寛文末〜延宝期の釜山窯をめぐって : 対馬藩・表 書札方毎日記を中心にして
その他のタイトル On the Pusan Kiln in the Later Kanbun and Empo Periods : Chiefly concerning the Secretaries' Diaries of the Fief of Tsushima
著者 泉 澄一
雑誌名 関西大学東西学術研究所紀要
巻 15
ページ 23‑52
発行年 1982‑03‑20
URL http://hdl.handle.net/10112/16051
寛文末 l 延宝期の釜山窯をめぐって
これまで釜山窯に関する歴史学の分野からの研究はほとんど行な
われていない︒とくに釜山窯を主管していた対馬藩の史料である
﹁宗家史料﹂を分析し考察を加えた研究はまったくなく︑有名な
﹁御本茶碗﹂にかかわる美術的な研究が多く行なわれてきていた︒
私は本紀要第十二︑十三︑十四輯︵以下︑前論文とする︶に﹁宗
家史料﹂の元禄ー享保期の釜山窯への注文控を紹介するとともに︑
その間の釜山窯史について考察を行なったが︑本稿はそれらにつづ
く研
究で
ある
︒
本稿では前論文より時代をさかのぼらせ寛文末ー延宝期をとりあ
つかうが︑それは主としてつぎにあげる理由による︒9この時期︑釜山窯の開窯が多い︒
⇔この前後の時期にくらべ︑多くの陶エが輩出している︒
笛よ
く知
られ
る陶
工中
庭茂
一ー
一の
中心
的な
活躍
期に
あた
る︒
寛文
末し
延宝
期の
釜山
窯を
めぐ
って
国前論文より前の時期を確認する必要がある︒
対馬の宗家文庫に保管される﹁宗家史料﹂は目下整理・調査中だe が︑本稿ではすでに調査の終わった﹁表書札方毎日記﹂を中心にし
て︑釜山窯をめぐる諸問題を考えて行きたい︒﹁表書札方毎日記﹂
を根幹にしたのほ9藩政記録として表書札方毎日記がもっとも中心的記録であるこ
と ︒
⇔この時期︑朝鮮関係全般を管掌していた朝鮮方の毎日記が現存
しな
いこ
と︒
白同様︑釜山倭館の中心的記録である館守による毎日記も現存し
ない
こと
︒
等の理由による︒ここで﹁表書札方毎日記﹂について少しのべてお
きたい︵以下とくに断らないかぎり﹁毎日記﹂とは表書札方毎日記
とす
る︶
︒
毎日記は藩政の大綱を知ることのできる基本的史料だが︑いま藩
ー 対 馬 藩
・ 表 書 札 方 毎 日 記 を 中 心 に し て
1
泉
澄
政機構がじゅうぶん解明されていないので︑その性格︑記事の採用
基準等がよくわかっていない︒ただ月番家老の検閲のもと︑当番の
書手役によって記録されていたことは確かで︑藩政記録のもっとも
根幹となっていたことはまちがいない︒現存する毎日記は寛永十一
年分がもっとも古いが︑万治年間にかけて欠本が多い︒しかし寛文
期に入ると欠本も少なく︑以下明治に至るまでほぽ現存している︒
ただ毎日記にある釜山窯にかかわる記事には日常的なものはなく︑
特記すべきことのみ断片的に記録されているにすぎない︒したがっ
て︑毎日記の記事のみで釜山窯の全貌にかかわる叙述はむずかしい︒
先述のように宗家文庫は目下整理・調査中のため管見に及ばない史
料もあり︑不明のままに叙述に及ばない部分も多いことと思う︒今
後宗家文庫の整理をまって本稿の不備を補って行きたいと思う︒で
どって行こう︒
寛文九年︵一六六九︶
正月十五日の毎日記に
︵中 庭︶
青柳善右衛門︑阿比留茂三朝鮮へ茶碗焼被仰付候通右両人二以
組頭申渡ス
とある︒国会図書館蔵の宗家記録﹃分類紀事大網﹄に﹁陶工被差渡
侯一件﹂という日帳︑書簡などの記事を抜すいした記録があるが︑ 日 は以下︑寛文九年の釜山窯開窯から年次をおってその史的過程をた
以上 大勘定所之帳面之趣色ハ引厘一
銀 拾 匁 壱 ヶ 月 分 阿 比 留 茂 三 上 下
但外二五年ハ已ノ七月二加増被下五人之内壱人細工仕候
大勘
定衆
新覚
帳有
之 一 上下五人扶持二成内弐云扶持ハ釜山浦二而御代官方へ申渡ス 内弐人扶持ハ御国二而酉二月十三日二相済︑
白 米 四 人 扶 持 上 下 弐 人 逗 留 中 被 成 下
右之
外畳
ハ斤
定蔵
5渡り申候此茂三
上下
五人
二而
渡ル
船中
飯米
ハ上
下一
︳一
人渡
ル残
テ弐
人ハ
御国
出船
之月
力留
守扶
助被
大勘定所へ有之帳之趣如此成下︑御蔵本二差紙遣ス
一銀百・九匁三分五厘阿比留茂三壱ヶ月之御合力銀 逗 留 中 毎 月 被 成 下 但 た は こ 鍔 き や う ノ 利 分 共 ニ
大韓民国国史編纂委員会に所蔵される宗家史料のなかに﹃寛文 その中にも﹁正月十︱︱一日日帳﹂による同様の記事がある︒この﹁陶工被差渡候一件﹂がひいた﹁日帳﹂とは︑藩庁の朝鮮方の毎日記の
この寛文九年の開窯がいつどのように決められたのかわからない
が︑各役所をへて正月十五日︑最終的に組頭から両人に渡釜を命じ
たものであろう︒なお組頭方は藩士の人事を統轄する部局である︒
朝鮮向御用日帳︵其一︶﹄と表題のある記録がある︒内容は日帳で
はなく覚書集だが︑この中に﹁朝鮮諸役目壱ヶ年御扶助之事﹂とあ
る覚書があり︑その中につぎのような関連の記録が入っている︒
朝鮮茶碗焼御扶助之事
一白米壱人扶持壱ヶ月之者故如此被成下候由也
但朝
鮮表
二而
細工
仕候
時分
斗か
ことかと思われる︒
ニ四
この覚書によれば︑まず陶工の渡釜にあたり藩から合力銀と扶持
米の供与があったことがわかる︒その多少はともかく︑これまでこ
の合力銀と扶持米の給与については知られていなかった︒したがっ
寛文
末し
延宝
期の
釜山
窯を
めぐ
って
製 論 細 箪 岬 豆 嗜 詣 麟 炉 廿 八 日 二 相 済
一銀弐拾目
御合
力銀
四拾
三匁
宛酉
正月
廿八
日相
済候
︑毎
月逗
留中
如此
一銀弐拾目宛毎月逗留中被成下候
朝鮮
二而
細工
仕掛
リ候
時
5半
扶持
宛御
加増
被成
下由
︑正
月廿
八日
二済
一 白 米 一 二 人 扶 持 御 国 元 二 而 被 成 下
下候
琴 殻 緬 疇 踪 紐 膊 闘 む 壱 齢 翌 差 紙 遣 ス
長留藤左衛門へ出船之時御合カニ被
朝鮮
逗留
中毎
月被
下候
分 一 白 米 一 ー 一 人 扶 持 上 下 三 人 扶 持
但朝
鮮二
而細
工仕
懸リ
之時
分半
扶持
ツヽ
之御
加増
有之
一銀弐拾匁宛 大
勘定
帳面
之趣
一銀弐拾目長留三郎左衛門出船之時御合カニ被
成下候
上下
四人
二而
渡ル
船中
飯米
ハ上
下弐
人分
渡ル
残テ
右 同 断 弐 人 ハ 御 国 出 船 之 日
5被
成下
︑御
蔵本
二差
紙遣
ス 一 銀 百
・ 九 匁 三 分 五 厘 青 柳 善 右 衛 門
逗留
中毎
月如
此被
成下
一 白 米 四 人 扶 持 嗣 認 絵 細 箪 竺 疇
酉二
月十
︳︱
‑日
二相
済︑
御代
官衆
へ申
渡し
候
右之
外敷
畳斤
定蔵
5渡
ル
二五
て︑開窯がたび重なり︑また陶工の滞釜が長びけばそれだけ藩の出
費が多くなる︒後年︑対馬藩では財政が思わしくなく︑そのため陶
工の渡釜をさしひかえていることをのべているが︑こういう点にか
かわっているのであろう︒
︵中庭︶このとき渡釜の陶工は阿比留茂︳︱‑上下五人︑善右衛門上下四人︑
三郎左衛門上下三人︑藤左衛門上下三人︑計十五人である︒このう
ち長留一ー一郎左衛門は従来その名と渡釜とが知られていない陶工であ
扶持の支給について茂三と善右衛門は酉二月十三日︑藤左衛門は る ︒
酉正月二十八日に決っているが︑三郎左衛門については記述がない︒
いずれも勘定奉行所の記録によったらしいが︑後年の参考のために
抜き書したものであろう︒
ところで︑陶エらの渡釜について毎日記には関係の記事がない︒
正月二十八日︑二月十三日となぜ二班に別けて扶持の給与が行なわ
れたのであろうか︒毎日記の二月七日条につぎのような記事がある︒
酒井修理大夫殿5松平備前守様を以朝鮮茶碗御誂被成候付相調
︵寛 文六 年︶
可被進之御約束被遊ル︑御茶碗形十五御使者二而午ノ年寺田一
郎兵衛江戸御留守居之時分此方御屋敷江被遣候を一郎兵衛方5
︵茶道方︶差下候︒御茶道方江相渡置候を今日見出し候由好見杢之允方よ
り申聞候故︑則左太夫を以申上候処︑今度茂一︱︱二相渡し調候様
ニ可申付之旨被仰出ル︑好見杢之允白水杢兵衛二右之段申渡ス︒
ご 饂 ん
これによると酒井修理大夫注文の茶碗形︵御本︶を茂三へ渡すよ
うにとのことであるから︑この時点では茂一︱︱はまだ渡釜していない︒
︵寛 文六 年︶
午ノ年に渡された御本を一ー一年も藩の茶道方に保管していたのは︑寛
文五年いらい釜山窯が開かれなかったからである︒酒井修理大夫と
は酒井忠寵と思われる︒宗氏との関係はよくわからない︒この注文
ほ酒井修理大夫に藩主︵宗義真︶が約束したものだが︑江戸藩邸の
留守居から国元の茶道方へという通常のルートで御本が送られてい
あ*
ることがわかる︒なお注文のとりつぎをした松平備前守とは三河碧
海郡で二万石を領した松平正信のことで︑このころ幕府の奏者番を
っとめていた︒寛文十年︑伝来する﹁利休井戸茶碗﹂を将軍に献上
していることからみて︑茶器にも目があったらしい︒こののち自身
もたびたび釜山窯へ注文を出している︒
②
ところで藤田良策氏の﹁朝鮮釜山対州窯の一考察﹂は奎章閣本
﹃沙器婚造類抄﹄から︑寛永十六年より延宝六年に至る釜山窯開窯
を二四項目にわけて簡単に紹介したものだが︑それによると
対馬より陶エ四名監役二名到着︒藩主江戸出府の前に取急ぎ焼
成の
由︒
とあり︑陶エらの釜山到着は三月七日ということになっている︒他
によるべき史料もないが︑﹃沙器燿造類抄﹄は倭館との折衝にあたっ
た東莱府の状啓等によったものゆえ︑この日付はまちがいあるまい︒
文中﹁陶工四名監役二名﹂とあるがよくわからない︒あるいは茂
三・善右衛門を監役︑一二郎左衛門・藤左衛門その他二名をもって陶
︵一
六︶
寛文
九年
︵顕
宗十
年︶
︱︱
一月
七日
罷下
同年九月大小姓二立身御 エと把握していたのであろうか︒宗家文庫所蔵の対馬藩御奉公帳によれば、善右衛門•藤左衛門ほつぎのように記録されている。
︹大古御馬廻御奉公帳︺
︵正 癒二 年︶
壬辰二月病死
一承応壬辰年御奉公被召出御小姓相勤
一同二癸已年御小姓二而江戸御供被仰付相勤
一明
暦︱
︱一
丁酉
年表
御小
姓二
而江
戸御
供被
仰付
罷登
︑
十代 滞主
︶
成様御尊骸御供仕罷下
一万治元戊戌年一特送使1一船主被仰付朝鮮罷渡
一万治二已亥年江戸御供被仰付相勤
一寛文元辛丑年御斤定蔵役被仰付相勤
一同一ー一癸卯年於京都鞍細工稽古被仰付罷登︑翌年罷下
一同五乙已年朝鮮表茶碗焼被仰付
一同七丁未年御歩行目付被仰付相勤
一同八戊申歳抜荷仕候付江戸表為早使被仰付︱︱一月八日出帆立帰
一同九已酉年朝鮮へ茶碗焼被仰付罷渡相勤
一同十一辛亥年江戸御供被仰付罷登︑
佑筆役被仰付
一延宝元癸丑年一特送使都船主被仰付朝鮮へ罷渡
一同二甲寅年茶碗焼被仰付朝鮮罷渡︑同年九月帰国
一同年極月江戸御留守番被仰付相勤
︵第
二
同年十月義 ︵善の上にハリ紙︑杢とあり︶青柳善右衛門 二
六
︹大
古御
徒士
御奉
公帳
︺
享保
三戊
戌十
一月
病仕
仕ル
長留藤左衛門 一同六戊午歳茶碗焼被仰付朝鮮罷渡一同七已未年江戸御留守番被仰付︑翌年御供仕罷下一延宝九辛酉年江戸御供被仰付罷登︑同年六月御供仕罷下一天和二壬戌年三月参判御使者都船主被仰付朝鮮罷渡一同年信使立御供相勤一同四甲子年江戸御供︑翌四月罷下一貞享三丙寅年一特送使都船主被仰付朝鮮罷渡一元禄元戊辰年三月江戸御供仕罷登︑翌歳四月罷下一同年正月御馬廻立身被仰付一同六癸酉年佐須奈御横目頭役被仰付六月罷下︑
御佑筆役之内勤之
一宝永七庚寅年副特送使副官人被仰付九月罷渡
寛文
末l
延宝
期の
釜山
窯を
めぐ
って
翌年六月交代
一同九丙子年江戸詰番被仰付1
一月
出帆
︑翌
年一
二月
罷下
一同十丁丑年四月御佑筆役被差免
一同拾壱戊寅年第一船正官人被仰付三月出帆︑同年七月帰国
一元禄十二已卯年閏九月二来辰年御米蔵改役被仰付︑翌六月晦
日交代一同拾三庚辰年周防守様御奥様附被仰付八月十日出帆︑宝永六
已丑年六月罷下ル 一寛文十弐庚午歳御奉公被召出一同歳打廻役六ヶ月相勤一遠見番七ヶ月相勤一御作事掛弐ケ年相勤一
朝鮮
御茶
碗焼
罷渡
壱度
者拾
一︱
︱ヶ
月︑
壱度
者拾
九ヶ
月相
勤
一延宝五丁已年御姫様御供被仰付九月江戸表江罷登︑未之八月
罷下一延宝八庚申年鯨奉行二月5四月迄相勤
一同
歳六
月
5
八 月 迄 不 寝 番 相 勤
.
一同年閏八月5翌酉正月迄打廻役相勤
一天和元辛酉年二月5朝鮮御茶碗焼被仰付罷渡相勤
一同
二壬
戌歳
四月
5翌亥八月迄御常様御部屋番相勤
一貞亨元甲子年御賄掛手代役相勤
一同
1一
乙丑
年五
月
5八月迄打廻役相勤
一同
一ー
一丙
寅歳
一一
一月
5御歩行目付被仰付︑辰之九月交代
一同年江戸御留守番被仰付辰六月罷下
一元禄元戊辰年十月朝鮮御茶碗細工被仰付罷渡︑申九月中戻仕
一同六癸酉年十月御茶碗細工被仰付朝鮮江罷渡︑翌戌十月病気
ニ付帰国
一元禄九丙子年正月5四月迄打廻役相勤
一同
年五
月
5七月迄宗門改役相勤
二七
一同八乙亥年漂流送之御使者封進被仰付罷渡十二月帰国
一同歳八月6翌丑九月迄御亀様役人勤之
一同十丁丑年十月御米蔵掛手代被仰付卯ノ正月交代但寅年引残被
仰付
︵宗 義真
︶
一同十三庚辰年十二月御隠居様御賄掛被仰付
一同拾六癸未年御屋舗御作事掛被仰付七月二交代
一同拾七甲申年正月浜出運上掛手代被仰付︑
勤ル
翌乙酉十二月迄相
︵義 真夫 即の 居所
︶
一宝永︱︱︳丙戌年十月滝ヶ︑御歩行目付被仰付︑翌亥十一月交代
一同七庚寅年二月鱒場海鯨奉行被仰付相勤ル
一同年六月御陳道具掛手代被仰付
一同八辛卯年佐須奈御横目被仰付四月罷下︑翌年五月上府
一正徳三癸已年九月御厩目付被仰付相勤ル︑享保弐丁酉十月交
代一同年十月船改手代役被仰付︑同一ー一戊戌年十一月朔日交代
この釜山窯陶工にかかわる奉公帳の記事は前論文においても松村
弥平大•宮川道二等のものを紹介し、彼らが意外に陶工の系譜につ
ながっていないことをのべた︒いま紹介した奉公帳の記事もまさに
そのとおりで︑青柳善右衛門は最終的には馬廻︵上士︶格の藩士と
して公務にたずさわっている︒また長留藤左衛門も寛文九年は出仕
前だが︑その後は藩士としての任務をつとめ︑決して釜山窯陶エと
しての経歴ばかりではない︒前論文でのべたように︑彼らにとってによれば 釜山窯での勤務はいわば臨時職であり︑どの程度まで陶工的な働きをしたのか疑問である︒むろん善右衛門の場合︑寛文一一一年には鞍細工稽古のため京都へ派遣され︑のち佑筆役として能筆を認められているからかなりの器用さはあった︒しかし︑それがすぐ作陶に通用するものとは思えない︒宗家文庫蔵﹁朝鮮江被召仕候役々﹂という記録によれば延宝二年正月二十三日条に
青柳善右衛門御茶碗為奉行朝鮮へ被差渡
とある︒ここでは﹁御茶碗為奉行﹂とあるが︑﹁御茶碗焼被仰付﹂
﹁御茶碗細工被仰付﹂﹁陶工被差渡﹂などという表現とともに︑こ
れらの用語がどの程度作陶とのかかわりを示しているのか検討の必
要がある︒しかし︑いまこれ以上に検討できる史料もないので一応
彼ら
を陶
エと
して
おく
が︑
ただ
茂一
ー一
のみ
は陶
工的
色彩
が濃
い︒
茂一
︱︱
は茶道方の茶坊主ゆえ奉公帳に記事がなく︑その経歴を明確にしが
たい︒けれども︑たとえば宗家文庫蔵﹁遣し帳︵将軍家・諸大名等
への贈答茶碗の覚書︶﹂をみても︑茶碗に注記があるのは﹁茂三手﹂
﹁判事手﹂のみで︑他の陶工名の注記はない︒また釜山窯への派遣
も他の陶工にくらべ茂三がもっとも多い︒その作陶の評価も高い︒
茂三は長く細工人ともに注文茶碗の作製にあたっていたものと思わ
れる
茂一―-·善右衛門・三郎左衛門•藤左衛門の四人の渡釜後の経過に ︒
ついては毎日記には記事がなくよくわからない︒しかし藤田良策氏
ニ八
︵寛 文九 年︶
︵一七︶同年九月二日
藩主江戸にあり︑所用の茶器の小鉦を焼けとの命あり︑盗土十
石を請求して許されて居る︒小虹とは茶壺のことであろうか︒
︵後
略︶
とあって作業は進められていた︒毎日記の閏十月二十三日条にほ
青柳善右衛門中庭茂三罷上リ申聞候者︑今度朝鮮表二而焼申候
新渡物之内妥元江残し置侯物御座候︑何方へ相渡し可申哉之由
相尋候故小川市左衛門山川七蔵方へ相渡候様二申渡ス
とあり︑善右衛門・茂一二が帰国し︑注文品とは別に藩庫に残すべき
作品の保管を指示している︒この年の釜山窯は意外に早く終わった
らしい︒茂一︱︱は十一月五日︑注文品の発送とともに江戸への出立を
命じられている︒善右衛門はそのまま目付役にもどった︒翌十年ニ
月十九日︑厳原の鍛冶屋へ花火の火が入り騒動になったとき︑目付
役として善右衛門は取調べにあたっている︒一︱一郎左衛門︑藤左衛門
も同様に帰国したものと思われる︒この年の釜山窯の閉窯は次節で
のべるが︑釜山倭館の移転交渉とのからみで時期を早めたのである︒
︵ 渡
︶
︵ 付
︶
毎日記の四月九日の記事によると︑﹁新土之焼物入申候御寄着之
前之御蔵︵金石城内にあった︶﹂の屋根瓦がはがれ脇に重ねられて
あるので調べたところ
風の吹おこしたる様子二ても無之
寛文
末!
延宝
期の
釜山
窯を
めぐ
って
⇔ 寛 文 十 年
︵ 一 六
七0
)
いのではないかと思う︒ の量からみて
二九
ということで目付役が取調べることになった︒結果︑六月九日御台
所人安重利兵衛の内の市兵衛に嫌疑がかけられ籠舎となった︒藩で
は同犯者がいるものと見て市兵衛を長く拘留したが結局一人の犯行
とわかり︑翌十一年六月1一十一日斬罪に決った︒釜山窯の焼物がい
四月十三日︑平戸藩主松浦肥前守より﹁朝鮮焼物土薬﹂所望の書
簡が届いた︒毎日記によると︑先年もこのむね申し出があったので
そのときの返信の案文を検索させた︒宗家文庫蔵﹁書状控﹂にある
寛文
七年
七月
︱
‑ + 1
一日付の書簡にはつぎのようにある︒
⁝⁝然者先日被仰聞候朝鮮茶碗焼申候土薬之儀︑彼地へ申越候
得共未如何様共不申来候︒自然調参候ハ︑進覧可仕候︵後略︶
この例からみて平戸藩ではなんどか朝鮮陶土調達の依頼を行なっ
ていたらしい︒対馬藩ではどの程度要望に応じていたのかわからな
いが︑このときの返事はおそらく寛文七年の返書と同内容であった
と思われる︒前論文でものべたが朝鮮側から釜山窯への陶土の供給
はスムースに運ばなかった︒浅川伯教氏は釜山窯から要求する陶土
︵対馬藩では︶土を九州或は他藩の御用窯に融通しては居らぬ
③ かと思はれる点もある︒
と︑あたかも対馬藩が自発的にそのような行為に及んだかにのべら
れる︒この一例のみで即断はしかねるが︑浅川氏の見解は考えがた かに重宝されていたかがわかる一例である︒
五月十七日飛船が到着し︑稲葉美濃守よりの﹁御茶碗形入候箱一
ツ﹂と自筆書簡を届けてきた︒稲葉美濃守とは小田原城主の稲葉正
則で︑このころ老中をつとめていた︒稲葉氏は父の正勝いらい茶人
大名として知られるだけでなく多くの名物茶器を所蔵していた︒堺
の豪商天王寺屋伝来の名物所持でも知られる︒稲葉美濃守からはす
でに茶入や香炉焼成の希望がきていたが︑折しも釜山倭館の移転交
渉の使者が釜山へ派遣されているときで︑藩庁では美濃守の希望を
保留していたらしい︒前年︑茂三らが早々に釜山窯から引きあげた
のほ︑この移転交渉に支障がないようにとの配慮からであった︒倭
館の移転は対馬藩年来の希望で︑その交渉は早く寛永十七年からほ
じめられ︑近くは万治ー寛文年間にかけてたびたび交渉の使者が送
られていた︒翌々寛文十二年に約成り︑延宝六年草梁の新館へ移転
する
が︑
いますぐ交渉が成立する様子もない︒藩主の意向もあり︑
﹁美濃守御事者格別之御儀二候﹂ゆえに︑このたびは﹁美濃守御誂
之分斗御焼セ被成候様﹂にとの藩庁の決定となった︒
開窯の訓令は五月二十七日︑倭館々守唐坊忠右衛門へ届けられた︒
﹁陶工被差渡候一件﹂にはつぎのような趣意の館守への書簡文があ
る ︒
守の注文ゆえ茂一一一を派遮する︒いつも陶土の供給が遅れるが︑
このたびはかくなる事情ゆえ訳官に催促して早く注文を焼成さ
せる
よう
に︒
いま倭館移転交渉のさい中だが︑せめて一色なりともとの美濃 藤田良策氏によれば
︵一八︶寛文十年︵顕宗十年︶庚戌六月二十九日
対馬より陶エ四人︑監役一人到着︑今回ほ江戸執政等の注文が
従来のものと異る為めに︑白土五十石︑赤土一百石を至急供給
方を依頼して居る︒朝鮮陶工のことには言及していない︒又赤
土を多数必要としたのは︑従前の白磁系とは異るものを作った
とある︒残念ながら毎日記にはよるべき記事がなく︑作陶の経過等
をうかがうことができない︒しかし注文品は焼成できたらしく翌十
一年二月︑茂三は作品をもって江戸へ出立している︒
八月二日︑朝鮮より帰国するものが焼物や小間物などをもち帰る
とのことで関所に厳重な身改めが命じられた︒とかく侍身分のもの
に対して身改めの厳重さを欠いていたらしい︒
八月八日︑いったん帰国途中の裁判井手弥六左衛門の水木船が良
風にもかかわらず脇浦へ入り︑その船掛り跡に四つの菰包が発見さ
れた︒裁判とは朝鮮からの使節の送迎や諸事交渉のため朝鮮︵釜
山︶へ派遣される使者で︑外交官にあたる︒鰐浦関所の横目役が調
べたところ菰包には百三十二個の茶碗があり︑早速藩庁へ届けられ
船頭以下の取調べが行なわれた︒関係者の自白からもう一隻の水木
船の抜荷も判明し︑荷九ツ茶碗三百十二個︑そのほかにも二十三個
の茶碗が見つかった︒この年十二月まで船頭以下に厳しい︷怒議が行
なわれ︑関係者九人が斬罪に処せられた︒前年の蔵破りと同様の厳 らしく︑其如何なるものであるか︑知るべき方法がない︒
1 0
しい処分もさりながら︑このとき計四百六十七個の抜荷茶碗がある︒
これらはおそらく朝鮮から直接購入したものと思われ︑釜山窯とは
別途のルートで焼物が将来していたことが知られる一例である︒
この年釜山窯の開窯はない︒先にものべたが︑1一月十六日︑稲葉美濃守•松平備前守注文の焼物をもって茂三は江戸へ出立している。
松平備前守の注文は前々年であったが︑注文通りに出来なかったの
先年八月の厳しい達しにもかかわらず︑いぜんとして朝鮮より帰
国するものが焼物等をもち帰っていた︒二月十八日︑鰐浦関所の身
改めで香炉1一ツ所持のものが見つかり︑過銀として銭二貫文を科せ
られている︒同時に
向後茶碗香炉之儀四ツ六ッ迄ハ過銀見合可申付候︑十ヲニ及候
ハヽ籠舎可申付
と︑藩から通達が出された︒しかしその二日後の二月晦日︑鰐浦入
港船の水夫が香炉ニッをもち帰り︑同様過銀として鳥目二百疋を科
せられている︒抜荷とは別に朝鮮からの焼物の将来があとを絶たな
かったことが知られる︒
焼物ではないが朝鮮への注文に以酎庵からの巻軸・額字等の作成
依頼がある︒以酎庵とは日朝間の外交文書を監察した機関で︑幕府
の任命をうけ京五山僧が輪番で赴任していた︒幕府の任命とてその
寛文
末l
延宝
期の
釜山
窯を
めぐ
って
であ
ろう
か︒
回寛文十一年︵一六七一︶
地位は高く︑対馬藩ではその接遇に配慮を怠らなかった︒その注文
について対馬藩では倭館を通じて朝鮮の能筆家に依頼するが︑毎日
記の四月十三日にはつぎのようにある︒
巻軸字之覚書
此三字口之方二而有之奥草字有之
西銘東銘但一巻ニメ草字奥二有之 大 宝 蔵 此 三 字 口 之 方 有 之 奥 有 同 断
額字之覚
此字之額三枚有之
率 川 右 同 断 景 粛 右 同 断
この巻軸と額字の注文は以酎庵第二十番顕令通憲︵建仁寺永源院︑
寛文元
i ‑
︱一
年勤
番︶
︑同
第二
十︱
︱一
番春
苑宗
全︵
相国
寺富
春庵
︑
七ー九年勤番︶の注文である?額字はそれぞれ知己の塔頭寺院のも
のと思われる︒注文に対し釜山よりの到来が遅いのは︑相応の能筆
家への依頼のため簡単に行かなかったからであろう︒
なお寛文九年から輸番を勤めている泉叔梵享︵天龍寺寿寧院︶も
同年十一月十二日の毎日記によればつぎのような注文を出している︒
御誂之注文
大 寧 院 此 字 二 枚 有 之 瑞 応 庵 此 字 二 枚 有 之 希 源 右 同 断
鹿王院 騰王閣
寛文
以上 一︑巻物八ツ 一︑詩仙三十六枚 一︑三幅壱対
但釈迦孔子老子
但こ
ま/
\書
戴有
之
この注文は釜山行の裁判井手弥六左衛門に託された︒前論文に紹
介したが︑以酎庵からはむろん焼物の注文もあった︒また以酎庵輸
番は藩から口切の茶事など諸行事に招かれた折や︑帰京の際に土産
として茶碗などを贈られ︑これらがかなり京へもたらされたのであ
る︒対馬以酌庵←京五山は江戸時代の朝鮮文化流入の︱つのルート
でも
あっ
た︒
四寛文十二年︵一六七二︶
この年も釜山窯は開かれなかった︒しかしこの年の毎日記には注
目すべき記事がある︒
この年十月︑藩主の江戸からの帰国を祝して︑朝鮮から訳官金同
知・鄭判事一行が来島した︒将軍家や宗家の吉凶の際に派遣されて
くるこの訳官一行は︑通信使の江戸往来に対し対馬止まりではある
が︑江戸時代五十数回の来島がかぞえられる︒
十月十八︑九日の毎日記の記事をあげよう︒
ク今度訳官渡海二付朝鮮人共持渡候茶碗如常上二被召上侯二付︑ 絵讃
一子ノ年判事御壺弐ツ者 一判事手御茶碗弐万千六百弐ツ者
御茶
碗千
弐百
一一
一拾
弐者
御香炉三百九拾四者 今度茂目付之者大浦与左衛門井御送使掛手代二申付請取御蔵入置候ク今度朝鮮人持渡候焼物請取︑掛之衆御蔵江入置候由御目付高木
儀之助遂案内︑焼物員数之覚︑茶碗四千弐百六拾七︑香炉四百
弐ツ︑壺弐ツ︑蛤貝四千九百弐拾此分也
というもので︑訳官の渡来に際し実に多量の茶碗・香炉等が将来さ
れているのである︒いまここにある茶碗四千余個というのは︑釜山
窯で簡単に焼成できるような数ではない︒毎日記には﹁朝鮮人持渡
候﹂とあるだけで訳官とは規定していない︒しかし通信使・訳官と
も商人を伴行させた例はないので︑この焼物搬入はやはり訳官派遣
とともに行なわれたとみるべきだろう︒しかもこれを﹁如常﹂<藩
で買上げるというから︑これまで訳官渡来のたびごとに行なわれて
いたらしい︒この毎日記の記事からは抜荷と思われる形跡はない︒
ところですでに紹介したが︑宗家史料に天和元年の﹁新渡焼物御
④ 印判帳﹂がある︒これは対馬藩の行なった釜山窯作品の在庫調ぺ帳
で︑関係のものではもっとも古いものである︒この中には初期の釜
山窯で活躍した陶エや茂一ーーなどの作品の在庫数とともに︑
うな記録がある︒
一子ノ年判事
一子ノ年判事
つぎ
のよ
寛文
末!
延宝
期の
釜山
窯を
めぐ
って
一判事手
一判事手
大抵は御本茶碗で︵中
略︶一体に作風や素地︑釉の調子ほ呉器手に似てをり︑釜山
窯の産とみられる︵下略︶︒
浅川氏の解説では︑そもそも訳官がじゅうぶん理解されておらず︑
倭館出入りの通訳官と混同されている︒対馬渡来の訳官とは司訳院
の堂上訳官のことで︑中央から派遣される使節である︒この堂上訳
のが
︑
この名の起りであるといふ︒ 御香炉千九百三拾五者御鉢弐拾九枚者
一午ノ年判事手御茶碗一一一千五百三拾弐者
一午ノ年判事手御香炉五百九拾三者
はんすここにある﹁判事手の御茶碗﹂とはいわゆる﹁判事茶碗﹂のこと
で︑これに関する歴史的解説にはおおむねあいまいなものが多いが︑
浅川伯教氏によればつぎのようである︒
判事茶碗
判事は訳官等の尊称で︑将軍家よりの見本によって︑訳官の
監督の下に作ったもの︒此茶碗には種類が種々ある︒之は朝
鮮の陶エが見本によって作った物で︑方法が全く朝鮮式であ
⑤
る︵
以下
略︶
︒
もう一っ﹃新修茶道全集﹄巻六﹁茶陶篇﹂にある解説をあげよう︒
半使ほ判事に当てたもので︑判事とほ朝鮮の通訳官のことで
翌 団
あるが︑この判事が日本へ来朝した時この茶碗を持ってきた 官が倭館にきて釜山窯の監督を行なうことなどあり得ないし︑この点からみても﹁判事茶碗﹂は誤解されている︒
まった<矛盾した また︑﹃新修茶道全集﹄では判事が将来したものとしながら︑﹁大
抵は︵釜山窯の︶﹃御本茶碗﹄である﹂などと︑
解説ですませている︒
ところで﹁新渡焼物御印判帳﹂に記録される﹁子ノ年︑午ノ年﹂
とは寛文十二年︑延宝六年をさしている︒訳官は寛文十二年につづ
いて延宝六年にも対馬へ来島した︒ついでに延宝六年十二月十九︑
二十一日の毎日記の記事をみてみよう︒
まず十九日では夜になって訳官の乗船から荷物二十五丸が海へ沈
められた︒ところが船を監視していた横目役がこれを見つけ︑これ
を取りにきたと思われる金子伝右衛門他一二人を捕えた︒この荷はな
んと朝鮮茶碗であった︒毎日記によると金子伝右衛門は﹁荷主﹂と
ある︒対馬側の荷主がいた点が寛文十二年と異なる︒これは明らか
に抜荷であった︒二十一日の毎日記の記事をあげよう︒
昨日訳官乗船5揚候茶碗右之通御買被成儀如何二奉存候︑殊大
︵ 家 老
︶
分之茶碗にて御座候︑取帰り候様二被仰付可然哉之旨樋口孫左
︵ 家 老
︶
衛門多田与左衛門を以奉伺候処︑被仰出候者尤二被思召上候︑
乍然江戸表御遣用之茶碗も少候︑殊隠置候茶碗ゆへ若能茶碗も
候ハ︑御買上可被成候間誰そ二見せ候而悪鋪候者朝鮮へ返之候
様二と之御事二付︑浜之番成瀬一︱一郎右衛門︑御歩行目付相添茶
碗荷一之内ぷニッ宛出之此方江持参候様二申付ル︑惣而之茶碗
らは正確には受取主で荷主はあくまで船内にいるものである︒訳官 之様子能候哉見分仕候様二と申渡フ
とある︒残念ながらここには﹁大分之茶碗﹂とあるだけで具体的な
茶碗の個数があがっていない︒しかし﹁御印判帳﹂には在庫数とし
て三千五百一二拾弐個が記されている︒その間いくらかの蔵出しがあ
ったとしても︑そうとう数の﹁午ノ年判事手﹂の茶碗や香炉の買上
げである︒そしてこれらはすべて朝鮮製の焼物であり︑釜山窯とほ
まったく関係のないものであった︒すなわち判事茶碗ほ注文によっ
て釜山窯で焼成されたものではない︒だからこそ︑対馬藩では﹁御
印判帳﹂の中で釜山窯の作品と明確に区別をつけていたのである︒
かつて私も﹁判事茶碗﹂は︑釜山窯で朝鮮人陶工によって作成され
たものと誤解していた︒そして浅川氏や﹃新修茶道全集﹄の判事茶
碗についての解説は︑すなわち今日の判事茶碗に対する一般的認識
となっているのだが︑その誤まりも明白であろう︒
さてこの判事茶碗の荷主といわれる金子伝右衛門他三人だが︑彼
自身がこれにかかわっているとは思えないので︑この場合船頭か水
夫であったかも知れない︒ところが藩庁では大量の茶碗ゆえ︑買上
げるか︑持ち帰らせるかを家老に尋ねている︒本来なら明らかに抜
荷であるから没収されるほずのものである︒かつて明暦二年に訳官
一行の来島があり︑このとき一行の韓主簿が茶碗一二百個を将来した
が︑藩ではそれを鰐浦関所まで送って帰国時に返した例がある︒こ
のことからみて訳官への配慮から没収という処置はとられなかった らしい︒したがってこの抜荷については朝鮮側に処罰はなく対馬側のみに行なわれた︒金子伝右衛門他三人は籠舎のうえ即座に闊所に
藩庁では﹁江戸表御遣用﹂の判事茶碗の在庫が少ないとの理由で
買上げを考えているが︑﹁御印判帳﹂には年紀のない判事茶碗の在
庫が約二万個もある︒印判帳の記録された天和元年にも訳官の渡来
があり︑そのとき将来された茶碗が含まれているかも知れぬが一度
に二万個も持ってくるとは考えられない︒したがって延宝六年現在
でもそうとうの在庫があったはずだが︑判事茶碗は藩士などへも手
軽に引出物として与えられたから多くを必要としたらしい︒なお訳
官の渡来は寛永六年から天和元年まで十八回を数える︵子︑午年を
除く︶︒﹁御印判帳﹂にある判事手茶碗二万個はその間に将来された
もの
であ
る︒
また茶碗の鑑定について﹁誰そ二見せ候而﹂と︑いかにも頼りな
い指示である︒茶道方のものなどいたはずだが︑あまり大量ゆえ一
度に鑑定がむずかしかったのかと思う︒
ともかく訳官一行が将来する焼物には寛文十二年︑延宝六年の史
料だけでは判断できない問題が多い︒たとえば藩が購入する場合︑
価格をどのようにして決めるのか︒朝鮮側ではそれ相応の価格の要
求があったはずだが︑この辺の事情はまったく不明である︒
寛文十二年の場合はともかく延宝六年の場合は明らかに抜荷であ
るが︑対馬側から抗議に及んでいる気配はない︒むしろ寛文十二年 処
せら
れて
いる
︒
四
のように﹁如常﹂<処理している︒単なる抜荷でなく︑公認の抜荷
ともいえよう︒これから判断すると︑対馬側では訳官一行が将来す
る焼物に︑ある程度の期待をもっていたのではないか︒
の焼物は何といっても﹁朝鮮製﹂であり﹁御本﹂焼物とは異なる︒
それは対馬藩ならばこそ輸入しえたものであった︒
また訳官自身︑ひいては朝鮮政府がこれにどの程度かかわってい
たのか︒搬入された茶碗の数は簡単に積み出せるものではない︒改
めて朝鮮側史料の検討の必要性を感じる︒
︵
︵延 宝元 年︶
寛文
十一
一一
年一
六七
一︱
‑︶
﹁陶工被差渡候一件﹂にある﹁寛文拾一︱一年七月廿五日之日帳﹂に
よる記事はつぎのようにある︒
︵御用人︶一︑平田権太郎を以被仰出候ハ中庭茂三事為茶碗焼朝鮮江被差
渡候︑時分及延引候間先近日可差渡候︑朝鮮采女方ふ都江申遣
候返事千今到来無之候得共︑最早今程ハ返事可有之時分二御座
候間茂一=出船可申付之由被仰出ル
この文面によれば︑倭館移転交渉のため渡釜していた家老杉村采
女が東莱府へ釜山窯の開窯を打診し︑都︵中央政府︶からの許可を
まっていたことがわかる︒したがって藩では早くから開窯の方針を
とっていたらしい︒しかし杉村采女からの連絡がこないまま︑藩庁
でほ茂一ー一の派遣を決定した︒茂一二が渡釜を命じられたのほ毎日記に
寛文
末i
延宝
期の
釜山
窯を
めぐ
って
よれば八月一日である︒
缶
﹁判
事手
﹂
八月十五日︑訳官送りのため釜山へ派遣されていた裁判井手弥六
左衛門へ訓令が送られた︒
一︑稲葉美濃守様御誂之焼もの為御調今度中庭茂三飛船小早を
以被差渡候︑最早時分茂及延引候得共何とそ肝煎年内二弐釜参
釜二而も焼候様二茂一二江被仰付候条︑朝鮮人方手支無之様二掛
之判事江被申聞︑早速土薬なと取寄セ急度相調候様貴殿方5催
促専一候
とある︒この年の開窯は直接的にほ稲葉美濃守の注文品の作成にあ
ったことがわかる︒おそらく寛文十一︑二年と二年間閉窯されてい
たので美濃守から強い催促があったのであろう︒直接釜山窯にかか
わりのない裁判にまでこのような訓令が送られたのは︑裁判が倭館
出入りの訳官︵判事︶とたえず接触があるため︑裁判の非公式な交
渉に期待したからである︒釜山窯を管掌するのほ倭館を代表する館
守だが︑館守による正式な外交ルートの交渉では陶土等の供給ほ遅
れがちであった︒したがって裁判への訓令ほ︑陶土等供給の実務を
担当する訳官への開窯の根廻しを求めたものであった︒なお茂一︱︱ヘ
は﹁年内二弐釜参釜二而も焼候様二﹂と督励が出されているが︑
1 1
年の空白分を早く回復させる意図でもあろう︒
一 五
茂︱︱一の渡釜もせまった八月十三日の毎日記はあらましつぎのよう
に伝
える
︒
西山寺から金地院が策西堂に預けておいた注文茶碗の手本を保
管している︒茂三が渡釜するそうだがどう処置すればよろしい ﹁陶工被差渡候一件﹂には
一御国中勤役のもの
いる
︒
ていたのである︒ でもあった︒策西堂とあるのほ以酎庵輪番︵第二十五番︶の江岳玄策︵天龍寺南芳院︶のことで︑玄策は在任中の寛文十二年六月になくなった︒ところが玄策は赴任の際︑南禅寺金地院から釜山窯への注文茶碗の手本を預ってきていたのである︒むろん玄策の在任中に釜山窯は開かれず︑玄策の没後︑随伴の弟子たちはあとの処置を西山寺へ依頼して帰京したのであろう︒西山寺ではすぐ金地院へ連絡をとったが︑手本は西山寺で保管し︑開窯のとき釜山窯で焼いてほしいとの返事であった︒総録司である金地院は以酎庵を管掌する立場にあり︑藩としてももっとも配慮の必要があった︒毎日記に関係の記事はないが︑この手本は茂三に渡されたものと思う︒御本茶碗の注文はこのように以酎庵を通じて行なわれるものもあった︒朝鮮の土︑また朝鮮人陶工の手も加わる釜山窯の作品は各界から好まれ
八月十六日の毎日記はつぎのように伝える︒
朝鮮表へ為茶碗焼長留藤左衛門︑中庭茂一︱‑︑国部知斎︑松清︑
春嘉被差渡候二付誓旨血判仕ル
大韓民国国史編纂委員会所蔵の宗家史料にこのころのものと思わ
れる﹃誓旨控﹄がある︒それによると︑誓旨血判はなにも朝鮮︵釜
山︶行の陶エだけではない︒ 一朝鮮︵釜山︶渡りのもの一江戸・大阪・京屋敷︑一佐須奈・網浦関所︑佐須銀山勤役のもの
まですべてであり︑その第十番目に﹁茶碗焼役人﹂としてつぎのよ
うに
ある
︒
田代表勤役のもの
一我々俊御茶碗焼被仰付朝鮮表へ罷渡候︑公儀法度持渡申問敷
候付リ御国中御法度物一切持渡申間敷事
一於朝鮮表我々として茶碗茶入水指加様之類内証二而買求申間
敷候︑井朝鮮人と集会之刻日本御瑕瑾二罷成儀毛頭咄申間敷
右之条々於相背者
とあって︑以下通常の起請文が記載されている︒前文の趣意はまず
第一に禁輸品の抜荷の防止︑第1
一に
焼物
の抜
荷の
防止
であ
り︑
第一
︱︱
に朝鮮の人々と接触する際の注意にある︒むろん︑これは渡釜の場
合のものだが︑釜山倭館ほ何といっても風俗習慣を異にする外国と
の接点であり︑対馬藩では種々配慮に及んでいたことがわかる︒
とこ
ろで
茂一
︱‑
︑藤
左衛
門以
外の
陶エ
だが
︑
年に還俗して大小姓格の藩士となるが︑それまでは茶湯坊主をつと
め江戸藩邸にも勤役していた︒このころ一二人扶持三石を給せられて
事
起請文前書之事
まず国部知斎は元禄五 などすべてにわたっている︒釜山関係では倭館館守以下諸役に至る 西山寺とは対馬臨済宗の総録をつとめる寺院で︑以酎庵の馳走役 かと申し出てきた︒
,
ノ
春嘉は松清春嘉のことで表茶湯坊主である︒宗家文庫蔵﹁軽御扶
持人﹂によれば寛文十1一年に切米一石五斗を給せられている松清ほ
延宝六年にも出てくる松清太兵衛のことだが︑町雇の細工人である︒
さきに紹介した大韓民国国史編纂委員会所蔵の﹃寛文朝鮮向御
用日帳︵其一︶﹄の中につぎのようなこの年の釜山窯にかかわる覚
書が入っている︒
寛文十三癸丑八月十七日朝鮮へ御茶碗焼之用二被差渡人数附ヶ
附リ扶持御合力之事
八月
十七
日
一銀百九匁三分五厘但鰐皿緬魏暉噸蜘百目宛中庭茂三ヘ如此被仰付此外前之通也
一 上 韮 辛 人 扶 持 品 殻 蘊 年 繹 巴 而 出 船 之 日
I i 被
成下
内壱
人ハ
細工
人下
代並
一︱
︱上
下之
内二
て相
渡候
但壱
ヶ月
拾五
匁之
雇口
被成
下ル
一銀百九匁三分五厘
逗留
中毎
月被
成下
ル 一白米四人扶持融怠砧碑細
3闘止鱈之日5是ハ右ノ青柳善右衛門渡り之並二候今度被仰付候
一 白 米 三 人 扶 持 茄 醗 公 瓢 二
‑ 噌 船 之 日
5
又壱
人丙
辰年
加増
被仰
付ル
寛文
末l
延宝
期の
釜山
窯を
めぐ
って
八月
十七
日
銀六拾匁逗
留中
毎月
被成
下候
又九
拾匁
ハ丙
辰年
加増
被仰
付候
国部知斎
上下
一
1一 人
長留藤左衛門
上下
四人
延宝
四丙
辰ノ
年
又九
拾匁
六分
五厘
ハ丙
辰年
加増
被仰
付
中庭
茂一
︱︱
︳ 七 大工弐人
弟子
三人
一銀弐拾匁ハ御出仕テ之御合カ
一銀四拾三匁
逗留
中毎
月被
成下
候 一 白 米 三 人 扶 持 茄 冠 如 嗜 配
︳ 一 て
︑
一同半扶持ハ朝鮮二而細工仕掛候日5被成下ル
一銀弐拾匁御国出仕之御合カ
一白米三人扶持 一銀四拾三匁
逗留
中毎
月被
成下
内 候
壱人
ハ朝
鮮二
て
同二
人扶
持^
御国
一白米半扶持ハ朝鮮へ罷越細工仕候日5
一銀弐拾匁ハ御国出仕之御合カ
一白
米一
二人
扶持
一同四拾三匁
逗留
中毎
月被
成下
翌公闘石
候一同半扶持ハ朝鮮へ罷渡細工仕掛候日5
一銀八分一日之賃銀宛
御国
出船
之日
5朝
鮮
5帰
国之
日迄
内五
合^
朝鮮
二て
同七
合五
勺ハ
御国
二て
一白米壱升弐合五勺宛
朝鮮
へ着
之日
5
但船
中往
来之
飯米
^
弟子
共二
三人
分一
日二
五合
ツヽ
被成
下ル
但出
帆之
月
5帰
国之
月迄
一 銀 拾 五 匁 ハ 壱 年 同 分 御 合 カ
但先
々ハ
拾匁
被仰
付候
得共
今度
^十
五匁
八十
五匁
宛被
仰付
候
松村儀兵衛 川本吉左衛門
上下
三人
松清春嘉
上下
三人
7日米三人扶持
︵ 茂
II
一の 行か
︶
一斉藤仁兵衛内茂兵衛と申者細工能仕候付朝鮮表二て茂兵衛方
ヘ召仕へ御扶助被成下候次第
△壱人扶持釜山二て被成下ル
△御合力銀一ヶ月二銀壱枚ツ︑御国二て被成下ル
右ハ
丑十
一月
朔日
5寅
一二
月晦
日迄
にて
朝鮮
逗留
被成
下
□
如之
合 人 扶 持 雙 恥 闘 翻 苔
又半
扶持
ハ朝
鮮二
て四
月朔
日ぷ
臨時
二被
成下
分
△御合力銀一ヶ月二壱枚ッ︑御国二て
右ハ
寅四
月朔
日力
御一
雁之
細工
人並
二被
成下
ル但
口口
帰国
之後
如此
被仰付ル
右扶持之儀ハ御米蔵へさし候て御合力銀ハ送使方へ申渡ス
以上︑この覚書には前の寛文九年のものと同様︑合力銀や扶持の詳
細が記録されるが︑いまはふれないでおこう︒それより渡釜の陶工
について毎日記等でみられない名まえがある︒まず誓旨血判の際に
川本吉左衛門︑松村儀兵衛の名がもれている︒吉左衛門も儀兵衛も
これまでまったくその名が知られていない陶工である︒実はこれま
︵ハ
リ紙
︶
一同半扶持ハ朝鮮二而細工仕掛候日ふ 霜幹蝉輝[暉ー一這被成下ル 一銀四拾三匁
逗留
中毎
月被
成下
ル
一銀弐十匁御国出仕之分
松清太兵衛
反って多数の茶碗等を送る必要があるとして︑白土百二十石 また合力銀︑扶持高の多寡からみると陶工にランクづけがされている︒これは前の寛文九年の覚書にもあり︑このころでは茂三が第一位である︒また茂三︑藤左衛門︑知斎らはつぎの延宝四年のときには合力銀︑扶持に加増をうけている︒釜山窯での経験にあわせて加増の恩典の配慮があったことがわかる︒
ハリ
紙に
ある
茂兵
衛を
加え
ると
︑寛
文十
︱︱
一年
の釜
山窯
へは
計︱
︱‑
+
人が派遣されている︒あとでのべるが翌延宝二年に青柳善右衛門
︵寛文九年のとき上下四人︶が加わるから︑かなりの人数であった︒
この時期の釜山窯がわり合い短い期間で終わっているのほ人件費の
入用がからんでいるのかも知れない︒
なお合力銀等の支給については八月十七日に決定されている︒陶
工らの渡釜はこの直後と考えてよいのではないか︒ともかくこの覚
書はこの期の釜山窯の実態を教えてくれる貴重な史料といえる︒
藤田良策氏はこの年の釜山窯についてつぎのようにのべている︒
︵一九︶寛文十三年︵顕宗十四年︶癸丑九月十六日
監役一人︑陶工五人対馬から到着︑本年は藩主の在島の為めに
赤土二百石・黒土百三十石・各色薬土合せて七十石を要求し
では
ない
︒
で諸書がとりあげている釜山窯の陶工名ほおおむね浅川氏らが用い
た﹁朝鮮燿師之覚﹂という覚書によっている︒何の史料をもとにし
た覚書かわからないが︑陶工名や渡釜年代などの略記で良質の史料
/¥
又朝鮮陶工三名を許して居る ︵中略︶朝鮮側は要求の内から白土五十石・赤土五十石・黒土
三十石を減少して支給し︑
略 ︶ ︒
まず﹁監役一人︑陶工五人﹂とあるが︑先の覚書の陶工名からみ
て︑監役・陶エともどう把握してよいのかよくわからない︒対馬側
が渡釜の陶エらについて︑朝鮮側へどのように通達しているのか検
討の必要があろう︒
つぎ
に﹁
本年
は藩
主の
在島
の為
めに
・・
. し
. .
﹂とあるが︑藩主は翌延
宝二年︱︱一月参勤のため対馬を出立した︒藩主は参勤の際江戸の各所
へ新渡茶碗を献上・贈呈のため持参する︒茂一︱︱へ﹁年内二弐釜参釜
ニ而も⁝⁝﹂と督励があったのほ︑参勤にまにあわせるためであっ
た︒翌延宝二年三月九日の毎日記に
新渡之茶碗今度御持出被遊候故御屏風掛之者請取参候様二早々
可被仰渡事
とあるのはこのことを物語っている︒
陶土の要求と支給についてほ他に参考にすべき史料がなくこれ以
上にわからない︒藤田氏はつづいて
各色薬土とは如何なるものか明でないが︑対馬の窯器が次第に
各種の茶器を造るに至って︑茶碗一種で無くなった証拠である︒
とのべておられる︒これについても陶土に関するこれ以前の史料が
とぼしく説明を加えにくい︒しかし釜山窯の作品はすでに早くから
茶碗ばかりでなく香炉など諸種の茶器に及んでいた︒﹁各色薬土﹂
寛文
末ー
延宝
期の
釜山
窯を
めぐ
って
︵ 後
白薬柿薬 茶薬
かめ薬︵黒・赤・柿︶
一 九
とはいってもおおむね朝鮮側の陶土の採取地ほ決っており︑また前
論文でふれたが元禄ー享保期にほ注文の薬色も
うす柿色砂手青薬
などが主流を占め︑色合いも大方決っていた︒したがって藤田氏が
いう﹁各色薬土﹂は別段この時期になって要求されたものでもなく︑
﹁各色薬土﹂の要求があるから作陶も多種類になったとはいえない
ので
ある
︒
茂三らの釜山到着が藤田氏によれば九月十六日となっているが︑
毎日記にはすでに八月十四日︑
時分も遅申候間飛船二而被差渡候様二と茂三申候︑弥朝鮮5飛船も参候故•••…
とあって︑藩でもこの飛船︵小早船︶で渡釜するよう通達している︒
合力銀等の支給の際も八月十七日の日付であり︑茶︱︱︱らの釜山到着
は九月十六日よりも早いのではないかと思う︒
ところで釜山窯開窯にかかわる陶土等の要求は﹁求請﹂といい特
送使によって行なわれる規定であった︒したがって茂三らの渡釜ほ
本来特送船によって行なわれねばならないのである︵実際は宗氏の
使送船に便乗して行なわれている︶︒特送船が小早船で渡釜するの
は﹁規定外﹂のことであり︑藩の承認を必要としたのである︒
十月八日︑毎日記は佐須奈に滞留中の茂兵衛と思われる細工人に
付延宝二年︵一六七四︶
と思
う︒
便船での渡釜を命じている︒また十月二十三日には御用人から茂一︱︱
のもとへ手本の香炉︵箱四つ︶︑木魚手香炉︵箱︱つ︶を送り届け
ている︒釜山窯では作業が順調に進んでいたらしい︒十一月二十八
日の毎日記にはつぎのようにある︒
杉村采女舟二茂三焼之茶碗有之候間不残差登候様二と被仰出︑
依 之 咋E B m 虹尽 方
5佐須奈浦へ飛船申付差越ス
倭館移転交渉で渡釜していた家老杉村采女の帰国にあたり︑釜山
から釜山窯の作品を同船に積み込ませているのだが︑期待通り年内
に仕上ってきたのである︒かつて裁判井手弥六左衛門への訓令通り
﹁年内二弐釜参釜﹂も焼成できたのであろうか︒しかし杉村釆女の
船では厳原到着が遅れるので藩ではわざわざ飛船を出しているが︑
注文焼物は江戸参勤の際の持参品だけに早く陸揚げしたかったのか
前年から釜山窯はつづいて行なわれた︒前にものべたが宗家文庫
蔵﹁朝鮮江被召仕候役々﹂によれば正月二十三日︑青柳善右衛門が
﹁御茶碗為奉行﹂に渡釜を命じられている︒毎日記の二月十日には
善右衛門ほ飛船で渡釜すべきことを御用人から船奉行へ伝達してい
る記事があって善右衛門はまもなく出立したらしい︒この善右衛門
の釜山窯派遣の理由がよくわからない︒
藤田良策氏によれば
︵ 二 0
)
延宝二年︵顕宗十五年︶甲寅七月二十七日
︵ニ︱)同八月一日
陶磁器は︑従前のものに比し色合が悪く不評判なので︑更めて
慶州・晋州・河東三所の精白土を十五斗一石として各二十石宛
を以て至急焼いて送りたいとの希望あり︑朝鮮側としては︑昨
年来の各色土を以てする焼成が終って居ないのに︑追加要求は
応じられぬと主張し︑遂に二十石を減じて四十石を支給するこ
ととなった︒前年来試験的に作ったものが案外面自くなったら
しい
︒
とあって︑前年作陶の不出来を理由に︑この年改めて陶土を要求し
ている︒あるいは善右衛門は前年の不出来を補うため︑その経験を
買われて派遣されたのであろうか︒あるいはまた︑その後御本茶碗
の注文があいつぎ応援のため派遣されたのであろうか︒ともかく年
内に焼成され対馬へ送られた陶器は意外に不出来だったようで︑そ
れは改めて陶土を指定して要求していることでもわかる︒要求土の
うち河東の白土は釜山窯でとくに重宝したものであった︒
五月十七日︑松平備前守から茂三あてに書簡が届いた︒藩でほ早
速佐須奈へ送り便船に託すよう処置したが︑作陶上の指示をいって
きたのであろうか︒
前後
した
が一
二月
1一日︑以酌庵輪番︵第二七番︶南宗祖辰︵東福寺
内本成寺︶から額字六枚の注文があった︒これについて藩主自ら 対馬藩の奉行より書簡を以て︑前年所請の各色土を以て焼いた
四〇
朝鮮表へ申越︑手之善悪を吟味仕相調進之候様ニ
と指示をしている︒藩庁では早速釜山へ手配したが︑五月一日送り
届けられ祖辰の手に入った︒
九月二十七日︑毎日記はつぎのように伝える︒
朝鮮表へ御焼物之御用二罷渡候青柳善右衛門︑中庭茂三︑長留
藤左衛門︑知斎︑春嘉︑此外細工人帰国仕候由二て罷出ル︑御
焼物之儀不残出来候通案内也
約一年に及ぶ釜山窯は終わった︒このあと茂一二と知斎ほ江戸行を
命じられ︑十一月上旬に対馬を出立している︒茂=︱は注文焼物の携
行︑知斎は江戸藩邸への出仕であったと思われる︒善右衛門は十二
月に江戸御留守番を命じられた︒藤左衛門はよくわからないがそれ
ぞれ藩士としての勤務にもどった︒
紺延宝三年︵一六七五︶
この年︑釜山窯は開かれていない︒しかしこの年の毎日記に判事
茶碗に関する記事がある︒十月︑藩主の帰国を祝して訳官一行が来
島した︒十一月二十七日の毎日記はつぎのように伝える︒
朝鮮人茶碗井蛤貝之儀御買分二被成二付損候を撰︑無疵成茶
碗︑貝浜之横目二龍田六左衛門江請取候様二申付︑尤井手弥六
左衛門申談候様二と以手紙申遣ス︑弥六左衛門方江茂右之段申
遣ス
この記事だけでは残念ながら訳官一行のものが将来した茶碗の買
寛文
末l
延宝
期の
釜山
窯を
めぐ
って
四
陶エだけにそういう誤伝も多かったと思われる︒ 上げに至る過程や具体的な数量などわからない︒しかし寛文十二年のときのように﹁如常﹂<買上げに決ったようである︒これについて井手弥六左衛門に相談するようにとのことだが︑弥六左衛門はこのころ連年のように裁判として渡釜し︑なかなかの朝鮮通であった︒たぶん買上げをめぐって釜山での焼物の価格等を弥六左衛門に相談するようにとの配慮と思われる︒
なおこの茶碗は先にあげた﹁御印判帳﹂の年紀のない﹁判事手茶
碗﹂に含まれていると思う︒
なお釜山窯とは直接の関係はないが︑六月に︑中庭茂一ー一の娘が藩
士白水庄兵衛と縁組している︒茂一一一には男子がないが︑兄の子を養
子として寛文十一︳一年藩庁へ届出ている︒浅川氏は茂三の伝記の叙述
⑦ に︑娘に養子をめあわせたとしておられるが誤まりである︒有名な
例延宝四年︵一六七六︶
この年は早くから開窯を決めていたらしい︒二月十一日の毎日記
はつぎのように伝える︒
朝鮮表江為茶碗焼被差渡候中庭茂一︱‑︑波多野重右衛門︑長留藤
左衛門︑国部知斎︑松村弥平太右之面々今日誓旨血判仕ル
また﹁陶工被差渡候一件﹂にも二月十一日付で︑陶工渡釜の連絡
が館守あてに出されている︒
今回の開窯で新しく波多野重右衛門と松村弥乎太が陶工に任命さ