動している。三池炭鉱の団琢磨は,マサチューセッツ工科大学鉱山学科を卒業して帰 国する。東京大学理学部などの教師として勤務した後,1884 年に工部省に入る。前掲官 員録には三池鉱山局御用掛准奏任とあった。1888 年 12 月,三池鉱山局廃止にともなって 一時期非職になったが,すぐに三池炭鉱社事務長のポストに就いた61)。また,団と同じ 三池鉱山局に配属されていた 7 等技手山縣宗一(工部大学校鉱山学科)は金田炭鉱に就 職している。
製造業について見ていこう。この当時,紡績業をはじめとする繊維部門が急成長した が,繊維部門の技術者人数は少ない。全体の 4.6%を占めるにすぎない。学卒技術者は 9 人である。3 人は東京工業学校卒業生で,6 人が工部大学校等の機械学科卒業生であった。
彼ら 6 人は三重紡績の斉藤恒三(工部大学校卒),鐘淵紡績の吉田朋吉(東京大学卒),大 阪紡績の瀧村竹男(工科大学卒),平野紡績の菊池恭三(工部大学校卒),尾張紡績の服 部俊一(工部大学校卒)そして金巾紡織の高辻奈良三(工科大学卒)である62)。いずれ も早期に近代綿糸紡織技術の導入に成功した大規模会社であった。千寿製紙の 1 人は 1882 年段階で工部省川口鉄道局に勤務していた黒部鉉太郎である。彼の経歴は表 6 − 1 に示 したとおりである。
窯業のセメント業において,深川工作分局の払い下げを受けて設立された浅野セメン ト会社の技術者が見いだせないが,笠井順八により民間セメント会社として初めて設立 された小野田セメントの技術者が 4 人見いだせた。うち 1 人は工科大学応用化学科卒業 の北村鏡太郎である。笠井はセメント会社設立に際して,工科大学応用化学科ドイツ人 教師ワグネルに相談したばかりでなく,1890(明治 23)年,ドイツから乾式法新鋭機械 を導入した時に生じたトラブルの際にも,ドイツとの交渉を彼に任せた63)。北村はワグ ネルの薫陶をうけた学生である。また,愛知セメントの篠田義五郎,北海道セメントの 内海三貞も応用化学科卒業生であった。ワグネルは 1884 年に東京職工学校に移ったが
(1886 年まで工科大学教師を兼務),日本セメントの斉間貞之丞や北海道セメントの小川 八助も,彼の東京職工学校時代の教え子であったろう。
一次金属の「新居浜住友支店」(四坂島製錬所)には,就学型初期技術者にあたる大島 供清が勤務していた。表 6 − 1 に示したように生野鉱山でフランス人コワニーの指導を 受けた人物である。就業型初期技術者の 1 人は石島清で,工部省鉄道局 8 等技手(官員 録)の経験を持つ。一般機械や電気機械に属する会社は,この段階では小規模であった。
家入鉄工場は,工部大学校機械学科卒業の家入安が設立した会社である。工部省長崎工 作局,川崎造船所等を経て 1890 年に独立した64)。国友機械製作所は,国友武貴が 1886 年に設立した会社である。1877 年 9 月段階で工部省工作局 8 等技手であったが,1883 年 5 月には同局 7 等技手となっている。工学会員名簿に記されていたのは息子の国友武勇で あった65)。三田農具製作所の 1 人は松井兵四郎で,1889 年段階で「職監」のポストに就 いていた66)。中島工場は 1886 年に中島正道により設立された諸機械製造会社で67),学卒 技術者の 1 人は東京職工学校卒業生の萩原直四郎である。東京機械製造所の 1 人は,表 6
− 2 に掲げた田岡忠次郎であった。1889 年段階で技師長であったことが確認できるが,
1892 年には独立して田岡工場を設立した68)。函館器械製作所は 1881 年に操業されてお り,1889 年段階で社長と技師は工部大学校機械学科卒業の佐立二郎が兼任していた69)。 彼は卒業後,工部省工作局に勤務し,1885 年 12 月(官員録)には兵庫造船局に 7 等技手 として勤務していた。平岡工場は,鉄道局新橋工場長を辞した平岡煕が,1890 年,鉄道 車輌などを製造するために東京砲兵工廠内の一部を借り受け,創設したものである70)。名 簿には平岡自身の名前は見いだせなかった。木綿調革製造所には 2 人の技術者が見いだ せた71)。1889 年段階の学卒技術者は,本木昌造の息子本木小太郎であった。彼は 7 年間 の海外留学の経験を持つ。父昌造がその基礎を築いた東京築地活版製造所社長にも就任 したが,ほどなく辞任に追いやられた72)。